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章魚眠る白木の宮や狸あり 夏目漱石の俳句をどう読むか161

枯野原汽車に化けたる狸あり


 岩波の注解には特に説明なし。

 こういう所だと思う。

 この「毘沙門堂狸」の話は確かに伝わっていそうだ。


 

 このあたりのことに鑑みても松山出身の俳人など複数人での注解というのが現実的な善後策と言えないだろうか。昨日の句に関しては漢詩の知識がないとどうしようもない。しかし松山出身の俳人で漢詩も得意なんて人材も相違ないだろうから、矢張り何人か組んで注解した方がいいと思う。


猪・鹿・狸 早川孝太郎 著郷土研究社 1926年

 愛知県でもやはり狸は汽車に化けたらしい。


人外魔境 : 他四篇 押川春浪 著博文館 1941年

 これがどこの話かというと、

人外魔境 : 他四篇 押川春浪 著博文館 1941年

 なんとブランドン平原とのことである。

 さて漱石の句は、おそらくは「毘沙門堂狸」にちなんだものであろうが、そういえば河豚、時雨、枯野原と春から一転季節が変わったことに気が付く。それに松山で枯野原……。まあ平原とまではいかなくとも野原くらいはあるか。

 鑑賞としては「なんにでも化けるなあ」とただ驚いてもいいと思う。解説はそれではいけないけれど。

其中に白木の宮や梅の花


 おや、面白い返しをしてきたよ。

木の下に名のなき宮も春なれや    子規

 なんてのも挙がってくる。

 この句は「其中に」がどの中なの? という辺りが狙いか。

 岩波の注解は、

 白木の宮は白木造りの神社。

(『定本 漱石全集』岩波書店 2019年)

 として特にどこの神社とは書かれていない。これがまた梅の花なので、まだ熊本に行っていない時期の句だとは思うのだけれど、 
 ただし、1704に

朝寒み白木の宮に詣でけり

 という句があり、こちらは阿蘇神社のことだとされている。これはかなり気になる。ただし明治三十二年の句なので私はまだ読んでいない。

 きのうの澄み切った空に引き易かえて、今朝宿を立つ時からの霧模様には少し掛念もあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇の社までは漕ぎつけた。白木の宮に禰宜の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢こずえに響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額ひたいに落ちた。饂飩を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡いた頃から、午過ぎは雨かなとも思われた。

(夏目漱石『二百十日』)

 
 夏目漱石が阿蘇を訪れるのは明治三十二年。そしたらこれは阿蘇ちゃうか。そしたらほかにどんなこと言うてたか教えてくれる?

 いずれにせよ白木に梅が生えるのだから、其とは紅白ではないものなのであろうが、なんだかわからない。ここはそのまま「其中に」が何の中だかわからないところ、その唐突なところの遊びと見るべきであろうか。

 あえて前句とつながらないように季節も戻してきたか。

章魚眠る春潮落ちて岩の間

 一昨日だったか、アメリカで章魚の養殖が禁止されている州があると聞いて驚いた。ではカブトガニでのあれは何なんだといいたくなる。

 とりあえず章魚も眠るらしい。

 この句は岩の間に眠るタコのすがたを覗き込む、その詠み手の立ち位置と角度が面白い。

 私は最初「春潮」という季題を知らず、ここを「春、潮」と区切り「章魚眠る春、潮落ちて岩の間」と読んでいた。まあ、「春潮」が季語でそれは落ちるものらしい。

詩学初楷

 ここは春潮引いて、いつの間にか取り残されたタコが岩の中にずるずる滑り落ちてまだ眠っているよ、というユーモアを詠んだ句であろう。タコを眠らせたところが目の付け所で、「春潮落ちて」が学のあるところ。まあのんびりとした感じが春の味わいと、上手で隙がない。

[余談]

 それにしてもタコが眠るなんてよく観察していたもんだ。

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