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朝寒に太鼓敲くや縄簾 夏目漱石の俳句をどう読むか42

轡虫すはやと絶ぬ笛の音

 解説によれば「落第カ」と添え書きがあるとのこと。

 まあ、落第である。轡虫の鳴き声は笛の音ではない。弦楽器の音だ。

一例すれば、くつわむしは、日本ではがちやがちやと云ひ、滿洲ではごあごあと云ひ、南清ではこあこあると云ひ、米國ではけいちぢつどと云ふ。

蝉の研究

すわスハ
〔感〕
①突然声をかけて相手に気づかせるような時、発する声。そら。さあ。更級日記「―稲荷いなりより賜はるしるしの杉よ、とて」
②突然の出来事に驚いたり、あらためて気づいたりした時、発する声。あっ。平家物語4「―奴きゃつを手延べにしてたばかられぬるは」。「―一大事」

広辞苑

轡蟲夜討も來べき夜なる哉

轡虫夜討よすると覺えたり

一夜一夜がちやがちや近くやかましく

 子規の「轡虫」の句はこの三つ。上の二つは轡虫の鳴き声を夜討ちの準備の刀や槍の触れ合う音、或いは鎧の軋みになぞらえている。これが笛の音ではおかしい。

 おかしいものはおかしい。

谷深し出る時秋の空小し

 解説に「深い谷を出るさま」とある。

 いやそれでは「空小し」はおかしいだろう。「空小し」はまだ谷をでていないからではないのか。なら「出る時」がおかしい。

 いやこれは

谷深し小さき空を出るかな

 ということであり、

谷いてでひろごる空をながむかな

 ということなのではないのか。

谷深く夕日一すぢのもみち哉     子規

 子規はこんなふうに谷の空の狭さを詠む。流石だ。

雁ぢやとて鳴ぬものかは妻ぢやもの

 何のことやらわからない。

 解っている人もいなさそうだ。

 寺田寅彦は、後に詠まれる

蝉よ秋ぢや鳴かうが鳴くまいが

 との関連においで「ぢや」という口調ないし情緒に興味を持っていたのではないかと解釈している。

 しかしむしろ句意との関連の方がありはしまいか。要するに蝉が鳴こうが鳴くまいが夏は終わり秋は来る。

 いや繋がらないな。ここもこの句に添えられた「又始ツタ」に因縁づけて、「仮りの結婚と言えども泣かないものであろうか、妻であるからには」とまた大塚楠緒子のことを詠んだと考えられないものであろうか。

 それならば「又始ツタ」である。

 そうでないと「妻ぢやもの」がどこにも結び付かない。


鶏頭に太鼓敲くや本門寺

 子規の評点「◎」。異議なし。威勢よく太鼓が叩かれるそばで鶏頭が揺れている様子が鮮やかだ。

 子規も鶏頭の季題は好きで沢山の鶏頭の句を詠んでいる。中でも、

鷄頭の十四五本もありぬべし

 はいい。しかし漱石の句も負けていない。鶏頭は植えられもするが自生もするようである。自生する花としては思いもかけず派手めの花が咲く。それでいて案外出しゃばらない。その鶏頭の感じがよく出ていると思う。

 無論寺男も鶏頭に聞かせようとして太鼓をたたいているわけではなかろうが、迷惑そうな顔もできない鶏頭が滑稽である。

朝寒の鳥居をくゞる一人哉

 解説に大島梅屋の、

朝寒や坂上り行く我一人

 この句をもじったかとある。大島梅屋の句等どこから見つけてきたものか。何しろ解説者は大したものである。

 これも言葉遊びと言えば言葉遊びだが、漱石の句の方は鳥居をくぐる人を遠景で捉えているようで、よりわびしい感じが出ている。

時雨るや裏山続き薬師堂

 これは見たままの句か。裏山に続いている薬師堂が時雨れているよ……。

 

時雨るや油揚烟る縄簾

 解説には「豆腐屋か」とフォローしてあるが、豆腐屋に縄暖簾はなかろう。縄暖簾は居酒屋か飯屋のものだ。油揚げで飲ませる茶屋、いわゆるガールズバーのようなものであろう。

 二十八歳の未婚の男が油揚げだけ食べてどうするというのだ。

 そりゃ漱石も遊ぶだろう。

 この程度で喜ぶ人が多いな。なんか悲しい。

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