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小泉信三「理論家漱石」・豆腐屋の飛翔



理論家漱石

 漱石全集二十卷の中特別の興味を以て時々取り出して讀むのは、「文學論」及び「文學評論」の二卷(普及版第十一、十二卷)である。必しも此の二卷を最も愛讀するとは言へない。「文學評論」の方は姑らく措き、「文學論」に至つては、決して讀み易い、普通の意味で面白い本といふべきものではない。其主要部をなすものは抽象的推理であつて、而かも數學式に似た符號まで飛び出して來る。

 文章は、勿論漱石一流の機警にして奔放自在な評言に富んでゐるとはいへ、全體としては決して精鍊されたものだと言ひ難いし、理論體系その者も未完成の儘で終つて居り、加ふるに殆ど每頁英文の儘の引用句が出て來るといふ次第だから、寧ろ讀み憎い本だと言つても好からうと思ふ。それにも拘らず、私は度々これを出して見るといふものは、此の兩書が漱石の學者としての代表的著述であつて、著者の學者としても亦た優れた天賦が此に窺はれ、その研究の態度や思考の方法に學ぶべきものが多いと感ずるからである。(勿論此以外に、此の兩書が結局矢張り讀んで面白い本であるのだが、その理由の說明は玆には省略する。)

 右の二卷を讀んで― 實は此の二卷には限らないが― 特に感ずるのは、漱石の理論的思考を好む傾向が强く、又理論構成の力に富んでゐたことである。これは「文學論」「文學評論」以前及び以後の作物にも窺はれるところであるが、夏目さんには理論癖又は說明癖(褒貶の意を含まず)ともいふべきものが强かつたやうに見える。

 或事物または作品に對して、是非若しくは美醜の判斷を下す場合に、決して此判斷を下すことそれのみに滿足しないで、必ず此判斷の根據を省察し、分解して、或る一般的原理に由て之を說明しようとする。

 これは講演速記や評論文を見ても分かるが、夏目さんの意見が、たゞ斷片的な所感、又は漫然たる所謂印象批評の儘で述べられたことは極く稀れであつて、批判には必ず其根據の說明があり、其評論は長篇も短篇も、長いなり短いなりに、夫々首尾結構ある一の纏まつた議論を成してゐるのが普通である。

 これは藝術創作家の間に於ては一の珍しい特色であると思ふ。此の著しい傾向は天賦であるか、練習に由て得たものであるか。恐らく兩方であらう。兎に角夏目さんの書いた作物には夙くから此の理論的傾向は見えてゐたやうである。

 漱石が靑年時代(年二十三)の或夏、房總地方に遊んで作つた「木屑錄」(漢文)の一節に、海で、竿を倒にして水深を測ることを記して「水底には螺石布列し、捫つて觀るべきが如し、竿を倒まにして其深さを測れば、則ち竿を沒して水、手に觸るるに至るも、而も達すること能はざるなり」とした直ぐ其の後に續けて、「蓋潮水澄清せれば、日光下に透して屈曲す、故に水底の物浮々焉として、近きに在るが如くにして、其實は數尋の下に在ればなり」と言つたのを、子規が見て其理窟的說明を嫌ひ、之を評して、「數尋の下に在ればなりに至るまでは前段を解釋したるに過ぎずして、却て風味を減殺す、割愛しては如何」と謂つたことは先頃「木屑錄」の複製版に由て承知した。

 今偶々その洋行日記を翻へして一節を見ると、一日、船暈に惱んで船室に引き籠つた事を記して、「床上ニ困臥シテ氣息唵々タリ直徑一尺許ノ丸窓ヲ凝視スレバ一星窓中ニ入リ來リ又出デ去ル」とした後直ぐ續けて「船ハ波ニ從ツテ動搖スレバナリ」(第十六卷五頁)と言つてある。これも正しく前と同一轍に出でたもので、その長所か短所かは姑らく措き、何事も其原因を明にしなければ承知せぬ漱石の著しい特徴を示した例證になるであらう。

 同種の例は各時代の作品に亙つて猶ほ幾つも索し出せると思ふが、その最も簡短にして明瞭なるものとして此の一二を引いて置く。

 夏目さんは元來此の樣に理論的思考を好む人であつたが、倫敦留學中その思考力を更に鍛へ、蒐集された豐富なる材料の上に縱橫に之を働かして作つたノオトが上記兩著述の基礎になつてゐるのであらう。それにしても自ら顧みて羨ましく思ふのは、留學中の夏目さんの勉强である。高價な書籍を買ふ爲め、又讀書の時間を惜しむ爲め、社交を避け、極端に衣食を節して下宿に立て籠つたことなどは、日記にも書簡にも見えてゐるが、これは夏目さん一人の事ではない。或程度までは留學生の誰れの經驗にもある事であらう。たゞ夏目さんの如く、腑に落ちぬ西洋學者の言說に根本的に疑を介み、旣成のコオスを履まず、自ら新たに問題を提起して、全く獨力で自家の文學論を打ち立てようと試みたといふやうな例は珍しい。

 少くも社會科學の領域內では聞いてゐない。此方面でも無論幾多の逸才は出てゐるが、併し此等の學者の多くは、西洋大家の指導の下に、彼等の方法に依て優秀な研究成果を獲得したものであつて、夏目さんのやうに、獨立の見地に立つて、一の全く新しい學問を起すやうな企てをしたものはない。

 此の種の企ては、往々旣成の學問に不通なる獨學者に依て、極めて世間見ず的に、自己流的に試みられるものであるが、夏目さんの如く高い正規の學校教育を受け、豐富なる學殖を貯へた博覽の人が之を敢てするといふのは滅多にない事である。「文學論」や又「文學評論」が果して充分の成功であるか否かは姑らく論ぜぬとしても、少くとも此の學問上の敢爲なる試みは、それ丈けでも一の壯觀たるを失はぬと思ふ。

 誰れも御承知の事であらうが、「文學論」の序文に由ると、著者は、自分は漢學を修めることは左程深くない、にも拘らず、漢籍は充分味はひ得る自信がある。之に反し、英語の方は、深く學んだとは言へぬとしても漢學より淺くはない。それにも拘らず、英文を讀んで會心の域に達することが出來ぬ。何故であるか。これは抑も同じく文學と稱しても、漢學にいふ文學と英語にいふ文學とは到底同じ定義の下に概括することの出來ぬものであるからではないかと考へたのが事の始めだつたといふことである。

 そこで、全く方角をかへて、根本的に自力で、新たに心理學的、社會學的に文學の本質を究めようとした。これから後の數箇月が夏目さんの留學中の-或はその生涯の-最も緊張した、刻苦勉强の時代である。自らその勉强の有樣を記して「余は、下宿に立て籠りたり。一切の文學書を行李の底に收めたり。文學書を讀んで文學の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文學は如何なる必要あつて、此世に生れ、發達し頽廢するかを極めんと誓へり。余は社會的に文學は如何なる必要あつて、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり」と書いてゐる。

 さうして資力の許す限りの參考書を購ひ、購つた本は片端から讀んで傍註を施し、又必要に應じてノオトを取つた。そのノオトは「蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。」といふことである。新しい研究に突進し沒頭したことは、當時の通信にも見えてゐる。旣に研究の漸く佳境に入つた頃であらう、明治三十五年三月十五日附、岳父中根重一宛ての手紙の中に、夏目さんは自分の著述の計畫を報じてゐる。「······著述の御目的にて材料御蒐集のよし結構に存候私も當地着後(去年八九月頃より)より一著述を思ひ立ち目下日夜讀書とノートをとると自己の考を少し宛かくのとを商買に致して同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない人に見せても一通はづかしからぬ者をと存じ勵精致居候然し問題が如何にも大問題故わるくすると流れるかと存候。よし首尾よく出來上り候とも二年や三年ではとても成就仕る間敷かと存候出來上らぬ今日わが著書抔事々敷吹聽致候は生れぬ赤子に名前をつけて騒ぐ樣なものに候へども序故一應申上候」と、それから計畫の内容を記して居る。

「先づ小生の考にては『世界を如何に觀るべきやと云ふ論より始め夫より人生を如何に解釋すべきやの問題に移り夫より人生の意義目的及び其活力の變化を論じ次に開化の如何なる者なるやを論じ開化を構造する諸原素を解剖し其聯合して發展する方向よりして文藝の開化に及す影響及其何物なるかを論ず』る積りに候」而して「斯樣な大きな事故哲學にも歷史にも政治にも心理にも生物學にも進化論にも關係致候故自分ながら其大膽な事にあきれ候事も有之候へども思ひ立候事故行く處迄行く積に候」とある。

 これに由て見るとたゞ一の文學論でなくて、もつと大きい主題に就いて、範圍の廣い研究に着手したのである。全集第二十卷一五一-二三二頁に出てゐる、藏書の餘白に記された短評の中、心理學社會學哲學書等への書き入れは、主として此時代の勉强の跡を示すものであらう。「文學論」や「文學評論」(の少くも或部分)は斯る苦心の研究の結果として出來たものである。

 勿論茲には「文學論」「文學評論」の文藝論としての價値如何を評することは出來ない。たゞ前にも述べた樣に、夏目さんが理論を好み、理論的思考力に優れてゐたことが特によく此等の著書で窺はれることを言ひたいのである。

 夏目さんは個々の文藝作品を取つて極めて綿密に其構造を分解する。併し決して斯る個々の分解のみに滿足しないで、これから進んで一般的な抽象的原理を打ち立てる。抽象的原理は符號で表すを便とする。卽ち「文學論」の讀者が開卷先づ、凡そ文學的內容の形式は(F+f)なるを要す、との命題に驚かされる次第である。(說明を附け加へる迄もなからうがFは印象又は觀念の認識的要素、fはその情緒的要素を現す。)

 讀者は多分文學論の冒頭先づ數學式に出會する意外に驚くであらう。併し漱石全集が出て、容易に漱石の各時代の作物を檢し得る今日を以て見れば、これは意外でも突然でもない。夏目さんは漠然たる所感を言はないで、常に嚴密な推究を喜び、或は稍々それに耽ける人であり、頻りに定義し分類し、符號や圖表を使ふのは度々の事であつた。日記や斷片にはそれが殘つてゐる。

 だから「文學論」や「文學評論」を通讀すると、其中に夏目理論ともいふべきものが實に幾十となく打ち立てられてゐて、應接に遑なしと言ひたい位である。勿論その多くの理論の中には恐らく誤謬もあり、獨斷もあることと思ふが、兎に角其の思考力の旺盛なるには驚かざるを得ない。

 所謂夏目理論は一々例證を引いて示す譯に行かないが、玆に偶々目に觸れた一二を紹介すれば、第四篇第八章の間隔論に、讀者に幻惑(illusion)を生ぜしむる捷徑は、讀者と篇中人物との距離を時間的空間的に接近せしむるに在ると說いてある。

 これは珍しい事ではあるまいが、彼れが此理論に基づいてスコツトの作「アイヴンホオ」の中、妙齡の佳人レベツカが盾を翳して壁間より戰狀をアイヴンホオに報ずる一章の妙を說明してゐるところは夏目的分析の特色を示すものである。

 アイゾンホオは病に臥して城中の一室に呻吟してゐる。戰は酣にして敵兵は城下に迫る。レベツカはアイヴンホオの病を力めて起たんとするを强ひて止め、自ら身を挺して窓に凭り媒下の亂戰に味方の勇士の一たび倒れ復た起ち、却て奮つて强敵を倒すの狀を報ずるのである。

 夏目さんは少時此一章を讀んで終宵眠ることが出來なかつたといふ。讀んで終宵眠れなかつたといへば、それで一の評論になつてゐる。併しそれ丈けで止めるものは漱石ではない。夏目さんは必ず、何故眠れなかつたかを說明せずには措かぬ。何故であるか。彼れは說明して、それは作者がレベツカの口をして戰況を報ぜしむるの手段を取つた結果、篇中人物と讀者との距離は撤せられて、作中の事件と讀者と一團となり、讀者は作者を通じて活劇を見ず、作者は却て背後に疎外せらるゝに至る爲めであるといふのである。

 今夏目さんに從つて記を記事とし、著を作家とし、讀を讀者として三者間の間隔を圖で示すと、普通の記述は作家の媒介によつて讀者に達するのだから、記著讀となる。若し記事の性質と作家の技巧とに由て幻惑が高潮度に達し、人をして卒然として作家を忘却せしむるに至ることを得ば、間隔は縮まつて、讀となる。更に若し作家にして一人稱を以て事を敍し、作中の一人を代表して文を遺る時は、間隔は最初から記讀を以て示すことが出來る。これ丈けを頭に置いてアイヴンホオの右の一章を取つて見ると、此場合讀者は記事其者の中に闖入してとなつてゐる。否な、記事と讀者とが一團となり、讀者は著者其人よりも記事と親密になつて、却つて著者を疎外する形となるから、これを圖で示せば讀-箸なる變形を得ることになる。これが此文章の祕密だといふのである。

 素より此の變形關係が生ずるのはイリユウジヨンの爲めである。そのイリユウジヨンの發生は、これは符號などでは說明できない。これは特殊の文章の力によらなければならぬ。漱石はそれを斯う書いてゐる。「Ivanhoeの場合に在つて上圖の〓に相當すべきは城下に起る戰鬪の光景なり。·····而して此等の動靜を敍するものは著者にあらずして明眸皓齒のRebeccaなり。故に此際に於ける圖式は記讀にあらずして、記B讀となる。換言すれば作家に代ふるにRebeccaを以てして始めて相當なる圖式を得るものとす。幻惑の熾なる時讀者、作家の筆力に魅せられて、一定の間隔を支持することを忘れ、進んで之に近づき、近づいて之に進み、遂に著者と同平面、同位地に立つて、著者の眼を以て見、著者の耳を以て聽くに至るが故に著者と讀者との間に一尺の距離をも餘す事なし。而して此際に於ける著者はRebeccaにあらずや。此際に於ける幻惑は白熱度ならずや。吾人は進んでRebeccaに近づかざるを得ず、遂にRebeccaと同平面同位地に立たざるべからず。最後にR.の眼を以て見、R.の耳を以て聽かざるべからず。R.と吾人との間に一尺の距離を餘すなきに至つて已まざる可からず。然るにRebeccaは篇中の一人物なり。戰況を敍述するの點に於て著者の用を辨ずると共に、篇中に出頭し沒頭し、透逸として事局の發展に沿ふて最後の大團圓に流下するの點に於て記事中の一人たるを免かれず。此故に吾人は著者としてのRebeccaに同化する傍ら、旣に記事中の一たるRebeccaと同化し了るものなり。是に於てかIvanhoeの記事は重圓を描いて循環するを見る。外圜を描くものはScottにしてRebeccaは此圓內に活動し、內圜を描くものはRebeccaにして媒下の接戰は其中に活動す。吾人は幻惑を受けて戰況を眼前に髣髴するの結果、內圜を描くものと同時、同所に立つて覺らず。顧みれば卽ち身は旣に外圜のうちに擒にせられて、篇中の人物と共に旋轉するを見る。翻つてScottを索むれば遙かに圜外に在つて、吾人と利益を共にせざるが如く長嘯するに似たり。」これは夏目的推究の一標本と見て好いものであらう。

 勿論說の當否には議論の餘地もあるだらうが、夏目さんは、決して主觀的に、好きだとか嫌ひだとか、自分としては斯う思ふ、とかいふ言ひ方をしないで、客觀的に、斯ういふ譯で、斯うなるから是非斯うならねばならぬ筈だと、誰れに取つても通用しなければならぬ道理として其說を主張する。

 此處に其議論の特殊の强みの感じがある。玆に社會(廣義の)科學者としての夏目さんの非凡な天賦が示されてゐると思ふ。夏目さんの興味が後に他に轉じて、到頭其學者的天分を充分に發揮するに及ばずして終つたのは惜しむべき事である。煩はしいやうだが、見當り次第今一つ引けば、同じく第四篇の第四章滑稽的聯想中の駄洒落(又は口合、英語でいふpun)の價値を說明した一條である。

   此種の聯想を以て文學的價値なしとする者がある。夏目さんは必しも贊成しない。勿論これが最高の技巧だといはれない。けれども一言にして文學的價値なしとするは用ゐ易きに馴れて之を實價以下に輕蔑したものだといふ。その說明に曰く、「凡そあらゆる聯想は一方に甲あり他方に乙ありて中間に丙なる連鎖なかるべからず。今口合を以て下劣なりとするものゝ說を聽くに多く其非難を中間の丙に置くに似たり。卽ち共通性をあらはす要素の皮相的にして兒戯に似たるを物足らずとするもの比々皆是なり。去れども余を以て之を見るに滑稽的聯想に於て重要なるは中間の丙にあらずして反つて兩端に橫はる甲と乙とに存す。」これが例へば柿を說明するにトマトオの如きものといふやうな普通の聯想法と異なる所以である。

 這個聯想法にあつては大切なものは、比較が切實であつて、何人も之を拒み得ぬことにある。ところが、滑稽的聯想にあつてはちがふ。「甲を說明するが爲めに乙を使用するにあらず。甲を代表せんが爲めに感じ易き乙を持ち來るにあらず。從つて其生命は說明せらるべき甲と說明の役に當る乙とが一致せる丙の狀態の如何によつて左右せらるゝ事なく、寧ろ甲と乙の性質如何によつて其價値を定むるものなり。卽ち甲と乙が殆んど思議しがたき程飛び離れたるが興味にて、此二者をつなぐ丙の性質の如何は左程に重要ならず。從つて丙の性質頗る薄弱なる口合も亦單に丙が薄弱なりとの故を以て輕んずべきにあらず。沙翁は口合の驍將なり。」これは直ぐ首肯され得る說明であらう。

 併し駄酒落の價値の說明としては些か大仰で、これ程の構へ方をしなくても濟みさうに思はれ、それこそ駄洒落の小雞を割くに精密科學的推理の牛刀を以てすると言ひたくなる位であるが、玆に却て理論家たる漱石の面目が見えると思ふのである。

 猶ほ精細に說かうとならば引用すべき材料はまだ幾らもあるが、此邊で一先づ此小篇を打ち切る。要するに私の言ひたいのは、繰り返すやうだが、夏目さんは學者としても優れた人であつた、境遇と事情の變化の爲め、其の全力を此方面に傾けた著述を完成せずに終つたのは殘念だといふのである。

 旣に其手紙に自ら記すところに由れば、倫敦で計畫した著述といふものは、社會學心理學其他の諸科學の領分に亙つた非常に大規模のものであつたらしい。西洋學者の取次ぎを甘じない獨立の氣象と、旣に前に度々言つて來た旺盛なる思考力とを以てすれば、留學中の勉强に由て得たるものを擴充大成して歸朝幾年の後、恐らく特色ある一の傑作を世に遺したに相違ない。

 夏目さんの興味が文藝創作に移つたことを惜むのは間違つてゐるだらうが、計畫の著述が完成に至らなかつたことは矢張り殘念だつたと言ひたい。殊に前に引用した手紙の別の一節では、日本の前途を憂ひ、國運の進步と分配の不平等に言ひ及び、當時(明治三十五年)としてはまだ普及してゐなかつた、「カール·マークス」の名を擧げたりなどしてゐることを彼是結び付けて考へれば、此方面にも議論を進めるつもりだつたのではなからうか。

 著述の中止は愈々惜まれる。又ひそかに察するに「文學論」「文學評論」(倫敦時代の苦心の結果たる)は夏目さんに取つても最も得意の作だつたのではなからうか。少くも最も苦心の作であつたらう。勿論苦心と結果の良否とは別問題であるが、兎に角「猫」以後の作品にはこれ程は苦まなかつた樣に見える。倫敦で作つたノオトは「蠅頭の細字にて五六寸の高さに達した」とあるが、このノオトは今迄にまだ發表されてないものであらう。目下計畫されてゐるといふ新しい全集にはそれが收められるものかどうか、若し收められるなら是非見たいものである。

 書き終へてから、念の爲め寺田博士の「蒸發皿」に收められた「夏目漱石先生の追憶」を開いて見て、夏目さんが高等學校時代に數學が得意であつたこと、又一般科學に深い興味を持ち、特に科學の方法論的方面の話を喜んだことを承知して滿足した(三五三、三五五頁)。

 又「文學の科學的研究方法と云つたやうな大きなテーマが先生の頭の中に絕えず動いてゐたことは、先生の論文や、ノートの中からも想像されるであらうと思ふ」と書いてある。洵に私も左樣に想像してゐた一人である。

[出典]小泉信三 著『学窓雑記』岩波書店 1936年


[付記]

 三島由紀夫が死の一週間前の対談で「一番悪い奴」と呼んだ小泉信三の漱石観である。江藤淳に変な知恵をつけた人でもある。

 しかしその見立てはなかなか鋭い。「夏目さんの如く、腑に落ちぬ西洋學者の言說に根本的に疑を介み、旣成のコオスを履まず、自ら新たに問題を提起して、全く獨力で自家の文學論を打ち立てようと試みたといふやうな例は珍しい。」とあるが、今ではそもそもそのやり方は禁止されているようなものだ。

 無理にやってしまえば吉本隆明みたいなことになってしまう。

 しかし漱石は全く獨力で自家の文學論を打ち立ててしまう。

 たとえば「文芸の哲学的基礎」はおそらく「断片四十二」から始めて一から練られた独自理論である。あんちょこリストをぱらぱらめくってそれらしく拵えたものではない。だからこそ「時間、空間、数」が「通俗」に分類されているのだ。

 無論多数決でいえば人間という存在なしで、人間という主観と切り離したところで、数的世界や時間というものが外在すると考える人の方が多いのではないかとは思うが、ここにあらわれたonenessという概念そのものは一考に値する。

 そしてここに顕れた「抽象化能力」とでも呼ぶべきものに感心せざるを得ない。この「抽象化能力」でもって構成された文学論が未完成であるとする小泉の見立ては正しいだろう。この文学論は当然当時の文芸作品の一部を分解し、説明したに過ぎず、多くのものが埒外に置かれている。極端に言えば、「転生物の本質とは何か」ということまで説明できてこその文学論の感性と言えるだろう。

 無論、漱石は『こころ』という『転生したら昔のライバルがものすごく反省していた件』みたいな小説を書いてしまってはいるし、賺しではあるが『こころ』にはBL的雰囲気もあるし、BSSやNTRもある。『彼岸過迄』は「やおい」と言ってよく、かなりの先進性を以て書いたが、その理論化には至っていない。

 結局漱石の文学論は、実地で示されたと見るよりない。

明治三十九年十月九日(封書)
 二百十日を御讀み下さつて御批評被下難有存します。論旨に同情がないとは困ります。是非同情しなければいけません。尤も源因が明記してないから同情を强ひる譯にゆかない。其代り源因を話さないでグーグー寝て仕舞ふ所なぞは面白いぢやありませんか。そこへ同情し給ヘ。
 碌さんが最後に降參する所も辯護します。碌さんはあのうちで色々に變化して居る。然し根が呑氣の人間だから深く變化するのぢやない。圭さんは呑氣にして頑固なるもの。碌さんは陽氣にしてどうでも構はないもの。面倒になると降參して仕舞ふので、其降參に愛嬌があるのです。圭さんは應揚でしかも堅くつて自說を變じない所が面白い。餘裕のある逼らない慷慨家です。
 あんな人間をかくともつと逼つた窮屈なものが出來る。又碌さんの樣なものをかくともつと輕薄な才子が出來る。所が二百十日のはわざと其弊を脫して、しかも活動する人間の樣に出來てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難も尤もであるが、あゝしないと二人にあれだけの餘裕が出來ない。出來ないと普通の小說見た樣になる。最後の降參も上等な意味に於ての滑稽である。あの降參が如何にも飄逸にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが棹尾だと思つて自負して居ゐのである。あれを不自然と思ふのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めない普通の小說の樣に正面から見るからである。僕思ふに圭さんは現代に必要な人間である。今の靑年は皆圭さんを見習ふがよろしい。然らずんば碌さん程悟るがよろしい。今の靑年はドツチでもない。カラ駄目だ。生意氣な許りだ。以上。                            金
虛子先生

 この自著解題には急場しのぎのやつつけと見られがちな『二百十日』に対する相当な自負が見られる。以前にも書いたが、呑気と陽気と滑稽は意図して練られたものである。

どんな田舎へ行ってもありがちな豆腐屋は無論あった。その豆腐屋には油の臭いの染み込こんだ縄暖簾がかかっていて門口を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤めの鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。(夏目漱石『硝子戸の中』)

 この淋し気な「西閑寺」の鉦の音が『二百十日』では無暗にご陽気になる。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋があってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋の角から一丁ばかり爪先上りに上がると寒磬寺と云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦を敲く」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が強く降って、布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮って聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃と、倒れかかった山門と、山門を埋め尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗いた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」
「妙だね」
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。ざあざあと豆腐の水を易かえる音がする」
「君の家うちは全体どこにある訳わけだね」
「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」
「だから、どこにある訳だね」
「すぐ傍さ」
「豆腐屋の向うか、隣りかい」
「なに二階さ」
「どこの」
「豆腐屋の二階さ」
「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。
「僕は豆腐屋の子だよ」
「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。(夏目漱石『二百十日』)

 この「僕は豆腐屋の子だよ」は妙にアドリブ感があって馬鹿々々しくて笑ってしまうが、技術的に言うと「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋があってね」というふりを思いついた時点で決まっていた落ちだ。そうでなくては落ちない。「西閑」では「閑」の字が陽気さを邪魔するので「寒磬」にしたわけではなかろう。「磬」は打ち石のことで寒いところでカンカン叩くから「寒磬」なのだろう。

『二百十日』はこの「豆腐屋」の意味がでたらめに変化していく話だ。「半分以上トボケて居る所が眼目」という漱石の目論見通り、真面目な議論ではない。云ってみれば理屈を超えたものがある。もう少し突っ込んで言えば、理屈ではとらえきれないところ、真面目な文学論の埒外にあるものがある。結果として書かれてはいるが、こうすれば書けるというものではない。

 実践で書いていくうち、文学論では負いかねる所、言語化を拒むところに辿り着いてしまったがために文学論の完成はならなかったのではないかと私は考えている。碌さんは「三百六十五日でも七百五十日でも」と言い、『二百十日』という題なのに、「二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している」この「七百五十日」「二百十一日」「百年」にはさしたる意味はなかろう。こんな数字が理屈から現れることはなかろうし、『硝子戸の中』の豆腐屋がこんなに活躍させられるとは誰も思いつかないだろう。漱石以外には。





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