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芥川龍之介の『彼 第三』をどう読むか② 「僕」は芥川ではない?

 いや、だからどう読むも何も『彼 第三』という作品は見つからない。

 しかたがないから、『愛読書の印象』でも読もう。

 ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」などの影響であつたらうと思ふ。

(芥川龍之介『愛読書の印象』)

 なるほど、高等学校を卒業する前後に「ジヤンクリストフ」を読んだのか……。

 え? おかしい。おかしい。

「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与の書籍もその中うちにまじり居り候節は不悪らず御赦し下され度く候。」
 これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本が焔になって立ち昇る有様を想像した。勿論それ等の本の中にはいつか僕が彼に貸したジァン・クリストフの第一巻もまじっているのに違いなかった。この事実は当時の感傷的な僕には妙に象徴らしい気のするものだった。

(芥川龍之介『彼』)

 たしか「ジァン・クリストフの第一巻」は『彼』で燃えたはずだ。「彼は六高へはいった後、一年とたたぬうち」「かれこれ半年の後」「翌年の旧正月」という経過をたどると、「僕」が高等学校を卒業する前後にはもう「ジヤンクリストフ」を読むことはできなかったのではなかろうか。

 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。

(芥川龍之介『愛読書の印象』)

 『愛読書の印象』の初出は大正九年、この「此間」とはその頃の事だろう。

 つまり、

・『彼』の「僕」は芥川龍之介ではない
・『愛読書の印象』の語り手は芥川龍之介ではない
・「ジァン・クリストフ」は「ジヤンクリストフ」ではない
・芥川は『彼』の脚色の為に「ジァン・クリストフ」を燃やすという演出を加えた
・芥川は『愛読書の印象』を面白くするために『彼』を書いた
・『彼 第三』にその種明かしがある
・小林十之助が『愛読書の印象』か『彼』を捏造した

 このいずれかが真実なのだろう。

 ごく真面目な話『ジャン・クリストフ』の第一巻の端本を見つけることはなかなか困難なので、買い直すなら第二巻から十巻を持ちながら、全部買い直すことになる。流石にそんな散財は出来まい。しかも『愛読書の印象』にはわざわざ買い直したというニュアンスがまるでない。すると一番可能性が高いのは、

・小林十之助が『愛読書の印象』か『彼』を捏造した

 この説だろう。いやいや。小林十之助は私だ。私が捏造する筈がない。やはりあり得るとすれば、

・「彼 第三」にその種明かしがある

 これだろう。早くその種明かしが知りたいものだ。



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