ここにも書いたが代助は高等遊民を自認しておらず、先生もごろごろしているわけではない。
先生はこのように葛藤していた。これは「遊民」なのだろうか。こういうところをきちんと読まないで、どうしてウイキペディアを編集するのだろう。これを編集した人が「低級遊民」なのではなかろうか。
高等遊民を自認していたのは『彼岸過迄』の松本だけではなかろうか。川端康成の『雪国』の主人公・島村は一応「文筆家の端くれ」である。そもそも「高等遊民はなんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていたりした。」とはとんだ言いがかりではなかろうか。
そもそも生産的な活動とは何なのだろう。
このように村上春樹さんの間違いを記録することは誰かの役に立つかもしれないが、
このように自分の小説を書くことは生産的な活動とは言えないのだろうか。
ここにも書いたが「李徴が退官、詩作にふける。」というところまではその人の生き方として間違ってはいないだろう。島崎藤村が詩を捨て散文に向かうことはどうだろう。真面目な話、相続財産でもなくては、詩人など存在しえないのではなかろうか。石川啄木の恨みが理解できないわけではない。しかし詩を書くことが遊びではないと、一番よく解っていたのが石川啄木ではなかっただろうか。
人間はいずれ死ぬ。絵を描く象はいるが、詩を書くことが出来るのは人間だけである。死ぬまでに糞尿製造以外に何をやるのか、自分で決められるのが高等遊民だとしたら、私は高等遊民になりたい。相続財産はないが。