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芥川龍之介の『南京の基督』をどう読むか① 商女不知亡國恨
何日か続けて『続西方の人』から最初の方に戻って芥川の切支丹ものと呼ばれている作品を何作が読み続けてきて、
①何故芥川は切支丹ものに拘り続けてきたのか?
②何故私は切支丹ものを避けてきたのか?
という問いが頭の中をただぐるぐる回り続けている。切支丹ものを避けてきた理由の一つには解り難さというものが確かにある。たとえば「きりしとほろ」の「ほろ」の意味、これなんか調べないで何となく感覚的に「ホログラム」の「ホロ(Holos)」、つまり「完全なるキリスト」という意味だと勘違いしている人もいるのではなかろうか。(実は私がそうだった。)
しかしここで理屈を言えば、解らないからあまり読まないということは、読んだけれど解らなかったということと同義の筈なのだが、切支丹もの中には完全に読んだ記憶のない作品もある。全集を何周もしたのに、全く記憶から抜け落ちているとはどういうことなのかは説明できないところだ。
そして改めて読み直してみて、『じゅりあの・吉助』の無茶苦茶加減はかなり面白く、理屈っぽい『西方の人』『続西方の人』に対して『おぎん』、『おしの』は切り口が鋭く、『煙草と悪魔』、『さまよえる猶太人』、『奉教人の死』、『きりしとほろ上人伝』などはお話としてよくできている感じがする。なんでこれが記憶に残らないのか不思議だ。
ただ切支丹ものとしてはこの『南京の基督』が一番有名な筈だが、私はこれも殆ど記憶していない。
?
いずれにせよ、『南京の基督』は読み返してみれば切支丹ものかどうかは別にして芥川らしい小気味良い短篇小説である。筋はシンプル。逆説的な皮肉があり、キリストが「だし」に使われていて、いくつもの引っかかりどころを拵えてくれている。
まず、ここ、
或秋の夜半であつた。南京奇望街の或家の一間には、色の蒼ざめた支那の少女が一人、古びた卓の上に頬杖をついて、盆に入れた西瓜の種を退屈さうに噛み破つてゐた。
この西瓜の種が何味なのかが解らない。
いや、そこではない。南京でも西瓜の種くらい食べるだろう。
泊秦淮 杜牧
煙籠寒水月籠沙
夜泊秦淮近酒家
商女不知亡國恨
隔江猶唱後庭花
この杜甫の詩を何故無視するのかが解らない。秦淮の話になると、まあ必ずこの詩が引用されるのに。
……そうでもなくて、
参考にしたとされる谷崎潤一郎の『秦淮の夜』が女を値切る話なのに『南京の基督』は女とタダでやる話なのだ。
二ドルでたらふく支那料理を味わい、三ドルで十七の別嬪さんを抱く紀行文を大得意に書いているのだとしたら、谷崎のその大得意が面白すぎる。その得意を『南京の基督』が罰しているところ、つまりキリストのふりをして少女を騙したところで、梅毒をうつされ、後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまったことで谷崎を脅かしているようでもあるのに、芥川の自死に関して梅毒が疑われて谷崎が長生きするという、虚構と現実がごちゃごちゃになったスラップスティックが出来上がっていることがなんとも物凄い。
そしてもう一つ。
①この少女はキリストにその身をささげたと思いこむことで梅毒が治った
②あるいは、単に人にうつしたので治った
……という結末に対する二つの解釈が現れて、いずれの解釈もキリストの非存在をものともしないところが愉快だ。
「あなたの病気は御客から移つたのだから、早く誰かに移し返しておしまひなさいよ。さうすればきつと二三日中に、よくなつてしまふのに違ひないわ。」
金花は頬杖をついた儘、浮かない顔色を改めなかつた。が、山茶の言葉には多少の好奇心を動かしたと見えて、
「ほんたう?」と、軽く聞き返した。
「ええ、ほんたうだわ。私の姉さんもあなたのやうに、どうしても病気が癒らなかつたのよ。それでも御客に移し返したら、ぢきによくなつてしまつたわ。」
「その御客はどうして?」
「御客はそれは可哀さうよ。おかげで目までつぶれたつて云ふわ。」
この迷信めいた話の通りにキリストや信仰云々は別として、単に梅毒が治ったと考えてみるとありがたい話でも無くなる。
ここまで芥川はキリストの有難さというものを徹底して否定してきた。しかし『南京の基督』はキリストに化けて罰が当たった話としても読むことができてややこしい。
細かい話があるので次回に続く。
[追記]
大正九年、七月十五日、この作品に対する南部修太郎の評に徹底して反論する手紙を書いてゐる。どうも南部は「自分の胸にアツピイルする何物かが足りない」と書いたらしい。
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