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芥川龍之介の『開化の殺人』をどう読むか④ 精神的敗残者の後始末

 卿等にして若し当時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が帰朝後旬日にして、再び英京に去らんとし、為に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。当時の予が心境を以てすれば、実に明子なきの日本は、故国に似て故国にあらず、この故国ならざる故国に止つて、徒らに精神的敗残者たるの生涯を送らんよりは、寧むしろチヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるの遙かに慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛棄せしめ、加之予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚らしめ了りぬ。

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 大正七年の作である。なのにまるで全てが終わったかのような話だ。

 村上春樹のベストセラー『ノルウェイの森』は自身によってカジュアルティーズの話だと規定されている。それを犠牲者として訳すと飽くまで受け身になってしまう。ただ描かれていることは若い男女の恋愛である。それで何がカジュアルティーズかと冷めた目で眺めることも可能だろう。

 しかしまあ当事者にとってみればやはり「はしごを外された」「ダマサレタ」とは言いたくなる時代だったのだろう。三十七歳にもなって振り返れば、それはたしかに必死な時間だったのだろう。今更『ノルウェイの森』を読み返してみるとカジュアルティーズの悲壮感よりもむしろ隠し切れないユーモアが目に付く。

 一方敗残者の物語『開化の殺人』は家系図でも貼り付けんばかりの厳めしさで、ユーモアというか余裕がまるでない。

 ここでドクトル・北畠義一郎の言う「精神的敗残者」も冷ややかに見ればただの失恋者に過ぎない。厳しい言い方をすれば underdogだ。何を格好をつけているのかと言えるのは若いうち。本当に年老い、日々可能性を失っていく中で過去を振り返ると、なんと人生とは厳しいものかとしみじみ思う。出来る筈のことをしなかった悔いは余りにも大きい。「予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず」という過ちによって、ドクトル・北畠義一郎は甘露寺明子を取り逃がしてしまう。

 いやいや。では告白していたら甘露寺明子はドクトル・北畠義一郎のものになっていたのか。ここは解らない。いずれにせよなかったことなのだ。

 是に於て予は予の失恋の慰藉を神に求めたり。当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸次熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、一に同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。予は屡、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜行人稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。若し卿等にして予が児女の情あるを哂ずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私に従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷せしを語るも善し。

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 これではまるで「じゅりあの・吉助」ではないか。女にふられて神に縋る。素朴と言えば素朴、ありがちと言えばありがち。ただ如何にも女々しい。

 しかもこれは大正七年、芥川龍之介がまだ二十代の作である。取り返しのつかない年齢になって青春を回顧しているわけではない。まだ芥川の人生は始まったばかりで、嫁も貰っていない。確かに失恋はあった。しかし単にその体験の反映としては話が如何にも大げさすぎる。

 あるいはどうしても厳めしく、時代をつけたいらしい。

 予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日両国橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機会として、折から校書十数輩と共に柳橋万八の水楼に在りし、明子の夫満村恭平と、始めて一夕の歓を倶にしたり。歓か、歓か、予はその苦と云ふの、遙に勝まされる所以を思はざる能はず。予は日記に書して曰いはく、「予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆一肚皮の憤怨何れの処に向つてか吐かんとするを知らず。神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教へ給へり。然り而して予が妹を、斯かかる禽獣の手に委せしめ給ひしは、何ぞや。予は最早、この残酷にして奸譎なる神の悪戯に堪ふる能はず。誰か善くその妻と妹とを強人の為に凌辱せられ、しかも猶天を仰いで神の御名を称となふ可きものあらむ。予は今後断じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色鬼の手より救助す可し。」

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 何とも情報量が多すぎるのでここで少し整理しておこう。

・イギリスに留学して医者になるドクトル・北畠義一郎は鴎外のようでもあり、漱石のようでもある。
・明治十一年八月三日は古すぎる。……では殺人は開化でも信仰は江戸時代、つまり『開化の殺人』はやはり切支丹ものといって良い。
・自分が「小心」で告白できなかったくせに、秋子の結婚を神の所為にして文句を言っている。
・甘露寺明子の片足立ちはやはり和装だろう。つまり丸見えだ。
・一夕の歓を倶にして濫淫の賤貨とは柳橋万八の水楼で一体何をしてきたのだ?

 北畠義一郎が何年にイギリス留学し、医者を何年勤め、明治十一年八月三日を迎えたのかは定かではない。しかし明治十一年八月三日と言われて急に頭の中かややこしくなる。
 まず、

甘露寺明子の片足立ちはやはり和装だろう。つまり丸見えだ。

 これは確定だろう。当時北畠義一郎は十六歳、五年後二十一歳でイギリス留学、仮に留学が二年、日本に戻って医者として過ごしてきた期間が三四年だとして明治十一年の十年前には日本人は洋装ではない。明治十一年でも洋装は珍しいくらいだ。白木屋事件が昭和七年なのだ。つまり甘露寺明子は下着を身に着けていない。
 そんな甘露寺明子の「肉体」を愛してしまった北畠義一郎はド助べえと言えるのではなかろうか。

 それにしても森鴎外のドイツ留学でさえ明治十五年なのだ。先ほどの計算に殉じて北畠義一郎のイギリス留学は明治五年ごろのことという計算になり、かなり早すぎないだろうか。岩倉視察団が明治四年から六年にかけてのことなので、それ以前に長州ファイブなどの例はあるとして、イギリス留学時代がまだ当たり前ではない時代の話となり、また北畠義一郎は超エリートだったという話になる。

※ちなみに成島柳北の欧州視察が明治五年なので、やはり北畠義一郎が日本に戻って医者として過ごしてきた期間が三四年という辺りの計算は少し縮めた方がいいかもしれない。

 柳橋万八の水楼とは妓楼ではなく書画会や大食い大会が行われた場所で、「一夕の歓」とはただ楽しく酒を飲んだという程度のことかと思えば北畠義一郎の満村恭平を罵る言葉はいかにも厳しい。「色鬼」とは何をすれば言われることなのだろう。

 しかし仮に満村恭平が「色鬼」といわれるようなことをしたのなら、北畠義一郎も同じことをしていた筈である。
 これは一体どういうことか。

 予はこの遺書を認むるに臨み、再び当時の呪ふ可き光景の、眼前に彷彿するを禁ずる能はず。かの蒼然たる水靄と、かの万点の紅燈と、而てかの隊々相銜んで、尽くる所を知らざる画舫の列と――嗚呼、予は終生その夜、その半空に仰ぎたる煙火の明滅を記憶すると共に、右に大妓を擁し、左に雛妓を従へ、猥褻聞くに堪へざるの俚歌を高吟しつつ、傲然として涼棚の上に酣酔したる、かの肥大豕の如き満村恭平をも記憶す可し。否、否、彼の黒絽の羽織に抱明姜の三つ紋ありしさへ、今に至つて予は忘却する能はざるなり。予は信ず。予が彼を殺害せんとするの意志を抱きしは、実にこの水楼煙火を見しの夕に始る事を。又信ず。予が殺人の動機なるものは、その発生の当初より、断じて単なる嫉妬の情にあらずして、寧ろ不義を懲らし不正を除かんとする道徳的憤激に存せし事を。

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 柳橋万八の水楼は妓楼でもあるらしい。「校書十数輩と共に」の「校書」とは芸妓のことだ。

 それにしても商売女を呼んで両脇に抱えて俚歌を歌い、したたかに酔ったら殺されなくてはならないものなのだろうか。まあ妻帯者が妓楼で遊べば奥さんから文句を言われても仕方がない。しかし他人がとやかく言うものでもなかろう。

 それに満村恭平が相手にしていたのは二人だけだ。残りの芸妓は直立不動で、こすりまん北畠義一郎は静坐してウーロン茶を飲んでいただけなのだろうか。いやそれでは一夕の歓を倶にしたことにはなるまい。北畠義一郎も女手ぐらいは触れただろう。しかし触れたとは書かない。触れられたとも書かない。

 いや、少しくらいは触れられただろう。そうでなくてはプロ意識が低い。

 爾来予は心を潜めて、満村恭平の行状に注目し、その果して予が一夕の観察に悖らざる痴漢なりや否やを検査したり。幸ひにして予が知人中、新聞記者を業とするもの、啻に二三子に止らざりしを以て、彼が淫虐無道の行跡の如きも、その予が視聴に入らざるものは絶無なりしと云ふも妨げざる可し。予が先輩にして且知人たる成島柳北先生より、彼が西京祇園の妓楼に、雛妓の未だ春を懐かざるものを梳櫳して、以て死に到らしめしを仄聞せしも、実に此間の事に属す。しかもこの無頼の夫にして、夙に温良貞淑の称ある夫人明子を遇するや、奴婢と一般なりと云ふに至つては、誰か善く彼を目して、人間の疫癘と做さざるを得んや。既に彼を存するの風を頽し俗を濫る所以なるを知り、彼を除くの老を扶け幼を憐む所以なるを知る。是に於て予が殺害の意志たりしものは、徐ろに殺害の計画と変化し来れり。 

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 嫉妬を正義に置き換えて何としてでも満村恭平を排除しようという、青春時代にこじらせたこすりマンという狭量な殺人鬼が出来上がるさまが見えてくる。
 
 そしてここでややこしい名前が出て來る。成島柳北はたしかにジャーナリストではある。そして森鴎外が『興津弥五右衛門の遺書』を書く際に調べた『徳川実記』は代々成島家が編纂している。

 こう言っては何だが『徳川実記』などもう過去のものだ。夏目漱石ならそんなものは余程の暇人の読むものだと言いそうだ。殿様の時代は終わり、日本は開化している。『開化の殺人』と言いながら、北畠義一郎の頭の中はいかにも旧弊だ。

 これではとても開化の細君は貰えそうにない。

 〔続く〕



[余談]

 当たり前のことではあるが、成島柳北を出してくるということは、芥川は成島柳北を読んでいるということになる。『糸女覚え書き』も「霜女覚書」だけが下敷きということもないだろう。
 かりに『徳川実記』を読んで『興津弥五右衛門の遺書』書いた森鴎外に対して、こうして成島柳北を出して「森先生、僕も『徳川実記』を読んでますよ」と示していて、『興津弥五右衛門の遺書』が細川忠興の家臣であることを意識して細川忠興の妻の話を書いたのだとしたら、これはあまりにもあまりにもだ。

 成島柳北って。

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