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小宮豊隆「芥川龍之介の死」



芥川龍之介の死

〔生きてゐた時分の芥川君と私とは、お互に呼び棄てにするやうな間柄ではなかつた。然し、芥川君が既に一箇の歷史的な存在になつて了つた今日、私は、敢て彼を呼び棄てにし得る自由を持つ事にしたいと思ふ。〕

 芥川はなぜ死んだか。― 芥川が死んだのは、芥川があまりに眞面目であつた爲である、あまりに銳敏なモラル·センスを持つてゐた爲である、と私は思ふ。

 芥川は生理的に、生活力の缺乏の爲に死んだのだと、考へてゐる人もあるやうである。それはその通りかも知れない。然し、芥川のその生活力を蝕んだものは、芥川の眞面目である、芥川のモラル·センスである。芥川がいくら生理的に羸弱であつたとしても、若し芥川が張三李四のやうに心理的に頑强であり得たならば、芥川は決して死ななかつた筈である。

 もつとも芥川は、道德とか良心とかいふ言葉を、ひどく嫌つてゐたやうである。芥川は、自分はいかなる良心をも持ち合はせてはゐない、あるのは唯神經だけであると、繰り返し言明してさへもゐる。

 然し是は芥川が、自分の良心の存在を無視して了はなければゐられないほど、良心を重荷に感じてゐたといふ事を物語るものではあつても、決して芥川に良心がなかつたといふ事を物語るものではない。

 殊に芥川は、あるのは唯神經だけだと言つてゐる。芥川は、自分の中のいかなる良心の存在をも否定しようとしたけれども、自分に作用して自分を苦しめる神經の存在だけは、竟に否定する事がなかつた。然もその神經を染めてゐる最も顯著な色彩は、「彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もち」―卽ち罪の意識である。さうしてこの罪の意識こそは、芥川の神經を悸びえさせ、芥川の心の平和を奪ひ、芥川の生活力を消耗させ、最後に、芥川を滅ぼして了つたものなのである。

 芥川は、一面に於て、典型的なロマンティシストであり、また典型的な藝術至上主義者であつた。この事は、人生を一行のボオドレエルにも若かないと言つたり、架空線から發する紫いろの火花を、命と取り換へてもつかまへたかつたと言つたり、殊に、もし死體(註 解剖に必要な)に缺乏すれば、俺だつたら何の惡意もなしに人殺しをするんだがと頭の中で考へたと言つたりしてゐる、芥川自身の言葉に就いて見ても明白である。

 芥川の死を藝術的なものとして考へてゐる人達は、恐らく芥川のこの一面に著眼するからの事であるに違ひない。然し私は、違つた意味では芥川の死を藝術的な死だと考へる事も出來るけれども、そのままの意味では、到底その見方に同ずる譯に行かない。なぜなら芥川は、この意味でのロマンティシズムや藝術至上主義を竟に貫ぬき通す事が出來なかつたからである。

 芥川は、もし死體に缺乏すれば、何の惡意もなしに、ほんとに人殺しをしたかも知れない。然し芥川はそのあとでは、その人殺しのために、必ず、自分が殺される以上に惱んだに違ひないのである。芥川は自分を藝術至上主義者ではないと言つてゐる。まつたくその通りである。ロマンティシストであり藝術至上主義者であつた芥川は、そのロマンティシズムや藝術至上主義を、究極のところ、言はば芥川の底を流れてゐた倫理主義といふやうなものから、動搖させられ崩壞させられ粉碎されて了つたのである。

 芥川は早くから、少くとも理論的にだけでも、人生そのものに對する興味を失つてゐたやうである。芥川にとつて人生は灰色のじめじめした單調で退屈な生活の連續であつた。然も、その落寞から彼を救つてくれたものは、彼の藝術である。もしくは藝術一般である。藝術は芥川にとつては、人生を超越したものであり、別乾坤を形づくるものであり、人生を蒸餾して得られた刺激の强い香りの高いエキスであつた。芥川はこの人工の樂園に立て籠る事によつて、香りも色も光もない人生を見下ろしながら、その上に輕侮や反語の徴笑を浴びせる事が出來たのである。「人生は二十九歲の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。彼はその人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理知の光を浴びた人生の歡びや悲しみは彼の目の下に沈んで行つた」と芥川は書いてゐる。

 是は芥川がヴォルテエルを通して、理知の力によつて人生を或距離から眺める事を知つたといふ事を我我に報告するものであるには違ひないが、然も是は、直ちに移して、芥川の藝術と人生〓との關係を說明するものと見做す事の出來るものである。

 人工の樂園が人生から游離してゐる限り、なんの問題も起りやうがない。然もその人工の樂園が人生から游離してゐる限り、其所の空氣は人人に多くの捨離を要求する。然し全然風流人にはなり切つて了へないほど多欲に生れついた芥川は、さうして一面では十分にリアリストででもあつた芥川は、その人工の樂園に立て籠つて、多くのものを捨離する生活に、じつと堪へてゐる事が出來なかつた。

 芥川は、今まで顏を背けるやうにして來た人生に、再び接觸し始めなければならなかつた。といふ事は然し、此所で芥川のロマンティシズムや藝術至上主義が、芥川のリアリズムにその支配權を讓つたといふ事を意味しない。反對にそれは、さういふロマンティシズムや藝術至上主義がリアリズムと一諸になつて、芥川をして、人生そのものの中に生きた藝術を求めしめたといふ事を意味する。

 別な言ひ方をすれば、芥川は、人生そのものの中に踏み込んで、其所から、新たな、よりリアルな人工の樂園を組み立てるに必要な、刺激の强い香りの高い、生きた材料を蒐集しなければゐられなくなつたのである。

 其所に問題の起り得る機緣が成就する。人生そのものの中に刺激の强い香りの高い-藝術を求めるためには、― 人生そのものの中に人工の樂園を築いていつまでもその光輝を失はせないためには、所詮、人は徹底的なエゴイストになるか、それでなければ、徹底的なロマンティシストにならなければならない。

 人生そのものは常に藝術を提供し得るものではないとともに、一旦それを提供した以上は、それが藝術としての性質を持ち續けるか否かに論なく、いつまでもその代償を請求して止まない傾向を持つてゐるからである。

 然し芥川は、その代償を拒絕すべく、あまりに銳敏な良心を持ちすぎた。然しその代償を支辨すべく、又あまりに多く藝術家でありすぎた。坂田藤十郞は自分の藝術のために人妻を誘惑したと言はれる。ゴーンクールの書いたラ·フォースタンは自分の藝術のために、所天の末期の苦悶を觀察したあとで、鏡に向つてその表出を研究する。ラ·フォースタンはそれを所天から見つけられ卽座に離緣されて了つたが、藤十郞はその翌日その女の所へ、芝居をするに就いて研究のためにあんな事をしたに過ぎない、どうか惡く思つてくれるなと、謝りに行つたのださうである。

 ラ·フォースタンは自分の藝術のために自分の情合を忘れた。藤十郞は自分の藝術のために他人の情合をおもちやにする。自分の情合を忘れても、他人の情合をおもちやにしても、ともかく彼等は、さういふ風にしなければゐられないほど、自分の藝術を愛してゐたのである。人間的な、もしくは倫理的な立場から言へば、彼等は正に化物のやうなものであつたには違ひない然し、藝術至上主義の立場に立てば、それほどまでに自分の藝術を信仰し熱愛する彼等の決然たる態度は、寔に羨やむべきものがあるとも言へる。

 彼等は徹底的なエゴイストであり、もしくは徹底的なロマンティシストである。例へば藤十郞の場合、相手の女が藤十郞の誘惑に乘つて、本當に藤十郞を戀したとしても、藤十郞は恐らくその戀に應じもしなかつたらうし、應じないとしても別に氣の毒とも濟まないとも思ひもしなかつたであらう。それが女にとつてどんな犧牲を意味するものであるかを知つたとしても、藤十郎はそれを、自分の藝術に捧げられる當然の犠牲に過ぎないとしか考へなかつたであらう。

 彼の良心は、かうして、いつでも明るく且つ晴れやかである事が出來た。然し芥川はさうは行かなかつた。無論芥川は自分の藝術を熱愛してゐた。生活欲は少しもないと言明する時でさへ、制作欲だけは殘つてゐると附け加へるほど、芥川は自分の藝術を熱愛してゐた。然し芥川は、藤十郞のやうに、自分の藝術を宗教的に信じきる事が出來なかつた。同時に芥川は、多くの天才達のやうに、自分の才能を宗教的に信じきる事も出來なかつた。

 人生に對してスケブティックであつた芥川は、纔に藝術の上に生きてゐたけれども、然し根柢では、その自分の藝術に對しても、その自分の才能に對しても、亦スケプティックであつた。-

 芥川は「あらゆる善惡の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見」て「絕望に近い羨ましさを感じた」と言つてゐる。さうして「しみじみ生活的宦官に生れた」自分自身を「輕蔑せずにはゐられなかつた」と言つてゐる。

 芥川は、ラ·フォースタンのやうな場合を經驗するとしても、心の痛みなしには、鏡に向つてその表出を研究する事は出來ないに違ひないのである。藤十郞のやうな場合を經驗するとしても、十字架を負ふ事なしには、その女の所へ謝まりに行く事は出來ないに違ひないのである。然も芥川にとつてフェータルな事は、それにも拘はらず芥川が、ラ·フォースタンの場合のやうな、もしくは藤十郞の場合のやうな場合の中に、進んで身を置かなければゐられない、特別な、劇しい衝迫を、內に藏してゐたといふ事である。

 芥川は聰明な理知の所有者であつた。從つて芥川には、自分の心の中のいろんな動きが、可也の程度までは、手にとるやうに見えた。同時に、それらの心が外に動き出て、凡そどういふ結果を生むものであるかといふ事も、可也はつきり分つてゐた。同時にまた、その事が凡そ可能である限り、ある心の動きを、まだ芽でゐるうちにつかまへて思ひの儘に變形する事も出來た。從つて、かういふ衝迫に對しても、その聰明な理知は、幾度か苦い經驗を甞めさせられて、その善後にもしくはその防遏に、あらゆる手段を講じたに違ひないと想像される。

 然し「僕の意識してゐない部分は、― 僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と廣がつてゐる。僕はそれを恐れてゐるのだ。光の中には怪物は住まない。しかし無邊の闇の中には何かがまだ眠つてゐる」と芥川自身恐れてゐるやうに、それは、聰明な芥川の理知を以つてしても、竟にどうする事も出來ない― 芥川の理知の支配力を超えた、ある知れざる力であるに外ならなかつた。

 然もそれは、善惡を超えた力であり、火山のやうに卒然として噴出し得る力であつた。藤十郞の心理は寧ろ簡單である。それが知れざる力であるにしろ、知れたる意志であるにしろ、藤十郞は唯その命令を聽いて、命令どほり實行しさへすればよかつた。然し芥川は、欲する欲しないに拘はらず、先づ知れざる力の命令に聽かなければならなかつた。

 然もそれは、多くの場合、芥川の中の倫理が、必ず是認しないものであつた。然し、一方で芥川の中の藝術家は、無條件には、その否認を肯定しなかつた。然も自分の藝術竝に藝術家としての自分の才能に對する究極のスケブティズムは、芥川の中の藝術家の主張を十分力强いものにする事が出來なかつた。

 芥川の中では、段段に倫理が、鐵のやうな嚴めしさをもつて、外のあらゆる心を支配し始める。然し、知れざる力は、その支配を嘲笑するやうに、いつのまにか、再び噴出を始めるのである。

 芥川は遲疑なく知れざる力のみに仕へる事も出來ない。無條件に倫理のみに仕へる事も出來ない。さればと言つて、斷乎として藝術のみに仕へる事も出來ない。どれにもそれそれにいくらかづつ仕へて、どれにもそれそれに十分徹底する事が出來ないのである。「彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相變養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。それは彼の生活に明暗の兩面を造り出した」とあるのは、可也の程度にこの間の消息に觸れてゐるものである。

 ニイチヱは、『ツァラツストラ』の中で蛇が口の中へ這ひ込んだ男の事を書いてゐる。ツァラツストラが大聲で喰ひ切れ、喰ひ切れ、と聲を掛ける。それに勵まされて男は、全身の力を自分の齒先に集めて、一氣にその蛇を喰ひ切つて了ふ。蛇を喰ひ切つてその男は、今まで一生の間に經驗した事もないやうな、朗らかな笑ひを笑つた。

 芥川は、蛇を喰ひ切りさへすれば朗らかな笑ひが笑へるといふ事を、知つてゐた。知つてゐたればこそ芥川は、蛇を喰ひ切る努力を― 思ひ切つて亂暴になり、思ひ切つて赤裸裸になる努力を、幾度かその作品の上で試みてゐるのである。芥川は死ぬ一二年の間、餘所目にはやけ糞になつてゐるのではないかと怪しまれたほど、何かとり亂したものを書いた。『新生』の主人公を、老獪な僞善者だと言つたのもこの時分である。ストリンドベリを嘘つきと言つたのもこの時分である。芭蕉を大山師と言つたのもこの時分である。

 それのみではない。その死後遺稿として發表されたものの中には、不斷の芥川を知つてゐる者から言へば、芥川が決死の覺悟をしなければとてもこんな事は書かなかつたに違ひないと思はれるやうなものが、隨所に續續と書き連ねられてゐる。是は芥川にとつては、絕望に近い、大飛躍である。

 芥川は、渾身の力を揮つて、その蛇を喰ひ切らうとしたのである。然し芥川には蛇を喰ひ切る力がなかつた。「丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。『もう遲い。しかしいざとなつた時には······』」と言つてゐた芥川も、その「いざとなつた時」を違つた意味に用ゐなければならない事を意識しないではゐられなかつた。

 蛇を喰ひ切つた男は、それをするために、ツァラツストラのやうな、聲を掛けて力をつけてくれる人を持つ事が出來た、然し芥川には、そのツァラツストラがゐなかつた。

 その自敍傳小說の後半部に於いては、ほとんど同じやうな心持の世界を持つてゐたストリンドベリは、そのため死ぬ一二年特に芥川が愛讀もし影響も受けたらしく見えるストリンドベリは、― 神を疑ひ神を否定しようとしたにも拘はらず、結局はその神に於いて自分のツァラツストラを持つ事が出來た。是は恐らく、子供の時から浸み込んで、殆んど一つの本能のやうなものになつてゐる神が、ストリンドベリの中に動いてゐたためであらうと思ふ。

 然し芥川の中には、多くの現代の日本人と同じやうに、さういふ本能のやうなものになつた神は、何所にも動いてはゐなかつた。然も後天的に何ものかを信じ得るためには、芥川の頭腦はあまりにリアリスティツクでもあれば、又スケプティックででもあつた。殊に、息ぐるしく惱ましく、睡眠の平和をさへ人工的に用意しなければならなかつた時分の芥川は、惡魔の存在は信じ得ても神の存在は信じ得なかつたやうである。3

 芥川は死んだ。蛇を喰ひ切る力もなく、ツァラツストラを持つ事も出來ず、然も口に蛇をくはへてゐる事に堪へられないものは、結局、徐ろに自分を滅ぼしに來るものを待つか、自分で自分を滅ぼすか、途は唯二つしか持つてゐない。

 芥川は、自分で自分を滅ぼして了つた。然も芥川は自分で自分を滅ぼす事によつて、自分がいかに眞面目に人生を苦しんだかといふ事を證明した。芥川がいかに眞面目に人生を苦しんだかといふ事は、既に遺稿として發表された、彼の作品の幾つかが鮮やかに證明してゐる。

 然し彼の死は、それらの作品による證明の上に、最後の最も鮮やかな證明をつけ加へたものである。假令作品の中を流れる芥川の眞面目と倫理感情とを認識する事を拒む者はあり得ても、芥川が明らかな意識下に自分で自分を滅ぼしたといふ事實を拒否する者はあり得ない。

 その意味で芥川の死は、芥川のそれまでに書いたどの作品よりももつと力强い作品である。芥川は是まで、才人と言はれ、技巧家と言はれ、警句家と言はれ、藝術至上主義者と言はれ、その他いろいろに言はれた。

 芥川はさういふいろいろのものでもあつたには違ひない。然し、それよりももつと大事な事は、芥川が恐ろしく眞面目であつた事である。『行人』の主人公は、「人間も氣狂にして見ないと本心がわからないのか」と言つた。芥川も死ななければ或はその本心を人に分からせる事は出來なかつたかも知れない。然し芥川は、死んだのである。死んで本心を出したのである。死なずに本心を出した積りでゐる人よりも、是はどんなに立破な事だか分からない。(四·五·五)

一括話

 芥川君は、亡くなる年の春、改造社から賴まれて『現代日本文學全集』宣傳の講演旅行に、北海道まで行く途中、仙臺の私の所を訪ねてくれた。私達は一諸に太田の所へ行き、三人で晝飯を喰つて別れた。

 芥川君は、私の家で、いろんな話をした。九州大學へ來ないかと言はれてゐるが、どうしようかと思つてゐるとも言つてゐた。私は、それは可い、君は今非常に疲れてゐるやうだから、當分休息するつもりで、是非九州に行つて來玉へと、勸めた。然し芥川君は、それに對して、別にはつきりした返事はしなかつた。

 芥川君は仙臺には、里見君と一諸に來て、一諸な宿にとまつたやうである。里見君は是から兒島の所へ行くと言ひ、自分はあなたの所へ來ると言ひ、結局離れ離れの行動をとる事になつた。私は兒島に會ふと氣づまりに感じる、里見君はあなたに會ふと氣づまりに感じるのださうだ、然し私はあなたに對しては、水揚をされたお酌が、その旦那に對するやうな氣持を感じてゐる、とも芥川君は言つた。

 この言葉は、一寸私をどぎまぎさせた。水揚をされたお酌がその旦那を懷しさ計りをもつて思ひ出すとは、必ずしも保證する事が出來ないからである。あるお酌は、その旦那に憎惡のみをしか感じないのかも知れない。私は、實は僕も一寸さういふ氣がしてゐると、答へざるを得なかつた。芥川君が『新思潮』に二月廿二を書いて、夏目先生の所の木曜會で有名になつて以來、初めて芥川君の小說を買ひに來たのは、『新小說』だつたと記憶する。

 是は當時『新小說』の顧問のやうな事をしてゐた、鈴木三重吉の指金であつた。さうして出來あがつたのが、たしか『芋粥』である。その時私は、『時事新報』に賴まれて、その月の小說の批評を書く事になつてゐた。當然私は芥川君の小說を取り上げて問題にした。恐らく是が公けの舞臺で芥川君の小說を批評した、最初のものではなかつたかと思ふ。

 少くとも芥川君は、私のこの批評を、さういふものとして記憶してゐてくれたに相違ないのである。それでなければ芥川君が、自分自身を水揚されたお酌に比較する事が、意味をなさない。

 然し、私の批評は、芥川君の小說を、ただ褒めた計りではなかつた。精しい事は忘れてしまつたが、私は、私の批評の終に、頭の良い人が、自分の事は棚に上げて、他人の缺點ばかりに眼を著けてゐると、その人は屹度バーナード·ショウになる、芥川君がショウになるとは思はないが、氣をつける必要があるといふやうな事を附け加へた。

 是は、後で考へてみると、餘計なおせつかいであつた。その上此所には、何か親切めかして口を利いてゐる奥に、一種の惡意が動いてゐる事も、見遁がす譯には行かない。

 然し私は當時、それでいつぱし芥川君の灸所を剜つたつもりか何かで、得意になつてゐたもののやうである。それが恐らく夏目先生の烱眼に視てとられたものに違ひない。次の木曜に先生の所へ行つたら、君は芥川の批評の中に、ショウの事を書いてゐるが、あれはいけないと、いきなり先生から小言を言はれた。すると、其所に來合せてゐた芥川君は、言下に、いや、あれは、頭の良い人が、自分の事を棚に上げると、ショウになるといふので、私の事をショウだと言つてあるのぢやありません。私とショウとは違ふと書いてありますと、私に代つて返事をしてくれた。先生はそれぎり、默つてしまつた。私も何も言はなかつた。然し私は、何か芥川君から、ひどく手際よくうつちやりを喰はされたやうな氣がしてゐた。

 勿論是は、當時私がさう感じたといふのみで、それが當つてゐるものやら當つてゐないものやら、私には、はつきりした事は分からなかつた。その上そんな事は、さういつまでも覺えてゐるほどの事でもない。私はそれを、いつのまにか忘れてしまつてゐた。

 然るに芥川君が突如として私を音づれ、突如として私に言ひかけた言葉は、また突如として私を大正五年の秋の、漱石山房の木曜會の一夜につれ返り、私をして、その時經驗した一切の經驗を、まざまざと再經驗させるに十分だつたのである。

 私は、當時、私が芥川君に對して持つてゐた、愛と憎みとの交錯した不思議な感情を、思ひ起した。さうして私は、或は芥川君も當時のさういふ感情を記憶してゐて、それだから、わざわざかういふ妙な比喩を用ゐたのではないかと、考へざるを得なかつた。

 さう思ふと同時に私は、純粹な愛情からのみではなく、例へば野獸のやうな愛と憎みとを絡み合せた、不思議な慾望から、處女を傷つけた人間が、心鎭まつてから感じるであらうやうな、心の痛みを不圖感じた。僕も一寸さういふ氣がすると、私が答へたのは、實は當時の惡意に對する悔、もしくはひそかな謝罪の心持も、多少は交つてゐたのである。

 それが芥川君に通じたかどうか、分からない。それよりも何よりも芥川君の方で、さういふ意味を含めてあの比喩を用ゐたものであるかどうか、それさへも分からない。然し今となつてはもう、どうする事も出來ないのである。(一〇·四·一)

[出典]『漱石・寅彦・三重吉』小宮豊隆著、岩波書店、昭和十七年


[付記]

 芥川が九州大学から誘われていたという話は初耳だった。教師とはなかなかストレスのたまる職業であろうが、当時の芥川ならかなりの好待遇で迎えられ、生活面でも健康面でも良い方向に向かう可能性もあったのではないかと思うと、実に惜しい気がする。
 いくら人気作家とは言え、遅筆の芥川にとって量り売りのように勘定される原稿料の世界はやはり厳しいものではなかっただろうか。
 ……となかったことを惜しんでも仕方がない。今となつてはもう、どうする事も出來ないのだ。
 ところで小宮豊隆の創作の方はどんなものかと、ちと讀んで見た。

 うん。これでは芥川君から、ひどく手際よくうつちやりを喰はされるわけだ。


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