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昼飯のおかずは何か 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑩

 昨日は爲永春水に関して余計なことを書いた。決して身体的な障害を揶揄う意図はない。ただ芥川にはあからさまな眇に対する差別意識があり、眇であることで取るに足りないものとみなす傾向があり、学識云々ではないところで馬琴は爲永春水を見下していたことは、まあ否定しがたいところであろう。これもやはり時代の鋳型である。「差別はいけない」と言われ始めたのはつい最近の事。それ以前は当然ハンデキャップとは差別されるものであり、差別される罪というものもあった。

馬琴の記憶には、何時か見かけた事のある春水の顔が、卑しく誇張されて浮んで来た。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 ここに「隻眼」の含みを加えてみると、ふと「爲永」と「眼長」の音が重なって見えてくる。

彼は生來片目であつたので、通稱の次郞から眼長と綽名された。其處に彼が世に受けた輕視と親みとがあつたやうに見える。

日本文学大辞典 第2巻
藤村作 編新潮社 1934年


 最期のペンネーム「爲永、ためなが」が「眼長、めなが」由来かどうかは定かではない。ただこれまで見てきたように芥川は馬琴の廻りのことをかなり調べて『戯作三昧』を書いている。「何時か見かけた事のある春水の顔」と書いて、「隻眼」であることを知らなかったとは、むしろ考えにくい。

 しかし残念ながらこの含みはアカデミックな場所ではなかなか真面目に論じにくいところなのであろう。まあ、それはいい。

 話は九章に入る。

 和泉屋市兵衛を逐ひ帰すと、馬琴は独り縁側の柱へよりかかつて、狭い庭の景色を眺めながら、まだをさまらない腹の虫を、無理にをさめようとして、骨を折つた。
 日の光を一ぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた芭蕉や、坊主になりかかつた梧桐が、槇や竹の緑と一しよになつて、暖かく何坪かの秋を領してゐる。こつちの手水鉢の側にある芙蓉は、もう花が疎らになつたが、向うの袖垣の外に植ゑた木犀は、まだその甘い匂が衰へない。そこへ例の鳶の声が遙かな青空の向うから、時々笛を吹くやうに落ちて来た

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 よくよく考えたら、馬琴はまだ飯を食べていない。腹の虫は鳴かない。それにしても風呂屋でも家でも不愉快なことが続く。なんといっても頭の悪い相手に低く見られることほど、書き手にとって不愉快なことはなかろう。近江屋平吉、眇の小銀杏、和泉屋市兵衛。立て続けだ。ここまで『戯作三昧』は馬琴が三人の男に卑しめられる話だった。腹立ちついでにこの場面、馬琴は縁側に座るのではなく、縁側に立っているようだ。

 そして芥川はいつものように「話に詰まると景色を描写する」という手段に出る。このやり口は本人から語られている通り、話をうまく収める。芥川の景色の描写は見事だ。「領してゐる」だの「落ちて来た」だのという少しずらした表現はまさに月並みを嫌う俳句の丁寧さだ。

 彼は、この自然と対照させて、今更のやうに世間の下等さを思出した。下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩はされて、自分も亦下等な言動を余儀なくさせられる所にある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を逐ひ払つた。逐ひ払ふと云ふ事は、勿論高等な事でも何でもない。が、自分は相手の下等さによつて、自分も亦その下等な事を、しなくてはならない所まで押しつめられたのである。さうして、した。したと云ふ意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑くしたと云ふのに外ならない。つまり自分は、それ丈堕落させられた訳である。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 さていよいよ哲学が入ってた。「下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩はされて、自分も亦下等な言動を余儀なくさせられる所にある」とは荒れ果てたSNSにうんざりしている現在の人々にこそ解りやすい話であろう。今では中学生でも芥川作品を斜め読みして、脊髄反射のようなおバカな悪評をインターネットに書き込むことができる。

 現代の作家はよほど図太くなければ勤まるまい。『戯作三昧』に書かれた馬琴のようなマインドではとても持つまい。しかしまた、図太くあることとは既に下等であることと表面的にはほとんど変わらない。

 しかし天保二年だか天保三年だか解らない秋の馬琴は、「自分を卑くした」と嘆きうる程度には上等な人間であったのだ。六十四歳にもなって、そんなことが思えるとは、なかなか稀有なことではなかろうか。もっとも本当にどうしようもない人間はそもそも恥を知らない。要するに「これをやってしまったら昔の漫画やドラマでは悪役だよな」ということを平気でやってくる。そう多くはないが、そういう人を何人か知っている。それで女房子供がいるのだから恐ろしい。どうやら芥川の描く馬琴は、そういう恥を知らない人間ではない。

 ここまで考へた時に、彼はそれと同じやうな出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼の所へ弟子入りをしたいと云つて手紙をよこした、相州朽木上新田とかの長島政兵衛と云ふ男である。この男はその手紙によると、二十一の年に聾になつて以来、廿四の今日まで文筆を以て天下に知られたいと云ふ決心で、専ら読本の著作に精を出した。八犬伝や巡島記の愛読者である事は云ふまでもない。就いてはかう云ふ田舎にゐては、何かと修業の妨げになる。だから、あなたの所へ、食客に置いて貰ふ訳には行くまいか。それから又、自分は六冊物の読本の原稿を持つてゐる。これもあなたの筆削を受けて、然るべき本屋から出版したい。――大体こんな事を書いてよこした。向うの要求は、勿論皆馬琴にとつて、余りに虫のいい事ばかりである。が、耳の遠いと云ふ事が、眼の悪いのを苦にしてゐる彼にとつて、幾分の同情を繋ぐ楔子になつたのであらう。折角だが御依頼通りになり兼ねると云ふ彼の返事は、寧彼としては、鄭重を極めてゐた。すると、折返して来た手紙には、始から仕舞まで猛烈な非難の文句の外に、何一つ書いてない。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 なんだか有名作家の多くに似たような体験がありそうだ。漱石などはそうした都合の良い話にもある程度応じていたようだ。明治初期の文豪の間では、食客を置いていた者がいたことも事実だ。

我が五十年 巌谷小波 著東亜堂 1920年

 今は食客ということはなかろうが、自分の原稿を読んでくれという依頼は多かろう。
 私は有名作家ではないが、プロフィールを半ば冗談で、「ゼロフリクションBP代表クリスタル役」としてあるので、たまに「この人はワナビーで、自分の記事を読んで欲しくてスキを一つだけつけてくるのかな?」と疑うことがある。最初の頃はどんなものかと記事を読みにも行ったが、ひどく失望させられることが多くてやめてしまった。なんというか、「ある本にこう書いてありました」というところで終わっている記事が殆どだからだ。「こう書いてありました」、と書かれると「で?」と思う。「で、どうなの」と。そこから「調べてみました」というものがまず見当たらない。手持ちの材料で判断しているものが殆どで、新しい情報が殆どない。何も調べていない。そんな記事をどうして他人に読んでもらいたいのか分からない。


 芥川はここで「近い過去の記憶」としているが、おそらくこういうことはずっと繰り返されてきたのだろうと思う。長島政兵衛は芥川の創作した人物のようだが、長島政兵衛のようなワナビーは履いて捨てるほどいるはずだ。

芥川竜之介集 新潮社 1927年

 そういう人は編集者にでもなるのだろうか。しかし相州と長州を取り違えては仕方ない。

 そしてまた芥川は「耳の遠いと云ふ事が、眼の悪いのを苦にしてゐる彼にとつて、幾分の同情を繋ぐ楔子になつた」として一番いけないことを馬琴にさせてしまう。こういう手合いは中途半端な優しさを示してくれた相手を最も憎み、たちまち攻撃してくるという傾向があるということを芥川は既に経験的に知っていたのだろうか。

 自分はあなたの八犬伝と云ひ、巡島記と云ひ、あんな長たらしい、拙劣な読本を根気よく読んであげたが、あなたは私のたつた六冊物の読本に眼を通すのさへ拒まれた。以てあなたの人格の下等さがわかるではないか。――手紙はかう云ふ文句ではじまつて、先輩として後輩を食客に置かないのは、鄙吝の為す所だと云ふ攻撃で、僅に局を結んでゐる。馬琴は腹が立つたから、すぐに返事を書いた。さうしてその中に、自分の読本が貴公のやうな軽薄児に読まれるのは、一生の恥辱だと云ふ文句を入れた。その後杳として消息を聞かないが、彼はまだ今まで、読本の稿を起してゐるだらうか。さうしてそれが何時日本中の人間に読まれる事を、夢想してゐるだらうか。…………
 馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情無さと、彼自身に対する情無さとを同時に感ぜざるを得なかつた。さうしてそれは又彼を、云ひやうのない寂しさに導いた。が、日は無心に木犀の匂を融かしてゐる。芭蕉や梧桐も、ひつそりとして葉を動かさない。鳶の声さへ以前の通り朗らかである。この自然とあの人間と――十分の後、下女の杉が昼飯の支度の出来た事を知らせに来た時まで、彼はまるで夢でも見てゐるやうに、ぼんやり縁側の柱に倚りつづけてゐた。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 小説家ではないが、例えば落合陽一さんなどが同じような気持ちでいるのではあるまいか。「自分の読本が貴公のやうな軽薄児に読まれるのは、一生の恥辱だ」という感覚は私にでさえある。例えば☆一つや、否定的なコメントをつけた人は、二度と私の本を購読できないようにブロックして欲しいと本気で考えている。そういう仕組みも電子書籍でなら可能ではあるまいか。そうでもしないと、回転寿司のような気軽さで迷惑系の人が寄ってくることは避けられないであろう。そういう感覚はやはり芥川にも芽生えていたのであろう。もっと高等な読者が欲しいと。「は」と「も」の違いくらいには気が付くべきだし、「相州」と「長州」の違いくらいには気が付くべきだと。

 これは私の当て推量だが、長島政兵衛なるものは別の誰かにも同じようなことをしたのではなかろうか。そこは芥川はまだ書いていないが、フルネームで出してきたところはかなり怪しい。そうしてみると二度も手紙を書いた馬琴が徒労である。
 去年のアクセス履歴によって、新着記事に一つだけスキをしてくる人は、実は記事を読んですらいないことが解った。


 つまり七回以上記事を読みに来た素人は皆無である。長島政兵衛が未完の「八犬伝」はともかく、「朝夷巡嶋記」を読んだかどうかもはなはだ怪しいものだ。

 馬琴の寂しさというのもよくわかるような気がする。芥川もうすうす読者というもののいい加減さには気がついていただろう。殆どの人は「書いてあることを読む」という当たり前のようなことができないのだ。しかし以前書いたように書き手は基本的には善意であり、何か良いことをしているつもりなのである。基本的にはよかれと思って書いている。それは必ずしも道徳的であることとは一致しない。不道徳な毒を交えてさえ何か意味のあること、価値のあることを書こうとしている。しかし馬琴に寄ってきたものは通ぶった小間物屋、悪意しかない眇、作家をプロレタリアートにしようとする書肆、そして身勝手な文学青年……。

 もう少しちゃんとした人、例えば英国留学した文学士とか、新聞連載している小説家とか、そういう人が寄ってこないものかと芥川も考えていただろう。別に中学生は読むなとは言わない。年齢は関係ない。中学生であろうが「水滸伝」くらいは読んでいます、という人ならいい。大学生でも老人でも一人よがりのどうしようもない人は馬琴の読者になるべきではないのだ。ただ無料だからと言って、誰もが読んでいいわけではない。そこには当然読む資格というものもあるべきだろう。

 しかし現実はどうだろうか。

 みんな夏目漱石は読んだ、芥川龍之介は読んだと平気で言うが誰一人読めていなかったではないか。

 そんな悲しい話もなかろうと思うが、これが現実なので悲しい。

 どこかにまともな読者がたった一人でもいないものか、と馬琴は思っていたことであろう。いまさら自分に発句か歌を詠めなどというのは、自分の作品の中に発句のエッセンスがあることを認めない駄目な読者だと、そう馬琴は思っていた筈だ。

 それでも昼飯は出来たようだ。人生は悲しい事ばかりではない。しかしたいていの芥川作品、漱石作品でそうであるようにおかずが何なのかはわからない。食客がいなくてよかった。


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