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御勉強なさい 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑱

 茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑やかに聞えてゐる。時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝に跨がりながら、それを聞きすましでもするやうに、わざと真面目な顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなつて、小さな鼻の穴のまはりが、息をする度に動いてゐる。
「あのね、お祖父様にね。」
 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然かう云ひ出した。考へようとする努力と、笑ひたいのを耐へようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、自おのづから微笑を誘ふやうな気がした。
「よく毎日。」
「うん、よく毎日?」
「御勉強なさい。」
 馬琴はとうとう噴き出した。が、笑の中ですぐ又語をつぎながら、
「それから?」
「それから――ええと――癇癪を起しちやいけませんつて。」
「おやおや、それつきりかい。」
「まだあるの。」
 太郎はかう云つて、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分も亦笑ひ出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑つてゐるのを見ると、これが大きくなつて、世間の人間のやうな憐れむべき顔にならうとは、どうしても思はれない。馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんな事を考へた。さうしてそれが、更に又彼の心を擽くすぐつた。
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんな事があるの。」
「どんな事が。」
「ええと――お祖父様はね。今にもつとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいつて。」
「辛抱してゐるよ。」馬琴は思はず、真面目な声を出した。
「もつと、もつとようく辛抱なさいつて。」
「誰がそんな事を云つたのだい。」
「それはね。」
 太郎は悪戯さうに、ちよいと彼の顔を見た。さうして笑つた。
「だあれだ?」
「さうさな。今日は御仏参に行つたのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだらう。」
「違ふ。」
 断然として首を振つた太郎は、馬琴の膝から、半分腰を擡げながら、顋を少し前へ出すやうにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音様がさう云つたの。」
 かう云ふと共に、この子供は、家内中に聞えさうな声で嬉しさうに笑ひながら、馬琴につかまるのを恐れるやうに、急いで彼の側から飛び退いた。さうしてうまく祖父をかついだ面白さに小さな手を叩きながら、ころげるやうにして茶の間の方へ逃げて行つた。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 こんな話に思わず泣いてしまう人もいるのではなかろうか。どんなに努力を重ねても「失敗した」と言われてしまう芥川龍之介という天才の人生を思い浮かべ、そして何もにもなれなかった自分の哀れさを思い、当事者ではないところから出てくる無責任な、そしてあまりにも適切な言葉の鋭さに虚を突かれて、つい心の鎧がほどけるようにして泣いてしまう人がいるのではなかろうか。
 辛抱してゐるよ、とつい真面目な声を出す馬琴の辛抱を思って見ると、確かに現代でもほとんどの人がいったんはリタイアして、年金を貰いながら働くような年齢になってさえ、まだ自分の力不足を疑いながら、その不安と格闘する老作家という姿の凄まじさが見えてくる。
 芥川も馬琴もよく勉強している。その馬琴に毎日勉強なさいと言えるのは浅草の観音様かどうかは別として、超越的存在、ミューゼ、ムーセかもしれない。成功を約束するのも文学の神であろう。

勉强をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません

漱石全集

 芥川はムーセから手紙を貰っていた。まるまる浅草の観音様である。まだ学生自分にムーセからこんな手紙を貰えたことはどんなに幸福なことであったか。そして前期高齢者になってから、浅草の観音様に励まされる馬琴のいかに嬉しかったことか。

 馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那に閃めいたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それと共に彼の眼には、何時か涙が一ぱいになつた。この冗談は太郎が考へ出したのか、或は又母が教へてやつたのか、それは彼の問ふ所ではない。この時、この孫の口から、かう云ふ語を聞いたのが、不思議なのである。
「観音様がさう云つたか。勉強しろ。癇癪を起すな。さうしてもつとよく辛抱しろ。」
 六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑ひながら、子供のやうに頷づいた。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 日々必死に格闘している人間でなければ、「勉強しろ。癇癪を起すな。さうしてもつとよく辛抱しろ」と言われてむしろ怒り出すかもしれない。これ以上何を努力しろというのかと文句を言うのは、自分にまだ努力の余地があるのにさぼっている証拠である。馬琴は爲永春水のようにお気楽に書いて見てはと誘われれば怒る。低きに流れることを拒む。だからこそもっと頑張れと言われて泣くのである。

 最も癇癪と辛抱は基本的にどうにもならないこと、つまり他人の問題をどうにかならないかと考えるから起こる問題である。しかし人間が社会的な存在である以上、時には、というよりしばしばそのどうにもならないものを相手にしなくてはならない。それは満員電車の遅延のようなもので、本来自分の努力ではどうにもならない。尿意も便意も我慢の限界があろう。人はたいてい遅延する満員電車で尿意と便意を我慢する生き物である。しかし芥川の書いているのは満員電車のことではない。

 辛抱とはおおよそ読む力のない読者に持ち上げられ、けなされ、編集者に低く見られつつ、なお、稀代の傑作、しかも大長編を、前期高齢者が書きつつける辛抱である。

 例えば「書く」という行為は基本的にどうにもならない他人に向けられる努力だ。これだけ試供品を提供していて、どういう水準のことが書かれているのかということをオープンにしているのに、わずか百円の有料記事をガンとして読まない貧乏人を相手にしていると思えば癇癪が辛抱できない。実は誰一人記事など読んでいないし、なんならほぼbotなのだと考えると癇癪も起きないし、何も辛抱しなくて済む。しかしプロの作家はそういうわけにはいかないだろう。そのどうにもならないものを相手にしなくてはならない困難さは、心のありようの問題ではなく、ただひたすらに厄介などうにもならないだけの困難なのである。

 しかし芥川は……馬琴はそういうだひたすらに厄介などうにもならないだけの困難に立ち向かうことを決意した。

 その夜の事である。
 馬琴は薄暗い円行燈の光の下で、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいつて来ない。ひつそりした部屋の中では、燈心の油を吸ふ音が、蟋蟀の声と共に、空しく夜長の寂しさを語つてゐる。
 始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のやうなものが動いてゐた。が、十行二十行と、筆が進むのに従つて、その光のやうなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知つてゐた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行つた。神来の興は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまふ。……
「あせるな。さうして出来る丈、深く考へろ。」
 馬琴はややもすれば走りさうな筆を警いましめながら、何度もかう自分に囁やいた。が、頭の中にはもうさつきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 決してどうにもならないことではないが、自分では完全にコントロールできないものの存在を感じながら書くという経験に関しては、さまざまな書き手(や音楽家などの多くの芸術家たち)がさまざまに表現してきた。砂糖をかじったり、コーヒーを飲んだり、酒を飲んだりと、様々なやり方が試された。現在ではスマートドラッグというものが売られている。スマートドラッグもいくつか試してみたが、カフェインほどの効果は感じられなかった。

 芥川がここで「神来の興」と呼んでいるもの、それはミューズと呼ばれるものと同じであろう。それはたまに降りてくるが、降りてくるとも限らないものである。村上春樹はそれを「地下室に降りる」と反対向きに表現するが、多くの人は「天から降りてくる」と感じ、そう表現している。

 それはおそらく癇癪からは生まれないものだ。ドストエフスキーのような癲癇性の天才ならば、その「神来の興」は内在的で爆発するようなものであったであろう。規模は違うかもしれないが森田草平が『煤烟』で書いたのも、同じタイプの「神来の興」であろうか。どうやら芥川が経験上知っているそれは、「火と少しも変りがない」「星を砕いたやうなもの」であり、流れていくものであるらしい。そしてそれはやはり家族のいないところにしか現れないものなのだ。私にはそういう経験がないので何とも言えないが、表現の違いはともかく、全員が嘘をついているわけもないので、脳内で言語感覚が覚醒する際に特有の「何か」が感じられることはあるようだ。

【かすかな光のやうなもの】次條「神來の興」をさす。これから書き起さんとする意匠のひらめきを形容した。
【神來の興】シンライのキヨウ恰も神から與へられたやうな靈妙不可思議な感興。

醇正国語 : 教授参考書 3学年用


醇正国語 : 教授参考書 3学年用

「神來の興」と云ふのは、目に映り、心に感じたことを、じつと噛みしめるやうに思ひ究めてゐたならば、そのうちに急に四邊が明るくなつて、闇に光が射し込んで來たやうに何か得るものがあるに違ひない-と云ふのでありまして、神來の興と云ふものは、さう云ふ時に感じられるのであります。神來の興さへ感じられるやうになれば、歌はおのづから作ることが出來ます。しかしさうなるには、やつぱりそこに、强い信念がなければなりません。


短歌入門
吉井勇 著誠文堂 1932年

 そういうものがあるにはあるとして、それを頼まないという人もあるにはる。

この點で私は、神來の興とか、インスピレーシヨンとかいふやうなものに、或る時代、あまりに賴り過ぎてゐた。神來の興といふ言葉は、一種の譬喩であるのを、文字通り解釋したところから起つた過ちである。

短歌詞章
半田良平 著人文書院 1937年

 夜に書いたものを朝読み直すと恥ずかしいという程度のもののきっかけを「神來の興」と呼ぶべきでは無かろう。

通俗新文章問答 日本文章学院 編新潮社 1913年

 同じようなものであっても、人によって明らかにレベルが違うのだ。馬琴や芥川の「神來の興」は馬琴や芥川の中にしか現れないものだ。少なくとも私は「星を砕いたやうなもの」を感じたことは一度もない。ここも芥川はそのこと、つまり常人との差を強調していないだろうか。「星を砕いたやうなもの」を感じた人がもしも存在したとするならば、多分その人はただの癲癇である。

 このようにして芥川は何度も線引きをして、牽制し、試して、読者と距離を保とうとしている。それは癇癪の仕返しでは無かろう。つまり何の嫌味でもなく、単なる事実として、そういうレベルではないところに馬琴はいて、自分にこそその正体が見えているのだと言いたいのだ。

 では読者には何か救いが用意されているのか。それはまだ誰にも解らない。何故ならまだその先を読んでいないからだ。

[余談]

 今でこそチェーンが正解だが、いつまでも正解が見つからないで試行錯誤するという事がある。

 どうしたら正解に辿り着けるのか?

 試行錯誤ではなく、


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