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芥川龍之介の『奇怪な再会』をどう読むか② 脳はそんなところは見せなかった

 それにしても意識なんて実はそんなに大したことは無いんじゃないかと思う。近代文学であろうが、クラシック音楽であろうが、人間が大脳で作り出したものごとは全部ひっくるめても、一つの生命にはかなうまい。いくら大天才でも、ここで小脳から何とかホルモンを出しておくか、と生命維持に関わる仕事はできない。それは小脳任せで、大脳で命にかかわらない勝手なことを考えているだけだ。
 大抵の猫は人間より馬鹿だが、そんな猫でさえ人間が創り出すことはできない。人間はいくら賢くても精々野菜や果物の遺伝情報をいじくるくらいで、一から命を拵えることはできない。

 相当賢いのに?

 私は最近そこに非常に引っ掛かっている。

 つまり「誰がそんな設計図を書いたの?」と考えてしまうのだ。最初に眼を獲得した生き物はカンブリア紀の三葉虫だと言われている。しかしこの「眼」というもの、どうも自然発生的に出来上がったと考えるのには少し無理があるように思えてならない。しかしまあ、それでも「眼」は自然発生的に出来上がったのだろう。しかしそうしてみると自然と云うのは一番頭のいい人間よりはるかに頭がいいように思えてくる。

 何の話?

 つまり脳なんてそんなに大したことは無いのではないかという話だ。簡単にだまされるし、そんなに信用が置けるものではない。

 さて、お蓮は本名が孟蕙蓮という清国人である、という落ちをばらした後でさえ、こんなくだりには何か意味があるだろうか。

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