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分裂させられる 牧野信一の『ランプの明滅』をどう読むか①
「十三人」の第二号に「爪」といふ旧作を出した。それは一二年前に書いた短篇なのだが、処女作といふわけでもない。十三人の一周年号に出した「闘戦勝仏」といふ西遊記から材を取つたものが、処女作だらう。「爪」は発表後も藤村先生が手紙で賞めてくれた。その後私は初めて飯倉のお宅で先生にお目にかゝつた。発表しない前、それは原稿で柏村と鈴木にも読んで貰つた。それから三月号に「ランプの明滅」といふ小品を書いた。誰かから、「早稲田文学」で宮島新三郎氏が賞めて居たといふことを聞いて、嬉しく思つたことがある。島崎先生が、新小説で新進作家号を出すから何か書いて見ないかといふことを伝へられ、私は、「凸面鏡」といふ十五六枚のものを出して貰つた。
牧野信一の記憶は当てにならない。このあたりの話はころころ変わる。それでもこの『ランプの明滅』は初期作品の一つではあるのだろう。
ここまで『闘戦勝仏』『爪』と読んできて、そのタイトルがあまり作品を象徴しないことが見えてきた。『爪』は『妹』『道子』『寝言』『冷笑』といくらでも別の題大がつけられそうだし、むしろ「爪」は主題に当たるところではないのではなかろうか。さて、では『ランプの明滅』はどうだろうか?
それはまだ誰にも解らない。何故ならまだ読んでいないからだ。
試験の前夜だつた。彼はいくら本に眼を向けてゐても心が少しもそれにそぐはないので――で、落第だ――と思ふと慄然とした。
就職試験や資格試験に失格、不合格はあっても落第はないので、これは学生の話だということが分かる。そしてまた「彼」である。この「彼」が『爪』の「彼」と連結しているのか、そうでないのかはまだ誰にも解らない。何故ならまだここで連結が見えないからだ。
と、同時に照子の顔が彷髴として眼蓋の裏へ浮んだ。彼にとつて照子の存在が、彼が落第を怖れる唯一の原因となつてゐたので、然も彼は非常に強く照子の存在を意識してゐたから、非常に落第を怖れた。
別人のようだ。この「彼」は妹に惚れてはいない。それにしても『ランプの明滅』で「照子」とは見え透いた名前を付けたものだ。しかし今思ったのだが、この「照」の文字、虫が歩いてゐるみたいで気持ち悪いな。
落第を怖れる唯一の原因と言っている段階で「彼」はかなり偏狭に見える。まず普通落第しそうなときに考えるのは学費を出してくれる親のことか天皇陛下のことだろう。これで照子が母親の名前ならいいが……。
何故なら、
「妾、秀才程美しい感じのするものはないと思ふわ。妾は秀才といふ文字だけにでも、妾の生命の全部を捧げて、涙をこぼして恋するわ。」
「フン。」(彼は、自分が秀才でないといふことを照子が多少侮辱的に云つて居ると知つてゐた)と、つまらない事とセセラ笑つては居たものの、
「僕は照ちやんのやうなお転婆と結婚がしたいよ。」と胸に一縷の望を持つて、いつのことだつたか、戯談紛れに尋ねると、
「妾もよ、秀ちやんのやうな茶目さんと結婚したいわ。」で一撃の下に、笑に附せられてしまつて、彼の言が表現した通りの戯談の儘でとほつたのだからよささうな筈なのに――いつ迄たつても照子の云つた「結婚」といふ言葉を棄てることの出来ない彼なのであつた。それは、「どうしてなのか。」と考へて見れば「惚れてるのだ。」と極めて簡単に解つてゐたが、よく恋の心理を現した歌などに「何故か?」「涙こぼるる」などといふやうに、恋を神秘視してゐるのを見ると、反感とまでゆかず滑稽を感ずる彼だつたが、照子を想つた時はどうやら自分の気持も「何故か……涙ながるる」の気持らしかつた。
母親ではなかった。
惚れている相手らしい。
そういえば清顕は「何故か……涙ながるる」ではなかったな。もうただひたすらにセックスしたいだけの男だった。
しかし「秀ちやん」はそうではないらしい。照子の希望通り「秀才」になりたいらしい。それはまあ「妾の生命の全部を捧げて、涙をこぼして恋するわ」と言われてしまうと仕方ないか。
しかし「秀ちやん」に「秀才」を求めるとは見え透いた名前を付けたものだ。その「秀ちやん」はまたここでおかしなことを言っている。「僕は照ちやんのやうなお転婆と結婚がしたいよ」とは普通相手に言うことではない。本音を隠してマッチングするマッチングアプリなら、非公開の本音のところに書くべきことだ。
お転婆とは決して誉め言葉ではない。奔放、という魅力は解らないでもない。今で言えばギャルでアゲアゲということか。昔で言えばモガ。カフェの女給なんかがお転婆か。
反対は箱入り娘だ。
で、言われた照子の方も「秀ちやんのやうな茶目さんと結婚したいわ」と妙な指摘をしている。
茶目さん。
その割には「非常に落第を怖れた」と案外真面目ではないか。ほな茶目さんちゃうか。ほかにどんなこというてたか、もう少し教えてくれる?
時間はどん/\過ぎて行つた。第一頁すら彼の頭には入つてゐなかつた。一秒を刻んだ時計の針に落第を思ひ、さうして失恋(?)をおもつた。――彼は深い溜息をした。――照子が突然死んでしまへばいい、と思つた。
こりゃ随分、茶目さんやなあ。世界秩序の崩壊ではなくて、照子の死を望むのか。無茶すんな。
それに何の勉強しているのかはわからないけれども、第一ページは大抵表題だ。「第」がいらんがな。まあともかく集中力が足らんな。
このふざけた髪型のおじさんは神学者トマス・アクィナス(13世紀)。「神学大全」を著した偉大な神学者ですが、彼の”性的潔癖”に対するこだわりはちょっと異世界レベルでした。
— 昔の芸術をつぶやくよ (@LfXAMDg4PE50i9e) May 3, 2024
彼が著作で延々と述べているのは「ともかく男も女も性的に潔癖であるべき」という事。結婚より潔癖がエライ!だから→続 pic.twitter.com/HlOlmdkAGr
外は酷い暴風雨だつた。激しい雨がしきりに彼の窓を打つてゐた。その中に彼の心は、荒れ狂うて風雨の響の中に溶けて行つた虚無が彼の胸に扉を開いてゐた。
「落第がなんだ。」といふ気がした。
「厚顔無恥の照子だ!」と彼は呟いた。――然し彼は涙が出さうになつた。
なんだか虚無なんて言ってみて、うまく言葉が収まらない感じがいい。「厚顔無恥」という責任転嫁もいい。今日女の人が自転車でこけていた。爺さんがうようよ寄ってきて助けていた。見るとスカートの裾が自転車の歯車に絡まって倒れたらしい。結果的に自転車と一体化した女の人に対して一人の爺さんは、こりゃスカートを切るしかないね、と言った。いや、スカートを切っても自転車は動かないだろうと私は思った。傍からは何とでも思える。スカートを脱ぐのも選択肢の一つではあろう。しかしそんなやわな選択肢など本当はないのだ。軽トラでも借りてきて自転車ごと運ぶしかないのだ。そう言おうとして、やめた。それは本人が決めることなのだ。
彼のいい加減な態度は彼が当人であることに由来している。当人であるということは既に自由ではないのだ。人は何かにとらわれていてどうしようもないものなのだ。
普通に勉強すればいいのではないかとは、スカートで自転車に乗らない方がいいという程度に無意味なアドバイスだ。
で、虚無ってなんだ?
突然! 電灯が消えた。と同時に彼の胸は、何やらハツとした。――「いいあんばいだ。」と思つた。「灯が消えては当然勉強は出来ない。」「本をまる覚えした事で、照子の最も讚美する秀才になり得るものならば、勉強が止むを得ず出来なかつたといふ原因で落第しても、――可能性はあるだらう。」こんな事をしきりに考へた彼は稍々安心した。と次の瞬間から彼はただ専念に――安心して照子の事を想つて居た。
真暗な中に凝として、笑ひと悲しみの分岐点にたたずんでゐる自分を瞶めた。恋情といふものは極めて滑稽なものだ、と思ひながら、彼は静坐の姿勢で眼を瞑つた。
なるほど『ランプの明滅』らしくなった。それにしても「瞶(みつ)めた。」とはいい表現だ。「笑ひと悲しみの分岐点」はちょいとわからない
「電灯が消えて、試験だつてえのに困るわね。」といふ声でパツと室が明るくなつた。ランプを持つて来た照子は、彼の眼に涙がたまつてゐるのを不思議さうに見た。
① え? 何でここに照子が?
② 「何故か……涙ながるる」は早すぎない?
人間はこのように二つの驚きに瞬間的に分裂してしまうものだと分かったところで今日はここまで。
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