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高等遊民について



 高等遊民はなんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていたりした。夏目漱石が作中にしばしば用い、『それから』の長井代助、および『こゝろ』の先生、川端康成の『雪国』の主人公のように、しばしば文学のテーマとしても取り上げられた。石川啄木は、旧制中学校卒業後に立身出世がかなわず父兄の財産を食い潰して無駄話を事業として生活している者を遊民としていた。(ウイキペディア「高等遊民」)

 ここにも書いたが代助は高等遊民を自認しておらず、先生もごろごろしているわけではない。

「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直すぐぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。
 波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。妻が見て歯痒ゆがる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。私がこの牢屋の中に凝っとしている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟ひっきょう私にとって一番楽な努力で遂行すいこうできるものは自殺より外ほかにないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼をみはるかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。(夏目漱石『こころ』)

 先生はこのように葛藤していた。これは「遊民」なのだろうか。こういうところをきちんと読まないで、どうしてウイキペディアを編集するのだろう。これを編集した人が「低級遊民」なのではなかろうか。

 高等遊民を自認していたのは『彼岸過迄』の松本だけではなかろうか。川端康成の『雪国』の主人公・島村は一応「文筆家の端くれ」である。そもそも「高等遊民はなんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていたりした。」とはとんだ言いがかりではなかろうか。

 そもそも生産的な活動とは何なのだろう。

 このように村上春樹さんの間違いを記録することは誰かの役に立つかもしれないが、

 このように自分の小説を書くことは生産的な活動とは言えないのだろうか。

 ここにも書いたが「李徴が退官、詩作にふける。」というところまではその人の生き方として間違ってはいないだろう。島崎藤村が詩を捨て散文に向かうことはどうだろう。真面目な話、相続財産でもなくては、詩人など存在しえないのではなかろうか。石川啄木の恨みが理解できないわけではない。しかし詩を書くことが遊びではないと、一番よく解っていたのが石川啄木ではなかっただろうか。

 人間はいずれ死ぬ。絵を描く象はいるが、詩を書くことが出来るのは人間だけである。死ぬまでに糞尿製造以外に何をやるのか、自分で決められるのが高等遊民だとしたら、私は高等遊民になりたい。相続財産はないが。



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