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凩やうんこが出れば大丈夫 芥川龍之介の俳句をどう読むか91

凩や薬のみたる腹工合

[大正十一年十二月十七日 真野友彦宛]

 即興とある。どういうわけか俳句一覧から漏れているように思われる。この時芥川は「神経衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸昂進」と自分の症状を報告している。凩云々の句ではない。

 こんなものはただくっつけただけだ。

小春日やドングリひらう老婆かな

 さっきそんなものを見た。小春日だからドングリを拾わなくてはならないわけではないが、暖かいから外に出て、暇だからどんぐりでも拾っていたのだろう。こうして少しはちなむのが句というもので、凩と腹具合は離れすぎている。

小春日や老婆亡くなりおかたづけ

 これもさっき見てきた光景だ。近くのワンルームマンションに廃棄物処理のトラックが横付けされて大量の衣類や何が運び出されていた。衣類の種類からして亡くなったのは老婆であろう。小春日と孤独な老婆の死は無関係だが、こんな小春日に一つの人生がごみとして処理されていくのだなという何とも妙な感じがした。これが「凩や老婆亡くなりおかたづけ」だとなにかすさまじい。

 さ、次へいこう。

からから焼き一七一ノート914. 1200500758220 V25519とん67 6 8 L 9 2ヤ3 2 1 50 6 8 L 9〓
ひと竹桃を漬無至(ままン25·HS 9.116
911はし書き昭和十一年八月出版した私の第一隨筆集「人犬墨」に次ぐ第二の隨筆集が是であります。そして、その多くは昭和十二年以來、諸雜誌からの需めに應じて執筆したものの中から、選んだのであります。月刊雜誌は日限がありますから、何時でも忽卒の間に書くのが常で、注意はしても怎うも杜撰奔放に流れ易く、字句や文章を練る暇がありません。したり加筆しなければならぬと思ひながら、本にする場合には、それがまた實行されないのです。改訂
思ひます。その儘にといふことになるのでせう。ることにしました。猶五月出版した句集(薇)は、だから、ときの氣分が大切です。一體隨筆といふものは、無理かも知れませんが、若しこの氣分が壞はされたら書けません。少部數の非賣限定版でしたから、さういふことにあまり拘泥せずに讀んで戴きたいとひと樣のことはいざ知らず、私には下手なくせにそれを書く此の集の後に添載すこれが字句や文章を書能芥川龍之介と書畫··井月の追憶と春の句富忘れ得ない彫刻家正樂が月岡たの鐵寸床齋言り紀元二千六百年十一月目次り五二三七三二〇三一少部數の非賣限定版でしたから、著者此の集の後に添載すき書しは
次目性畫梅花北書齋の額と床の懸けもの置物:御寢乞食井月と夏秋つく芋山支幣とそ雨時と萱のさ俳びば炎句れ文れ草熱水ん、新體制と邦畫河佛長岸田劉生氏の東西の美術を論じく朱元の寫生畫に及ぶ脇童さ差忌畫しめ温支那南畫大成完成の寸感··俳句三代集への期待初泉冬吹漫雪筆く幣と時そさとさ俳び雨(鏡花泉先生の追憶)ん、一六五一三、一一〇一四八一四六三日ニ元壹三三、三三元一二五111八九八三七四太츠3次目2
薇薇(句集)ニ元の後記一八六目次能樂寸言なに能の話をしろと僕はあゝいふ完成せられた、進步といふことのない傳承の古典藝術については、何も云ふことがない。强ひてといふなら、唯、根本的な傳承について一言ぐらゐないこともない。まあ能樂師といふものは、云はゞ莫迦かほんとに偉ら者でなくてはなれない。譬へば禪宗の僧のやうなものだと思はざるを得ないのだ。あゝいふデリケートな古典藝術は、幼時から仕込まなくてはならないのは云ふまでもない。そして漸々に鍛鍊の度を加へ、撓まず精進に精進を重ね、遂に高度の練達を必要とすることは、旣に古來行はれてゐることだが、然し現代は、も少し合理的な育成法にI
よるのが更に効果的ではなからうか、勿論學校以外のことである。次には體格·體力の問題だが、能樂師には能樂師に適した體格と體力の養成保護の必要がある。若しこれを等閑にしたら、鍛鍊途上に支障あるばかりでなく、畢竟完全な能樂師たることは覺束ないであらう。まづ手近かなところでは、飮食物の注意、品行の嚴守等、體力保持に必要な條件の勵行である。能樂師は常に頭腦の溷濁を防ぐために、肉體の攝養のほか精神の修養が必要である。卽ちあのデリケートな藝術の演技者が、人格の修養をなほざりにしたら、技藝大成上良い影響はないであらう。最後は能樂に關する學文の修得はいふまでもないが、猶、時代文學·歷史·地理などを修得する必要があらう。斯ういふことが略ぼ完全に綜合調和せられたとしたら、こゝに理想に近い能樂師が出來るであらう。そしてかういふ能樂師が出現してこそ、始めて創始者や古名匠の魂に通ふやうな演技の實現が可能となり、斯くてこそ我邦の貴重な古典藝術の傳承者といふこ2猶、時代文學·歷史·地理など能樂寸言能言寸樂とが出來るであらう。(一一、二) 3
忘れ得ない彫刻家今は文展彫刻の審査委員として高名な横江嘉純氏が、大正の初め田端の藍染川べりの一小破屋に、肺を病める重患の夫人と四五歲の可愛らしいお孃さんの三人、いとも佗びしく住んでゐられたのであつた。私は當時醫者として時々お見舞ひしたものである。横江氏はその容貌の示す如く溫厚篤實、靜かな落ちつきを持つた人だつた。殊に駭いたのは炊事洗濯は云ふに及ばず、看護は勿論お子さんの世話まで唯獨力でやつてゐられ、その愛情に充ちた溫雅な態度を一度もくづされたことがない。然も僅かの時間を得て帝展出品の製作に從事せられ、距離家刻彫いな得れ忘のある他人のアトリヱへ通つてゐられた。病夫人は非常な重態にも拘はらず、旣に解脫の境界にでもあるが如く、よく夫君の命に柔順なばかりか藝術家としての夫君を理解され、帝展製作に苦心しつゝある夫君に對し時に激勵の言葉さへあるといふやうなわけだつた。お孃さんも稀に見る怜悧柔和な兒で、一度も泣いたりむづかつたりしたところを見たことがない。チョコナンと行儀よくかしこまつてご飯を食べたり、母君の枕元に靜かにかしこまつてゐるところを見て、幾度泣かされたことであらう。私はこの重態の夫人と兒女を擁して何のこだはりの表情をも見せない溫和そのものの主人の態度と、この不幸なる一家に春風を感じて、つく〓〓横江氏の人となりに敬服せざるを得なかつた。その後幾ばくもなく夫人は愈危篤に陷ち入つた。時しも帝展の鑑査が始まつた。横江氏はせめて家內の存命中に出品作の當落を知りたいと云はれるので、私は幸ひ近き處に住まはれ且つ懇意だつた審査委員北村四海氏にその實狀を告げ、發表前だが特に內定で家刻彫いな得れ忘5
もしてゐるなら知らせてほしいと賴んだところ、横江氏なら確かに入選と決定してゐると知らせてくれた。そこで直に横江氏に知らせると當人の喜びはさることながら、それにも增して危篤の夫人の歡びと滿足の表情は、今猶忘れることが出來ない。たしか翌々日公表があつてから、いとも滿足げに安らかに永遠の眠りにつかれた。この時横江氏の初入選の記念すべき作品は、たしか「山番」といふ頑丈な老人像だつたと記憶してゐる。○北村四海氏は、帝展陳列室で「かすみ」といふ大理石の裸像の自壞で有名な彫刻家だつたが、私より幾分後れて明治の末田端へ家を持たれた。そして間もなく診察に行つて肺患のあることを知つた。巴里で始めて咯血したこと、歸朝してからも三四回あつたなどと話された。それから二ヶ月ぐらゐ過ぎたと思ふころ大咯血があつた。止血が中々困難だつたが、怎うやら完全に止めることが出來た。その喜びの記念として、既に製作して非常に愛し6家刻彫いな得れ忘てゐられた得意のマーブル刻の男の小兒の眠つてゐる胸像を贈られた。この像は永い間田端の診察室に飾つてあつたが、今は草庵の玄關の本箱の上に、らず可愛らしい眠りに就いてゐる。家刻彫いな得れ忘相變(一五、九、三7
8富岡鐵齋私は最近三十年住みなれた田端の家を、望む人のあるのを幸ひお讓りして、とり敢へず中央線の吉祥寺へ假寓したのだが、假寓といふものは怎うも落付きかねるので、何處ぞへ寸地を求めて草庵でもと思つたのだが、さて時節がらと懷がらとで思ふやうにもまゐらず、まゝよ場所さへ靜かなら古家も結構と、新聞廣告に釣られて處々をうろついてみたが、さて我々に適當な家などといふものが、さうたやすく見つかるものでないといふことを發見した。ある日もやはり新聞廣〓から帝都沿線の高臺に在る新築の家を見に行つた。これは我富岡鐵齋これは我富岡鐵齋我には少々不向の家ではあつたが、場所が非常に佳いので一寸ひかれた。併しお値だんの關係で談判不調に終つたのである。それは兎にかく、この家の客座敷の床にかゝつてゐるのが鐵齋筆紙本半切淺経山水でこれはと思つてよく見ると、まつかな僞物でがつかりした。裏座敷の方へ行くと奇當高士の紙本橫物で、これがまた鐵齋の下手な僞物といふわけだ。よく〓〓鐵齋の僞物好きな人もあるものだと思つたら、何でも造營中何か手違ひが出來してといふ曰くづきだつなこれが鐵齋の隨筆を書く動機といふわけではないが、さりとてさうでないとも言ひかねる。今年の秋上野で開催された寶塚〓荒神百錬會の展觀は、近ごろ鐵齋の鑑賞上洵に有意義な會であつたに違ひない。それかあらぬか鐵齋に關する洋畫家などの說話が非常に賑はしく、あらゆる角度からの批評は眞にめざましいものであつた。私は試みに南畫鑑賞などで一讀してこれはと思ふ批評のうちから、その骨子の意味の一部分を簡單に拔粹させて頂くことにした。これは一寸狡い仕方のやうではあるが、一瞥ほゞあゝいふ方々の併しお値だん9
稍や誇賛に過ぎはしないであらうかと思ふ鐵齋の人と藝術の奈何なるものであるかを知るに便利であると同時に、備忘的な効果もあらうとの考へからである。唯憾むらくは、殆ど洋畫家の批評に限られてゐて、有力な日本畫家特に南畫家の意見が絕無だつたといふことである。鐵齋は勿論主として支那畫から學んだところの所謂南畫家と稱せられる畫人である。然るにその鐵齋を評する新進の洋畫家の方々に、失禮ながら支那畫について一體どの程度の知識をもつてゐらるゝかゞ疑問である。だから要するに洋畫家の鐵齋觀といつたやうな感を免れぬ。ある人は色彩のロマンテイークといふことから-セザンヌの色は鑛物的に冷い。鐵齋の色は溫かい。ゴーガンの色は豐かで澁い。然し鐵齋の色はもつと絢爛で深みがあり詩的である。そしてあの逞しい寫意のレアリズムの線がこの神祕を裏づけてゐる。要するに鐵齋の藝術は自我に徹し生に徹して到り得たものである。とまたある人は- 10富岡齋鐵富齋鐵岡彼は身の程を知つて自分自身を成し遂げた偉い藝術家である。殊にあゝいふ高齢まで生きても、霞を喰ふやうな仙人めいた虚脫味に陷らず、飽くまで肉を喰つて生きてゐる人間の强さと、藝術家としての立派な態度を失はなかつたことである。併し倪雲林のやうな悅びを高邁なものに變へずに、鐵齋そのまゝを出してゐるところを見ると、惜しいことにほんとに高い畫業をなしとげなかつた人だと考へざるをろを見ると、惜しいことにほんとに高い畫業をなしとげなかつた人だと考へざるを得ない。とまたある人は-我々のやうな西歐的〓養の上に作られる知性と、それと全く異つたものが感じられたら驚嘆するかも知れない。鐵齋はそれがありさうに思はれる。私が鐵齋に愕くのはあの塗りまくつた無茶苦茶さにある。とまた巴里でパスキンといふ畫家は-彼は支那的でも日本的でもない。つまり鐵齋的であり、だから世界的なのだ。仕事がスランプになつたとき鐵齋畫譜を見ると新らしいエネルギーが湧く。」といつとと11
てゐたさうである。またある人は-鐵齋の藝術は風雅にも風流にも無頓着に、體當りで解決をつけてゐる。卽ち日本的美意識に當嵌らない、腹一ばい食ふ野暮で露骨な肉體的日本離れのしたものだ。支那の南畫には斯ういふ作品が少くないが、これは恐らく大陸的の感化で、太古の日本人の氣禀の間歇遺傳が彼によつて現はれたのかも知れない。とまたある人は-鐵齋の畫には西洋畫に見るやうな質量感を持つてゐる。洋畫家は近代西洋の繪畫から來た直接間接の影響だらうと見てゐるやうである。また翁は確かに傍若無人であるが、自分では意識しない素朴な處まで達してゐたらしい。とまたある人は-現畫壇に「鐵齋こゝにあり」と大胡床をかき、大膽不敵傍若無人に振舞つてゐる。翁の畫は畫道の異端かも知れぬが、少くも南畫の眞髓を體得した無手勝流で、畫統12と富岡鐵齋を云へば苦瓜和尙あたりであらう。兎にかく西洋畫にも注意されたさうであるし、あの學東西に亙り識古今を貫くといふべき博大な心情に負ふところであつたであら50また鐵齋の隷書は錢小虎の直傳といふ長崎の篆刻家小會根乾堂或は〓水伯民あたりの崎陽印人の影響から來てゐるらしい。とまたある人は-鐵齋は彼の先輩であり先驅者であつた山中靜逸卽ち信天翁の全部とは言はぬが、その心持ち、構圖、題材等殆ど信天翁の後繼者と言つても決して過言ではない。といつてゐる。またある文藝家は-鐵齋の展覽會であの八十代がなければ退屈に終つたらう。この畫家は長命して大器晩成する素質だつたやうだ。實をいふと晩年圓熱した作ではよほど違つて來てはゐるが、それでもやはり意氣組に繪畫的達人より人間的達人が目立ち、「これでは怎うか」といふ聲が繪の裏から掛つて來るやうでなじみ切れなかつた。一體見てゐれ齋鐵岡富そ13
ば見てゐるほど深くなつて行く繪といふものは畫家が對象を解釋しつくすことの畏れを知つた畫で、解釋しつくしたやうな顏をしてゐないあの餘韻-そこに繪としての無限の味はひがあるのではなからうか。とまたある人は-鐵齋の畫境は東洋特有の線の感情から生れ、その技法もすべて鐵齋特有の勁い意志的な線の骨氣が發展してそれを支持し高調してゐる。彼の表現は表面的なものにこだはらずに、內面的に向つて心眼を働かせてゐる。とまだある人は-京都のやうな地に鐵齋如き向ふ見ずの畫人の出たことは面白い現象だ。卽ち綺麗な繪の多過ぎる京都にあのうすぎたない繪は反て意外な人氣に投じたものと見える。尤も繪の醜美などいふことは決して藝術の本質に拘はるものではない。要するに彼の藝術は表面的な美醜を超越した、卽ち一貫する圖太さ大きさ力强さ、小事にくつたくするところなき一つの遊心、さういふものが職業的畫人が夢想だもしなかつた14と富岡鐵齋心境の現はれであらう。とまたある人は-鐵齋の作畫態度はある心の要求から自然に生れたもので、傑作をつくるとかさういふ心境地とは違ふのである。そして年をとるほど若々しく輝いて來てゐる。かういふ畫家は我國では古今を通じて稀であらう。これは壽を保ち永い努力をかさねられた結果、心靈にも技巧にも融通無碍な境に入られたものと考へられる。とまたある人は-鐵齋の畫は胸中畫に違ひない。鐵齋は勤王家が本職で畫は副業だ。これは彼の畫を輕んじて云ふのではない。これが本當の文人畫家なのである。鐵齋の勤王家は鐵齋の欝勃たる精神力の然らしむるところでありこれに畫業が隨つてゐるのである。欝勃たる精神力が留守になれば副業がすぐそこへ坐つてくる。鐵齋はこの精神の手足のやうに畫を使役してゐる。これが鐵齋だと思つてゐる。鐵齋の畫はそれがあまり露骨で茶がけにならないだらう。床の間へかければあばれるだらう。然しさういふ齋鐵岡富と15
畫家もないと寂しい。とまたある人は-彼は精神主義的な後期印象派の作家と同じやうに獨特の技法を發揮し、更に藝術家の素質さへあれば、初心でも見られる畫が出來るといふことを知らせた點で印象派と共通してゐる。またある日本畫家は-あれがほんとの南畫といふものだらうか、怎うも出鮮目とよりほか思はれぬ。と斯ういふやうに擧げて見ると、どの說にもそれ〓〓尤もらしいところがあるから妙である。そこでこの人々の鐵齋觀からその共通點を捉へて見ると、まづ第一强いといふことである。ところでこの强いといふことは體力的の强さと精神力の强さとから來たものだと見るのも一致はしてゐるが、藝術的精神力の强さのほか勤王家として或は英雄的精神力の發露と見る向きもあるやうである。そしてこの强いといふことは、云ふまでもなく藝術表現の總てに亙つて意力的に强いといふことも一致してゐるやうである。と16と富岡鐵齋く富岡鐵齋第二の共通點は自我的であるといふことである。この自我的も高く深く謂ゆる徹した自我と見る向きと無茶苦茶と見る向きがある。勿論徹した上の無茶苦茶とすればいゝ意味の無茶苦茶で、徹し切つた境涯卽ち聖なる境地といふことになるのだが、そこまでではなく否寧ろ傍若無人、言を換へれば人を喰つた境地と見る向きもないではないやうであるが、當人はそれすら無意識らしいといつてゐる人もある。第三は畫道の苦勞人といふことである。これは各流派の畫をやり、畫道の酸いも辛いも嚙み分けた結果といふことであるらしい。第四は博學といふことで、これは有名なだけに知ると知らざるとを問はず是認するところであるらしい。第五には天才と見る向きも相當あるやうだが、中には惜むらくは天才でなかつたから、あの程度に終つたと言つてゐる人もある。第六の共通點は日本南畫界の大家であるといふことだが、これは勿論異存はないやうである。大體の共通點を擧げるとこんなことらしいが、各人に就て云へば各人みな異つてゐるのみならず、パキスンといふ西洋畫家は世界的とまで賞揚してゐるさうである。一體西17
洋畫家に大もての鐵齋ではあるが、その西洋畫家の中にも、あゝいふ畫家もないと寂しい-程度にあつかはれてゐるのだから面白い。ではおまへは鐵齋を怎う見るかと問ふ人があれば、鐵齋と同じやうに何も知らんと答へたい。だが强ひてといふなら何はさて措きこれを云ひたい。それは小杉未醒著「大雅堂の中に、-富岡鐵齋曰く、大雅堂は無學故、畫品高からず、と云つたと編者の友人が話すを聞いた、と書いてゐる。そして小杉氏は、鐵齋などはさだめし大雅を好んでゐるかと思へば寧ろ大雅などより竹田を擧げてゐた、と不思議らしくいつてゐる。私も實はこれを見て小杉氏と同感だつた。いつだか忘れたが、橋本關雪氏の文章の中に、大雅の覇氣が卑しい、と書いてあつたことを確かに記憶してゐる。して見ると鐵齋の曰くはまんざら嘘ではないかも知れぬ。若しこれが眞實だとすれば、小杉氏の所謂片意地ぐらゐで笑つておけないやうな氣もする。鐵齋は洋畫家ではない。勿論東洋畫殊に所謂南畫系の畫人だと思つてゐる。果して然らば、大雅は無學だから畫品高からず、など放言するところを見ると、支那の謝赫·張玄遠以來有名な六法の第一義など怎う思つてゐたあゝいふ畫家もないと寂しIS富岡鐵齋富岡鐵齋であらう?せい〓〓董玄宰の所謂萬卷の書ぐらゐなところだつたかも知れぬ。私は鐵齋の畫は藝術として石谿和尙や苦瓜和尙などには及ばんが、吳昌碩あたりより良いかも知れんと思つてゐる。あの大膽にして奇拔なところが好きでもあり、面識こそなかつたが、人物も中々博學だつたらしいから、勿論尊敬はしてゐたのである。併し鐵齋に對する感想は何といつてもやはり長生きするものだといふことと、勉强しなければ駄目だといふことである。-尤も唯の糞勉强は莫迦の骨頂で、何か時流に超出した人の意表に出るやうな奇拔な方面に精力を注ぐ注がぬが、天才と凡才の別れ目であるらしい。勿論それがわかつて實現出來れば誰でも天才になれるのだが、(一二、一二、10.瓶史)い。10.瓶史) 19
20正月の床私は狩野派のものには緣の薄い方なので、所藏も僅か二三點に過ぎませんが、正月の懸け軸は探幽の墨畫の壽老ときめてゐます。之れは尺五絹本金襴表裝の時代的古色を帶びた、どつしりしたものです。一體私は、どちらかといへば南畫や俳畫などが好きで、平常は多く斯ういふものを懸けてゐるのですが、併し正月は活け花その他周圍の關係からも、この軸でなくてはしつくり納まりません。怎うも傳統的日本建築の座敷の床の正月懸けは、何といつても狩野あたりのしつかり所藏も僅か二三點に過ぎませんが、正月の之れは尺五絹本金襴表裝の時代的古色を帶正月の床何といつても狩野あたりのしつかり正月したものが、動かぬところではないかと思ひます。山房にはこの探幽と離すことの出來ない置物があるのです。これは蓬萊の形をした靑黑色の自然石なのです。これは三十數年も前に家內の父が酒匂の磧から拾つて來たもので、その當時こそ少しは愛玩されてゐたものらしいが、父歿後は何時となくその存在を忘却され、踞りのいゝのと相當の重量を持つてゐるといふことから、漬け物の重石として重寶がられてゐたのを、偶と私が發見して持ち歸り、試みに黑檀の薄板の上に載せ、今は故人となつた鑄金家野上龍起氏から貰ひ受けた龜を添へてみると、中々趣き饒かな蓬萊嶋が出現したのです。この探幽の壽老と自然石の蓬萊との諧調が、貧しい草堂の一間床を、いやが上に初春らしくするのです。これは蓬萊の形をした靑床貧しい草堂の一間床を、いやが上に初春(一二、一、茶わん) 21
22井月の追憶と春の句井月も大分古くなつて、私の感興から追々遠いものになつて來たが、それでも人から聽かれたり短冊の鑑定を賴まれたりすると、また思ひ出さゞるを得ないのである。先日も小石川の長瀨といふ辯護士の方が井月の短册を二枚持つて來たが、どれもひどい僞物だつた。井月も東京で僞物の短冊が出來るやうになつたのかと思ふと、何だか變な心持ちにもなる。この正月もある人から、井月の出處はまだ訣らぬかと聞かれて、何とも挨拶に困つたのだつた。勿論越後の長岡といふことは疑ひのないことでありながら、それ以上怎うし句の春と憶追の月井ても訣らん。これについては前年來諸方面の方々が非常に力を盡して下さるのみか、舊藩主の牧野子爵にまでご迷惑をかけたにも拘はらず、依然得るところがないのだつた。訣らん人間も隨分あるであらうが、明治二十年頃まで生きてゐた人間であり、然も場所まで訣つてゐながら、出た家も身分も全く訣らんといふのだから、よく〓〓訣らん人間といふほかはない。こんど俳句研究から特に井月について何かとのことで、うつかりお引きうけしたのだが、井月については旣に不完全ながら全集まで出來てゐるし、私としても別に新しい材料を得てゐる訣でもないからとは思つたが、折角のことでもありかた〓〓、彼の思ひ出と俳句の若干とを載せて戴くことにした。尤も思ひ出といつたところで、實は私の身邊雜記みたやうなもので、井月は一寸顏を覗かすだけに過ぎないといふことをお斷りしておきたい。句の春と憶追の月井○私が九歲か十歲頃のことである。私の家から程遠からぬ宮坂田甫の中に、當時遠州屋23
といふ一寸有名な酒造家があつた。この酒屋に原田定治郞といふ一つ年下の極く仲のイイ友達がゐた。二人は學校から歸ると天氣さへよければ、天龍の川原へ雜魚狩りに出かけるので、人呼んで河童といつた。この河童がある夏の日曜の午後、天龍川原の田甫の溝から中ぐらゐの龜の子を一つ捕へて歸り、まづ酒を飮ませて見ようではないかといふので、大茶碗に酒をたゝへて持つてきた。試みに口を持つて行つてやればこれは奈何なこと、龜の子は飮むどころか厭やがつて逃げようともがくのだ。そんな筈はないとばかり頭を酒の中へつき込めば、死にもの狂ひに苦しむばかりで一向に飮まない。龜も人間のやうに酒の厭ひなやつがゐるかも知れないなどと云ひながら、口を割つて酒を注ぎ込んだりして惡〓の限りを樂んでゐた。すると、いつのほどからか店さきで飮んでゐた井月が、いつものぼろ姿にいつもの振り分けを肩にして現はれた。そして何か訣りにくい底音で、-さういふ無慈悲なことをするものではない、イヽ兒だから逃がしてやりなさい。といふ意味らしいが、井月坊24句の春と憶追の月井主のいふことなんか耳にも入れず、なほ執拗に弄んでゐるところへ、島渡酒の檢査にでも來てゐたのであらう、豆腐の叔父さんこと部奈といふ收稅屬がやつて來て、これも井月と同じやうなことをいふから、しぶ〓〓その龜の子を井月に吳れてやつた。井月は足をゆはいてある木綿絲を指に卷き、ぶら下げて持つて行つたが、勿論どこぞの溝川へ放したのに違ひない。この豆腐のをぢさんは別に井月に關係はないが、否、酒好きな井月はこの地方の酒屋といふ酒屋になじみでない處處なく、隨つて收稅官吏の部奈さんが至る處の酒屋で出合つてゐたのは言ふまでもなく、時に駄句の幾つかも批評して貰つたこともあるとの話であつた。部奈收稅屬をなぜ豆腐の叔父さんと呼んだかといふに、この人は世にも珍しい豆腐好きで、晝食などは何時でも豆腐で濟ませるのが常だつた。だから私は遠州屋に遊んでゐて、よく晝食の豆腐を買つてきて上げたことがある。泊りつけの森田といふ宿では、部奈さんは世話がなくてイヽ、豆腐さへ食はせておけばご機嫌だ。といふほどずば拔けの句の春と憶追の月井25
豆腐好きであつたからである。その食ひ方は、唯生豆腐に生醬油を附けて食ふに限るといふのだから、愈もつて豆腐仙といふのほかはない。それから二十五六年を經た明治三十六年、私が豪南衞戌病院に勤務してゐたときに、何かの書類で臺南廳の稅務課長の部奈象次といふ署名を見てギヨツとした。これは同姓同名でない限りあの豆腐の叔父さんかも知れぬ。あの時分若かつたのだから、まだ在職しても不思議はない。殊に稅務の方だけに怎うも豆腐の叔父さんのやうに思はれてならなんだ。間もなく臺南官衙の職員が合同で天長節の祝賀會を行つたとき、某料亭の祝賀會場で會つたのだ。頭はツル〓〓に禿げ容貌は變つてゐたが、何處となくその頃の佛があり、話してみれば直ぐ訣つたので、お互に手を取り合つてその奇遇を喜んだのである。その後鹽水港だつたかの廳長になつたやうだつたが、その後の消息は絕えてしまつた。○これもその頃櫻の少し咲きかけた時分だつた。私の村中澤の原といふところで芝居を26句の春と憶追の月井私の村中澤の原といふところで芝居を興業したのだが、その芝居小屋を作る所は、いつでも極まつてゐる私の家の後ろ二町ほど離れた城といふ、昔小さな城のあつたといふ眺望のイヽ平地だつた。その時の主な役者は關三十郞·尾上斧衞門(後の故人蟹十郞の前身)·澤村百之助(後の故人田之助の前身)などだつた。何をやつたか殆ど記憶から逸してゐるが、關三十郞の熊谷と、尾上斧衞門の春藤左衞門に澤村百之助のゆふしでだけが一寸はつきりしてゐるから不思議である。尤もこの三人は私の家が宿だつたから幾分印象が深かつたのかも知れない。兎にかく農村へ東京の千兩役者が來たといふので、非常な人氣を湧かせた。その二日目であつた、私の家では留守を命じた筈の女中まで居なくなり、唯馬と猫のみがといふわけだつたらしい。そのあき家同樣のところへ井月がやつて來たのだ。するとまた祖母の姪の夫といふのが、芝居などに關係なく通りがゝりに晝食でもするつもりで立ち寄つてみれば、井月が上り框に腰をかけて呆然ま近い芝居の鳴りものでも聞いてゐるかのやうだつた。聲をかけてみたが勿論答へのあらう筈もない。まゝよ何かあるだらうと戶棚句の春と憶追の月井27
を探せば好物の甘酒があるではないか、これを溫めて飮むからに酌むからに、たちまちの中に瓶の底をさらつてしまつたさうである。また井月には酒と肴をとり出してこれを勸め、一人は甘酒をたひらげ、井月はたらふく飮み食ひして、附け木に-お留守中井月と共に充分ご馳走になりました云々と謝禮の意味を認め、井月もまた附け木に發句を書いて膳の上にのせ、手を携へて行つてしまつたさうであるが、やがて母と祖母が歸つてこの杯盤狼藉の狀景に且つ駭き且つ笑つたりしたのを覺えてゐる。○28これもその時分の初秋のことだつた。船洞といふところへスガルといふ小さな穴蜂の巢を見つけるための蜂釣りに出かけたのだ。夢中で蜂を追ひ廻してゐる中に、誤つて枯れ木の尖端を左の足の裏に突き刺した。然もそれが深く折れて殘つたのだからたまらない。友の一人に助けられて、跛行を引きながら漸く家へ辿りついた。父は一見して、これは素人療治では駄目だから直ぐ久藏に來て貰ふやう使を出した。この通稱久藏といふのは、昔尾州の有名な外科醫淺井家の雇人だつたさうだが、女中と句の春と憶追の月井出來て駈け落ちと洒落れ、當所に住みついた人物だが、見やう見まねで幾分治療の知識を持つてゐるので、この地方の人々に重寶がられてゐるのだつた。久藏醫者は野良着のまゝで飛んで來た。負傷部を檢めて見て、燒酎が入用といぶので買ひにやる。その間に手術用の刄針を〓ぎ、晒木綿を裂いて繃帶を作る。といつたやうな準備があつて、愈々手術に取りかゝるらしいのに恐れを感じた私は、頑ばりに似ずしく〓〓泣きつゞけてゐるのだつた。準備が出來るや、父は矢庭に私を俯臥の體位に押し倒して馬乘りになり、そして兩下肢を押さへつけた。肥つた女中が力まかせに手を押さへ、祖母と母が足先を受け持つたのだ。久藏醫者は燒酎で傷口を洗ふらしかつたが、間もなくゴシ〓〓やり出した。私は痛さに堪へ兼ねて力の限り大聲を上げて泣き叫んだのは云ふまでもない。異物は餘ほど深い處にあり且つ腐木だから幾つにも碎けるので、除去に頗る困難な模樣であつた。この手術の最中に偶と井月が這入つて來た。そして土間のまん中頃に立ち止つて私の泣き叫ぶ痛苦のさまを凝視してゐるのだつた。漸く除去が了つてから燒酎で傷を町嚀に句の春と憶追の月井29
洗ひ、繃帶が濟んでからも井月はまだその姿勢のまゝだつた。私は治療が終ると裏座敷の床へ寢かされた。その夜井月は私の家へ一泊した。翌日の晝近く久藏醫者が繃帶交換に來た時に、井月は自分の行季から紙にのばした黑色の膏藥を取り出して、足の甲の方へ貼つてくれた。何でもこの膏藥は痛みがとれ腫も早く引くのだといつてゐた。なほ柿の熟したころ祖母の生れた栗林の家で、鼠花火を揚げて遊んでゐて、瞼毛眉毛前髪を燒き、殊に鼻の頭をひどく灼いたとき、狼狽する女の人たちに、それそこに澁柿といふ妙藥があるではないか、それを嚙み碎いて附けてやりなさいと〓へたのは、爐邊で酒の馳走になつてゐる井月だつた。○井月の遺した俳諧雅俗傳といふものの中に斯ういふことが書いてある。前略。-俳諧の詞は俗語を用ゆると雖も心は詩歌にも劣るまじと常に風雅に心懸く可し。句の姿は水の流るゝが如くすら〓〓と安らかにあるべし。木をねじ曲げたるやう私は治療が終ると裏座敷30句の春と憶追の月井句の春と憶追の月井こつ〓〓作るべからず。良き句をせんと思ふべからず。只易す〓〓と作るべし。何程骨折りけりとも骨折の表へ見えざるやうに、只有の儘に聽ゆるが上手のわざなりと心得べLo俗なる題には風雅に作り風雅なる題には俗意を添へ、をかしく作るは一つの工風なり。されど定まりたる格にはあらず。俳諧は夏爐冬扇なりと古人の語を考ふべし。言の葉の道なれば言の葉をよく考へ糺し、前後の運びつゞけさま深切にあるべし。てにをは假名遣ひよく吟味すべし。何はありげなる所を考ふべし。極めて有る處を考へれば理窟になるなり。-以下略す。り。○私は井月を初めて世に紹介したのではあるが、まだ一度も私自身井月の俳句を批評したことはない。だが、私は全く埋もれてゐた井月を世に紹介したのは、あの駿くべき純眞な生活態度と、-勿論屑もあるが、天保以後明治の子規との間に、斯ういふ俳句のあるといふことを知つて戴きたいためだつたのである。左に春の句の中から若干を選び、彼の俤を偲ぶよすがとしたい。31
句の春と憶追の月井手魚陽柴解け初める諏訪撞降るとまで人には春何處やらに鶴 のは元り影炎舟きも雨る過かのの動かもや雨せぬ鐘を見に行く霞か人地たま〓〓見えてらし心や筏日糸事文の鏡ものすのまに暮の石下聲た1向れる氷見のる聞く霞のふ行くやせ華み水魚て表霞ひ畫やや溫の花かかかじ旅手遣春春春膳長東風吹くや駒長長の風風椀乘りもせぬ駕籠つらせ行く彌生かな遲き日にながめてゐるやかゝり舟閑閑閑さをた日ややのささ紅碁露天時ややや看盤き文候柳つきにお杉お玉〓小ニ板のるのなの水半の上う足下滴酒吹のち並き置やみのるもなき春る洗岩花が手の日ひかの心し紙雪和臼な鼻元り過か日らしのの暮たれ小ニ板のるのにな半の上う足向る行くみ見の酒吹のち並き置やみ水魚もなき春るやや溫の花が手の日凧凧いかのぼりむ影曇なななな枕籠心し紙雪和33句の春と憶追の月井32
句の春と憶追の月井弛乞花消旅旅夜梅新隙な日のさしあふ花の盛り白山はとり〓〓の噂さを花の盛りが香やもてなし振も十九はたちむ咲梅食殘人-のこ櫻らまだ鹿の子まだらや日にてるろやしやのも牛神我も誰き賤岡にのも耻や衣が兩投數つ軒のりのらともを盃なり花寒端ゝ花の筵見やた打みのるきしちやこ花柳麓やさし紙梅梅ぼのかか朝かかかかのれの 花なな櫻りななな礫花種氣遠若行若鮎乙畑猫の戀のびる日あしに追はるゝか戀すてふ猫の影さ請屋根裏の出合がにい鮎く鳥打合の瀨に尻まくると田や雁ややはり植に花や小動腰ぬて物蛙と笠路物の心奴鳴汲島名しを 賴豆くまのし腐なる灯多らすてむやり1子のきや障見接京梅タ網供朧猫子る木の間の鬼のかなとかか花暮露なる町猫な瓦な氣畑請梅らに打合日とやはの心奴しを 賴てむ見接る木豆く腐なすこやり1梅のかか朝かかかの鬼かな山な櫻りなな花暮露な瓦な35句の春と憶追の月井34
幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。犯人となすは可なり。人すらあるかのやうに思はれるが、り、芥川君も藝術感情からは、の方面に無頓着といふよりも寧ろ、「妄に予を以て所謂文人と做すことなかれ。文士學者必ずしも書畫の愛好者ではあり得ない。やむを得ざれば大學〓授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。化政度の文人趣味などを單なる道樂といふ點から輕蔑の餘それもあながち理由のないわけではないらしい。かういふものを輕視したり、十便十宜あるが故に、予を以て詐僞師と做すは可なり。現代の文士殊に小說家には、大雅と蕪村とを竝稱す或は强ひて近づけない唯謀殺案外こ芥川龍之介と書〓根堇桃金柳から出てゆく野兎もすれば汗の浮く日や木瓜の花雨止めば冴え持地に影をうつしをさ、くや神包やもむ狐鬼紙の 穴片荷門をものゆつて舟貰風除土手る空のふみや早るのやつし梨柳さ柳花孕のかかかゞ堇き馬花ななな(一二、三、もをさ柳花俳句研究) 37句の春と憶追の月井36
るは所謂文人の爲す所なり」と憤慨してゐる。彼は「文學好きの家庭から」の中で、「私の家は代々舊幕臣、卽ち御奧坊主だつた。父も母も甚特徴のない平凡な人間です」などと云つてゐるが、怎うしてどうして、父君はもと官吏で、一中節·圍碁將棋·盆栽·俳句などのほか、ときに南畫の山水を描き、彫刻などまでやるといふ器用な通人肌の老人であつた。母君といふのは、鷗外先生の筆によつて有名になつた幕末の大通、津の國屋藤兵衞卽ち津藤で通つた人の姪である。ことによると鳶魚先生あたりでさへ、一寸油斷の出來ないほどの江戶通だつた。然もまた其伯母は、彼の有名な木挽町狩野家の一族、狩野勝玉に嫁してゐる。この勝玉は明治の大家狩野芳涯·橋本雅邦と同門の親友だつたが、惜むべし早世してゐるらしい。猶早世した叔父の一人は、判事としてよりも、南畫家として有名な河村雨谷に就て南畫を學んだ人ださうである。一體私がなぜかやうなことを擧げるかといへば、元來趣味などといふものは、天禀の性情はさることながら、多くはその環境からも生れてくる情操的なもので、斯ういふ血38畫書と介之龍川芥緣と家庭に育まれた芥川君の文學者となつたのも定に自然なことでもあり、また假りに畫家となつてゐたとしてからが、決して不自然ではなからうと思はれるからである。芥川君は旣に「我が家の古玩」の中で-蓬平作墨蘭一幀、司馬江漢作秋果圖一幀、仙厓作鍾鬼圖一幀、愛石作柳蔭呼渡圖一幀、巢兆·樗良·蜀山·素檗·乙二等の自詠を書せるもの各一幀、高泉·慧林·天祐等の書各一幀、わが家の藏幅はこの數幀のみなり。他にはわが伯母の嫁げる狩野勝玉作小楠公一幀、わが養母の父なる香以の父龍池(津藤の雅號)作福祿壽圖一幀等あれども、こはわが一族を想ふ爲に稀に壁上に揭ぐるのみ。中略-われは又子規居士の短冊の如き、夏目先生の書の如き、近人の作品も藏せざるにあらず、然れども未だ古玩たらず(半ば古玩たるにもせよ)。」といつてゐる。然し、猶このほか先代より傳はるものや、支那から持ち歸つたものなどもあるのだから、故人の意志如何に拘らず、古玩と新玩とを問はず、この機會に私の知つてゐるもののあらましを記すことにした。尤も既に生前人に贈つたもので、その出所と人名のわかつてゐるもの、また現在保存されてゐるもので其出所のわかつてゐるものは、それをも畫書と介之龍川芥39
略記することにした。龍池作福祿壽圖一幅。勝川法眼雅信畫一幅。狩野勝玉作小楠公ほか三幅。谷文晁作鍾鬼圖一幅。母君所藏たりしもの。日人人蛙蛙の圖二頓。現在保存の一點は額仕立にて自身東京にて買ひしもの、の軸物一點は、岸浪百草居より贈りしを更に室生犀星君に贈りしもの。愛石作山水圖一幅。京都或は東京で買ひ受けしもの。安田老山作松溪山水圖一幅。父君の得られしもの。兒玉果亭作梅溪山水圖一幅。父君の得られしもの。河村雨谷作墨蘭二幅、山水圖二幅、蘆雁二幅、其他一點。釋宗演書一幅。父君の得たるもの。成拙書一行一幅。自身得たるもの。40他亡叔父の得たるもの。畫書と介之龍川芥夏目漱石書二幀。一は額、一は幅。菅白雲書額一幀。自身請ひ受けしもの。齋藤茂吉自詠書三四幅。俳句の短冊と交換せしもの。小穴隆一作二三幅。他に隆一畫碧童句讃一幅。子規居士短冊一點。たしか香取秀眞君より贈られしもの。井月稻の花句切れ一點。下島空谷澄江堂書額一幀。董九如作山水橫物一幅。自身長崎にて得しもの。金冬心人物横物二幅。支那にて得たるもの、一幅は百草居に贈りしかと思ふ。吳昌碩作墨蘭圖一幅。上海にて直接貰ひしもの、晩年室生犀星君に贈る。陳寶琛詩書一幅。芥川仁兄正書陳寶琛と署するもの。(陳寶琛は支那第一の學者と稱せられ、現滿洲國皇帝の師傅たりし人。北京滯在中訪問して古書畫なども見せて貰ひ、書を請ふたところ、二三日すると良紙を得る筈だからといつて書い畫書と介之龍川芥41
42て贈られた立派な書幅である)鄭孝胥詩書一幅。芥川仁兄大雅辛酉暮春孝胥と署したもので、北京で書いて贈られしもの。(鄭孝背は云ふまでもなく滿洲國の元動なり)「我家の古玩」の中に蓬平の墨蘭は、北原大輔君が贈つたもので、蓬平は池大雅の門人の一人だが、芥川君は大雅の氣魄ありとして珍重し、遺書により小穴隆一君に贈つたものである。江漢の秋果圖橫物は、何處で得られたか不明だが恐らく東京かも知れぬ。仙厓の錘鬼圖は、長崎の永見德太郞君から、餘ほど犠牲を拂つて得たもののやうに聞いてゐる。蜀山人の狂歌の幅は、確か小澤碧童君の贈つたものではないかと思つてゐる。巢兆·樗良·素檗·乙二などは多く俳書堂の賣立で入札したもののやうである。慧林·京都で得たものだと記憶してゐる。高泉の軸は、私の隨筆にもあるやう天祐の書幅は、に、大正八年二月ある靑年畫家の手から、風外の達磨と天祐の大橫物と同時に私の手に這入つたものだが、天祐は自笑軒の主人が是非にといふのでお譲りし、高泉は芥川君が欲しいといふのでお讓りしたもので、芥川君が自身で幅物を得られた最初のものであ北京で書いて贈畫書と介之龍川芥る。愛石の柳蔭呼渡の圖は、或とき私の所へ遊びに來て、懸つてゐたこの軸に惚れこみ、望むがまゝに献上したものである。これは裝幀が傷んでゐたのを新しく仕替へ、桐の箱まで作つて私が箱書までしたのであるが、自決當時その室に懸つてゐたといふ、因緣淺からぬ軸なのである。芥川君は、大正五年大學を出られて二三年の間は(一寸學校の英語の先生もしてゐたが、間もなくやめた)、勿論旣に新進氣銳の鏘々たる靑年文士には違ひなかつたが、より以上に、あの恐るべき讀書力を以て東西殊に西洋の書物を讀破したもので、其知識慾の旺盛なることは大旱の雲霓にも比すべきもの凄さだつた。だから繪畫や藝術に關する書物をも讀むばかりでなく、ルネツサンス前後から近代に至る有名な繪畫の寫眞や複製を買ひ集め(その國の本屋にまで注文して取り寄せ)その知識慾を充たしたものだつた。併し奈何に天才兒芥川君も、反てお膝もとの我邦や支那の繪畫に就ては、まだ〓〓幼稚なもので、私のやうなものの話にさへ熱心に耳を傾けられたものである。とは云へ、さ畫書と介之龍川芥43
すがあの天禀をもつて、漱石の門に出入してゐたのだから、幼稚なりに違つてゐたのは勿論である。大正七年の暮に私が神田の本屋で手に入れた、十便十宜の最初の複製畫帖の大雅の畫を見て、彼は非常な衝動を受けたのである。といふのは、專らといつていゝくらゐ西洋畫の方にのみ氣を奪はれてゐた眼に、思ひも設けぬあるものを發見したからであらう。確か翌大正八年芝の雙軒庵で十便十宜の原帖を見て、今更ながら其駭きを新たにし同時に、蕪村との對比を心ゆくまで味つたのである。猶このとき多數の竹田や草坪·山陽なども展ぜられてゐたので、我邦南畫の粹を觀賞することが出來たわけである。その後晩翠軒あたりで得た支那畫の複製や、我邦で開かれた支那畫展の複製畫帖や、我邦古代繪卷·古畫の複製等を買ふばかりでなく(博物館あたりで實物も勿論多少見てゐる)、木版の浮世繪の會にまで這入つたのだから、奈何に知識慾の旺盛だつかを窺ふことが出來やう。かくてこの天才兒は、不思議にも我が邦繪畫の鑑賞段階を、現代の繪畫、四條丸山派漱石の門に出入してゐたのだから、幼稚なりに違つてゐたのは44畫書と介之龍川芥不思議にも我が邦繪畫の鑑賞段階を、現代の繪畫、四條丸山派の繪畫、狩野雲谷派の繪畫、土佐派、倭繪を一足飛びに乘り越へて、直ちに池大雅に打ち當てたのだからたまらない。「骨董葵」の中で、「東海の畫人多しといへども、九霞山樵の如き大器又あるべしとも思はれず云々」と云はせてゐる。また「澄江堂雜記」の中では、「僕は大雅の畫を欲しい、しかし金がないからせいぜい五十圓位な大雅を一幅得たい。大雅の畫品を思へば、たとへ五百萬圓を投ずるも安いと云ふ點では同じかも知れぬ藝術品の價値も小切手や紙幣に換算出來ると考へるのは、度し難い俗物ばかりだからである」といつてゐる。また「雜筆」の中では、竹田は善き畫描き以上の人なり。大雅を除けばこの人だと思ふ。山陽の才子ぶりたるは竹田より遙かに品下れり云々」ともいつてゐる。こゝに一寸面白い挿話がある。それはあの有名な赤星家の入札會のときであつた。うち連れて見物してあるいたのだつたが、我々にはどれも結構なものばかりで、聊か眩惑を覺えるくらゐだつた。觀覽を了へてさて何か欲しいものがあつたかと問くは.彼の曰く、「欲しいのは玉潤の蘭だけだ」といふのだつた。-元信も雪舟も信實も牧溪も梁楷も馬鱗についても何とも云はなんだ。畫書と介之龍川芥45
大正十一年には支那を漫遊したのだつた。上海では有名な吳昌碩を訪問して翰墨談も聞いたらしい。そして墨蘭の力作を貰ひうけた。廬山へは當時南支漫遊中の竹内栖風氏と同伴だつたと書いた廬山の繪端がきを送つてくれた。北京では陳寶琛や鄭孝胥をも訪ねて種々の話を聞いたり御馳走になつたり、また祕藏の書畫なども見せてもらひ、そして前揭のやうな書幅を貰ひうけてゐる。「支那の畫」といふ彼の文章の中には、「雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀といふ畫帖の中の雄勁な松の圖で、文華殿の三四幅は畫品の低いものである。わたしは梅道人の墨竹を見、黃大癡の山水を見、王叔明の瀑布を見た(王叔明の畫は陳寶琛所藏)。が、頭の下つたのは雲林の松に及ぶものはない云々。-南畫は胸中の逸氣を寫せば他は措いて問はないといふが、この墨しか着けない松にも自然は髣髴として生きてゐはしないか、-モネの薔薇を眞といふか、雲林の松を假と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではあるまいか」といつてゐる。支那から歸つて來た彼は氣分の上にも多少變化があつたものと見える。其一例は書齋46畫書と介之龍川芥其一例は書齋の我鬼窟を改めて澄江堂とするなどがそれである。佐佐木茂索君が「澄江なんていふ藝者にでも惚れたのか」などと戯れたのだつた。不思議なのは澄江堂などといふ支那臭い名をつけておきながら、芭蕉をはじめ元祿の俳諧〓究などが始まつた(勿論以前から俳諧には深い關心を持つてはゐたが)。何だか西洋から支那、それから自分自身の邦へ、といつたやうな感じがないでもなかつた。俳畫や俳句の軸の欲しくなつたのはこの頃のやうに思はれる。またこの頃既に洋畫家の小穴隆一君と懇親になつてゐて、近代フランス畫を對象として日本の洋畫を論じたり、ルノワルの中に大雅の共通點を見出したりしたものである。震災後山本悌次郞氏邸で、その夥しい所藏の支那畫の一部を見たといつてゐたが、別に大した感銘の話もなかつた。それは恐らく、支那で見たり、或は我邦でも支那畫の展觀が隨分あつて、ひとわたり見てゐるから、特に感心したものがなかつたといふことになるのであらう。な不思議ことには、現代の日本畫の批評といふやうなことは餘りしなかつた。唯僅か畫書と介之龍川芥現代の日本畫の批評といふやうなことは餘りしなかつた。唯僅か47
に靱彥·百穗·古徑·御舟などについて話があつたくらゐである。洋畫の方はよくは知らぬが、小穴君のほか、よく梅原龍三郞君、時としては岸田劉生君あたりの噂さがあつた。瀧田樗陰氏所藏の畫册に、各種風骨帖といふのがあつた。それは百穗·古徑·靱彥·未醒·恒友·芋錢六家の畫を收めたもので、瀧田氏は芥川君にその序文を請うて書いて貰つた。その序に-「諸公の畫を看るは諸公の面を看るが如し、眼橫鼻直、態相似たり。骨格血色、情一ならず。我は嗤ふ、杜陵の老詩人、畫中馬を看て人を看ざることを。秋夜燈下に此冊を披けば、一面は天天一面は老ゆ云々」と書いてゐるから面白い。芥川君は云ふまでもなく、どこまでも學者で同時に藝術家だつた。そして誰もが望むやうに最高を目標として精進した。だが、所謂藝術至上主義者などといふなまぬるい批評は當つてゐない。彼の讀書も體驗も勿論藝術のための滋養物で、あの驚くべき廣く且つ深い讀書から得た知識の輝きのほか、書畫や骨董などから得た彼の知識が、奈何に創作の上に光つてゐるかは知るものは知つてゐやう。所謂書畫骨董趣味などと云へば、金48畫書と介之龍川芥持や貴族のお道樂か、或は單に所藏慾の滿足ぐらゐに考へられてゐるのだが、ひとたび芥川君のやうな藝術家に觸れると、そのものの生命が躍動する。例へばこゝに一例を擧げよう。彼の作「玄鶴山房」のあるシーンに「床には大德寺の一行ものが懸つてゐる」と書いたのだが、この大德寺の一行ものが怎うもしつくりしないといつて氣にしてゐるから、それでは黃檗ものの一行としたら怎うかと云ふと、あゝそれでしつくりした、といつてすぐ訂正した。一體大德寺の一行ものも黃檗の一行ものも、茶懸けの通り詞のやうになつてゐて、こんな場合どちらでもよささうなものだが、そこが彼の細かい神經は承知しないのだ。そして實際その室やら環境が、黃檗ものでなくてはしつくりこないといふやうなきはどいデリケートなところが、所謂翰墨趣味を活かした大事なところだと思つたのである。一體ある時期の芥川君を、書畫骨董の蒐集家のやうに評判したのは、彼は書畫骨董にもある意味の關心を持つてゐるといふことを、彼の名望に結びつけた俗說で、私が暴露畫書と介之龍川芥49
に近い書畫目錄やうのものまで掲げたのは、ひとつは、さういふ人たちを失望させる効能があらうと思つたからである。彼は「續野人生計事」の中で、「僕は如何なる時代でも蒐集癖と云ふものを持つたことはない。成程書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然に······書物さへさうである。況や書畫とか骨董とかは一度も集めたいと思つたことはない。云々」彼の自記は決して虚言をついてゐないのである。彼は畫を描いたか······といふ問題だが、小學時代の彼は旣にこの道にも傑出した所謂天才のきらめきらしいものがほの見える。併し中學以後は餘り其蹟を示してゐないやうだ。怎うもあれだけの素質を持つてゐるからには興至れば描かざるを得なかつたであらうと思はれるに拘はらず。ところが、小穴隆一君と交遊するやうになつてから、いつとはなしに例の河童やら何やらを描きだした。河童は「水虎晩歸圖と題して得意でもあり堂に入つたもので、當時既に有名だつた。このほか傘を描いて「時雨るるや堀江の茶屋に客ひとり」といふ句を題したものなどは、書畫共に惚れぼれするやうな風格を現は50畫書と介之龍川芥してゐる。馬の圖や猫の圖、蜻蛉なども得意なもので、自嘲的な自畫像などもかいてゐる。何れも風韻豐かな書と共に個性のよく現はれてゐる尊い墨蹟である。大正十四年五月修善寺の溫泉宿から、佐佐木茂索君と私へ送つてくれた修善寺圖卷などは、ペン畫ではあるが、卓越せる天禀を窺ふのに充分である。私は常に思ふ。彼若し畫家たらば、必ず第一流になつてゐるであらうと······終りに、彼が書畫鑑賞の對象は、直に大雅、直に雲林、直に玉澗の蘭、直に良寛といつたやうなわけで、いゝころ加減のものや職工畫などには決して心を動かさなんだ、といふことである。猶つけ加へておくことは、古陶磁の面白いのは充分わかつてゐるが、文藝作家があゝいふ固定したものに囚へられたら最後、ほんとの小說が書けなくなる、僕はそれを恐れる。と云つてゐたやうに思ふが、書畫や骨董などに對しても、幾らか同じやうな考へ方ではなかつたかと思はれる。畫書と介之龍川芥(一三、六九、文藝春秋) 51
52書がたり私の小學校の先生は荒川定俊といふ高遠藩士の出で、董其昌をよく習ひこんだ能筆家だつた。その時分の〓科用手本は卷菱湖だつたが、學務委員をしてゐた私の父は、菱湖なんかより先生の書の方が佳いからといつて、いつの間にか手本を書いて貰つて私にくれた。私は手習なんか餘り好きではなかつたが、先生の手本を見て幾分好奇心が動いたものか、少しは手習をした覺えがある。この時分私の家によく來た俳人井月の書を父は非常に褒めて-姿は乞食だが、書を見るとお公卿さんだ。などといふから注意して見ると、子供の眼にも成るほど和やかな書がたり書がたり美しい書だと感じるやうになつて來た。だから私の書に就ての知識の第一步は、卷菱湖と荒川先生の董其昌と、どことなく芭蕉·一休·良寛などと心持ちの上からも形の上からも交流のありさうな虱井月の書だつたのである。尤も父の師だつた宮脇長富といふ神職の御家流は、至る處の屏風や襖でお目にかゝつてはゐた。○私の書に注意をし出したのは勿論支那へ行つてからのことで、また實際書を好む性情を自覺したのもそれからである。支那へは四五回行つたのだから、見ることは隨分見もし、法帖·柘本·幅なども隨分買つたものだつた(火事で燒いてしまつたが)。併し實際書の知識を得初めたのは、何といつても、澁川玄耳氏の著書や西東書房から出た書苑や、大觀帖·淳化閣帖其他からである。殊に書苑では支那の書のほか我國の書についての知見を博めたのは事實といつてよい。○私の書好きは、寢るときに布團の中で法帖や古人の書を見ないと眠りに就かれぬとい私の書好きは、53
ふやうな一時機さへあつたほどだ。併し私は何處までも觀賞家としての書好きで、技術的には全くの門外漢だつた。といふのは、手習などといふことは、徒らに型に囚へられて個性も自由も失ふばかりでなく、謂ゆる安價な匠氣や市氣まで釀し出す惧れがあるといふ消極的な考へ方からだつた。尤も學問的には書の本質方面の〓究を企ててみた。併し、非常に困難な問題に逢着し、私の全部を犠牲に供しない限り到底不可能だといふことを悟り、潔よく〓究を斷念した。○私に初めて書を書かせたものは芥川龍之介君だつた。然もそれが六曲の屏風だから一寸駭かされた。若しこれが普通の屏風だつたら屹度お斷りしたに違ひないのだが、奥さんが初產の產室用の屏風と聞いてはお斷りもならず、〓水の舞臺から飛んだ氣で書いてみた。それは李白の有名な-問余何意棲碧山-の詩であつた。勿論うまからう筈もなく、不滿だらけだつたに拘はらず、芥川君はお世辭に褒め且つ喜んだものだつた。芥川君が支那漫遊から歸つて間もなく、澄江堂の額を書けといふので閉口したが、斷54書が斷書がりきれずにたうとう書いた。これが動機で室生犀星君の魚眠洞の額を書き、佐藤惣之助君の螢蠅盧の額を書く、つひ久保田万太郞君の懸け物や德田秋聲翁のものまで憶面もなく書くといふやうなことになつてしまつた。○妙なことには、手習をしない自己流の惡書に對し-餘ほど晉唐をやりましたねとか、六朝を學んだらしいとか、また良寛·大雅にも似てゐるなどと、甚だ光榮過ぎるお言葉を拜聽して、恐縮のやり場に窮するほど、自由奔放氣まぐれの限りをぬたくつたものだが、未だ曾て一度も是はと思ふものの出來たためしがなく、時にはもう絕對に書なんか書くまいと思つたことすらある。併し賴まれて書かぬのは、下手なくせに氣どりでもするやうで反つて可笑しいなど氣がつくと、我ながら一層可笑しい。○書は下手でも莫迦にならぬ挿話がある。その一つに昨年十月のある日、全く知らない人から手紙が來た。その人は早稻田大學法科の〓授で長場といふ人だつた。讀んでみる55
と、-甚だ突然のお願だが、私の恩人が是非あなたに額を書いて戴きたいといふのです。若し書いて戴けるのだつたら一度お伺ひしたいから、差支へのない時日を通知して下さい、といふ意味だつた。そこで私は、-ご身分ご姓名並に、怎ういふ訣で私のやうな門外漢に額の揮毫をご所望あるのか其動機を伺ひたい。しだいに由つては、甚だ拙筆だが喜んで書きませう、といふ意味の返事を出した。それから電話で打ち合せをして二日ばかり後ちの夜間に來て戴いた。長場氏は腰のひくい率直叮嚀な人で、ドイツの大學まで學んだといふ若い立派な紳士だつた。氏の話に、-實はこの暑中休暇に〓里越後の北蒲原へ歸省したので、私の恩人齋藤家へ(齋藤別當の後裔と稱する越後屈指の大富豪で、良寛の書なども持つてゐられるさうだ)立寄つたのですが、同家で最近立派な座敷を新築し聞水苑と名銘された。そこで額を是非東京田端の下島空谷といふ人に書いて貰ひたいから早速賴んでみてくれないかとの囑をうけ、直ぐわかるものと安受け合ひしたのが手遠ひを生み、歸京早々尋ねてみたが怎うしてもわからんからそのまゝになつてゐたのです。然るに齋藤家から催56書がた書がたり促を受け狼狽して更らに聞きたゞすと、書家ではないが醫者の下島といふ人ならあるといふことが判明したのです。そこで電話簿を調べてみて、確かにそれと推定のうへ手紙を差上げたわけです。といふやうなご念の入つた話だつた。動機について長場氏は全く知らぬと答へられたが、齋藤氏はまだ若い人で、種々な書物や雜誌なども廣く讀む方だから、恐らくそんな方面からヒントを得られたのではなからうかといつてゐた。とにかくさういふことなら喜んで書きませうと、言はざるを得ない破目だつた。一週間ばかり立つて氣が向いたから玉版へ書いた。通知を出すと早速とりに來た。共とき長場氏は、-主人が(長場氏は主人といふ)中々急には書いてくれまいと云はれたから、怎うで長びくものと覺悟してゐましたのに、意外にも早速書いて戴いて主人もさぞ喜びませうといふのだつた。そこで近作の山水畫を一點添へて差上げたが、實直な長場氏は、自分自身のもののやうに非常に喜んで歸られた。57
人にもよりけりだらうが、私は怎うも書は手習ばかりしてうまくなれるものとは思つてゐない。若し單に手習によつてうまくなれるものなら、昔からうまい書が箒で掃くほど出なければならぬ。否、うまい程度の書なら始末におへぬほど出てゐる筈だ。現に何何書道展など一見してご覽じろ、寧ろうま過ぎる書の多いのに駭かされないものはないであらう。だが、幸か不幸か、我々がほんとに佳品として頭の下るやうな書は、現代近代はおろか古代とても、さうざらにあるものとは思つてゐない。○良寛和尙ならずとも、少し書といふものを精神的に觀察するものだつたら、謂ゆる書家の書の厭やになるのは當然だ。なぜなら、そこには美を假裝した工藝的の形ち以外、精神的陰翳や藝術的香氣の乏しい、師傳と法帖の摸倣的殘骸の羅列があるばかりだから58が書たり私は會て書の圓光說を云々したことがある。が、この圓光の饒かな書といふものは、書がたりほんとに偉い人の尠ないやうに、甚だ稀なものであると斷言して憚らぬ。よし書を末技としてからが、やはり人間が書く以上、やくざの人間から佳い書の生れる筈がない。若し形だけだつたら、奇用な惡漢や詐僞師は反つてより上手な書をかくかも知れぬ。○芥川龍之介君は何で量つたか、私の膽は駝鳥の卵より大きいさうだ。心臟については何とも言はなんだが、別に弱いとも思つてゐない。併し、書に限らず近年かく畫にしてからが、人にやるのが恐ろしくてならない。斯ういふことは見かけによらず良心的な小心者だから我ながら笑止千萬だ。尤も年とともに餘ほどヅー〓〓しくはなつたが、まだ全く解放されてゐないから變だ。宋の東坡や米芾のやうに、傲然、偉らさうなことを云つたところで、書の歷史上から見やうによつては、墮落の種をまかぬとは誰が保證出來るであらう?この天禀も學も力も合せ持つたといふ一世の才人ですら猶然りである。心すべきは一にこの點ではないだらうか。能書などいふことは畢竟、記錄以外の何ものでもあり得ない。59
○60書は古いほど佳い、新しいほど駄目だ。といつてゐる大家がある。私もある程度まではその通りだと思つてゐる。併し、古い碑碣や金石文字が、自然の風化や磨滅缺損による不具な姿を對象としてその枯渇粗大剛放素朴等、文化行進途上に刻まれ遺る風韻を掬する上に、謂ゆる貴重な歷史的骨董的意義があるとしてからが、書は六朝以上古いほど佳いといふことになると、やがて形象を打破して文字なきところ最も可なり。といふやうな禪僧の一喝が落ちになりはせぬか?○時代は善かれあしかれ人物を產み、書もまた善かれあしかれ其人物によつて傳へられるといふことは勿論だ。併し極めて稀に、時代に超越した偉らものが偶然に現はれて、偉い書や畫を遺して行つてくれるから面白くもまた愉快なのだ。例へば大雅や良寛の如きがそれである。若し人生に斯ういふことでもなかつたら(一二、ニ、二〇、瓶史)書がたりニ、二〇、瓶史)つく芋山水私は子供の時分に畫が好きで······などといつたら、さぞお笑ひ草になるだらう。なぜなら、いまどき大抵な子供に畫の好きでないものは滅多にゐないからである。併し私の好きな畫といふよりも、好んで描いた畫がつく芋山水だといつたら、なるほど一寸變ちきりんだと思ふ人があるかも知れない。事實、小學校の一二年生が、石盤の上や紙切れに、支那風の亭などをあしらつたつく芋山水を描いてゐるのだから、先生たちが面白がつたのも無理ではない。一體私の畫好きの血は母方から流れてゐるらしい。といふのは、母方の祖父は俳畫なといふのは、母方の祖父は俳畫な61
ども一寸描いた人で、北齋漫畫や曉齋や蕙齋の畫譜などもあるといふわけで、私が母方を好いたのは、斯ういふ畫譜類のほか繪草紙などが可成りあつたからである。尤も農家でこそあれ、この地方屈指の豪家として書畫骨董の所持者として一寸有名で、-例へば小栗宗丹筆京の名所圖繪屏風一雙、光琳の菊の金屏風半雙、櫻井雪關筆風山の金屏風一雙などを藏してゐるといつたやうな家だつたのである。私の家は祖父の若いころ大分立派な家を建て、次手に倉庫の改築をするために、內容全部を家の方へ移しておいて火災に逢ひ、少しはあつたらしいものも大〓燒いて碌なものは殘つてゐなかつたが、それでも漢畫風無落欵の松竹梅に鶴の屏風一雙と、非常に汚れた疎林外史の淡彩山水屏風が一雙あつて、私は不思議にこの屏風が好きだつた。子供のくせにつく芋山水なんか描いたのは、朝夕眺めてゐた中央アルブスといふ大自然の大屏風なんかより、この疎林外史の靄崖から來たのではないかと思つてゐる。母の生れた家は、天龍川東岸伊那村の大久保といふところで、奇巖古松に富み頗る風光の勝れたところである。もの好きな伯父は自ら大久保八景を選び、當時盛んだつた元62水山芋くつ善光寺卽ち座光寺詣りの人々をこの八景に引き附けようと計劃し、まづその手段として宣傳用の版畫の下繪を、正月の遊びに行つてゐた、十一歲の私に命じたのだ。命じた伯父も伯父だが、それを引受けた私も私である。畫の初步すら學んでゐない田舍育ちの茶目さんは、何のこだはりもなく半紙を懷ろに矢立を腰にして寫生とやらに出かけたのだ。景地はみな近いところにあつたから二日ばかりで寫生を了り、一日ぐらゐで、たしか大版の美濃紙へ散在的に八景の略畫を描いたのである。伯父は大變よろこんだ。そして早速版に彫らせるために隣村殿島の通稱刀鍛冶で通つた、彫刻表裝書畫等何んでもやる某老人のところへ持つて行つて見せた。老人は子供にしては珍しいといつて非常に褒めたさうである。間もなく版木が出來た。氣みじかな伯父は早速自分で刷つて知人に配つた。私はその初刷りの版畫を一見して、自分の描いた元畫よりも優れてゐるやうに感じたが、今は全く記憶から逸してゐる。私は十三歲ぐらゐから〓里を離れ、人生の迂餘曲折をたどつた落伍者だけに、斯ういふことは忘れるともなく忘れてゐたが、三つ兒の魂が甦つたとでもいふのか、近年畫を水山芋くつ63
描くやうになつてから偶とその頃のことを思ひ出し、一昨々年の秋、歸〓を幸ひ墓參を兼ねて母方を訪ね、その頃の消息を知つてゐる從兄に、-あの版畫があるなら見せて貰ひたいといつたら、何處かにあるにはあると思ふが今といつては一寸困るといふのだつた。そこで版木はと聞くと、それは母の生家にあるとの答へであつた。この伯母の生家といふのは有名な家傳痛風の妙藥を賣る豪家で、その名聲は四國九州のはてまでも知られてゐた。每年彼岸の頃ともなれば、善光寺から座光寺へ座光寺から善光寺へと、參詣の善男善女が伊那街道を駱驛として通行したもので、その途すがら藥を買ひに立ち寄るものが多かつた。だから八景宣傳の本據をこゝに置くのが效果的といふよりも、伯父は初めからその計劃で、版木がこの家にあるのは不思議でも何でもないといふことを初めて知つたほどの仄かさだつた。併しいまだに其版畫を發見したといふ通知もなく、殊に版木のあるといふ家は、先年東京の新聞にまで書かれたほどの財產橫領事件で紛亂を極めたのだから、現在その版木が怎うなつてゐるか甚だ心もとないことではある。私としては是非この際調べてみたいと考へてゐるのだが、若し從兄一家か、或は誰かがこの64水山芋くつ隨筆を見て、心配してくれるのだつたら幸ひである。ある有名な詩人の彫刻家が、寫生といふことを論じた文章の中で、-藝術的感覺を身につけて、肉體的に持つてゐる人が寫生するから意味が生ずる。それを持たない人では、所詮、記錄的なもの以上たり得ない。·····といつてゐる。藝術的感覺を肉體的に持つといふことは、言ひ替へれば半ば以上先天的の遺傳卽ち血液にあるといふことになる。董玄宰の-萬卷の書を讀み萬里の道を行つたところで、藝術的感覺は磨かれるだらうが、元々ない感覺を得るといふ望みはなささうである。今時の小學生なら、誰でもやり兼ねないことを、明治十二三年頃に信州の山の中の一小學生がやつて褒められたからといつて、それが藝術的感覺を肉體的に持つてゐたか怎うかは甚だ疑問だ。なぜといふに、それほど藝術的感覺を多分に持つてゐたとすれば、何を措いても畫かきになつてゐなければならない。然るに畫かきになつてゐないところを見ると、運命や境遇を制する意志の熾烈さが缺けてゐたといふことになり、隨つて藝術的感覺を肉體的に持つことが稀薄だつたといふ結論に達すると同時に、天分薄くして水山芋くつ65
藝術を志すことの危險さを痛感せざるを得ない。66 (一二、二、文藝春秋)水山芋くつ書齋の額と懸けもの置物乞食俳人井月が自作を七句書いた小さな額が懸つてゐます。これは私の家に傳へられたものではなく、信州上伊那郡伊那村の字鹽田のふる家といふ家にあつたのを愚弟が貰ひ受けて私に贈つたものです。二、お盆が來ますから狩野興以の楊柳觀音の小さな横物がかけてあります。大分黑くなつてゐる絹本です。香爐は小形千鳥式明靑磁で、木米の素燒の一輪ざしに桔梗が活けてあります。(一二、六、茶わん) 67
68北支の炎熱隱忍自重の我が北支の軍隊もたうとう堪忍袋の〓を切つて、こゝにいよ〓〓暴支膺懲の行動を開始し、旣に永定河以北を占領したさうである。それについてまざ/〓と想ひ起させるのは、今は昔、明治三十三年に起つたいはゆる義和團の北〓事變當時のことである。私は當時福島將軍のひきゐる混成旅〓の一衞生部員として出かけたのだつたが、時も同じ丁度今ごろの酷暑だつたので一層感慨の切なるものがある。併しながら今更徵臭い事變談など試みようとするのではない。たゞ事變によつて釀し出されたくさ〓〓を、と熱炎の支北とりとめもなくざつと書いつまんでみるまでである。太沽に上陸した我々は、司令部になつてゐた占領砲臺の中の小さくて汚い穴倉の樣な兵舎に一夜を明かした。この夜中に並んで寢てゐた同僚が大喀血を起して血を浴びた。夜が明けると天津へ前進命令があつたので、この同僚を殘して、船で白河を溯航した。まるで大雨後の泥水のやうに濁つた引き潮の白河の兩岸には、支那兵の死體が至るところに浮いてゐたり犬の群に食はれてゐるのもあつた。それよりも駭いたのは、兩岸にうごめいてゐる無數の龜とスツポンの群列であつた。實際白河の龜の子とスツポンの夥しいのには、誰でも駭かぬものはなかつたであらう。-數年後に聞いた話だが、スツポンは西洋人の會社で輸出をしてゐるので大變少くなつたといふことであつた。我々の病院は天津城陷落までは居留地の比較的停車場寄りの、大阪の綿布會社の支店だといふ一寸廣い建物だつた。隨分大砲の彈もくれば小銃の彈も飛んで來たが、別に職員に負傷者を出すやうなことはなかつた。尤も水師營の火藥庫の爆破のときは大地震のやうに窓硝子の大半が碎け落ち、收容の患者にも職員にも破片のために若干負傷したも熱炎の支北69
のもあつた。私は丁度起立のまゝ畫食の鹽握飯を食べてゐて後ろへ〓倒したのだつた。天津城攻略の惡戰苦闘は損害の非常に多かつたことでも分るのだが、當時支那兵はまだやくざな舊式銃やダム〓〓彈などを使用したのだから、その創傷の慘害はいふまでもなかつた。またフランス兵の負傷者まで收容したのだから、一層多忙を極めたわけだつな天津城が陷落し、五師團が到着して追擊に移ると、私は少數の部下と材料を携行して揚村に病院を開いた。行進途上炎熱灼くが如き二日間は、徵發の西瓜とマクワ瓜で餓を凌いだのだつたが、その甘味は猶昨日の如く感ぜられる。水質不良のところへ、この炎暑の追擊戰は不幸にも忽ち多數の赤痢患者を出し、携行藥劑を使用し盡して補充の途なく、やむを得ず應用材料によつて一時を凌がざるを得ない苦境に立つたのである。しかも追擊戰の慌たゞしさは、落伍患者が職員の知らぬ間に病室へ這入りこんでゐるといふやうなことさへ續出するのだつた。患者の後送は白河を利用したのだつた。前方より船で後送してくる患者は檢査の上、70熱炎の支北後送に耐へない者は揚村の病院に收容し、耐へ得るものは天津まで送つたのだつたが、臨檢の爲め繋留場へ行つて先づ眼に映ずるものは、船ばたに一列に並んでゐる患者のお尻である。しかも船の胴には紅い血便の線が竪に垂れさがつてゐるではないか。赤痢特有の絕え間なく催す便意は、かくの如き悲慘な奇現象を呈せしめたのである。揚村の病院にあてた家は、義和團に關係ありといふ揚村第一の富豪の邸宅で約二町四方もあつた。庭も廣く種々な建築がこゝかしこにあつたが、中に一寸小ぢんまりした室が長屋式に六個並んでゐた。病室には至極適當で恐らく客の寢室かなにかだらうと思つてゐたら、番號つきの妾の室だと聞かされて吹きだしてしまつた。揚村で特に氣がついたのだが、敵の塹壕に縮緬·羅紗·緞子類その他高貴な織物或は木綿織物の梱包などを應用してゐた。殊に駭いたのは軍橋の橋ぐらにこれらの多量を梱包のまゝ使用してあることだつた。揚村は問屋場ださうだから、倉庫を開けばかういふ效果的な材料が豐富に得られたからであらう。尤も天津居留地街の防禦工事に砂糖·鹽種々な織物などのほかボン〓〓時計まで積み重ねたところもあつたから、戰爭といふも熱炎の支北71
のはところと場合では勿論、手段を選ばぬものだといふことになるであらう。我等は間もなく通州で本院に合したのだが、こゝでは雨のあとの名狀しがたい惡道路ヘ、錢を砂利の代りに使用してあるところがあつた。併し錢の砂利などはいふにも足らぬことで、一番駭かされたのは婦女子に對する慘逆の行爲だつた。私は特に女劇場の中を覗いて人間業とも思はれぬ光景を瞥見し、かういふことが支那兵ばかりでなく、植民地あたりから來た文明國の兵士によつて行はれたといふことを知つて、つく〓〓人間のあさましさを痛感させられた。通州から北京(北平)の朝陽門に通ずる七里とかの、あの天下に豪華を誇つた石疊の大道も、ところ〓〓殘骸を留めぬところさへあるくらゐで、通行どころか全然無用のものと化してゐた。のみならず、一國の大都へ通ずる一定の道路さへないといふのだから徹底してもゐるし、北京郊外にある立派な祠廟や功臣大官の墓所荒廢の跡を見ても、當時支那の人心や國情がまざ〓〓と反映するのだつた。北京は幸ひ我が軍隊の保護のもとに殆ど無事だつたが、西山や萬壽山に掠奪が行はれ72熱炎の支北西山や萬壽山に掠奪が行はれてゐたといふことは、當時既に公然の祕密になつてゐたやうである。(一二、七、熱炎の支北週刊朝日) 73
74花萱草田端に三十年以上住んでゐた私は、昨年の秋とりあへず吉祥寺に假り越しをし、押しつまつた年末に、彼の獨步の名作「武藏野」に描き出されてゐる、-中央線武藏野境驛から北へ眞直に五六町、櫻橋の附近に居を定めたのである。が、なにも獨步の「武藏野」に憧れて來たといふわけではない。實のところ小金井にさへ來たことのなかつた私に、そんな氣の利いたことのあらう筈もなく、全く偶然といふ廻り合せに過ぎないのである。しかし、小金井方面は獨步の眼に映じた武藏野の詩趣ゆたかな風景と大差はないのか花萱草小金井方面は獨步の眼に映じた武藏野の詩趣ゆたかな風景と大差はないのか花萱草も知れぬが、私の住みついた小金井堤の玄關口櫻橋附近は、恐らくそのころとは多少變つてゐることだらうと思はれる。が、いま門前の玉川上水堤の靑芒の中には、薊や擬寶珠や萱草の花ざかりである。たい引つ越しといふことは、若いころ手ぶらの引つ越しのほか餘り經驗がなかつたので、此度といふこんどは、つく〓〓引つ越しといふものの苦難を甞めさせられた。勿論引つ越しとは關係のない用件のためもあつたのだが、兎にかく落ちついた氣分になれるのに、小半年かゝつたのだから堪らない。引つ越し騒ぎでさん〓〓苦勞した老妻も、漸く幾分のゆとりが出來たので、親類のものから誘はれるまゝに先ごろ歌舞伎へ出かけたのだつたが、偶然廊下で久保田万太郞氏に逢ひ、暫くぶりの久濶を舒したのださうである。私は昨年文壇俳句會このかたお目にかゝつてゐないので、何んとなくなつかしさを覺えてゐるところへまた、脇本樂之軒の手紙に-飛行館の新しい芝居で久保田さんに度々逢ひます。などと書いてあり、最近朝日の隨筆などを讀んでから、ひとしほなつかしさを覺えてゐるのだが、相變らず多忙75
な人でもあり、私としてもせめて佳い畫でも出來てから、と思つてゐるやうなわけである。私がそも〓〓久保田氏を知つたのはいつ頃であらうかと考へてみたら、それは鷗外先生の告別式のとき谷中の齋場で、芥川氏の紹介で逢つたのが最初らしい。懇意になつたのは勿論、大震災で日暮里渡邊町へ引つ越されてからのことである。渡邊町の家は鐵道線路の上の高臺の二階家で、岩崎邸の塀に接した高い〓〓石崖の上だつた。初めて伺つた時にこの二階から下を見おろして、一寸氣味わるく感じた程だ。しかし眺望の佳いことにおいては恐らく、無比といつてもあながち誇張ではないであらう、何しろ、左は王子續きの尾久山谷から町屋三河島を經て右は遠く千住吉原方面に及び、近くは根岸日暮里の一部下田端といふやうな視界で、まだその頃は日暮里の一部や下田端から三河島方面へかけて靑田がそよぎ、遠く筑波が霞んでゐるといふやうな展望だつたのである。「涼しさの靑田見おろす三河島」といふ私のまづい句を思ひ出す。こゝで私の印象にのこつてゐるのは、久保田氏の用ひてゐられた机である。この机は私としてもせめて佳い畫でも出來てから、と思つてゐるやうなわけであ76それは鷗外先懇意になつた花萱草花萱草島崎藤村氏が小諸を去るとき有志から贈られたもので、松材の無裝飾な頑丈で、ころ加減な大きさの然もほどよい古色を帶び、下面に贈呈の記錄のほか和歌と俳句の記されてゐる、思ひ切つた素朴な机であつた。この机は籾山梓月さんから贈られたものださうで、思ひ出は新片町の夜寒かな-といふのが、そのときの感想句ださうである。當時の久保田氏は、何の裝飾らしいもののないガラリとした二階の次の間の六疊へ、この机を氣まゝな位置に据ゑて書いておられたが、下では子息の畊一君が、座敷も緣がはも處きらはず自轉車を軌らせてゐた。ひぐらしに燈火はやき一と間かな77
蜩の月の木深となりにけり渡邊町といふところしたたかに水を打ちたる夕櫻淋しさやちもとの菓子と花ふゞき78 -などといふ作がある。芥川氏や龍雨氏などと、俳諧連吟を試みたことのあつたのもこゝである。その後、同じ日暮里のほど遠からぬ諏訪神社の傍へ移られた。こゝは所謂諏訪の森の崖ぎはの庭の廣い堂々たる家で、渡邊町の住居の眺めとは反對に、千駄木から團子坂一たいの本〓臺を見晴らす家だつた。書齋は四疊牛の酒落た茶室だつたが、軸物も掛けず茶ツけなどの少しもない、極めて無頓着無造作な原稿製造所といふ感じだつた。間もなく放送局の方へ出られるやうになつたので、中々多忙の身柄となられたのである。大正十五年の春、平常可愛がつて頂いた私の娘が病歿したときには、自分の子供のや芥川氏や龍雨氏などと、俳諧連吟を試みたことのあつたのも花萱草花萱草うになげき悲しんでくれたのだつた。芥川氏が一寸呆れたくらゐ······そして······うちよする浪のうつゝや春のくれ-といふ句を手向けて戴いた。この句は芥川、室生兩氏の句とともに、〓里の墓碑に刻したのであるが、地方では相當有名になつてゐる。田端には前から道歡會といふのがあつて、久保田氏も其會員の一人だつたが、あるとき香取秀眞氏邸で開會されたことがあつた。會するもの鹿島龍造·小杉放庵·久保田万太郞·芥川龍之介·木村莊八·北原大輔·脇本樂之軒·香取秀眞、かくいふ老生などで、面白い話の連續と酒の勢ひを發揮して徹夜の宴となりさうなので、竊かに久保田氏と脫出に成功して寢に就いたのだつたが、病人が出來たといふ口實の電話で呼びたてられ、たうとう徹夜のお附き合ひをさせられた。久保田氏は日暮里だつたので、呼び戾しの難を免れたわけである。〓里の墓碑に79
また每年田端で開かれる、山村暮鳥忌に一度出席されたことがあつた。このときは詩人連が殆ど出席といふ盛會で、例により運座をやつたのだつたが、久保田氏が高點を占め、佐藤惣之助氏をして-やつぱりうまいのかな、といはしめたのであつた。またお宅で催された、のちの春泥同人の俳句會にお邪魔したこともあり、ときに自作の新劇を演ずるときなどは、いつも誘つてくれたものだつた。そして昭和五年に出版の「海酸漿」の裝幀が小村雪岱さんで、題簽は私が書いたのだつた。久保田氏は純東京の下町產れでありながら刺身が嫌ひだつた。あるとき何が好きかと聞いたら、私は蠶豆が好きだといふのだつた。怎うも食物の好みは聊か婦人と共通したやうなところがあるらしい。よくなま鱒が到來したとか、何が到來したからといつて、珍味をくれたものだが、ことによると私のところは、いくらか嫌ひなもののはけ場だつたかも知れぬ。尤もひところ名のあつた、御徒町ガード下とやらの豚カツ屋へ是非私をつれて行くといつてゐたから、豚カツは好物だつたに違ひない。が私のはうはお話しだけのお流れになつた。その替り、いや、その前に、私の老眼を憐れんで、有名な眼鏡屋80花萱草花萱草さんに造らせた結構な眼鏡を贈られたが、このお蔭はかなり長かつた。-豚カツと眼鏡.何だか三題話の種のやうだ。思ひ出すのは、諏訪明神のお祭りに奧さんが屹度赤のご飯と、私一家の大好物の蓮根·里芋·菎蒻·切り烏賊·蒲鉾のとてもおいしいお煮しめを下さることであつた。だが、その奥さんは旣に白玉樓中のみたまと化せられてゐる。久保田氏が流感をこじらせて肺炎になりかけたとき、喜多村綠郞氏が見舞に來られ、素顏の同氏に初めて逢つた。紅味のネクタイかなんかで派手な洋服姿は、怎うふんでも四十五六である。その實かくいふ老生と幾ほども違つてゐない。試みに看護婦をして鑑定させたら四十ぐらゐに下落した。呆れかへらざるを得ない。句集「道芝」の中に-このお蔭はかなり長かつた。-豚カツと眼いつも覺えなき脚氣といふ病をわづらふ。日々下島先生の許にかよふ。ることなきよしにて診察のあとはいつも長話なり。さした81
ふところの藥わするる浴衣かな82芥川氏がそれとなく暇乞ひに行つて、傘を描き-しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり-と讃句した墨蹟を遺したのも、この諏訪の森の家だつた。(一三、七、五、俳句研究)花萱草梅雨ばれ○改造社の「俳句〓究」から八月號の隨筆を賴まれたので、久保田万太郞氏のことを書くため大正十四年の古日記を出して見た。元來私は無精もので、日記などは面倒くさくてつけたくないのだが、それでもいや〓〓ながら、ほんの飛び〓〓つけてゐるのです。あとから見ると、も少し叮嚀につけておけばよかつたと後悔するのだが、そこが無精ものの本音だからしかたがない。何か書けとのご命令で何か書くつもりが、いろ〓〓雜用が出來て書けません。甚だもいろ〓〓雜用が出來て書けません。甚だも83
つて恐縮ですが、この古日記の七月のところを寫してその責を免れたいと思ひます。| -反古で風を防ぐのなら月並でも訣つてゐますが、隨筆の責まで防ぐのはヅルイとのお叱りなら、甘んじて受ける覺悟です。○| 84二日晴朝久保田万太郞氏診察に來る。一時間ほど話して歸る。鰤を贈らる(奧さんがわざ〓〓持つて來て下さる)。夜蚊帳の中で、フランスのルノルマン著(岸田國士譯)「落伍者の群」八日雨フランスのルナアル著(岸田國士譯)「別れも愉し」讀了。十二日雨朝脇本樂之軒氏胃を病み往診す。-卽吟午後室生犀星氏より金澤の乾を讀む。(岸田國士譯)「別れも愉し」讀了。面白かりし。庵庭櫻樹の切り株に靈芝の生じをれるを發見す。1れ晴ゆつれ晴ゆつ夏草や靈芝生え出る樂之軒同氏大いに喜び、乞はるるまゝにまづい句だが書いておくる。十四日晴午後室生氏を訪ふ。同氏は庭の矢竹を切り簾を造らせてゐる。奧さん·植木屋·女中はセツセと椿の油とやらで磨いてゐた。堀辰雄氏がボンヤリこれを眺めてゐる。私は樂之軒での靈芝の話をしたら、犀星氏は驚いた表情をして慌たゞしく私を庭の一隅へ引つぱつて行き、梅の枯れ木の根本から小さなものを拾ひ上げ、これではないかと私の鼻先へつきつけるものをよく見れば、小さいながらも確かに靈芝に違ひない。室生氏曰く、-昨日植木屋が三個ばかり大きなのを、貰つてもよいかと念を押して持つて行つたが、さてはまんまと仕てやられたのか、と殘念さうに顏を顰めるから、-知らんのなら仕方がないではないかと慰めておいて、堀君はと聞けば、同君も全乞はるるまゝにまづい句だが書いておくる。85
く知らぬといふ。そこで私は、靈芝俗に萬年茸ともいひ······云々と、支那に傳はる話からはじめたら、二人とも感心して聞いてゐるのだつた。そのうち室生氏は突然-書物の題名につけると佳いな、などといふかと思へば、| 86 |夏行や靈芝生え出る梅の株-は怎うか······などといつて、はしやぎ出した。歸りに樂之軒へ立ち寄りその話をしたら、中々面白いこともあるものだと大喜びだつなが、同氏は、-昨日午後ウト〓〓睡つてゐると、子供の騒ぐ聲がするので眼を醒し、もしや靈芝を採られはせぬかと障子を開けて見たら、無事だつたのでホツとしたといふのだつた。一診すると病氣は大分よい。廿二日雨午後十時ごろ神代種亮氏から電話で、奥さん病氣につき往診を需めらる。つゆ晴れ奥さん病氣につき往診を需めらる。直に千駄木の家へ行き一診すれば、これは奈何に、姙娠腎臟炎に加ふるに肺炎を合併しをり、旣に救ふ可からざる危篤の狀態ではないか。直にカンフルを二、三筒注射し、主治醫はと問へば、醫者に診察を乞ひしはいま初めてだと答ふ。-大變なことをしたものだ出來るだけ手をつくすことにした。廿三日雨午前三時半ごろ神代氏の奧さん遠逝す。-雙兒を殘して、悲慘······夜に入り芥川氏と共に〓別かた〓〓行く。廿九日晴午後芥川氏の二男多加志君の診察に行き了つて、見て貰ひたいものがあるといふので書齋へ行く。先日泉鏡花氏から紅葉山人の俳句の掛け物を貰つたが、讀めない字があるからといふのだつた。見たら直ぐ讀めた(五、句は記してない)。それより同伴室生氏を訪ふ。俳談などして夕方歸る。室生氏が-ゆ晴れ-雙兒を殘して、悲慘······夜に入り芥川87
硯屏に映る草花の暑さかな88 -といふ句を示された。○武藏野關前近味二句紫陽花の乾きかねたる水たまりつゆ晴れの土堤風たちぬ花萱草(一三、七、七、かびれ)れ晴ゆつ乞食井月と夏井月は芭蕉の崇拜者だけに、人生を行旅として實踐に移し、また芭蕉の「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句意に徹してゐたらしい事は、彼の行動がよく物語つてゐると思ひます。「袴着た乞食迷ふ花の山」などといふ〓れ句のあるやうに、乞食井月で通つてはゐましたが、ほんたうの乞食などでなかつたのは言ふまでもありません。實をいふと、幕末から明治の初めにかけ、俳人などにとつて最も惠まれない時代に活きてゐて、あの世相と妥協をしない限り、-己れの魂を-道を汚さない限り、あゝなるのが當然ではないかと思はれます。井月も人間ですから、饑ゑもしませうし寒くもあつたでせ89
50 50が、それがために、假りにもさもしいふるまひや、卑しい行ひのなかつたことだけは保證が出來ます。いや寧ろ、徒らに憐みを請ふのが不本意だつたといふことは、彼の言行からもよく知ることが出來るのです。ですから、彼を虱井月或は漂泊井月といふのなら勿論當つてゐると思はれますが、乞食井月はちと怎うかと思ひます。まあそんなことはどちらでもかまひません。こゝでは夏らしい凉しさうな行動の二三を擧げてみることにいたしませう。私の九歲か十歲くらゐの頃です。學校から歸るが早いか、大笊を提げて天龍の川原へ飛び出したのです。それはおことわりするまでもなく雜魚を掬ふためなのです。この天龍川の支流に深ツ川といふ比較的廣くて淺い流れが、ひろ〓〓とした田んぼの間を貫流してゐましたのですが、この川は美しい小砂利川で、灌漑用といふよりも、雜魚の繁殖また柳などが處どころ茂り合ひ、西はや生活に尤も適當なところとなつてゐたのです。中央アルプス連峯を背景にもつ風光明媚の川原田んぼだつたので、自然我々にはこの上もない夏の遊び處だつたのです。90夏と月井食乞私はこの深ツ川べりを漁りながら上つて行くと、これは如何なこと、柳の木蔭に井月が坐つてゐるではありませんか。振り分けの包みを右側に置き、午後四時頃の西日を浴びながら何をしてゐるのかと近寄つて見て駭きました。それは襤褸の襟を開いて虱をつまみ、前の石の上へ並べてゐるのです。これは妙だと思ひながら見てゐましたが、悠々緩々採つては並べ、並べては見てゐるといふやうなわけで、私が近いところに居るとも感じぬらしいのです。私は小半時見てゐましたが、何時結末がつくかわかりさうもないので、また雜魚掬ひにとりかゝりました。この虱退治は僅かに殘つてゐる日記にもある通り、時々行はれたものらしいが、私はあとにも先にも初めてでした。尤も私の祖母などが彼の衣裳を大鍋で煮てゐるのを見たことはありますが。-夏の川原の柳の下の虱退治なども、良寛や井月ならかへつて凉しい圖になるのが不思議です。これはまだ私の產れないころのことです。私の村のある特志の人から古物の夏羽織を惠まれたので、一着に及んで、恐らく赤穗方面へでも行くつもりで天龍川原の深ツ川邊夏と月井食乞91
へ差しかゝつたのです。ところが、炎天下の淺い水溜りに鮠の類でもおよぎ廻つてゐたのでせう。暫く凝視してゐた彼は堪へかねたものとみえまして、やをら羽織も袴も脫いだと見るまに臀からげとなり、その羽織を掬ひ網に代用して頻りに雜魚を追ひ廻してゐたのださうです。通りかゝりの某が、この奇異な樣子の面白さに暫く見物してゐたが、試みに何をしてゐるのかと聞いてみると、-とても佳い雜魚がゐるから、土產にしようと思うて採つてゐるところだ、と答へたさうです。井月にその雜魚が果して幾匹獲れたのか知るよしもないのですが、隨分長い時間-ことによると日の暮れるのも知らずに追ひ廻してゐたのかも知れません。その後、時を經て井月が某家へ廻つて來たので、かねて見てゐた人から聞き知つてゐた主人が、「魚網に使ふ氣轉や夏羽織」と書いて見せたところ、井月は千兩々々といつて手を拍つたさうです。この千兩々々は沈默家井月の有名な言葉で、賀詞·謝詞·賞讃詞·感嘆詞として使用するばかりか、時として今日左樣ならの挨拶にまで使つてゐた言92夏と月井食乞葉だつたのです。これもある夏のことでした。遠州屋といふ造り酒屋の友達と例の深ツ川から龜の子を一つ捕へて來たのです。酒屋の庭先で絶の子に酒を飮まさうとして惡〓をしてゐるところへ、酒の馳走でも受けてゐたらしい井月が現はれて、言葉はよく訣らないが、-いい子だからそんな無慈悲な惡〓は止めなさい、そしてそれを私に吳れないか。といふ意味らしい。しかし井月なんか莫迦にしてゐる我々は容易に應じようともしなかつたが、鳥渡酒の檢査にでも來てゐたらしい收稅のお役人が、同じやうなことを云ふから澁々彼に吳れてやつた。井月は足に糸の附いたまゝぶら提げて行つたのですが、勿論どこかへ放してやつたのでせう。井月とは一體怎んな人間かと聞かれると、私は斯ういふやうな人間ですよと二つ三つこんなお話しをするのが常でした。これは夏とは反對な冬のことですが、彼を說明するのに尤も適當な實話ですから、一寸附け加へてみるのです。それは遇と廻つて來た彼の衣服が餘りに薄く、さぞ寒からうといふので私の祖母が古夏と月井食乞93
いながらも、厚く綿を入れた羽織を着せてやつたのです。それから數日たつて隣り村の道で逢つたのですが、着せてやつた筈の羽織を着てゐないので不思議に思ひ、その訣を聞いてみたら、年とつた乞食が震へてゐたから吳れてしまつた、と平氣なので、さすがの祖母も呆れたさうです。これはある年の正月です。私は母の生家に遊んでゐると、門前で犬が非常に吠え立てるから出て見ると、井月がやつて來てゐるのです。井月は竹の杖をつき一寸前屈の姿勢で犬と睨みくらをしてゐるのです。そして犬が廻れば井月も廻る、ぐる〓〓廻ること隨分長時間でしたが、犬の方が根氣まけがしたのか、私の方へ尾を振りながら引き上げてまゐりました。芥川龍之介は井月句集の跋で、彼を印度の優陀延比丘の髑體に譬へてをります。が、それがどの程度に合致してゐるかは別問題としまして、權力にも成壓にも金力にも暴力にも無抵抗で、また寒暑にも饑餓にも病苦にも、唯默々として天命を待つといふやうな柔順さは、一寸何といつてよいのかわかりません。94夏と月井食乞酒は彼が唯一の嗜好でした。酒をよく飮むあの頃の信州殊に伊那地方では、彼に飮ませる酒を吝むやうなことはなかつたのです。これは何といつても彼の德に歸すべきことがらで、私はこれを天の美錄といつてゐますが、實際彼が上伊那の土となつたのもこの美錄ありしがためではないかと思ひます。私自身としては餘り酒を好みませんが、若し井月に酒といふものがなかつたとしましたら、非常に物足らない寂漠を感ずることであらうと思はれます。井月の出身地がわからんので、彼に關心を持つ人たちからまだ訣らんのかと聞かれるのです。越後長岡といふことだけは訣つてゐながらそれ以上訣りません。或は永久にわからぬのではないかと思はれます。中にはその訣らんところが井月の眞價だなどと、反つて喜んでゐる人もあるから面白いのです。井月の句碑は今年の四月、彼の終焉の地、信州上伊那の美籌に建てられました。彼も世に在りし間は乞食井月、虱井月などいはれ、さながら芭蕉逝去の辯に書かれてゐる如く、「柱杖一鉢に命を結ぶ。なし得たる風情遂に菰をかぶらんとは······の實現以上の夏と月井食乞95
夏と月井食乞何といつても意義のある、げたのですが、生活を送り、では彼の夏の作から、享年六十六歲で彼として恐らく本望の如く、五十三年目に篤志の人達により立派な句碑が建てられたといふことは、成るべく凉しさうな若干句を抄出してみませう。すが〓〓しいことだと思ひます。野ざらしにも等しい終りを〓時氣底莚酢錢とら冷麥の奢りや雪を物ごしに采女宵山の端の月鳥にに帆をのよきことの重なる年の祭かな祇園會や捨てられし子の美しきひとつ星など指さして門すゞみ旅と見も嗜客日ぬなりるむ朝覆水れて鉢ひ雷かやの衣奴のと鵜干らくりや露脫豆模のなや舟やぐ腐樣聲り水の日ややて宵にや片鵜か時水沖のし靑明の心太な鳥肴鱠雨て簾り篝垢離とりて馬は歸るよ雲の峯夕影の入日にそよぐ靑田か岩が根に湧く音かろき〓水八兵衞も泪こぼしぬ虎五月雨や古家とき賣る町はづれ明け易き夜を身の上の話しかな凉しさや藁で束ねし洗ひ日も中は道はかどらぬ暑さかがかなな雨髮な鳥にに帆を旅と見日もなり日か時水沖の心太な鳥肴鱠雨て簾なな97夏と月井食乞96
風呂に入る夜のくつろぎや鳴く水鷄跳ねたまゝ反りの戾らぬ小鰺かな冷えて飮む酒に味あり蟬の聲蚊柱に夢の浮き橋かゝるなり朝の間や蚤に寢ぬ夜の假り枕心して蝶立ちまはる牡丹かな水ぎはは白にてぞあれ杜若若竹や雀が宿の新まくら象潟の雨な晴らしそ合歡の花朝やけを鳩のなき消す茂りかな鬼の名は咲きかくされず百合の花晝顏や切れぬ草鞋の薄くなる98夏と月井食乞(一五、六、二九、旅)〓と文○鐵齋の畫はいろ〓〓の點から洋畫家に歡迎されてゐる。-彼は精神主義的な後期印象派の作家と同じやうに獨特の技法を發揮し、更に藝術家の素質さへあれば、技巧を第二として初心でも見られる畫が出來るといふところが印象派と共通してゐる。といつてゐる洋畫家があるかと思へば、-あれがほんとの南畫といふものだらうか、怎うも出鱈目とよりほか思はれぬ。といつた邦畫家がゐるさうである。然るに鐵齋自身は、-自分の繪はヌスミ繪だ······と常に言つてゐたさうである。私私99
はこの言こそ彼が造詣の深さと偉さを告白してゐるものだと信ずるに至つたのは、大滌子の師である石谿和尙の力作を熱覽して以來のことである。初心でも見られる作品の出來る印象派と共通してゐたり、出鱈目と思はせたりするところに彼の非凡さがあらう。私のこの畫は、謂ゆる出鱈目かも知れぬが、これでも黑川谿のスケツチの筈だから笑止だ。(畫除く) 100○二十數年前に、京大〓授近重理學博士の令兄、故人近重利澄といふカトリツクの長老が田端にゐられたことがある。風流の人だつたのでよくお訪ねしたのだつたが、あるとき床に半切ぐらゐの岡田半江の米法山水が懸つてゐて然もそれが傑作なので一寸美しく思つてゐた。近重氏は私の心の動きを見てとつて、意外にも無造作にこの軸を割愛された。一體米法は宋の米芾が描き始めたものださうだが、あの濃淡錯落たる潑墨の美しさが、夏の山水をかき現はす適切な一法として古來幾多の畫人によつて應用されてゐる。その〓と文〓と文技は簡單なやうで中々至り難く、優れた作品の尠ないのも畢竟それがためらしいが、半江は我國の作家中確かに傑出した一人に違ひないであらう。-云ふまでもなく私は半江の眞似をしたのではない。唯、この軸をかけた座敷の机の上で、偶と故〓の山の一角を想ひ泛べたまでである。(畫除く) (一二、五、中央公論) 101
102寢そびれ四月上旬行はれた、大阪の某男爵の所藏品入札の結果が、時節がらにも拘はらず非常な盛況で、茶碗一個十幾萬圓に賣れたといふやうなわけから、-軍需インフレ成金に對する骨董屋の暗躍が見ごと效を奏し、いつもながらの濁つた雰圍氣を漲らしたと氣に疾む潔癖家もゐたやうだが、骨董屋の暗躍も買ひ手の懸け引きも、あの社會の古い商賣上の傳統で、いま俄かに文化的とやらのお品の良い方法を望むのが、そも〓〓無理ではないだらうか。いつの入札會でも、多少眉つばものの混じつてゐないことはないやうだが、併し立派寢そびれ多少眉つばものの混じつてゐないことはないやうだが、併し立派寢れびそに筋の通つた稀代の名品は要するに、幾ら高くても、高いほど結構だと思つてゐる我々には、若し反對に安くでもあらうものなら、それこそガツカリさせられるに違ひない。數に限りがあり、その上再び產出する望みの絕對にあり得ない古代の名品を、金で計量するとすれば勢ひ最高點を示すのが當然で、それこそ一國文化の面目にかけても、彌が上の最高であつて欲しい。何れにしても買ふものは限られた富豪に決つてゐる。-彼の一部の人の云ふ國家保有說が、實現不可能の理想と決つてゐる以上、やはり富豪の手に委するより道がなからうし、また實際金持のほかに確實な保護力を持つものがないといふことになる。だからいつの世でも、貴族や富豪は美術品や書畫の保護者であると同時に、奬勵者の地位を占めてゐるものだといつて間違ひないであらう。一體美術品だの骨董品などいふものは、元來パンを追ひかけてゐる下層の所謂民衆には緣の遠いもので、現に民衆藝術だの平民工藝だのと銘うつたものでさへ、買ふものは多くは金持だ。殊に思想上大衆的な作家の畫を買ふものが矢張り金持ばかりだから一寸103
をかしい。が、民衆的の筈の風外和尙や白隱や良寛のかいたものも、現在悉く金持の倉庫の中に納つてゐるといふことに想到するとき、これらのものは、民衆にはどこまでも緣の薄い存在で、氣に疾むどころか、寧ろそれが自然であるのに氣づくであらう。そこで我々が考へさせられるものに文藝がある。これは金殿玉樓はいふに及ばず、木賃ホテルの棚の上にも工場の寄宿の片隅にも、どんな山の中の炭小屋へでももぐり込むほど普遍性を持つてゐる。尤も古本になつて骨董價値を生ずるものもないではないが、圖書館がある以上差し支へはない。然るに畫家や美術工藝家といふものは社會的に地位が高ければ高いほど、よし意識するとしないとに拘はらず畢竟、貴族や富豪のみが相手といふ結構な幸福な宿命から免れることが出來ないのだ。-いやその宿命を摑むのが最後の目的だ。と云へばそれで盡きてはゐるが、併し、その惠まれた陶醉境にあつて、時に或は偶と心の隅に人世の寂しさを感ずる人がゐないであらうか。(一二、五、二一、茶わん) 104茶わん)れびそ寢性と俳句性慾とは要するに生命の原泉たる細胞活動のことで、靑春期とは生理的にこの活動の目醒めた時機にほかならないのである。この時機は勿論思慮も經驗も淺いから、若し性活動を本能のまゝに放置しておいたら、身神に惡影響を來すのは言ふまでもないが、一方既に智性の發達に伴ふ自制作用に調節せらるるから、普通考へられるほど害毒は著しくないであらう。卽ち下世話の-よくしたものといふことになるらしい。そして〓育はこの活動を本能-卽ち單なる興味の滿足に止めずに、もつともつと高い譬へば、宗〓的な境地にまでも押し進めることが出靑春期とは生理的にこの活動の105
來るのである。だから宗〓も文學も科學も藝術も畢竟、性活動の善美な集中的果實であるというて差し支へないかも知れぬ。そこで俳句が詩であらうがなからうが、兎にかくひとたび吐き出される以上、意識するとしないとに拘はらず、その俳人の思念感情はいふまでもなく、人格生活に至るまで詐るところなくさらけ出される訣で、この怎うすることも出來ない現はれを、滿足と感ずる一面また怖ろし-恥かしなど感ずるのが性そのものの省察自制であると同時に、進んで止まない精進力と解することも出來よう。曾て芭蕉の俳句に現はれた性といふことを問題にした人もあつたやうだが、その當時私は、芭蕉のやうな高い精神生活者の作つた俳句を、現代の自由思想や道德觀から興味本位に付度してあげつらふのは少し變ではなからうかとさへ思つたほどだつた。が、それがために芭蕉の性が奈何に高められ〓められた境地にまで進んでゐるかといふことを知り得たやうな氣がしたのだつた。私はこゝに芥川龍之介君の自選句集七十七句の中から漫然-性活動の善美な集中的果實であ106性と句俳句俳と性蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな木の枝の瓦にさはる暑さかな明星の銚にひびけほととぎす白じらと菊を映すや 絹障子薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな-何となく性に響くやうな氣のする五句を擧げてみたが-庭土に皐月の 蠅鐵線の花さき入のる親やし窓さのよ穴-にすら性活動を感ずるのだから、嚴密に檢べてみたら、まだ〓〓多くを發見する107
かも知れない。108 (一二、六、一七、かびれ)性句俳と御幣さん御幣餅については、〓土〓究家柳田氏の著書で見たやうに思ひますが、その書もいま手元に見あたりませんので、私の考へで一寸書いて見ませう。御幣餅は、「天龍下ればしぶきがかゝる、もたせてやりたや檜笠」と伊那節で知られた天龍川の峡谷の名物です。もし私の想像が許されるならば、最も原始的な存在で、發祥は恐らく食物として米を煮たり、食鹽のなかつた時代から餘りかけ離れてゐないだらうかと考へられます。そして味噌といふものの發見は、御幣餅の進歩といふよりも完成といつて差支ないだらうとその書もいま109
思ひます。勿論、古代日本には可成り廣く行はれたものだらうと察せられますが、文化が進むにつれ段々減じて、交通の後れた信州、殊に伊那の峡谷のやうな處に取り殘され、僅にタレの進歩によつて今に傳へられたものかと推せられます。御幣餅といふ名稱は五平といふ人の創製などいふのは俗說で、勿論その型から來たのでありませう。伊那地方では通稱御幣さんと呼んでをりますが、なんと可愛らしい言葉ではありませんか。タレは、最初は恐らく單純な味噌だけであつたことだらうと思ひます。現在では大分技巧が加はつて來て、木の芽などを入れ鰹節を用ひて田樂味噌のやうにしたり、甚しきは海苔·烏獸肉の煮出し汁まで應用するのですから、靑豆や胡桃の摺り込みや砂糖など愚なことです。とにかく御幣餅の味は云ふまでもなくタレの味噌にあるので、この味噌がマツかつたら萬事休すです。この味噌は私の經驗では伊那地方の古い傳統を持つた農家の手造りに限るのだと斷言して憚りません。鳥獸肉の煮出しを應用して現代人の食慾をそゝるのも味の素を用ひるのも勿論結構です。併しものには、自ら分があります。この分限を超え110御幣さん御幣さんたら如何に味だけウマくても、もはや御幣餅といふことは出來ないでありませう。ほんとの御幣餅とは米と味噌とを焙つて醸し出すところの、元始的農民的素朴な味はひを味はふ以外のものではなからうかと思はれます。そこで私の〓里信州伊那で實驗してゐる、御幣餅の製法と食ひ方について記憶のまゝをざつと述べてみるつもりです。餅米三分ほど入れた米をポタ餅よりも少し硬めにタキ上げ(この度合に巧拙あり)それを釜の中で摺混木でツノやうに攪和する。二、その攪和された粘飯でクジラ尺徑一寸ぐらゐの圓くて少し平たいお握りを作るのです(この握り方にも手加減があつて、あまり硬く握つたり柔か過ぎたりしない程度)。三、豫め作つてある竹串にそのお握りを三個或は二個刺すのです。この串は新しい靑竹が尤もよろしい。そしてタレを附けない前にまづ表面の水分を去るために一寸兩あぶ面を焙る必要があります。Ⅲ
四、タレについては前に述べておいたので結構ですが、私たちの一家では多くは、純粹な赤味噌(二年經たのを使用)を手ごろに小さく丸めて鐵架の上で焙り(表面コゲるくらゐに)、豫て摺り鉢に胡桃の若干を入れてよく摺りつぶしてあるところへ、その焙つた燒き味噌を入れ味淋で適度に伸しながらよく摺りまぜるのです(若し出し汁を用うる場合は味淋を使はず出し汁にて伸す)。タレは泥狀に作つて兩面に塗る式とユルく溶いて兩面からカケる式とがある。この調度は味淋或はダシ汁により調節するのです。五、まづ竹申に刺して表面を焙つたお握りの兩面に前述の如くタレを附けたら、豫て爐中のよく燃燒した炭火にかざして燒くのだが、この柄部を止めるために鐵製のワタシといふものを使ふのです。これは東京などでは見かけない一種半圓形の鐵架で、爐で切り餅などを燒くのにもこれを用ひます。六、焙燒度はタレがコゲ初めるくらゐが適當のやうです。人によつてはコゲの少し强いのを風味佳しとして好む人がありますが、それは度合ひもので頗るデリケートな112御幣ん問題です。御幣さんを食ふには燒きたてに限ります。卽ち口に火傷を被るやうなのを吹き〓〓食ふのですが、米と上味噌のコゲる香んばしい偕調がたまらなく食慾をそゝり立てます。そして主婦が自信のある顏をいやが上にほてらせて、早く召し上れとせき立てる大皿の上の行列を、呼吸もつかず片端から退治する手ぎはさは-御幣五合······といふ諺の如く一寸壯觀といふ可きです。さ幣御ん(一三、io. 10.榮養) 113
114秋時雨鏡花泉先生の追憶九月七日に泉鏡花さんがなくなられた。享年六十七歲ださうである。十日の午後三時から芝の靑松寺で告別式が行はれるといふので、私は少し用たしをしてから出向いたのだが、時間が少し早かつたので、歌舞伎座や明治座の旗の飜つてゐる寺の門前に佇んでゐると、文士らしい人や男女の俳優らしい人たちも少しは見えて來た。この日は二百二十日の厄日の影響とでもいふのか、ザツと驟雨が來るかと思ふとケロリと止んで日が輝き、また忽ち降つてくるといふ反覆常なき厄介な天候で、傘の用意はしてゐながら、電車の乘り替へ用たしの途すがら、幾度濡れたことであらう。秋時雨秋時雨定刻には少し早いがかまはぬといふので、我々は一般告別禮拜者のトツプを切つたわけだつた。まづ本堂正面靈柩の前に進んで型の如く恭しく燒香禮拜を了り、くびすを返して左側整列のご婦人がた右側整列の男のかた〓〓に一禮しつゝ退場したのだが、多數のうちから僅に德田秋聲翁·佐藤春夫氏·久保田万太郞氏·室生犀星氏など、よく知つてゐる人たちのほんの一一三の顏だけが朧げな老眼に映じただけだつた。寺門を出るとまたパラ〓〓と雨が降つて來た。泉鏡花さんには大正八九年ごろ道歡會のをりに、芥川龍之介君の書齋で始めてお目に懸つた。この時の會場は田端西臺の鹿島さんのお宅だつたので、澄江堂から三人打ち連れ、話しながら參會したのだつた。鏡花さんの噂さは、豫て聊かながら聞知してはゐたが、さてお逢ひして見ると全くもおつて純眞そのもの--否や、何とも言へぬ珍無類の存在だといふことを知つた。那の時代色の濃い酒落た莨入れの筒から、中ぼその銀張りを引き拔いて靜かに莨を詰め、火を點ずるやスツと一つ深く吸ふかと見れば吸殻ははや吐月案の中に落される。クルツと指115
先に廻轉された煙管は、小指でポンと拔かれた筒の中へ忽ちにして納まるといふ器用な手さばきは、さながら落語家などの演ずる昔の通人そのまゝだ。少しアルコールの利き出してからの話し振りは、聊か舌もつれの混じた氣せはしい切迫調で勿論、普通の雄辯などとは甚だ緣遠いのかも知れぬが、陰翳濃まやかな抑揚自在の奇言百出、言葉の綾のもつれの面白味など、如何な苦蟲黨も顎を解かずにはゐられまい。然も手振り身ぶりの妙趣に至つては、恐らく職業話し家などの遠く及ばぬ自然さだからたまらない。この時の會はたしか拾人ぐらゐだと思ふのだが、その十人が十人誰れひとり臍をよらおぬ者とてなく、那の小杉放庵君の如き斯ういふ不思議な眞人は我々繪かき仲間などのうちには藥にしたくも見當らない。洵に得がたい國寶だ······などと感嘆の叫びを擧げたほどだ。兎まれこの時の道歡會は、全く鏡花先生の一人舞臺だつたのである。酒は餘り强い方ではないらしいが、時々-戴くなら熱いところを······などといひながら、ご機嫌の餘り大醉されたので、芥川君·香取秀眞君並びに老生と三人が、交るが116秋時雨秋時雨はる肩にかけて動坂まで送り出したのだつた。途すがら、もつれる舌を甜めずつて-吉原へ行かう······などとおつしやるのだつた。漸くにして自動車に乘せ、運轉手にはよくお宅を〓へてやつたのだつたが、後に聞けば、神樂坂の懇意な藝者屋とかに車をつけさせ、明けてから歸宅されたといふことである。鏡花全集の出來るころ、いま泉さんが歸つたところだといふ澄江堂をお訪ねした。芥川君の曰く-泉さんが來て僕に全集の序文を書いてくれといふのだが、僕は先生のやうな先々輩の全集へ序文などは書けない······といつてことはつた。然るに怎う考へてもほかに賴みたい人がないから、是非書いてくれといふので、たうとうことはり切れずに引受けて實はよわつてゐるところだと言つてゐた。あの序文は當時有名なもので、泉さんも大さう喜んでゐられたさうである。芥川君のおつ夜のとき、控え家に充てられた竹村の座敷で、曾て芥川君が修善寺の某浴館の二階に滯在中、泉さんご夫婦が見えられ、下の離れ座敷でご夫婦差し向ひのところを竊かに寫生し、畫の上に「鏡花先生喋々喃々之圖」と題した珍畫を郵送してくれた。117
これはベンで描いた非常に面白い傑作なので大切に祕藏してゐたのだが、偶と泉さんに見せたい氣がしたので、早速取り寄せてご覽に入れた。果せるかな、忽ち珍妙な相恰現はれ、これはこれは······と三度ほど頭を叩いて見入つてゐられたが、これは戴かせて下さいますか······と言はれたので、一寸ドギマギした。何れある機會に······とうまく逃げたのだつたが、そのある機會がなかつたので、いまだ118美修寺回巻種フキ堂穂秋時雨に手箱の底に收めてある。秋時雨私のところに紅葉山人の-瓢と財布春の別れを對し泣く-といふ何を書いた扇面がある。この話をしたら是非見たいと言つてゐられたが、これもお眼に懸ける機會がなかつた。序ながら泉さんは、先師紅葉山人の筆蹟に接するときには、まづ口と手を〓め恭しく禮拜してから觀られるのが常ださうである。一見酒々落々たるうちに謂ゆる-三尺離れて師の影を踏まず。といふ儒〓的敬虔さ義理堅さを持つてゐられたといふことは、何といふ尊いことではあるまいか。猶私は泉さんの短冊を一點所藏してゐる。それは-紫のつゝしとなりぬ薄月夜119
といふ鏡花さんらしい名句で、その筆蹟も甚だ見事である。これは室生犀星君から割愛されたもので、いまは芥川君の畫とともに、私のためには感慨深い遺品となつた。120靈前に捧ぐ白しろと尾花の雨の寒からじ(一四、九、文藝春秋)秋時雨初冬漫筆獨山私は近ごろ三越吳服店で、先ごろ故人となられた橋本對雲、卽ち號獨山で有名な人の書畫展覽會を一見した。獨山が京都の僧にしてまた南宗の畫人といふことを知つたのは餘ほど前のことだつたが、その後知人から-獨山は鐵齋に次ぐ名聲の高い南畫家で、畫の高價なことは栖鳳·大觀·鐵齋以上かも知れぬなどと聞かされて、迂愚な私は變な氣もちがしたのだつた。その後またある人から、支那の古南畫に造詣が深いといふことを聞かされて以來、初支那の古南畫に造詣が深いといふことを聞かされて以來、初121
めて彼の作品に注意を拂ふやうになつたのである。一體東京には彼の作品は案外少いやうに思はれたが、時折り賣立會等で散見したり、また某崇拜家の所藏品を見せてもらつたり、そのほか時々デパートなどに出陳されるものなどで、あらましは訣つてゐるやうに思はれながら、不幸にしてまだその盛名に添ふやうな作品(永平寺の觀音像などは大作だと聞いてゐるが、まだ拜見しない)に接することの尠いのを遺憾に思つてゐた。書はよくデパートや丸ビルなどで、對雲落欵の額書を高名な獨山先生とも知らず、太い剛毛の禿筆を振つた-墨とカスレと覇氣と腕力の目立つ器用な書を、誰だらうぐらゐに眺めてゐた。そして近來見かける某畫伯の額書などと同じく、鬼面俗人を駭かす底の類型だとさへ思つてゐた。このたび三越の催しは、よし商賣展ではあるにしても、東京では恐らく故人となられて初めての個展でもありかた〓〓、屹度その盛名にふさはしい作品-少くも晩年の光つた作が見られるに違ひなからうとの期待をもつて見に行つた。122初冬漫筆初冬漫筆然るにこれは奈何なこと、第一書の數多くして畫の案外少いのに失望させられたばかりか、その期待した畫は(勿論斯ういふ畫は前から見てゐるから、珍しくは思はなんだ)所謂新南畫風にかぶれてゐるらしい作柄のものが多く、當然、佳くなくてはならない筈の米法の半切の如きすら、構圖描法共に感心することが出來なかつた。然しながら、色紙などの小點や曾て見た畫帳などには、流石凡ならざる筆墨の練達と、雲煙漂渺の妙境にうつとりさせられるやうな技巧とを見逃すことは出來なんだ。とは云ヘ、新聞で或畫伯の推賞してゐるやうな、竹田や玉堂を偲ばせる作品などは、どこの隅にもまん中にも見あたらず、しかも多數の書は、いつでもデパートその他で見たものと少しも變つてゐないので、がつかりしたやうなわけだつた。良寬私は良寛の「和根推倒海棠花」と書いた一行の小さな軸を所藏してゐる。そして時々懸けて、氣のすむまで眺めてゐるのだが、まだ誰にもこの軸を見せたことがない。123
實は二年ほど前に、いまだによく訣らぬ因緣から、越後北蒲原の齋藤家の「聞水苑」の額を書いてあげたのだつたが、昨年の夏漆工家の富樫といふ人が訪ねて來て、-齋藤家の命で書籍を入れる箱を作るのだが、その箱の扉に李伯の有名な-問余何意栖碧山笑而不答······」の詩を私に書いてもらつてそれを彫刻してくれ、といはれたのだが、書いて戴けるだらうかといふのだつた。私は齋藤家ならまんざら因緣がないわけではないから書きませうと引き受けた。何しろ堅五尺五寸横六尺といふ大ものだから玉版二枚に大書した。暮れの迫つた師走のある日、完成に近いその箱を見に行つたのだが、文字を陽に刻し、印章は角だか象牙だかに彫つてあり、色は赤黑色の漆のとぎ出しといふ非常に立派なもので、原書はそのまゝ活かして二枚折りの銀屏風に仕立ててあつた。私はこれを見て聊か氣恥しさを感ずると同時に、富豪といふものの贅澤さに呆れたのである。このほか依賴で「讀書樂」といふ三字額をも書いてあげたのだつたが、その謝禮の意味で贈られたのがこの軸である。斯ういふわけから手に這入つたのだが、さてこれが果して怎ういふ性質のものである124初冬漫筆初冬漫筆かはまだ解決に達してゐない。一體良寛の書といふものは、非常に高價となつた結果として僞物の横行が甚しく、うつかりするとこの僞物にしてやられる恐れのあるのは周知のことだ。聞くところによると、眞蹟は最はや斷簡零墨に至るまで掘り盡されてゐるといふのは事實であらう。ほかならぬ、越後の名家から贈られたこの軸を疑ふのは甚だ禮を失することになるのだが、こればかりは謂ゆる良寬通の鑑定ぐらゐで安心するわけには行かぬ。現に眞物で通つてゐる墨蹟にさへ、疑ふ可きものが隨分あるやうに思はれる現狀だからである。私も良寛の書については、まだ碌々世人に知られない頃から注意し出した一人である。だから、良寛の書なら立ちどころに判るといふやうな偉い人たちには見せたくない。まあ斯うして時々懸けて見てゐるうちに、私自身で解決のつく時があるであらうと思つてゐる。いふまでもなく書などいふものは、若年中年老年といふやうな段階を經て大成するもので、若し若年中年の書を爛熟期や晩年の書と比較して直に僞物と斷定するやうな人がま125
あるなら、それは輕卒といふものである。云ひ換へれば、標準書に比して劣つてゐるものは悉く僞物と斷ずる潔癖家もあるやうだが、(傑作以外は皆僞物とするのは、作家にとりても鑑賞家にとりても良いことで、その意味からは賛成だが、〓究の上からいへば非常に危險だ)、これは甚だ呑氣な見方である。私は三備地方や京阪方面に僅かながら傳へられてゐる恐らく中年期に屬する墨蹟に、これと共通或は似てゐる書のあるといふことを知つてゐる。齋藤家では何處で得られたものであるか不明だが、若しかしたら越後へ歸らぬ前のものか、或は歸つてから餘り年を經ないころの書ではなからうか?-兎もあれ、そのうちに判明するときが來るであらう。126竹筆初冬漫筆昨年の秋、麹町〓水谷皆香園の文壇俳句會の例會で、高點を得たといふので、規定の賞とあつて出席諸君の句を寄せ書きした一軸を頂戴する光榮に浴したのだつたが、あま初冬漫筆りに夜が更け歸りを急いだので、折角書いて戴いた墨が乾かず、止むなく次回まで預けて歸つたのだが、その後事變關係などから會はそのまゝ中止となつてしまつた。忘れたわけではなかつたが、わざ〓〓取りに行くのも憶劫なので、それなりけりになつてゐた。旣に一年以上にもなつてゐるから、恐らく紛失の運命は免れまいとは思つたが、次手かた〓〓立ち寄つて見た。おかみさんが出て、-あの時分の掛りの女中が暇を取つて歸つたから一向私には訣らないが、若しあるとすれば戶棚の奧にでもあるかも知れません。兎にかく調べて見ますからあなたもこちらへいらして下さい。と會場だつた離れ座敷へ案內された。おかみさんは暫く戶棚の奧をかき廻してゐたが、ボール箱にはいつてゐる一軸をとり出して、これではないかといふのだつた。私は一寸擴げてまづ横光利一氏の達筆で書いた「白菊や膝の冷え來る椽のさき」といふ句が眼に映じたので、確かにこれだというて受取つたのだが、何だか拾ひものをしたやうな喜びを覺えた。この日は無沙汰になつつてゐるばかりでなく、豫て賴まれて描いてあつた額の畫を、室生犀星氏の處へ屆けるべく馬込のお宅を訪ねたのである。日曜には何時も開いてゐる127
筈の門扉が閉ざされてゐるので、一寸不安を感じながら鈴を鳴らせば、その邊にゐたらしい朝子孃が、唯ならぬ表情で-お母さんが今朝からご病氣よ、と小さな聲で告げながら門を開けてくれた。室生氏は茶の間の椽でゆるんだ帶でも締めなほしてゐるといふ恰好だつたが、すぐ出て來て書齋へ案內された。-醫者の診察は大したことではないといふが、一度見てやつてくれといふから、まづ看護婦を呼んで模樣を聞いてからお見舞した。然るに、案外大したこともないらしいので初めて安心をした。書齋の床には「行く秋や深山の家もあらはるる」といふ天明俳人太翼の短冊の軸が時代色に濃く染つて懸かつてゐ、また柱には「くずのはなふみしだかれていろあたらこのやまみちをゆきしひとあり」といふ釋過空さんの短册が懸り、なげしには「辭無竭源」と書いた燕台といふ人の篆書の額がかゝつてゐた。暫くぶりだつたので話しもはずみ、殊に先日新潟の高等學校へ講演に行つたと聞いて珍しいこともあるものだと笑つたのだつた。私は偶と思ひついて携へてゐた例の寄せ書128初冬漫筆初冬漫筆きの軸の餘白へ、「煤よこる蝶紋白や丸の內」といふ一句を加へて戴いて、お蔭で錦上花を添えたことになつた。私の贈つた畫はすぐ擴げて見て、大分童心の漂ひの見える畫だと評してゐた。室生氏の机の上の筆筒には久しい前から大小二本の竹筆が差さつてゐた。これは恩地孝四郞畫伯の先考の作だといふことは入手された當時聞いて知つてゐた。今日はからず私に吳れるといふから、玄龍と刻銘のある大きな方を貰ひうけ、奧さんのご病氣の注意をくど〓〓しく述べてからお別れした。竹筆は昔から支那で使つてゐることや、我邦でも書家は勿論使つてゐるといふことぐらゐは心得てゐた。彼の橋本獨山なども盛んに使つたさうだが、私はまだ一度も用ひたことがなかつた。時恰も表具師銀峯堂主人から、額を書いてくれと賴まれてゐたので、これを試みるつもりでまづ湯で穗を洗ひ更に水洗ひをして見ると、穗の繊維が案外柔軟に揃つてゐるので、毛のこわい朝鮮筆の感じから、書よりもまづ畫を描いて見たくなり、半切に蘭竹を試みた。しかし畫には穗先がこわ過ぎ且つまとまりがくづれるので奈何に129
も困難だつたが、强て描き上げたものは、一種異樣な趣きがないでもなかつた。それから庭と畑をひと廻りして番茶をすゝり、草體で銀峯堂の額を書いたのだが今まで感じたことの少い、何とも言へぬ快適な筆觸を覺えた。二三日過ぎて筆通の人に見せたところが、これは中々上作だと感心されてゐた。130 (一三、ニ、瓶史)筆漫冬初俳句三代集への期待明治から現代に至る間の俳句の總決算ともいふべき三代集は、何はともあれ、意義深いといふよりも、是非必要な存在ではなからうか。殊に我等のやうな老人-然も俳門の內外にうろついてゐた俳人ならざる好き者にとりては、自分の生れた明治このかたの俳句といふものが、怎う進步し發展し流行し停迷し變化したか、同時に、大家小家有名無名の俳人が得意とする作品を、展帛羅列の上に味はふことが出來るといふだけでも、非常に愉快なことである。まして、論辯主張を拔きにした裸々な、眞骨頭を白日のもとに秤量することが出來る眞骨頭を白日のもとに秤量することが出來る131
のだから、ひとしほ興味津々たるものがあるに相違ない。(一四、四、132三、俳句研究)待期のへ集代三句俳溫泉吹雪身體が比較的健康だつたせゐもあらうが、それよりも貧乏暇なしのお蔭で、幸か不幸か、まだ溫泉といふものへ、わざ〓〓浸りに出かけたことはない。尤も、明治も十六七年五月頃と思ふから隨分古い話だが、近所の酒造家の一友人で、恐らく發情期的重い頭痛に惱まされてゐた男が、そのころ評判の高かつた諏訪の瀧の溫泉に行つて打たせるに限るといふ人の勸めに隨ひ、私はそのおつき合ひの格で同行したのだつた。たでしな令とその科学原の温泉として有名なるのニ、近代式設備察突ししあ幸か不幸133
その當時は、二階建て-せい〓〓二十五人以上は收容覺東ないバラツクのやうな板葺きの古家が一軒で、然も多くは自炊の米·味噌·寢具携行といふのだから、勿論我々も聊かその準備で出かけたわけだ。浴場といふのは、低い山の一角にある約五六疊敷きぐらゐの不正圓形の自然洞窟で、周壁は岩石や諸土から成り、溫泉は洞窟の後壁上方約二間、岩石の間隙から水量豐富の瀧となつて落下するので、腦を病む人達はこの瀧に頭腦その他を打たせるのだ。溫度は少々ぬるかつたが何となく靈泉らしい感じがした。その感じをそゝる原因の一つは、溫泉が卒然として自然の瀧を成し、少しも泉道を露出してゐないといふ奇現象によるらしいが、また洞壁岩石の上のこゝかしこに、少くも二つ三つの蛇が、眠れるが如く、さも心地よげに伸びたり曲つたりしてゐる光景こそ、その靈感を深からしめるに充分だつたに違ひない。御婦人や氣の弱い人たちに一寸苦手だつたのは無理からぬことだ。我々は蛇に恐れをなして逃げ出したわけではなく、友人の痛みがとれたといふので、134溫泉雪吹友人の痛みがとれたといふので、溫泉雪吹三日で上諏訪の宿屋へ引き上げた。四五日宿の內溫泉に浸つて家に歸つたのだが、宿拂ひをしたあとの二錢なにがしで、杖つき峠を越えて高遠まで辿りついた覺えがある。支那では日〓役後威海衞の守備にゐたころ、海岸の蘆荻の茂つた藪の中に溫泉の湧くところがあつて、支那人は勿論知つてはゐるが、迷信のためその附近にさへ寄りつかぬといふやうなわけだつた。我々はその泉を汲みとり、病院の藥劑官に調べて貰ふと、立派な鹽類泉だといふことがわかり、急に蘆荻の藪を拓き、粗末ながら小屋を造らせて希望者に入浴を勸めたが、後には司令部の許可を得て小さいバラツクを建て、入浴に便するやうにしたのだつた。當時支那の人達は非常に駭きの眼を見はるばかりか、今に何か祟りがあるに相違ないといつてゐたさうだ。それにしてからが、威海衞は北洋水師衙門の處在地で、西洋の人たちも相當ゐたのだから、この良質の溫泉を空しく放置して顧みなんだといふ事は、日本人として聊か不思議な感がしないでもなかつた。私はこの溫泉の開拓に助力した一人として、時をり-現在果して怎うなつてゐるか日135
と、追憶の念にかられるのだ。大正十五年の春私の娘が死んで、その遺骨を埋むるために〓里信州伊那へ歸り、次手に自分といふよりも、家內の神身衰弱に活を入れるのを目的に淺間の溫泉に浴したのだつた。せめて十日間ぐらゐはといふつもりが、一週間の滯在も出來ずに飛び出してしまつた。時恰も信州は花の滿開季節で、殊に姥捨から川中島間の杏花のうつくしさに驚嘆した家內は、たしかに溫泉や如來樣の靈驗以上、神身の恢復に效能があつたやうに思はれる。そのとき淺間の浴槽で吐いた- 136湯煙りの窓を開けば八重ざくらといふ駄句を想ひ出す。善光寺では-雪吹泉溫巡禮御堂仰雪吹泉溫のをぐ櫻かなといふやうな殊勝らしい句を吐いてゐる。諏訪溫泉は〓里の行き還りに一泊の旅宿の意味から時をり浴してゐるのだが、近年隱棲の身となつたので、少年の頃の思ひ出を偲ぶよすがにもと、昨年の正月歸省してみた。何がさて田舎は隙な時なので、親類緣者そのほか風流を解する人達から思はぬ歡迎を受け聊か有りがた迷惑を感じ出したまでは無事だつたが、流石は酷しい〓里の寒氣に風邪をひき、然も炬燵の酸化炭素にでもやられたものか怎うにもやり切れなくなつて諏訪まで落ち延びた。出された茶を一喫するが早いか、いきなり浴槽に飛びこんだのだつたが、蘇生の想ひ·······などいふ古い抽象的なことばでは表現のできない何とも言へぬ溫泉のありがた味を端的に感じたことだつた。體が溫もり佳い心持ちになつて來て偶と硝子窓を透して見ると、そとは烈しい吹雪の世界となつてゐる。が、それさへ反つて樂しい環境にしてくれた。なぜなら、-そとは烈しい吹雪のなぜなら、- 137
138赤彥よわれは吹雪の溫泉にひたるなどと、ほざいてゐるのだから··(一四、三、二八、溫泉)雪吹泉溫「支那南〓大成」完成の寸感南畫などといふものは既に百年前に亡びてゐる。大雅や蕪村も現代に產れてゐたら、あゝいふ無意義なものを描かずに、屹度油畫を描いてゐるに違ひない。といつてゐる有名な洋畫家があるかと思へば、大滌子や鐵齋の讃仰者もあり、現に南畫のやうな畫を描いて、非常に持てはやされてゐる洋畫の大家さへゐるのだから妙である。さうかと思へば日本畫家の中に、-現在我々の描いてゐる畫は、大和畫は言ふまでもなく、南畫も北畫も西洋畫も、古今東西の畫の精粹を取り蒐めて描いてゐる畫だから、これこそほんとの繪畫といふものである。などと眞面目に喋べつてゐる大家もある。139
最も振つてゐるのに、-觀世流は音樂學校の正科に採用されたのだから、ほんとの謠曲である。他の流派はイカサマだ。南畫は美術學校にその科目も〓授もないところを見ると、やはりイカサマ畫といふのだらうと、嘘のやうなことをいつてゐる紳士がゐた。一體訣つてゐさうで訣らんのが藝術で、その一つに繪畫がある。殊に支那の畫はその淵源が頗る遠く傳統が古いだけに、とかく西洋かぶれの新人や不用意の人たちから輕視されがちである。何ぞ知らん、油繪の創始者は、ベルギー(當時のフランドル)の畫家ゾンネツク兄弟にして、ゾンネツク兄弟が支那の漆繪からヒントを得て油繪を創始したといふ事實は、今は旣に常識となつてゐるほどではないか。要するに詰りは支那の繪畫殊に南畫などは、まだ〓究が深く進められてゐない結果から來る知識の缺乏といふことが原因らしいが、併し實際問題として困ることには、研究途上に横たはる非常な難關がある。それは有名な贋物國に生え擴がつてゐる僞物鑑別の先決問題がそれである。然るに我が興文社は、幾多の犠牲をものの數ともせず、この非常なる難事と闘つて見140〓成大畫南那支〓感寸の成完ごと信用の出來る支那南畫大成を作り上げた。これは我々觀賞者にとり從來抱いてゐた南畫に對する考への一部を一變せしめたほどの駭きと喜びとを齎らした。觀賞者旣に然りである。これを業とする畫家や〓究家にとつては、まさしく旱天の雲霓でなくて何であらう。事實、古い支那畫の生んだ一種の線描の利用により、忽ちにして彼のお蝶夫人三浦環さんと同じ樣に、一躍世界的とやらの盛名を馳せた一洋畫家もゐるではないか。言ふまでもなく南畫大成はざつと支那一千年の堆積である。塵や微の中からさへ探しやうで何が現はれるか未知數の世界ではないか。單に斯ういふ意味からいうても、畫家は勿論、學者·鑑賞家その他一般の人々も、支那の南畫が果して奈何なるものであるかを、この大成について今一度篤と檢討する必要があらうと思ふ。若しそれ、-百年前に亡びたなどとすましてゐたり、變なシウルリアリズムだの安價なインスピレーシヨンなどの影を追ひ廻してゐるうちに、拔け目のない敏感なフランスあたりの畫家にでも住いところを仕てやられ、いつも乍らの後塵を拜して悔いないと〓成大畫南那支〓感寸の成完141
いふやうな不見識の繰り返しをしないやう、心から祈つて止まないものである。(一二、九、支那南畫大成内容見本) 142〓成大畫南那支〓感寸の成完くさめ大正十三年の一月早々、面白いものを見せるからと、北原大輔君から知らせてくれたが、多用のため遂ひ二三日後の夜お伺ひした。二階六疊の床の前から襖の方へ鍵なりに、順序よく並べられた變な形のものが、うす暗い電燈の光りを浴びて、不氣味な古色をちらつかせてゐる。まづ、手前の端のエヂプトの小さい牛神と女らしい銅の鑄物が眼についた。紀元前幾世紀ごろのものださうである。それと並んだ隅のところに、硝子の瓶が二つとコツプが一つある。これもエヂプトの古い時代のものださうだ。恰も乳色のセルロイドのやうな北原大輔君から知らせてくれたうす143
感じで、その形の優美さには一寸駭かされた。何だかクレオパトラの體臭でも移つてゐさうだ、といつて笑つたのだ。それから、ギリシアの小花瓶樣の陶器が三つあつた。中の一つは餘ほどの高貴品と見たギリシア陶器の紋樣は漆のやうに見えるが、やはり鐵分を含んだ顏料であると北原君が說明した。一體ギリシア陶器は、姿は實に佳いが、何だか肉感的な不氣味な感じがする。次には數點のペルシアもので、中に美麗な色繪の小鉢の一つがあつた。周圍に描いてある人物模樣は、因果經の繪と同じやうな感じであつた。これはアラビア人の傳へたマヂヨリカの初期のものらしいといつてゐた。また靑藥で南畫風の筆致と同じやうな人物模樣の鉢があつた。その他は雲母の光るペルシアの香氣の高い壺類と皿であつた。これ等のものは、あちらの古代文化の遺品として貴重なものに相違あるまい。そして東西文化の交流に互に影響し合ふやうになつたものであらう。何だかクレオパトラの體臭でも移つてゐ144その他は雲母の光るペくさめそしてくさめ私は一寸離れてこの雜然たる古器を眺めてゐると、が二つ出た。北原君の蒼白い顏は凄ご味を帶びて、シアの壺の一つを見つめてゐた頭が呆つとしたかと思ふ刹那、嚏あの暗示に富んだ底光りのする眼は、あのペル(4、一三、一) 145
146岸田劉生氏の「東西の美術を論じて宋元の寫生〓に及ぶ」を一讀して畫が最初美意識といふほどのものがあつたか怎うか、兎に角一種の感じから物の形を寫すに始つたものではあらうが、勿論うまく行かなかつたであらう。そこで知識や技術が進步するに隨つて、先づ形がとれてくる。形が出來れば傅彩も自ら生じ、愈本物に似せようとあらゆる工夫に精進したことも事實であらう。さて本物に似ては來たが、寫眞のやうに唯本物に肖たくらゐな單純さで滿足出來なかつた證據に、爰に寫生や寫意にまで發達するに至つたのだ。殊に洋畫は科學を基調として非常な進歩を遂ぐるに反し、東洋では殆ど科學といふほどの基調なしに專ら精神的の岸宋の氏生劉田〓ぶ及に畫生寫の元東〓西てじ論を術美のてし讀一を發達をしたといふことは、その本原は變つたものではなかつたに拘はらず、非常に異つた傾向をとつたといふことは、頗る興味の深いことである。そこで人間の創造した藝術殊に繪畫は、如何なる目的と希望に燃えたか、これは中々の大問題に相違なからうが、詰りは一つの大理想境の表現にあるらしい。なぜならば、繪畫の歷史も他の歷史現象に見る如く、常にこの光明界へ出よう出ようと苦惱と努力の連續だと言ふことが出來ると思ふから岸田氏が畫家として支那宋代の寫生畫殊に花鳥畫に、その價値を見出したのも、詰りはこの一道程と見るべきで、少し遲いやうにも思はれるが、ほかならぬ岸田氏だけに、多くの興味と期待とを感ぜしめる。非常に異つの生氏劉田岸〓ぶ及に畫生寫の元宋てじ論を術美の西東〓てし讀一を(十、一三、一) 117
148長脇差し「あららぎ」の土屋文明氏が信州から東京へ移られたときに、芥川君に賴まれて田端へ家を借りて上げたことがある。その時芥川君のところで初めて紹介された口上は、この男は長脇差しですといつた。それで土屋氏が上州だといふことを知つた。尤も萩原朔太郞君の長脇差しはその前から知つてはゐたが上州はあの高名な上泉伊勢守といふ劍聖と、長脇差しとで著名だが、それは果して偶然でないといふことを初めて知つた。芥川君に賴まれて田端長脇し差長脇差しとで著名だが、それは果して偶上州の總社赤城神社の祭神は、崇神天皇の皇子、豐城入彥命で、擊刀の達神といはんよりも、我日本劍道の創祖でおはしますさうである。また昔より怎ういふものか赤城神社の祭禮には、關八州の所謂長脇差しが集まり、赤城山の至る處で賭博を開帳したものださうで、山は丸で一大賭博場だつたさうである。講談などで有名な國定忠治の最後をこゝに飾つたのも、偶然でないかも知れぬ。一個、一〇·七)擊刀の達神といはん脇長し差149
150佛〓支那の佛畫は、印度から傳來の經文傳說と尠ない佛畫をもとにして、殆ど印度に傳はらない或は全くない樣式と技巧によつて、夥しい創作をしたものださうである。元來印度の佛畫といふものは、〓義の上からある一定の樣式に限られてゐたもので、その種類も少數だつた。だから經卷は渡來しても佛畫は何時も同じやうなものばかりで面白くないといふので、お經の文句の意味から作つたもので、卽ち支那人特有の想像を發揮し、爰に印度とは似ても似つかぬ、否、印度にない支那式の佛畫を澤山創作してしまつたのである。佛畫佛我日本の佛畫は、勿論經卷と共に支那から渡來したもので、我邦の畫家は彼の有名な春日曼陀羅などを除いては、殆ど全く支那佛畫の摸寫といつても差支へないほどださうである。昔の支那人は中々偉かつたものだと思はせられる。現在印度や支那の佛〓は、殆ど滅亡したと云つても差支へないのに反し、我日本には正しく佛〓の曼陀羅華が咲きほこつてゐる。隨つて現在印度や支那の佛畫などは、殆ど云ふに足らないありさまであるのに、日本の佛畫は、明治·大正·昭和の今日に至り、いよ〓〓隆盛になつたのは當然と言ふべきである。現に各展覽會を觀ても、佛畫の數は中々多い。殊に堂本氏の「華巖」の如き、どれほどの創意があるかは別として、その技巧だけでも大作たることにおいて異存はなからう。昔支那の摸寫國であつた我日本は、かくして支那などの追蹤を許さぬほどの創作力を示し、やがては我邦を驚嘆させた唐宋時代をアベコベにする時代が來るであらうことを待望せざるを得ない。畫一四、八、(10) 151
152河童忌七月二十四日は芥川龍之介君の十三回忌だ。昨夜から曇つてゐるのだつたが、午前八時ごろからポツリ〓〓と降つて來た。芥川氏の靈前にと思つて自作トマトの風呂敷包みを提げて早めに新宿まで出ると中々の降りになつた。會は田端の自笑軒ときまつてゐて午後六時からだから、まづ北原大輔君を訪ねて見ると、久し振りなので大歡迎、ご馳走になりながら陶談·畫談などに思はず時間も忘れ、たうとう四時半ごろになつてしまつな雨は上つたが曇天のいやがうへに蒸し暑い。北原氏のところを辭して芥川家へ行き、河童忌北原氏のところを辭して芥川家へ行き、河童忌佛前ヘトマトを供へ線香を上げて奧さんと話してゐると小島政二郞君夫婦が見え、次いで佐々木茂索君夫妻が來る。同時に香瀧さんが見える。少し後れて自笑軒へ出かけるともう二十人ばかり座に就いてゐた。芥川忌は初めのうちは大分盛んだつたが、年が立つに隨つて段々出席者の數も減じ、こゝ五六年は三十人前後になつてしまつた。併し實をいへばこの三十人は切つても切れぬ深い因緣の人たちばかりで、ほんとに芥川忌らしいなつかしい聲や顏ばかりになつてしまつた(尤も芥川賞の人たちが殖えてくる)。出席者は大〓おなじみの筈だつたが、谷口喜作君の隣りに座を占めてゐる、日に燒けたやうな黑い顏をした瘦せてひねこびた爺さんがお辭儀をするから、返禮はしたものの誰であるか思ひ出せなかつた。久米正雄君の呼びかけで小澤碧童君といふことが訣り大笑ひをしたのだつた。同君は初めのうちは出席したのだが、その後全く出たことがないので、逢ふ機會がなかつたので見違へたのだつた。座の右隣が永見德太郞君で、故人の長崎での話などした。私は震災當時彼の東京の第私は震災當時彼の東京の第153
二號が、三味線を抱へて澄江堂へ避難して來て玄關で逢つた話をしたら、頭を叩いて笑つてゐた。左隣は宇野浩二君で、君と初めて澄江堂で逢つたときは若い美男だつたが、よく禿げてまたよく瘦せたものだといつて笑つた。そのとき芥川君の紹介に、これは宇野で中々「ヒステリー」の〓究家だ、といつたことを覺えてゐるかといふと、よく知つてゐるといつてすましてゐた。宇野君は、知人に「エンボリー」に罹つて長く寢てゐる男があるが、「エンボリー」とは何のことかといふから、その說明をしたりした。芥川君の十三回忌紫陽花の雨むしあつき佛間かな頭を叩いて笑154「エンボリー」な一個、一四、七)河童忌新體制と邦〓明治以來我邦藝術文化の中で、繪畫ほど政府の保護奬勵を受けたものはないであらう。卽ち文展·帝展によつて大々的に民衆の前に公開され、名もなき一畫生も選に入れば一躍忽ち天下の名畫伯となるを得べかりしなり。民衆は勿論この政府の公展に絕對の信を措き、遂に丁稚·女中に至るまで、これを觀ざるを恥とするまでの盛況を呈するに至れり。會には美術學校〓授と畫塾或は門弟を持つ有名畫人よりなる審査委員によつて、鑑査及び審査行はる。畫人必ずしも君子ならず、當然こゝに暗鬪と情實を生じ、遂に聞くに155
堪へざる醜聞さへ漏るゝに至れり。この審査委員制の缺陷は、繪畫は畫描きが鑑査に當るべきもので、畫人ならざるものには絕對にこれを許さない。言はばお手盛りの專制が禍ひとなり、然も無鑑査制が生ずるに至り、藝術良心に燃ゆる畫人の憤慨脫退するものを出し、爰に幾つかの私團展を生ずるに至り、文展の權威漸く大に衰へしかば幾度か改革を企圖せしが、禍根深くして容易に效を奏せずして現在に至つたのである。我邦の繪畫も勿論他の文物と同じく、明治以來西洋畫の長所を取り入るゝに急であつな後には支那·印度古き邦畫等より夫々長所を取り入れ、やゝ新しき境地を展開せんとせし時代ありし如きも、今日よりつら〓〓回顧してその跡を檢討するに、進步と目ざすべきは主として技術技巧方面のことで、特に工藝的技巧の進步發達の駭くべきものあるのほか、果して藝術としての本質に幾何の發達進歩を齎したことであらう······現在國家新體制の確立に當り、文展に新體制の影響あるべきは當然で、聞くところによると旣にその準備に着手しつゝありとのことである。この際私の第一の希望は審査委員制の改革で、先づ畫人の委員のほか繪畫に深き限識抱負ある優秀なる批評家及び繪畫156畫邦と制體新につき識見高き學者を選任するといふことである。云ふまでもなし。彼の無鑑査制の廢止の如きは今更ら制體新畫邦と(一五、九、(10) 157
薇(句集)
序わが空谷先生は風流の士なり。書に巧みに、繪を良くし、俳句を作り、謠をうたひ、時ありてまた舞をまふ。往く所として可ならざるなし。先生の家田端に在りし時、わが陋屋と相距る甚だ近く、朝日一本を喫し了らずして達し得たりしかば、納涼の途上、秋夜のつれづれに、その門を敲いて開談すること屢々なりしが、余が外遊の直前、先生卒然として都門の黃塵を脫し、新居を西郊の靜寂境に覓めて、愈々益々悠悠自適の三味に入る。羨むべきかな。故人、我鬼君の家また田端に在りて、日夕空谷先生と來往し、年齒親子の如くなりしも交游同胞も啻ならざりしが、我鬼君幽界に去つて先生の寂寞殊に甚しく、傍の見る目も痛痛しきばかりなりしが、今や先生西郊に隱れて乃ち余が寂寞また尠少ならず。先生は世外に悠遊し、余は俗塵裏に營營たり。しばらく三餘を窃んで西郊の開居を驚かさんとするも、後より俗事の責め來るを161奈何せん。
(年新)薇ずといへども、勿に筆を呵して先生の樂背多祥を祈ると云爾。のあり。るなきを得んや。頃日、先生余が苦衷を憫み、殊に卷中しばしば知友の影像の描き出さるる者ありて、詠む所悉く先生が實生活の實感ならざるはなく、則ち窗下に繙きて讀過するに、抄出する所の句稿「薇」その句必ずしも巧まず、一卷を送り來る。興趣の更に竭くるを知らず。洵に空谷逸民の面目躍如たるもその數必ずしも多から蓋し慰問の好意ならざ勿井元胡元初日影かかやくばかり正木の實初鷄や寢かへり打ちてまどろめり月朝古稀を迎へのの梅鏡日坐馬込の風なぎし空うららなるして元日暮るる爐邊かな犀星居にて日元日のいよいよ熱澄江堂にて芥川君の熱き炬達を好みしは有名なりき置き炬燵歲在庚辰三月中浣新のの年句ぞ軸きやて御代の春笑ひ得ず野上豐一郞記163 (序)薇162
(春)薇桑の芽の萠ゆるともなき彼岸かな小流れに濁る日のあり沈丁花阿羅漢の爐に山女やく梅の寺梅いけて圓悟の瘤のつやつやし奧多摩床の鑄像三佳作枯木犀沼尻に下駄の齒形やつくばひの水こほりけり梅の花芝米星武藏野ののの女關前へまた子らめ德學石院說く利や水梅や梅の花や寒き春のぬる花む京初書訛能初追羽子の日暮れてはずむ裏小路御降りの風に縫れあふ注連飾るやや老見大女所雅とにに隣ま肖じる大野口たる福祿壽り初芝居鐵春春び田端んに銘圓魚眠洞寒寒堀辰雄を見舞ふやの小言鉢問る春女關前子學橋にうつす東坡肉を渡りけりと院能やのり梅春の寒花き165 (春)薇164
(春)薇蒲タ不石に說くひじりもおはす櫻かな忍室賀春城へや唐門くぐる夕さくら薇春うなゐ兒に聲かけらるる朧小金井橋補パラソルをそとすぼめたる櫻かな陀落觀音讃仰の夕潮けふる櫻かな春春親猿の乳ふくませる春逝きし兒の爪あと殘す雛いささかの煤けや雛の片ゑくぼ井の頭公園日かかなな巡陽炎滿洲陣營の土窖を出づる髯武者ら蘭にさすが古墨の匂ひかの小杉放庵畫伯より墨を贈らる綿からぬけて暖か公潮濱風さらばに戎衣も輕きぬぎこころ禮善光寺の御風山田敬中畫伯筆暫に讃すや六法ふんで江戶の町英の町やよ馬す堂のる汗大を仰か川ぐ 櫻く草加道朧なるかかななきな167 (春)薇166
(夏)薇葦蒲磯とざされしままの二階や松の 花鵠沼芥川君の舊居を訪ね門行貝塚に夕日うするる花菜行鳴海手の茶入れとり出す春春雨や骨牌に耽けるまんどころ春春なま欠伸してはもの食ふ寸をを感垣乙女の椿そのとも花くの紙芝居春たかののるな雨雨谿若葉瀨に瀨にをどる鱒の奧日光山物ほ黑猫のひとつ兒產んで夏に入るしの 按摩夫婦や夏の月跡苔故上のに足すべらかす野〓裏門くぐる若葉かな躑 躅かなほろほろと棕櫚花ちる五曉の蜘蛛あはたたし夏とな月のの屑鵠沼芽や小渦卷きつ芽の二句や蔭畫に蛙咲なきけり濱豌豆くつ水浦淀田む甫を夏の躑 躅くかむれな盡りる169 (春)薇168
悼亡時鳥ききながらそと眠りしか170在金澤の犀星より筍の籠からのぞく龍のひげ芥川龍之介逝く枕べのバイブルかなし梅雨くもり永久に眠れる龍之介を寫す小穴隆一顏をてらす晝の燈しや梅雨くもり相馬御風氏の令閨を悼む白蝶の何處消えけんつゆくもり芥川龍之介惜別の菊池寬白百合にまたさめざめとうなだるる(夏)薇(夏)薇芥川龍之介四回忌染井墓地にて蜘蛛の糸眼鏡にからむ暑さかな紫陽花の乾きかねたる水溜り芥川君の十三回忌紫陽花の雨むしあつき佛間かな夕顏の花ほのくらし 宵の雨苗賣の來て糠雨となりにけり島取郊外澤潟や屍しろき雨かへる渡邊町久保田傘雨亭の二階にて二句凉しさの千住まちかき夕燈 り凉しさの靑田見おろす三河島澤しろき雨かへる171
(夏)薇夏草の裏門閉ちしまま夏草のまこと靈芝の生えにけり田端樂之軒朽ちぬ夕闇をひそけく柿の落つるかな關前井戶端に小龜這ひよる大暑かつゆ晴れの土堤風たちぬ花萱草田端山房な若竹田端の石なき庭となりにけり魚眠洞の移轉近し吹く風もなき若竹のそよぎか白雨の虹ふたすぢとなりにけりな水卯の花や根岸の里の冷やし茶の疊も古き貪慾白粉のつめたさかくす團扇か澤東綺談讀みふけりたる金魚かな子規庵に地主老いけり夏羽織風座ほ敷かこりなな炎炎天天なで肩の瘠せも縞絽の羽織ある日の芥川龍之介の四ツ谷見の谿くろぐろ附と 杉や馬牛臺江の島遠望の南頭だけ出す靑田かなか木のか立糞なな173 (夏)薇172
(秋)薇自角の西日まばゆくからびけり與樂寺の鐘が鳴るなり秋ひがん田端死に粧ふ女みまもる夜さむかな玄關に詩僧ゐねむる夜寒釋〓譚かなうはなりの葵の上の殘暑能秋風の吹くがまにまに居を移す三十年以上住みなれし田端より秋風や征く人おくる初秋や千住のそらの光りものツエツペリン伯號來る驛がしら蜂毒打屋根越しのタやけ雲醉だ水大甫庵ふみやかの疊泰花の山ほう木のへの白の夢さらに海女の刈藻の明け易き睡蓮爪彈きも聞こえずなりぬ罌粟ちりて裏隣に人の妾住みけるが染の井門をとざせる法華寺睡秋をうとざせや花の香にし桐三古德の花日月利る法華寺かな175 (秋)薇174
(秋) 蟋明治天皇蟀や御大葬に參列し奉り葬場蟋白しろと尾花の雨の寒からじ蟀泉鏡花翁の靈前に捧ぐや厨にともる豆ランプ霧こほろぎや茶庭にともる石燈自笑軒の茶室に日下部先生と酌む、中秋無月穗芒の頻りにゆる〓里おくつきを掩ひかくせる芒かな義仲寺芭蕉翁の墳に詣づ朝霧の日にうすれゆく稻田辰野から電車に乘り竹の葉に虫つく秋の日でりかな秋霖の池ほの闇しかいつぶり宵片はづれして眼さめけり秋の蚊帳月の東京おんどといふもの上野賑ふ踊かな露けさの紫蘇もまじれり草のなか測量の杭あらはるる野菊掃溜さまざまの虫つとひよる黃菊かな武藏野の中是政に花もつ南.瓜かなかな深伊那峽し日輪月殿ののる案山子かな如神く燈なか籠りるな177 (秋)薇176
(秋)薇椎の屑買ひは扶餘の產と野上博士の紀行扶餘を讀みゐければ、風蔓高麗の昔偲ばれひき合ふやや吾南黑實柘榴や庭にいくさの虫狩の提灯消えてし武藏野山房ま實柘榴や馬込犀星居の庭首か木犀の花ちる家にもどりけり關西旅行より虫松茸や蘭〓里北澤胡麻の實のこぼれて寂し俳諧一茶百年忌秋茄子の老子唐辛子の東坡か〓里にて戯れに磯くさき風のしめり干からびしままの栞芥川龍之介より贈られし漱石句集の中にはさまり殘れるもあはれ無中央アルプス不動瀧不動明王土井月の墳に詣づの班ら干亡兒を偲ぶや撫の子根乾あ白瀧きはたむくるきのやきやぞ 萩月石タ草染のひ秣烏亦紅紅小干けりす石見のした寺な草花瓜紅葉葉袖佛179 (秋)薇178
(冬) 木凩や谷中籾殼の燻しぐるるさむざむと日本橋のいたづらに大瓢簞ののりや塔獻のをこ燈まる暗茶の花の緣にもの縫ふ尼僧すさましや風狂じたる楢武藏野か落土くれや禪月の羅煮凝りの骨食ひあます寒さか帝室博物館雀漢のに糞寒のきほ窓ろあ寒か行寒木瓜の白秋のやたら顏描く榾火大龍寺の幕鳥忌一輪白し暮鳥燉秋蜩のうつらうつらとゆく秋煌滿洲をに中央アジア古畫展を觀る水潦河古淙き々佛との流暮れるける枯帝室博物館後苑や化ばけ野山田敬中畫伯逝く冬のり淙のにに々を糞寒古とまのきりの時時き寒ほ窓流しあ雨雨神さろあれのか石たかけ樂か寒かけ日なな葉佛りなり坂なきりなりか秋181 (冬)薇180
(冬)薇霜睪牛外套や身のたけほしき一二寸滿洲陣營短日秀眞の鑄籾殼に消ゆるうす日や石蕗の花らちもなく根笹にまじり藪柑の 木魚た鳴るるそろりなり永や平寒寺椿子馬籠から暮れて降りだす粉雪かな湯豆腐や雪の田端のうす月夜鹽赤彥よ我は吹雪の溫泉にひ鱈の鮭上諏訪魚眠洞主人よりハタハタを贈らる目の笊柱つめた瘠せくけ靑り光古たるる袴鱈日の丸のはためく雪の在所かな故〓け關ぬ滿洲陣營かる馬いたいけ車滿木曾路ふ前る三洲臺畑つづく鳴のる隅なのな枯り靑芥霰野光かのかな日なる(冬)薇182 183
184 (44)のあとぜんまいご飯一卷を讀んでところどころに絹綿のやうに光る、美しい句にゆき逢ふことが愉しかつた。この愉しさは空谷先生の一等あどけない心がそなはつてゐるからで、こころからの本物のやうな氣がする。畫の話がでると空谷先生は每時も赤くなつて氣焰恐るべきものがあつたが、私は不尠敬遠してゐた。だが、發句のことになると小さくなつてこの人にかういふつつましさがあると思ふくらゐ樣遜であつた。空谷先生のうちで一等美しいものを先生は一等あと廻しにされ、羞かしがられてゐたのである。小流れに濁る日のあり沈丁花薇の綿からぬけて暖かきパラソルをそとすぼめたる櫻かな苗賣の來て糠雨となりにけり皂角の西日まばゆくからびけり掃溜の中に花もつ南瓜かな(跋) (跛)薇「自角」の句はさんらんたる美しい句である。かういふ磧とか山路とかにある一光景をつかまへ得たことは、集中の句の拔手を切つたものであり私のひそかに驚くところ、ここにはいり込んで平然と事もなく一句をなしえたことは空谷先生さへご存じあるまい。そして人の心の深さはその人の知らぬ間に形をあたへるらしく思はれる。「苗賣」の句の溫かい悒陶しさも日增に濃くなりゆく春の日が思はれる。ともあれ、ご飯一卷はこのやうに樂しい句集である。空谷山人のなにものにも代へがたい生涯的なお仕事ではなかつたか。空谷山人は或はかういふ言葉には反對なさるかも知れぬが、でき上つてご覽なさい、俳句といふものの恐ろしさがわかるから。生涯を打ちとほして根を持つたものの手强くさんらんたるものがおわかりになるであらうと思はれる。昭和十五年初春犀星拜記185
186薇の後記芥川龍之介君は、私の薇とほろ寒きの句を推賞し、殊に薇の句は-これにまさる句は恐らく出來ないだらう、などと言つてゐた。また久保田万太郞君は、桐の花の句を褒めて、-何處で作つたのか、といふから、田端の家の緣先へつれだして、屋根越しの桐の梢を指さし、始めて納得したといふ嘘のやうな話がある。室生犀星君も勿論、二句や三句は認めてくれた。が、怎うも自分にあまり自信がもてないので、そのままになつてゐた。一體私は俳句が好きなくせに、自分で作るといふことが億劫なたちで、隨つてその句薇後記自分で作るといふことが億劫なたちで、隨つてその句薇の記後數も極めて尠ないばかりでなく、これを發表することが非常に嫌ひであつた。にも拘らず、一部の人から俳人でもあるかのやうに思はれてゐるのは、漂泊俳人井月などの紹介をした爲めであるらしい。そんな訳から、ついうかうか古稀を過ごしてしまひ、今更ら句集でもあるまいと思ひながらもまた取り出す古寫眞、厭やになるのに變りはないが、唯不思議なことには、以前と違つた別の態度から眺めることが出來るやうになつた。それは、古いとか、リアルでないとか、まづいとか、或は非藝術などといふことから超越した所謂、怎うやら活きて來た自然や人の世に、よし淺くとも、たま〓〓觸れて動いた情感の記錄として、さうむざむざ捨て去るべきでもあるまいなどと、自分勝手な理窟から出なほして、その後に出來た僅かなものを便乘させ、明治三十七年以來ざつと三十五六年間の、いとも貧しい句集だといふことを述べさせて戴けばよいのである。昭和十五年度辰四月下島空谷子187
錢拾七圓壹金價定停他の其齋鐵岡富·筆隨發行所東京市日本橋區馬喰町二ノ二ノ一會社株式振替東京一八四四番電話浪花一四〇·一八四〇·一八四一興文社印代發著昭和十五年十二月廿八日發行昭和十五年十二月廿一日印刷刷表行者者者者東京市神田區神保町一ノ三四高田壬午郞東京市日本橋區馬喰町二ノ二會社株式興文社石下し川島じま株式會社開明堂印行寅吉■いませ

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