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12 しつこい鴎外② 時空はゆがむ むなぐるまと極北の史伝文学 鴎外のユーモア

 元文三年十一月二十三日の事である。大阪で、船乘業桂屋太郎兵衞と云ふものを、木津川口で三日間曝した上、斬罪に處すると、高札に書いて立てられた。市中到る處太郎兵衞の噂ばかりしてゐる中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衞の家族は、南組堀江橋際の家で、もう丸二年程、殆ど全く世間との交通を絶つて暮してゐるのである。

(森鴎外『最後の一句』)

 森鴎外の『最後の一句』の細工も近代文学1.0からは完全無視されてきた。まず元文三年は1738年であることを確認しよう。

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 桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中日延」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會御執行相成候てより日限も不相立儀に付、太郎兵衞事、死罪御赦免被仰出され、大阪北、南組、天滿の三口御構ひの上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。

(森鴎外『最後の一句』)
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 1738マイナス1687は51。ぴったりである。天皇制というものを考えてみるとき、大嘗会が五十一年間も中断していたことの意味合いは大きい。それこそ三島由紀夫の理屈でいえば、大嘗会が行われていない期間の天皇とは一体何なんだということになる。在位三年目の大嘗会というのも妙なものだ。森鴎外はそこに目を付けたのだろう。『ぢいさんばあさん』の三十七年ぶりの再会、というのもすごいが、日本の歴史にはそういうところがあるのだと指摘したかったのだろう。
 話としては以降毎年行われる大嘗会から三か月も経っているのに日限も不相立儀に付、として減刑されるゆがみが肝であろう。既に荷田春満の記録が消えていることから正確なところは解らないが、大嘗会の忌みは最長一月であろう。

衆議院 象徴天皇制に関する基礎的資料

 

 それにしても森鴎外には時空をゆがめる力があるようで、長らくこの森鴎外の『最後の一句』を紹介するウイキペディアでは元文三年が1788年として50年ずらされていた。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%8F%A5&diff=prev&oldid=40764980

 今は直っている。とりあえず『最後の一句』は米泥棒が大嘗会で救われるというふりと落ちの構造になっている、とは書き残しておこう。いつ殺されるかわからないので。

 それからどうしても『むなぐるま』については書かねばならないだろう。『かのように』から『帝謚考』に向かう森鴎外は、猪瀬直樹の『公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う 』の中では長男として、船が沈まないようにと保守の立場を貫いたものとみなされている。ただ『かのように』にしても『むなぐるま』にしても虚心に詠めば天皇制、あるいは天皇の神聖を否定するもののように読める。

 この車だっていつも空虚でないことは、言をまたない。わたくしは白山の通りで、この車が洋紙を稛載して王子から来るのにあうことがある。しかしそういうときにはこの車はわたくしの目にとまらない。
 わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人という語はこの男のために作られたかと疑われる。
 この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
 そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
 わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車とある物をのせた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬこともまた言をまたない。たといそのある物がいかに貴き物であるにもせよ。

(森鴎外『空車』)

 実はそのことは夏目漱石も指摘していて、明治四十五年五月十日の日記には、

 皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也。

 とまさに三島由紀夫の忌み嫌う英国のロイヤルファミリー的皇室の在り方を提案している。しかし医者であると同時に軍医という軍人でもあった鴎外は、それでは皇室がというより、それでは日本が持たないという脅威を感じていたのではなかろうか。『かのように』、『むなぐるま』を書きながら『帝謚考』、『元号考』へと向かう矛盾には、「敢えて」という言葉を挟まなければ整理がつかない。日本にしても皇室にしても持つか持たないかは我がことにあらずと言う態度が取れず、あくまで我がこととしてこだわり続けるのは鴎外のしつこさの表れである。

 それから『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった極北の史伝文学についても「しつこい」と言ってよいだろう。それは「くどい」といってもいい。丹念な記録ではある。しかしくどい。

 何故そんなことを書かなくてはならないのか、そこははしょれるのではないかということが書いてある。
 例えば森鴎外の史伝文学にぞっこんな永井荷風に『断腸亭日乗』という一見淡々とした記録がある。しかしそこには平凡な日常の記録でしかない天気の話もあれば、永井荷風の肉体が現れた記録もある。どこで何を喰った、どんな女と遊んだと極北ではないところが表れている。『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』に関しては三島由紀夫の「鴎外にとつては、知性が無機質であるとき、感性も無機質である」という見立てが最も正鵠を射ているのではあるまいか。それはやはりしつこいのであって、だから偉いかどうかは好みの問題である。

 鴎外のユーモアについてはこんな「らしくない」二例だけを示しておこう。

「好いわ。そんならパナマをお買なさいまし。」
パナマは十五円いたします。
「だつてあなたきのふ入らつしやつたお役所のお友達ね、あの方のなんぞも十五円したのでせうか。」
「大違だ。あれはあんなに立派でも、静岡パナマと云ふのだ。六円か七円位したのだらうよ。」

(森鴎外『豆腐田楽』)

 森鴎外というと堅物でショークなど言わなさそうだが、実はちょくちょくこんな剽げた言い回しを使っている。わざと丁寧語でふざけている。

 隣の間では、本能的掃除の音が歇んで、唐紙が開いた。膳が出た。
 木村は根芋の這入っている味噌汁で朝飯を食った。

(森鴎外『あそび』)

 特に大笑いするようなところではないが、どこか漱石の『吾輩は猫である』を意識したかのような戯画化もある。こんなものが乃木夫妻殉死の前にはいくつもある。普通に読めばいくらでも見つかるが、誰も普通に読まないので見つからない。

[余談]

 ここにきて、幸田露伴についても書いた方がいいかなという気がしてきた。どうも幸田露伴に関する情報は求められているのに、幸田露伴を解りやすく解説してくれている人がいない。そして少しずつ、「ああ、何か調べていると幸田露伴に突き当たるな。そして案外幸田露伴は凄いな」という感覚が薄れて行っているように思う。

 知の巨人と云うと例えば中村元なども間違いなくそうではあろうが、明治期の文豪においてはまずは幸田露伴であろう。それがあまりに巨人過ぎて、なかなか理解が届かないというのが現在の状況ではないかと思う。

 ここにきてやり残したものがあまりにも多すぎて唖然とする。人生はあまりにも短い。

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