柄谷行人の『新版 漱石論集成』をどう読むか④ そこが解らないのによく言うよ
そこは単純な話ではない
これは『それから』の説明の中にひょいと現れた『三四郎』に関する解釈だ。「主人公の一郎は」「主人公の先生は」などというちょっとした文句から「ああ、この人は手紙を読まされるという立場の意味が解っていないのだなあ」などと瞬時に気がつかされることがある。
ここも明確に柄谷の読みの浅さが露呈したところだ。
まず一般に『三四郎』はそういう題名なのだから、主人公たる三四郎のにぎやかな学園生活と仄かな恋と失恋の話として読まれることが多いだろう。柄谷の読みはここに留まる。
しかし小谷野敦が冷静に読むと『三四郎』は微妙なバランスで成立していて、見方によれば全然別の話に見えるということになる。
小森陽一は作中の恋愛に関してはもともと成立しかかっていた野々宮宗八と里見美禰󠄀子の関係が崩れて、経済的にも結婚が急がれていた美禰󠄀子が野々宮を見限ったとみている。
ただもう一度小谷野の意見に立ち返ると、まさに微妙なバランスとしか言えない関係があり、よく読めば読むほど野々宮の存在が際立ってくることは間違いないが、実際のところどちらがどうとも決め難いのである。
まず美禰󠄀子が三四郎を愛していたというのはいくら何でも言いすぎである。野々宮との考え方の違い、空中飛行機のところの人生観の違いの下りの後、菊人形のところで美禰󠄀子はひどく落ち込んでいるように見える。この時「美禰󠄀子は野々宮にふられた」とも「美禰󠄀子は野々宮を見限った」とも言い切れない状態のところに三四郎が絡んでくる。ここがややこしいところで美禰󠄀子がただ三四郎を遊んでいるようにも見えなくもないし、何でもいいから縋っているように見えなくもない。ただこの後三四郎は「迷羊」なので恋に落ちている。
だから三四郎側にとっての恋と失恋と云うものは確かにあったとみてよいだろう。
しかし美禰󠄀子側はどうなのか。
決して憎からず思えど「愛している」とまでは言えないのではないか。この「愛している」とまでは言えないのに気のある素振りができるというのが無意識の偽善者なのではないか。
そしてやはり「軽蔑していて」もなかろう。軽蔑している男に金を貸したり、絵はがきを送ったり、返事を求める女はいない。軽蔑している男に対して女は「無、なんなら死んでくれ」くらいにしか思っていないと近所の中学生が大声で話していた。まあ、そんなものだろう。
柄谷がどこから「軽蔑」を持ち出したのか分からないが、「愚弄」あたりからだとしたらそれは間違いだ。
引力はあった
柄谷には全般に山師的なところがあり、自分の論のために強引に間違えた前提を置くことがしばしばだ。
ここもそう。
ここは例えば小森陽一ほかが指摘する通り、百合や指輪や髪型で三千代のほうから引力を出していたわけである。そもそも金を借りに来るわけだから「三千代の働きかけによるものでもなければ」などという話にはならない。ここで少なくとも柄谷には指輪や百合が見えていないことになる。
そこが解らないのによく言うよ、と言わざるを得ない。
この引力理論は、
このように説明されている。従ってルネ・ジラールの欲望の三角形は漱石作品にはあまり関係がない。
大体漱石自身は比較的真面目な生活を送っていたようだが、この両性間の引力に関しては割りと生々しく出てくるところがある。漱石の初恋などと言われている眼科の話も、言ってみればちょいと見かけたいい女に一目惚れという話で、まあ三四郎の汽車の女に対する態度はそのバリエーションであり、何か綺麗な話のように語られる広田の初恋も、まあ一目惚れである。はなはだしいのは田川敬太郎の千代子を見る目線、そして蛇の目の女を見るいやらしい目線である。
ただ通勤時のOLさんなんかは、会社で着替えるのにわざわざおしゃれして電車に乗るわけで、都会では両性間の引力というものがワイハイみたいにバチバチ飛び交っていて、心の中では毎朝違う人に一目ぼれしている男女がいても不思議ではあるまい。
で話を戻すと、確かに代助は、
と三千代の引力を感じていたわけだ。
電車で蛇の目の女に惹かれても、それはそれっきりになる。しかし指輪だ百合だと迫られたらぐいっと引き寄せられる。
それは暗くなった途端帯を解いて浴衣に着替えだして、その前には「ここへ来て手で障って御覧なさい」なんて言われる引力見たようなものである。
ここが読めていないで変な理屈をこねられても困るね。
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