12 しつこい鴎外② 時空はゆがむ むなぐるまと極北の史伝文学 鴎外のユーモア
森鴎外の『最後の一句』の細工も近代文学1.0からは完全無視されてきた。まず元文三年は1738年であることを確認しよう。
1738マイナス1687は51。ぴったりである。天皇制というものを考えてみるとき、大嘗会が五十一年間も中断していたことの意味合いは大きい。それこそ三島由紀夫の理屈でいえば、大嘗会が行われていない期間の天皇とは一体何なんだということになる。在位三年目の大嘗会というのも妙なものだ。森鴎外はそこに目を付けたのだろう。『ぢいさんばあさん』の三十七年ぶりの再会、というのもすごいが、日本の歴史にはそういうところがあるのだと指摘したかったのだろう。
話としては以降毎年行われる大嘗会から三か月も経っているのに日限も不相立儀に付、として減刑されるゆがみが肝であろう。既に荷田春満の記録が消えていることから正確なところは解らないが、大嘗会の忌みは最長一月であろう。
それにしても森鴎外には時空をゆがめる力があるようで、長らくこの森鴎外の『最後の一句』を紹介するウイキペディアでは元文三年が1788年として50年ずらされていた。
今は直っている。とりあえず『最後の一句』は米泥棒が大嘗会で救われるというふりと落ちの構造になっている、とは書き残しておこう。いつ殺されるかわからないので。
それからどうしても『むなぐるま』については書かねばならないだろう。『かのように』から『帝謚考』に向かう森鴎外は、猪瀬直樹の『公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う 』の中では長男として、船が沈まないようにと保守の立場を貫いたものとみなされている。ただ『かのように』にしても『むなぐるま』にしても虚心に詠めば天皇制、あるいは天皇の神聖を否定するもののように読める。
実はそのことは夏目漱石も指摘していて、明治四十五年五月十日の日記には、
とまさに三島由紀夫の忌み嫌う英国のロイヤルファミリー的皇室の在り方を提案している。しかし医者であると同時に軍医という軍人でもあった鴎外は、それでは皇室がというより、それでは日本が持たないという脅威を感じていたのではなかろうか。『かのように』、『むなぐるま』を書きながら『帝謚考』、『元号考』へと向かう矛盾には、「敢えて」という言葉を挟まなければ整理がつかない。日本にしても皇室にしても持つか持たないかは我がことにあらずと言う態度が取れず、あくまで我がこととしてこだわり続けるのは鴎外のしつこさの表れである。
それから『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった極北の史伝文学についても「しつこい」と言ってよいだろう。それは「くどい」といってもいい。丹念な記録ではある。しかしくどい。
何故そんなことを書かなくてはならないのか、そこははしょれるのではないかということが書いてある。
例えば森鴎外の史伝文学にぞっこんな永井荷風に『断腸亭日乗』という一見淡々とした記録がある。しかしそこには平凡な日常の記録でしかない天気の話もあれば、永井荷風の肉体が現れた記録もある。どこで何を喰った、どんな女と遊んだと極北ではないところが表れている。『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』に関しては三島由紀夫の「鴎外にとつては、知性が無機質であるとき、感性も無機質である」という見立てが最も正鵠を射ているのではあるまいか。それはやはりしつこいのであって、だから偉いかどうかは好みの問題である。
鴎外のユーモアについてはこんな「らしくない」二例だけを示しておこう。
森鴎外というと堅物でショークなど言わなさそうだが、実はちょくちょくこんな剽げた言い回しを使っている。わざと丁寧語でふざけている。
特に大笑いするようなところではないが、どこか漱石の『吾輩は猫である』を意識したかのような戯画化もある。こんなものが乃木夫妻殉死の前にはいくつもある。普通に読めばいくらでも見つかるが、誰も普通に読まないので見つからない。
[余談]
ここにきて、幸田露伴についても書いた方がいいかなという気がしてきた。どうも幸田露伴に関する情報は求められているのに、幸田露伴を解りやすく解説してくれている人がいない。そして少しずつ、「ああ、何か調べていると幸田露伴に突き当たるな。そして案外幸田露伴は凄いな」という感覚が薄れて行っているように思う。
知の巨人と云うと例えば中村元なども間違いなくそうではあろうが、明治期の文豪においてはまずは幸田露伴であろう。それがあまりに巨人過ぎて、なかなか理解が届かないというのが現在の状況ではないかと思う。
ここにきてやり残したものがあまりにも多すぎて唖然とする。人生はあまりにも短い。
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