狩る快感 芥川龍之介の『猿』をどう読むか③
昨日はこの『猿』の語り手が全く信用できない冷酷な二重人格者に見えるという話を書いた。「私」「僕」「私たち」と自称する語り手は仲間が自殺したかもしれないのに平然としている。しかし解らないのはこの語り手が語っている現在の位置だ。そろそろこの人は何を語ろうとしているのかと疑問が湧いてくる。これは何のための語りなのだろうかと。
海軍士官候補生の優越、ここにはそんなところには収まらない危険なものがあふれ出している。私がすぐに思い浮かべたのは『時計仕掛けのオレンジ』のナッドサッドランゲージと剃刀(ブリトバ)を振り回す不良少年たちだ。しかし「私」は官製の狂気だ。敢えて例えるならばヒットラーユーゲントがそれに近いものであろうが、この作は大正五年のもの、ヒットラーユーゲントができるのは大正十五年。
芥川がどこからこの恐るべき若者たちのモチーフを拾ってきたのかは定かではないが、「一種の愉快な興奮に駆られるのは、私一人に限つた事ではないでせう」とは大した自信である。たしかにそういうものが(自分にはないとしても)誰かにはあるだろうと、書かれてみて思う。「私は、殆、踴躍して、艙口を駈け下りました。」という描写に捉えられた興奮はまるで自分の中にはそういうものはないと何度念押ししても、リアルに感じられるものであることは否定できない。
なんなら、
いつもやられる側にいられるとは限らない。自分はそうではないと言ってはいても、いざそういう状況になればそうならないとは限らないような、いやな不安がなくもない。ディア・ハンターにはディア・ハンターの興奮が確かにあるのだろう。狩るのが人間相手であったとして、それが圧倒的な上下の区別で仕切られた下の人間なら、ハンターはむしろ一層興奮するものかもしれないという不安は、とりあえず「私」を厳しくにらみつけることでごまかすことはできよう。
しかしどうもせせこましいコソ泥の罪が気になり、読者は奈良島に対して同情もできない筈だ。むしろこの恐るべき若者たちに非現実的なほどの残忍さを期待している?
善良な読者からは猿のような悲鳴を浴びせられた『絶歌』においても、その善良な読者の多くが求めていたものは、『午後の曳航』や『海辺のカフカ』よりも生々しい猫殺しの場面ではなく、少年の首が切断され顔面が凌辱される詳細な描写ではなかったのか。そういうものを確認してからなお一層厳しい糾弾と罵倒を中年Aに与えようという魂胆ではなかったか。
思い出しても見れば『芋粥』においてこの若い書き手は、「読者」をあからさまな善人の側に置いていた。それが多くの読者に対する皮肉であろうことも確かながら、それが皮肉である以上善人である「読者」というものがあるべきだという態度に見えた。しかしここで芥川は読者をして、この恐るべき優越感で踴躍する若者たちに感情移入させようとしていないだろうか。そしてこれまで一度もそんなことを考えもしなかった人たちに、人を狩る快感を与えようとしていないだろうか。『芋粥』においては五位をいじめる側の心の中はそう詳細には描かれない。ただ理屈で済まされていた。最後に利仁が意地悪なそぶりを見せるだけだ。しかし『猿』においては「私」だか「僕」だか「私たち」だかと自称する語り手に「一種の愉快な興奮に駆られるのは、私一人に限つた事ではないでせう」と言わせてみる。確かにそこは完全に否定しづらいところなのだ。
五位をいじめていた人たちの優越感は確かにみみっちいものであったが、官製の優越感、しかも追い詰められるべき者に向けられた優越感は恐ろしい。
猿股を履いてはいても猿と人間の遺伝子の差はほぼ誤差の範囲だ。
人間を簡単に猿と呼ぶまでの優越感に人はかくもたやすく辿り着くもので、なにかひっとした具具合に立場が逆転して狩られる側になるかも知れないなどという想像力に欠いた生き物なのだ。
それにしてもこんなことを言われれば猿にも奈良島にも言い分はあろう。この若い書き手は思いっきり意地の悪い若者を創り上げてきた。『猿』という小説のタイトルの意味はここで確定した。猿とはまずは奈良島のことで、追い詰められる者で、何故かコソ泥をしてしまった哀れな生き物に与えられた比喩だ。
まずは?
そう、正直に言えばもう私はこの若い書き手のやり口を知っている。これまでにすでにこの若い書き手の小説をいくつか読んできたからだ。だからとりあえず奈良島が猿になぞらえられていたとして、そこから何の捻りもないとは、なかなか信じられないのだ。
この信用できない語り手の官製の優越感と残酷さは正義である筈もなかろうが、猿の言い分が通るかどうかもまた不確かだ。
何故なら?
そう。
まだここまでしか読んでいないからだ。
[余談]
どうでもいい冗談に聞こえるかもしれないが、何故かジャージの下だけが無くなる。つまりジャージの上だけが五つくらいある。なんでや?
捨てた覚えはない。
しかし盗むかね、そんなもの。
ただ何かが無くなっていることは確かで、そういうことは起こりうるのだ。
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