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芥川龍之介の『大久保湖州』をどう読むか① 人の一生

 或秋の夜、僕は本郷の大学前の或古本屋を覗いて見た。すると店先の陳列台に古い菊判の本が一冊、「大久保湖州著、家康と直弼、引ナシ金五十銭」と云ふ貼り札の帯をかけたまま、雑書の上に抛り出してあつた。僕はこの本の挨を払ひ、ちよつと中をひろげて見た。中は本の名の示す通り、徳川家康と井伊直弼とに関する史論を集めたものらしかつた。が偶然開いた箇所は附録に添へてある雑文だつた。「人の一生」――僕はこの雑文の一つにかう云ふ名のあるのを発見した。
      人の一生

(芥川龍之介『大久保湖州』)

 人の一生、私もその言葉に反応したのである。それは人の一瞬と同じ意味だ。一日は空しく過ぎていく。そして人は生涯を閉じる。ほとんどの人の人生は、「そして」の三文字から何一つはみ出さない程度に空しいものだ。そんなことを惜しんでいてもしょうがない。その一瞬が明らかに無駄なのだ。しかし人の一生とは、そんな無駄の積み重ねで、昨日はいつの間にかなくなっている。誰かが必死の思いで建てた新築一戸建ては、百年を待たず更地に戻る。赤ん坊は一瞬で後期高齢者になる。いや、一瞬ではならないが、一瞬一瞬の繰り返しであっという間に後期高齢者になる。

 その間にできることは限られている。それに気が付くのはたいてい年を取ってからだ。死に際にちょっと損したなという感じになりながら、意識は消えていくのだ。そのあとには何もない。死んだら原稿は改ざんされる。

 なんと残酷なことだ。残酷なのは、古本屋で本が売れても大久保湖州には一銭も金が入らず、そして『家康と直弼』は誰かに適当に読み捨てられてしまった……というありきたりの書き手の運命だ。五十銭はこの本の内容にふさわしい値段なのだろうか。

 日々書き足される「やり直しの近代文学」が100円、しかしこれは古本屋には売れない。

徳川家康

 急ぐべからず。
 心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
 怒りは敵と思へ。
 勝つ事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身に至る。
 及ばざるは過ぎたるより勝れり。

(芥川龍之介『大久保湖州』)

 急ぐべからず、そういわれてももう時間がない。心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし、そういわれてもいつも困窮している。怒りはない。勝ちも負けもしていない。明らかに及ばない。やり残すことは目に見えている。北村透谷の改ざんだって詳細を突き詰める時間はない。

大久保余所五郎

 後るべからず。
 心に望失なはば得意なりし時を思ひ出すべし。
 卑屈は敵と思へ。
 負くる事に安んじて勝つ事を知らざれば損其身に至る。
 成すは成さざるより勝れり。

(芥川龍之介『大久保湖州』)

 

家康と直弼 大久保湖州 著春陽堂 1901年

 そのままだ。

家康と直弼 大久保湖州 著春陽堂 1901年

 僕は思はず微笑した。この湖州大久保余所五郎なるものは征夷大将軍徳川家康と処世訓の長短を比べてゐる。しかも彼の処世訓は不思議にも坊間に行はれる教科書の臭気を帯びてゐない。何処か彼自身の面接した人生の息吹きを漂はせてゐる。「心に望失はば得意なりし時を思ひ出すべし。」――情熱に富んだ才人の面かげはかう云ふ一行にも見えるやうである。僕は漫然とその次の「鎌倉漫筆」へ目を移した。漫然と――しかし僕の好奇心は忽ち近来にない刺戟を感じた。まづ僕を喜ばせたものは歴史家を評した数行である。
「若もし徂徠にして白石の如く史を究めたらんには、其の史眼は必ず白石の上に出づべし。『南留別志』を一読して知るべし。頼山陽を歴史家と念ふは非なり。日本政記の論文にも、取るに足らざる浅薄の見多し。」

(芥川龍之介『大久保湖州』)

 なんと芥川龍之介は国立国会図書館デジタルライブラリーに『家康と直弼』が収められ、二文字以上でテキスト検索ができることを知らなかったようだ。そう思えばこそ、人の一生は空しい。一行のボオドレエルよりも価値のないものが、歩き回り、走り回り、文字を書き、忘れ去られ、いつかテキスト検索される。

 大久保湖州でテキスト検索するとたちまち一番上に『家康と直弼』が出てくる。

 そしてこんなテキストが出てくる。人の一生など空しいものだ。みんな死んでしまうし、人が何かを理解したと思うことにはさしたる意味はない。

 たいていの人は何も理解できないまま、死んでいく。証拠を見せよう。

大久保湖州遺若家康三直弼春陽堂叢行

近衞公爵題字
大久保湖州遺著序大久保湖州奇才子也。性嗜史學。爲其舊主彥根侯。纂輯實錄。慨嘉安間世論失實。參互校訂。不遺餘力。遂摘德川氏創業主臣事蹟論著數篇。觸事繹情。揣摩摘發。雖時不免疵瑕。要其主旨公平。不偏不阿。而著眼之慧。運筆之健。湊合之妙。使人目眩舌橋。眞奇才奇書也哉。惜乎天不假年。纔三十六歲而七。遺著止於此。昔者水戶栗山潜鋒。爲史舘之〓。
亦三十六早世。其著保建大記行于世。潜鋒議論謹嚴。雖與湖州異趣。而一奇一正。各出其機軸。蓋亦由史學方法隨時世而變爲爾。抑嘉安開鎻之論。水彥二藩爲之主今湖州潜鋒。生不同時。而其年齒偶同。亦一奇也。予甞識湖州。迨遺著刻成。爲辯一言。明治卅四年七月下浣成齋重野安繹故大久保湖州君が遺稿の首に書す坪內雄藏故湖州君が遺稿一卷、紙數四百五十餘頁、其の半以上は雜誌などによりて、既に一たび公にせられしもの、殘りは隨時の雜筆にして、未だ世間には知られざりしものなり、いづれも綴りすてられしまゝなるをば、こたびあちこちより取集めて、此の一卷となせるなれば自然の結果として、或部分は斷簡零墨、首尾往々にして全からす、或部分は咄嗟の所感さながらにて、世間に見するものとしては、餘りに粗笨なるもまじりたれど、流石に其の學識見は其の文藻と共に群を拔きて、尋常一樣の傳論とは撰を異にせることおのづから明かなり、假令生前半面の識なかりし人といふ
とも、一たび此の遺著を通讀せば、故人が才識の非凡なりしを推想して、其の造詣を完からしめ、其の理想を遂げしめざりしことを痛惜すべし、况んや親戚故舊にして此の遺著に接するをや、故人が雄大の抱負の僅に此の斷簡零畢にのみ其の片影をとゞめたるを見る感慨の情は、思慕追悼の情と共に、綿々盡くる時なかるべきなり本篇收むるところの史論のうも、最も重きを置くべきは、家康に關するもの三篇なるべし、而して是れ皆特に予の需に應じて綴られしものなるを憶ひ起せば更に一段の深感なき能はざるなり、蓋し湖州君が才學識は、夙に一大史傳を編するにも堪へたりしならめど、君が性の愼重にして斯學に忠實なるや、輕々しく筆を着くるを好まずして、沈潜講究の間に幾多の歲月を過されたり、會、早稻田文學に予が桐一葉を揭ぐるや君は同情を以て之れを迎へ。且つ德川時代に於ける劇詩的材料の尙甚だゆたかなる由を物語り、遂に予の需を容れて、家康に關する傳論數篇を寄せられにき、本篇に收めたるものは即ち是れなり、今にして思へば、君が意子をして築山御前母子に關する一悲劇を作らしめんと欲せしにはあらざりしか、既にして桐一葉を綴りをへて、牧の方の稿を載せたり、君牧の方に關する予が史論を讀みて曰はく、鎌倉時代の亂離紛擾は、寔に貴說に見えたる如し、劇の材をかしこに求められたるは、げに故あり、併しながら德川末路の亂離紛擾就中直弼の懷小刀たりし長野主膳、さては島田左近等の魂膽、近
衞老公、村岡の局等の經營苦心、それやこれやの隱微の事情は、更に一段の活悲劇なり世間に知られたる皮想談とは格別にて、哀しむべきこと、痛むべきこと夥し、かしこに材を求めたまはヾ、好脚本たちどころに成るべしと思ふがいかにとかくて談は維新の內幕話に移りたるが、尙くはしきをば書き綴りて早稻田文學に寄せんといふ君が豫約はあだごと〓なりて哀むべし、君が健康は其の後次第に面白からずなりゆき、早稻田文學もまた起たずなりて、君が其の折の維新史談の面影は、本卷收むる所の直弼篇、長野義言に關する斷章、及び近衞老公が傳記のうちに、只その一斑を髣髴するのみとなりぬ史家としての君の抱負は、多く說くを要せざるべし、傳傳記私言數則」二二二頁)「己之記」(三一六頁)「人の一生」(四三九頁)などいふ斷章は、仄かながら、君が理想と主義と方法との影を傳へたり、曰はく傳記者の業は人を見ると人を說くとにあり。見るには厚き同情を其の人に表するを要し、說くには極めて虛心平氣なるを要す。同情の爲に決して公平なる判斷を亂すべからず。.是れ史家としての君が理想の一斑なり如何なる惡人も惡人の身となりて察すれば、其の惡人となりしに於て、必ず種々なる事情と一種の道理とを存すべし人を見るもの先づ此の間の情理を知悉するを要す。而る後是非の評を下して誤らざるを得。事實に依りて心術を悟り、心術を悟りて更に事實を解す。然れども其の間往々矛盾するものあり人は外界の事情に制せられて己れの意思を枉げて心ならざる事を行ふ。此の隱秘の關繋を說明するを至要とす。
問ふに落ちずして語るに落つ(中畧)此の無意識の言行に由りて始めて其の人の眞意を窺ふべし。是れ君が〓究方法の一斑なり、其の用意の深切周細なりしを見今夜の我は昨夜の我よりも進みたる我となりて眠りに入れ。明朝の我は今朝の我よりも進みたる我となりて起きよ。此の無限の向上心と自信と自重と「成すは成さざるより勝れり」といふ積極主義とは、君が幾十年間一日も廢せざりし寧ろ廢する能はざりし主義なりき史家としての君が技倆、才分、詞藻將た多く辨拆するを要せざるべし、本卷の諸篇その現證を供して餘あればなり、例へば、近衞老公傳の如きは君が燃犀の史眼と卓拔の識見とを示せるもの、就中維新の二大思潮を辨拆せるあたり議論尤も明快にして雄大なり、さりながら君が種々の特長を尤も善く一緒に集めて示せるものは、家康に關する三篇なるべし、そこには君が强健なる常識も、其の富瞻なる同情も、其の公平なる批判眼も其の穿銳なる洞察力も、いづれも只片影ばかりながら、剩す所なくあらわれたり、取りわけてこゝかしこに、さながら寳石の象眼の如く撒布せられたる奇警の短評は、按ふに、君が獨得の長技なるべし、通俗ながらも古雅に、流暢なれども簡勁の致を失はざる文辭の間に此の寸鐵殺人の冷刺險語を散見する特殊の趣味は、世間普通の史論中には其の例殆ど絕無なる所なり予は之れによりて君が諷
諧の才分の尋常ならざりしをも證せんと欲するなり倩ら方今の史壇を見るに、事實の穿鑿に割毛の微を悉せる考證派の史家は其の人乏しからず、大胆、に演繹し、巧慧に推斷する文明論派の史家も亦た其の人無きにあらず、ひとり二者を兼ねて其の中を得たる者は殆ど空し、蓋し前者の弊は、動もすれば歷史をして事實と年月との徒の塊たらしむるにありて後者の罪は、た動もすれば之れをして〓論の徒の塊たらしむるにあり、彼れは聯絡なき古骸骨、此れは骨なき擬肉團に比すべし、共に眞人の遺體として見るべからざるや明けし、又之れを現史壇の文致に見るに、記叙の正確を專一として乾燥枯淡、蠟を嚙むが如き史筆はあり、感興を呼ぶに力を致し、誇張に流れ、褒貶みだりがはしく、文の華に失して事の實を殘へる史筆はあり、科學的精嚴と文學的趣味とを兼ね備へたるものに至りては、今果して幾ばくかあるべき、此の時に當りて大なる未來を有する明治の一史家を湖州君に於で失へるは寔に我が國史界の痛恨にして、悼惜に堪へざる所なり併しながら君が遺著一卷四百五十餘頁は譬へば是れ彼の龍門の波間に跳る三十六鱗の閃影なり、苟も眼あらん者は、かばかりの閃影によりても君が天分の眞相を知るべく、後の史學者將た、之れによりて攪醒せられ啓發せられ尠くも家康論、直弼論、乃至維新史論を集大成するの一眞鑰を此の卷中に發見せんこと疑ふべからす、果して然らば、此の一小册子はひとり親戚知交間の
小紀念物たるにとゞまらざるべきなり鳴呼是れ亡友大久保湖州の遺稿なり湖州才學優長、爲すあるの資を懷き而立を超ると六歲、史稿を腹笥に藏し、之を世に出すに及ばず、忽焉白玉樓上の人となる、予豈湖州一人の爲めに惜まんや、子の湖州と相識るを得たるは、其二十〓餘歲、東京專門學校に居る時に在り、其英語を專修し卒りて、政治科に入りしは志當世に存するを見るべし然れ共其相見る每に、輙ち談多く讀書學問の事に及びて、時事に渉ると少し、予故に其才學を認識するも、大に政界に志あるを知らざりき、而して、其言史論に涉る者は、着眼奇警、人に殊なるを見る、甞て曰く、井伊直弼の全傳を作らんと欲すと、其學窓に〓科書を讀む時代より、志史學に存せしを知るべし、既にして予に語げて曰く、學校は我を成就する所以の地に非ず、
故に退て獨學せんと欲すと、予初其言を不可と爲せしも、詳に其說を聞て理ありとし、終に之を賛せり蓋學を修むるに他の誘啓を竢つの人あり、自ら修めて足る者あり、湖州の性直ちに古人に接するに足るべくして書あれば此に師あり、故に刻苦〓鑚自修自得の力を信ぜり此種の人は必しも他の誘啓を要せず、予今此遺稿に接して、其某氏に呈する書を閱するに及び、湖州が新井白石を以て自ら期するを見、其政界に志ありしを知り、又其遠大の望を懷き、試驗を標準と爲し、卒業を登龍門視する者と撰を異にするを知るを得たり、鳴呼此書載する者は湖州蘊蓄する所の九牛の一毛のみ、然れ共稿中本多正信の一篇の如きは、尤見るに足る者あり、其史眼炬の如く才筆刄の如く、能く幽暗を燭らし、亂麻を截る、尋常史家の及ぶ能はざる所なり、鳴呼斯人に假すに中壽以上の年を以てせば、必我史界に貢献する所ありしなるべし、且其政治に施す者、亦或は見るべきあらん歟、而して此一卷の稿を遺して早世す、惋惜にたふ可けんや、昔者英人バツクル心學校の〓育課程に滿たず閉居學を修め、齡三十六にして書を著し、以て一世を震撼す、然れ共蒲柳の質を以て、〓學の勞に瘁れ、之が爲めに病を得、僅に其腹稿の〓論を公にして早世す、英人今に至るまで之を惜む、我湖州の終始頗るハツクルに類する者あり、同窓の友人水谷不倒、遺稿を校訂し、併せて其小傳を作る、後の此稿を讀む者、湖州の如何の人たるを想ふべし予の湖州に於ける十年の交あり、故に親く知る所の事實を述べ故人追憶の記念と爲すと
いふ、明治三十四年七月島田三郞撰故大久保君別號を湖州と云ふ、頃者其の友人遺文を蒐めて一書となし、余の一言を徵せらる、余湖州と舊誼あるを以て茲に其の言を叙するを喜べり余の始めて湖州を知りしは、其の未だ專門學校に入らざりし前なりき、當時湖州余に語るに故井伊直弼公の傳を記する目的を以てせしが、爾來余が廬を訪ふ每に、談井伊公に及ばざることな第し、此を以て余私に湖州が多年心を動かさゞるに敬服せり。去年四月の末、余病を鎌倉に養ひ、日に逍遙を事とせしが、偶ヽ湖州と長谷寺の畔に邂逅せり、湖州突如として曰はく「僕嚮に直弼公を時事新報の紙上に論じたり、願はくは一讀を煩はさん。」と余乃ち之を諾せしが是余が湖州を見たる最後なりき。夫より余は
去りて熱海に遊び、滯留月餘にして京に歸りしに、湖州既に時事新報を送りて我が家に在り、而して後數月にして、料らず其の訃音に接したり。夫井伊公の時代は、我が邦人一に鎖〓に傾きたる時なりき、而して公が斷じて開港を行ひ、日本をして戰爭を經ずして今日の文明を得しめたるは、余は國民として長く其の功績を記憶すべき情義あることを信ず。然るに當時時勢を論ぜしものは、大〓公の敵人の手に成りしを以て公の名は久しく醜惡なる文字に濱されぬ。友人島田沼南、最に此等の史論を詰賣するに及びて、世論大に改る所ありと雖も、公の心事に至りては、猶未だ世に明かならざるなり。押〓公は果して開港論者なりしや否や、是尙今日の疑問なり、慕府の遺老にして當時の事を知れるものは、大抵公を以て鎖港論者となせり、然れども鎖港論者にして開港の事を行ふは一怪事にあらずや。今湖州は之を斷じて曰はく、其の人素より學者に非ざれば、博く諸書を涉獵して、學者風に豫め天下永遠の經綸を立つるが如きは、得て望むべからず、實地に依りて見る所を定むるは、實際家の習にて、掃部頭も此の方面の人にしあれば、其の外交上の考意も、實地の局面と共に變じ行きしを看るべく、始は純然たる鎖國論者にして中頃一點變色を帶びたる鎖國論者となり、終に數年の後、漸く開國の已むを得ざるを悟るに至りしなり。嗚呼余の公を視ること、亦此くの如くなりき。然れども今湖州にして之を言ふは、至難の事情なきに非ず、而かも湖州としては之
を言はざるを得ざるなり。近頃余之を聞く、舊大藩華族の數家、其の舊臣をして戊辰以前の藩史を編輯せしめたりしに皆一藩の力を以て維新の革命を遂げたる事實を擧ぐるの傾向ありと。是眞正の史と謂ふべけんや、然れども滔々たる天下大約此くの如し、而して今湖州の爲す所は獨り之に反し、直言して飾る所なし、是に於てか世人始めて公の眞面目を窺ふことを得べし、是豈井伊家の舊臣として至當の事と云はざるを得んや。嗟乎余は、湖州が其の目的を遂げずして簀を易へたることを惜しむなり、世間廣しと雖も、湖州の如き公論を爲す者、果して幾人かある。明治三十四年七月口田口卯吉誌溽暑難.凌候處倍御〓祥大慶に存候扨過日御來示の大久保湖州君遺稿校正刷瞥讀一過覺えず人をして凄愴禁ずる能はざらしめ候此の遺稿は實に湖州其人の篤學と老成とを憑證するものにして且つ之によりて其人の如何に前途に於て造詣あるべきかを豫測せしめ爲めに吾人をして其の不幸短命を哀悼するの情を切ならしめ候特に小生の如きは同〓若しくは同窓の友にあらざりしも屢ば君と相見たる因緣あり君の病を鎌倉に養ふや亦た返子なる草廬に過訪せられたること一再に止らず予は實に君と各種の間題に就て意見を交換したることありき但た故井伊直弼に就ては聊か其の判斷を同うせざるものありしやに記憶致候予は井
新伊の自から責任の地に立ち天下の異論者を相手として德川氏の舊。制度を維持せんとしたる膽勇と熱誠とを偉なりとするも其の開國家たるの一事は未た猝かに彼に許す能はざるを信し候固より彼が京都の朝廷や水戶家や其他全國に充滿したる尊攘家の論議に頓着なく德川將軍家の責任にて假條約の調印を斷行せしめたるの一事は開國の趨勢に向て國運を一轉せしめたるに相違なしと雖も是れ唯だ事後の結果にして此れが爲めに彼は開國に功ありと云ふは可なり然も之を目して彼を開國家と云ふに到りては彼果して斯る過實の讚辭を甘受す可きや甚た疑はしといふにありき惟ふに彼は此にあらざれば危局を濟ふ能はす且つ此事を德川氏に於て斷行するは實際の政權德川氏に存することを證明する所以にして阿部閣老時代に廢弛に傾きたる德川氏の制度を恢復せしむる所以此にありしとなしたるなるべしと存候然るに君は井伊を以て中心よりの開國家となし當て予に向て其の證左を擧けんことを約束せられたりしも今や九泉の下君を起すに由なく斯る歷史的講習も空しく一塲の昔語と相成候予は返す〓〓も君が良史の才と學と特に精根とを有しつゝも其の志を齎らして逝かれたるを遺憾と存候當今天下才人多しと雖も君か如く忠實に面倒を厭はす精細に吟味〓究を重ね而して後筆を把る者それ幾人かある予は此に於て君か品性の亦た實に敬重す可きを見候先は右迄思附の儘得貴意候御一覽の上御取捨被下候はヾ仕合
中八月初九夕に候勿々不一桐賢貴下兄蘇峰像遺の者著生
詠遺の者著てみ詠に忌回七十三の老大伊井故にりな題ふいと柳前庭はつーてしに歌るれ率もと首二
大久保湖州君小傳大久保湖州君は、通稱を余所五郞といふ。彥根の藩士大久保權內氏(後に松軒)の四男なり。慶應元年七月三日、近江國彥根城下東中島町の自邸に生る彥根は琵琶湖畔の名邑にして、君玆に生る、よりて湖州を號とす。幼にして穎悟、頗る學を好み、八歲の頃より漢籍を學び、又學校に入りて普通學を修む。成蹟常に良好にして、群生徒中有望の少年と目せらる。明治十年君十三歲にして縣立彦根〓習學校に入り、師範學科の豫備科を修む。二年の後業を卒へ、爾來八年間、小學〓員として、彥根近〓三四の小學校に職を奉じ、專ら兒童の〓育に小傳
從事せり。後年君が寛容の氣風あるは是時に養はれしに似たり。」其頃頻りに東都遊學の志あり。〓員たるの餘暇を以て同國長濱なる長濱英學舍に通ひ、英語を學び、窃に時節の到來するを待ちぬ。同二十年、家兄に件はれて東上す。時に君二十三歲なり。翌年早稻田專門學校に入り、英語を專修し、業を卒へ更に政治科に入る。政治科に在ると僅に一年にして、業を卒ずして退學せり。是間前後通じて四年、業を勵み、學術常に優等同級の首席を占む。秀才の聞あり。講師はじめ學友皆其退學を惜まざるものなし然れども君が退學は敢て學業を廢せんとにはあらず。既に自修し得べき學力を有したる以上は、成規の科程を蹈むの要なし、むしろ退いて實力を養ふに如かずと信じたればなり。軈て〓里彥根に皈り、小懲其言の如く實行せり。明治二十六年、是より先き叔身中村不能齋翁は、彥根に在りて舊藩主井伊伯爵家のために『井伊直弼傳』の編纂に從事せらる。君傍ら其業を助け、孜々として倦まず。其德川史、殊に幕末史に精通するは之が爲なり。同二十八年二月、偶々近衛公の雜誌『精神」に小改革あり主筆を要すれども適當の人を得ず。時に友人、君を彥根より起して、其任に當らしむ。當時日〓戰爭の際、內外頗る多事にして、言論の自由甚だ狹隘なり。君は精神社に入り、「政府の襟度」(『精神』第五十號)といふ社說を以てはじめて讀者に見え、奇警なる着眼と雄渾の筆とを以て大に時事を論ず。『精神』爲に振ふ。然れども永く留るを得小傳
ず。僅に牛歲にして同年六月辭して去る。是より先を(明治廿五年)君所要ありて大坂に行き、偶々其客舍に於て肺患に罹れり。然れども幸に醫藥効を奏し、漸次輕快に赴き、其後、殆ど平常に復したるものゝ如しと雖ども、君固より體質强壯ならず。當時友人の勸誘切なるものありで、一旦『精神』に筆を執りしといへども、君の健康は永く此繁雜の業務に服するを許さず。况乎東京に出で、近頃各藩修史の模樣等を聞知して大に感ずる所あるに於てをや、當時『精神』の事業、もとより君を竢て處理すべき事件頗る多し、而して君亦之を知れり情に於ては之を棄て去るに忍びずしかも如何ともすべからざるものあり。因て斷然决する所あり後任者を容れて身を退き、彥根に歸臥し、靜に病を養ひつゝ一意歷史編纂小の事に從へり明治三十年、中村不能齋翁と共に、改めて井伊家より『井伊直弼傳』の編纂を託せられ君は專ら史料の蒐集と立案との事を擔當して上京し、居を東京牛込にトし、爾來古記錄の謄寫と材料の整理とに費すと二年餘。『早稻田文學』其他一二の新聞雜誌に、德川史の小題目を論述したるは是間なり。當時友人等、君に一一一の著を公にせんとを勸めたるものあれど君自重して容易く承引せず、然れども决して其意なきにはあらずたゞ之に着手するの暇なかりしなり。されば世に公にされたるものにては『德川家康』『本多佐渡守」等僅に二三短簡の著あるに過きず。しかも君が史學上の知識は、早く既に世間の認識するところどなれり。是より先き傳
君は井伊家の歷史編纂員として史談會に入り、本年四月推されて同會の評議員となれり。『井伊直弼傳』は其後着々として歩を進めぬ。君が擔當の材料は旣に纏まれり。腹案も亦立ち、將に筆を執らんとする時期に達したり。是に於てか君は豫め中村翁と協議の必要あり。同月君鎌倉の寓居より彥根に行く。然れども此行最も悲むべし。東海道の汽車は豈啻に君を彥根まで運ぶのみならんや。運命は更に〓〓君を永遠無窮の行旅に件ひ去りて、復决して歸へらざるの客となしぬ。彥根に歸りたる其七月八日、君偶々肺患再發せり。家人大に驚き醫藥手を盡すと雖ども更に其効なし。剩へ腦脊髓膜炎を併發し、危篤に陷り、翌八月十八日、病の爲に遂に起たず。時に三十六歲小部り。同二十日遺骸を彥根城の東北靑波村龍潭寺に葬る。君東京に在る間、健康しば〓〓勝れず因て寒暑を鎌倉に避け、常に藥餌と親み、攝生加養心を盡す。しかも君精勵一日其業を廢せず。君常にいへらく、肺患は不治の病なり。予到底長壽を保ち難きを覺悟せり。唯願はくは數年の健康を保ち、此傳の成功を果し、天下の誤解を正さんと。盖し君は櫻田凶變以來今に四十年、毀譽褒貶紛雜の間に葬られたる幕末の偉人井伊大老の生涯と其大業とを、最も公明に編述し、世の惑を解くを期したればなり。しかも遂に君の志は遂げす君が多年の經營は胸底に疊まれし儘、手に觸れし史册と、僅に其目錄とを殘したるの外、何等後人に殘すともなく、空しく土中に埋もれぬ。洵に痛惜の至なり。病の革まる數傳
日前、君既に起ざるとを覺りたれども語多く後事に渉らず、たゞ須臾も其念頭を離れざりしは『井伊直弼傳』の事にして業未半ならず、積年の功を一簣に缺くの遺憾やる方なきものゝ如く、一首の歌を詠じ示す。こゝろざしなかばもとげぬ我身だにつひに行くべき道にゆきけり此歌永眠の後不幸にして君が辭世として讀まるゝこそ悲しけれ。君中島氏貞子を娶り二子を擧ぐ。長は女にして壽子といひ本年三歲なり。次は男本年七月君の病中に彥根に生る。男子なるとを聞き、君病苦を忍びて喜の笑を洩らせりと。其七夜に、當り君自ら進一と命名す。然れども大患既に君が身邊に迫り、其後しば〓〓半昏唾の狀態に陷り、世事を忘する〓とあり。婦人貞子時に嬰兒をして君に見えしむ君見て且つ喜び且つ疑訝の眼を注いで其名を問ふ。盖し曩に自ら命名したるとを遺忘せるなり。これを聞くもの流涕せざるなし。寡婦貞子、今彥根にありてよく君が遺志を服膺して、二子の掬育に餘念なし。君また靜に眠るべきなり。君生前頗る親戚に厚く、又公共心に富めり。愼重を貴び一擧一動苟もせず。よく案じ考熟するにあらざれば事を决せず、一度决すれば復び動かず。約束を重んじ義理に堅し、人格の上よりいへば當世流の紳士にあらず。これ君が所謂「三河武士」の遺風なるもの
ならん。君事に當るや精悍、人に接するや寛容にして能く客を遇す。故に君の門を叩くもの日に絕えず。而して客の種類を問へは、〓ね未來に屬する政治家、文學者、詩人美術家、史家、哲學者、事業家等あり。君は是等の人々に接するに、よく彼等と談論を交ふるといふよりも、寧ろ彼等の談理、放論に耳を傾くるを長所とせり。君は實に此多方面の人物を遇するだけ又多趣味多角形の人物なりき。君の學殖の博き、政治經濟文學に渉り、歷史は固より其本領なり。且君は先見の明あり、心に考案を疊む諸同人中しば〓〓君を訪ひて其意見を叩くものあり。君之が爲に〓策し毫も其勞を惜まず。皆君の親切にしてオあるに歎服す。唯惜むらくは、身體其健全なる心と適はず未だ眞の公生涯を送らざるうちに既に世小を早うしたるとを嗚呼もし天の君に借すに尙ほ數年を以てせは、啻に君は、未成の大著述に向つて望を囑せられたるのみならず、政治家としても事業家としても必ずや能く成功すべき人物なりしならん。今や此有望の君はあらず。遺憾限りなし。今年八月十四日君が大患の報に接し、往いて君が病床を訪ふ。既に病危篤に陷りて君と語を交ふる能はず、其十八日君の訃音に接し、哀悼誠に禁じ難きものあり。しかも歲月は流るゝが如く、今や殆ど半歲に埀んとし、玆に君が生前の友人相計り、其遺稿を上梓せんとするに當り、濫りに君が小傳を編述す。明治三十三年十二月初旬於浪花友人水谷不倒小友人水谷不倒
家康と直弼例言一此書編纂の目的に二あり、普通の遺稿と體裁を異にするは是故なり、著者嘗て此書家康篇に收むる所の論文三篇を合せて一卷の書となし、以て世に問はんと欲するの意ありき、此書則ち一は其志を死後に成さしむるを以て目的となす、然れども著者が主とせし所は井伊直弼の〓究にして、家康の評論の如きは、畢竟其餘業のみ、故に特に直弼篇を設けて直弼に關する論文を蒐め、此二種の論文を以て本篇となし書名を『家康と直弼』と題す、此書又一は著者の面目を不朽に傳ふるを以て目的となす、因て本篇の外に雜纂を附錄とし、以て詳傳に代ふ、故に主として著者の面目を窺ふべきものを取り、必ずしも文辭の巧拙に據りて取捨せず、一此書本篇收むる所の諸篇、專ら記事の聯絡を主として排次す、今其起稿の年時によりて序列すれば左の如し、一長野主膳其二明治二十七、八年の頃起草未刊、例言
二本多佐渡守二本多佐渡守明治二十九年三月十五日發行早稻田文學第六號より、同年六月十五日發行第十二號に至る七號運載、三長野主膳其一明治二十九、三十年の頃起草未刊、四鬼作左明治三十年一月十八日發行早稻田文學第二十六號より七、八。九の三號を經て、同年四月一日發行第三十一號に至る五號連載、五德川家康明治三十一年二月三日發行早稻田文學第七年第五號より六、七、八、九、十、十二の數號を經て同年十月八日發行號外に至る八號連載、六岡本黃石明治三十一年七月一日發行國民之友第三百七十一號揭載、七遺老の實歷談に就て明治三十二年三月六日より同月二十一日に至る讀賣新聞連載、八井伊大老は開國論者に非ずといふに就て三長野主膳其一四鬼作左例五德川家康六岡本黃石言明治三十三年四月二十九日より五月一日に至る時事新報連載、一本多佐渡守の評論一篇成るに及びて、著者の筆致一變す、著者嘗て曰く、明治二十九年以前の起草に係るものは、皆幼稚にして見るに足らず、特に近衞老公一篇の如きは、頗る粗策の評論、今にして大に之を恥づと、本篇收むる所の長野主膳其二も亦是時代の起草に係る今是等の諸篇を合せて世に紹介す、或は著者の志に背かんことを恐る、然れども著者の而目は、尙ほ是等の諸篇に活躍せり、割愛に忍びずして遂に之を取る、著者の靈若し知るあらば、又必ずや恕する所あらん、一此書卷首に揭ぐる著者の肖像は、明治三十三年春彥根に歸るの前鎌倉に於て家人と共に振寫せしを、こたび擴大せしものにして、著者の、肖像中最新のものなり一肖像の次に揭ぐる二首の詠歌は、井伊伯爵の家に藏せらるゝを、借り得て印刷に附せしなり、一此書本篇附錄並に肖像詠歌等印刷成るや、著者の小傳と共に、假に之を綴例言
(四)裝して、著者生前の先輩故奮に贈り、批評若くは追憶の辭を寄せられんことを請へり、近衞公爵則ち題辭を贈られ、重野、坪内、島田、田口、德富の諸氏皆特に寄するに序文若くは批評の文を以てせらる、本書爲に光彩を增すこと大にして、余輩の微意亦空しからざるを覺ゆ、玆に謹みて謝意を表すといふ、一初め遺稿出版の計畫あるや、汎く著者生前の友人に、追憶感懷の文を請ひ得て之を附載し、以て著者の面目を他の方面より發彰せんことを期したりき、既にして余輩の求に應じ、或は其計畫を傳聞して、寄送せられし詩歌文章數篇に及びしが、著者生前の交誼上必ず先づ加ふべき友人の寄稿にして、未だ到達せざる者尠からず、而して著者逝てより殆ど一年、豫定の期日漸く切迫して將に餘日なからんとす、是に於て止むなく計畫を改めて、前記數氏の外總て之を省き、更に版を重ぬるの折を待つことゝなれり、是れ余輩の誠に遺憾とする所にして、特に既に寄稿せられし諸君に對じて陳謝措く能はざる所なり、願くはこれを諒せよ、明治三十四年八月編纂者等識例言編纂者等識家康と真弼目次家康篇德川家康第一(序論-實際家と其修錬)·第一一(人質の家康-徳川今川武邊緣邊の結托)·第三(尾張打入!德川今川の絕綠。德川織田武邊の結托)·第四(築山御前の悲境-家康と其家庭)第五(姉川の出陣-徳川織田綠邊の結托。德川武田の爭衡。德川家庭の紛亂)·第六(大賀彌四郞の變-徳川家老の敵國內通)·次目一-七七九一七二六次三七四四
第七(築山御前及信康の最後-織田の離間策).五六第八(結論-隣國の外交と家庭の内情と錯綜して現出したる悲劇更。家門保全の精神。封建制度と部分互制。德川幕府の消極主義。德川の緣邊政略)······六八五六目鬼作左··第一(家康多士。作左の人物)第二(小牧の役-德川豐臣の衝突。家康和を欲す。德川家臣の感情)··第三(秀吉家康の子を養ふ-德川豐臣の和睦作左秀吉を窺ふ)·第四(徳川の上田城攻-秀吉の德川牽制策。石川伯耆守の出奔-秀吉の離間策。作左秀吉を欺く)··七八-一一三七八八七次九二九七第五(家康の上洛-德川豐臣に服從す、岡崎城の人質-作左の威嚇。北條征伐-家康の秀吉に對する好意。作左と秀吉との衝突。結論-徳川豐臣關係の表裏。作左は秀吉に對する德川家臣の反情の代表者。不遇の最後)·目一〇四本多佐渡守一一四-一七四第一(德川武士の大望と佐渡守の秀吉利用策。家康の群雄駕馭と佐渡守の三成利用策)一一四第二(前田謀叛の風說と佐渡守の糺明策。上杉征伐の心事.上方蜂起と佐渡守の權畧。大施。西上。佐渡守の献策福島を試む。山道の軍。佐渡守重きに過ぐ)一二五第三(關ケ原戰後の經略。孫孫孫久の計。世嗣定立の議。一一四次
佐渡守秀康を推す。秀康と秀忠)第四(德川の氣長政略。家康佐渡守と共に舌頭加藤〓正を制す。佐渡守〓正を試む)·第五(佐渡守の大阪離問策。佐渡守と片桐且元大阪冬陣。佐渡守の威嚇。大阪夏陣。佐渡守豊國祠を絕つの議を起す)·第六(佐渡守の智略と德川武力の省略。家康佐渡守の交情。いき大黑。佐渡守の嘘。佐渡守の寡欲。佐渡守は德川武士中の一變人)·一三六一四八目一五五一六四次直弼篇井伊大老は開國論者に非ずといふに就て(鎖國主義の非戰說。ベルリ渡來。鎖國主義の海外出貿易策。掃部頭が外人の渡來を欲せざりし理山、一、國風頽廢の憂慮二、財政上の困難。諸外船の渡來及びハルリスの談判。制限を設けて開國するの說。掃部頭の心術。堀田備中守の上洛。掃部頭長野主膳を京師に遺して周旋せしむ。掃部頭堀田に勢援を與ふ。掃部頭大老に任ず。調印延期談判。長野を京師に遺す。假條約調印斷行。大老延期を主張す。大老勅許を得るの成算あり。大老の心事齟齬。大老は實際家。大老外交意見の進步。西洋の事情に關する邦人の智識。大老の開國說は國家保全主義に出づ。大老の國風維持主義。大老旋政の方針。大老の本領)一七五-一九〇目次
岡本黃石井伊直弼-梁川星嚴(文政天保の彥根、黃石星巖の〓を受く。ベルリ渡來。黃石の攘夷建議。直弼の和親出貿易說。ハルリスの將軍謁見。實際家開國說に變ず。堀田備中守上洛。京師不穩。黃石人を星巖に遣して時事を諮はしむ。黃石上書して星巖の精神を直弼に取次ぐ。直弼大老に任ず。直弼黄石を江戶に下して時勢を識らしむ。長野主膳黄石を說く。京師の形勢切迫。隱謀方召捕。星巖の急死。黃石の星巖に送る書直弼の手に落つ。櫻田の變。黃石死を決す。黃石長野等を殺す)一九一-二〇六目次長野主膳二〇七-二二四其一(幕末勤王說の二派。主膳勤王系に屬す。澤の根芹。澤の根芹の國體論と紀州推戴說。國體論より出たる佐幕說。澤の根芹の朝廷論と和戰の事朝廷に奏し神慮を伺ひて決すべしといふ說神道論より出たる勤王說。佐幕即ち勤王なりとの說.安政の大獄の心事。開國說)其二(安政の大獄論。長野の人物論)附傳記私言數則目二〇七二五二二二次遺老の實歷談に就きて實歷談の二種實歷の範圍實歷談何に據れる乎二二五-二五六··二二八二三三二三七
實歷談有の儘ならず海江田子爵の實歷談·二二六六目附録雜纂第一期其一東京專門學校學生の時代活潑知己故〓演說を以て言文中和の一手段とすべし同〓の恩人某氏に呈する書二五七·二六二·二六六·二七一二七四次早稻田漫詠其二東京に在りて獨學せし時代太湖之波·我囊(〓萃)·一日の獨遊二九〇···二九一三〇三三〇七目第二期其一歸〓して專ら病を養ひし時代。養病餘言(〓萃)三一〇自慰無聊三一四回春帖自序三一四其二彥根に在りて修史の補助を爲しゝ時代己之記(拔萃)··次
秘密囊隨感錄(拔萃)亡母の靈に〓ぐる辭··三二五三三五目第三期其一東京に在りて雜誌記者たりし時代『精神』社說(抜萃)·三三七-三七九政府の襟度:·三三七月色皎々たり·三四〇朝鮮の改革···三四四一掬の淚·三四七日本の吹聽三五〇伊藤伯三五二外債論·三五六次第二維新の第一事三六一京都博覽會三六五國民の堅忍三六八和局乎變局平·三七一自由乎壓制乎·三七四天下多事三七六對壁偶語三七九讀史偶威三八五近衞老公參三八七-四三三其二東京又は鎌倉に在りて專ら修史に從事せし時代友人某氏に與ふる書四三三同〓の先輩某氏に呈する書四三八目次四三三四三八
人の一生鎌倉漫筆彥根詠草鎌倉詠草以四四〇四五一四五二(二一)目上次家康と直弼故大久保湖州著友人水谷不倒校〓家家家康篇德川家康第足利の末世、細川山名等が諸國を押領し、年貢さへ京師に納むるもの殆とこれ無くして、室町將軍も名のみの殘物と爲り、永祿年間時の公方義輝は陪臣松永彈正久秀が手に攻められて自害し、本意を遂げし彈正は、表に義榮を推し立てゝ、おのれ實權を擅にせしが、やがて織田信長は義昭の求めに應じて都に切つて上り、松永等を追拂ひて、義昭を將軍に戴き、親ら統領して建てける二條の新營に之れを奉じて誠しやかに崇敬を盡しけるが、數年の後には亦松永の轍を追ひて厄介の主を除き今は名目の公方さへ立てずして、豪傑康直弼
自ら天下の權を占めたりけり。世は斯かる風雲定めなき空と成り行きつゝな天下は復二人一家の事有物にあらて方と運との唯物となるにしかば(を狙(き野心の然はいかや得長が脚下より進もし明智日同乎光光の止まるべき。本能寺不意打の數夜前、連歌の席上に於てときは今天下知る五月かなと發吟して、暗に腹の底をばほのめかしゝ大望家と同じ夢を見て、半夜竊に枕後の市力に壯見を寄せしお必ず處からざりしとるべし浦生及大あふも更なり、鬼柴田が心の中にも裏面あるべし。天王山に吊合戰の義旗を翻して、主家に隨一の忠臣顏せる秀吉が腹の底は尤も怪しかりけり。昔都に上りて義輝將軍が坐前に跪き、菊桐の紋を下賜せられて、故〓に錦を飾りし上杉謙信入道る今は武田の好敵亡せて、織田信長ひとり都に威を震へるを望みては、いかで其が雄心の動かでやあるべき。桶峽の合戰に討死せし今川義元さへ、織田を破りて都に打つて出でん意ありとぞ聞こえし。されば德川家てん〓〓28尿も均かる亂世に際有して販前に天下の主ジ博太重はり有く永を眺は、其が沈實なる念虛には縱し自ら望むの妄想を描かざりしも折に觸れて德川家康は、いつか天運我れに廻り來たらん日も無きに限らざるべしと想ひしこともありぬべし。殊に多年苦しめられし甲州の勤敵も滅び、義理ある織田殿も逝きて、草履取りが天下の世と爲り、長漱の一戰に上方勢を打ち挫ぎてよりは、外には威望も高く揚がり、內には自信の念も强く成り勝りて、三河武士が志圖も愈遠大となりしや亦疑ふべからずさはいへ家康には幼年より久しく他國に質子となりて、命さへ危き亂世の憂目に逢ひつゝ、さしも困窮の間に生立ちたる身にしあれば、世路の險難にして、人生の意の如くならざる實情は疾くに〓了せしなるべく、少壯血氣の時代にも、年の程に似合はぬ苦勞家の心中には妄におのが力を量らで分限不相應の願望を起こすが如き淺慮なかりしなるべし。其の晩年の物語に我れ岡崎一城の主たる時は近處の城々に用心せしめ、三州一國の主となりては近國の用心をし、開東八州の主となりては東海。東山北陸道の治亂を考へたるぞ。今又天下の主となりては、日本國よく治平したる故、諸異國の事を聞かするぞ。といへるが如きげに戰國の間に次第に立身せし深き用意の順序を看るに家康と直弼
足るべし。武道不案內なる者は-身の程を知らず、天の時を考へず、一村知行すれば一郡を取り、一郡知行すれば一國も手に入れ一國領知すれば天下をも望まるゝ樣に心得、敵の大小强弱をも辨ぜず、無分別にして天下の騒動となるものぞ。とは、是れ亦積年熟慮を經にし老後の言なれども、昔岡崎に在りて、僅に一城數郡の小領をは、覺束なくも命に代へて大事と守り、眼前隣境に敵を控えて、一夜の枕も安からざりし折には、彼の實際家の意中には徒に氣ばかり大なるうつけの慾念はこれ無かりしなるべし。人には向ふざすといふことなければ、その心がけも自ら薄くなるなり、信玄が世にありし程は、味方にとりて剛敵なれば、彼れをむかふざす標的として、常に武道を磨きし故、家卒までも甲州の戰にはいつも粉骨を盡しゝなり。むかふざすといふことは離も忘れまじき事ぞと常に晤りしといひぬれば、亦以て當時家康が意向を窺ふに足りぬべし。長湫の合戰後は、其の向ふざす所無論秀吉なるべし。夫の「關東八州の主となり德川家康ては東海東山北陸道の治亂を考へたるぞ」と言ひけるも、畢竟秀吉が味方の雄將をば此の邊に排置したりしに由り、おのが領地に近き彼等が動靜に尤も留意せしを言へるなりけり。油斷なき家康必ず夙に江戶の城中に帷幄の臣を集めて。彼の三道より攻め來ん敵を防ぐの策は勿論、己れ打ツて出でん日の軍略に智術を凝らしゝに相違なかるべし。蓋し家康の胸中能く彼の三道を制しなば、其の勢もて幾內を制すべく已に畿內を制しなば中國四國さては九州はまた兵を勞せずして制するを得べしと期せしや疑を容れず。果して異日秀吉簀を易へし後天下を經畧するに先づ北陸の前田を抑え、尊て會津の上杉征伐に赴き、而る後中原の爭に向かひて、關ケ原の大决戰を爲せし事實に徴しても、歷々として此の老雄が方寸の裡を觀るに足るべし。江戶を大事と固めつゝ、特に畿内以東の形勢に注目し、天下の半局を制して、やがて、全局を制せんと懸念しけるこそ、流石に思慮深密と謂ふべけれ。徒に志のみ大なりし蒲生伊達等とは自ら輕重あるべし。所詮日本を掌中に握りて、今は眼を海外にさへ配れる家康も、始より天下を望みしにはあらで、昔は唯岡5)崎の一麺に第4りて優の罪郡の小様に事參せしに巡ざきりしなり務家康と直弼
康が夙、に大志ありしが如くいへる者あれど、附會の說なり。我れ天運に叶ひて天下を取れりとはこの腹黑き男が常に口にせし所なりけり。さはさりながら家康が長き生涯の間に尤も苦しき經驗を嘗めしは、恐らくは他日秀吉が天下におのが武運を開きて、世上の歸依もおのづから多くなりにし比よりも、曾て三遠二州の間に籠もりて、朱だ厚き天運に遇はざりし時節にありぬべし。年すでに四十を過ぎて、開運の順風に乘じては、案外容易に運轉も利きぬれと年尙若くして智慧經驗の熟せざる身の、荒らき亂世が風濤にもまれては、辛苦多くして失敗尠からず、永祿三年彼れが年十九にして、今川義元討死後、多年今川の手に取上げられし祖先傳來の岡崎城を恢復してより、天正十年かの甲州の剛敵滅亡せしに至るまで、二十餘年間の困窮堪苦は實に後年取りし天下を經營するの苦心に勝りし者ありぬべし。而も其の古今に稀なる大人物となりて、天下の主たる身ともなりしは、所詮此の間の苦心の結果に外ならず。今の政道は予先祖よりの御政道ぞいまだ三州一國手に入らざる時も、今又天下の事を取行ひても、その大小は替れどもその基は一致ぞ、徳川家康と自ら言ひけるにてもおのれ三州の小天地に積みし經驗をば、擴げて天下の舞臺に應用せしを識るべし。三河武士が天下を取りし武勇の力量も亦是れ十數年間武田が精兵にもまれて屢敗北を取り、鍊りに鍊りて鍛ひ上げしに出でしなり、信玄入道病死せりと聽きしとき家康歎じて、凡そ近き世に信玄が如く弓箭の道に熟せしものを見ず。我れ年若き程より彼れが如くならんと思ひ、勵んで益を得しこと多し。-すべて隣國に强將ある時は、自國にもよろづ油斷なく心を用ゐる故おのづから國勢も治まり、武備もたゆむことなし。これ隣國を憚る心あるにより、かへりて我が國安定の基を開くなりと語りきとぞ入道逝きぬと聞きては斯く惜しめとも、そが當たり難き、銳鋒に苦しめられし時の思は、生涯肝に銘じて忘るゝ能はざりしなるべし。三方が原の大区に榮に育の後を見せ群師助九郎に属引き文てられ第に溺がら濱松城さして逃げ還れば城門深く鎖して番兵迂潤に明けすこの時敗將の意中果して如何ぞや。思ひ遣るだにあはれなり。勝賴の代となりてもをり〓〓其の猛氣に勝てる兵鋒に攻められて苦戰少からず。長篠の役にも、味家康と直弼
方の將士等三方が原の前敗に懲りて、亦こたびの武田が猛勢におぢし色見えしかば、彈正山の本陣に於て、名も高き宿將酒井左衛門尉忠次をして、其の得意なる海老すくひの狂言を舞はしめ、優勢を示して軍氣を張りしとなん。忠次をして可笑しき狂言を舞はしめし家康が苦しき狂言こそあはれなりㅂりれ描くて逐康平君を原より熊本たびの堪數を經しが必ず患母に家れば、敵味方の軍略の巧拙より勝敗の數に至るまで、仔細に詮議して後口の戒と爲せしに相違なし武田滅亡の後其の遺臣を召抱へて尙も切りに兵術を穿鑿せしが、井伊万千代が手に屬せしめし老功の者共が述べける軍法の內には、上方勢は一萬あるも五千より多しとは思ふべからずとさへ言ひけじ いる實ありけり本牧の役に小勢るて秀吉の大軍を物ともせさりし發氣等然にあらじ。同じ役に秀吉小牧山なる徳川勢に向かひ、隍を堀り柵を造りて待ちけるが、むかし覺えある家康之れを見て去にし長篠の合戰におのれ勝卿に施して勝ちし故智をは、今亦用ゐて我れに試みけるは拙策の至りと笑ひきとぞ。又長篠の役に織田の援兵來たりて軍始めんとせるを大久保七郞右衛門忠世等今日の軍に加勢の織田勢に先んぜられては德川の面目ある德川家康べからずと家康に語らひて、やがて柵外に出で、劇しく戰を始めたり。後に關ケ原の役に諸客將等先鋒を承り、兩軍相對して、霧霧の晴れ行くまゝに、今しも戰端開けんとする折抦井伊直政には公子下野守忠吉を擁して僅なる手勢を隨へ、名にし負ふ剛將福島正則が先陣の側に打ツて出で、軍法違背と各めけるを、下野守が軍、物物と住言して拔駆け出でゝ戰を始めたりしも、即ち彼の長篠の役の先雖に倣ひて、知らぬ顏せる家康も預め頷きし事に相違なし。夫れ家康武邊に於ける事實の一斑すでに斯くの如し。更に其の天下に立ちて、外は巧に群雄を操縱し、内は遠く子孫の計を案じて、能く家臣を撫御し、人生成功の道に尤も熟達せし跡を原ぬるに、亦三遠に住みし壯時の實驗に悟りしもの尠からず。家人大賀彌四郞を殺し、築山夫人を殺し、又長子岡崎三郞を殺しゝ事件は、實に此の間に重ねし最も悲惨の經歴なりけり家康と直弼第天文十八年家康年八歲今川が許に預かりの身と爲りて駿河に下り義元よカニり建てて四へし步將の乞町なる道に在かつ供來じ未たりし天野三之
岩七之助阿部善九郞等左右數輩の近衆を、遊仇として、宛行扶持の詫住居に不遇の生を送りぬ。岡崎城の本丸は今川より造はしける山田新右衛門に占められて、箇川の者其は此の趣代の下効を受く大久保定た衡門忠敬:の狀を陳べて言へらく、さる程に御八歲より御十九まで駿河に引きつけられ給ひて、其內は御の쯤扶持方ばかりのあてがひにして必消の物度とてよしも遺さるゝ事をならずして、今川殿へ殘らず押領して、御譜代の衆は十ケ年あまり御扶持方の御あてがひ成きるべきやうもあらざれはせめて山中二千石あまりの處を渡しても吳れざる歟、譜代の者共が餓死に及ぶ躰なれば、彼等にせめて少しの扶持方をもくれたきとは仰せられけれども、山中二千石をさへ渡したまはねば、いづれも御譜代衆手作りをして、年貢石米をなして百姓同前に鎌鍬を取り、女子をはごくみ、身をたすけ、あられぬ〓形をして、まことに駿河衆といへば、機嫌を取りはひつくばひ、をれかいみをして、肩の骨身をすくめて、恐れをなしてありく事も、若し如何なる事を仕出してか、君の御大事になりもやせんと思ひて、それのみばかり德川家康に各御譜代衆あるにあられぬ氣づかひをして走りめぐる事十ク年にあまる。年には五度三度づゝ職河より尾張の國へのはたらきあり、竹千〓代殿(家康の幼名)の衆にさきがけをせよと御中越しければ、竹千代樣は戰河に御座なされければ、誰を御主としてさきがけをせんとは思へども、然れども御主はいづくに御座候とも、譜代の御主樣への御奉公なれ"は各〓我も〓〓と殘らずまかり出で、さきがけをして親を打死させ、子をも打売させ摂文理いとこと打死させ其身もあまたの疵を破りて其印こには尾張よりはたらきければ、出でゝは防ぐ、畫夜共に心をつくし、身を碎きてはたらくとは申せとも、いまだ竹千代樣の岡崎に入らせ給はぬことのかなしさと各の身にあまりて欺きけりと。主思ひの家來共が雌伏の實境面のあたり視るが如し。三河武士の落魄この際に過ぐるは無し。抑も不幸なる竹千代は去にし年、父廣忠が先代以來の敵なる織田方と合戰せんとて、今川に加勢を求めける時、駿河に人質として、駕籠に載せられて、生まれし岡崎の城を送り出だされしが、彼れが繼母の父なる田原の城主戶田家康と直刺
極王來先の織田に內通せるをも載じで其だ働めに任さて途中より施取りしかば、船は西に進みて、尾張·然四の濱に上げられ、やがて名古屋なる萬Yer松寺の天王坊に閉ぢ籠められて、可憐なる、虜の身は僅に危き命を敵國の慈悲に繋ぎてけり。越えて二年織田方には大軍を擧げて三州討入の催しあり。圖﨑にては含使を今川に馳せて其の來校をを仕防禦の新に似多なか折しもあれ、主の廣忠はかなく病死しければ、さなきだに自立の力覺束なきに、今亦た悲運を加へて家中の危惧も常ならず、遺骸を能見の原に密葬して生ける體に裝ひつれど斯くと尾張勢が耳に入りて疾く押寄せ來らんには徳川方には己に織田に降りせんを過勝の徒まありける折柄岡崎の雄の手に落ちんこと疑なし。さはいへ今川に於ては年來味方の岡崎をば今いたづらに織田に渡しては、舊好の義理立たざるのみならず、おのが西に伸びんと志せる征圖に取りても不利此の上あるべからず。さては義元急ぎて今と川の智慧者なる雪齋和尙に軍引き連れて三河に打つて上らせ岡崎を押えて、進みて織田信長が庶兄信廣が籠もれる安祥の城を攻め落とし城將の命を差押えて、竹千代と人質替の約を整へ、受取りし奇貨の鶯兒を岡崎に還徳川家康して、近く亡君の悲歎に沈める徳川衆を悅ばせ、幼主成人あらん迄は兎も角加如くてゐるべしと其の身も其の原も預り分となせしが置は何千代質に取りて岡崎を押領せしなり。今川の機略侮るべからず。世には義元が桶峽に脆くも敗れし蹟を看て、强ちに凡庸の驕將の如く言ひ做せと、彼れ决して愚にすべからず夫の善徳寺に自ら主人と爲りて、武田北條の兩雄を會し、三家輪環の綠約を結びて、駿甲相の三角同盟を作りしが如き、頗る智計なり150けり彼の一長王我れの命と受けて。師師にゆりけるに折りもなる創空しく去るに忍びずてをのれも槍を入れて首一つ取りて還りしかは、義元加上彼が失戰を無りて軍甚に照らさんサレに、彼れ豆まりて傍への人にかるかやに身ををしむ色はなけれとも見てすてかたき露の下をれと昔し家隆卿が詠みし歌をばさゝやきければ、聞きし義元も其の優なる心に感じて疾く罪を赦しゝといふ。義元亦何ぞ夫れ雅容なるや。家康が批判に、今川義元は臨濟寺の雪齋和尙唯一人と和談にての仕置なりしが、國は無事なれども、家老の威なし、雪齋死去の後、義元の仕置は元の如くなれ家康直弼
とも諸人疑ひを爲し、義元の鉾先弱くなりて、今川の家終に滅亡せしこ。といふ。斯る事情もありしに相違なけれと、今川の滅亡は次代氏眞が責少しとせず。家老の威なかりしも然ることながら、實際雪齋和尙の右に出づべき程の器量ある家老無かりしぞ是非なき。己れ義元も家老共より負に賢かりしと見えたり。夙に善德寺より法衣を脫して鐙を被り、相續を爭へる兄を倒して家の主となりし一事を看ても、還俗大將の膓察すべし。俗世に色氣ある雪齋和尙と意氣相投じて、必しも和尙に用ゐられしに非ざるべし廣忠の死後三州出師の一件も豫め兩人熟議の事なりけり.舊來の國史成敗に由りて人を上下すること多し。信長最負の偏史に義元も濡衣を着せられしなるべ德川家康さる程に今川は存分に徳川を扱ひしが、德川にても一家存亡の域に瀕して他を賴の外なき急塲にしあれは、城取上げて幼主生捕の攻め手に異議いはんやうも無し。一意今川に柔順して時節到來を待たんこそ良けれとは、鳥居伊賀守阿部大藏など、思慮ある宿老の面々が覺悟なるべし。且は今川の振舞に押領がましき實ありしにせよ、程なく攻め來ん尾張の敵を制して剩へ幼君を取還し、己れ後見と爲りて、危き德川に保證を與へけるは、兎も角も加恩沙汰たり。實に岡崎の者共が今川に屈服せしも全く其が武威に壓せられしのみにあらで、さるを己が得策と思へる上に、兼ねて人情義理に止み難き節ありしは明らかなり斯かる事情の打交りて、さてこそ彼の彥左衛門が言ひける「駿河衆といへば、機嫌を取りはひつくばひをれかがみをして肩の骨身をすくめて、恐れをなしありく事」の堪忍も遂げ得たるなれ。辭み難き恩威の桎梏に縛られし彼等が境界も哀れなりけり遠く東の方駿河の空を眺めては不自山なる主が身の上を念ひ、近く眼前にはおのが城をば今川衆に我が物顏にせられて、時めける彼等が槍突かせて大道を權行せるを見ては、いかで失意の壯士口惜しき思の涌かずやあるべき。荒びし室內を占めて薄暗き燈光の下に、日に燒けたる武朴の主客、妻女の織りし綿布の粗服を纒ひて、あぐらをかきて對坐し、互に晝の稼業の勞を慰めつ、やがて談は日頃の軍語りより慷〓の境に移り合點しながらも、時の果取なきを歎じて、軒漏る雨の:音をも忘れしが如き事象は、恐らくは岡崎の城下に有勝ちのななべべ。時めける他國に行かば高名立身の途あらんものを住馴れし故〓去るに忍び家康と直弼
シ案依儘を主題に宿して家あり當握きあり又母童子の免載透期選の結ぼれて、矢矧の水も輪の松も忘じ難く、妻子もろ共「麥の粥、粟稗の粥」さ、へ啜りて「鍵先をとぎ、矢の根をみがき」つゝ、待遠くも生先遲き幼君の一身に心を籠めし望を囑しながら十餘年の久しき無念の淚を呑みて、日蔭の世路をかけ〓〓辿れるも、流石に深き情なり駿河なる竹千代は猶も今川風に靡きしなるべし。當時幼君其處に在ればとて、三河の者共駿府に伺候せるもの尠からずといへば、是等の人々の內には目見えの折節今川大事と稚き心に含めしもあるべし。義元より其の館に附け置きし久島土佐守正資は勿論、夫の後年家康が大奥に賢婦とたゝへられし阿茶の局も夫神尾孫兵衛と共に如才なく執成しゝなるべし。一體幼少の節は、何事も直なるものに候まゝ、如何樣に窮屈に育てゝも最初よりの仕付次第にて、外より存ずる程には太儀にもなく候。とは家康老後國松の養育を戒めし文中の言なり。おのれ駿河に在りし昔、實際身に歷し事なりけり義元の前に道ひつくばはんも太儀に非ざりしなるべし。斯くて竹千代年十五に及びて元服し、義。元の一字を授かり得て二郞三德川家康郞元信と名乘り、尋て亦義元の計らひにて其が妹婿なる今川の一族關口刑部少輔親永の女を娶らされぬ、之れを駿河御前と呼ぶ。後に岡崎に移りて築山御前と呼ぶ。時の徳川に取りては最も大切の夫人なりけり。元信も「機嫌を取り」しや否や。是の歲元信義元の許しを得て祖先の墳基に歸展し、「あるにあられぬ氣づかひ」をせる留守の者共を見にき。遠慮ある鳥居伊賀守他日の用まにとて金穀を蓄へける土藏に連れ進らせて、老臣淚ながらの物語あり.元信の感激如何ぞや。駿河に歸りて藏人元康と改名せしも全く祖父〓康の英武を慕ひし故とかや。三州行の感化も識られたり後元康十八歲の時に長子生まれて、おのが幼字を與へて竹千代と命名せり。男子貴重の折抦上下の喜び識るべし。生みし夫人も得意なるべし。獨り阿部大藏、松の家には未の年の子、惣領には不立事、其ためし有。と不祥の言を爲す。後年其の懺中らんとは誰も想はず、尋て亦翌年一女を擧げぬ。若夫婦の中も陸じかりしなるべし。家康直弼第三
程なく元康には妻子に訣れて駿河を出で立ち今川義元が尾張討入の軍に、岡崎勢を引具して出陣せりき。一昨年元)來の三州寺部の城攻に初陣の高名したりしを機として待ち兼ねし岡崎の者共より舊領の返還を乞ひけるに、義元應へて、やがて我が西上の日を俟つべしと約束せし事にしあれば、こたび一生大事の役に首尾よく本望を達して、尾張を打從へたらんには義元も玆に遠城の義理を果して、元康をば是の要衝の地に置き、三河の重鎭として、おのが藩屏の用に充てんとは胸算したるげなり。德川方にも今し威勢壯なる今川勢が明日の年從には既に蒐命類領して天寿き一戰場の雲と消せんとは夢にも想はで、將に多年の鬱屈も伸びなんとすべき此折抦、今川の武運に軍忠を抽いでゝおのが命に懸けし心願成就せんと、敵地に向ふ覺悟の程も殊更堅固なりしなるべし。斯くて元康尾張路に八りて、阿古屋の庄なる久松佐渡守俊勝が許に。過りつ。生母阿大の方に對面し、坐に列なりし三郞太郞、源三郞、三郞四郞となん云る三人の子息にもゆかしき情を寄せて、行く〓〓松平と名乘るべき約を結びしもげに同腹の肉緣に山りて一門の扱ひ〓にせんとの念慮とは知られたり。源三郞は後に人質に使用せられたり、抑も德川家康阿大の方と云へるは、三州刈屋の城主水野右衛門大夫忠政の女にして、夙に德川廣忠に嫁し、其の頃兩家共に今川に味方しける間柄とて、武邊緣邊の契合せて特に睦じくやがて若夫婦の間に設けし一男子は即ち今の元康なりけり。さるに其後右衛門大夫卒して、嫡子下野守信元の代と爲りしに彼れ心を變じて今川に背きて織田に與しゝかば、廣忠今は敵の家の女をば此の儘ヒ〓我が側に置かんも今川に對して心安からじと遠慮して、遂に息男さ(設けし中を割きて、惡からぬ妻をば離別してけり。阿大の方刈屋の里に歸り行く道すがら、岡崎領を離れし程に、傍への從者を顧みて兄の下野守殿たゝならぬ短氣の人にて、皆々小河迄參候はヾ打殺可被成候。さなくは髪をそりて追放し可被成候左樣にあらんには我こそ除て行とも、竹千代岡崎に置候へは、以來伯父の下野殿を竹千代うらみ可中候間、皆々をたすけん爲なり。唯歸り候へ。と從士の否むを聽かで懇に諭して立ち歸らせたりとなん。按ずるに下野守17.が欲する所は、岡崎をも己れと同じく尾張に味方させて、綠家の交は舊の如く存せんとするに在るが如くさるを今川大事と賴める廣忠は、下野守が異家康と直弼
心の握無をば状からず思ひて類成の好ときへ絕つの沙汰に至りしかては下野守が短氣も發せしなるべし。阿大の方も心に任せぬ女の身にしあれば、爲さるゝが儘に從ひしも、裏情離別を悅ばざりしは察すべし。ゆく〓〓竹千代に兄を怨ませじと懸念しける所、流石に行末かけて岡崎になつかしき情を殘せる程も見えて殊勝なりけり。夫廣忠よりも子の竹千代に深く念ひ殘りしなるべしざて其の遂の村ゐ者其代りて同大の方の被催と旨=進みけるも心安からい岡崎ゐ人々滑に林め中に摩れて行手の狀を運るに、果して送り來し〓の者共をば討取るべき主命を含みて、途に出で迎へレ一群の國去モ局して扮しゝ羽織を壓けは、同飼武者とは化現しにとぞ。岡崎の七人衆なる松平紀伊守家廣も阿大の方の姉を娶りて、一人の息女を擧げしに、廣忠が彼の事ありて、己も義理に離綠して刈屋に還しゝが、送り行きし從者三人討たれしとなん。阿大の方が賢虚に時の人みな感じ合ひたりけり。其の後今の久松佐渡守が許に再醮して、彼の三人の思男をも設けしなり。竹千代母に離れし時、僅に三歲、無識の間に訣れし事とて、こたび阿古屋の對面には確立るわ軍族の次煙ヲ物頭にもボく別れし母子の梁情傷德川家康通ぜしなるべし。此の事いかで刈屋に聞こえずやあるべき。下野守も今はおのが實の甥なる元康に强ち害心なかるべし。それより元康馬を進めて、義元の下知に依りて、大高の城に入りぬ。敵地に夾まれる要險なりけり翌日暁天に今川勢は鷲津の城を援きて、徳川勢の先手はえ根の妖も女院とす說元本隊を細誠に進める今初の歴重に其の境nL社より通らしヽ檀者を区建業共に振興ひ五月雨と(恐しく降りし氣戒心も弛みける折しもあれ、雨霧の裡より不意に織田勢現はれ出でゝ中堅を突崩し、夫の熱田祠に神をして戰勝を保證せしめし權變家に乗ぜられて、あはれ義元は毛利新助が刄に空しく落命し畢んぬ。元康それとは知らで大高城に在りしが、刈屋なる伯父の許より使して事の由を告げ、早く本國に引取るべしと切に勸め來しを、綠邊ながらも矛盾の中なればとて、猶も事實を糺しゝ後、月の出づるを待ちて、彼の使に案內せさせて、馬蹄しづかに三河路%さして退陣してけり。岡崎に在りし今川の者共も皆駿河に立退きしかば、遺ちたるを拾ふが如く其の城に入りぬ。今川の非運は忽ち徳川に意外の幸運となりて、三河武士が十餘年の苦心一朝散じて夢の如し。彼等が喜び想ひ知家康と直弼
※るべし。後彼の使に思賞の地を取らせき。敗殘の今川家を繼ぎし氏眞け、異國の亂るゝときに日本油断するは、今川氏眞が茶の湯と知れ、を家康に修へられし男にて一十先を知らで家をしばを失ふ無智者を開ふの意なりけり。隣境に强〓に密ひける時節にも折ふし領內流行の踊に混じて。自ら「ほうかぶり被成、太皷を打給ふ」なりといふ太平樂の殿樣なりけり。其の頃元康が今川の狀を語れるにいへらく、當時今川家の躰を考へみるに、氏眞事親父義元の半分にもこれ無き不器量人也。然れども朝比奈已下の家老とも、其外義元の代には、十八人衆なといはれし歷々の者ども罷在儀なれば、各心を一ツにして、氏真は如何にもせよ、今川家の相續の所に心を付て、諸事の儀を取計ふ樣にいたすに於ては、久しき家の習いにて、兎や角やとかゝはり行べき者なるに、家老どもの思わくも心々にして、相談の取締なく、互に身構へをのみいたし、主のためも家のためも成合とおもふ樣子なれば、畢竟今川家斷絕の時節到來と覺えたり當家の事は廣忠公御代より我等にいたるまで、(二二)德川家康かたの如く義元の介抱に逢ひたる筋目なれば義元討死の砌より、吊ひ合戰の儀延引然るべがらずと度々中遺しゝ處氏贝をはじめ、家老共も尤といふ氣色もなく、結句我等噂をあじく執成し申事童々不屆儀之也、」と流石に義理を念へる元康も、氏眞には望み果てたりと見えけり。其の家中の人々も義元の在りし世には兎も角も積もる鬱念を抑えしかど今は腑甲斐なき今川を疎むに連れて、自ら不滿の奮感も出で來て、去就の念は益動きねべし元亞整河に残しし夫人に通し意の冷え行かんを自然の情なる義元の喪せしは、徳川に於ける駿河御前の重さを减じたるや疑なし同じく其處に在りける幼兒の竹千代に對しては、元康も別條なかるべし。當時家門を貴ぶ尙武の世、男子大に珍重せられて、彼の鬼作左さへお仙泣かすなと痛はりはる程の時代にしあれば、竹千代も家の重寳と愛重せられしは識るべ番し。元康も竹千代泣かすなと言ひ送りしや否や。今川の斯く衰運に傾くに反して、織田僧長は桶峽の奇捷に武威を輝かし、海道の局面大に變じて、尾張の旗色頗る熾なり。機敏の覇業家美濃近江を徇へて都に志ありしかば、隣邦なる徳川に和解して東顧の憂を除くは、其が西上家康直弼
の計略に肝要なる所なりけり。岡崎勢と刈屋勢とは各味方の國を異にすればとて、城主は伯父甥の中なるに抅らず、元康の還城以來も數々小合戰ありしかど、さる血緣の間に弓箭を爭ふは兩家の爲に取らじとは、恐らくは双方共に同じ感情なるべし特に徳川方には今川を嫌ふにつけて其感深かるべし.水野下野守もおのれと同じく徳川をして織田に與せしめて、一は信長に忠勤を立てん手段にせんとの心底ありしに相違なし。義元敗軍の際、下野守が逸早くも慇懃に其れと元康に〓け越しゝ意味も、必ずしも甥がためを圖りしのみにあらで、雛て織田方に誘はん伏線の設けには非ずやと疑はる。况や阿古屋には已に母子の通路開けて、徳川水野兩家に芳情を懸けつる賢婦人あるをや。夫久松佐渡守も武勇はなけれども、「一個りちぎん」と時の人評し合ひにし男なれば、實直の赤心もて妻の緣邊を待ちしは識るべし。斯くて徳川をして今川を去りて織田に結ばしむべき因緣內外に多く存したりければ、今は前途の結局問はでも知るべし。下野守が扱ひにて兩家の和談く調ひ、互に起請文を取替はして、尾三の兵戈遂に止みけるは、桶峽の合戰の翌年の事なりけり。氏眞斯くと聞きて痛く憤怒し、竹千代母子の命さへ危き風評德川家康岡崎に傳はりければ、元康乃ち辯解の使を送りて、元康多年今川家の助成に依て遂に本國に歸り岡崎の城に居て心を安んず。故に今川家の恩願を忘れず。然りといへども尾州は隣國たるに依て、信長と和せずは、草創の功立て難し。故に僞り謀りて和睦す。實に今川を叛きて織田と交和を成すに非ず。と躰よく取繕ひき。老臣酒井雅樂頭正親が智慧なりきとなん。若主人も次第に實施に哪いふ種はる倚待せられりり一丁先と知らぬ民眞なればこかる騙辭を承引せしなりけれ。幾程もなく元康名を家康と改めぬ(二十一歲の時なり)。義元の名殘も今は其の名にさへ失せたりけり.人情の變、速なりと謂ふべし。故國とは言ひながら、心安からぬ今川が許に孤閨を守れる駿河御前、遠く離れし良人が昔に變りし此の頃の情狀をは、とり〓〓の噂に傳ヘ聞きては、いかで狹き胸中の動搖せずやあるべき。他日夫妻の不和となるべき疑心の種すでに心底に萠しゝは亦疑を容れじ尋て今川の忠士鵜殿長助の三州西郡の城に籠もれるを、岡崎勢攻取りて、其が愛子二人を擒にして歸りしが、やがて石川伯者守數正駿府に使し、駿河御前の父なる關口刑部大輔を家康直弼
證人として、彼の鵜殿が子の因はれけるを痛める氏眞と人質替の約を成し、彼の二子をば今川に渡して、竹千代母子を受取りて三河に歸りぬ。而る後家康また今川に通ずる氣色も無し。誰されし氏眞怒りて、關口刑部大輔は切腹ついす。大が許に來たりし驗河御前、別に築山といへる處の館に置かれぬ時の人築山御前と唱へき。家康城中に夫人と居を同うせず。德川第四今川に背を向けし家康は築山夫人にも背を向けたり。若し氏眞より變心して、德川に不義理の振舞を向けんこと、猫むかし水野下野守信元が所業のごとくならんに、嫡子の竹千代さへ駿河に在らずば、家康恐らくは父廣忠がお大の方を還しゝ轍に傚ひて、已に愛情冷えし築山夫人を離別するに躊躇せざりしなるぺし。されど事實は己より變心して織田に好を通じながら、今川に對してる前更國の書種ヲやれすといふ南面〓を禁ひし弊なりけれ更夫婦の緣儀に故障を起さんも、時宜を得たりと謂はじさては夫人をも竹千代もろ共に事故なく岡崎に引寄せたりしがおのが城下に引付けては流家康石に强き者なり。直に程隔てし築山に別居せさせて、妻がましくも扱はざるの振舞、さながら之れを無用物視せるに似たりけりげに時の人すでに「內々BIS不和に成り給ふ」とぞ語り合ひける。勿論家中の人々築山御前と呼び通らし·おととといへば、此の置遂に由もても若一邊は續川家の御前として扱は徵するに足りぬべけれと、家康が內心の薄情は正に別居の事實に掩ふべからず。按するに當時の家制、主人の威光双び無き世態なりしかど、家康は幼年より他國に窮命して、我が儘に育たざるが上に其が間岡崎に留守して、辛き德川の命麻を繫ぎしは全く譜第の者共が精忠に由りにしことなれば、若主人も敢て心の儘に計らはで、よろづ老功の臣に議りて行ひしは晩年その遺訓に我が家の政道は清康公廣忠公の御政道を受け、多年の工夫を以て、老功の家老共と相談の上にて定め置く政道ぞと言ひけるを推しても察すべし。夫人別居の一件も家康老臣と熟議を經にし事たるは疑なし。老臣共も夫人を踈みしと見えたり。且つ徳川にして西、織田と和を結びし上に、おのが封邑を弘めんと欲せば、東に向かひて三遠に亘家康と直弼
れる今川の領地を侵食するより外なく、織田は西を徇へて、徳川は東に伸びどん、當時の瘀勢上目然の趨同にて兩家互に表く承認の事たるべしは今川の血より成りし築山夫人は織田に對して禁忌なるべく、之れを遠ざけしは、恐らくは苛察なる信長に遠慮して嫌疑を避けんとせし邊もありなん乎。兎も角も夫人には眞實明かし難き秘密あるべく必ず躰よく他を言ひきて夫人を擦りしなるべし。抑も駿河より疑心を齋して岡崎に來たりし夫人、今また斯かる境界に逢ひては、意中の火勢も想ひ見るべし、而して更に夫人の妬心を刺激すべき事實あり。家康いかで妾なくてや過ぐすべき。家康の子、男女合はせて十六人、之れを生みし腹は十人、夫人の產みし二子を除きては、余は皆側妾の所出なりけり。秀康を擧げしお萬は湯殿に仕へし女房にして家康も始めの程は之れを我が子に非ずと拒みしぞ可笑し忠輝を產ふしシ系兩の局は愛理参発なる變物師の後家にして家庄應野に出道すがら目を懸けて連れて歸りし婦人なり。義直を設けしお龜は、京なる石〓水八幡の修驗の行者が女にして竹腰定右衛門正時の後家なりけり。父廣忠はお大の方を離別せし後、平原某が娘に目をかけて女子二人生ませける德川家康とぞ、平原とは何者なりけん。怪し。又其の父〓康は其の邊の〓士靑木筑後が娘に目をかけて、やがて廣忠を設けたり。當時裏面の風習豈亦簡易ならずや。家康の艶福必ず父祖に讓らざるべし。其の最後にお勝が腹に末女を擧げさせしは、既に將軍職を悴に渡して、駿府に懸居せし身にて、老いても壯なる六十六歲の時なりとぞ識られける.其の他この豪傑が戯に手折られながら、子〓を結ばで空しく散りにし花は亦一二に止まらざるべし。實に家康も英雄色を好むの古則に漏るゝ能はじ。秀吉は北條征伐の陣中より淀君が許に一書を寄せて、廿日ごろに、かならず參候て、わかぎみ(鶴松)だき可中候。そのよさに、そもヘにをもそはにねさせ、甲候可候、せんかく御まち候可候とは言ひ越しき。天眞爛漫といはばいへ、又痴情めきたる嫌なからずやは。家康には表面さる事見えざりしかと、所詮言ふと言はぬとの相違にて、實は兩雄共に多情の男なりけん。深きは言はぬ方なるべさはあれ流石に思慮深き家康は、秀吉の如く閨門の裡に一家滅〓亡種を蒔かず。其が第一の禁物たる奢は、女中にも殿に假さで、奥向にも儉素の風行は家康直弼
れしは、彼の本多佐渡守が秀忠將軍の乳母なる大婆に一言各められて、返す詞も無かりし一塲の話に徴して知るべし職府にて女房等が大根の漬物のFor國字ぎに困とて家康に放まけると耐の事をは沙汰じけら松下京慶をて今少し鹽加減よくすべしと諭しゝかば、此の老人主が側に進み寄りて、何事をかさゝやきしに、主は言葉なくして唯笑ひけるを、彼れ其の儘退きしとなん。老人さゝやきしは、今の如く鹽辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用夥しきものを、女房達の好みの如く、鹽加減いたし候はヾ、何ほどの費用に及ぶべきも計りがたし。女房達の申す詞など聞し召さぬ樣にて、わたらせ給ふこそ然るべけれ.とは曰ひしなりけり。常慶も鹽辛き男なれば、家康が笑ひし腹加减も大に鹽辛かりけり。天下を取りし後だに此くの如し三河の事想ふべし.治世にも身を樂に持ち候は、保養にもあしく何にても業のなき時は女色其外いろ〓〓の惡事出來候まゝ、朝起るより臥すまでの行義を定め、毎日其通りに致しぬに葉求る常々美ははなり粉てはりまなるのにあ德川家康らず。平日の食物隨分輕き味のもの宜敷候。月に兩三度は美味を給候て能きよし及承候。GELとは家來孝いての言葉にてふのれ年頃實に驗ある事なるべく近年日課を六萬遍唱へ候事、老人いらぬ過役にて候。遍數へらし候樣に:背ケ巾明儀成程遍数をへらし候へば、ににりり、得少其、幼少より生れ、多くの人を殺し候得は、せめて罪ほろぼしにもなり候半。且年若より一日も隙に暮したる事なき身故、何ぞの業を致し度候得とも、それもいらぬ事故、念佛を日々の警古事の樣に致し候ゆへ、毎日朝起いたし夜もはやくは休不申、おこたらぬやうにこゝろ懸候事。夫故食事の中りもなく健にて念佛の影と存候。と言へるを看ても、裏面の行跡に大に放縱の振舞なかりしは察すべし.但し彼の秀吉すら「女に心不可免」と戒めたれば、家康が〓淨潔白の念佛談も、曾て一時に數人の侍妾を設け置きし覺えある男の言と識るべし。人を殺しゝ罪ほろぼしの外に言は離き順俺の鉄敵とは釋ちよりしにて徒王の者現中に久を盛りしとく從主題核千濟済等改品の光に腹せられきと傳ふ家康直弼
奥向の規律の嚴正なりしを窺ふべし。亦窮屈なる規則の內にても主人には之れを潜りて融通の道ありしを忘るべからず三河に在りし頃は特に何事も手輕なりしなるべし。家康年積みて處世の道に熟しては、主君に用ゐらるゝには我が知に高慢せず、人を非に見ず、一人にて威を振はず、能き事を仲間に讓り、末を考へ、僞りを嫌ひ、諸人をむらなく愛する事は誠の道也。と自ら言へるが如く、おのれ常に老臣共の衆評を聽きて、一人に權を占めさせじと努めし跡は、歷々として史上に殘りけるが、表の政治に用ゐし此筆法は、奧の女中を制御するにも應用して、一人の女に罰を專にさせじと抑えしは疑あらず。十六人の子を擧げし十人の妻妾、二人より多くを產みし者なかりしは、深き仔細ありぬるにや。强ち偶然の事のみにあらざるべし。さはいへ表に出でたる家康と、奧に入りたる家康とは必ず同一の人にあらで、男の如く女を扱ふ能はざりしは明けし。其が物語に、隨分武士は武士くさく、味噌は味噌くさきかよし。と曰ひぬれば、又隨分女は女くさきがよしと言ふべきや。當時戰亂の世.なべ德川家康て女は賤められて、一見殆と男が心の儘なる使役に用ゐられし觀あれど、又裏面には其が婉情に纒はれて思はずも鬼を拉ぐ英雄が化裝を剝ぎしもありけり。人質を取るも、あまり久しく取り置けば、後には親子夫婦の親愛もはなれて、却て詮なし。元より主へ仕へ、忠義を專主と心にかくるものは、親子にも思ひかふるものなり。故に常々よくしたしませ置き、時に臨みて質にとれば、情愛にひかれてすて兼ぬる者なり。と。流石に家康の知言、人情の極意を穿ちたり。おのれ情愛にひかれしは、隱れたる奧向の裡に多くあるべし。夫のお茶阿の局が一件は、今も家康が心事の公明を疑ふ者あり。抑も此の局內龍を得て、彼の公子忠輝を生みけるに、家康其が「蠶面狐眼の異貌」を惡みて、おのが子とせざりしかば、皆川山城守廣照得て之れを養育し、後十二歲の春には、昔忌まれし此の棄見すでに信州川中嶋十八萬石の城主となりて、從五位下上總介の官位も殿し。お茶阿が甘き藥利きしにや。斯くて上總介長ずるに及びて、暴橫の振舞次第に募りしに、兼ねて家老として附けられし彼の皆川山城守幾幾びとなく切諫せしも詮なし。家康と直.弼
乃ち山田長門守勝政、松平讃岐守親宗などの老臣と共に駿府に出でゝ、家康に斯くと訴へしに、却て罪を被りて、山城守は流罪と爲り、他の二人は切腹をぞ命ぜられたる。內部の事情は斯くなん。はじめ大御所(家康)のめしつかはれし小童に、花井三九郞といふ者、亂舞堪能のものなりければ介殿(忠輝)いとけなくまします時、この事をしへ中せとてまゐらせらる。やかでお茶阿の方むかし設けし娘にあはせけり。介殿の異父同母の御姉聟なりければ、双びなき御覺えにて、遠江守に受領し、家の事つかさとる。介殿かれが申さん程の事は、いかなる事をも用ゐ給はずといふ事なし。宗徒の御家人等は、あるにもあらず。良からぬ御振舞のみ、國中の上下なげき苦しみければ、皆川山田等此よしを訴ふ。大御所聞し召されて、其三九郞男には、小皷うたひなど〓へよとこそいひたれ。誰がゆるしければ、斯く受領して、家の事取り行ふらん。不思議さよ。速に召すべし。きつと糺問あるべしと、以ての外に御氣色損じたり。お茶阿の御方大に驚き歎き、右兵衞殿常陸殿の御母上(前のはお龜の方、後のはお萬の方)をはじめ、御歸依の僧たちに至るまで深くたのみて、花井德川家康が罪まぬかれん事を歎き申し、又介殿へも斯くと告け申されしかば、參らせ給ひ、如何に仰ひらかれけん。花井は罪まぬかれ、三人は罪被りしとなり。翌年の春には、忠輝更に越後の國六十萬石の地を與へられて、同國高田の城に移り住みぬ。後大阪陣に不首尾の事ありて、父が勘氣を蒙り其の臨終の際にも對顏を救されず。やがて髪をおろしてまた世に出で難き身となりて、信州に長命して終りてけり。さるにても夫の訴訟の一件は、げに一種の疑獄なりけり。委しき穿鑒は姑く措くも、皆川等が表よりせし道理の訴は失敗して、お茶阿の局か奧よりの情願成就せしは明らかなり。家康も殺伐なる智慧のみの動物にあらざりけり。さりながら這は是れ家康が情愛にひかれし行跡に於て特に著しき例なり。奧住居の折柄、心に副ひし侍妾が切なる哀訴に斷ち兼ねし塲合も、朝夕の小事に多くありしなるべし。若し彼の鹽辛き漬物の歎きにして、男より出でたりしならんには常慶老に諭し試みん迄も無く、直に一言の下に止り飛ばしゝそも測り難し又故の家康加特地に氣繩のけるを、江戶なる秀忠將軍の役人共が許しゝ所なりと聞きて、大に憤りしか家康と直弼
ば、やがて本多佐渡守駿府に使ひして、怒りし隱居が心を解きしが、佐渡の出向きし前にお茶の局を遣して、家康が機嫌取らせきといふ。局が詫言には麗しる筈なかもしかで抑も然前この局如行重の通過宜しを筋ありたれそ、斯かる使に此の婦人を用ゐしなるべけれ。柔もて剛を制せんとは、佐渡が腹より出でし算用なるべし。夫れ家康が女性に對する事情大凡そ斯くの如く、閨門の內に男子の弱〓を脫する能はざりしは亦掩ふべからず。外に築山夫人を孤居せさせながら、おのれは內に孤居せず。己に夫人が世に在りし間に、秀康秀忠の二子をば設けにき。蓋し男子側室を蓄ふるは、當時の世論に於て敢て各めざりしのならず、子孫繁榮の爲に一種の必要物とさへ見做されし形跡ありぬれと、又これが爲に內房の紛爭を釀して、一家の大事に及びじ例も少からず。夫の史上の遠近に武見せる逐者相続の事は多くは異世兄弟が衝突にして內には必の異母の相睨みて、嫉妬陰險の手段を運らすありけり。我が國の舊史は殆ど男性の記錄とも謂ふべくして、女性の事實は啻に其の一部にだに及はざるのみならず、間々之を忌みて、特更に省略-せるの跡あり。社會はさながら男子德川家康の專領地の如く、侮り難き婦人の勢力が陰微の間に活動して、男子の行路に曲折を加へ、延きて社會の現象に異彩の風致を添ふるは、古今いづれの時代にも有勝ちの事なれと斯かる微妙の情趣ある事蹟の舊史に徵すべきもの甚だ少きは遺憾に堪へざる所なり。築山夫人が悲劇の最後を遂げしも、素より一朝一夕の故に非ず既に岡崎に來りし時、虛心の人にあらず。爾來十八年の久しき、其の間には千百の事情錯綜纏綿して、一事は一不平を起し、一不平は更に他の一不平の因と爲り、居一層に夫婦反情の距離を增し、武邊の消長一門の關係、周圍の男女、朝夕の小事さへ兩間の疾視を加へて、積鬱の極、終に破裂の大事に及びしは亦言を竢たず。信すべき舊記にして此の多年盤錯せる實情を悉せるもの殆と之れ無きは、眞に惜しむべきの至りなりけり。されと此の僅なる遺錄に依りてだに、當年の事相を追想すれば、實に戰國時代の家庭に於ける人情の衝突史として、特に一奇觀を爲せるを覺ゆ。家康直弼第五築山夫人常にいひけるやう、
我こそは本の妻にて三郞殿御母也。其上我父は家康の爲に命を失ひし人なれば、旁我こそ賞翫に預りなんと思ひしに、かくすさめられ無念なりと。斯く喞ちつゝ、「色々おそろしき事」をば口には吐きたりとぞ。つら〓〓思へば、當時徳川には內外の形勢上、一個の夫人に代へ難き一家の大事もありぬるを、唯家康の薄情のみを看取れる夫人には、一心におのれすさめられぬと思ひつ、夫家の爲におのが不如意を忍ぶの辨別も、いや騰る不滿の熱度に晦みしとは見えたりけり千々に碎ける心の中に我が父と我が子の事の始終念頭を離れざりしは、流石に夫人の眞情なるべし。父なる關口刑部が切腹は、曩に德川の爲を計らひしとて、怒れる氏眞の嚴命に出でにし事なれば、夫人の意に、家康この亡父に對する義理を以てしても、其が女なる我れに厚うすべきにと思ひしは、此の女性に取りて强ち分外の事にあらじ。さるを心他にある家康は、其の情を酌まん色だに非ざりければ、夫人も今は父を殺しゝ、氏眞よりも寧ろ現在我れを疎外せる家康に、其の殺されし遺恨を向けしなりけり。抑も父は斯く非命に喪せける上に彼の氏要も團より夫人に芳情を寄德川家康すべくもあらざりければ、駿河の本國はまた恐まんよしも無しさりととて岡崎にても己れ正室の身をさへ餘所にせられて、一家重寳の長子を生みし母權立たず。さては未來に徳川の主となるべき我が子の竹千代のみぞ、今は賴みなき身の僅に賴む所なるべき。豈亦憐むべきにあらずや。竹千代四歲にして永祿五年、母と共に駿河より岡崎に歸り、翌年織田信長の女の同じ歲なると配偶の約、父と父との間に結ばれつ、九歲に及びて小さき新婦尾張より入與してけり。築山夫人の感情如何ぞや。織田家は伯父なる義元の仇敵にして我が良人の心の變りしも、亦織田に通ぜしより起りし事なりければ、過去を忍び勝ちなる婦人の意中に於て、末を賴める我が子に此の憎き仇敵の女を配するを喜ばざりしは、當時の事情に徵して亦疑ふべからず。是れより先き家康すでに三河一國を手に入れて、次第に遠州を侵略し、今川も今は沒落して、甲斐の武田と衡を爭ひつ、元龜元年には居城を濱松に移して、岡崎には竹千代を留めて城守と爲す。彼の武にも勝れし忠〓の家臣平岩主計頭親吉を撰びて之れに附けたり。移り行く世に移らで、築山の夕日蔭に沈める人は、濱松の朝日ぞ、いよゝそねましかるべきやがて家康信長の加家康直弼
勢に彼の名高き姉川の合戰に出陣し、織田勢の危きを援けて勝軍せし程に、信長よりは、今日大功不可勝言也。先代無比倫後世離爭雄。可謂當家綱紀武門棟梁也。と彼この上に幾あん派なき感狀を贈られて凱師ヲ今年竹千代工二産りければ、凱陣の後濱松にて元服の式を擧げ、字を二郞三郞と改め、信長と家康との一字を取りて、信康とは名乘らせたり。連日祝儀の能ありて、觀る者遠近より集ひ來る。興じける家康自ら高砂景〓の二曲)を演じ、信康も一番舞ひけるとぞ。觀世十郞鉢の木を舞ひて、此御能は駿河くづれの年、氏真御所望にて仕たり。今又か樣に仕る。と何心なく日本りしかは家康本育の事いひなりとて直に十郞を衝當年の後信康非命に世を終りし日、人々この事を思ひ合はしゝといふ斯くて信康長じて十五歲、武節の城攻に初陣して高名し、十七歲の時、武田四郞勝賴大井川に師を出だして德川勢は小山より伊呂崎に引退きたりしに玆に信康父に向かひて、これ迄は敵に向ひ申すなればこそ、御先へはまゐりたり。これよりは敵德川家.康をあとにして引のき申せば、まづ上樣のかせられ給へ。何方にか親をあとにおき申して、子の身として先へのくことの御坐可有哉。と雄々しくも言ふ家康せがれのいはれざる事を申す者かな。とく〓〓のき候へ。とは喩したれども、信康聽かんやうも無し。親は遂に折れて引退けば子は徐に殿して引きたりけり。信康が武勇父にも優れりとは時の人の評なりけり。顧ふに徳川家にては〓康廣忠兩代ともに短命にて世を去り、幼弱の嗣子僅に殘りて辛うじて家系の後を斷たず。一門の血統甚だ心細き次第なりければ、家中の人々早く家康に子息あれかしと、只管祈りける折しもあれ、信康長男の身として生まれ來たりしかば、其の愛重も世の常ならず。家康老後自らの手束に、三郞出生の節は年若にて、子供珍敷、其上ひがいす故育てさへすれば能と心得、氣のつまり候事は致させず。氣儘に育て成人の上急にいろ〓〓中聞候得共、兎角幼少の時行義作法ゆるやかに捨置候故、親を敬する事を存せず。心安く存し候て、後には親子の爭ひの樣に成候て、毎度申して家康直弼
も聞入れず。却て親を恨候樣に成行申候て、夫れにこり申候。と述べけるを看ても、其の寵兒たりし程を察するに足る。又其の遺訓には、我れ三郞を片時も早く成人させ、一方の大將となし、少しも早く手の廣がるやうにと思ひ、彼れが年の考はせずして、智慧のつかぬものとのみ思ひ、こゝが不足、かしこが不足と思ひ、附け置く者にも、此事をさせぬるは誤也。此諫を中さぬを落度えとて、少しの事をも嚴しくいひし故、三郞に附き奉公を勤むる者共は、改易など申付る樣に諸人心得悲みたると也。とあり。子を思ふ親心看るべし。蓋し信康年少にして人物も未だ定まらざりしかと、亦决して尋常碌々の公子には非ず彼の戰塲の引陣に於て父を後に退かせじと主張せしなど、能く事理を辨じたる振舞と稱すべく彼の平岩主計頭刃入帶避あら了やども疑は社ねれる世康ま來悉ながら一丁見をし若者なりしは識るべし。但し幼少より其の養育の方法宜しきを得ずして、我が儘に生立ち、元服の頃も過ぎてやがて人にせんとせし比には、般父の命にさへ從はざる節ありて、終には父子の間に、一膜の隔意を生ぜしとは見え德川家康たりけり。家康も資を免る能はざるべし、築山夫人の影響は如何なりしぞや。』斯くて此の三人の間柄を見るに、家康は築山夫人にこそ薄情なれども、信康は素より愛子なり。築山夫人も家康には啣む所あれど、信康は極愛子なり。信康は家康には母の如く恨める執念なけれども、築山夫人には亦父の如く冷淡ならず。親子夫婦の關繫斯くの如く錯互せるが上に織田信長の女、信康が妻として此の間に加はるあり、家康は此婦に對して疎情も無かるべけれど、築山夫人は夙に良からず。信康も其が初めて產みし子の女見なりければ、築山夫人と共に大に懌ばず。尋て設けし子の又も女兒なりしかば、益悅ばで、やがて夫婦不和和生じけるとぞ。子を擧げし以前よりいかで不和の種なくてやあるべき抑も織田と德川とは今し武邊に於て深く結托して、姉川の合戰以來は猶も交誼厚くなり勝りたりしかど彼の信長といへる男は世にも稀なる反間を放つの名人親しき中とても容易に心許し難く、現在おのが娘をば徳川の者感の御前として岡崎の奥に入れ置きめれは其が家庭の自自ら此の術數家の耳に達すべく、おのが女をさげすみける信康母子は已に此の豪傑の鷹の眼に止まりしなるべし。加ふるに武田の勁敵常に遠州に出家康直弼
沒して、其の兵鋒侮り難く、外の形勢かくの如くなるに、內には至親の間に不和あり。且つ信康と築山夫人とは住居を別にしながら、共に岡崎の城下に棲みぬれば、自ら傳心の便も易かりしかど、家康は離れて濱松にあれば、父子さへ相逢ひて、一塲の中に打解けて、互の情意を通ずるの機會甚だ少く、所詮其の間の消息は家人を用ゐて相通ずるの外なし。斯かる塲合に當りて姦、才の族出でゝ、讒間の策を行ひ、敵國に內通して君家を傾け、以ておのれ野心を逞うせんとする者あるは、戰國の歴史に徃々見る所なり。家康も今し此の苦しき經驗を嘗めぬ。大賀彌四郞こそ其人なりけれ。第六-3大気船西庫はもと當川書事の中間をきりり。天地地力の事に達し券よく鍛鍊し、物ごとに心きゝたる男なりとぞ。さては下賤の身より昇進して、三角度都日金每の代言藏を來リ後には家老の本座にさ(加へらさにりき。家康が遺訓に「一人に威をふるはせて大に懲りしといふ其の一人は、即ち實に彼れ彌四郞が事なりけり。顧ふに斯かる勘定に達者の男は、徳川創業德川家康の新世帶には、別けて有用の才器にて、其表に現はれぬ算盤の上の勤功、實際檜先の功名にも劣らぬ、ものありしは、其が立身の蹟に徴して窺ふべし。されと彼れ末路に及びて徒に叛逆を企てゝ計略齟齬し、大惡の罪人と爲りて、世を終りしかば、彼れが史上に殘れる面貌は、今も尙むかし同胞の三河武士に群罵せられて、刑塲の鬼と化せし當時の儘なる妖魔の形相なりけり今家康が語りし所を施記して蒲固年が配向の人物とぶるは彼れ秀画く欲怒智慧あく迄たくましく、惡利口のうつけ者にして、身の分限を知らず、己が爲のみを圖り、無二の合口を言ひて、主をたぶらかし、又傍輩をだぶらかし、義理なく忠信なく、大臆病の輕薄者にして、諸人に慮外を爲し、敵に內通して、終に一家滅亡の禍根を釀しゝ極好者たるなり。要するに家康彌四郞をもて人臣中の最も惡逆なる者と做し、彼れが一生は全く奸智詐術を施して、唯巳が私欲榮華を遂げんとしたるに外ならずとは云ふなりけり。夫れ彌四郞が謀叛に膽を冷して、悔恨の念生涯骨髓に徹せし彼の老雄に、さる批判ありぬるも今更怪しむに足らざれど、若し彌四郞をして死後に口あらしめば、亦恐らくは後罪の爲に前功を沒せられし愁訴あるべし。つら〓〓當時の事相を看る家康と直弼
驚せざるを得ず。に、斯く彌四郞を酷評せる家康が曾て彼れを信ぜし程の深かりしに先づ一彼彌四郞が我心に叶ひたる事、無類也。懸引誠にふしき成もの也。子が心の中に入たるよりも、我心をしり、諫言の事も、中々我思ひよりなき事を云たり。然とも奢强き事「己が智慧分限より以の外過分也と云事を、某努々不知して、危事にあたり、代代にも主たる者の心を付べき所也。とは、流石に家康の自白にして、又彌四郞金銀の奉行共と心を合せ、金銀を盜たりしを、橫目共予に言上すれ共、子曾て不取上、又家老共にも隱し、知行を遣し、金銀を遣し、何事も此者に逢ひては、某が智惠も曇ると、家中こぞつて云しと也。といふ。それのみならず、我彼れに氣をのまれし故、家來の諸人は、彼か惡を能しれ共、心に思ひながら、是を云事ならず、家中悉く彌四郞に恐れ、-家老も目付も身を國ひ、何事も不云.とすらいふ。氣をのまれし」の一語、眼前に觀るが如し。てては德川家康主とかさにきて姿者はっつけの頂上也者是に邪るぞくむ者やらは彼彌四郞、秦の趙高の類也。など惡口しつれとも斯く言ふ家康、當時にはおのれ亦彼の馬を指して鹿といはれて査を重ひし寒の二世か頒ならどもしにて於かの猟西部が計なりと聞きて、一旦加增の知行を返上せんと覺悟せし近藤某といへる剛骨の男に、おのが面前にて、彌四郞事、御兩殿樣(家康と信康)の御意に應じ申事、双びなき樣に諸人奉存候故、彌四郞が、修り不大形、其上彌四郞惡心深き者故、家中諸人.御兩殿樣〓却て彌四郞を恐申候。-憚多儀に御座候へ共、此段御詮儀御延引被成候はじ、御當家の一大事にも成可申候と奉存候。と直言せられて、漸く眼を醒ましけるとぞ亦亦しと謂ふべし。さりながら家康彌四郞を用ゐしにも、一理なきにあらず。彼れ才覺利發の勝れし男にて、始より必ずしも姦物に非ず。「懸引誠にふしぎ成もの」とさへ言へば、勿論嘘も上手なるべけれど、又當時實際に於て物の役に立ちし事、常人に超えしに相違なく、且つ家康も先年今川より岡崎に遠りし頃には、先代より遺りし老功の家康直彌
数回を用あるの外なかりしか文今は十數年を經て自ら寒用さし残もる內に、特に彌四郞は智慧ありて、其心に叶ひし男なれば、老功を尙ぶ家康とても、おのが擧げし新進の才器を用ゐるの便利なりしは、免れ難き人情なるべし。後にこそ惡智慧とは罵りつれ。其の時にありては、彼、れが妙算に感心の餘り、知らず識らず此の才覺者に任じ過ぎて、やがて後日の增長を招き、遂に寵臣變じて一朝、逆臣とぞ爲りにける。誰れが過ぞや。他年巧に秀吉を乘せて天下を取らんとせし家康、今は一彌四郞に乘せられて、家の危きをも知らざるうつけ面相、思ひ遣るだに哀れなり。斯くて彌四郞ひとり家康の寵幸を專にせしのみならず、德川の第二の主人なる信康にも、如才なく「双びなき御意に應じ」たりとは見えたりけり。家康この間の事情を物語りていへらく、父子の中哇しからざるは、人倫第一の僻事也。大小上下共に此上の大事はなきぞ。されば三郞(信康)に付置者。其、家老共を始として安堵の心なく、若殿樣の御意に應じ申時は、大殿樣の御前あしきとて、心入深く奉公せずそもや三郞が氣に入たる者を、我にくむべき道なし。是唯彌四郞めが枚德川家康也。親子の間は隔なく惡事あらば、面談にて密々に異見せよ、親子の間をきつとして、家老共ばかりに異見さするは惡きそ。父子むつまじからざれば、諸人疑ふぞ。疑へは議言も起る物ぞ。此故に三郞は惡き人斗を撰み〓付らるゝと思ひ、互の心行運ぞ。然は家人としては何樣身命を碎き、奉公すべきと思ひ入てさへ、主の心には叶ひ難きに「况や主の心に叶ふを迷:惑に思ひては、何か能事可有や。如斯の折を見合惡逆無道の彌四郞め我前にては、若殿樣御不覺悟、何共笑止千萬に奉存候と云。或時は御もり何某不覺悟也。又者是は若殿は能候へ共、何がしか所爲と云ける故、三郞か召仕者共、大小上下共に身をいたき、唯々一日暮しの覺悟也。又彌四郞め三郞か前にては、大殿樣は左樣に御行儀の事も殿鋪不被仰候へ共、御もり共か分別だてにて、如此申上候といふ故に、某か吟味を以如此仕候へと申付候事を、己も尤と云なから、却て三郞へはもり其の志わざと云聞するにより、三郞彌四郞めがまいすとは不知して、唯傅母共が不入事を云と思ひ、承引せず。又もり共は如此諫候ても、水に繪を書く如く、無是非御不覺悟んとあきれはて、迷惑仕候へ共、彌四郞めが三郞の前にては、是家康直弼
も大事なし、かれも苦しからざる御事とて、秀次に木村が申せし如く、惡事の例を引て云聞せたり。夫のみならず、彌四郞が奢、惡心に恐れ、總家中の者共大小上手共に身をいたきゆるそが成心すもなく氣と深く人の心皆入目に成て、家中穩ならず。此時不慮の事あらば、家の滅亡ならんとて、〓康公よりの老功の者共も、眉をひそめ居たると也。此事も彌四郞亡て後に細に聞て、誠に後悔千萬、只今も其の事を思ひ出せは、惣身より汗出るぞ彼れ彌四郞め若き者をそゝのかし、無是非次第、我一世の間忘るゝ隙なし。と。主君を呑みける彌四郞が智術の活畫と謂ふべし。蓋し當時家康が父子夫婦の間の打解けざる事情はすでに前篇に述べたるが如く、彌四郞赤固より能く之れを識るべし而して此の彌四郞をば深く信ぜる家康、己れと信康との通路の使に彼れを用ゐたり。是に於て彼れ慣術を以て、さなきだに割れ易き父子兩君の中を離間し、濱松と岡崎との間に事を醸して、おのれ野心を逞うせんとしけるなり。家康深く彌四郞が年若き信康をそゝのかしゝを悔いけるを看ても彼れが此の「若殿樣」に及ぼしゝ魔力の强かりしを察すべし。德川家康又時により三郞若を者なれはじして我家を奪はんをはかりぬれ共- -後には彌四郞めを諸人ませす、己が惡は廣大に成により、內々のおもんはかり相違して、此是非勝賴に內通せしぞ。とあるを見れば、彌四郞武田が力を用ゐんとせしに先だちて、既に徳川の內に於いて一亂を釀さん密計ありしとは見えたりけり。要するに此の際家康が睦じからざる家庭の現情は、野心の彌四郞を利せしもの尠少ならざるべし。彌四郎築山には出入せざりしにや。抑も卑賤の者分外に榮達すれば、驕慢の念を生じて、謹愼を缺くの振舞あるは、可憐なる人間の常にして、太閤秀吉さへ此の失徳を脫する能はざりし事にしあれば、彌四郞輩の如きも、固より怪しむに足らず。按ずるに當時武士の戰塲に出づるものは、槍先の高名に由りて、異數の幸運に遭ふの途ありしかと、之れに反して筆、算盤あるは口上の役を勤めし者は、さる手柄の塲合もなく、享くる所の知行高も尠く、加增も稀にて、彼の德川の創業に殊動ありし本多佐渡守さへ、武功にあらぬ仕進の事とて、家康天下を取りし後だに、纔に三萬石の小祿に過ぎざりしといひぬれば、彌四郞が如き、當時實に幾何の知行家康と直〓
取りしや、今これを識るに由なけれど、德川の竈の烟の尙細かりし折柄、よし「家老の末座」にありとて其の給與の厚からざりしは、之れを推知するに難からず。さりながら又彼等は身に重き役儀を蒙りぬれば、日々登城して公用を勤め、常に主君に接近して、其のめでたき覺えに預かるの便宜を有したりしにより、智慧ある者は此の位地を利用し、種々の手段を盡して上意を取りやがて所謂「御意に應じ申事双びなき」程の身にもなりぬれば、大小の家政に携はりて難防災変の實權さ(己が手中に懲りようづおの沙汰と發せん達目の貧臣入を神ひし密室に內隊して事あくは此の爲最の種に决し案者共も、君前の首尾好からんには、勢此の輩の取繕に倚らざるを得ざるより、茲に彼等は君威を假りて羽根を利かし上下の間を端難して分外に版占め、小祿の身にも拘らず、大に奢を張るを得たりしなり。所詮彌四郞が增長の徑行も之れに外ならず、家中の者共擧りて彼れを恐れしも、亦全く其の密わ定の効力にあるなり意えに彼れが全然時代には家中にも度には呟く33りながら、彼れが門に出入せし請托者少からで、戰塲に生首提げし荒武者も、彼れが前に首を下げしものあるべし。彌四郞一時の勸力想ひ見るべし.要す徳川家康るに彼れ·叛逆を圖るは其の初念にあらで、身に威勢を着くるに連れて、欲望も次第に大となり、橫行して終に邪徑に進みしは、彼彌四郞も始は謀叛逆心の事は少も思はざれ共、己が智惠淺き故、人をうつけと見、樣々の事を工み修て、家中こぞつて疎む事を聞て、やむ事を得ずして、敵に内通せし也。と家康の語れるにても徵すべく、且つ彌四郞家中の惡評高くなりて今は他の手段を取らざれは永く己が位地を保つ能はざるの境遇に入りし〓とも、家廉の言相違なかるべしされど彌四郞唯斯かる外界の事情に迫られて、猫を噛まんとせし窮鼠にはあらで、自ら內心に德川家を審ふ密意ありしは疑ふからず。彼れ「むほんのたくみ」を竊に妻に漏らして、驚き止められしを、復推し返して、「其方をば此御城にうつして、御臺といはせん」とそゝのかしきといふ。妻を御臺にして、己れ殿様なるべし。夫れ領外を望めば、徳川の痛く恐れける武田の勁敵ありて、内通に幅强の對手たり。内を視れば、己れの籠絡せる信康の守れる岡崎城に乘ずべき虛あり之れを奪ひて徳川と織田との通路を絕たば、濱松は孤立となりて、家康も亦恐るゝに足らず。內外の形勢彌四郞が家康と直弼
意馬心猿を驅りて、やがて彼の家中疎斥の事情も一動機となりて、終に大膽の擧には及びしなりけり。彼れ豈德川の明智光秀ならずとせんや。斯くて天正三年、彌四郞小谷甚左衛門倉池平左衛門山田八藏の面々を語らひ、內應の計略を定めて連判の密書を甲斐の武田に送る。甲州勢をして三州作手に出でしめ、先陳の兵を岡崎に忍び入れて、己れ彌四郞其の先頭に立ち、家康の入來と僞りて、城門を開かしめ、直に使入して、信康を討取り、城を押領せば、やがて城下の衆も多く降參せん。家康亦濱松を守り兼ねて舟にて伊勢或は尾張の方に立退くべければ、乃ち押寄せて打取り、父子の首を念原にかけんといふ。斯くて勝賴悅びて、師を三州に出だしけるに、徒黨の一人山田八惑心を翻して重放に然順し刺西郞は君補られ念地は地丁と勵ひて小谷は甲州に落ちて、勝賴は軍を班す。山田は千石の知行を占む。あはれ主叛者彌四郞が末期は斯くなん。彌西即をは直子小手にいましめほだしをはおせて大久保七郎右衞門に、仰つけられて、馬のかしらの方へ、うしろをして、跡の方へ前をして頭がもそはめてあとわに緯付てほだしを南の絞管にからみ村てむほん德川家康の時のためにとて、したてたる指物をさゝぜて、がくかね。笛、太皷にて打はやして、濱松(つれて行く。然る處に念志原に女房子供五人はりつけに懸けておく處を、彌四郞をひき通してやりすごして見せければ、殊の外にわるびれて見えけるが、何とか思ひけん、顏を少もちあげて、五人の者を見て、汝共は先へゆきたるか、目出度事かな、我等もあとより行くべきと中ければ、見物の衆笑ひける。然間道々はやして人ににくませ、渡松内を引廻して、岡崎へ引蹄りて、舍舍させて置く-然間岡崎の辻に穴をほり、頭板をはめ、十の指をきり、目の先にならべ、足の大すぢをきりて、堀りいけ、竹鋸とかかね鋸とを相添えておきければ、通り行きの者共が、gきとるく〓御主樣の御制あたりかなにくう奴原めかなとて、錦を取ひきける程に、一日の內に引殺す。殺伐の光景目に睹るが如し。鳴呼亦慘なるかな同じ歲の暮つ方、又織田信長より、家康の伯父なる彼の刈屋の城主水野下野守信元、武田に内通せりとて、打果すべしと言ひ越す家康乃ち謀りて、おのが生母の夫なる彼の久松佐渡守俊勝に諭し、それとは言はで下野守を岡崎に招きて之れを打殺す武田に家康直弼
内通とは無實なりけり。律義なる佐渡守家廉にたばかられたるを深く恨みて義絕す。殊勝の男なりけり。第七大賀彌四郞亡せて、大賀彌四郞が釀しゝ家康と信康との不和も亦失せたるにや。互に通ぜざりし父子の情今は多く氷解して流石に幼少より苦鍊を經たる家康には、悔恨骨髓に微せしとは見ゆれど年頃氣隨に育ちし信康の若き心を染めし彌四郞が淘水の垢は、濁水去るも、全く去り難かりけん、折に觸れては其の癖自ら出でずして止むべきやは、是れより後父子共にをりをり武田の對陣に出でけるが、信康我が存分を張りて輙く父の意に從はざりしこと一再に止まらず。此の戰塲の橫着に年來の性癖を考へ合はせたらんに10は、後年秀忠が大殿の仰としいへば、一意に奉承せしとは異なりて、家康も岡崎の忰には御し難き歎ありしを想ふべし。武田は徳川の尤も懼れし所なれと、我が內より此の勁敵に應ずる叛人の出づるは、其の更に深く懼れし所なり。而してこたび此の叛人の徒黨岡崎の城下に出でたりとありては、縱し其德川家康の事成らざる間に發覺して大事に及ばざりしとはいへ、城主の信康いかで油斷の實なしとはすべき。さては濱松の君臣是れより一層この三河の要城に戒心を加ふるに至りしは疑あらじ。而して信康と第山夫人とは正に此の注目の圏內に住みぬるなり。且つ武田を畏れしは徳川のみにあらで織田信長にも重き頭痛と爲りて、彼の長篠の役に徳川より急使再三岐阜に馳せて、漸く出馬に及びけるも、强ち軍畧上の持重のみに非ずといふ。要するに徳川は織田の後援を憑みて武田に中り、織田は徳川に武田を禦がせて、其の間におのれ上方の掃蕩に向ふを得しなり。されば武田を共同の散となせる織田德川雨家が武邊の結合は、彌增に堅固に成り行きけるを、岡崎城の奧には、此の兩家の好意に反して信康おのが夫人織田氏に快からず、築山の猜母亦同じく疎意をさし向けぬ家康の長女龜姫といへるは、第山夫人の出にして、信康が實の妹なるを信長が强ての勸に山りて、彼の長篠の籠城に大功ありし奥平九八郞信昌に配せさせしが、此の降嫁は信康母子の頗る懌ばざりし所なりと聞えたり。さもありなん。斯くて東、濱松より目を附けられ、西、岐阜より險勝なる外舅に睨まれける信康母子の位地も、亦た安からずと謂ふべきな家康直弼
さるを信康がこの頃の行跡を看るに多くは其の暴橫の振舞を傳へざるはなしむかし今川氏眞賞翫して、一家滅亡の前兆といはれし踊をば、今亦信康甚だ之れを好み、三州諸處に催して、岡崎の城下に曜らせて之れを覽る。意に滿たざるものあれば、弓にて射殺したりといふ。心ある者今川の事を想ひて眉を顰めしとなん。又鷹野に出でゝ、獲物なくで歸りける道すがら、一人の僧に逢ひぬるを、傍への鷹匠「御狩塲にて出家に逢候へは、必殺生ならず」と言ひんば疑き將盛理みて〓如首ほまし無そな局の脇へゆむ村て幾をかけ겅乘て、ひきつり殺しきといふ。又其の頃武田の士大將口向大和守昌時が妾、其の妻に妬まれし程に、おのが生みし一女子を携へて、岡崎の城下に忍ひ來りて、所緣の商家に在りぬるをやがて其の女子召出だされて、信康が枕席に侍し、愛情淺からず聞えたり、夫人織田氏おのが女房小侍從より竊に其のよしを聞きて、痛く嫉妬しけるを、信康怒りて「奧方に入も、小侍從を捕へ、髪の毛を膝の下に引敷て、己は夫婦の中を讒して、不快になす解者なり。後人の懲しめにすべしとて、忽ちに其口をきりさき、放ち玉ひしが、いく程もなく死たりけ德川家康り」といふ築山夫人も其の頃氣欝の病ありとて、めつけいといへる「唐人の醫師」を迎へて治療あり。驗ありとて心に叶ひけるが、いつしか其の中に怪しき振舞ありと、風聞世に傳はりけるに、かてゝ加へて武田より內通の密使を送り、やがて夫人甲州に往きて好緣あるべしとの風評行はれ、終に信康をそゝのかして、謀叛の企ありとさへ噂す。其の仔細は斯くなん。築山殿ひそかに武田四郞と謀を合せ、德川殿うしない、三郞殿世に立てんとし玉ひ、勝賴のもとより來れるふみを三郞殿へまゐらせらる。三郞殿は御狩に出玉へは御留守にありし人、押板の上にさしおきしを、三郞殿の北の方ひぞかに御覽し、おとろきたまひ、その文をとりて御父信長へまゐらせらる。-三郞殿は此事ゆめにもしろしめされず。となり。夫れ亂世の若大將に血氣の餘り荒縱の振舞あるは、徃々免れ難き習にして、信康の如きも决して柔弱の若殿に非ざりしは明白なれど、抑も前に記せしが如き亂暴の擧動は果して事實なりや否や疑なき能はす。つら〓〓當時の事情を察するに、信康不快なる一人の正室を守りて、樂しからざる〓門を過家康直弼
ぐしゝとは見えず、必ず側室を蓄へて慰む所ありしに相違なければ、乃ち奥に於て女性間に嫉爭ありしは亦怪しむべからず。而して彼の踊子出家、出房等を殺しゝ無殘の事は、皆其の寵を失ひける夫人織田氏が許より父信長に通ぜし所なりきと言ひぬれば、事實に多少の加减なきや否や、之れを察するに難からざるべし。大久保彦左衛門はいふ、これ程の殿(信康)は又出がたし。晝夜共に武邊の者を召寄ら、れ給ひて、武邊の御相談ばかりなり其外には御馬と御鷹の御事なり.よく〓〓御器用にも御座候へばこそ御年にもならせられ給はねど、仰せられし御事を後の世までも、三郞樣の如此仰せられしと沙汰をもする。人々も惜しきことゝさたしたり.家康も御子ながらも御器用と申、さずが御親の御身にもたせられ給ふ御武邊をば、のこらず御身にもたせられて出させ給へば、御をしみ數々に思召す。と。彥左洵に信康の忠實なる辨護人とや謂はん信康喪せてより遙に後の言葉にして、其が裏面の失行は記せざれと亦以て當時德川の家中に於て武勇に優れし信康を慕ひし感情を窺ふ一端と爲するに足りぬべし第山夫人が德川家康謀叛の件も事實いかにや。良人に疎まれて、つれなき〓中に恨深き月日をは久しく送れる身にしあれば、さま〓〓の雜說行はるゝ內に、不行跡」の噂を立てらるゝに至るも、世に有勝ちの狀なりけり。早く我が子を世に立てゝ、おのれ亦時めける身とならんと、切なる望を抱きしは、夫人に在りてさるべき欲情なり。されど德川家の怨敵なる武田に内通し、大逆無道の罪を犯してだに、此の本望を遂げんとはしたりしにや。是れ實に築山夫人の人物を决する最後の疑問にして、史家の一考究を要する所なるべし。但し舊記之れを判するに足るべき精確の資料を傳へざるは惜しむべし。信康に至りては毫もさる非望の念なく、全く寃罪を禁りしに相違なきは史徴あり唯自ら斯かる濡衣着せらるべき境界に在りて、臆戶を綱繆するを知らざりしこそうたてけれ.兎も角も當時德川の家中に於て、築山夫人信康を】かたらひて異心の謀ありと、噂の立ちしは確に事實と見えたりけり。さては其の噂の出處はいいづこにや。疑はしきは岡崎の奧向なりけり。さては又岡崎の奥向にさる噂を出させしは唯ぞや。岐阜の空こそいとヾ怪しけれ、彼の押板の上なる勝賴の送りし文といふもの、亦誠らしく造れる嘘にはあらざるにや。家康と直弼
抑も織田信長はげに亂世の梟雄とや謂はん。新井白石この男が事を記して曰はく凡は信長初に我母を欺て其弟を殺し、父の跡を悉く併せとり、其後我子して、伊勢の國司の子となして、其一旅を滅し舍弟信包、三男信孝等、長野、神戶の養子として、其所領を奪ひ、我妹を嫁して淺井を亡し、我娘を嫁して岡崎殿を讒殺し、武田が兵をゆるくせんとて、其子源三郞勝長を與へらる。父子兄弟の倫理既に絕えし人也。其主と仰ぎし義昭を逐ひ、林佐渡守、伊賀伊賀守、佐久間右衞門尉が如き、年比功勞莫大なりし者共、皆々舊怨を修て是を流しつ。是光秀か逆謀のよりて起りし所也。是又君臣の義をしられざる所なり。ましてや義輝を殺せし賊を討たんと揚言して、初に義繼久秀か降るをうけ、且つ國郡を割與へらる。近江の佐々木、越前の朝倉等の兵力たらずして、義昭を助けざりしかば、さして賊臣と稱して、是を討ほろぼす。刑賞二つながらあたらざるに似たり。と。以て信長が鬼心を看るべし。人の家を奪ひて我が有とせんに、聊も人情義理などに苦勞する男にあらず。乘ずべき虛なければ、待つ間に反間を放ち、さ德川家康ま〓〓の詐謀を運らして、自ら取るべき機會を造る。夫れ信康が夫人織田氏に薄情なるは、信長が疾くより啣む所、若し家康が身に不慮の事ありて、信康が代とならんには、信康亡父の遺志を繼ぎて、舊の如く織田と盟を渝へざらん〓とは頗る疑はし。且つ今し徳川とは、厚き修好の中にて、家康の器量亦侮るべからざれば、敢て其の黑き腹は現はさやれど、姦雄の胸中いかで徳川〓呑の速度を療さずやあるべき式男女に劣しぬ尙求には信長もいおむくしとぞ。さては先づ除き易き信康を除きて、他日の地を爲さんは、彼れ信長が底深き謀畧の存する所なるべし。今信康を失ひたりとて、現時德川をして武等田に中らしむる勢力を減ずるには至らず。而も將來德川が勢力の永續を殺ぐには、信康を果たさんこそ必計なれ。大賀彌四郞は云ふも更なり彼の曩に織田徳川の和解に尤も忠功ありし水野下野守さへ、武田に內通の疑を以て、信長に誣いられて命を喪ひたり。今は信康母子亦事實の有無は兎も角も、嫌疑成敗の世の中に、同じ大事の噂を立てられて剩へ待ちし信長の耳に入りぬとありてはげに危き境に臨めるなり.窩に陷りし身こそあはれなれ。斯くて岡崎の奧に入れける我が娘より、信康が容易ならぬ密報を得たりと家康と直弼
聞之し信長には、岐阜の城中に一塲の演劇を開きぬ、其の所作左の如し。信康の御前樣より、信康をさゝへさせ給ひて十二ケ條かき立なされて、酒井左衛門尉にもたせ給ひて、信長へつかはし給ふ。信長左衛門尉を引むけて、卷物をひらき給ひ、一々に是はいかゝと御たづね候へば、左衛門尉中々存知申と申しければ、又是はと仰せければ、其儀も存知申と申しければ、信長十ケ所ひらき給ひ、一々に御尋ありければ、十ケ所ながら存知申と申しければ、信長二ケ所をば開かせ給はで、家のおとなが悉く存知申故は疑なし。この分ならば、とても物には成るまじく候間腹をきらせ給へと、家康へ可被申と仰ければ、左衛門尉この由御うけを申。卷物こそ曲者なれ。忠次濱松に還りて、斯くと家康に〓げ進らす、平岩主計頭親吉之れを聞きて大に驚愕し、家康の面前に出でゝ岡崎殿御謀反の聞え有てうしなはれ給ふべしと承る。御父子の御中何の御恨か有て、今かゝる結搆や候べき。これは偏に讒者のうつたふる所と存ず。君もしその實否をたゝされさらんには御後悔遠きに出づべからず。詮するところ親吉年來御傅として彼殿につけられ給ひし上は、罪德川家康親吉一人の身の上に歸せられ、すみやかに首をめして、信長へまゐらせられんには、信長しばしはのたまひ出さるゝ旨も有へからず。彼御身においては、まことに御各ましまさねば、とかく程經んその內には、仰ひらかるゝ迄もなく、信長の疑もなとか解けやらでは候べき。とく〓〓親吉が首をめさるべう候。と訴へ進らしゝかば、家康我今みだれたる世にあたりて、大國の中にさしはさまれ、たのむ所は只信長のたすくる所なり。今日彼たすけをうしなはんには、我家滅びん事明日を出べからず。されば我父子の恩愛のすてかたさに、累代の家ほろぼさんは、これ子のあはれみのみを知りて父祖の御事思ひまゐらせぬに似たり。我此事をおもはざらんには、など罪なき子うしなうて、つれなく身を立てんとは思ふべき。又汝が命乞とつて、信康が首つがさん事のかなひなば、汝が申す所さもありなん。信康とてものがるましきもの故に、汝までうしなうて家康が耻ふたゝびかさねんこと口惜かるべし。汝が深きこゝろざしは、いつれの世にか忘るべき家康と直弼
と應へつ。相對せる主從の双眼に各淚ありけるとぞ。苦衷想ふべし。さる程に家康自ら岡崎城に山馬して、先づ信康を同國大濱の〓に移す。翌日信康岡崎に出でゝ父に見えて心の程を明かさんとはしたれとも家康また聽かんやうも無くあはれ無念の信康は雨ふる夜路をたとりて、大濱の幽居にこそは歸りたりけれ。數日の後信康には更に遠州堀江の城に移され、家康には三州の諸將を岡崎に集めて、信康に密通の音問致すべからざる由の起請文を上らしめ、岡崎城をば夫の剛將鬼作左に守らせてやがて己れは濱松に歸りぬ。尋で亦信康を遠州二俣の城に移し、玆に天方山城守、服部半藏の兩使を遣はして、「罪なき子」に腹切らせけり。信康不孝の罪なくんば、いかでかゝる身とはなるべき。さりながら謀反のよしを承るこそ、死しても恨みはのこるべけれ。と臨終の辭を遺して逝きしとぞ。時に天正七年九月十五日。春秋積みて機に二十一なりけり。其の八月廿九日既に築山夫人は遠州小籔に於て生害してけり。太刀取りし岡本平右衛門。石川太郞左衛門等、終を令くせず、「築山殿の怨靈とて、おそろしき事限な」かりしとぞ。夫人織田氏は父家に還りて、尾張琵琶德川家康島三千石の地を給せられて、京都に安く住みけるとなん。四年の後信長武田を滅ぼして己れ亦明智に討たれぬ。德川の武運長久なりと、家康心に笑みしや否や。抑も信長よりの沙汰し無くば。家康よし信康と快からぬふしありとも、など之れを失はんやうやあるべき。信康の性癖家康の意に副はぬもあるべく、殊に其の夫人織田氏と不和なる一條は、雨家連合の上にも關繫して、終には延きて一家の安危に係らんも測り難く、家康の夙に憂ひし所なるべし。若し當時信長にして、心を飜して德川と絕ち、武田に好を通じて、德川を夾み擊たば、三河武士は一擊にして倒れんこと明らかなり。而して家康にして信長が彼の難題を聽かずば、勢こゝに至るは、彼の梟雄に有り內の事なりけり。さては家康も內外の形勢、家運の消長に前後の思慮を運らしては、一人の信康を失はんこと、强ちに忍び難き所に非らざりしなり。さはあれ若し家康の家庭にして始めより父子夫婦の不和だになからんには、輙く信長をして乘ぜしむべき隙もなくて、空しく一家の爲に長子を犠牲に供するに及ばざりしものを。信長の慣術は家康いかで之れを識らざらん。やがて來たらん我が子の非運をは、家康の智よく未然に防ぐ能はざりしにや。英雄の力亦窮せる家康直弼
かな家康には築山夫人の怨靈行かざりしや否や第八以上叙し來たりし所、家康が前半生の經歷を通觀するに、武邊にありては、其の始め父祖の遺略を繼ぎて、今川に與して織田に抗し、尋て義元亡せて今川の旗色振はざるを見ては、忽ち變心して織田に通じ、昨は尾張に向けし鋒をば、今は駿河にさし向け剩へ一たびは武田信玄とすら今川領の分割を謀りて、遂に其の沒落を促し後武田と對陣して干戈絕えざること十數年の久しをに故公其の趣遂にありては年用力人の間に該山夫人と嬉しと重く子を擧げし程なるを今川衰へては其の愛また速に衰へたり。而して轉じて織田と和しては、直に我が子と彼れが子との緣約を結ぶ。斯くて家康が家庭にはすでに己れ夫婦の不和ありて、其の子の信康長じては亦父子の中快からず。加ふるに織田より一異分子を以てして、信康母子亦これと不快を藤す。この間に姦物大賀を龍用して、家中の不人望を速き、おのれ父子の中さへ離間せられて、家庭の混雜さらに甚しく、其の極武田に內通して、我が家を覆さ徳川家康れんとして、辛くも免れて、彼れ大賀を慘殺し、終には織田信長が味方を失はさらんとして、其の難題辭むに力なくて無實と識りながら信康母子を殺し、玆に多年の紛情漸く局を結びたり。眞に家康一生の難關にして、其の困窮憐むべし。要するに本篇にものせし所、之れを別てば、一面は徳川家と今川織田武田三家との外交史にして、一面は德川の家庭に於ける君臣父子夫婦の內情史といふべけれと、之れを合すれば、彼の三家の勢力德川の家庭の上に聚まり、相衝突して現出したる悲劇史とも唱ふべし。時は亂世にして、人は四名家に亘り、地は東海の五ケ國に跨り、武邊緣邊の錯綜、人情智術の紛亂を極めて、古今に稀なる一大現象をば、藏めて家庭の一小天地に覽るを得るは、豈亦快ならずや。さりながら家康がこの際の振舞、頗る義理人情を缺き、遂には至親の肉をすら斷つに至りて忍刻を極めしも、詮する所我が家の大事を念ひしに外ならず。當時是等の家とし曰へば、唯その家名を稱へける主君の一族のみを指せるにあらで、其の下に隨へる侍足輕、さては仲間小者の輩に至るまで凡そ知行扶持を給せらるゝ奉公人は、皆其家中の一分子にして此の君臣合して一圓を成し、いかめしく城郭を構へて家君は其の中心に住みつ、家家.康と直弼
臣また周圍に各我が家を構へて棲息し、幾十百里に亘れる領地は、尤も貴重なる財產にして、そが地を耕せる百姓さへ其の所有物の如く見做しゝなり。之れに祖先以來の山〓と、子孫長久の感念とを加へて、家の尊きこと他に比類なし。さては此の容易ならざる一大集合體のためには、上下舉りて命を惜しまず、一切の物を捧げて之れを守りしも、時の人にありては實にさる事共なりけり。其の他家と弓箭を交へて、互に他領を侵食せんとせしも、强ち功名心を滿足せんとのみにはあらで、弱肉强食の世におのれ强者となりて、自家の安全を保たんとせし必要の意味ありしなり。而して天下を全く我が手に入るゝは、其の最も安全の道たりしなり。さはあれ家康この間の苦しき經驗に由りて、自ら大に人物を鍛ひ上げしは、其後年の事蹟に徵して明らかなり。そそ當時國郡に主たらん家に於て、其の長子は家君に次げる大切の人にして、家老は家臣中第一の重器なり。家康既に岡崎三郞と大賀彌四郞とに山りて、正に此の二つの位地の一家の存亡に關する勢力たるを實驗し、後悔千萬」老いても之れを思へば「惣身より汗出でしとはいふなり。さては其の遺訓に、徳川家康譬は大木の枝四方に付てかたつりなき時は、其木次第に榮ふるぞ。一方計の枝榮へ、つり合なき時は、此木枝にひかれ、折倒るゝ如く、國家も一人にて威を震ひ、驕る時は必其家滅亡するそ。此木の一方の枝を切て、本木を助る如くに、修者をさりて天下を治め給へと申へし。旗本諸大名共に親修らば、隱居させ、長子侈らば、二男三男其外一家の中に、其家を可治器量の者に家をつが、せよ是天道に隨ふ理也。又國持大名の家老出頭の者修强く、一人二人にて威をふるはゝ〓是又主人に內通して取ひしくべし.主人異義に及はゝ、主人共に改易せよ。若異義に及ばゝ、忽可討取。と言ひぬるも、昔むかし我が身に覺えある事より出でし訓戒なりけり。其の他年自ら老臣を用ゐるに、一人に、專任せず、互に相制せしめて、能くつり合を取りしは、全く大賀一人に威を振はせて失敗せし賜に外ならず。加之其天下に諸大名を配置して、巧に部分互制の施設を爲し以て全局を總攪せしは、畢竟家老つり合の術と同一筆法なりと謂はんも不可なかるべし。秀忠將軍の律義なるは、天性の然らしむる所あるべけれと、夙に若氣を制して我儘ならず、温讓にして一途に父の命に承順し、殆と信康と正反對の人品に生立ちし家康と直弼
は、家康必ず長子の養育を誤りしに懲りて特に注意せしに由れるなるべし。秀康は秀忠の兄にて、德川の家を襲がせざりしを、家康問はれて、彼れ一旦豊臣の子に遺はしたればなりとは應へしかど、秀康が驍勇は秀吉さへ舌を捲きしと聞えぬれば、信康の血氣に懲りし家康の意中には、亦この邊の斟酌ありしなるべし。古法を變じて新法を立つるは、家康が大禁物にて、皆は正宗の刀を五郞入道が作りたる分にて能〓せ、さびざる樣に嗜む將は正字とそ名作也然るを此刀の持玉がみだれ刄がする也とて直成刄を亂になほし、又亂を直になほし、直をみたれとし、一代〓〓に刄をなほす時は、地がねは五郞入道正宗がきたひたるかねなれ共、如此燒直しては、ほうじ物とて、何の役にもたゝずして釘にもならぬぞ。此ほうじ物よりは、只今打つ新作が用に立ぞ。孝の道ならば親が太刀を銅拵にして渡したるを、其子銀にて拵又其子は金にて拵へ、其子は細工人を吟味して拵へ、如此付かねの金銀は替れ共、太刀を秘藏し、拵やうも先祖の法式に隨ふべし。其如く先祖の家法を背かずして、其家を治る事、孝行の第一也。其家を繼ながら、先祖の家法を不守は、不孝の至極也。德川家康とさへいひぬれば、秀忠の律義こそ尤も其の意に副ふべけれ。人の一生は重荷を負うて遠き路を行くがごとし。急ぐべからず。不自山を常とおもへば不足なし。心に望おこらば困窮したるときを思出すべし。堪忍は無事長久の基怒は敵とおもへ、勝事ばかり知て負くることをじらざれば害その身にいたる。己を責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり.シ〓〓とは東眼寄の誰訓とて財く世に零ばれ今も地川の苦と之ぶ前が家のには往々見る所なるが、是れ洵に家康が積年嘗め盡しゝ實驗より醇釀したる金言にて、此の僅々の文字、そが一代の事業を說明して餘りあるべし勿論家康さる消極の思慮を有せしのみにあらで、時宜には進みて戰ふを辭せざる挑發せし跡ある關ケ原大阪の兩役すら、表には敵に應じて餘儀なく起らし位置を取りしなり。畢生の力もて天下を我が手に入れし家運の長久を念じては、世の無事太平を望むもさる事なり。さては徳川の天下は其の消極的針路を保守して三百年の久しきに傳へしなり。家康と直弼
右) (四七)築山夫人生害してより家康また後妻を娶らず八年の後一たび秀吉の妹朝日姫と婚せしかと、是れ關白に要せられて、おのれ亦權畧に迎へし所なれば夫婦の愛情は如何なりしにや。築山夫人に懲りし家康、勿論其の扱ひに如才なかりしとは見ゆめれど、姫の濱松に在ること纔に二年にして、母の病に京に上りし後は、また夫が許に歸らんともせで、幾程もなく其處に世を終りきcenと傳へぬれば、其の濱松に在りし間も、名は夫人にて、實は賓客と扱はれし程にはあらざりしにや。按ずるに築山夫人の猶世に在りける日、すでに家康が妾腹の子に秀康あり、秀忠ありさるを其の死後さらに正室を娶りて、若し嫡男の生まれんこともあらんには、やがて嫡流と庶流との間に爭を生じて、禍と後見に論ずの部をさらんも測り難し近れ世に如からい例にて深くの爲に思慮を運らしゝ家康、いがで此の邊の用意も無くてやあるべき。其の閨門の內を看るに、老後に於てだに潔白を缺ける振舞ありしはすでに前に述べしが如くなれと、彼のお茶阿の局が忠輝に於げる一條を除きては、子孫に累を及ぼしゝ跡を見ず。築山夫人母子を扱ひ誤りし覆轍に深く戒めし所ありしは疑を容れず。而して曾て今川義元より築山夫人をもて己れに擬せ德川家康られ、織田信長より其の娘をもておのが悴に擬せられし實歷の故智を用ゐて、天下の群雄を待ちし者·亦.夥し。凡そ此の種の婚姻、夫婦の情合を以て、家と家とを繋ぐの意味なり。家康この家婚に由りて味方を强うせしもの、實に幾百萬石の領地に價せしものあるべし。おのれ內房に男子の弱點あるを知りける英雄、また群雄に婦人を與へて、其の弱點を牽かん意なりしにや。先づ其の息女にありては、長女は彼の奥平九八郞信昌に與へ、次なるは北條相摸守氏直に妻はせて、北條滅ひし後は、池田左衛門尉輝政に配す.次なるは始め蒲生飛彈守秀行に嫁して、後淺野但馬守長最に嫁す。其の養女にありては、保科彈正忠正直の女の我が外姪なるを取りて、黑田筑前守長政に嫁し、松平源七郞康忠(其の從弟)の女を取りて、有馬玄。馬頭豐氏に嫁し、松平隱岐守定勝の女の我が外姪なるを取りて、松平土佐守忠義に嫁し、池田左衛門尉輝政の汝の我が外孫なるを取りて伊達陸奥守忠利に嫁す。彼の秀吉逝きし後、私婚の禁を破りて、伊達政宗の女をば我が子の忠輝に配し、甥なる松平因幡守康元の女を養ひて、福島左衛門太夫正則の子正之に嫁し、小笠原秀政の女の我が外言孫なるを養ひて、蜂須賀、阿波守家政の子豐雄に嫁するを約せしが如き、以家康と直弼(五七)
て當時是等の豪傑に緣邊を結ぶの急要なりしを想ふべし。この時大老奉行等その振舞の違法を責むれば、偶忘れしのみと近辭を構ふ。つつけめかすも亦何ぞ甚しきや。其の他加藤肥後守〓正の女を取りて、我が子の常陸介賴宣に配し、蒲生秀行の娘を秀忠將軍の養女として、〓正の子虎之助に配せしも亦其の意中識るべし。而して豐臣秀賴に秀忠の女千姫を納れて、久うして終に之を滅ぼしゝに至りては、實に織田信長が岡崎に我が娘を入れて、信康を果たしゝ事態に似たり。其の淀君を利用せしは猶信長が築山夫人を利用せしがごとく、其の鐘銘に據りて謀叛を誣いしは猶信長が娘の送りし卷物に據りて謀叛を誣いしがごとし。大坂陣中阿茶の局を携へて、城中の亂れたる內房の應對に、此の賢婦を用ゐしも腹黑し。大坂沒落の半面は女性の勢力の利用なりと言はんも不可なかるべし。若し新井白石が信長を難ぜし筆法を用ゐんには、家康我が孫女を嫁して豐臣家を殘滅せりといふも辯解なかるべし.是に至りて亂世英雄の智術遂に其の軌を同うするもの乎。然れとも家康の如く天下を經略するに能く女性を用ゐしものは、我が史上に其の比を見ず。巧に諸大名を各地に配置せしが如く亦巧に婦人を彼等の間に配布し德川家康て其の奧に入れ、表面には法度の網を張りて、裏而には緣邊の蔓を布き、恩威を縱橫に施して群雄を籠蓋す。所詮この深く人情の根底に基ける緣邊政略の伴ふことなくば、如何に家康が封建制度の用意周密なりとも、何ぞ天下の德川に服すること三百年の久しきに及ぶを得んや。是れ家康を識らんもの、ゝ尤も留意すべき所なり。家康直弼
鬼作左第百日長圍の計に漸く關東の强敵北條を滅ぼして、今は天下を一統の下に服〓せし關白秀吉、名に負ふ聚落の第に驕らざるも久しからずと半覺悟の上の奢を極めける折抦、一日德川毛利浮田の面々を始め、多くの諸大名をつどへて、おのが名刀奇珍に誇りつゝ、侍坐の人々にも各々その賓とする所を言はしめたりしに獨り心に一座ある家康は晴賊して他が言をのみ猶きけ切りに促されし程に、やがて重き口を開きて某は知らせらるゝ如く、三河の片田舍に生ひ立ちぬれば、何もめづらかなる書畫調度を蓄へし事も候はず。さりながら某がためには水火の中に入りても命を惜しまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家、康が身に於て第一の賓とは存ずるなれ。と徐に躍り山でつてにに於父を放そて做れる關白が胸を外したば硬豁度の豪傑も暫し苦容ありけりとなん。想ふに其の時家康現にこそは言は鬼作左ね、己れ是の活きたる寳を持ちぬれば天下にまた恐るべき大敵無し、若し之BLBれを率ゐて識成に其孝に入シんロには今七此の咬き金殿の上に得をて徒に死物の器玩に高慢なる關白殿お亦何の事かこれあるべき、夫の長久手の合戰を見ずやとは正にこの老雄が暗獸の間の心術なるべし。げに徳川武士の忠勇は時の天下に無雙なり。姉川の役に其の援に藉りて大捷を得し織田信長これを素膜して、売り毒存靈の如く發に貼して離れずと甘洵に吾れを欺かじ。當時田家の俚謠にも、德川殿はよい人持つよ服部半藏は鬼半藏、渡邊半藏は鍵半藪、渥美源吾は首取源吾。とぞ歌ひたる。是等の人々さばかり名ある將士にもあらねと、皆一騎當千の勇者、身に代へて主を思ふ德川武士の血性は、此の徒の肢端にも溢れたり。彼の時もし試みに家康をして、おのが第一の寳と自負せる五百騎の人々が名を言はしめなば、井伊、本多、榊原の三人男を始めて、夫の鬼半藏、鍵半臟の輩に至り上方形をば物の數とも想はぬ載了其数の益葉処ゐおは是の實の口より、時の英傑列座の席に憚らず披露せられて、恐らくは一塲の美觀を添家康直弼
へしなるべし。されど此の間ひとり德川に久しく其の人ありと知られたる烈士にして、今はあはれにも、上總の國なる小原の莊に、無念の殘年を送りて家康も縱し意中には之れを數ふるとも、秀吉が面前には聊か其の名を擧げ難き一人の老武者ありけるこそ、いとゝ惜しかりけれ。是れを本多作左衛門重次と爲す。吾れ徳川の史を讀みて特に斯人を憐む。作左衛門が事は多く傳はらずして、傳はりし事は人多く識る。剛の者多き三河武士中、作左衞門とし言へば尤も剛の者とぞ聞こえし、三河一國德川の一統に歸しけるとき、高力天野の二人と共に奉行職に任ぜられて、時の人「佛高力、鬼作左どちへんなしの天野三兵」と謠ひしより、此の恐ろしき名は永く史上に残りき。いつしか領內の百姓訟を起こして作左衞門が裁斷に敗を取り、怨みて其の公判を非議したりしかば、巖厲なる鬼奉行上を犯すものを正さずば威立たじと、再びかの百姓を糺問して、直に首斬つて捨てきとなん。されば奉行に擧げられし初め、心ある人々は斯かる性來の荒男をば民政の要路に用ゐるは、主君の目利違へりと竊に危ぶめるもありしに、職を執るに及びて、力めて威嚴を持して事を果斷に處せしかば、治務大に擧がれりといふ。鬼鬼作左には長服せしめ、佛には悅服せしめ、どちへんなしには信服せしめんとは抜からぬ家康が領民治術の用意なるべし。斯くて作左衛門剛氣に勝ちし性なれて赤必ずしも群理に語まに非チ於時氏間の余多く字を噸して、於言さへ解し兼ね上令とかく下に達せざりしに由り、作左衛門いろはもて制札を記し背く者は作左衛門これを切るべしとの山を揭げ示せしかは、やがて國內血壓してみ傷沿く旨はれしとシ價字書の制札式眞の書風なるも、民情を酌みける注意の程こそ優なりけれ。「一筆申、火の用心、おせんなかすな、馬こやせ、かしく。」是れ作左衛門が旅路より留守なる妻が許に贈りし手書、今も作左が簡潔の詞華として人口に鱠炙せる所なり。木訥率直の裡にも義理人情に疎からぬ心の奧ぞ見えにける。おせんは作左が唯一人の寧馨兒、暫し別れし間にも其の稚き身を念いて、おせんなかすなと鬼は武者が親心も何ぞ夫れ慈愛深きや。さるにても妻は亦如何なる女性なりしぞ。顧ふに一辭の修飾言はぬ作左衛門に取りては、彼の廿一字の短束も誠に內相に對して留守の心懸をば懇に諭せし深情の家書と謂ひて不可なかるべし。武骨の人口にこそ柔弱の言葉を出ださね。心の底には家康と直彌
熱性を藏せる純良の直情あり。事に觸れて發すれば、徃々烈日直射の狀ありて、一見無情の男に見ゆれども、其の實中心には至情の白焔燃えけるなり。作左衛門もこの類の人、平生家居の際其の妻に對せる振舞も略〓察すべし、舊史さらけ多くは其の剛骨を擧げて、其の眞情を說かざるぞ遺憾なる。既に斯かる情ある家書を贈れるからは其の妻必ず作左衞門が心に副ひしなるべく妻も亦必ず貞節を盡くして、作左が家庭は恐らくは嚴格の間に多福なりしならん。此の間に設けし一人のおせん、愛兒の程ぞ識られける。妻も良人の嚴命を守りて、大事におせんを育てしなるべし。抑も亦國を有てる者、騷亂の世に處しては、おのが領内をば最も靜かに治めて人心の動搖を制し、不虞の變を戒めて、敵國の乘ずべき、内訌の起こるべき對隙を防ぐは、其の尤も急務とせし所なり周密なる德川は此の邊の用意特に深く、火事は往々この動亂の導火となるべき恐あれば、之れを戒むる〓と非法常に嚴しく、他年家康駿河にて、火を出だしたる者は切腹せしむべしとの議さへありて、其の時には本多佐渡守の諫言に由りて斯かる重刑は止みしも是の一事亦以て火を畏れし程の太甚しきを看るべし。作左衛門が彼の書の鬼作左第一に火の用心を戒めけるも、亦單に我が家の爲を慮れるにあらで、所詮、城下を騷がさゝらん主家大事の衷心より出でしや疑を容れす。おのが一家の上にも斯る奉公の覺悟ありてこそ、奉行となりても良吏たるべけれ。作左が治めし間には、國內に火事の沙汰多く無かりしなるべし。家康いへらく、朝夕の烟立ることはかすかにても、馬、物の具きらびやかにし.人も多くもたんこそ、よき侍の覺悟なれ。と。馬こやせと言へる作左衛門亦家康によき侍と謂はるべし。作左その頃幾何の知行取りしか識らざれど、想ふに僅に三人の家族、必ず儉素の生を立てか多少くの郞徒を地一しならん職國の武士爭ひて良場を落ふ作会獨內も逸物なるべく、寵兒のおせんと共に厚く愛養せられしなるべし。されば若き頃より幾度となく戰陣に出でゝ、常に〓陣を胃して屢高名せしも、馬の功尠からざるべき乎。三方が原の合戰には、乘りし馬を射られて、敵の園中に落ちしが、槍を奮ひて一騎を刺し、其の馬奪ひて、取りし首提げて馳せ歸りにき。戰塲の剛膽も〓ね斯くの如し。信長が言ひし薄音樂の中にも作左衞門はげに無二膏なりけり。さるにても彼の射られし馬は妻の肥やしゝ駿なりしや家康と直弼
否や。軍より還りて作左夫婦の物語に、此の不幸なる犠牲を哀みしなるべし。斯くて一片の短書にも奉公の心、親の情、武士の覺悟さへ現はれて、眞に作左衛門を多樣に描き出だせる一幅の好活畫と謂ふべし。當時亂世の氣風なべて簡峭なるに連れて、書札も自から簡峭の風を存したりしかと、作左が如き、僅少なる率直の文字にして、而も多趣なる情味を含めるものは稀なりけり。』一とせ家康駿河に討ち入りて、軍を旋せる折柄安倍の河原に人を意る釜あり。之れを見ておのが濱松の城に送らしめしが作左衛門送れる途上に亦之れを見て、仔細を糺し、君命のあるをも知りながら、即時に破碎せしめて打捨てたり。而して驚けるへの吏人を脱みて、爾疾く濱松に參りて、殿に天下を望める志ある者、何の要ありて斯る殘虐の刑具を用ゐんとはすべき、詮なき物ゆゑ、重次これを打碎かせたりと、有の儘に言上すべし。とぞ嚴諭しにける。傳へ聞きし家康、痛く喜びて作左に謝せしとなん。鬼こそ人を烹んとはすれ。釜を破りし鬼作左には佛の慈悲ありけり。さはいへ其の釜と共に、大事の君命をも破碎して顧みざる振舞に至りては、流石に鬼の根鬼作左性顯はれて、何ぞ夫れ豪橫不遜極まるや。おのが頁と信ぜる前には主君も無し。やがて歸りて君に申さん暫しが程も待たれで、思ふ刻下に斷ずる銳氣ぞ物凄き。彼の家康重き背疔を病みて、心盡しの治術も驗なく終に自ら起たざをを装構して憲言き一ずきに及びし折にも。左左衛門枕邊に伺候しのが存を療せし長間入道の然そ君せとゆめ過をすれても死を助せる聽くべき色なし。作左範然として、さても殿はあたら命を犬死し給ふ事かな。今は復何をか申上げん。重次平来いて、御後にさがりて御供せんよりはいで御先仕るべし。と言放ちて立出でけり。家康驚きてとヾめさせ、汝は狂氣してける乎我れたとへ死したりとも、後事こそ大事なれ。汝等一日も世に存して、若き者共をば沙汰すべきに、今は何とて用なき先腹を切らんとはするぞ。と叱したれば、作左衛門推返して、そは人にこそよれ。重次年尙若かりせは、いかで殿の如き無分別なる人が死の御供仕るべき。今は重次六十に近く、若き時より度々の戰塲に御家康と直弼
供して、眼は射られ、指は落され、足は切られて、かたは者世に交はるべき身にもあらず。唯殿の御情によりて、人がましく家中にあれど、殿の亡き跡には聟君の北條殿さへ我が國を狙ひ給ふべく、主を喪ひし若者共、力ある戰も爲し得で、國滅びん時には、老いたるかたはの重次、何を惜しみて詮なき命をながらへけるぞと笑はれんも口惜し。あさましき終を見んよりはと念ひて、かくは御先の覺悟してけり. %とと曾ひ愛してみ心。にに就れたり家康必て感激して其の必を後はや開めして治療を受け作左橋間も自ら艾取りて大なる灸をばする迦らに、夜半に及びて腫物破れて膿汁多く出で、病苦頓に减ぜしかば、作左衛門聲を揚げてうれし泣に泣きけるとぞ。徳川武士忠諫の士に富みぬれど、作左が如き君を罵詈して直諫する者は無し。長閑の醫術もさることながら、作左衛門が極諫の荒療治こそ、家康が起死回生の首効なれ。喜び極まりて大に泣くとは、天眞の至情何ぞ夫れ美なるや。而も此の忽ち雨ふる淚こそ作左が剛氣の反銳なりけれ。抑も當時の群雄能く士を愛せしかとも、眞に鬼作左が如き不屈の士を容れんものは、堪忍强き家康の外無かるべし。小牧の合戰後、果た鬼作左して作左衛門が剛氣は、關白秀吉に向かひて、重なる衝突の極は、あはれ悲歎の末路に沈みて了りき。第二犬山の陣に茶を〓ぜし秀吉、長漱の敗報に心を焦して、袂を拂ひて起ち、馬を龍泉寺に進むれば、家康は、筑前賴み切ツたる先手を三人(池田勝入父子及び森長一の三將)まで討たせ、嘸せきたるらん。と笑ひつゝ、徐に勝を收めて、小幡の城に兜の〓をしめぬ。英敏なる秀吉、今は德川の武の侮り難きを痛感してよし戰には敗れたりとも、更に計略もて、異日彼れ家康をば「長袴きせて、上洛せしめて、我が下風に立たせんとは、其の時抜くも趣卓の胸中に浮决し即季なるべしざはあれ從に一融の敗に屈勿惶和を求むるが如き不面目の拙策は、天下を望める大才の素より爲さヾる所、乃ち數萬の大兵を擁し、美濃伊勢尾張の間に出沒して、敵の虛を窺ひながら、亦敢て進撃もせで對陣數月に亘りし後、始めて和を唱へ出だし先づ誘家康と直粥
ひ具き織田指龜を語らいて成らきを行ひ矢田の減に會贈して贈るる深く慇懃を通じ、卑辭厚禮の上に、今し得意になれる席將を乘せて、立刻の間に籠葢し了んぬ。而して家康も亦老臣石川伯耆守數正を兩氏が許に遣して和を祝せしめたり。抑り是の小牧の在たる原は秀吉が箇主載田家の進族を減度して、あ下を取るの障害を除かんとするに起り、そが挑發に罹りし信雄は轉じて投を德川に乞ひしかば家康は地下なる信長の奮義を思ひて、一諾山より重くやがて起ちて秀吉と軍陣の間に相見ゆるに至り、一萬有餘の微勢を以て數倍の上方勢に對し、おのれ加勢に出で來て、忽ち戰塲に主人と爲り、要の信雄は後へに瞠若たりされば秀吉の眼中にも家康ありて殆ど信雄なくさては順序に於て先づ信雄に和を結びしも、所詮家康に和を結ばん階梯たるに外ならざりしなり。翻りて家康の位地より看看は、秀吉も天縱の鴻雄、妄に爭ひ易からず、既に長漱の一戰に奇捷を博せし上に、半年有餘の對軍に一度の不覺をも取らざりしかば、今は徳川の武も多とするに定りぬべし。さるからは徒に長く相抗して、國力を疲らさんよりは彼れが和を求むるあらば、持重鬼作左て後に之れを容れ以て戰勝の武名を永く天下に繫ぎて、更に他日の銳を蓄へんこそ、時に取りて徳川が得策なるべけれ勘定深き家康、斯くと定まる胸算ありて、さてこそ彼の和睦の賀使を立てしならめ。唯禮讓の爲に使儀を修めて表面好意を示しゝに過ぎじと言はヾ言へ、其の裏面には、やがて己れに願り來ん〓吉が假く心にそれとれてそれとはヨはで防引の干涸だか策意を含みしなるべしそが使者なる石川數正前年一たび大阪に使して、秀吉と昵懇の中なるが上に、こたび小牧の陣中に於て、內應の風聞さへ傳はりし人、此際秀吉が前に通過の宜しきは、徳川の家臣中彼れに超ゆるは無かるべし。秀吉この使者に接して、特に心くつろぎしなるべし。之れを遣せし家康の腹ぞ實に黑かりける。前史徃々家康の此の和を懌ばさりし由を記しぬれと、是れ未だこの老雄の底深き心を穿たざるなり。曠日の長陣は秀吉も好む所にあらぬと、後日の思慮深き家康は尙多く好まざるべし。若し家康をして淡泊に其の意中を明かさしめたらんには、おのが面目さへ立ちぬれば、我れより和談を懸くるに躊躇せざりしなるべし。さはいへ其の臣下の面々には此の和を憚ばざりしもの尠からじ。蓋し夫の家康直弼
長湫の大捷は德川の威勢を天下に揚げて、遠近より欵を通ずる者多く、かの佐々成政の如きは、自ら遠く北越より濱松に慕ひ來たり、相應じて共に秀吉を討ち滅ぼさんと勸說するに至りぬ。されど裏心和を欲せる家康、固より之れを聽くべくもあらで、我れこたび軍を出だせしは、唯信雄が倚賴に應ぜしに止まりて、聊か天下を取らん志は無しと躰よく謝して此の珍客を還しにき。天下を取らん志は無きにあらねと、時ならぬ今の際には、潔白を示して秀吉が耳に入れんこそ智計なるべけれ。斯くて徳川の聲望外に隆なると共に、內にも亦戰勝に〓がれる貔貅の意氣高く猿面冠者を呑み、大望の焔炎々として、許多の佐々成政ありしや疑を容れず。而も一朝和成りて、是等の武者敵に貼して離れぬ銳氣を抱きながら、眼前に好敵手を舍てゝ、功名の塲を去らざるを得ずとは、其遺憾いかばかりなりしぞ。其が中にも特に剛なる作左衛門の感亦如何ぞや。願ふに作左歲すでに六十の老境に近く、剩へ年頃負いし手疵に自由を缺きぬる身にしあれば、勇氣は今も昔に變らで、主家を思ふ衷情は彌增しつらんも、烈しき戰塲に馳驅して、おのが一身の高名を思ふ若氣の望は漸く冷やかなるべく、當年の役には伊勢の國なる星崎の城を守りて、小鬼作左牧の本戰には逢はず、蟹江の城攻には加はりしも敢て〓群の軍功とては無し。さりながら秀吉が野心を抱きて舊主家を倒さんとすと聞きしときには、〃おのが忠義の一念に較べて、老いても失せぬ猛き心は、如何に憤激せしぞ。必ずや作左の鬼眼は此の天下一の英雄を視ること、彼の昔し上を犯しゝとて斬つて拾てし土百姓にも劣りしなるべく無遠慮の男恐らくは家康の面前に、彼れを不義の惡徒と罵り做して、早く討つて果すべしと疾呼せしなるべし。其の荒凉の風貌さながら目に睹るが如し。小牧の出師は德川一家の擧りて起ちし所なれど、作左衞門は主戰論者の發頭の一人なるべし斯くて武朴の硬漢一たび秀吉をは奸賊と感刻して、深く肺腑に徹せし上は其の初念甚だ翻し難く、智慮】ある家康こそ、形勢の變に應じて時宜の權策をも立つべけれ。律義の作左衛門積年の經驗に前後の思慮も無きにあらざれと、素より融通の才に乏しき剛骨の性には先入主となりて、秀吉の面影は必ず作左が一筋の心に實に惡むべき敵として永く存せしなるべし。さては此の敵信雄を誰して和を結び、家康亦此の敵に賀使を送りて、遂に空しく軍を引還すに至ると見ては、主君の智術に無頓着なる鬼作左、豪氣に任せて、亦家康をば無分家康直弼
別と罵りしや否や第三さる程に軍平ぎて家康濱松城に還れば、やがて信雄は援兵の勞を謝せんとて茲に訪ひ來たりぬ。然れどもこの好客たゞ斯かる邪氣なき儀式の禮のみに來しにはあらで、己れを奉りし秀吉がために家康に所望の一事を達せん用をも齎しゝなり、乃ち對面の折柄其の意を打明かして、こたびの戰德川殿には我れを救はんが爲に師を出だして、秀吉と一時の爭ありしも、固より怨憎あるにはあらじ今は我れすでに秀吉と和しぬればあはれ徳川殿にも彼れと親睦せられんには、我が喜びは言ふもさななり秀育が締悅も推して知る又しざるからは好意の表に徳川殿の近親一人を養ひて子とせんこと、實に秀吉が至願なり。との旨をぞ言ひ繕ひける。蓋し德川の歡心を取らんに、事の成就尤も易きは、此際先づ信雄をして中間に周旋せしむるに如かじと看て取りし秀吉さては氣輕の調子に甘き茶筌丸を乘せて、おのが用に使ひしなりけり。而して家鬼作左康に對しては、亦先づ人情の親緣より結托するに如かじと案じ其の乞ふ所の人をは、敢て輕薄なる人質などに取らん氣色は少しも見せで、洵におのが子にせんと、深くも我れより信義の實意を表して、聊か疑を挾まざる襟度を示すの慣手段を用ゐぬ。さはあれ徳川武士の猪眼には、彼れ權變の秀吉、口には質と言はで、腹には質にせん計畧なりと見しも、全く邪推にはあらじ。秀吉が我が物にせんと欲する所は、さばかり用にも立たぬ一個の義子にあらで、天下に有せる家康の勢力にありけり。乞はれし家康も亦さる者、秀吉の意中もとよりそれとは識りぬ。されと義理ある信雄の懇請も强ちに辭み難く、秀吉も裏は兎も角、表は我が子にせんとの厚意を示せるからは無情に拒絕せんも康かならず。而して心の底には戰後の今日暫し無事こそ一家の上計なれと期しける折柄、徒に養子の一小事より破綻を生ぜんも亦時宜を得たりと言はじ且つは元來家康深忍の性にして、かの大切なる長子の信康さへ、生かし置きては妨害ありと見れは、迫りて自殺せしむるに踏購せざる男にしありぬれは、僅に一人の緣邊を上方に登せたりとて、そが情に曳かれて、豊臣がために奴隷の奉公を爲さん輕處の家康直弼
愚物にあらじ。秀吉は先づ子を捕りて、尋て親を捕らんと試みん意なるも、家康は之れがために、秀吉に於ける向背の念には一毫の深淺を加ふる軟漢に非ずされは之れを最ちる奈水が正及の勘定に於ては何の損益も無かけれと、唯彼れに取りては亦その望を充たしむるに足りぬべし。斯くと家康思慮定まりて、乃ち永引の旨を信雄に通じぬ、喜びし信雄は急ぎて手抦の報知を上方に馳せしなるべし、秀吉は占めたりと心に笑みしなるべし。斯くて家康)は久松佐渡守俊勝の末男にして、おのが異父同母の弟なる三郞四郞定勝をば送らんとしけるを。母なるお大の方(傳通院)、昔し今川に質となkりて、武田に奪はれし次男源三郞が、雪路を冐して足の指落として、辛うじて逃れ歸りしあはれの身を想ひ出で、今また末を賴める弟をば遠く上方に取これて意にせんにはだめ行かるなからずと旅ましに由り夫十に近ま1e之付が密き協を動ふける豫康これに代一ておのが座千於發九を過し數正が子の勝千代と、作左衛門が子の仙千代(おせんの事)とを附添へて都に登しぬ。於義丸は即ち黃門秀康の幼稱にして、家婢お萬の生む所、家康之れを愛して孕みしかば、嫉妬深き第山夫人の怨を避けて、本多豐後守廣孝が家老鬼作左@本多半右衛門が許に忍びしを、作左衛門密かに家康に訴へて之れを營救せしなりとぞ。一說には憤れる夫人寒夜に此の孕婦が衣を奪ひて、郭內暗樹の間に放ちしを、作左衛門助けたりともいへと信じ難し。生まれし兒は作左またおのが子として之れを養ひ、三歲のとき、兄信康この愛弟を連れて家康にBrit見え、始めて實の父の膝に抱かれぬ。之れを尤も喜びしは、父よりも兄よりも、將た其の幼兒よりも-{賞は他人の作左衛門まるべし。願ふに忠直の作左、貴種の英兒を我が家に置きて、面目之れに過ぎじと鞠育常ならず、今年早くも十一歲に生立ちぬれば、夙に手習武道の修業、等閑に付せざりしなるべし。おせtんも今年長じて十六歲已に初陣にも出づべき年頃になりて、丸が爲には恰好の兄たるべく、幼時より同じ慈親の下に共に育ちて、友愛の情も睦じく、年少の於義丸多くお仙の誘導を受けしなるべし。抑も彼のお大の方、我が子をば天下取の豐臣家が養子に捧げたらんには、微々たる久松家に在らんよりも、子の幸福も、おのが冥加も大なるべく、心ある秀吉亦决して他人がましく之れを虐待せん淺智慧にもあらざるに、尙次男が今川に質たりし昔のためしを案じて、痛くも之れを厭ひし事實は、亦以て家康直彌
徳川の家中に於て、一般に好意をもて秀吉を見ざる衆情ありしを窺ふ一端となすに足りぬべし。許多の武士味方の大家に遣はすめでたき養子と喜ばで、一時和したる敵國に遣はす質子なりと思ひ做しい中にも、作左衛門特に此念强かるべく、許さぬ仇敵の詐術と見ては縱ひ戰國の世の習ひながらも豪銳の性いかで一冷笑に付し去るべき。而かも今は此の作左が身に、己れ多Sw年暑ひ巡らせし公子をはモだ惱牲に供せざニヘからざヨ難題直接に懸りぬ。流石に剛の男も亦豈彼の柔情なる老女性と一片の同感なからんや。〓諤の作左を首肯せしめしには、家康必ず若干の苦勞ありしなるべく、作左も亦己れを抑えて、もだし難き君命を奉ぜしには千釣の力をもて勇斷せしなるべし。而して僅に十一歲の幼者をば、識らぬ人に托して遣るに忍びて、遂におのが一人の愛兒をもさし出だして、其の行を共にせしむるに至りき。奉公の衷心亦何ぞ美なるや。離別の際作左が武骨の哀情眼前に髣號たり。是れより作左が心は常に上方に馳せて、二人が身の上に到ると共に、秀吉が振舞を注目することも、一層嚴刻となりしなるべし於義丸都に上りて〓年の後、一日伏見の馬塲にて、關白の厩吏おのが馬と駈け爭ひし不遜を憤り馳せる鬼作左馬上に白刄を閃かして、一刀加へて首を薙ぎしかば、人々大に驚惶しけるを、靜に轡を控へて、一睨して、やあ如何に殿下の御家人たらんものが、秀康と爭ひて、馬はせ、且つは無禮をいたすべきやうやはある。あしうふるまつて、かた〓〓もあやまちし。秀康うらむな。と制しければ、皆畏りて一言なし.秀吉も大に感嘆せりとぞ。他日佐々成政秀康が豪武をたゝへて、流石に德川の子なりと欺ぜしに、秀吉彼れは乃公の子にして、勇も乃公に肖たるなりと矜りしとなん。作左に言はしめなば、亦乃公に肖たりとやいはん其の厩吏を斬りし傍若無人の振舞、何ぞ夫れ彼の百姓を斬りし鬼作左が所爲に類せるや。斯くと聞きし作左が喜び亦想ふべし。第四家康直弼斯·くて秀吉難なく家康が子をば政略的養子に取りて、一種變則の人質に差押さへしが、之れに繼ぎて家康をして我が足下に低頭せしめんことは、其の子を獲しが如く、容易の業にはあらじ。且つ小牧の役後其の威勢も兎角世に
揚がらざる觀ある今日、勿卒之れを招致せんは、機宜の緩急上にも得策ならざるべく、天下を見渡す秀吉が偉略の眼には、必ず明かに斯くと映ぜしなるべし、乃ち秀吉之れに先だちて小牧の役に徳川に通ぜし敵黨の掃蕩を始め、南紀州に出陣して根來の反徒を則平し、長曾我部元親を打降して四國を徇へ、鋒を轉じて長驅、北越に入りて彼の佐々成政を屈服し、事のに進みて上244杉景勝と糸魚川に會盟し、以て大に版圖を擴めて、四隣に兵威を輝かしぬ。而して此間に朝延を要して關白に陞り、從一位に進み、昔松下加兵衛の草履取、今は俗世無上の衣冠に身をやつし、夫の徳川の豪敵をして首を下げしむべき人爵を占めにき。十二歲の於義丸も、首服して羽柴秀康と名のらせ、一萬石の田領を與へ從四位下侍從兼三河守に任じて、待遇いと厚かりけり。轉じて徳川の動靜を見れば、秀吉に苦しめられし根來の竄類をば、其の懷に納れて扶持し、尋て亦秀吉が北伐と殆ど時を同じうして、信州上田の城攻あり、抑も曩に織田信長武田の四郞勝賴をば天目山に滅ぼして、幾何もなく自らも亦本能寺の變に煙と亡せしが、主君の非運におのれ幸運を得し猿郞秀吉、風雲に乘じて宿望を達せんと、驍名高き柴田權六等と中原の逐鹿に餘念鬼作左:なま折しも奈衆は上方の葉あるふをは徐庫に有ながら日個大事と岡ゝ、更に武田の遺領を橫領せんと、兵を甲州に出だして北條と爭ひ、やがて相和して、敗れし彼には上野一國を取らせ、勝ちし己れは甲信の二國を掌握し、其の女をば氏直に妻はすを約して、媚與の契をさへ結びき。さるに上州なる沼田の城は、上田の城主眞田安房守昌幸の曾て占領せし所にして、昌幸は當時家康が下に屬せしにより、北條が請を受けし家康は、之れを諭して其が城地を致さしめんとしけるに、昌幸肯ぜず、心を飜して上杉に援を乞ひ、秀吉に通じて徳川に背きければ、さては家康兵を遣はして其の居城を攻むるに至りしなり。さはあれ眞田の武者.能く戰いて、寄手の軍兵常に敗を取り流石の德川勢も固し來てゝ將に兵を收めんとしける將しも秀有トだに隊し田を救はしめ、越後の强兵大に信州に臨まんとすと聞こえしかば、急に陣を拂ひて師を還しにき陽には德川と和睦して、陰には猶も斯かる詭計を運らす秀吉、げに油断ならぬ男なるかな。さなきだに由來秀吉を信ぜぬ徳川武士、今亦斯くと聽きては、其の激情の狀も略〓察すべく、作左が秀吉に對する敵意も亦こゝに一段の深きを加へしなるべしされば其の頃家康群臣を會し家康と直弼
て、秀吉が許に人質を送るの可否を評定せしめしとき、擧げて不可を唱へし一事に徴しても、亦以て彼等が一般の意向を想條するに足りぬべし作左が順議も問はで識るべし蓋しこの際德川の位地たる、北條に對しては眞田をして沼田を渡さしむるの義理あれど、さりとて眞田をば强ちに責むれば、後に强援を控えて、其の武侮り難く、加ふるに一旦和したる秀吉との間柄にも響きて、復おのが一家の大事を惹起こさんには、背に腹は代へられじ。斯かる事體錯綜の間に樹ちし家康、乃ち一面秀吉には質を送りて、聊か如在これ無きを明かし、以て與田が方面の事を料理せんとはしけるにや。衆論强硬に决してければ、其の議は遂に行はれで寢みしが、沼田の問題は五年の後に遷延して、端なく天下の一大事とはなりにけり.さる程に眞田の城攻に秀吉が權謀を實驗して勝たで歸りし徳川の家中にては、彌增す敵意と猜念とをもて、上方の空を眺めつゝ、變心測られぬ秀吉、いつ攻め來んも知り難しと、衆情枕をさへ安んぜざりし折柄、とり〓〓の流言傳はり中にも、秀吉於義丸等を殺すべしとの風聞は、痛く一家の人心をぞ刺しにける。九の母尤も愁歎して、愛子を喪いては我れも生きん甲斐なしとて、鬼作左遽てゝ上方に馳せ行かんとしけるを、村田の意竹入道懇に守護して丸が館に送り入れきとなん家康は流石に忍刻の人、冷然として言へらく秀康今は我子にあらで秀吉が子なり。之れを殺すは秀吉の不義なり。殺さは殺せ。と。想ふに秀吉徃々威喝を用ゐて人を屈するを慣術とすれども亦敢て籠裡の小禽をば無益に殺生せん暴人にはあらじ。家康の智いかで之れを識らざることのあるべき。其の自若として無懸の養說に意を留めざるは、恐らくは此の邊の洞察もあるに依るなるべし。されと作左はまた斯くの如く冷酷に看過する能はずして以爲へらく、いや〓〓仙千代丸都におきて人の疑うけん事も詮なしだヾひとりある子、うしなはんも不便なり。と直に堆の大病に言ませて木訣のたににと呼び通しい蓋し律を我がの愛情もさることながら、おのが多年育て上げし公子が身危しと聽きては、其の痛傷の感いかで仙千代を念ふにも劣るべき。既に秀吉に與へし上は、今更これを取返さんやうも無けれと、其の儘都に置きては、不安の想ひに得堪家康直弼
へで、仙千代が身に先だちて、必ず家康に公子が事を訴へしなるべく、坐上無道の秀吉を罵りし憤慨の豪氣も察せられたり家康も於義丸は兎も角、仙千代招還せんことは、作左が老情を酌みて、喜びて許しゝなるべく、母が大病とは圓滑に聞こえて、否み難き好辭柄なりけり、猛き作左も子さへ還らばと、斯くは穩便に言い做しゝなるべし。腹黑き主人の注意もありなん乎。且つ夫れ仙千代と共に隨ひ行きし勝千代が父は、彼の秀吉が覺よき石川伯耆守にして德川の家中には兼ねてより、竊に其の貳心を疑へる者さへありければ、作左は素より忠侃一邊の男なれと當時雜說紛々の折柄、伯耆守と共に子思ひの作左が心底も動かずやと、家中の噂にも上りしことあるべく疚しからぬ腹を揣摩せられて、潔白を傷けんも口惜しと、さてこそ思へば待てぬ作左衛門急に變ゆの理をは引う戻すに至りしなるべけれ權故の心には實あ風聞も餘所吹く風と聽き流す能はじ、騷がぬ伯耆守が腹の底こそ怪しかりけれ。幾何もなく伯耆守信州小笠原家の人質を拐帶し、妻子を召連れ、岡崎の城を逃れて、主を秀吉に更へぬ。急報傳はりて、諸將士岡崎に馳せ集まり、尋て家康(二鬼作左も濱松より出馬して警戒嚴しく、北條へも急使を發して變を告げ、又諸將に課して俄に其の城樓を修補し、人々恟々として騒擾の狀亦想ふべし。伯耆守若き頃より器量も勝れて、度々功名を樹て夙に酒井忠次等と重臣の列に加はりて、主君の信任も厚かりしが、秀吉が誘惑に心傾きやがて家人松平五左衛門近正をも誘ひしに、此の律義の男峻拒して、露顯忽ち眼前に迫りしかば、終に意を决して、累代恩顧の君家を拾てゝぞ出奔しにける。德川の宿將を奪ひて、そが勢力を殺がんとする秀吉が離間の計畧、また玆にも讀まれたり。さて後に秀吉亦切りに仙千代を招けども、决心鐵石の作左、いかで之れに應ずベき極には候儀をく他千代も病に臥し母が日車の病も此の子を豆げまりに重りぬれば、今更これを離さんやうも無しとて、兄重富が子の源四郞といへるを遣しゝかば、秀吉作左に欺かれたりとて、大に憤れりとなん。作左も亦我れ豈秀吉が爲に伯耆守が輩と同じく扱はるゝ者ならんやと、氣燄萬文なりしなるべし。其が本心を言はば姪さへも遣るを好まざるべく、無事を欲せる主人の下にはおのが剛意を曲げしふしもありぬべし。さる程に秀吉伯耆守を獲て、德川の軍法を知悉せしが上に、上杉と謀し、眞田小田原等を語家康と直弼
らいて、來たり襲はんとする密謀ありと聞こそしかば、徳川はます〓〓堅固の用心を爲し、三河の要衝に當たれる岡崎の城は、特に决死の剛將に守らせんとを企生其の樹に當たりしに屏きる命を弁して本県この上なく亞(NH4)なる秀吉攻め下らは玆に防ぎて一步も東させじと、鬼をも拉く覺悟にまた生きん色なし。家康深く其の忠志に感じて、永ぐ本領安堵の書をば、嗣子仙千代に與へしとぞ。第五鬼五作斯くて秀吉すマに武威を固もが如如して剩へ請位前有のおに爲ノ家川と和しながら、猶も反間苦肉の計畧を運らして、之を傾けんと試みしも、萬に由斷なき三河武士、迂濶に其の策に陷るべくもあらざりしかば、今は疊の上に家康を降參させん術こそよけれと、やがて亦信雄を語らひそが使者として羽柴下總守勝雅、土方勘兵衛雄久等を濱松に遣はし、辭を卑うして家康の上洛を望みぬ。さはあれ徳川には、今にも上方勢の來襲ありもやせんと、緊めし覺悟の紐さへ暫しも解かで、表裏常なき秀吉が振舞をば、深くも憤りけ左る折柄にしありければ此の際さる好意の使の來て、誠しやかに述べ盡すとも、彼等が眼には唯詐欺師とのみ見えて、流石に無事を欲せる家康も、いかで之れに應ぜんやうのあるべき。拒まれて使者空しく引還しゝが、幾程もなく再び來たり、折柄家康鷹野に出でゝ、吉良の館に在りしかは、茲に詣りて重ねて秀吉が懇望の程を達せしも、家康更に聽くべき色なし。機才の秀吉乃ち第二の計を運らし、築山夫人の死後、家康に室家なければ、之れを幸ひに、おのが妹を遣はして、之れに妻さんこそ妙策なれと、頓に案じて、早速其の意を通じければ、家康も異議なく承引に及びぬ。妹といへるは、秀吉が異父妹朝日姫の事にして、夙に佐治日向守に歸ぎ、翠瑟の和も啻ならざりしが、こたび家康に轉嫁せしめんがため、秀吉其の旨を諭しゝかば、借老の愛情に代へて無情の君命を立てし日向守斷然絕婚して姫を還し、さて後に己れは無慙にも自殺して、非命の最後を遂けてけり。可憐なる朝日姫も野心に滿てる兄が政婚の·操樣と爲り從にトカ緊素の遊に載せられて氣ひつかしを目舍銀が御ある所るべき身となにもありまし新聞もみ女性を道具扱ひにする其の返に총にも稀なる男なりけりされば家康朝日姫を一種の人質に取りて後前年失家康直弼
敗に歸せし眞田征伐の再擧を企て、自ら師を率ゐて駿府に次せしが、曩に眞田を煽動せし秀吉も、こたびは間に入りて調停し、家康も怨を解きて事平ぎぬ。而も沼田は依然として眞田が手に在り。さる程に秀吉また家康の上洛を促しゝに、婿殿も今は義理にも辭み難く終に起ちて、其の招に應せしかば、喜びし開白は更に母なる大政所を送りて人質とは爲しにき。弟秀長大切の母氏をば質にせんこと、武門の耻辱之れに過ぎたるは無しと諫めしに、細瑾を顧みぬ秀吉爾が度量も狭しと嗤ひきとぞ。さりながら德川の家中には、是の時猶も秀吉が心を危ぶみて、酒井左衛門尉忠次の如き宿老さへ、一たびは主の上洛を諫止せし程なりければ、一家の衆情も略〓察すべく、作左の本意も推して知りぬべし。家康濱松を發城して、上密の途决、政政府の下称と待ちこゝ數日間崎據に滯留せる即に拝左は其の非を鳴らしゝなるべし。而して大政所が事に就きて亦いへらく、京には御所方宮仕の女房等が年老いたるもの少からず。詐術に長けたる秀吉、如何なる老婆を僞りて、大政所となして、下さんも計りがたし。之れを見さだめんこそ大事なれ。鬼作左prtと万も急をて被抵より朝日船を担うて、此の入質と對殖せしめ始め大政所を判開しければ、ををはじめ家中の人ノ選を散じて安き高をけり。秀吉もとより術數にも富みめれど、亦部量雄識の男、いかで斯かる人質の如きに僞物を用ゐる小細工を施すことのあるべき。さるを德川武士さばかりの事にさへ尙疑團に凝りけるとは、亦以て當時亂世の情態の一端を窺ふに足りぬべし。斯くて家康には老いたる鬼作左と、また赤鬼の名さへ高き若大將井伊直政との二人をば、岡崎城の留守と爲して、彼の人質を警護せしめ、おのれは上方さして登りけり。侍ち兼ねし秀吉、家康を大阪に迎へ、着せし即夜其館に忍び行きて、慇懃に物語り、翌日登城の折にも信雄を後にして、讓れる家康をば特に先だてゝ請じ、おのが家臣は一人も坐に列ぬで、優遇至らぬ所も無かりしが、尋て京なる聚樂の邸に見參の禮あるに及びて、心ある家康、諸大名列坐の殿上にて、關白殿が面前に畏まり、いと敬肅の振舞を裝ひしかば、今は德川殿さへ此の如しと、ハキ盡良して、秀者が誠望とれより大に党すさとも実まし小牧の坂頭に即興せし心事も、今は果して事實と爲りて秀吉が得意想ふべく、劣らぬ家康直弼
s兩雄が無き直擊ニもげに千古の吏上の義趣と謂モメ上さる穏に主のには、都にて秀吉と和同して、斯かる喜劇を演ぜる間に、岡崎に留守せる作左は、人質を入れたる殿舍の周圍に、日毎に郞等をして薪を運びて山の如く積ましめ、秀吉もしおのが主の身に危害を加へん日には、即時に火を放ちて、此處なる女囚をば、一擧に焚殺さん用意にぞ餘念なかりける.京家の侍女とも戰慄して地獄に在る思に堪へず。大政所も痛く悚れて、斯くと秀吉に通じ、疾く家康を還して、己れも疾く都に歸らんことを歎きしとなん。留守の鬼等に斯かる悽慘なる悲劇を演ぜしめながら、己れ上方に地藏顏せる家康も、何ぞ夫れ狡點なるや。されと作左に在りては、是れ啻に威嚇の業のみにあらで、主君に異變あらば、此の人質を火責に逢はせて、不倶戴天の仇を報いんと、更心より一途に期せしなるべし。之に反して井伊の赤鬼は、時々大政所に伺候して、懇に心元なき客愁を慰藉せしとぞ、亦怪しき佛なりけり。大政所京に歸りて律主の振興斯くと而を得げしかは開きし秀吉英いながら我れもさ人こそ望ましけれと一言して、其の座を立去りけるとかや。宏度の男が言葉としてはさるべき事ながら、心にあらぬ笑を漏らすは亦古今英雄の常、立去鬼作左りし秀吉が心の裡ぞ如何なるべき。抑も先に沼田を得んとして未だ得る能はざる北條には、空しく數年を經て時機を侍ちしが、夙に此の關東の覇者をば屈服せん志ある秀吉が入朝を促すに及びて、乃ち沼田の事件を取り出でゝこの爭地を我が有に歸せしめなは、謹みて上洛の命を奉ずべしとは應へたり。秀吉其の請を容れて諭されし"石眞田は異議なく之れを致しゝが、獨り那久留美の一小地は、祖先墳墓の靈域なりとて渡さゞりしかば、北條の家人兵を以て橫領しにき。機會を待ちし秀吉聽きて怒りて、大に其の非道を鳴らし、之れを口實として遂に北條征伐の軍を擧げき.早くより北條の末期を洞見せる家康、亦此の婿家を見拾てゝ、秀吉の味方と爲り、途中おのが領内の諸城を明渡して、そが用に供せんと、作左と本多佐渡守とを修理の奉行と爲して、關白を迎ふる用意に怠りなし。戰國の世、誠意を表するに城を貸すに過ぎたる道は無かるべし。抑も作左背き難き君命には畏まりて、城の掃除はしたれども、多年積怨の敵將今揚々としておのが國を過ぎんに、其の感果して如何なるべき。剩へ岡崎城は作左嘗て死を决して、秀吉が來攻を待ち受けし處、而も今は此の當の〓我が物の如く是家康と直弼
の城に入りて、安き枕を橫へんとするを看ては、其が無念の胸中も畧〓察すべし。されば秀吉こゝに者城の折にも、作左は城守として出でゝ迎へ、謁を執りて安否を伺候すべき本分なれど、硬骨の男關白が前に腰を折らん氣色もあらで、更に見參に入らんともせず。秀吉乃ち加藤遠江守光泰を使として、之れを招くこと三たびに及びしかど、我れ何の用ありて關白に見えんやとて、動かす。秀吉進みて駿府の城に入りける日、作左こゝに來たりて、怒氣滿面、上方衆廣坐の中に家康に向かひて、やあ殿よ殿、あつばれ不思議を振舞ひ玉ふよ。國をもたもたんずる人が、我が城を打明けて、しばしも人にかすことやある。その氣にては、人の借らんといはんには、一定北の方をもかし玉はんずるよ、と、罵り散らして立去りけり。何ぞ夫れ其の言の狂激豪壯なるや意氣異に斗牛を衝くと謂ふべし、罵られし家康は上方の人々に向かひて、今の老人が申したるやうを聞き玉ひてこそ候らめ。あの老人と申すは、本多作左衞門重次とて家康が累代の家人、家康が幼きより仕へぬ。年若きうちより、弓矢うち物取ては、人にも知られて候ひしが、今は見玉ひし鬼作左樣に、年もいたう寄て候。されば家康も不便のものに存ずといへとも、天性我儘なる根性にて、人をば這ふ蟲とも思はず人々の聞き玉ふ處にてだに、家康をかく事がましう申す。まして只二人うち向うたる時の事、思ひやり給ふべし。常には如何にも候ひなん。いかでけふしもかゝる奇怪をばふるまふべき。人々の思い給はん所耻しう候。と躰よく言ひ繕ひければ、人々聞きしに勝る作左殿、家中にさる人あらんこそめでたけれといらへきとぞ。夫れ小牧の合戰收まりて後、豐臣徳川兩家の間に、表面の衝突は止みしも、裏面には情意容易に融けで、秀吉は密に徳川を計るの魂膽を運らし、徳川は亦秀吉が一擧一動に疑心を懷き、さあらぬ事をも猜視して、戒心絕ゆる隙なし.素より家康を始め、天下の形勢に通ぜる智慮の士は輕忽に我れより和を破るが如き拙策は取らざりしも、秀吉をもて深く徳川に不利なりと見做せる敵意は、自ら一家の中に充滿して武武一途の勇者は、小牧の勝軍の再演を夢みしもの、决して尠からざりしなるべし.而して此の徳川一代に於ける秀吉敵視の感情をば尤も直截剛鋭に代表せしは、即ち作左衞門にして、作左衞門家康直弼
が亦最も豪快に其の氣燄を吐きしは、秀吉が北條征伐下向の時に在りしなり、蓋し德川の家臣中作左の如く秀吉と種々の關繫を生ぜしものはこれ無く、而して其の關繋を生ずる毎に、次第に怨憎を增し來たりて、終に其の領內r通過の機に於て、積もる鬱憤爆發せしなり。駿府城頭の壯語、おのが主に放ちし面罵の言とはいへ、秀吉に對しても容易ならぬ敵意を含めるを見認むべく、今し主の家康は城さへ、貸して迎合に餘念なきに、家人の作左が慢辭は、この關白殿を目して、宛ながら人に妻貸せと、難題言ひ兼ねまじき人非人に均しと、輕蔑せるにも當たりぬべし。作左既に岡崎城に於て痛く秀吉が意に忤ひける上に、今亦斯かる侮辱の言そが耳に入らば、大度ながらも亦感情銳き性、げに一笑に附し去り難かるべし。願ふに當時德川の家中には、秀吉に城を貸すをもて卑怯と爲し、失計と思ひし人必ず多かるべく、作左も無論これを非としければ、畢竟そが猛氣の口を藉りて、多衆の情念噴出せしと謂ふも不可なかるべく、作左が直言、貸しゝ家康が不覺を責めしとはいへ、亦借りておのが用に健せし愈ま秀吉に開かせよかしと、歩ク上方衆の前に及せるべし。斯くて再三作左が亡狀を憤りける秀吉、やがて之れを斥けんことを鬼作左家康に諭しゝかは、家康も已む無く其旨を承けて、關白あらんうちは暫し斯くてあるべしとて、上總の國に三千石の食邑を與へて、此處に籠居せしめき。作左が斷膓の想ひ、察しやるだに涙あり。之れを愛せる家康が忍びぬ胸中も識られだり。作左屏居の地に赴かんと、君に訣れの暇を乞ひしときには、相對せる主從の老眼に亦双淚ありしなるべし。德川の智略を代表せる者は、別に其の人あれど、徳川の律義と剛氣とは、作左これを代表して餘りあり。而して自から此の精神の犠牲と爲りて、不遇の終を遂げけるこそ、いとも哀れなりけれ。されど作左屏けられても、豐臣に負けぬ氣は、德川武士の胸中に鬱して、徐に時機を待つのみなり。作左恨を呑みて逝きし時、年六十八、後三年を經て、秀吉は疊の上にて無難に往生を遂げしも、亦三年の後には、關ケ原の合戰に豐臣の天下は已に德川の掌握に歸し、又十數年の後大阪の城攻に終に豐臣は滅ぼされ畢んぬ。執念深き家康、是の時、彼の時作左が昔を追想して、そが幽魂に一片の廻向心を寄せしや否や。家康直弼
本多佐渡守第一本多佐渡守正信は實に德川一の智慧者なりけり、井伊本多(忠勝)榊原は流石に德川の三人男、其馬上槍先に大敵を挫くの驍勇は、秀吉も舌を捲きて、北條沒落の時此三人には十萬石づゝ與へよと、去わき家康に望みしも、此勇將等をば我に廳けん密意なりと知らる、佐渡守はさる戰塲の武量は之れ無きも、帷幄の裡に權變の謀略を運らす智量は、德川武士中及ぶ者無し、長漱の戰に高木主水正より「彌八(佐渡守俗和)御邊は座敷の上の御伽噺や會計の事などは知らるめ、軍陣の進退は知らずと罵られしも佐渡守は却て「弓馬鐵炮兵法の類は一人に敵する者のわざなり、-四百餘州さへ智慧あれば一人を以て治むべし」と悟れる人なりき、武をのみ尙べる世の中に才覺利發は賤めらる〓れど、何ぞ識らん、此彌八が御伽噺に鬼をも拉く剛の者が多く使はれたらんとは唯一筋にまを思けて律盆なるは橋川武士の通有性なるが其中排して其勇なるは彼の三入ルに勝れるは無く律義にして皆詳あるは在本多佐渡守に過ぐるは無かりき而して家康は更に大量に之を兼備へしかは、そが下に二者共に容れられ、各其能を機宜に用ゐられて、遂に天下は德川の手に落にき。』夫れ天下を取りて徳川殿に進せんとは、夙に彼等三河武士の至願なりき、さまれば彼の長激の合感に純灰康政は考古がな政文てつゝ馳せて御泉岩に押立てたりし金瓢の馬標を見て、「今ぞ彼れを討取るべき機會なれ」と勸めしみ蓋が出家康は勝は重ねらずなるぜと其たり北條使伐の折にる非政は秀吉が左右十敏騎の守專きを見て今討つべしと耳断けども天運れる家康は「我れを賴みて來りし籠の鳥を殺すべきに非ず」と制したり、又伏見の大地震の折にも、秀吉は德川の從士に衛られて立出でけるが、途上本多忠勝を近く招きて、汝等の下心には今日こそ秀吉を討たんに好き時節なれと思ひつらん」と言ひき、平八是時さる心ありしや否や識らざれと、兎も角彼等は既に小牧の合戰に上方勢の與し易きを實驗しければ、武に於てはいかいら で秀吉に恐るべま而してmく我が君と天下取にせんを焦立おければ剛脈金叡の無荒逃無心しもあらば秀吉を前たんを追へるは、にに主三河武士に怪しからざる事共なりけり。家康と直弼
本多佐渡守第一本多佐渡守正信は實に德川一の智慧者なりけり、井伊本多(忠勝)榊原は流石に德川の三人男、其馬上槍先に大敵を挫くの驍勇は、秀吉も舌を捲きて、北條沒落の時此三人には十萬石づゝ與へよと志わき家康に望みしも、此勇將等をば我に靡けん密意なりと知らる、佐渡守はさる戰塲の武量は之れ無きも、帷幄の裡に權變の謀略を運らす智量は、德川武士中及ぶ者無し、長漱の戰に高木主水正より「彌八(佐渡守俗稱)御邊は座敷の上の御伽噺や會計の事なとは知らるめ、軍陣の進退は知らず」と罵られしも、佐渡守は却て「弓馬鐵炮兵法の類は一人に敵する者のわざなり、-四百餘州さへ智慧あれば一人を以て治むべし」と悟れる人なりき、武をのみ尙べる世の中に才覺利發は賤めらるれど、何ぞ識らん、此彌八が御伽噺に鬼をも拉く剛の者が多く使はれたらんとは唯一筋にまと思ひて律後なるは徳川武士の通有性なるが其中津して武男なるは彼の三人身に勝れるは無く律父にして智慧あるは佐本多佐渡守に過ぐるは無かりき、而して家康は更に大量に之を兼備へしかば、そが下に二者共に容れられ、各其能を機宜に用ゐられて、遂に天下は德川の手に落にき。』夫れ天下を取りて徳川殿に進せんとは、夙に彼等三河武士の至願なりき、さceれば彼の長.欲の合戰に榊原康政は秀吉が負立てつゝ馳せて龍泉寺山頭に押立てたりし金瓢の馬標を見て、今ぞ彼れを討取るべき機會なれ」と勸めしじゃがが家家は勝は重あぬ者なるぞと非たり北條征伐の折にも赤政は考古が左右上敷頭の等專きを耳マ今計つべしと耳朗けズも天運れる家康は、我れを賴みて來りし籠の鳥を殺すべきに非ず」と制したり又又見の大地震の折にも、秀吉は德川の從士に衛られて立出でけるが、途上本多忠勝を近く招きて、「〓等の下心には今日こそ秀吉を討たんに好き時節なれと思ひつらん」と言ひき、平八是時さる心ありしや否や識らざれと、兎も角彼等は既に小牧の合戰に上方勢の與し易きを實驗しければ、武に於てはいかで秀吉に恐るべき、而して早く我が君を天下取にせんと焦立ちけれは、是等剛膽氣銳の益荒雄が時しもあらば秀吉を討たんと狙へるは、實に主思ひの三河武士に怪しからざる事共なりけり。家康直弼
·されで此間にありて佐彼等皇従に或のみを以て天下を取る他はすとますされば、青山海普て家康を打きて、お盛をめめ館具者英の餘を盡して饗しける時、家康は歸りて之れを佐渡守に問ひければ、佐渡守答へて「先年小笠原與八郞が御方に參りし時、加恩給はりし事は忘れさせ玉ふ乎」と言ふ、家康聞きて實にもと頷きぬ、蓋し寡言にして意味深き諷辭に長ぜし佐渡守が此一言は、唯秀吉が食はせし一度の御馳走に對する心懸を述べしに非ずして、德川が天下を取るにつけて秀吉に對する計策を漏らしゝなり、小笠原與八郞は當時の勇將、隙を伺ひて三河を覆し、以て我が有にせんと欲し、僞り來りて家康が下に屬せしが、家康は識りつゝ之れを利用して姉川の合戰に先陣を命じ、勇戰せしめて遂に味方の勝軍となりにき、されば佐渡守の意に謂へらく、與八郞が二心なき躰に見えしに御乘りながら、御心に乗らせられぬ所これ有る故、先手仰付けられたり、人の乘する所を乘らじとするも、一物これ有る如く候へども、乘する所は乘りながら乘らぬ所これ有てよしとす、秀吉の乘する所を右の如き心にて御あしらひなされ候事然るべい本多佐渡守し。是れ則ち秀吉を用ゐて德川が天下を取るの先鋒小笠原與八郞と爲さんとするの策意なり、何ぞ夫れ腹黑きや、夫の猛將の面々は秀吉を殺して早く天下を取らんと欲せるも佐渡守は、秀吉を生かして徐かに天下を取らんとするなり。=當時固より秀吉も負けぬ氣の家康を撫でざれば、容易に天下を統一する能はざるを識りき、家康も亦既に小牧の戰におのが力量を示して秀吉の鼻をひしぎし上は、之れを擔ぎて天下一統の先拂をせしむるの得策なるを識りぬ、斯くて北條征伐の際にも家康は敵の氏直が我が聟なりければ、子の長丸(秀忠)を上方に登せ、異心無きを明さんため質とせん心なりしに途中海道の〓を借るん心ある労育は此十二還なる自會者との可憐弟をは雖やか都ぶりに飾らせ、厚く遇して親の許にぞ還しける、それと悟りし家康は疾く領地の城々を掃除して待ちしが、やがて果して借城使は來たりけり、何れがたい ぜい乘せしや、何れが乘りしや、上方より十七萬の入勢を率ゐて遙々關東の掃除に出陣せしは秀吉にして、切軍の爲に其掃除せし關東を貰ひしは家康なり家康と直弼
は大大前面家康は我加なを非傷に際して分を通じ西軍前伊豆の三島家相會盟せしも、あはれ北條は孤軍と爲りて亡びぬ、其會盟の席にも家康は上方に事あるも我れ切て出でなは何かあらんなど放言して、北條を喜はしめ、さて歸りては佐渡守に向ひて、北條も世が末になりたり、頓て亡ぶべし、と打語りぬ、小田原の共にするに足らざるは、既に是時に見たりけり、佐渡守:がらぬ中も通じ知らるれ抑非難の接着状拡隊のとを其任に受けしは守と本多作左衛門となりき、一は智慧者一は剛骨者、異材を調用するは家康の慣手段なりけり、此鬼作左は甞て岡崎の城守を定めんとせしとき佐渡守が此城と生死を共にせん剛一の者可なりと言ひしに由りて其選に當りし人なりき、彼の秀吉が駿府の城に宿せし折にも、其面前にて家康に向ひ、殿よ國の主たるものが己が城を明けて人に貸すことの有るべき、人が女房を借らんといはヾ貸し玉ふ乎と大音に罵りたりき、佐渡守はおのが掃除せし城に秀吉を入れて乗せたりと心に笑みしなるべし。本多佐渡守佐渡守いへらく、三好松永信長秀吉抔といふ人、武勇は古今に稀なる大將なり、此勢にては子孫も長久なるべきに、君臣共に道といふ事を辨ぜす、華美を極め、むごき心根有り、私欲にふけり、各を極めて、萬民を苦しましめて、天道に背く故、一代にて亡びたり、これ秀吉沒後の言なれとも、佐渡守豈夙に驕れる豐臣の天下の久しからざるを識らざらんや家康の遺訓を讀みても、佐渡守が本佐錄を讀みても、奢を戒むるの意は全篇に一貫し、奢る者家國を滅ぼすとは、德川の君臣が前代諸武家の興亡の實蹟に徴して悟りし因果の理なりき、されば徳川の上下は質素儉朴を以て相勵まし夫の天下に志ありし蒲生氏〓をして、家康は吝〓ゆゑ天下の主たる能はずと評せしむるに至りぬ、何ぞ識らん、此の攫みては容易に放さぬ老爺が却て木の葉の如く思惠をふり撒きし秀吉に勝たんとは、彼の江戶城に移りし時にも、其玄關の階段は三枚の幅廣き舟板を並べて造xり、餘は皆土間なりければ、佐渡守は之れを見て、あまり見苦し、外は拾置かせ玉ふとも、こゝは御造營あるべし、諸大名の家康直弼
使者なも見るべきに、いかにも失躰なり、と言へば、家康はそれすら無益の立派だてかなとて聽かざりけり、斯る眼より秀吉が豪奢を極むるを看れば、必ず其自信せる因果の理念に思ひ到り、妄に德川の武を動かして之れを取らんとせざるも、奢る者は天道之れを滅すべしとは、佐渡守もはた家康も共に竊に心に期せし所なるべし。されば秀吉が聚樂の邸伏見城又大阪城に鷹揚誇耀し、乘氣に乘りて朝鮮征伐を企てしをも、家康は傍觀してそが爲すがまゝに從ひて逆はず止めず、而して內は關東に根據を固めて勢力を養ひ、力めて群雄に歡心を結びて以て徐かに時運の到るを待ちたりけり細川忠興は夫の秀次の變に其借りし金の爲めに連坐の罪到らんとしけるを、家康は三河以來二十餘年の間貯へ置きし甲櫃中の黃金を取出だし、わがとし頃の志も、こゝに於て顯れしことのうれしさよ、とて返濟を求めず快く之れを與へたり、而して是れも佐渡守が計ひなりき、細川は後に關ク原の役に德川の忠實なる味方なりけり、黃金二百枚の酬もじse大なるか女、おわき老爺は仕れてる餘なしには起きぬ男なんりり。本多佐渡守家康遺訓に曰く、文祿の朝鮮征伐も、朝鮮數代治平なる故、柔弱にして武道の事を忘れしと、秀吉武勇に誇られてとの二つぞと、武勇に誇るは家康の尤も戒むる所、近年天下亂れたる故、鎗に血を付くる計を手柄と云ふと諸人覺えたりその義にあらず、無案內なる者は武道と血氣とを取違へ居るぞ、無道を討て人民を安堵さするを武道といふぞ、とは、亦其遺訓の言、兎に角斯る信念のありし家康が眞衷には、决して朝鮮征伐を賛せざりしを識るべし、されど家康は何の異論も言はず、言はざるのみならず、外征の師中ごろ振はざるに當りて、秀吉は家康に留守せしめて自ら出征せんと言出すや、ぬからぬ老爺は屹然として色を變じ、傍なる前田蒲生の人々に向ひて曰く、それがし弓馬の家に生れ、軍陣の間に人となり、年若きより末だ一度も不覺の名を取らず、今異域の戰起りて、殿下御渡海あらんに、某一人諸將の跡に殘り止まりて、いたづらに日本を守り候はんや、微勢なりとも手家康直弼
勢引連れ、殿下の御先承るべし、人々の推薦仰ぐ所なり、勿論家康の面目として斯く言はざるを得さるべし、然れども家康素より一渡海の意無し、出師の始め秀吉より使して江戶に報し來たるや、家康は獨坐沈思之れを久うして、佐渡守は側に來り、渡海は如何にと問ひけれとも辭なし、三たびにて始めて曰く、何事ぞ、かしましし、人や聞くべき、箱根をば誰に守らすべきと、佐渡守復言ふことなくして立出でぬ、朝鮮征伐の是非よりもおのが主の渡海の事ぞ第一の頭痛なる、乘らぬ用心こそ大事なれ、默坐沈思の心の中も察すべけれそれと暗示せられて無言に立去りし佐渡守が心の奧も識られけり、夫れ家康の渡海に意なき斯くの如し而して當時國內の形勢容易に秀青の渡流を許きざるは被日さき家康受之れを知らざらんやさるに知之れを止めざるのみならず、其行くといへるに乘りて己れ行く心なきも、猶其御先を承らんといふ實に佐渡守がいひし乘せられて乘らぬ加减は此邊にもあるべし、彼の時死を决して秀吉の渡海を極諫せしは、家康に親しき淺野彈正長政なりけり。本多佐渡守斯くて朝鮮征伐は局を結ばずして秀吉は早く逝きぬ、衆望は自ら家康に嚮ひて、黑田如水の烱眼は已に日本は德川殿の掌中に在りと言へりき、德川が多年待ちし時は來たりけり、屈せし尺蠖の伸ぶるは今に在り、秀吉の遺しゝ紛亂の局面は家康の乘ずべき龍驤虎躍の塲なりけり、是に於て生來の猛性は爆發せり、破法何かあらん、專擅何かあらん、秀吉が遺令に頓着せずして、先づ私婚の禁を破りしは實に家康なり、而して他の大老及奉行等之れを諦れは反て、逆難して謝罪書を取りぬ、味方を得んとするに汲々として、毛利には一から〓無表英國心如兄弟前中示候と等ひ爲津には使人之旅在之而御聞相まぐる輩雖有之、直談申、互相晴可申事など誓ひ、いつも秀賴樣に疎略なしとはよき前口上なりき、又獨斷を以て加勢の諸將に封地を增し、夫の黃金二百枚の恩より心を寄せし細川忠興も味方の功にて六萬石の加封を受けぬ、而して危險なる伏見を去りて大津城に避くべしと勸むるものあれば、曰く唯進て勢力を增すある耳と、切りに動亂の機を挑發して、一舉に天下の權を占むるの地步を作れり。而して非德川黨の發頭人たる石田三成に對しては、亦佐渡守が計に由りて、敵を生かして我が用と爲すの策を用ゐぬ、家康問ひて、家康直弼
is칸石田治部少輔はとましやくれたるものなり所詮うる単して然るべしと言ひければ、佐渡守答へて、只其儘に置かせらるべし、あのやうなる者のしわざにて天天は自ら御手に入るべし、といひぬ、所詮豐臣をあひしらひし慣手段なりけり、されば夫の加藤清正等の七將が石田を討ツて殺さんとせし時も、佐渡守は夜を冐して家康の寢處に至り「石田が事いかにやおぼしめす」と問ひければ、家康は「今も其事をこそ思ひはかれ」と答へぬ、「さては心やすうなつて候、その事おぼしめしはかられん上は、正信なに事をか申すべき」とて佐渡守は立出でたり、君問はず臣語らず無言の間に互の思案も解せられたり、果して家康は石田を諭して其領佐和山城に還らしめ、特に我が子三河守秀康を附けて護送せしめぬ、斯くて怒れる七將等が噛まんとする餌を存して、おのれ其間に漁夫の利を收めんとするなり、放たれたる石田も徳川の術中に在りて自ら知らず、其會津東伐に起けるも上方に亂シ起すの道に與へん一般たると惜しで途に東の同直江兼續に書を贈りて、本多佐渡守內府方、一昨十八日伏見山出馬にて、兼々調略任存分天の與と令祝者候と喜びけり、而して御川武士も亦上方に愈々石田が旗を擧げしと聞きて、野州小山に天の與ふる所と喜びぬ、其後關ケ原の軍平ぎて、石田が子の妙心寺に僧たりけるを許さんとせるとき、佐渡守また曰へらく、そは早く御許あるべし三成は當家へ對し奉りてはよき奉公せし者なれば、そが子の坊主一人や二人たすけ玉はるとも、何のさゝはりかあらん、-三成妄意にかゝる事企てずは御勝にもならず、當家一統の御代にもなるまじ、さすれば治部は當家への大忠臣と存ずれ、驅逸の言諧譃の間に亦其石田を用ゐし心の程も見えにけり、古人曰く、關ケ原の戰を起せしものは石田なり、石田をして起さしめしは家康なりと、されと家康をして起さしめしは佐渡守の力多かりけり。家康直弼第二斯くて石田を放ち置きて、家康は前田を打伏せ、又上杉に取ツて懸りたり、是れ皆天下分目の合戰の前提なりき、是より先き前田利家は秀吉の遺命に山二
りて秀賴の後見人と爲り、內に幼主を抱きて、外に大政を裁せる家康と對抗し、此腹黑き老爺のけむたがりし一人なりしが、今は既に逝きて子の利長が世と爲り、勢望父の如くならざるも、尙北陸に蟠踞して家康が眼上の一瘤たるを失はざりき、關ケ原合戰の前年重陽の賀に、家康は秀賴に謁せんとして伏見より大臣に柔りしが時に石山が一〓なる奉行增田長施業來の館六九六七び來り、加賀なる前田利長異謀を企て、淺野長政大野治長、土方雄久の面々をかたらひて、登城の殿中に家康を打果さん密計ありと讒〓す、其以前より已に前田が謀叛の風說は京阪の間に傳はり、細川忠興亦志を通ずと言觸らせり、是れ實は石田等が離間の謀なりしも、また徳川の最も好き附込所。なりにき、家康重臣を集めて之れを議る、佐渡守曰く、其事縱ひ虛說にもあれ、危きに近づくべからず、宜しく病と稱へて登城せず、急に警護の兵を伏見より呼寄せ、一先大阪を立退きて伏見に還り、惡徒を糺明して嚴科に處せらるべし、と、井伊本多榊原の勇將等は之に反して「彼等いがでか懼るゝに足らん、戒嚴して登城すべし」と唱へき、げに一は胃進して敵を制せんとし、一は退守して本多佐渡守敵を制せんとせしなりけり、家康亦固より進で勢力を占めんとせし者、されと亦用心最も深し、乃ち兩者の言を容れ、まづ佐渡守の議に由りて兵を伏見より招きしかば、重陽の曉天には已に三千八百の衆勢馳せ集ひぬ、かくて常"に倍せる從士を率ゐて登城し、直政等决死の將士十餘人は、衞士の誰何するをも顧みず「田舍武士城中の作法を知らず」と、深く殿中に犯し入りて家康の份を離れず衞りたり寄山將りて歸るさにはだこと廻りて大受所に支名に負ふ二間四方の大行燈を一覽し、この珍しきもの我が關東武士共にも見せよとて外なる盜士を呼入れてなしお射率を擁せれて徐九に立出Bickり。何ぞ其れ喜劇的なるや、斯て議者の言を利用し、實あらざる異謀にも非常の管疲と加へて置にある如如く扱よきては彼の徒を起人と乱課して土方等を關東に流し多年志を通ぜし淺野長政も共に國に黜せられぬ、されを具の敵は〓等に非ナして無く北國加運に在りおけれ彼等は機構なり、されば長政家康が爲に陽に貶せられしも秀忠陰に其罪なきを憐み、常に江戶より使を遣してそが武藏府中の隱家を懇問せしめき、父追ひし窮鳥カ子が接に進められたるなりりり福川の如まなき以て知るべし而し家康直弼
錄を處分せし翌百直に前田の延便を散し心にすあらざる加賀付入をして而も容易に起たず持重して前田が動靜を候へり、術中に陷りし前田は其聲に驚き、家老橫山山城守を辯解の使として馳せ上せ、尋で其母芳春院を質とせしかば、家康之れを我が江戶に收めて事漸く收まりたり、前田と志を通ずと疑はれし細川忠興も我が子を質として江戶に送りぬ、北國一の前田も家康が虛喝に屈伏して、遂に德川が藥籠中の物となれり、直政等が冐進の勇よりも佐渡守が退きて糺明せんとの謀こそ深く恐ろしかりけれ後佐渡守の二男なる安房守政重は來り仕へて加賀の國老と爲りぬ、是れ江戶より廻されたる前田の目付とも謂ふべし、安房守は其の以前彼の直江兼續の女婿ともなりて、米澤に住みたる人なりき。家康ほに前田を方付けて夏に土長の征伐に向ふて、其心半は近畿の馳せつゝ、足は東會津をさして進み、途上殊更に鎌倉詣。放壓の遊悠々として江戶城に入り、停まること二旬にして立ちて野州小山の驛に至れば、玆に豫期せし上方蜂起の急報來たりぬ、乃ち宿臣を會して評定す、佐渡守先づ日く諸客將東征に從ひ來つれとも、妻子は成大阪に在り、豈遠想を勞せざら本多佐渡守んや、早く諸將に暇を賜ひて各其地に安堵せしめ、累代の舊臣をして固く箱根の關を守らしむべし。と、井伊直政進みて曰く「天の與ふるを取らざれば反て其各を受くいま時すでに至れり、早く大兵を催し旗を幾內に進めて天下を一統すべし」と夫れ家康一たび足を擧げて東に下りしも、上方の形勢動くを見てまた旆を西に返さんとは疾く胸中に定めし所なりき、直政の如きも已に其東征の途上急がざるを辯じて、家康西に返すの底意あるを語りぬ、彼の天下の形勢を達觀せる黑田如水の如きも、身西國に在りながら、吉川廣家に送りし文中に「内府公上國は必定あるべきと存候」と言ひにき、樞密の老臣佐渡守いかで之れを識らざることやあるべき、さるに直政ひとり西上進擊の說を唱へて佐渡守は全く他を言へりき、是れ佐渡守が智慧の藏れたる所なり、抑是時德川は東西に勁敵を受けて存亡の危機に際したり、而も其天下を取ること此一機にあるは直政の言の如し、されば德川に取りては是時ほど最も多くの武力を要することはあらざりし也、諸客將の援助は其尤も渴望せる所、焉ぞ佐渡守が言へる如く彼等に暇を賜ふべき時ならんや、若し暇を與へて彼等眞に大阪家康と直弼
に往かば、それこそ德川は大變なりけれ、佐渡守固より能く之れを識れりいかで彼等を放ちて敵に味方を與ふるが如き拙策を取らんや、然れども今や石田新に旗を上國に擧げたれば、之れが爲に諸客將が向背の心或は動かんも測り難し、豈迂濶に我が胸中を明かすべけんや、豈又我より粗忽に味方を賴むべけんや、素より彼等が輕々しく石田に與せざるは佐渡守亦能く識れり、識ればこそ暇を賜ふなどの掛引をも出だせるなれ、されと此處最も德川が持重に構ふべきの時なりき、是に於て先づ諸客將に任意に去就を决するの自由を與へて其心を試み、さて後彼等より味方を申込ましむるの道に出つるは第一着の權略なるべし、大阪に妻子の殘れるこそ幸なれ、そが愛情に托して諸將に暇を與へんとは流石に佐渡守が妙計と謂ふべし、既に諸將に暇を與ふといえ、勢ひ泌川の一千を以て隊に而はてるべからア國冠cafeするの說はこゝより山でなりされて從口上杉の開敵會建より打つて前は石田が大軍箱根に迫らば、腹背に敵を受けて、天下の形勢も亦此間に一變し、德川の運命は危殆に陷るべし、佐渡守豈之れを識らざらんや、唯諸將に暇を與へん假算より自然又此防守の假策を唱へしのみなりけり、誠らしき本多佐渡守ケ七嘔は佐渡守が長所なり人を狀く英雄も此雌には多く妖かれたり。家康も亦さる者、心は直政の說の如くなるも口には佐渡守が策を取ツて諸客將をあひしらひたり、先づ彼等を召して之れを饗し、自らは出でずして親臣をして出でゝ言はしめて曰く、上方又亂れぬときこゆ、人々の質悉く大阪にあり、家康此事を思ふに心くるしまして人々の心の中念ひしりぬ、抑弓箭とる身のならひ、けふは味方と見えしも明日はかたきとならん〓と珍しからず、されば今人々のかたきに與し玉はん事も、家康いかで恨をのこすべき、家康もし勝軍したらんのち人々の見參に入らん時、今までのよしみ忘るべからず、とくとくこれより引還し大阪に還り玉ふべし、と、厚き人情をこめて武道の本義に副へる言葉聞く者も誰れか無情の答をなし得んや、而して斯る温言を傳へしは、彼の大膽なる進擊說を直言せし直政等なりき、是時進みて味方の答を述べしは福島左衛門大夫正則なりき、曰家康と直弼秀賴年僅に八歲、いかで斯る結搆やあるべき、これ偏に三成が計ひなる
こと疑なし、内府幼君に對して太間の遺命に背かずは、正則關、東の味方として彼の凶徒等を誅伐すべし、妻子を捨てんは易き事なり、と、黒田長政細川忠興等一座の諸將みな之れに同じて、即座に徳川の味方と一决し連判の誓書を出だしたり、福島は尤も豐臣思ひにて極はめて石田嫌ひの人、而してこたび關東に下りし諸客將中尤も剛の者なりけり、此人にして此の答ある洵に其聲援に千鈞の重きを爲したる者といふべし、但し此人をして斯く言はしめしはまた家康の內意を受けて黑田長政がそゝのかししなりといふ、長政は如水の子、夙に父子共に欵を德川に通じ、家康も亦おのが養女を以て其夫人に配したり、天下を取るべしと見たる德川に加擔し、我が子を遣して上方に忠勤せしめ、而も德川もし破れなば己れ打て出でゝ天下を和せんと數之の士を也一て西國に持搆へなる如水が収も無かり斯くて諸將の向背すでに定まりし後も家康尙西上の胸中を明かさす、又も近臣をして彼等に諮はしむるに東征西伐の先後を以てし、衆皆西先を唱ふるを待ちて、乃ち其議を容れて旗を反すに决し、而して後おのれ始めて出でゝ諸將に面謝し、其言下に先陣を命じたり、何ぞ其の計の老巧なるや若し秀本多佐渡守吉をして此際に處せしめば、恐らくは己れ先んじて胸中を開きて諸將に對せしなるべし、德川には腹黑き家康の下に腹黒き佐渡守ありけり。先陣の諸將皆西に向ひて征途を返しぬ、後大阪の奉行等家康が十三ケ條の罪狀を暴白し、諸大名に傳へて同心を促せるの廻文小山に來れり、文中に「太闇樣不被和忘御恩賞候はゞ、秀賴樣へ可有忠節ことの語ありて、これぞ流石の家康をして頭を痛ましめたるものなる、家康是時始めて上方の事ひとり石田が業のみに非ざるを知り、奉行等が秀賴への忠節を名とせるを憂ひて謂へらく、斯くては豐臣思ひなる福島が心動かんも識るべからず、黒田も福島と中よければ共に誘はれんも亦識るべからずと、佐渡守乃ち策を献じて曰家康と直彌長政たとひ正則と親しきも、深く心を君に寄せたり、必ず患はあらじ、されと試に長政は呼還し正則は急ぎて西上を命すべし、正則變心あらば長政を伴ひ行くべし、と、家康其計を用ゐて使を送れば、試みられたる長政は急ぎて小山の營に還
りぬ、長政は已に安心なり、尙も疑はしきは福島なり、之れを問はれし長政は斷然として「福島痛く石田を惡みぬ、必ず心變らじ、若し逆心あらば長政强く異見を加へて、聽かずは相刺して死せんのみ、福島が事は長政に任せ給へ」と答へぬ、この保證を得て家康も安堵せり、おのが長漱の陣に被りし兜と秘藏の馬とを與へしを以てる其の喜びを知るべし然進すも貴支びせしなし.尋て佐渡守は秀忠が山道の軍に從ひて上方に向ひ、海道より進める家康の軍と、日乎美彼路を寄せん的なりる家康はや君を進心の平衡夜とし守を附けたり、大久保忠隣、榊原康政等も共に從ひぬ、信州に入れは石田方なる眞田昌幸上田の城に籠りて遮りたり、使して降を勸めしも、答へせで戰の用意しければ、秀忠急に之れを攻落さんとせしかと佐渡守聽かず、やがて無禮の返答來りて乃ち城攻に决しにきされど佐渡守は强ちに襲はん意もなく、敵の眞田は世に聞えし老練の將、急に攻めんは得策ならじと、先づ玆に兵を駐めて對壘しつゝ豫て約せし家康が江戶出陣のしらせの來るを待たんとせり、此間旗下の士十數人氣銳の餘り下知なくして城に迫り軍せしかは、佐本多佐渡守渡守之れを制し、秀忠に乞ひて軍法に照らして首刎ねんとしぬ、是時忠隣が子忠常は我が士杉浦總左衛門の同じく殺されんことを痛み、之れを具して遁逃せんとせしかど、杉浦深く其の情誼に感じ自害して事やみけり家康なてんんはは斯る事勇士ガ然とて不則に閉せんこと大阪師に眞田が九のりし木俣右京を見逃せし如くなるべし、秀忠は廿二歲の若大將、法を正さずは威信も立ち難かるべし、佐渡守も惡まれ役なりけり、後家康は果して杉浦が死に感じて其子を家人に召抱へぬ、斯くて此處に留まる殆ど旬日、夫の名高き勇士戶田左門一西が上田を舍てゝ疾く西上すべしと唱へしも、佐渡守は又聽かず、而して待ちし江戶の使が川支に後れて漸く着きし日には、家康すでに遠く岡崎に進軍せし日に當たれり、是に於ていよ〓〓西上に决し、成を殘して軍を進め、佐渡守の議に由り眞田の追擊を避けて間道より進みしが、獨康政は眞田何をかせんと手勢を引連れて本道より押登りたり、佐渡守の智慧囊よりも膽略は出でざりけり、縱ひ江戶の使後れしとはいへ、徒に一眞田の城攻に送巡して天下分目の合戰に出會はず、木曾路をたどれる比4既に関多以の勝負は定まりたり原に附きし候欲守かあまり貫きに過家康と直弼
は遺憾なりき、後家康秀忠始め供奉の人々に逢ひじ時、大凡合戰は盟碁の如し、大局にて勝ちたらんには、相手に小き目を持てる石幾處ありとも用に立たじ、此度の一戰關ケ原に打勝ちなば、眞田が如き小身は遂には城を明けて降參せんより外なし、といひき、げに達眼炬の如しとやいはん、上田にて此說を進めし戶田左門、後:に注相際所の緩を譯むて京神双垂飯の守ととれり、れれ、是れはえなりし也。本多佐第三關ク原の合戰まさに畢はりて戰塵未だ收まらざるに、家康は藤川の本陣にて香貫檢の式を行はんとして、先フ後医の西前にて頭山を股し甚白被りて勝のて死の鐘をしむさは是の貯なりといひつゝ聽と其の距のばしめたりけり、今し大捷を得し程もなくはや盈滿を戒めたる家康が心には何も行方に抓推の徹隊を蓄一眞ける釋ぜ見えにける。僕に天下のL長すり折り都むるはれれよりの築なり子理の討に書虚せる者家康の渡守は古來の英傑中殆ど其の比倫を見ず、彼のおかちの局が「澣衣はやめて新らしきをのみ召されよ」と言ひし折にも家康は之れを叱りて、「後世子孫の末々まで積み置きて、國用の不足無からしめんが爲に、一衣をもあだにはせぬぞとさへ說き聞かせたり、一枚の衣にも子孫を思ふ遠慮は離れざるなり、今家康が自筆の一書を珍藏せる人あり、筆力逆健。家康の書として絕品なり、其書に曰く、八稱大非災敵坐故天下利順日月新明武進長久心願成歲千年擧何萬年松、葉葉枝枝起春風、と、三十八字實に家康が理想の直寫なり、佐渡守も亦深く君家の長計に心を碎き、「近年天下治まらず、一代二代にて亡ぶること」久しく其疑ひとなりて、之れを國儒に聽き、唐儒に糺して、さては、天道の理を取失は仁義の道としらずお食金錢を惡し家房に玉を分がき、萬人の苦は知らずして、一人のたのしみを爲せしものは一代二代にて亡びたり、〓と得悟りぬ、其の本佐錄は畢竟一生の經驗と〓究との結果を以て、秀忠將軍家康直弼
に子孫長久の道を說きし〓典たりと謂ふべし其終りに曰へらく、君一人、人欲の私をはなれて、天理のおほやけに心を盡し、天下の萬人を安穩に治する時は、其德天に通じて子孫必ず長久也、と、誠に家運の長久は徳川の君臣が一代の工風を凝らせし極意の遠圖なりき、されば家康關ク原より大阪城に進み入りて方に戰後の處分に餘念なき折柄すでに早くも此處に老臣を會して、世嗣定立の評議を開きぬ、寡婦の淀貴置見の労順天國の業原はおはれ北本丸に建築として、段臣の社報縮み行くの役あらたに天下を堪りし陸軍の御用は近く其雷丸に於てが家運を伸ばすの計に急ぎけり、藤堂高虎等この頃の對話に、將軍に爲り玉一かしとほのめかせとも家康は尙早しと首を振りぬ、天下の實權さへ我が手に握りなば、征夷大將軍の冠を戴くは急ぐべき事に非ず、德川の家風は花より團子主義なりけりされば此天下を嗣がしむべき相綴者を確定する將軍たらんよりも、德川が一家の大事たりしなり。是時家康の子にして關ケ原の役に與りしもの三人あり、兄なる三河守秀康は上杉の細きして宇都宮施に留生しずなる事納言秀吉は適川家中の本多佐渡守大半を引連れ、三萬八千の大軍に將として山道より上り、弟下野守忠吉は海道先陣の將として馳向かひたり、而して秀康と忠吉とは難なく其職を果せしも、ひとり任重き秀忠は大事の戰に空しく後れを取りて己みぬ、さはあれ秀忠が實際、位位を以て待せられしは已に久しこたびの役にも若し家康が身に事あらは、代りて全師を統率すべき重位に備はりしなり、秀康は生れし時より家康おのが子とせで、彼の鬼作左に養はせ、後秀吉が許に養子に遺ししが、秀吉六年の間養ひし後、又野州なる結城晴朝が養子に送り家を嗣ぎて其城に十萬石を食みたりき、弟忠吉亦武藏の「心に十萬石の城主たるに過ぎざりき總じて天下を支配するものゝ事は、代をも讓り渡すべきと思ふ總領の子一人より外には次男三男と云ふ事もなく、況てや兄弟などゝ言て外に立べき義にては是なし、親族のよしみたるを以て大身に取立國郡の主とはなし置といへども、外々の諸大名に少も替る事とては是なしシは頼朝好きさと家康が絶順義經を除きし此頭大將軍とは禁識せしの一節なり、秀忠は即ち夙に所謂代をも讓り渡すべきと思ふ總領の子一人」家康直弼
として遇せられ、秀康と忠吉とは所謂國郡の主として取立てられき、さるに家康今更に定嗣の議を起こせるものは、蓋し彼の秀忠の不首尾は多少其威望に關すべければ、更めて老臣の公議を徵して象心の歸嚮を繫ぎ、以て秀忠に重きを加へんとせるの一策なるべし、且つ今や天下を取りし創始の機に於て早く相續者を一定し、內は兄弟が蕭〓の爭を絕ちて、外は世の景仰を收め、以て徳川の鼎を重からしめんことは、來年六十歲の老翁が一家の長計上最も切實に感ぜし所なるべし。是時召されし老臣は井伊本多榊原及び平岩親吉、大久保忠隣〓に佐渡守の六人にして、家康彼の三人に就きて撰はしめぬ、六人退きて內議し、佐渡守は武勇絕倫なりとて秀康を推し、忠隣は智勇兼備を以て秀忠を擧げ、他の人も亦各思ふ所を述べぬ、かくて後家康出座の一同に就きて先先佐渡守に聽き尋で忠隣に問ひ、更に二人をして討議せしめぬ佐渡守言ふ事前の如く、忠隣之れに對していへらく、爭亂の時にあたりてこそ武勇をもて主とすれ、天下を平治し玉はんには文德にあらでは大業守成の功を保ち難し、中納言殿には第一孝心深本多佐渡守く、謙遜恭儉の徳を御身に負にせられ、文武共に兼ね備はらせ玉へば、天意人望の歸する所、この君の上にあるべしとも思はれず、と、家康之れを裁して忠隣の議を取り、遂に秀忠に决してけり、夫れ家康は人に於て異材を調用せしのみならず、意見に於ても常に兩端の說を聽くを例とせり、昔なほ三河に在りける日、一たび大賀彌四郞といへる利發の者を信任し、一人の言を聽きて大に政道を紊しゝかば、終身深く之れに懲りて、决して一人に聽く勿れとは其七十年間千辛萬苦の經驗より垂れたる遺訓に反覆悃戒せる所なり、されば毎に大事を決するに當たりては、疾くに定まれる己が胸第は姑く言はで必ず先づ重臣の議を聽き、後之れを裁斷して乃ちおのが上慮として觸れ出すなり、而して家康が上慮との一聲は、德川武士の耳にはげに神聖の靈音と響きたり家督の評定も畢竟斯かる手續を踏みしなりけり。さるにても佐渡守が唯武勇一邊の秀康を擧げしぞ疑はしかりける、佐渡渡素より武勇を賤むには非ざれど、亦之を以て人品の第一位に置かず、第一律義、第二智慧、第三武勇とは、佐渡守が人君の後見人たるべき者の品位を定め家康と直朝
し次第なり、されど是れひとり人君を育つべき後見人の品位のみに非ずして、育てらるべき人君も、亦遂に斯くあるべしとは佐渡守の念慮なるべし、「文武は車の兩輪の如く、一つもかけては亂れたる世は治め難し」と佐渡守は識れとも、實地に當りては濫りに武を用ゐずして智慧を先にし、武勇は最後の利器として天下を治むるは、佐渡守が經世の術なりけり、さるに秀康は人と爲り唯豪勇に勝れて胸中特に一片の覇氣を存せり、夫の石田が反旗を飜せし飛報の小山に達せし折にも、秀忠公は物を案ずも祖なり三河守慶夏集はにこ〓〓と笑い給ふ。離守殿(忠吉)は馬にて殊の外いきらるゝ、人々推量に薩摩守殿は只いきりて高名せんと悅び給ふ三河守殿は此一亂の序に面白き事有て天下を取る事も有らんと思召す體、秀忠公は天下を取りそこなはんかとの思慮かといへり、といふ、能くぞ穿てる評なりける、されば是の時家康秀康に命ずるに宇都宮城の留守を以てせしも太に怒りて「上方の戰を打捨てゝいかで此處に殘るべき、父君の仰なりとて此儀は從ひ奉りがたし」とて容易に肯んぜず、家康對(二四一)本多佐渡守面の上、上杉の强敵に當る留守役の名譽なるを懇諭し、秀康さらば、奧州方面の大將にし給へと乞ひ許されて始めて承引したりし程なり、是時佐渡守側に在りて、存大廠をして一萩の功を立てさせ至をり卑創請の一言にて定まりぬ。晴內府の御子にましますぞと切りにたゝへて乘せたりけり、「天下を取る事も有らんと」粉氣ある此人をば、關東の褊將に殘して、上方中心の戰に加へざりしぞ、家康もはた佐渡守も匙加數ある所なるべし彼の伏見に玆の画國が無き早し時も彼れは天、人の女と呼ばれて、我れは天下一人の男と爲る能はずと無念の淚を落しにき、亦以て其豪懷を見るべし、己れ兄と生まれて徳川の家を嗣ぐ能はず、新心豈多少の不平なからんや、秀康幼より秀吉が許に在りける故にや、長じて頗る其氣風に肖たる者ありけり、されと豪壯威耀の豐臣風は質實沈毅を尙ぶ徳川には最も禁忌なりけり、他日秀康「私には御家を御讓りなく、秀忠君に御讓候事はいかなる思召に候や」と家康に問ひければ、「其方は太閣の養子に遺はしける事なれば世を讓らぬなり」と答へたり、家康の心以て察すべく、佐渡家康直弼
守亦とく之れを識らん.これに反して秀忠は温讓謹愁の人、佐渡守が人德の第一位に置きし律義はまた其上なし、或るとき家、康佐渡守に向かひて「秀忠はあまり律義すぎたり、人は律義のみにてはならぬものなり」と打語りしをば、佐渡守秀忠に告げて、股にも折々は職をも仰せらるゝがよしを言ひけれは、秀忠笑いて父君の御密言はいくらも買ふるのがあり、第数は何事も仕出せし事ければ嘘つきても買ふものあるまじ、と答へたり、一塲の小話眞に三人が人物の活〓とも謂ふべし、秀忠律義ながら、亦自ら識るの明あり家康が七字訣なる「身のほどを知れ」てふ意にも叶ふべし、家康素より秀忠に世を讓るの念あれば特に其の育成に心を用ゐ、既に朝鮮征伐の際にも名護耶の陣中より江戶に留守せる井伊直政が許に贈りし一書あり、節々飛脚祝著被思食候、猶中納言殿若氣之間、萬事可被入精候、謹言、若氣は老實なる德川嚴戒なり、開ケ原の役に佐渡守が秀忠に附きしも、家康より若氣を矯めよとの托命なりき、家康元來尤も保守性に富む本多佐渡守今の政道は予先祖よりの政道ぞ、いまだ三州一手に入らざるの時も、今又天下の事を取行ひても、其大小かはれども、其基は一致ぞ、とさへ言へる人、おのれ創業の世に處してすら尙斯く祖法を守りぬ、况や其後を繼ぐべき者をや、曰く、其家の元祖天下國家を始めて取る程の才智有て、其上久しく世間の事に慣れ熟し、後來のために夜の目をも合せず、苦勞をして定め置きたる政道を、我が當分の私の智を以て我意を立て、彼の欲深き輕薄者にたぶらかされて、先祖の心根をけづりなはなど天道に捨てられずして有べきぞ、返す〓〓も新法を立つ可からず、と、夫れ秀忠は斯くの如き徳川風に仕立てられたれば、固より創業の智勇には缺けたれど、周到縝密なる家康が經理せる天下をば嗣ぐべき守成の君としては、尤も適當せる好人物に作られたり、されば秀忠家康の上意とさへあ·た〓らば必ず大切に用ゐて違背せず、忠隣が第一孝心深くといへるも眞なりけり、夫の「天下を取りそこなはん平」と案ずる所、すでに自ら天下の重きを荷へる着實の感あり、之れを豊臣風を帶びたる秀康に較ぶれば、隻に德川向の人家康と直刺
なりけり。事情此の如くなれば、佐渡守は寧ろ秀忠に左祖せんも、豈輕々しく秀康に與すべけんや、人物時勢萬般の關係より推せば、佐渡守こそ忠隣よりも眞先に秀忠を擧ぐべきなれ若し果たして其言の如く秀康を擧げたらんには、秀忠が既定の地位は變じて徳川の家基は動搖を生ぜん、是れ豈佐渡守が眞の志ならんや、抑も議直の忠隣こそ誠を言ふべけれ、佐渡守は嘘いふを憚らざる男なり、上に立つ家康亦一方の口をのみ聽かざる人、佐渡守と忠隣とをして討議せしむるなど、故意に長短の穿鑿を重ぬるの意を見るべし、一人は秀康、一人は秀忠、かくて優劣は判せらるべし井伊直政また是時忠吉を推したりといふ、秀忠も己れにのみ投票全く集まらずと思はヾ、一層戒愼を怠らざるべし、「勝つことばかり知ツて負くる事を知らざれば害其身に及ぶ」慢心は家康の大禁なりけり、德川の事は裏面の細工多し、表のみを見ては直に買ふべからず、家康秀忠の夫人に贈りし書中に、忠臣の模範として井伊直政を評して曰く、井伊兵部事平日言葉少く、何事も人にいはせ承り居、氣重く見え申候得本多佐渡守共、何事も丁簡决し候得ば直に申ものにて、取分け我等のなんぞ了簡違ひか、評議違か、ためにならぬ事は、みな人の居ぬ所にて、物靜に善惡を申ものにて候、それ故後には何事も先內相談いたし候樣に成中候、と、人の居ぬ處こそ德川が權謀秘術の企てらるゝ樂屋なれ、種々の演劇はこゝにてぞ仕組まれける、直政さへ人の居ぬ處にて申す人なり、况や佐渡守に於てをや、家督の重事何ぞ內相談を經たる事なからんや、石川丈山の物語にいへらく正信大御所(家康)の仰せられし所我が心に得ざる時はうち睡りてのみ居て中す旨もなし、又のたまふ所よしと思へる時に、ほめ參らする事かぎりなし、我れ大御所につかへ奉りし〓と年多きうちに、正信と事をはからせ玉ふと見えし事わづかに二度ならでは見ず、世の人の事はかるとは、やうかはりてめづらかなり、と、丈山の見し所はげに一度なるべし、見えぬ所の密談こそ尤も多かるべけれ、家督の詮議家康の心に於て已に幾重の底あり、佐渡守が秀康を推せし舌の裏には恐らくは秀忠あらん、暗室の細工ぞ疑はれぬる。家康直弼
(八四一)第四關ケ原戰勝の勢に乘じで、豊豊をも潰すべし」とは血氣なる德川武士の叫びし所なりき、然れども彼の關ケ原にて、兜の〓を志めし家康、縱令內に其の意あるも、いかでかは昔急に織田の遺孤を除かんとして失敗せし秀吉が轍を踏まんとすべき、井伊等の三人男は、「天下の要害大阪城に秀賴を置くは後日の禍を貽すなり」と諫めしも、「ななき秀賴を動かすに忍びず」とて、此の徒封の事をすら聽かざりき、必しも忍びざるに非ず、時不可なればなりけり、當時若し德川に豐臣の社稷を危うするの擧あらば、秀賴が爲に小牧の合戰當年の家康たらんとする者豈一二にして止まらんや、石田か亂に秀賴に疎略なくはと約して德川に與せし者福島正則のみにあらじ先に家康より領國に還りて九州を鎭めよと敬して遠ざけられし加藤主計頭〓正、亦今は關東の味方まつれと、素より豊臣家無二の忠臣なり決して油斷なりがたし、まづ徐に太間の遺恩を懷ふ彼等が情念の次第に冷却するの日を待つこと肝要なり、其の間の得策として大阪方を乘せ置くに如くは無し、と如才なき佐渡守、む四本多佐渡守かし秀吉を生かして天下を制せんとせし故智をは、今はた其の子にも應用せしなるべし、曩日秀賴の生まれし時、人々爭ひ賀しける中に、ひとり豊臣滅亡の種なりとさゝやきし者ありと聞こえしが、そは疑ふらくは佐渡守なるべしとなん、秀吉の天下久しからずと夙に看て取りし佐渡守が烟眼には、さる偶感も起こりぬべし、兎も角も太間が奢を相續して、剩へ一たび敵の諸將に身かれし秀賴、よし幼者の識る所にあらずと一時許せるも、徳川の秘密の斷絕帳には確に其筆頭に認められしなるべし干戈を以て天下を爭ふ時代には、前者の殘類は取りて代りし者が天下統一の第一の妨礙なりけらし、唯物川の建設は益がざるに在り大事は堪立にありと區に落顏を排への裡に送るしき剣を橫へたりしは開東得意の政策なり。佐渡守曰く、國々へ横目をつかはし天下亂れたる時謀反する者か、忠を致すべきものか、此心根を種々にあしらひ、又手をまはして尋ね知る事肝要也、- -國中の人民を困窮させ、なやまして金銀財寳をたくはへ、身の榮花を極め、城の要害を堅くし、大名と盟をふかくし、公儀を輕んずる者は、道を家康と値弼
知らぬ故也、道を知らぬ者は後には必ず謀反すべしと知るべし、大臣近臣取合をいふとも信ずべからず、正路なる橫目を付替〓〓三年も五年も遣し、其國の風俗をよくためし聞きて、其つて〓〓を以て一往も二往も異見を加へ、それにても心直らずして右の行ひつのらば、難題をいひかけ、急に取りひしぐべし、と、是れ實に德川が天下制御の秘術なり、竟には取りひしぐべしと內定しながらも、一再の罪を以ては輕々しく發せず、却りて陽には欵待して驕逸の念を長ぜしめ、多年を待ちて積もる犯跡の漸く熟せるを見て、始めて發して一擧に打倒す、是れ其の慣手段なりき、後年かの豊臣思ひなる福島正則を滅ぼ志ゝも、原は遠く關ケ原合戰の際におのが家士を侮辱せりとて、徳川の愛士は州日ノ磁畦の開寸後來圓書が首とは强求せしにありて並の時よりㅗ深水の心中に目せちれ校に一十年の後秀心の世に突りて廣島城の苦皮に背けりと強頭をいや掛けて國を奪ひて洗人にて応しける其間大庇護とる振舞を始め、幾多の橫業德川の意に觸れしもの尠からざりしかど、深衆飾も其の色とれせで直終の際にも彼れと状態に相る。秀心將軍本多佐渡守りに爾を罪せんと言へど、我れ爾が異心なきを辯じ置きたれば心安かるべし」とさへ遺言しき、而して同じ舌もて秀忠に諭して曰く、我れ瞑せる後は彼れが身上を召上ぐべし」と、尋て佐渡守も亦家康が生前の物語を告げて福島が處分を秀忠に勸めて逝きぬ所謂「爾を罪せん」ものは秀忠にあらずして、此の二老雄が夙に密談合議して决定したる所より出でたること瞭として疑ふべからず、抑も關ケ原の役後四年を經て家康始めて將軍に拜し在職僅に二年、早くも後を秀忠に讓りて己れ驗府に老し、江戶には佐渡守を殘して新將軍の黑幕とし、己が許には其の子の上野介正純を携へ來たり以て兩府の間相呼應して互に氣脈を通じ、巧に繕ひて人心を制取せりき正則に〓げし土期の一言を味ふに秀心をは見世とし將に死なんとする己には佛爲す、旦那には威嚴を持たせて地藏貌の隠居に釣合を取り、寛嚴ならび持し、兩端相待ツて萬事に處するは由來徳川氏の慣計なり斯くて福島處餅の議すでに决せる後も尙參議に任じ從三位に陞せて遂に二年を經て打滅ぼしぬ、加藤〓正もおのれ一代は事なく過ごして、其の子忠廣が世に潰されしも、德川の斷絕帳には秀賴と共に疾くより登簿せられしなるべし大阪を倒廿家康と直弼
しも實に關ケ原の役より十五年の後なりけり、德川の氣長政略豈驚くべきにあらずや。家康二條城に在りしころ一日侍臣に語りて曰く、當時天下に加藤肥後守〓正に及ぶものはあるまたぞ彼れはいたく消正を稱揚し始めたり側にしける佐渡守、心ある一言を耳にはさみて俄に眼を開きて曰く、「大殿は誰が事をほめ玉ふ乎」と、家康見かへりて「加藤肥後が事よ」といふ「そは太間の時に虎之助といひし小悴が事か」と態とうつけめかして問ひ返す、家康いさゝか目をみはりて「あな肥後が事を知らぬ者やある」といふ、佐渡折返して、ハレ正信年老いて物忘れすることのうたてさよ、されど大殿は信玄謙信はじめ、あまたの名人を御覽じ盡されし御目にて、加藤などの事ほめ玉ふは如何にぞや、さるにても加藤が爲には上なき名譽なれ、といふ家康打聞きて、肥後が事は我れ能く識れり、當時西國の事まかせ置きぬれば心安けれとも、彼れには一ツの疵あれば、ひたふるに賴み難し、と一揚一抑、「シテ疵とは如何なる事を仰せられ候にや」家康うちうなづき、本多佐渡守さればなり、彼れは物にあやふき心あり、今少し心おちつかは實にたち並ぶものなし、と、佐渡守はやくも深意を察し、其の言葉の尾につきて曰く、上意の如くあやふき心ありて剛氣に過ぎしは大なる疵なれ武田勝賴もかゝる癖ありし故遂には國をも失ひしなれ、惜むべし惜むべし、22と他のるけがしに絲り返へしてぞいひける。來生にありて此の間符し京の町人、果して云々と〓正がり參りて告げければ、性正直なる夜又將軍、之れをまことゝ思ひなして、竊に意を用ゐる所ありきとなん後後に正純此の事を佐渡守に問ひけるに、佐渡守いひけるやう、こは實に〓正を褒め玉ひしにはあらず、其の比は當家草創の時なりしかば、彼れもし鎭西の人々にすゝめて、秀賴に與黨せしむるならばゆゝしき大事なりとおぼしめしたるに因るなり、然るにかのあやふき心なくはと仰せられし御一言を承りしより、彼れ何となくおもりかになりて、生涯過誤なくして果てしなり、これ君の御智略の深遠にして凡慮のはかり知るべきにあらず、只その事とのみ思ひて我に問ふは汝が智慮家康直〓
の淺きとやいはん、其の心にては天下の機務を執ることがなるものか、よく〓〓工風せよ、と訓へけりとぞ、當時豐臣を念へる大名中福島は剛なれども智畧に乏し、唯清正は胸中一物ある豪雄、德川の憚りし程も識られたり、已に武をもて天下を取りて、今は佐渡守が得意の智慧もて其の地盤を固めける折柄、二條城頭一塲の談話も、げに舌頭もて〓正を制せんとせしなりけり、後に佐渡守また〓正に語りていへらく、御邊に中度儀三ケ條あり、第一には只今は西國の諸大名大坂に着せば、直に東國へ馳せ向ひけるに、御邊は大坂に逗留して秀賴の起居を伺ひたる後ならでは來らず、第二には當時參觀の諸大名いづれも以前より從者を减ぜしに、御邊は尙多人數を召連れて登らる第三には今比御邊の如く顏に髭を多く置くものはなし、出仕の節など別けて目立ちて見ゆる也、右の三ケ條やめられては如何、schとがれ百は眞にああず、後者の多をにあるずしこ大扱に寄する心のりけり、されど〓正聽かずして、本多佐渡守厚思うけし太間の御子を顧みずして空しく過ぐるは武士の本意に非ず、領國遠く隔ちぬれば、臨時の御奉公にも供せんと、多くの人數を用意はに永ろ君王より愛に輝當をして印の純をまめし心持よるは、今も云兼めれば、之れも剃落し難し、と辭みぬ、家康聞きて〓正がいひごと平とて笑ひきとぞ、佐渡守のもいひごとなりけり、〓正竊に笑ひしや否や。家ご康第五當時大坂には淀君上にありて牝雞の旦を〓ぐる聲城頭に震ひ、雛秀賴蠢爾しててが混際に深たなり流暑の弟子大野治長文男子なりしかば亜季ならず、言ふ事よく聽かれき、實躰なる片桐且元幼主の傅となりて、石田が亂平ぎて後は家康の命を受けて執政となり、夙に大坂より好を德川に通じ、天下いよ〓〓關東に蹄するに及びては更に深く結托せり、豊臣家の長策之れに過きじと念へるなりけり、彼の秀忠の長女千姫が秀賴の夫人として大坂城に入與ありし時、大手門內より道に疊を敷きて疊にまた白絞を布かんとす五と直弼
の役計あなしを宜元かとる落は關東の念に副はじとて止めしが如り以て彼れが德川の歡心を迎ふるに切なりしを看るべし、されど太閤の舊時を忍ぶ大奥は德川が今の繁昌を妬みて大野等はいつか再び豐臣の天下に恢復せんと欲せり、かの高野の大塔、住吉社、天王寺、北野の社等數多の社寺の營繕は、いづれも暗に淀君が秘密の心願を成就せしめん爲の祈禮なりきとなんげに大奥の感情は自然に德川に遠ざかり行きて、老職の且元が意向は益々德川に近づかんとせり、抑も此の情態を洞觀せる德川の策略は、實に異性の分子を一城の中に置きて內紛を釀すの地步を造るに在りき、おのれに賴り來る旦元を寄言として其の曲がり長き登を掘り大奥に爲まるゝりつゝ、深く彼れに慇懃の狀を示し、特に秀賴に勸めて其二萬八千石の舊封に加へて一萬石を增さしめ、彼れも流石に之れを受くるに躊躇せしかば、强ひて勸めて受けしめたり、又一とせ關東に下れるとき、佐渡守は亦己が孫女を以て其の子元包に妻せたり、東西の兩主すでに婚を通じ、今又其兩老職双方を代表しての政婚願ふに且元に在りては修好を圖るに外ならざりしなるべく、佐渡守に在りては籠絡の手段に外ならざりしなり、旦元の智慧固よ本多佐渡守Dり佐渡守十が一にも及ばず、剩へ彼れは弱者の大坂を負ひ、此れは强者の江cha戶に據る、樽爼の間の優劣言はで識るべし、兩老一坐に相會せる時、佐渡守巧の寡言に且元をあひしらひて、誠しやかに大坂大事と乘せたる光景目に睹るが如し、斯くて佐渡守且元をば我が掌中の人と爲して、大坂の大奥をして亦遠き德川よりも先づ近き且元に猜眼を向けしめき、蓋し婚姻は德川が味方を繋ぐの政略として常に用ゐし所あるは將軍おのが女を遣し、あるは臣下の女を遣し、あるは他の女を養ひて遣し、表面武道の結合を修すると共に、裏面に人情の結合を整へ、兼ねて夫家の內實を探知するの方便に供したり、天下を取るに廣く女性を用ゐしもの、德川の如きは未だ曾て之れを見ず、而して一朝其の人を滅ぼ、すに臨みては、戚線の情誼また眼中に無し、大坂もやがて此の術に逢ひぬ加藤福島も亦皆然り。秀吉生前に黃金の法馬數十を造りて、軍資の爲に大坂城中に藏めき、其の價の貴き一個判金千枚に當たれり、されば夫の家康が京都大佛の再建をば大坂に勸めしも、實は此の財力削減の一計として、待つ間の業に圖りしなりと識られめ、さるに彼の且元また聽かぬ治長に聽かで、關東の仰せ大事と承り家康と直弼
しぞ是非なき、過ぎし年この佛殿回祿の災に罹りし後、迷信の淀君切に再建の念願ありて、唯大坂の獨力支へ難かりければ、おのが妹なる秀忠の夫人沒井氏が許に江戶の助力を仰ぐの意を通じにき佐渡守駿府に至れる折柄此の事を家康に告げしかば、家康曰く、淀殿儀は女儀にも有之、將軍にもいまだ年若き事也、其の方などのよき平なて差樣成前さき爺を我等一言即せなとあるは秒法の限りたる儀也京都大佛殿と有るは、太間秀吉の物數奇を以て建立致し置れたる儀なれば、親父の心さしを相立、秀賴の建立可被致は格別、將軍より構ひ可被申事にはあらず、安心中と我が玉の姉より願みしま秀志より無たに辭むは情なま美なり輕府父に移して鬼役たらしめし所、徳川得意の筆法なりけり之れを移せし佐渡守おのが叱られ役も痛からざりけり我が儉約主義に矛盾せる物數奇も、大阪の力のみにて爲せば、啻に之れを各めざるのみならず、却りて之れを勸むるが如き何ぞ夫れ老狡なるや、而して莫大の金·銀を費さしめて輪奐たる舍那賓藏殿成りし曉には、乃ち鐘銘に呪咀の句ありと構へて不思議の難題を本多佐渡守いひ掛けたる、權變自在といふべし、抑も是時既に大阪の儀中より「加賀なる前田が許に加勢を求めし密書は、國老本多安房守より兄正純を經て家康の手中に在りき、蜂須賀蓬菴亦駿府に來りて大野治長「何樣の儀によらず、其の元を賴みに秀賴には思召す」と他日の事をほのめかしゝ由を告げたり、江戶の政略に驅るれし赤零は四方より其の禁能き大阪に送込みて送に驚擁して不平を漏らさんとせり、大阪が不穩の情狀は次第に德川の耳に入りて、其城下に放てる横目が密告を聞きし佐渡守も、方に取りひしぐへき時は到來せりと思惟せしなるべし、大佛再建の奉行且元を始め、治長〓韓、又大藏ノ局、正榮尼等陸續として甲斐なき鐘銘の辯解に趨れるぞ哀れなる。彼等東に下り來れば、本多正純は駿府を立ちて江戶に赴きぬ、使命何事ぞ、佐渡守の方寸より何の智慧出でしそ、正純歸り來れば大阪誠意を致すの表として三策の案其の口より且元に傳へられき、曰く大坂より他所に移らん乎、秀賴江戶に參勤せん乎、淀君江戶に質たらん乎と、而して嘗て大政所岡崎に質たりし例を引きて、且元をして第三策を取らしめき、夫れ秀賴をさへ關ケ原の戰後十餘年の間一步も城外に出ださゞりし淀君疑心已に暗鬼を生ぜる家康と直弼
身の、いかでかは己れはる〓〓關東が鬼の國に往かんとすべき唯大阪が動亂の機を促すは、此の後家將軍が直接其の身に懸かれる難題をかくるに如くは無し、而して忿激せられたる淀君が衝角は先づ己れを陷れんとする且元に向ひて、內に於て早くも紛擾の局を開くべし、彼の且元に先だち歸りし二女使が讒あらざるも、勢の必然はげに茲に到るべし、是れ乘ずべき機會を造らんとせる關東の腹黑き男が胸算に期せし所なるや亦疑ふべからず、されば德川にてはおのが意の儘に從へる且元をば、尙も大阪に見よかしと厚遇至らざるなく、剩へ之れを要して其の女を取りて佐渡守が三男忠純に婚せしめたり、夫れ且元と雖も淀君を動かすの難きを知るべく、又かゝる東西阻格の日に婚を通ずるは益〓大阪の疑念を加ふるに足るを知るべし、而も其I膝一たび屈して强者の言遂に皆從はざるを得ず、識らぬ間、識る間に徳川が利略の測に劣かれてま方每主謝言らぬ手数の測死法や自まりり困難中間に立ちて、足らぬ材幹重荷に堪へず、爲す事毎に敵のためとなりて徒に味方を滅ぼす憤起を誘ふ〓が身に用ゐられしも愍然の至りなりけり、斯くて且元關東に欵待せられて還り來れば、大阪城頭殺氣滿ちて紛々として內本多佐渡守應者を戮するの議涌きぬ、而して城兵來りて其の第を襲はんとすれば、己れ亦兵を集めて防守し、急使を馳せて京都所司代に援を乞ひ、大阪は正に兵亂の地と爲りて、端なくも德川に征討の名を成さしめき、而して多年心を碎きし城は枕にあらで、空しく其の領邑に落ち行けば、德川よりは、今度依人之族依讒言、茨木「被立退之由、神妙所被思召也。尙本多上野介可申候也、と賞詞を蒙りぬ、茨木に退きし如きよりも、おのが多年の計を成さしめし所、尤も神妙なるべし、佐渡守よりも懇書屢茨木に飛びぬ、書中の事ぞ察せられける。1.名にし自ら六下の険機侵令する者はは沈別に遂かけたる浪述鳥合のはいへ、寄せ來る驍武の徳川勢も之れを拔くは一大事なり、城きし秀吉嘗ていへらく、この城攻めんには二つの術あり、大軍にて年月かさねて圍み、城中の粮食の盡くるを待つかさらずは一旦和をいれ隍を埋め塀を毀ち、かさねて責むれば落つべし、家康直弼
と、戰術に華も實もありと秀吉に歎稱せられし家康、亦いかで之れを識らざらん急に攻めざると隍を潰すとは、こたび大阪の冬陣に於ける德川の二大軍解なりうと見えたりされはぬからぬ佐輝寺登拠を用るて北の深ま拔かんとして、甲州より熱練なる礦夫を多く招き寄せぬ、されど是れ必ずしsertも対陣の間に手をおけんとにはあらで、はは城長が組み切ツたる障んと彼等を恐嚇するの智術なりしなり、其他或は夜な〓〓兩三度諸手に喊聲を揚げさせて、城兵か休眠を取るの暇なからしめ、或は矢文を射て降者を誘ひ、或は大砲を城中に打入るゝなど、是れ皆城兵の膽を奪ひ氣を屈するの計略に非ざるは無し、さる程に諸軍城近く陣を進めける時、井伊直孝が陣は移しもあへず、忽ち城に向ひて總鐵砲を打かけしかば、城兵も膽を潰して寄手も暫しとよめきたり將軍聞きて彼れの振舞心得ね、家老の一兩人も切腹せしむべき乎と、佐渡守をして家康が意を伺はしむれば、家康彼れが來るを見て、佐渡は何の用有て來りたるぞ、定めて今朝の掃部が陣替に鐵砲打ちし事ならん、彼は兵部の子ほどありて、陣替に一聲敵をおとろかして鹽を本多佐渡守付けたり、感ずるに堪へたり、と先んじて言へば、佐渡守は笑を含みて、その事にて候へ、御父子とてかほどまで御心の合せらるゝ事もあるものかな、將軍家も掃部を御感悅のあまり、某に參りてほぎ言申せとて造されしなり、と眞四にも答へけり、何ぞ夫れ佐渡守が豹變の機智妙なるや、罪を受くべき直孝も其爲に將軍より賞美せられぬ、斯くて徳川には戰を避けながら力めて兵威を示しける其間に、又荐りに使を城中に送りて和議を勸めぬ而して和議は遂に其望の如く隍を埋むるの條約を以て結ばれぬ、是に於て徳川勢は皆去り、獨本多正純留まりて隍を塡むるの工事を督せり、既に第三郭を埋めて更に第二郭に及びければ、約は總構の堀のみに在りと、城中より使もて詰りしかと、正純病と稱へて而せず、兎角せる內に其の濠もすでに埋もれたり、無法に憤れる大阪は尙武裝を解かず、又も思慮なき再擧を企てゝ徳川の計を成さしめき、折返して攻め來し關東の軍勢僅に三日の糧を携へて、家康が陣中の粮食は、唯膳米五升、干鯛一枚、精一樽、〓に味噌鰹節香の物少許に過家康直〓
ぎず、案の如く今は一擧に勝敗决して、あはれ太間の遺族は名城と共に煙となりぬ、佐渡守豊國祠を絕つの議を起して遂に其の廟典を廢せり、家康曰く只今迄之儀は粗思ひより有之に付、萬端之儀將軍より相談あられ候故、相應の返答に及びたる事也、自今以後之儀は大細事共に將軍之了簡次第に可被致事也、駿府(相談には及不申候と、斯くて命運に富める英傑|は、一生の宿志を遂けて大阪滅亡の後正に一年、七十五歲の齡を以て、幽界に入りぬ。本多佐渡第六夫れ佐渡守が徳川の創業に與れりしこと〓ね斯くの如し、前に述べ來し所特に家康が性行に稍々精しきを加へしは、心事相似て肝膽相照らしヽ主君を映出して、佐渡守を對寫せんが爲なりき、蓋し德川の帷幕に參せし臣列中、佐渡守は更に帷幕中の帷幕に參せし人とも謂ふべく、其の肺腑を傾けて眞に得意の術智を運らししは、多くは人を拂へる密室に於て家康と對坐秘器守の間に在りき、さればつら〓〓徳川の創業史を讀みて、事實の裏面を窺ひ深く心術の底を穿てば、今日傳はれる史蹟以外に尙佐渡守が方寸より出できと想像せらるゝもの尠からず、固よりそが策悉く家康の用ゐる所とならざりしも、己れ表に識らぬ躰して、此の同腹の主人に我が意を行はしめしもの隱れたる間に多かるべし、秀忠に至りては常に長者をもて之れを待ちぬとさへ言へば、其の黑き腹より出でし智慧が律義なる將軍の上意となりて出でしもの更に夥しかるべし、徳川は織田豐臣が武を用ゐし後を受けしをもて、兵を要するの地は已に縮少したりしかと其の天下を取るに二氏と異なりし所は、智畧を用ゐて努めて武力を省畧せしに在りき、秀吉逝きて後京阪の間物騒がしく、石田が黨は隙を窺ひて家康を殪さんと圖りしが、家康は此の危險の地に身を投じて頑として動かず是頃前田玄以評して曰く、かやうの觀信是ならは岐阜一可文進天間をらは五千か三千にて如廻給ふべし、家康公は少も御かまひ不被成、碁を御うち、しらぬ顏を被成御座候は、御兩人に合せて拔群勝れたる御樣子と奉感、と、家康に對する過賞を除けば、洵に知言と稱すべし、家康實は决してかまは家康直弼
ざるにおらず、碁をうちしこそ深き計略なれ外には大膽を示して內には小心翼々、陽に戰威を示して而も戰はずして敵を届せんとするは德川の慣術なりき、反間苦肉の計を放ちて縱橫虛實の策を施す智慧は夫の二氏も負に德川に及ばじ、家康は言ひき、實らしき虛言はいふとも、僞がましき實事は語るべからず」と、一見平々凡々の如くして而も底の心は測られず、天下の群雄は滔々として德川が實ごかしに乘せられたり、此の智慧ありて武力も大に省略せられしなり、是れ家康もさる人ながら殊に其が下に佐渡守のありければなりけり。佐渡守家康との間、親しきこと朋友の如く互に君臣の差別を忘れて打語らひき、佐渡守彼の鬼作左の如く君を廣坐に面罵する傍若無人の荒男には非)カされて其の上に對する無遺處なるは相似たり上下の間に隔なく表になるは武朴なる世の常にしあれど、佐渡守が如き才智に長けたる人にして率直朴訥なるは稀なりき、抑も佐渡守も家康も共に多年險難なる世路を歴て、戰國實際の世界に人生活動の眞義を悟得せし人なりければ、爰に鍛ひし其が人事を穿つの達眼は、自ら事理を解剖せずして一見の下に早く事躰の本多佐渡守心髓を直覺するに至りき、されば其の群雄操縱の舞臺に樹ちて談ずる所を見れば、理に非ずして術是非の空論に非ずして實行の處分に在りき而して兩雄が聰察なる、唯隻語を聽きて直に其の意中を解し、あるは謎語を以て我が念を示し、殆と暗默の間に相互の心機を通じき、彼の新井白石が佐渡守を評して、軍國の機事に至て、其のはかる所言葉多からず、一言二言にて究めけり、と言へるも、畢竟そが性の寡言なるが上に、共に處世の極意に達して以心傳心に語るを得し明主が前には、また多辯を要せざりしなり、大阪の冬陣より京師に來りて、家康おのが駿府に還らん日をば秀忠に〓げんとて一人の使者を命じさて後かたへに居睡れる佐渡守に向ひて、此の事いかにと議りしに答なし、問ひし人聲を張りて「やあ佐渡守」と叫びしかば僞眠の人は始めて眼を開きしも口は尙間かて有子の指を屈して發し何事か意中に第一やがて、大殿よ、大殿よ、幾年の前に伏見の御館にて正信が申せし事をば忘れ玉家康と直弼
と諷しぬ、家康實にもと悟りて其の使をやめき何んぞ夫れ佐渡守が振舞のsa無頓着なるや、其の眼に睡れるときは即ち心に深き巧ある時なりけり、一を聞きて十を悟る主君を得て、佐渡守が、特色も顯はれけり、家康嘗て曾呂利伴內に大黑の極意を語りて、いつも頭巾をかぶりてあれとも、こゝが頭巾をぬがでかなはざる時ぞと思へば、頭巾を取て投げすて、上下四方に目を配り、聊さはる者なからしめんが爲に、常にはかぶりつめてあるぞ、と言ひしを秀吉聞きて、家康こそ今の世のいき大黑なれ」と評せしは、流石の明識と感ずべし、佐渡守もいき大黑の一人なりけり、將たなべて德川一般にいき大黑の風ありといふべし。佐渡守の家康に於ける斯くの如く、生前相識れる林羅山もそが碑に佐州斷金とさへ銘せし程の中なるに、佐渡守は猶敵に向ひて權數を用ゐしがごとく、此の知己の英主にも屢〓得意の智術を用ゐたり、彼の秀忠にすら少しは嘘いへと勸めし佐渡守.いかで君前とて己れ虛言を吐くに躊躇すべき、家康も固より嘘に上手の男なれば、佐渡守が己れを欺けるとは能く識りぬべし、さ本多佐渡守はこと、れど唯其の嘘を組みずして、歐より生ずる實の効に限りしなりけりB奇の家康、一とせ公禁の鷹塲に出でゝ、黏繩の張れるを見て之れを各めしに、土民等これ靑山大藏、內藤修理の兩人が許せしなりと答へしかば、家康の怒特に太甚しぐ、將軍懼れて阿茶の局に旨を伺はせしも顧みられざりしに依り、佐渡守自ら家康が許に行きて徐にいひけるやう、こたび若殿には靑山内藤の兩人を誅して御怒を休められんと宣ふ、正信などもかく老年に及び、彼等が如くいさゝかの過誤にて御誅戮に逢はんもはかり難し、この後は江戶の仕を返し奉り、こなたに參りて餘命をつながん、と、何ぞ夫れ好辭柄なるや、家康の意も忽ち解けて事穩かに治まりきといふ、律義なる秀忠をば父が故より二人の愛臣をも殺さんとせる過慮過嚴の人に作り爲して、怒れる心にも可憐と念はせ、やがて其の口より罪を宥めんと言はしむ、斯くて將軍父子の恩威も立ちて二人の身も救はれぬ、嘘の効とは此の邊に在るべし、斯る一瑣事にも佐渡守が智慮の到れるを看るべし、家康尤も克己の力に富みて、そが遺訓にも怒は敵と思へ」とさへ進べける人なり、家康と直弼
されば偶怒れるあるも、多くは爲にする所ありての事なりけり、嘗て佐渡守に語りて曰く、吾れ將軍家へ厚恩を常に施せり」と、佐渡守「天下を御讓ありしはこのうへなき御思なり」といへば、「いや家を子に讓るは珍らしき事にもなし」と言ふ、是れ「おのが代に何事もむつかしげに行ひ置けば、後に將軍家の寛容を喜ぶべし」との底意なりとぞ、鷹塲の一小件に常にあらぬ怒を起こせしも、亦此の邊の心ありしなるべし.夫れ佐渡守詐術を施すこと殆ど至らざる所なかりしかと、是れ皆我が爲にせしにあらで、腹黑き男も其の胸中には一點の私心を存せざりき佐渡守いへらく、驕りたる者、欲ふかき者分に過ぎたる躰をする者、才覺の過ぎたる者、主に邪欲をすゝむる者、辯說きゝて誠すくなき者右の六は私欲の一より生ずるものなり、此覺悟ある者は、天下第一のおぼえありとも、天下にはゝかる物知なりとも、惡人と心得て近處には置くべからず、と、流石に自ら斥けたる六個の惡德は一も其の身に具へず、敵を欺くも味方を欺くも、また其の君を欺くも、所詮君がためなりけり、「我が身の榮花を忘れ本多佐渡守て大息をついて、主人の事を大事に思ふ者」は佐渡守が所謂律義の上乘者、苟も是の道にさへ合はヾ、謀が爲に嘘いふも律義は害せざりしなり、兩將軍其の功を思ひてしば〓〓封邑を增さんとせしも固く辭みて「某に增さんよりも軍功の將士に增されよ」とて聽かず、一生三萬石の小祿に安んぜし寡欲の心ぞ勝殊なる、末期にも將軍に、正信が奉公の勞をわすれ給はで、長く子孫の絕えざらん事をおぼしめさば、嫡男上野介が所領今の儘にてこそ候べけれ、必ずあまた給ふべからず、と言葉を遺して逝きぬ、さるを其の後宇都宮十五萬石の封を與へられて家つひに滅びにき德川が講第の臣に大祿を與へずして、そが創業に尤も武功ありし井伊直政すら十八萬石に過ぎざりしは、種々の意味もありつれど、一つには萬事の禍根たる奢を制して、子孫長久の爲を圖りし消極的恩惠なりしなり、藤堂高虎は秀吉去りし後徳川の股眩となりて、家康も殆と譜第大名と均しく遇せしが、大阪の戰功に五萬石の封を加へしを、高虎怒りて薄賞は全く佐渡守が阻みし故なりと恨みけり、折柄佐渡守自ら行きて賀して曰へ家康直弼
らく、おことは定めて自ら功多くして賞の少きをいきどほり思ふべけれども、まことは西國のうちにして大國一ツ給ふべきよし兩御所の仰ありしに、正信とヾめ申せし所也、正信申せしは、高虎が年ごろの功わすれ給はで、かれが家久しかるべきことを念ひ給はし、賞は輕きにまくは候はと、兩御所まことに汝が申す所ことわり也けるとて、賞はかくかろかりき、あひかまへて兩御所が深き御めぐみ忘れ給ふな、と、是れ佐渡守が已におのが身に實踐し來りし自信をもて高虎に說きしのみ、亦以て德川が小祿主義の存する所を識るべし、精忠なる井伊本多等さへ動もすれば輕賞の不平ありしと聞えけるに、佐渡守毫も報酬を利祿に求むるの欲望なく、おのが奉公を盡して天道に適へるをもて安んじけるは、德川武士中出色と稱すべしげに卑祿の上に現はれたる高潔の氣魂は、亦以て佐渡守が德量を推知するに足りぬべし、井伊直孝父が家を嗣ぎて始めて出仕せし日、悠々として進みて佐渡守が上座に着き、事終りて後、今日の振舞無禮にこそは侍りけれ、さりながら故侍從(直政)が家繼ぐべ本多佐渡守しと仰を蒙りし上は向後の事はゆるされよ、と述べしかば、佐渡守感じて、今日御邊の振舞、正信に於ても悅びて待り、斯くあらん人と知ろしめされし上の御心の程有難う候もの哉、と答へき、新進の若大名を乘せたる一計も含めれど、己れを卑うする所は小封に安んぜしと同じ心根なりけり。されは術智と徳慧とを包容したる佐渡守が胸中より出でし言行は、一面よりは權詐百端の觀ありて、他面よりは能く人情に合して義理を踏めるの觀あり、其の計略の能く中りしも畢竟此の情義の道を調味して、輕薄の外相を示さいりしが故に、人皆其の言を信じて其の術中に陷りながら悟らざりしなり、前史多く佐渡守を以て忌刻崖岸あるの人と爲せとも、是れ决して適評にあらじ、底知れぬ深謀を運らして、諷刺的思想が朴直なる口角より出づるを見れば、自ら姦譎の人圭角を存するの狀あれと、其の衷心に至りては尤も律義の人なりき、而して佐渡守が如き鍛鍊を經たる精神を持し、偏執なる武士の固意地を股して硫裂國達の長を有せしものは奉ろ滝川武士中家康と直弼
變人と稱すべし、舊史また多くは大久保忠隣の貶竄を以て佐渡守父子が中傷に出できと爲せど、是れはた眞相を穿てる說に非ず、佐渡守固より忠隣處分の謀議に參せしに相違なけれど、亦當時德川が嫌疑政治の眼より見れば、縱し忠隣は識ツて犯せしに非ざるも尙罪案と見認めらるべき行跡少からじ、忠隣にも究枉のふしあれと、渡渡守の之れを構ふといふも濡衣なりけり、忠隣貶せられ江州彦根に住めり、時に余家祖は同族の緣を以て亦來リて共に此の地に在り、忠隣卒するの後止まりて井伊氏に仕へて其の世臣と爲り、れり、斯る開繋余は忠隣彼の疑獄の事就きても聊思ふ所あ他日亦之れな述ぶるの機あるべし、は態とに說〓佐渡守曰く無調法にして大なる智慧ある者稀なり、尤もよき人なり、と言ひし人それ自ら之れに當らん乎、剛ならず柔ならず飾らず賊しからずと松永彈正が鑒識亦誤らざりけり、げに佐渡守は嘘と誠とを尤も雄美に調和したる人間の一好標本といふも不可なかるべし、嗟乎、斯かる佐渡守は家康の死にし後正に五十日、七十九歲の齡を以て知己の幽魂を趁ひて此の世を去りぬ。本多〓佐渡守直直彌篇井伊大老は開國論者に非ずといふに就て三月廿九日の時事新報紙上に井伊大老は開國論者に非ずと題し、當時幕政の内幕に通曉せる故老に就て眞相を聽き得たりとて一篇の止話を揭げたり。故老とは誰なるや予の議る所にあらざれど、翁翁自傳にも「井伊掃部頭は純粹無雜、申分のない三河武士、德川家の語代豪勇無二の忠臣、開鎖の議論に至ては眞閣な攘夷家と云ふより外に評論はない」と出で、此度の史話も同じ趣意とこそ見ゆるなれ故老といふ人必ずしも井伊大老に接近したりとも覺えず、昔の經歷要路に立ちしとも見えず、又歷史家風に當時の事實を精査したりとも思はれざれど、能く固陋の見を脫して實情を穿ち、精巧なる想像を以て眞相を〓察したる所は流石に老識家の言として敬服する所なり。其の大老を以て純粹の三河武士、徳川の大忠臣と爲したるは適評にして、往年勝安芳も同樣に述べたる事あり。其の水戶武士との關係を說きたる所も大要明論にして異議あるべからず。只大老を以て全く開國論者に非すといふ家康直弼(五七一)
に至りては未た其の意中を盡ざやるものあり。勿論或る著者の如くペルリの來りし頃より已に掃部頭立派なる開國論者なるが如く云ふは謬說にして世間にては之れを信ずる族もあるべけれど、亦大老を以て全く非開國主義の人と爲し眞問なる攘夷家なりと評するは頗る偏したる觀察なりと謂ふべし。要するに双方共に大老の眞意を解き得たりと思はれざれば今聊か其の外交に關する事蹟の概略を述べて之れを辯ずべし。當時武家疲弊して實備整はず、久しく太平に紐れて士氣弛退したる折柄なれば、勝敗の數も定め難きに濫に外船に對して我れより戰端を啓くは大に不可なりとは、掃部頭夙に兵略の上より割出したる宿論にして其の昔猶世子たりし日に既に此の趣旨を以て幕府に建議したる事あり。阿部伊勢守も尤と聞受けて同じ年の暮、破格に少將に昇進したりしは此の建議の効も與りしなりとぞ。是れ嘉永二年の事にして其の大老となりしより十年前の事なりけり。その頃會津の城主松平肥後守容敬といふは賢君の聞えありて溜詰に勢力を占め、後輩の掃部頭深く推服して萬事相談を遂げ、肥後守も亦厚く掃部頭に交りて他に言はざる程の事をも打明けて語らひしが、この人の(六七一)井伊直弼所見も無謀の攘夷論に非ず、掃部頭の建議書にも肥後守加筆したりと言へば大略その說を同じうしたりと想ふべし。斯くて掃部頭が非戰說は大老の世を終るまで渝らざりしかど、鎖國の舊態を維持せんと欲せるは素よりの事にして外船の頻に渡來す。るは毫も喜ぶ所に非ず、段々御客相增して甚だ禁物なりなど戯れて親友なる中川修理大夫と語合ひし事さへあり。ペルリの初めて來りし後もさま〓〓に外人の來らぬ工風を案じ、終に我れより出でゝ咬囓吧島に行き此處に互市塲を開きて彼れの需めに應じ以て彼れを寄附けざらんとの變策を建て、吹かば神風をだに祈らんばかりの姿にて、其の本意猶鎖國主義の外は無かりしかど、唯近來西洋には蒸氣船の發明ありて海上自在に乘廻すに至りたれば最早その渡來は容易に禦ぐべからず、武力を以て打拂はんも勝算覺束なく、縱し一旦勝利ありとも後難更に恐るべく神風亦賴むべきに非ざるより、軈て海外山貿易の一計を取らんとはせしなり、是れ當時にありて固より行はるべき事に非ず、又交易の宮國上に利あるを知りて此の策を取りしにも非ず、一國籠城の姿にて居すくみと爲りては長策に非ずと兵家者流の謀畧より鎖國の爲に割出したるに過ぎされと、家康と直弼(七七一)
兎も角も其一念の玆に及びしはベルリの渡來に由りて掃部頭が從來の鎖國論に一〓の變色を添加せしを看るべし是時ペルリが軍艦と蒸氣船と四艘を以て浦賀に侵入し來れりしには我國上下の人心非常に驚動し彼攘夷一本槍の水戶前中納言すら今は打拂も機に後れたりと弱音を吐出し、品川御殿山の警衛を承れる松平越前守夷狄めが番人同樣にては難儀と切齒扼腕しながら海上自在の蒸氣軍艦には敵對すべからずと怯氣を起すに至りし始末にて、是等の事實を見ても亦以てペルリの渡來が如何に我國守舊の精神に變調を與へたるやを窺ふに足るべし。扨又掃部頭が斯く外人の渡來を欲せざりしは何故なりやと云ふに、只譯もなく外國嫌ひの感情に驅られしにも非ず。皇國は義を重んじ異國は利を主とする風儀なれば今內外人共に相混せんには、さなきだに利に趨れる人心いよ〓〓甘きに附きて終に皇國の美風頽廢するに至らんとは掃部頭の深く憂ひし所にしてこの國風保持の念慮は終身曾て變ぜず。西洋とても耶蘇〓の德化行はれて博愛慈善の美談も少からざれど、我國に來りて實利をのみ求めし狀を見ては深く武士道に養成せられし掃部頭の眼には只異國は利を主とすとのみ映ぜしなる井·伊値弼べし。又當時諸大名は多く幕府より邊海の警備を命ぜられて平日其の地に士卒を派して不虞に備へ爲に年々費す所頗る多く偶外船の渡來するとあらば忽ち大騷ぎとなりて臨時の失費亦尠からず、之れが爲に京大阪の富家に調達金を賴みて辛うじて財政を維持せる諸藩の遺繰身代はます〓〓困窮を加へ、現に幕府の如きもペルリの渡來後俄に經費大に增して一年凡七十餘萬兩の不足を告ぐるに至り勘定奉行の心痛一方ならず、井伊家も相州海岸の警衛に任ずると八年、尋で轉じて京都の守護に任じ、ペルリの再度渡來の際の如き其の滯船殆ど二ヶ月半の間に相州の海岸に於て唯臨時に使用せし船方百姓等の爲に要せし金額のみにても凡五千兩の多きに上りし次第にて、當時五千兩とし云へば米一萬俵を買ふべく今の五萬圓にも當りぬべし、是の一事を看ても其の海防の爲に費す所の容易ならざるを想ひ知るべし。されば異船の一去一來は忽ち一家不如意の勝手向に尠からざる利害を及ぼし、當時總じて天下の困窮は全く外船渡來の一儀に基きたる勢なれば掃部頭この邊の憂慮より其の渡來を欲せざりし事情ありたるなり。されと其の後來船おひ〓〓繁く、魯西亞も來り英吉利も來り亞米利加も來家康と直弼
り其の使節ハルリスも來りて下田に在留し、一年有餘の談判を經て愈江戶に出府し、將軍に謁見して後條約の談判を始め、光づ堀田備中守が宅に於て都下にミニストルを置くと兩國人勝手に交易するとの二大件を主として懇々說く所あり。此の要求を容るゝと否とば即ち當時に在りて開國と否との別るゝ所にして堀田等は成るべく取縮めて之に應ずるの意向なりしが溜請の諸大名にはハルリスの申立書を回示せられて意見を諮はれたり。是時掃部頭最早これ迄追々に許容し來りし事なれば此上の願は無據差支の趣にて程能く斷らんこそ重疊なれとは思ひしかとも、さりとて今となりては强ちに斯る取扱にも成り難く時勢止むを得ざる塲合にもなりたれば甚だ殘念ながら此處にて願の趣聞屆け程能く年限を定めて成るべく個條少に定約を結ぶ方然るべしと断然申立てたり。是れ實に播部頭が眞の心術を暴露したる所にして其感情に於ては甚だ喜ばざる所なれど亦能く〓〓思慮すれば誠に時勢止むを得ざる次第にこそあれば乃ち此の感情思慮相和して成るべく制限を設けて彼れが要求を容れんとは說を立てたるなり。之れ五年前外人を寄付けざらんとしてさま〓〓に苦慮せしに較ぶれば其の井伊直弼對外の思想に一變化を來したるを識るべく、其の情に於ては猶頗る開放を情む所あれと、亦今は鎖國の舊態を維持すべからざるを曉りて開國の方向に所見を轉じたるを知るべし。若し掃部頭にして感情に勝てる人ならんには恐らくは是時も猶ハルリスの要求を斥くるの議を建てしに相違なけれど、壯年より深く武士道の修養を經て克己の念を養ひ前後思慮を廻らして事の理非得失を熟思し以て心を决し事を行ふの習なりしが故に感情の趨く所も之れを制して智慮の是とする所に從ひて决心力行するを得たりしなり。さればハルリスの要求に精々制限を設けんと欲せしも亦强ち外國嫌ひの感情のみより出でしにはあらで、今度初發の事にしあれば急激に行ひては不服の者も少からずとて國內の治安を慮れる邊もありしなり又英國は當時支那との戰爭終らば兵船數十艘を指向けて日本に求むる所あらんとする由ハルリスの申立書にも見えたれば掃部頭萬一兵端開けて敗戰の後その需めに應ずるとありては却て國家の恥辱なりとの懸念ありて此の事亦ハルリスの要求を容るゝの說を取るに至りし一因となりしなり。斯くて幕府にては類にハルリスと談判を重ねて愈假條約も定まり其調印の期家康直弼
日に先だちて堀田備中守啟虚伺ひのために上洛するに及びて掃部頭亦竊毎に腹心の臣長野主膳を京に遺はし、九條關自に賴りて假條約勅許の爲に周旋せしむる所あり。然るに京都にては攘夷論の勢燄甚だ熾にして堀田の首尾次第、によろしからず成行しかは長野も始めの程は堀田に知らせず働きしも今は其公用人荒井安治に面談して注意を與へ堀田より金二百疋の菓子料を贈られしかば直に二百疋の菓子を求めて答禮に及びたり。掃部頭も江戶より堀田に書面を贈りて勢援を與へしかども終に堀田は其事成らずして空しく東歸し軈て掃部頭大老に任ぜられたり。是に於て一面にはハルリスに談じて調印の期日を延ばさせ一面には速に長野主膳を京都に遺して九條關白に懇談し、既に堀田の手を燒きし前轍あれば能く〓〓假條約勅許を得るの手續を〓議して關白には身に引受けて事の成就を誓ふに至り、上使には松平肥後守、所司代には酒井若狭守を遣はす事に內定せしも未だ發せざるに先だちてハルリス來りて英佛掩來の注進に及び急に假條約調印を迫りて遂に豫定の期日に先だちて勅許を經ずして之を斷行するに至りたり。世には是時掃部頭大に反對を唱へしが如くいふ者あれど是れ半解井伊直弼の說にして此折大老の唱へし所は勅允を經て調印すべしといふに在りて、斯く主張せし所以は一は已に九條關白と內約せし成算に賴む所あると一は然らざれば忽ち非難起りて後日の紛擾甚しからん事を慮りしに在り。されば是時ハルリスと談判の爲に神奈川に遣したる井上岩瀨の兩人に含めし內命も萬々止むを得ざれば調印するも可なりと一點の餘地を與へしかど主とする所は延期に在りしなり。詮する所大老が眞意は調印の事は固より期せる所なれど勅許を經ざるは本來の旨意に非ず、ハルリス急に來りて形勢一變したるが爲に徐に勅許を得て穩に調印の事を了せんと欲せし心事も齟齬して遂に安政五年六月十九日といふ日に勿々調印を了したりしは寧ろ大老自ら豫想外とせし所なり。是れより事態紛雜して安政の大事件を起すに至りしが、若し是時外勢の甚だ切迫を告ぐる事だに無くは恐らくは大老靜に其の胸算に從ひて時局を處し當時の如き激しき紛擾を見ざりしやも識るべからず猶この間の事情は内外錯綜を極め、頗る趣味ある史蹟を存すれども長きに涉れば玆には略すべし、以上述べたる所に依りて掃部頭が年來外交上に於ける事歷の一斑を窺ふ家康直弼
に足るべく、其人素より學者にあらざれば博く諸書を涉獵して學者風に豫め天下永遠の經綸を立つるが如きは得て望むべからず。實地に依りて見る所を定むるは實際家の習にて、掃部頭も此方面の人にしあれば其外交上の考意も實地の局面と共に變じ行きしを看るべく、始は純然たる鎖國論者にして、中頃一點變色を帶びたる鎖國論者と爲り、終に數年の後漸く開國の止むを得ざるを悟るに至りしなり。但し斯くの如きは獨り播部頭のみに非ず、松平越前守の如きもペルリの來りし頃には殆ど無謀の攘夷家とも謂ふべき姿なりしかど、後に假條約の成りし比には之に賛成して一個の開國論者とも謂ふべかりしなり。さりながら當時西洋の事に就ては我が邦人の智識甚だ幼稚にして幕府とても年々長崎在留の和蘭官吏より差出す風說書と稱へたる一片の書面に依りて僅に其一斑の一斑を窺ふより外は無く、溜詰の諸大名には之を回示したるに山りて掃部頭も一覽せしに相違なく、ペルリの始めて來りし年の春には掃部頭日光社參に赴きしが是歲米船來航の事は既に前年和蘭の風說書にて知られたりければ留守中萬一の變を慮りて相州警衛を戒めて發途したる事あり。西洋に鐵道あり電信あり共和政治井伊直弼といふ政體あり衆人集りて國政を議する會堂ある山など亦風說書に因りて知りしなるべく、ペルリ來りハルリス來りし後は其時々應接書も見たれとと、固より萬里絕域の事、想像にだも上らざりし節多かるべし。ハルリス登城の儀內决せし比武州忍の城主松平下總守はわざ〓〓登營して堀田備中守に對面し若し使節衣類の間に短筒(ビストルの事)を隱して將軍に近く進まば測り難き夷情懸念に堪へずと眞面目に詰問せしかば、備中守答へて筒袖の事にしあれば外に隱し所も無く夫等の邊は安心なりと云ひたる山遺書に見えたり。問ふ者の杞憂抱腹の外なけれと西洋好きと噂されし備中守も未だ洋服にポツケツトあるを知らざりしにや。是等噴飯の奇談甚だ多く交易の一事の如きも今は三尺の童子すら能く識れる所をばハル、リス懇々說きて井上岩瀨なといへる幕府の大人に聞かせたり。澤澤翁が始めて亞米利加に渡航せし際別船にて同時に行きし目付小栗豐後守等の如きもニユーヨークにて其地の貿易方役人に就きて貿易の事を尋問に及びしが、其質問甚だ幼稚にして恐らくは彼の役人も竊に之を憫笑せしなるべし。左れば掃部頭の如きも西洋諸國の事情を精細に了知して開國の永遠に及家康と直弼
ぼす福利の洪大なるを達觀し、將來交易に由りて大に一國を富まし文明の學藝を輸入して人智を進め以て我邦を開明の域に達せしめんと欲して乃ちハルリスの要求を容るヽの說を立てたるにも非ず、又假條約の調印を了したるにも非ず。勿論此の如き遠識の士は當時の諸大名中一人も之れ無く、唯掃部頭今は西洋に蒸氣船ありて自由に洋海を橫行し、天涯も比隣の如く往來して世界各國互に交通を開き我邦にも荐に渡來して求むる所あるに至りしかば、最早この時勢に於て强て鎖國の舊態に泥むべからず、萬一西洋各國を敵と爲すに至らば一國の運命も危殆に及ぶべしとの憂慮より終に開國の說を取りしに外ならず。簡短に之を言へば全く國家保全の一念より出でしにて交易の如きは固より甚だ重きを置かざりしなり。要するに或る論者の如く掃部頭初めより開國の卓見を持して非常に先見の明ありしが如くいふは寧ろ大老を誣ふるの說にして事實附會の譏を免れざれと亦之れを單に攘夷家と見做し、彼の假條約調印の如きは已れ大老に任じて之れを裁决すべき地位に立ちしが故に心ならずも權宜の處斷に出でしに過ぎずと一言に論じ去るに至りては大老の本意を察せずと謂はざるを得ず。其井伊直弼假條約に關する意見の已に大老就職以前に定まりしは前に述べたる所の如し.されど大老が外國風を嫌ひて我が國風を推通さんと欲せしは事實にて彼の假條約談判中にも外人の遊歩區域を居留地外十里に限るの一件に就きハルリスは此十里を直徑にて測らんと唱へたるを聞きて掃部頭西洋は直徑にて計る法ならんも我國に於ては道程にて稱ふる風儀なるが故に直徑說には應じ難しと唱ふべしと堀田に勸告したる事あり。又その櫻田に撃たれし一月前、小川町の講武所の開講の際に「今更にこと國ぶりを習はめや、こゝにそなはる武士の道」詠詠し由は今も往々識る所にして中には之を以て大老が攘夷家の證に言ひ做すものあれと、畢竟この歌の本旨は外國風に習はずして我國固有の武士道を主持せんと欲するに在るのみさりながら掃部頭に斯く外國嫌ひの感情ありしとて滿腔攘夷主義の外なしと言はんは、餘りに丸呑したる說なり。堀田等がハルリスと談判中にも掃部頭皇國の風儀と異國風との差別をば掛り役人よく〓〓心底に納め、其上は時勢の然らしむる所にて全く國家の爲に餘儀なき處置に出づるの外なく、决して彼家康直弼
に屈服するに非ざるの主意を示し、總じて掛役人こゝに腹括りを置かざれば人心承服し難き旨忠〓したる事あり。是れ當時一般守舊の精神に滿てる世態に處して、外交の事を取扱ふ心得を述べたる者にして、必ずしも其外國嫌ひの感情のみより出でたる言に非ず。現にこの際堀田等を異入量負なりとて幕府の内部に於てすら快からず思ひし者尠からず、其京都に目的を達せざりしもさま〓〓込入りたる事情あれと、一つは此攘夷の本家ともいふべき地に入りて斟酌なく西洋風を吹かしゝ邊もありし有樣なれば、當時外交實地の局に當りて事の成就を圖らんには斯る心懸も必要なりしなるべくさては掃部頭大老に立ちし後の施政には往々此用意の形跡を見るなり。元來掃部頭保守主義の人物にして漫に古法を破るを喜ばず、堅く武士道を保持して德川の天下を大事と守護するに餘念なかりしかと、亦其人必ずしも附和雷同の人に非ず部屋住にありし間にも居合の術には日夜の鍛練を經て終に一の新流を起し、茶湯も亦近代古法の頽れたるを〓きて多年〓究の後一の新派を立て或は庭前に窯を築きて自ら工風を凝らして陶器を燒き、或は〓工に繪を命ずるにも自ら模本を〓きて示す事さへあり。其他石印井伊直弼を刻し茶杓を作る等凡そ瑣細の藝事にも自ら一己の了見を有せしが、其藩政に於けるが如きも己れ部屋住世子の間に先代掃部頭の處置をば默して傍觀し、時節の到りて藩主と爲るに及びて直に年來蓄養せし政見を出だして早くも先代の喪中より時弊の改革を始めたり。幕政に於けるも亦同一轍にして阿部堀田の時代に其施政を眺めて素養する所あり。大老と爲りしは偶然の事にして自ら求めしには非ざりしかど、已に幕政に對する大體の所見を有したりしかば、大老就職の上は當分御用部屋入と稱して見習の後に非ざれば政治に預からざる先例なるにも拘らず、受任即刻より御用部屋に入りて老中と政談し者々其心算を實地に行はんとしたり、彼の本條約交換の爲に使節を亞米利加に遺したる一件の如きも、我國の解纜は櫻田の變より二ケ月前ばかりに在りしかと、其議の决せしは大老と爲りて後間も無き事にて當時我國より始めて海外に派遣する使節の事にしあれば、其人物の選擧を極めて大切なりとして、重なる諸役に投票せしめ、第一の多數を占めたる水野筑後守を正使とし自選投票したる永井玄蕃頭を副使に任じたりしが、後に彼此事情ありて新見豐前守村垣淡路守の兩人に代へて之を遣し家康と直弼
(一九一)弼直康家弼直伊井(〇九一)乞はんと欲するなり。願ふ所は唯史上眞の事實を得んとするに在るのみ。ことあるべく、今は〓要大老の心事を說明して更に故老といふ人の明〓を煩雜の恐れあるに山りて玆には省略し、他日細密に之を擧示して考說する以上述ぶる所の事實は皆當時の遺書に憑據あれど一々之を揭げんは甚だの一たりしなり。に所見ありしを看るべく、假條約處分の如きも亦豫め胸中に一定せし政務ては遂には屬國の姿にもなるべければ是非々々一二年の內には亞米利加中にも今日に至りて外國より渡來するばかりにて我國は受方のみとなりたり。是れ大老の在職中に實行を見し所なれど更に其胸中に尋ね入れば目へ使節を指立つべしと堀田に言ひ送りたり。海外派遣の一事も既に大老前的は異なれども既にペルリ渡來の後に海外出航の議ありハルリスの談判面を白狀せし證文なりけり。服せし賓師なり。左の一書は當時亦彥根に交多かりし彼れ五山が詩人の裏愛すること命の如しといと音なふ協者のをタが中に賴山陽は其の最を拈り文を弄ぶの風行はれき。星巖の先輩たりし菊地五山いへらく、文政天保の比ほひ彥根の城下にも天下太平の風潮に連れて士流の間に詩一郞は三千石の家老にて、最も學者に交はるを好み、五山これを譽めて才をと。詩人の癖なる過讃は多少これありと識るべし。二十有一人の中、小野田小得二十有一人。上巨室所幕、敦厚成風、唐句云、化成"風偃草、道合ノ鼎調梅、殆謂此也、今通上下虛、如島棕隱、梁星巖諸子、客寓日久、薰陶所資彬々有人、大率着鞭、多在當路覺彥根爲湖東第一雄藩、庸然文物。今日爲最以其密通京師、墨客韵士、來往無vase岡井伊本直黃弼石梁川.星巖〓
一金子拾兩也右者無據就緊要拜借仕候處實正に御坐候來ル九月中詩話發會之節席間以来金無相違返壁可仕候爲後證如件天保二卯七月菊地左太夫印菊地左太夫印菊地新三郞印岡犬塚様亦風流なる借金なるかな。何に用ゐしにや聞かまほしくこそ。犬塚外記は小野田が弟にして黃石が叔父に當り、其幼時讀書の師なりしとぞ。彼の二十一人中多く奇峭の詩を作りしといふ男にて五山其の人物を稱して、子乾(外記が字)善爲人謀、俠膓自輸ス。とは云ひたりけり。夫の借金證文永く犬塚が家に遺りしを看れば、左太夫も終に相違なく返壁せざりしにや。實に犬塚が俠膓に預りしなるべし。是歲梁川星巖夫婦は小野田等が招請に由りて已に前年より彥根に來り、家老木俣土佐が別墅の松原村に在るに寓居したり村は城下に接して湖濱にあり。門を出づれば扁舟に棹さして湖上に放浪すべし。星巖此絕景の地にありて木本黃石候小野田等より衣〓の料を給せられ、山色湖光の裏に吟魂を養ひて有酒〓尊書滿床の境界を送る。五山先輩をして隠然一敵國、我望而長之と恐縮せしむ。斯くて此處に留まること正に二年にして、巳ト他年歸隱地、裏湖西畔赤巖睡、などゝ別を惜しむ諸人に餘情の言葉を殘して東に向ひて立去りてけり。當時黃石は九百五十石の家の主人にして年漸く二十を踰えつ、無役の身にて家藝の軍學に出精し、詩の道にも彼の廿一人中の若者にて星巖の〓を受けたり。さては其の頃五山に今纔過弱。實爲譽髦とはたゝへられしが、二十餘年の鍊磨を經ては星門に有數の時家となりて、騁奇弄巧、不少其人、若夫忠厚惻怛、愛君憂國、得三百篇遺意者、其唯彥根藩岡本大夫乎、と老師許しゝとぞ。異船の渡來に星巌慷慨家となりて、黃石も同じく憂國家となりにしかば、さては特に彼の愛君憂國の辭ありしなりけり。嘉永六年星巌京にあり「ペルリ」の船相州浦賀に入りぬと聞きて吟膓沸騰し、慨然として、家康と直弼
皇朝有制嚴而密、不許諸商通外夷、縱使萬來皆可絕、不惟墨利別羅斯、など俗氣の詩を賦して最も激しき攘夷の聲を叫びしが、黃石も亦彥根に在りて、直弼が下問に應じて攘夷の上書を捧げたり。されど太平實備の足らざるを識りける直弼はさる無謀の策を用ゐす。其の幕府に上言せし要旨を一括して言へば、和親は許して交易は許さす但し我れより彼の地に行きて之を行はん「居すくみ」は國の長計に非ず。而して此の重大の事件は之を天朝に奏して神慮に任せて裁斷すべしと云ふ。和親交易の事は儒者中川祿郞の論を取り、天朝神虛のことは國學者長野主膳の說を採りしなり。蓋し當時の遺書に由りて直弼の意中を察するに、夷國は利を主とし我れは義を主とする武士道の國なるを、今若し交易を開きて和夷混交したらんには、利に趨り易き人情の常とて、さなきだにすでに衰へける皇國の美風をば彌增に頽廢するに至るべければ、「兎角彼れを寄付けざるを良策」として、兼ねて彼の「居すくみ」にならざらんことをも圖りて、やがて「出貿易」の說こそ出でたりしなれ。さりながら爾來外交の方面ます〓〓多端と、爲りて安政四年十月廿一日には亞墨利加官吏「ハルリス」始めて將軍謁見の式あり幕府の大廣間を俄作りの式岡本黃石比として上段に厚囊上愛もゑま重て縮もて之を包み四方の角に大總けて玆に曲築を据えつ、大將軍立鳥朝子小直衣の裝束にて之れに凭る。譜代大名諸役人中段下段に出仕して、直垂狩衣大紋布衣素袍の面々威儀を正して列座す。洋服の外賓此の間に出でゝ下段に拜禮す。豈亦奇觀ならずや。直弼も列座の一人なりけり。斯くて此の實際家は眼前に形勢變革の實狀を見て亦時勢の己むを得ざるを識り、遂にハルリスが都下にミニストルを置きて、兩國人勝手に商賣するの願を容るゝの外なしとの議を立つるに至りしは、此の節幕府に出だしゝ意見書に依りて知るべし。翌年の春には老中堀田備中守假條約調印に就きて啟慮を伺はんとて京に上りけるが、是の一行は實に天下の剖目する所と爲りて、攘夷の徒は勅許を下さゞらんと周旋し、一橋黨は國家多難を唱へて速に賢明年長の養君を定むべしと「名差し」の勅命をCr將軍にようえど粉管し有志の族生ひ來りて形發其た不殺なりしかば黃石も心安からず、密に家來成瀬文左衛門をば京なる星巖の許に遣して時事を諮はしめたり。文左衞門還り來りて、黃石一篇の上書を江戶なる直弼の許に進らす。其の書に曰く、家康と直刺
-京都一條誠ニ以不容易御儀、定而御驚歎可被遊ト奉存候、奉申上候も恐多次第ニ御座候得共、實以御國家御安危之御塲合、乍恐深く御案思奉中上候。堀田侯御歸府ニ相成候へ者、勅命ニ就而之諸御大名樣方に御各存御尋ニ相成候儀ト奉恐察候。其節之御答振實ニ御一大事ト奉存候。此度內膳(家老三浦內膳)方へ大畧申遺候間、乍恐御聞取可被下置候樣奉願上候。何分ニも天朝之御勢ヒ殊之外强く夫ト申モ水府公並薩州越前其餘列國之諸侯中ニも、大分內訴御座候趣ニ付、愈御勢ヒ强キ形チト奉恐察候。西丸樣モ一橋樣ト御內定ニ相成候趣、是も天朝〓御內々被仰出御座候由、愈右樣相成候へ者外國トノ御和議ハ御止メニ相成候事决然ト奉存候。右樣一橋樣之御事兼而水府老公御私シ有之候趣潜ニ承知仕居候。以之外之御儀ト本存候。乍併天朝エ之御上書面等御尤至極、天朝ニ而も殊之外御受宜敷由其上諸侯中御同志之方々も御座候趣、萬〓一も內亂由來候節、天朝之威を御カリ被成候へ者、天下無敵之道理歟ト奉存候。誠ニ以恐多奉申上兼候得共、此後追々水府公エ御取入、御同志被下置候樣仕度奉願上候。是迄上慮も奉伺居右樣之儀奉願上候は定而不埒ト思(六九一)岡本黃石召之程萬々奉恐入候得共、何分御國家御一大事之御塲合、且は列國外樣之方ニ候へ者、タトヘ如何樣之事御座候とも、御同志抔之儀は毛頭申上候存念ハ無御座候。水府公は正敷御三家之一、東照宮〓御血統御續之方ニ候へ者、今更御同志被遊候とも少しも御搆無御座候事歟ト奉存候。堀田侯初め總而御役家、其餘ニも和議之方ニは此後追々御遠カリ被遊、トカク第一ニ天朝を御推尊、御守護職御嚴重御大切ニ被遊候へ者。自然之節ハ所謂挾天子號令諸候之道理戰伐之事ハ外諸侯之持と相成申候。東照宮御深密之御趣意も御守護〓無外ト奉存候、仍而御守護之儀ハ只今ヨリ御賢考被下置、御人數も多分被爲增、事に寄候而は、御前も一年一度位ツヽハ御上京御陣屋御見廻リ、並御伺天機、御守護向愈御大切ニ被遊候と申程ニ、是迄トハウツテ替リ候樣不相成候而ハ、他之面目モ改ル間敷歟ト奉存候。水府公御上書中ニ近國有志之大名有之ト申候は越前候ト津侯ト之由に御座候。津侯抔も專ら禁庭へ御手ヲ被入、御守護御望之由、已ニ先日天朝〓四ケ條被仰遣之內、第二ケ條ニ皇居御手薄御不安心ニ被思召候間、畿內並近國之内、皇居四方ニ可然大祿之大名堅固に警衛家康直弼
出來候樣との被仰出、江戶表〓之御答ニ當時關東ニ而專ら御取調ト御坐候間津津越前候抔其撰ニ御入被成候も難斗仍而前ニも奉中上候通リ、上意ニは萬ミ被爲叶間敷候得共、枉クテ此後ハ水府公へ御取入被下、此、其上勅命ニ〓而之御存寄御尋之御容者、外國トハ御和議ハ斷テ御止メト申樣ニ被仰立候ハヽ、後ニハ却而御安心之塲ニ至り候事必然ト奉存候。總テ物ハ究スレバ變スル天地萬物之理ニ御座候。何分ニも事急ニ#逼リ居候間、御深考御英斷被下置候樣幾重ニモ奉希上候。右樣過言之事共奉申上、御大怒を蒙り候歟ト深く奉恐入候得共、何分先頃より晝夜心痛仕、不堪憂苦候處〓不顧恐奉申上候儀ニ御座候間、此段ハ御寛容被下置候樣奉願上候。扨拙者儀不肖之者ニ御座候處出格結構ニ御召仕被下置、冥加至極難有仕合本存候。然ル處未奉寸忠、誠ニ以奉恐入候。此度ハ實ヽニ御一大事之時ニ當リ候間、粉骨碎心仕、奉報御高恩度寸念ニ御坐候。今日〓百日之間三天エ心願ヲ籠メ祈念仕候心得ニ御坐候。寔ニ恐多御事ニ御座候ヘ共、御前平日御信仰被遊候神エ御心願被遊候樣偏ニ奉願上候。處さへ極候て祈念仕候へは冥感冥助ハ必然御坐候ニ相違無御坐候岡本黃石恐、多事共奉中上、重々奉恐入候。以上。三月二十八日岡本半介是れ獨黃石が當時の所見を徵するに足るのみならず、亦具に黃石が人物の縮圖と謂ふべし。星巖が「忠厚惻怛」と稱したるも此の書に於て看るべし。星巖むかし彥根に客寓せる頃は、直弼年二十にも至らず、父直中の遠逝に逢ひて、うもり宜のや~ "新に彼の自ら君づけし理本令に一年来三百形の如行技特なる部屋中めし際にて、星巖も唯鐵三郞といへる曹司ありとは聞きしなるべく、直弼も亦木俣の下屋敷に詩を作る儒者來りて住みけりといふ程の事は聞きしなるべし。されと今や岡本半介の建白は實に星巖の精神をも取次ぎて直弼に120達せしゞいふり不可なくきる上得を通しせんととも恐らくは此のお勸に出でしなるべし。抑も水戶齊昭が裏面の振舞は島津齊彬さへ痛く嘆息せし所にして、直弼も疾くより之れを知りしかば、唯表而のみを見て崇拜せる黃石一流の人々の如く、今更齊昭を豪傑とは思はず。若し一橋將軍と爲りて水戶の世とならんには、內外愈多難なるべしと期したり。又外交の事は去年すでに「ハルリス」が願さへ容るゝの外なしと思ひ定めしが上に、近頃又年家と直弼
來〓懇なる堀田備中守が親しく外人應接の實情をも聽きしかば、益平和の策の利なるを信じたり。さては直弼こたび堀田の上使にして首尾よく大事の役目を果さゝらんには、幕府の威光も墜ちて事躰益困難に陷るべしと深く懸念し、乃ち潜に股肱の家臣長野義言を京にのぼせ、九條關白に倚りて堀田の成就をば助けんとは計りたりけり。さるを黄石には唯星巖の便に依りて、朝廷の勢强く、堀田〓れて、今にも水戶家の世となるべしと過信し、延きて我が主家にも其の累の及ばんことを懼れて、さてこそ斯かる諫言と呈したるなれ。夏情察するに堪へたりけり。斯くて堀田も其の本意を得遂げずして東に歸り、志士の心願なる養君名差しの勅命も先例なしとて下らず僅に近衞左大臣の內意を含みて傳奏衆より早く養君を立てんこそ良かるべけれと表ならぬ涉欲の園ヲしのみなりとも黄万の書中に西九樣も一樣樣cre內法などいへるも查はるる事のあらざるを常時一榜称文に熱心なる間におのが情に引かれて斯かる氣早の風評ありしなりけり。其の後黃石と星巖との通路は尙も絕えずありしが、是の歲四月直弼大老と爲るに及びては、黃石の憂歎亦識るべし。其の頃義言親しき人に送りし文中岡本黃石¥に密事をもらして、今度之御大老職ハ早春義言上京して關白殿へ取入候かたい(過怠)と彥根ニ而は申候由、よきかたいが參り、難有事ニ候。かの人物ハとかく水府へ御取入候方可然と申上候而、御褒詞を頂候故今以其方か御意ニハ叶候へとも、義言がいらざる事ヲ中上候而、自分のよき了簡ヲさまたげ候樣ニ存候趣ニ候、と言ひにき。黃石には實にさる感念ありしなるべし。直弼かの黄石が建言を用ゐざりしは勿論なれど、其の忠諫の精神を嘉し〓事實は亦此書に據りて窺ふべし。且つ直弼斯く黃石の一意京儒の說を信じて實際に成らぬ事を唱ふるは、畢竟內外の事情に通ぜざるに外ならざれば、之れを江戶に出だして時勢を識らしむるこそ最も良けれとて、やがて關東に下るべきよし沙汰あり。是の時慕府にては既に勅允を經ずして假條約の調印を畢り、將軍の養君も紀州に决し、酒井若狹守を所司代に任じ、老中間部下總守をば外國一件の上使と定めけるが、直弼亦先だちて長野義言を京に上らせ、上下の周旋を勤めさせだり、義言途中彥根に入り、黃石がり參りて夜更くるまで物語りつ、日頃家康直弼
黃石が崇拜しける三條前內大臣實萬が事に托し「正邪の分」を說きしかば、主人の憂國家も得心して悅びけるとぞ。去程に八月朔日黃石は東に下り義言は京に向ひけるが、五日には已に「大日本國有志中」より徳大寺大納言を始め堂上五家に義言上京密計を施すを〓ぐるの投文あり。八日には關白の署名なき勅諚水戶家に下り京師は朝野共に騒然たり。星嚴が丸太町の宅は「有志組の總問屋」にて此の問屋の主人實に其の連累の「張本人」なりといふ。議奏久我大納言の家來春日讃岐守を說きて、大納言をそゝのかして朝廷の議論を固め、間部下總守を大津に要して、幕府の處置を說かんとして時事慷〓の詩二十五篇を作る。さはあれ長野義言が是の時すでに京都切迫の形勢又尋常の手段の能く處すべき所に非ざるを看破し.星巖等「悪謀の徒を取押えて」反對の勢を挫くべきよしを江戶に報ず。直弼の股肱宇津木六之丞其の內意を承けて下總守が役宅に使し、「隱謀方召捕」の議を傳へぬ。尋て義言また間部に先ちて西上しける酒井若狭守に勢州桑名の本陣に會し、京師惑亂の事情を述べて、早く其藩の「浪人儒者」梅田源次郞を捕るべきを勸む。斯くて九月三日を以て所司代京に入りけるが、其の翌日流行の奇病(トンコロ)はやがて來ら岡本黃石ん憂世の呵責より星巖を奪ひて鬼籍に送りぬよ前代未聞の仕合者と九條關白の家來島田左近は言ふ。三日を經て梅田源次郞召捕らる。星巖逝けとも、星最の許に朱まりし諸國者志の文書は大切の磁場品たり錢付や六事にけるよし同士奧村俊平の密〓に據りて知れたりければ、役人共星巌の家に就きて搜索すれども、影だに無し。後賴三樹八郞を吟味するに及びて、彼れが許に秘したること發覺して遂に之を收めき。中に黃石より送れる書簡十餘通あり。京都町奉行の與力渡邊金三郞之れを手寫して義言に送りけるを、義言更に江戶に送りぬ。金三郞は是時囚人の吟味掛となり、梅田等に巧に其の儒癖を稱揚して事實を白狀せしめし心利きたる男なりとぞ。左の一書は黃石と星巖との交情を知るに足るべし。過日者御懇書難有奉拜披候。大暑の時下ニ御座候得共、とかく不順氣ニ御座候。起居愈御〓適奉賀候。時事一條縷々御申越し、歎息之次第ニ御座候.乍併天朝ニ者飽迄御動キナク浪花開港ニも和成候ハヽ、選都ニ而、御一决被爲在候山、寔以難有此事ハ安心仕候。關東〓者御答之御使未だ御極りニも相成不申趣、如何之事哉。諸侯の御答者大半出候由承り申候。此家康と直弼
比關東〓潜ニ堂上方に頻ニ賄賂ヲ行ひ候得共議奏傳奏あたりニ而一向御承引無之ニ付。開東の計略迚茂埓明くましくと申風聞承り申候。何れニも天朝御一决之上者、盤石如不動ト被察申候。去る十六日下田に墨夷軍艦二艘、魯夷同一般、引續跡舟參り候由、英佛之二夷も近日之内江戶近海エ可參候付、兼而心得候樣、於江戶町觸御座候。應接の御役人方夫々被仰付候趣申來り候。寛猛之御處置以來者猛斗リト、佐倉侯之節久我公被仰渡候由ニ候得共、不相替姑息之御取扱と愚察仕候。一極密ニ被仰下候一條極所(奧村俊平)方に先便申遣候。定而御聞取可被下と奉存候。其策甚六ケ敷御座候。一當年者夏以來甚不順氣、果而凶年歟と申居候今日之時勢、加凶年候ハ、事之起リ候事、忽眼前と被存候。自然大飢饉ニナリ候トモ、先生御夫婦之御飯米位ハ小生家之有ン限リハ、御扶助可仕候間、此段ハ御安心奉希上候。草々頓首。六月念八日岡本黃石迪.邦星巌大先生追白西瓜一差上申候。御風味被成下候ハヽ大慶仕候。過日長州候之建白御遺し可被下旨、種所より申越候得共、御造し無御座。何卒拜見仕度、重便御遺し可被下候以上。是れ實に直弼が江戶に在りて、假條約之調印、違勅の非難、將軍養君の件。さては尾水越の押懸登城など、內外集ひし難題に尤も苦心せし頃にして、黃石は彥根より斯かる密書をば京に贈りけるなり。後に直弼この書を見たりとは黃石夢にも知らざるべし。直弼また一言の此の事に及びしもの無かりしとぞ。後萬延元年に至りて、黃石嘗て「水府老公」に取り入り給へと主に勸めし其の家中より、櫻田に吾が主を撃ちし狼藉者は出でたりけり。黃石が眼に悔恨の落淚流れしを見し人ありけり。苦衷想ふべし。さては黃石側役其に山りて我が「心得違」を謝せしかば、椋原主馬柏原與兵衛の兩人は直弼の棺前に伏して読言をこそ地らせたれ瓦のだのなつ方順を患はりて江戸よりな根りける時、憂患比歲舉難論、事到今年不可言、且喜新公賜思暇、生還重得看見孫、家康と直弼
と口ずさみぬ。櫻田の時には决死の情を見るべし。斯くて此の平和なる憂國家は復彼の昔し星巖の訪ひ來し紀念を留めし家に還りて、長野宇津木の猶も時めきける世を眺めぬ。二年の後この二人を殺すに及びて、家老の起ちて其の事に力を致しゝは黃石なりけり。翌年千石の加增あり。人生の榮枯亦察すべきかな。(本文の事實一々當時の遺書に徵證あり今繁冗を避けて多く省畧す) (六〇二)岡本黃石長野主膳其-○幕府の未路勤王說の源流に二派ありて、一は儒學より出で、一は國學より出でにき.主膳は夙に國學を修め詠歌の道に通じ、疾くより京師に徃來して縉神の間に出入せしかば、其の學統よりいふも經歷よりいふも、朝廷を尊崇して勤王の志篤く、其の本來の精神を言はヾ江戶よりも京都に味方の念多かりしなり。主膳にして若し井伊家の如き特に幕府に忠實なる譜代大名の君に仕へずして一個の志士として樹たん乎、或は幕府に緣遠き外樣大名の家に仕へしならんには、必ず熱心なる勤王家と爲りて、今比は贈位の榮典に預り居るなるべし。○澤の根芹といへるは、弘化四年直弼の世子たりし日、其の需に應じて主膳が年來抱持したる意見をものして進呈せし書なり。書中彼の偏僻なる國學者流の頑見も尠からざれど、我國躰の特質より政治の要領を述べて主膳が根本の腦髓は明かに此の一書に現はれたり。後年主膳が天下の局面に周旋主膳家康と直弼
せし事實を取り來りて斯の書と對照すれば、主膳が人物を解するに於て眞に思ひ半に過ぎざるべし。○今書中の二三節を拔抄して、其の持說を示さん。國躰論に言へらく、大御神の神勅のまに〓〓朝廷のうごきますべかちぬ道理にしたがひて、大將軍家には永世天下の事を御子孫に傳へ玉ひ、諸侯は永世國を御子孫に讓り玉ひ、士は永世君を奉じて子孫を保つこと、此まことの道をおきて他に求むべき理はあらじ。と而して内外國躰の特異なる要點を擧げて曰く皇國はその位をもとゝして姓氏久しく家の德にてつぎ玉ふ國にて、外國は位にもよらず家にもよらずたゝその才學のすぐれたるが世を治る定めなれば、その器の人の中にはまことに才學のすぐれたるが多きも理なり。されど位を基とせぬ國なるが故に子孫永久の人ある事なし。皇國にくらぶれはいと〓〓みだりがはしきいやしき國なり。と即ち主膳の所見は、朝廷をば至高至尊の位置に樹てゝ其の下に將軍諸侯士人遞次に隷屬し、以て嚴に上下の別を正して各其の位地を永く世襲せん長野主膳とするに在るなり、彼の人物の賢愚に由りて位地を爭奪するが如きは、外國の亂俗として主膳の賤みし所なれば、後年將軍の繼嗣問題起りし時にも、主膳の主張せし所は、東照宮以來徳川家の恩澤天下に溢れ、畢竟今日天下の治平は全く大將軍家の威德に由るの外ならずして、强ち時の將軍の賢愚に由るにはあらず、畢竟皇國固有の風儀の外國と異なる所も茲に存し、今血統近き人を舍てゝ賢明の人を立てんといふは外國流にして我が正統を尊信すべき皇國の正道に非らずといふに在りしなり。是れ主膳が京都にて安政五年二月九條關白の諮問に明答せし主意にして、其の基く所は年來修めし學問上の主義より出でしなり。直弼が紀州を推戴せしも此の論旨なりけり。されば主膳は當時土下各家格を遵守して其の位地を世襲せし封建の制度をば、我が永世の國體と爲して之れを破壊するが如きは夢にも思はざりしに相違なく、いまの世は今のならひをあやまらず、東照宮のたておき玉ひたる定律によりてあるこそよけれ、と言ひける程なれば、固より將軍家の現制に異論なく、此の點より見れば主家康直弼
膳亦一個の佐幕論者と稱すべきなり。○轉じて主膳が朝廷論を見るに、其意にいへらく、國家の根元は朝廷なり行ひの根元は神事なり。いはゆるその厚くすべきものは是なり、是故に朝廷の御稜威つよく神事のさかりなる時は、公武ともに威德重くして國安く、本うすくなれば末亦是に從ふ。鎌倉將軍の頃の如く朝位を輕く私威を重くするは根なしかづらに花さかするが如し。又曰く皇朝の道にて云はや、朝廷は世界の主上として天の下うしはき玉ひ、下分萬民はこの御爲にとて天ッ神の御依し玉ひたる民なれば、ことゝある時は下萬民の身にも家にもかへて朝廷をたすけ奉るべき理にして、又朝廷には何事によらず萬民をめぐみ玉はん爲に天ッ神よりたて玉ひたる正道のまゝにおこなひ玉へれば、萬民のくるしみを見そなはしては、朝廷の破損位にはがへ玉はぬは、實にさるべき理なりと以て主膳が朝廷に對する渴仰心の深きを識るべし、後年開國問題の起る長野主膳や主膳言へらく、今國を開きて交易を許し和夷相混交せんには將來種々の紛擾を生ずべく、且つ國家穢れて神州の法も立たず、神虛も亦如何なるべき乎、さりとて亦無謀に戰端を開きて國家を危殆の地に陷しいるこも亦决して安全の計に非ず、是れ實に皇國の大事末代安危の別るゝ所なれば、固より輕々に决すべき塲合にあらず、幕府の深憂も亦察すべし、結局朝議を經て勅命を待つより他に術なかるべく、朝廷亦其の奏聞に接すれば、宜しく諸國の大社に勅使を遣はして神慮を伺ひ以て和戰を决すべしと。是れに由りて之れを觀れば、主膳も亦開國の如き重大の事件をば慕府の獨决に委するは、國家統一上良策に非ざるを見認めしを識るべく之れを朝廷に奏して神慮に決すべしと論决せるは、即ち正に國家の根元は朝廷なり行ひの根元は神事なりといへる主膳が自信の主義より出で來たりしを看るべし。○要するに主膳が所說の根本は神道說に存して、神道說は進みて勤王主義と爲り、國家の根本は民に非ずして朝廷に在りと爲し、上を以て下の機械と爲すを難じ.聖人を以て天子の上に置くの儒流を排し、朝威の陵遲を〓きて我が固有の國體の頽廢を歎ぜしなり。此の點より見れば主膳は尤も忠實な家康と直弼
る勤王家たりと言ふも固より不可なし。○さりながら主膳が勤王主義は今の幕府を打滅して其の政權をば朝廷に取上げんとするが如き過激なる革命說にはあらで、唯現時存立の儘封建制度をも毀傷せずして、朝廷尊崇の道を厚うせんとするに在りしなり、主膳が所見を校ずるに、古來我が國運幾たびか變遷して後、東照宮天下の亂を治めて太平の基を定めたるは、是れ全く神意の然らしむる所なれば、今日其の幕府の建てるは毫も皇國の正道に違はじといふに在りけり。されば彼の澤の根芹の中にも結句、たとひ今朝廷の命令直に奉る事を得ずとも、公儀の命令即ち是れなり、と言へるを看れば、主膳が持論は全く幕府の爲す所は即ち朝廷の爲す所にして、幕府に忠するは則ち朝廷に忠する所以なりといふに歸者すべく、所詮朝廷と幕府とを一致の同體と見做して、佐幕は即ち勤王なりとの意見なりしなり。直弼の言葉にも幕府は幕府の幕府に非ずして朝廷の慕府なりとの旨も見えぬれば、主膳も亦固より此の意なりしや疑を容れず。唯主膳等が勤王主義は、彼の尊王賤覇の漢儒主義より出でたる矯激の勤王說とは異なり長主膳て、朝廷を尊ぶと同時に幕府をも重んじたりしなり。其の輕重に至りては朝延を上に置くは言ふ迄も無し。○されば主膳彼の開國の議に就きても、此の國家の大事は之れを朝廷に奏し、朝廷は之を神事に移して最後の决裁を下さんことは、我が皇國の正道且つは衆心一致の必計にして、幕府に取りても决して不利なりとは思はざりしかど、水戶を始め之れに加擔の諸大名公卿浪人等敢て私意を挾みて陰謀を企て、身の分限を外れて妄りに朝廷を動かし幕府の政治に故障を容るゝとありては、啻に幕府に取りてゆゝしき大事たるのみならず、朝延も斯かる亂倫の邪道に引込まれては、王道の陵夷にて正邪の分も明かならず、終に國家衰微の基と爲るべしと深くは憂ひしなり。蓋し直弼も素より勅許を經て開國を行ふの念なりしかど、外事急に切迫して奏聞の暇無きに及びしをむて兎も角之れを斷行せしも、勅裁を乞ふは固より其の初念なりければ、やがて主膳は使命を帶びて身を京師の危局に投じ畢生の力を盡して粉骨碎身せしなり。されど是時に當りては彼の陰謀の勢力は念太甚しく到底尋常の手段を以て目的を達する能はざるに由り終に惡徒の根を絕ちて正邪を分家康直刺
明にし以て朝裁を得んと、終に安政の大獄を起すに至りしなり。而して主膳の意中に在りては、是れ獨り幕府の爲めのみならず實に亦朝廷の爲めなりと思ひしなり。後年和宮の降嫁を〓策して公武の合體を圖りしも、亦朝廷幕府兩間の爲を計りし意に外ならざるなり。○主膳も嘉永六年には鎖國論者なりしが、安政四年米使ハルリス始めて江戶に登城して後交易の議起りし際には、已に開國論者となりにき。其の說にいはく、既に通信の條約を結びし上は、今交易の一段にて國を騷がさんも得策にあらざれば、後害を豫防し制規を嚴にして交易を許すも可なり。唯內外國人相交はらん日には宜しく外人をして皇國の風儀に化せしむべく、西洋は君臣上下の別も甚だ輕易なれば、此の風我が人民に移りたらんには、漸々上を輕んじて終には法令も行はれざるに至るべし。已に諸大名に和戰の意見を問はれて、國家の安危を天下と共に决せらるゝは當代の良計なれども、又幕府の政事外樣大名にて决するの姿とならんには、幕威も地に墜つべければ、宜しく皇朝に奏し神處の勅令に由りて人心决定の基と爲すべしと。然れども開國斷行の後は天下の形勢頓に變じて復穩和の手段に出づる能は長野主膳ざりしなり。其二○此ごろ人あり。長野主膳の事を記し、大老の失政を以て悉く長野の實に歸し、遂に斷じて姦彼の臣と爲す。所見頗る長野の心事を誤りて、大に寃枉の歎あり.○余が座右に隨感錄あり。長野に對する所感亦書中に存す。乃ち其の數節を摘記し附するに傳記私言數則を以てし以て其人の一覽に供す。○主膳論固より唯一斑に止まる。論旨又必ずしも始終一貫せす。傳記私言は自感自戒とせる所なり。○朝廷をして既に幕政に容喙せしむるの端を開く、勅允無くして開國ずるは當時の事態の許さざる所、而して一刀之を断ず、名順ならずして道亦正しからず、善後の任は懸りて果斷者の上に在り。乃ち之れが使臣の任に當りしものを長野と爲す○開國を斷ずるの難きは、開國其の事の難きに非らずして、開國に伴ふ上下二家康と直弼
の異論を處するの難きに在り、寛に出づれば益之を侮り、嚴に出づれば益之を怨む。寛殿中を得るも猶離叛の士心を收め難し。逆流の政府に立つ亦難いかな。當時當局者の苦心を察し得るもの、今日果して幾人かある。○京都に於て時の反對黨は、朝廷と公卿と浪人との聯合黨なり。無責任なる破壞的浪人は、不平公卿を煽動して、上ニ朝廷より幕府に故障を容れしむ。此聯合黨は恰も常山の蛇の如し。毒血の根は尾端に在り。拱手して之に臨めば、首尾相應じて來りて我を噬殺せんとす。而して幕府は浪人組とは到底一致の望なしといへども、朝廷とは是非とも和合せざるべからず。最後の一策は尾端を猛斷して、毒血の根を絕ち、以て其首端を我れに化するに在る耳.○安政の獄は、當時或る點までは必要なり。非難は其峻獄に在る耳。幕權伸張の上に於ても、開國勅許を得るの政略上に於ても、又公武合體の政策上に於ても、一時反對黨が幕府妨礙の自山を奪ふは、必要なる鎭壓策として、責任ある政治家に許さゞるべからす。唯其嚴刑に失したるは、與望收攪の政略上甚だ拙と爲す。○兩黨屹として相對峙す、此間、一步も調和の餘地を存せず。我れより發せざ長野主膳れば彼れより發すべし安政の獄は政權者が先づ我れより發せしなり。之れが爲めに敵黨の憎焔を一層激發したるには相違無しといへとも、旣に民間不穩の分子は、刀編を握りて、白刄を有司の頭に加へんとせり。要路の奇禍は遂に免れざるべし。○慶喜春嶽出でゝ、强硬政略を一變して、柔軟政略と爲す。嘗て强硬政略に反對せし天下の士は、悉く彼等の味方なり。斯る味方を有せるが上に、極めて不人望なりし幕閣の後を襲ぐ、彼等の好地位に立てる斯くの如し。而も遂に人心收攬の功を奏する能はざりしは何ぞや。是れ果して安政の大獄の遺怨の爲め乎。然れとも此遺怨に對しては、有司は幕權に由り、民間の士は天誅を名として、存分に復讎せり。志士既に怨を晴せり、而も何が故に遂に味方の有せし幕府に絕望せし乎。固より幕府消長の運は既に定まれり、然れども强硬政策の時代には未だ慕府は天下に愚弄せられざりき。一變して柔軟政策の時代となりて後は、幕威も幕信も峻坂を下るが如く地に墜ちめ。幕府の滅亡を論ずるもの、多くは强硬政策の非を擧けて、柔軟政策の失體を寛却す。共に當時を談ずるに足らざるなり。家康と直弼
○長野は京都に於て反對黨の打擊に成功したり。彼自身は確かに成功したりと信ぜり。而して自ら其打擊の力量をも識れり。故に此伎倆をば文久年間に再び彥根に演ぜんとせり。而して天下の大舞臺に凱旋したる彼は、殆と牛刀を以て鷄を割くの感を以て彥根の小舞臺に臨めり。彼は何事も殆と吾か欲するまゝに行はるべしと思へり、故に其言動に於て頗ぶる不謹慎の跡あり。彼は多くの反對者あるを識れりされど其反對を打破るに足るべき自家の力量を信ずること甚だ强きが故に、彼れの眼には、其反對も尙與みし易しと見えたりき。小局の成算に汲々として、大局の形勢を視る能はざりし長野は、終に反動の大波が天下より推寄せ來りて、彥根に現はれしことを看取する能はざりしなり。自信に過ぎて、他察の明を缺くもの、遂に長野の殃を免れず.○彼は最も執着力に富む。宛も一たび噛みつかば首を斬らるゝまでは其物を放たざる猛犬の如し。而して更に剛强なる我意を有す。彼は自ら曲らずして、飽迄世を己れに曲げんとす。而して之を曲ぐるに崛强なる伎倆を有す。其温厚なる態度、愼重なる擧止、循々たる言談、臨機の巧智は推强き我意を包み長野主膳て、能く人を服するに足る。彼は兎に角に彼れが爲めに生命を捧ぐるを惜まざる心酔者を有す。彼は獨り味方を利用せんとするのみに非ずして、敵をも利用せんとす。而して終に己れに靡かずして我意の妨害となるものは、悉く之を苅盡して前進せんとす。雅量無しと雖も、毅毅の精神はこれ有り。長野は執着力に由りて京都に成功し、彥根に失敗す。○歌人と俗人との性質を混合せる長野は、到底終年風月をのみ友として暮らし得べき人に非ず學者と世事家との資格を兼有せる長野は又終日書に對するのみを以て滿足し得べき人に非らず。彼れの長所は、歌よりも國學よりも寧ろ世間學問に在り。言換ふれば對人術に在り。彼れの歌は情趣甚だ乏し。國學は固より本居の範圍中に跼蹐す。余は短册の上の義言よりも講壇の上の義言よりも、人世活劇の舞臺に於て、策士として働ける義言が、最も能く其本性を顯はしたるを感ず。されと彼は其の眼前に來る個々の人に就きては、一々其人物を洞觀するの明を有せりといへとも、一般の人心を總括して、時の形勢を大觀するの眼孔はこれ無し。之が爲めに其の銳腕を汲々として小規模に用ゐしは惜むべきなり。家康直弼
○長野曰く、人死して後靈の神と成る有るは、皆身に功ありて、末代までに名の殘れる人のみなり。然るは身死して後も、名殘るばかり功ある人は身こそ無けれども名の殘れるに連れて、靈も正しく位を得て神と成るにて、名の殘らぬ人は、靈も亦行方知れず。人も生てある間こそ人なれ、死ては此身目も見えす、物も云はず、實に木石に異ならず。又名を殘すことあれば、身は死しても靈は正しく殘る中に惡人にて惡名を殘せるは、荒魂のみ殘りて人にも崇りなどするを以て明らむべし.生きて世に在る間は、如何にも行正しく身を務め功を盡して、少にても世に名を殘す工風をすべしと。是れ實に長野が中心の信念を吐露せるもの也。○長野か畢生の目的は、功名に在り。彼れは本居を崇拜せり。秋津洲瑞櫻根神の光華は、彼が亦死後に得んと欲する所の熱望なり。然れども彼れが投機的精神と周圍の境遇とは彼をして學者の領分を離れて政治界に入らしめぬ。彼は手に接し身に觸るゝものをば悉く己れが功名を樹つるの機械と爲す。彼は人の爲めに周旋す、されど是れ眞に其人の爲めにするに非らすして、己れが功名を立つるが爲めに人の勞を取るなり彼は特に知遇を得たる主君長野主膳の爲めに、京都に於て、危險を冐して苦心經營せり。然れども是れ己れが功名の爲めに之を爲したるのみ。眞の忠臣は衷心より君の爲めに君の事を爲す。長野は己れの爲めに君の事を爲す。彼れが其心術に於て眞の忠臣たらざるは、玆に在り。○鹿を追ふものは山を見ず、長野に於てこれ有り。されど彼亦曰く、若し末のみ執りて時代の人氣に合するを是なりとするときは、必ず本を失ふことありと。彼れが時、勢を願みずして、自ら信ずる所を决行せしもの、亦此意に出でしもの無くはあらず。其失敗は必ずしも、勃々たる一功名心に誤まられたるのみに非らず。○且つ彼は决して惡人に非らず、固より君子たらずと雖も、敢て無節操漢に非らず。元來冷情なりといへども、决して世の所謂輕薄才子には非す主我心に富めると共に、亦成敗觀望黨には非ず。彼が熱望の功名も善事を爲すに非らざれば遂ぐるを得ずと信ぜり。彼は性深忍なり、萬事皆熟慮の後に爲す、一時の感情に激せられて輕擧するものに非ず。彼れが非難の燒點たる安政の獄も、彼に在りては、全く其の根本確立主義、時勢不隨主義に照らして必要な家康と直粥
り善事なると信じて斷行したるなり。其過嚴の政策は遂に事を破り、身は斷頻臺上に終るといへども、深く其心事を察すれば、敢て罪すべからざるものあり。智見明を缺くと雄も、其自信と健腕とは、優に常人の上に出でゝ、長野の長野たる所以亦玆に存す。忠臣の赤心無しと雖も、君命を奉承し至難の間に處して、時務の急に趨れるの勤勞は、亦有用の臣として許さゞるべからず。失敗は必ずしも其の人の罪のみに非ずして、素と其方面の不利なるに在り。彼も亦幕末の一人物なり。長野傳記私言數則主○傳記者の業は、人を見ると人を說くとに在り見るには厚き同情を其の人に表するを要し、說くには極めて虛心平氣なるを要す。同情の爲めに决して公平なる判断を亂すべからす。○如何なる惡人も、惡人の身となりて察すれは其惡人となりしに於て、必ず種々なる事情と、一種の道理とを存すべし、人を見るもの先つ此間の情理を知悉するを要す。而る後是非の評を下して誤らざるを得.膳○事實に依りて心術を悟り、心術を悟りて更に事實を解す。然れども其間徃々矛盾するものあり。人は外界の事情に制せられて、己れの意思を枉げて心ならざる事を行ふ。此隱秘の關繫を說明するを至要とす。○問ふに落ちずして語るに落つ。人は知らず識らずの間に、其心底を吐露す。此無意識の言行に由りて、始めて其の人の眞意を窺ふべし。○若し毫も自ら飾ること無く自ら掩ふこと無くは、凡ての傳記中、最も信ずべく尤も貴ふべきものは、自筆の自傳なり何となれば人は最も己れに敵意無ければ也。敵意あるもの鷺を見て烏と爲す。○世は大抵人を二樣に誤解す。一は善く誤解し、一は惡く誤解す。惡く誤解せらるゝもの固より不幸なりされと善く誤解せらるゝものも决して幸ならず。虛名は愚人の賞讃なればなり。古人に眞實の評價を與ふるは後人の義務なり。○天自ら言はず、人をして言はしむ。されど人の聲は必ずしも天の聲と一致せず。人の褒貶毀譽は數々天の公裁と齟齬す人世尤も憐むべきは、生前天の聲を聞がずして死に入るものと爲す。後人は彼れが爲めに天に代りて死後家康と直弼
の知己たらざるべからず。○人は短所と長所との縫合物なり.一の長所あれば、必ず之れに短所伴ふ。短所を視れば乃ち其長所を知るべし。君子は其過を見て其仁を知る、亦此の意なり。能と不能とを明識するもの、始めて人を談すべし。○人の世に立つ、各自皆一個の位地を占む之を見るもの同等の地位に立ちて見るを要す.决して上より見るべからず、下より見るべからず、一〓の人は一〓の眼を以て見るべく、一國の人は一國の眼を以て見るべく、天下の人は天下の眼を以て見るべし.○何人も必ず一の目的を有し、一の主義を持す。而して自ら識認せずして一生を過ぐるもの多し而も尙其目的に向ひて進み、其主義に山りて動く。此本領を洞觀するを最要とす。長野主膳遺老の實歷談に就きて我が國近時の一現象とも謂ふべきは、明治維新の前後に際會して國事に與りし遺老の實歷談多く世に出づる事なり。其の一部の書にて著しきを擧ぐれば、大隈伯(肥前)の昔日談あり、海江田子(薩州)の實歷史傳あり、山縣侯(長州)の懷舊紀事あり、福地櫻痴居士(幕府)の懷徃事談田邊蓮舟居士(幕府)の幕末外交談あり、今は亡き人ながら松平春嶽(越前)の自ら書きて遺しゝ逸事史補もありけり。想ふに今後も猶おひ〓〓に出づらん。速記して新聞紙雜誌に揭ぐる實歷談に至りては現に其の夥しきこと斯の道に專ら從事せる者だに讀み盡し難きばかりなり。あはれ老人前途の短きを自覺して、彼の英雄時代に於けるおのが壯時の功業をば永く世に傳へんとは急ぎけるにや。將た明治の維新も既に三十年を經て正に一代前の事としなりぬれば、當時を知らぬ今の人々の昔を忍びて英雄談を聞かんとは慕ひけるにや。德川時代の始にも、世は次第に戰爭に遠ざかりて太平の境に入りてより、某の覺書誰の聞書あるは夜話雜話家記合戰記なと取り〓〓の名をつけて、覺束なき筆もて綴り家康と直彌
し隨筆めきたる記錄多く出でゝ今も世に殘るなり。亂世實歷の翁が年若き輩に聞かせ或は子孫に傳へんとて記せしなりけり。さては近年維新の實歷談多く出づるも洵にめでたき太平の象なるにや。吾等これに依りて文書の上に得難き事實事情を識り得て後學の益を享くる所淺からず。凡そ社會萬般の人事文書に載せられて後世に傳はるもの、時世の治亂、文化の隆替に山りて多少の差あり。維新前後の如き之を其の以前の時代に比すれば、遺れる史料乏しとせざれども、猶一身一家の危害を避けんがために自ら密書を燒棄して跡を晦ましたるあり。革命破壞」の風潮に連れて今は前日の書類を無用物視し、惜げなく之れを破毀して顧みざるあり。之れに依りて京都江戶を始め全國各藩內に在りし無量の書類多くは散亡して、現存せる所は僅に其の一小部分に過ぎず。今是等の遺書を開するに、時の眞相を窺ふに足るべきものは表に現はれし公文にあらで、時の人々が秘密に徃復せし私書に在り。一覽後火中なと紙尾に認めたる秘東にはわきて內部の眞面目を徴すべし。政治の公開を旨とせる今日すら或る種の秘密行はれて、隱微の魂膽裏面に伏せるものあるを、况して奮時の秘密政治に表裏實歷談の差別ありしは怪しむに足らず。表面の事實のみを看て裏面の意味を穿たざれば、解釋し難き事件の多かりけるは、當年の史を讀む者の均しく感ずる所なり、醫へば彼の元治元年京師に亂入せし長州人は若し勝たば何せん心なりしぞや。長門守の軍令狀をば具足櫃に藏し置きし國司信濃の腹の底には如何なる奥の手ありしにや。慶應三年將軍慶喜が頻に兵庫開港の勅允を請ひし眞相も薩摩の外交上の秘密を識らで解せらるべきにや。抑も此の二强藩が主として幕府を倒して王政復古の鴻業を遂げしも、時運の然らしむる所とはいへ其の辛苦經營の程は尋常一樣に非す。之れを想像するに餘りあれども亦其の混亂紛擾の裡に在りて勢力を占めし手段に至りては、必ずしも正々堂々の道のみにあらで、虛々實々、權詐の術を運らしたるは證跡あり。强者の强を成す者、强ち君子の道のみにあらで、智術暴力も其の素因たるは論なし、さては大義名分の裏には非大義非名分なかりしにや。盡忠報國の裏には私利私情なかりしにや。天誅の裏には私怨の殺人なかりしにや。日本國の爲といふよりもおのが一藩一家を重んぜし事實なかりしにや。例へば文久二年島津和泉(久光)か唱へ出だしゝ彼の德川家の五大老を家康直弼
設けんとの一議は、其の頃は更なり(逸事史補を看るべし)今も尙其の心事を疑ふ者あり。寺田屋騒動の後、田中河內介父子をば大阪より舟に載せて海上に慘殺し口なき死人と爲せし眞意はいづこに在るや。彼の長人亂入後の達書にも、元來長藩人名を勤王に托し種々の手段を設け人心を惑し候故信用致し居候者も有之などゝいふなり。人心を感はしたる種々の手段とは何ぞや。事實聞かまほしくこそ。斯る類の疑問一々枚擧すべからず。而して其の實事の遺書に見えたるもあれど、今は既に其の書の亡せたるもあるべく、又筆に上らぬ事素より多かるべし。之れを打明けて文書の缺を補ふは實歷ある遺老が晩年の餘業として史界に寄する美擧なるべし。されど是れ迄出でし多くの實歷談を讀みて吾等頗る失望あり。實歷談の二種一は事實を主として語れる者にして、一は評論體に述べたる者なり。壯年激〓の熱醒めて今は沈靜の老境に入り、開化せし思想もて往時閱歷の(八二二)實歷談時代を論じ、我身の出處進退につきてさへ其の成敗利鈍を評するは、いとも興ある事共にて、淺からず世の〓訓とは爲りぬべけれども單に歴史の上より言へば、維新前後の事は今猶卒爾に評論し難し、評論の根據となるべき事實に誤れる者、異僞の疑はしき者、並に隠れたる者多ければなり例へば安政五年の春堀田備中守假條約の調印に就き敬虚を何はんとて京に上りて失敗せしは何故ぞや。京都に攘夷論熾なりしが故なりと言ふは唯表面論なり.いつの世たりともさばかりの理屈のみにて錯雜せる大事の成敗は决せじ.あはれ備中守の一行京師の事情に通ぜずして機宜の手段を誤り瑣細の事より痛く公卿の感情を損ぜし事實あり。又公卿の間にあやしき猜忌心あり。同じ仲間の鷹司東坊城など堀田より大金の賄賂を取れりと騷き立てたりしも、其の實必ずしも〓淨潔白の心より出でしとは覺えず。今度之事首尾能爲遂候はゞ必堀(堀田)は一萬石之御加增なるべく川(川ニ路左衛門尉)岩(岩淵肥後守)は大名になるべし彼等の爲に神州を幣には出來不中と例之正論家憤激致居候(昨麥紀事)とは其の頃京なる橋本左內より江戶なる中根雪江の許に贈りし書中に見家康と直弼
ゆる所なり。此の邊の妙なる嫉妬心こそ年來貧苦に沈める公卿の眞面目なるべけれ。堀田の使事成就せざりし原因は其の舊臣依田百川翁が述べつるが如き淡泊の次第にあらじ(國民之友に在り)。若し堀田にして今一段の思慮ありて京都を制するの措置宜しきを得たらんには、後日違勅の名なく所謂安政の大獄をも見ずして、早く假條約の調印を了すべかりしものを、徒に其の策を誤りて反對の氣焔を高くし、開國難をして益困難に陷れしは措しむべき事其なりけり。其の眞事實の徴すべき文書は猶世間に現はれざる者あるが如し。折柄公卿の間に攘夷論の沸騰せし所以も、京紳眞に攘夷の得策なるを信ぜしのみにあらで、其の心術に裏面の意味ありしは疑を容れず。此節堂上列侯共心口强弱を異にし表裏虛實を互にする之時節(昨夢紀事と三國大學の言へるにても想像すべし。さては彼の强硬なる八十八人の公卿も後には過半心を動かしたりとは聞えし。所司代酒井若狭守上京して梅田源次郞を捕へ始めしより、京紳中第一に變心せしは宮中の諸葛孔明とたゝへられし三條前內大臣實萬なりといふ。孔明さへ斯くの如し。其他の人々實歷談に確乎たる定見ありしや否や。時の事情に由りて動くは古今人生の常にて、今日主義にて進退するといふなる政治界にも、事情の力に主義の動かさるゝは常に眼前に見る所なり。此の事情には微妙に純れたる行懸りあり、をかしき程に些細なるありて、之れが爲めに大事の敗れたる例史上に乏しからず。仔細を究めでは大事も其の眞相を論じ難かるべし。又蓮舟居士幕末外交談を叙して「事實に顯る〓」所に據りて結論して曰く、幕府には外交のことなしたゝ朝意を奉じ鎖攘をはかりて遂げざるの蹟のみと。頗る大膽なる論斷にして自ら一見識ある說と稱すべし。然れとも幕末十數年間に於て其の施設したる外交上の事業を通じて悉く其の論斷中に容るべきや。醫へば安政元年米國と和親條約を結びたるは如何。同じく四年米國官吏ハルリスに登城謁見せさせしは如何。同じく五年假條約に調印したるは如何。慶應元年將軍家茂退隱を賭けて條約の勅許を得たりしは如何同じく三年將軍慶喜の頻に兵庫の開港を奏請したるは如何。是れ皆其の「事實に顯る〓」ににてて國に歩を進めし件々にして、之れをしも朝意を奉じ鎖.家康と直弼
攘をはかりて遂ざるの蹟といふべきや其其他他小事件には此の類の事實多し。盖し當時幕府の地位を〓觀せば、外よりは開國の大勢迫り、內よりは尊攘の大勢迫りて、其の中間責任の塲に樹ちしと覺り。隨て其の施設せし所も一方には國外の大勢に應じたる實蹟ありて、一方には國內の大勢に應じたる實蹟あり。之れを詳論〕せんには長き紙面を要して且つは本題外に涉るが故に今は姑く之れを擱くも、實際幕府の所爲に斯る兩相ありしは掩ふべからず。さるを蓮舟居士の如く一偏に論じ去るを得べきにや。吾等惑なき能はず。然りといへとも是れ亦恐らくは表面論ならん。實歷ある蓮舟翁には必ず深き事實の論據あるべし。明〓を給はらば幸甚。因に云ふ居士には彼の水戶前中納言の有名なる御廟算伺書をは「餘りに迂疎膚淺の論」なりとて其の書の眞僞を疑へるが如くなれど、當時前中納言より大老老中に宛てゝ贈りし自筆の本書今も殘りて井伊家に在り。平素短簡類の豪放なる筆勢に似もやらず。いと謹直に書き認めたり。眞面目の程は明らかに墨痕に見えたり。是れ迄世間に流布したる同書には字句の誤多し。水戶の舊臣內藤恥叟翁のものし〓安政紀事に載せたるには、殊に誤謬の多きぞ惜しむべき實歷談要するに維新史につきては評論敢て不可とせず、各々見る所を述べて世に公にするは史界の繁昌なれども、亦當時混亂の間に錯綜せる事體を審にし、深く表裏の意味を辨ぜざれば、空しく九上論に陷ることあり。史論の時代は未だ熟せずやあらん。今は事實を確めんこそよかるべけれ。精鍊なる想像力を以て文外の意味を洞觀するは史家當然の任なれど實歷家にして能く文外暗裏の事實を明白にせんには、また史家の想像を要せずして更に史料の區域を廣むるを得ん。故に吾等の遺老に聞かんと欲する所は其の實歷の事件にして常時の遺書に漏たる所に在り。實歷の範圍されど其の實歷といふは何れの邊までを指すべきや。先づ左の三段に分つを得ん。第直接の實歷(自ら關係し若しくは自ら實見したる事物)第二直接傳聞の實歷(自ら關係し若しくは自ら實見したる人より口家康と直弼直接の實歷(自ら關係し若しくは自ら實見したる事物)直接傳聞の實歷(自ら關係し若しくは自ら實見したる人より口或は書を以て傳聞したる事物)間接以上に涉れる傳聞第三
言ひ足らぬ邊あらんも測り難し。第一直接の實歷中自ら關係したる事件にも人々に依りて其の關係したる區域に大小あり。關係したる度に深淺あり。何の趣意とも知らで上命の儘に動きし塲合さへあるべし。又其の實見せし所にも自ら廣狹精粗ありて中には見誤りもあるべし。一〓に信じ難けれども、大凡此の範圍內の實歴は先づ確實として信を搆かざるを得ず。次に直接傳聞の實歷は其の傳聞の際に誤なきを保せず。聞誤りといふ事世に有勝ちの例なり。且つ當時は多く使者を用ゐて双方の意を通じたるより、往々其の傳達の中間に於て聞違を生ずる塲合あり。之れを第一の實歷に比すれば史證の力弱けれど、猶直接實歷の人より直接に聽取りし所なれば第二に信を措きて可なるべし。第三に至りては直接の實歷者と傳聞者との間に近きは一人を隔つるあり。二人を隔つるあり。間接間々接の程は尙可なり。其の距離漸々遠ざかりて、極は中間幾人の口を經たるや識るべかちず。轉々相傳へて次第に眞を失ひ、終に全く虛說を觸らすに至る。秘密政治の世體にて感情激〓の時節には珍しからぬ事なり。若し當年公武確執の史を取りて出處さへ知れぬ流言の如何に先帝の聖聽を驚かし奉りしやを吟味せば思ひ半に過實歷談ぎん。加之斯る虛傳のために罪なき人の慘殺せられしは幾何なるを知らず。若し當時暗殺を行ひし浪士の意中に入りて其の狼藉に及びし心術を解剖せば、必ず多少虛說の分子を含まざるは無かるべし。勿論流言とて一〓に退くべからず。漏るまじき密談のいつしか漏て誰いふとなく世上の風說と爲りて傳はり、事實亦掩ふべからざるの例證尠からず。縱し亦風聞に言ふ所實際無根の事なるも、さる風聞の行はれし事の事實ならんには、之れに由りて當時の情態を察するの一史料にも供すべし。所詮間接以上に涉れる傳聞の實歷は必ずしも拾べからざれど、よく〓〓詮議せでは受取り難き節多かり、實歷談中史證の力尤も薄弱なるものと識るぺし.斯くて多くの實歷談を覽るに、凡そ上に言へる第一第二の範圍に止めて猥に其の區域を擴げざるもあり、第三の範圍にまで及びて無實の浮說をも事實として語るあり。加ふるに當時に聞こゆべき筈なき事をも聞きしやうに言ふあり。又當時に」思ふべき筈なしと覺しき事をさへ實に思ひしやうにいふあり、今日新聞紙なと盛なる世と違ひてさる報道の機關なき舊時代には、世間萬般の出來事も多くは人の口より聽くにあらざれば文通に由りて知家康直弼
るより外なし、同じ藩に奉公せる身にても普請奉行は勘定奉行の事を多く知らず。目付役の內密は、戶戶戶役に漏れず。志士周旋の身も幕府の機密は容易に識る能はす。同じ幕府に出仕せる人にても外國掛の者は將軍大奥の事なと特別の通路なくては聽くを得ず。江戶と京都とは東西百里を隔て〓事情輙く通ぜず。藤州と奥州、加賀と長州など猶更なり。有志家の中軸と聞えし人々さへ來年の運命測り難き世にしあれば、况して一局一部の事に與かれる人々の耳に入りし所は推して知べし。其の頃幕府を始め各藩にも順に諸方に探索者を出だして內情を偵ひしも、猶暗中に物を探るの姿ありて互に疑惧の情を脫する能はざりしは明白の事實なり今も雷名轟きたる遺老の中に自ら探索に出でし覺えある人あるべし。要するに當時傳聞の分量とては存外狹きものなり。天下の事乃公悉く知れるが如く言ふは如何にぞや。櫻痴居士の懷徃事談は小册子なれと、流石に此の邊の事情にや注意しけん。甚しき浮誇の談も見えず。傳聞の事實も確實と見るべきをのみ取りて、語りし人の名さへ一々示せりと覺ゆ。實歷談としては好き書なりけり、實歷談實歷談何に據れる平夫れ實歷とは凡そ斯くの如しとして、さて三十年前維新前後の時代に於て斯る實歷を有せる遺老が今日三十年後に於て人に聞かせんとて其の實歷を語り出づるには、第文書第二記臆の二つに據りて談ずるの外なかるべし。勿論文書など取調べずして口に任せて語れるが多かれと、一部の書として公にしたるには文書をも調査したりと見ゆるものあるなり。當時の遺書に基づける談は單に記廳に據れるよりも確實なり。警へば安藤對馬守に狼藉を加へし浪人共の懷中にしたりし斬姦趣意書には事實を誤まれる廉多く、書中の記事は多く對馬守には事實ならねども、之れを起草せし大橋訥庵はじめ一味の浪人輩がさる無實の事を眞實と信じたりしは事實なり。故に此の間の辯別さへ誤らずは、斯る粗誤なる文書も固より必要の史料たるを失はず、堀織部正の對馬守に呈したりといふなる漠文の僞書とても亦然り。其の頃には爲にする所ありて斯る類家康と直弼
の僞書を作りし例往々これ有り。甚しきば僞勅をさへ作りて厚顏はるあり。文書悉く信ずべからず、所載の事實亦悉く信ずべからざれど、其の世に成りし文書ならんには、縱し僞書なりとも尙僞書として一個の史徴と爲すべし。况や確實なる文書に於てをや。無形の記臆に至りては然らず。久しく歲月を經ては腦底の印象次第に薄らぎ行きて、記臆の散失記臆の混雜記臆の錯誤など誰も免かれざる所なり。勿論よく〓〓『考へては忘れし事をも想ひ起すべし。遺老の元氣今も頗る壯にして吾等の感服する所なれど、いか程强記の人たりとも三十年前の事歴を一々明瞭に記臆せんは限りある腦力の能くせざる所なり。口惜しくも打忘れたる事ども多かるべし。ありし事件の年月日を忘れ勝ちなるは更なり。其の人の容貌は紀念すれど其の人の名を忘れたるあるべし。同じ連續の事件中にて或る事は覺えて或る事は忘れたるあ實歷談るべし。事の前後して順序の亂れたるあるは尙可なり。申の人の振舞をば乙の人のにしたるあり。去年の事をば今年の事に打ち混じたるあり。非常の苦痛は終意怠れわと先づは因ぜしずを忘れて得意なりしを配するは人常情なり。記臆に偏頗あること否み難かるべし。是故に單に記臆に基つける實歷談には吾等をして疑を懷かしむる者少からず。既に前節に述べたる第一直接の實歷に於て此の記臆の缺點あり。况や第二第三の他人より傳聞せし事に於てをや。新聞紙雜誌なとに掲げたる一塲一夕の實歷談に別きて此の不備ありと覺ゆ。大隈伯の昔日談は事實よりも評論を主としたる其の評論にさへ頗る整はぬ邊あるは夙に一讀したる者の感ぜし所なるべく事實に至りては猶甚だ粗畧の觀あり。公言し難き秘密あるべけれど、今少し精確ならんには壯快の議論も更に道健なるべしと思はる。一例を擧れば、彼井伊が水戶浪士の毒手に斃る〓や閑叟は大に驚きたると同時に大に失望したるもの〓如し其時隱居して佐賀に歸り左右に圖らず藩吏に〓げず私に軍艦に搭じて鹿兒島に至り齊彬に會して深く相談する家康直弼
所ありしとも言ふとあり。關叟の驚きしと失望せしとは確に事實なり。されど齊彬は既に櫻田騒動の前々年、安政五年の七月十六日に病死したれば、いかで閑叟今更亡き人に逢はんとて鹿兒島に行くことやある若し行きし事だに眞實ならんには是の時にあらで、其の所用も他の用なるべし。若し又この時眞に行きしならば齊彬に逢はんとて行きしに非ず。全く齊彬の卒せし年月を忘れたるより起りし誤謬にてそれより閑叟死人を訪問せし奇談とは爲りけるなり。强ちに各めんとには非ざれと、斯る見易き事實に和違あるは惜しき事共なり。吾等の合點の行かぬ英雄談怪談談名名はは數々實歷家より聽聞せさせらるミ所なり。實歷談實歷談有の儘ならず抑も既に維新前後に相應の實歷を有しても、爾來三十年間の經過に於て其の記臆に缺點を生じたること正に前節に述べしが如し。然るに猶更に遺老をして其の實歷をば少しも變ぜすして原形の儘に語るを得ざらしむるあ〓第一精神上の變化第二現世的情實是れなり。嘉永六年ペルリの來りし年、十五歲の弱輩も今は六十二歲の白頭翁と爲りて、此の間社會の變化は實に別天地の觀あり。藤田東湖吉田松蔭等が慷慨悲憤の談論に感激して夷狄追ふべし、神州汚すべからず、幕府の好物斬るべしなどゝ熱中せし豪傑、當年誰か今日の日本あるを斯せんや。三十年前攘夷の餓鬼大將と爲りて御殿山の外國公使舘に放火せしと聞えし野蠻の武者、今はおのが住家さへ洋風にしつらひて、西洋品もて充たせる室中に起臥し、羅紗フラン子ルに包まれて輕暖を喜びやがて舞踏をすら催して急進の歐化主義と世に噂せられし開化の翁と爲りけるとは豈亦驚くべき變化ならずや。西洋輸入の憲法政治に總理大臣となりて昔し大原三位の靑侍と爲りて江戶に下りし狀を回想せば如何の感あるや。我が國二千五百年の史上に於て此の時期に生き渡りし人々ほと一生の中に大なる變化を遂げし實例はあらじ。身外百物の變化は固よりにして、其精神の變化の大なることも問は精神上の變化現世的情實康と直測
で識るべし。壯年血氣に馳せて思慮を缺ける言行の老いて後悔の種なるは古今人生の常なるが上に、今日思想感情の大に變ぜし眼を以て往年の行跡を顧れば、必ず妙ならざる者尠しとはせざらん。是に於て已に自己の判斷に於て失策亂暴粗忽頑愚などゝ見るべき事蹟あり、隨て抱腹忸怩慚悔の念々多かるべし。乃ち是等實歷の記臆縱ひ現在明白に存すとも之れを包ます飾らず有の儘に語りて世に公にするを得べきにや、且つ爾後多年の思想感情の變化に因りて、記臆に存せる實歷を變形せし所これなきにや.試に尊王攘夷の件に就きて述べんに、此の二主義は明治の維新に結局一成一敗に歸して、內は朝運隆々の世となり外は開國進取を旨とする世と爲りければ、勤王の功名談は得々として吹聽せられ、事實誘張の嫌なからずやとすら見ゆるあり。思ひも寄らぬ邊より三十年間姿を隱し〓勤王の英雄現はれ出でゝ贈位の榮典にさへ預かるめでたき時世とは爲りたれと、攘夷の段に氣もとは如何に許氣質の老翁なりとてへ自も猶は往年の排外說をなりと思ふ人のあるべきやは。勿論勤王說のみにては果して德川を倒す力ありしや否や。恐らくは攘夷說加はりて幕府を窮地に陷れずは勤王說の成實歷談就も覺東なかるべく二者相待ちて維新の偉功を奏せしに相違なしとは見ゆれども、攘攘夷の爲に痛く我が國權國利を害して明治の日本に永く巨禍を貽しゝは明白の事實なり。此の損害を加へし一分子たりし豪傑等時勢一變しておのれ明治の世に政機を把るに至りて之れが爲に苦き經驗を甞めて終に全く其の損害を償ふ能はざりLは誰も知る所なり。加之惜き一代の英士を喪ひしもの乏しからず。役人放火强盗詐欺恐嚇などあらゆる亂暴を稼ざし事實は書中にも人口にも傳はる所なり。惑亂時代には斯る軌道外に逸出するの所業あるは避くべからず。今の上品なる遺老にさる野部なる行跡ありしや否や一々識らざれども、其の同藩士或は同志者に斯る振鮮ありしを實見せしことあるべく、又傳聞せる所あるべし。而も之れを同士の不名譽として世に語るを躊踏するの實あらぬにや。若し今も攘夷主義の世ならんには放火强盗も大に功名談として吹聽せらるべきものを進步せる精神は既に自ら之れを不面目と見て今更眞實を曝露するを許さヾるべし。且つ維新前後の時代は現世としては既に遠きが故に早くも歴史觀を爲すに至りし趣あれと、亦過去としては尙近きが故に現世的情實の大に存する家康と直弼
所あり。裏面に伏せる暗黑談は時めける遺老自身の信用に關すべく、現代のオの爰父部友等の遺過を數きて葉中の人の面目を損し現代の人々しとせざる所を表白するは情に於て忍びざる所なるべし、胸襟開豁の大隈伯すら、國務の秘密は政治家の漏洩す可らざる所にして他人の過失は君子の宜しく隱蔽すべき所なり故に世人の最も聞かんと欲する所は伯の今に明言するを欲せざる所なり(大隈伯昔日談の學堂居士序文)と聞えぬれば、さる現世の情實勝ちて時到らざる間は亦已むを得ずといへども、之れがために大に實歷談の眞價を减ずるは否むべからず。福翁自傳にも明治十四年政府大騷動の事を語りて、十四年の眞而目の事實は私が詳に記して家に藏めてあるけれども今更ら人の忌がる事を公けにするでもなし默て居ます(時事新報)とはいふなり雜新前後の事實にも入の是がる事をきは誠るべし。之れを要するに實歷談に尙ぶ所は文書に顯はれざる裏而の事實に在るを、一は遺老が精神の變化に由り、一は現世の情實に由りて、明らかに其の記臆實歷談に存せる所をも蔽ふの跡あるは疑ふべからず。是の故に多くの實歷談を覽るに事理を語りて事情を語らず。名義を述べて眞意を述べず。必然の事を語りて亂世に有勝ちの偶然を語らず。先見を談じて暗中の昏迷を語らす。言行一致の外相を談じて矛盾の實相を談せず。表の美しき舞臺を見せて樂屋の醜面を見せず。二重三重の幕は明けても最後の一幕を明けず。若し地下なる同志者をして其の甚しき自己中心談を聽かしめば大に不服を訴ふべしと思はるゝものあり。是れ吾等が一讀の間に折々感ずる所にして、深く實歷談の爲に遺憾とする所なり。夫れ實歴其の物に於て既に悉く信じ難き所あり。次に其の實歷の記臆に於て種々の缺點を生じて誤謬を增し、更に前述の二事情に依りて尤も趣味あり尤も眞相を窺ふべき事實を掩蔽せらる。是に於て實歷談に尙ぶ所の價値果じて幾何なるや。吾等は終に其の史料たるに於て重量の甚だ輕からんことを惜しむなり然れども是れ將た今は已むを得ざることなるべし。せめては福澤翁の如く書き遺して家に藏め置かれんとこそ望ましけれ。やがて世に貴重なる遺物と爲らん。春嶽は殊勝なる人なりけり。家康と直彌
多海江田子爵の實歷談終りに及びて本論の實證として子爵の實歷談を引用せん。談話は載せて本年第二號の太陽紙上に在り。近ごろ吾等が讀みし實歷談中最も杜撰と見認むる者の一なり。素より玆には其の一斑を言ふのみ。一、尤も信を措くべき直接の實歷に信じ難き廉ある例。西〓京都より内勅を懷にして水戶前中納言に傳へんとて江戶に下る。子爵西〓に而して其の內勅の寫を見る。西〓小石川の邸に至りて家老安島帶刀に逢ひて前中納言の之れを受けんことを談ず。安島聽かず西〓意を得ずして還り、子爵をして京都に上りて其の內勅を返上せしめしといふ。以上の事件に於て內勅の寫を見たると、內勅返上の使者たりしとは子爵直接の實歷なり。其の內勅といふは先年公になりし子爵の實歴史傳に全文を載せたり、安政五年八月八日朝延より幕府と水戶とに下したる勅読と同一の書なり。其の內勅の西〓の手に達せし手續は子爵明示せざれども、前後の模樣に依りて察すれば、近衛左大臣より僧月照を經て違せしが如し。而して西郷の之れを(六四二)實歷談江戶に持下りし月日は子爵また明示せざれども、七月の末より八月の初に懸けての事と見ゆ。即ち朝廷の發せしより以前の事なり。然れども八月八日以前に斯る內勅をば朝廷より下し〓事實は何の書にも見えず。又子爵の外に之れを言ふ人あるを聽かす。當時さま〓〓の事情を綜合して考察するも、容易にさる事あるべしとは覺えず。八月八日の勅詫は未發の間は京都にでも極めて秘密にしたる由、世古恪太郞の銘肝錄にも見えたり.八月八日後には公家の人々より綠邊の諸大名に勅諚の寫を贈りて、鳥津家へも近衛家より通ぜし事實はあれど、是れ將た朝廷より達せしといふに非ず.盖し八月八日勅諚の草案は三條前內大臣の許に成りて、近衛左大臣も素より同志の事とて其の議に與かりしに相違なし。其の頃西〓は島津齊彬の密旨を受けて京に在ハ。常に近衛家にも出入せしかば、左大臣より月照等の計ひもありて其草案をば西〓に內見せしめし事はありしやも測り難く、又之れを水戶に下すに就きて、西〓をして豫め江戶に下りて水戶の意向を探らせたる事はありしやも測り難し。子爵の言へる内勅の奉書とは是の草案書家康と直〓
をいへるには非ざる平。果して然らんにはいかめしく內勅下賜など、謂ふべき事件に非ずして唯近衛家の計ひて私に其の草案書を西〓に與へ、之れを以て水戶の內意を測らせたりといふに過ぎず。さるにても旬日後には鵜飼幸吉の齋らしゝ勅諚をば喜びて受取りし安島帶刀が西〓の持參せし同一の內勅を受くるを肯ぜざりしといふは何故ぞや。安島は西〓を信ぜざりしにや此の邊もいぶかし.要するに子爵の言へる內勅一件に子爵自身に直接の實歷ありと謂ふとも、更に精確なる徵證を聽くに非ざれば、吾等の之れを信ずる能はざる所なり。又安政五年の事の條にそれでは早々關白家に伺はうと言つて、開白の處へ踏込んだ」こあり。此の關白家といふは近衛家の事なり、されど其の頃近衛忠〓は左大臣にて關白となりしは五年の後文久二年六月廿三口の事なり。さるに安政五年に「關白家に伺はう」など言ふべき筈なし.是れ子爵直接の實歷なるに猶斯る怪談を語るなり。三(変夜五星六月廿四日井伊精律頭を松平惣倚ずとの對該同日押將於ける營中の模樣、同月廿三日廿四日兩度掃部頭と一橋慶喜との對話等の實歷談件々は、子爵直接の實歴なきは固より、直接你聞の實歴さへもあるべき筈なし.若し當時之れを傳聞したりとせば、子爵の耳に達せし迄には幾人の口を經しや測るべからず、然るに子爵は實歷談に缺くべからざる此の傳聞の由來を明示せざるが上に、猶おのれ自ら其の實境を經見したるが如く語りて、双方の間符の音速ま(兒ながら芝居の楽園を聽くやうに可ふ〓へば頭と越前守との對話の狀を語りて、春嶽公は「時に掃部頭に今口限りの御論を致す、兎角一橋公と云ふものは明君である、紀州の十三歲の子を出しても後見が要る、目の前實地役に立たぬ、將軍公は誠に明君である、これも御病氣の所でござれは今日實際外患內憂の事に就て事の出來る人は一橋公より外ない其事は貴方如何思召す、速かに御同意をなさるゝが宜いと思ふと云ふ事を論じた、掃部頭は「御尤でござる、委細心得てござる、「それならは今日直ぐ登城致されて今日御決しなされ、「さうは行きませぬ、さう决するものでない、春嶽公は「貴方は御大老の職として一橋公に御同意なされ將軍公に於ても一橋に同じ御趣意である天天の御趣意も左樣である、貴方は大老家康と直剛
としてそれを知る殊に御同意の上で今日决せられぬと云ふは何か、左樣の事ならば辭職なさいと云ふと、掃部頭が怒つて、左樣ならばと言つて直ぐに立つた、それを袖を持つて、「御待ちなされと留めたけれども、それを振り拂うて奥へ行つて仕舞うた、それから待つて居つたけれども出ても來ず、殘念千萬である、とはいふなり。斯る明細の事までを誰より傳聞せしにや。勿論傳聞にても誤なくは可なれども、其の事實相違の甚しきには一驚せざるを得ず。越前守の掃部頭を訪ひしは六月廿四日の朝にて、翌廿五日には三家溜詰を始め定例の面々登城せさせて養君發表の式を行ふ運びと爲り、前日其のよし諸向へ達するの手筈なりしかは、越前守は未だ其の達示を受取ざる以前に朝早く家を出でしとは見ゆれども、蚤天岩瀨肥後守より中根雪江に贈りし密書(昨夢記事)に依りても已に明日養君發表の事あるを識れるは明らかなり。故に是の日越前守の大老に面談せし所は、假條約調印の違勅と養君發表の延期との二件にありしは、逸事史補昨夢紀事並に井伊家の遺書に散して明らかなり。この日掃部項には四ツ時(凡そ今の午前十時)前、表に出でミ書實歷談院に於て先客なる牧野備前守に逢ひ、次に大書院に於て松平越前守に逢ひ四ツ時三步過には既に出駕せしかば、越前守との對話の時間は雲時の事にて凡そ今の二三十分に過ざざる程と覺しく、長談の暇なかりしは識るべし。對話の次第も越前守先づ假條約の事を言ひ出で〓次に養君の事に及びしにて、其の輕重を言へは前者よりも後者に重きを置きしは前記の諸書に徵して疑あらず。其の意全く養君の發表を延期せしめて更に第二の挽回策を運らさんとするに在りしなり。さるを越前守肝心の延期談に入りて間もなく大老この日の出仕刻限(四ツ時)來りしかば乃ち對話を切上げて坐を辭して立ち出でしなり。然るに子爵の實歷談には假條約調印の件は一切これ無く、養君の件も延期を談じたるに非ずして唯一橋を養君にせん事を談じたるなり。而して掃部頭の之れに同意したりといふに至りては奇怪も亦甚し。掃部頭夙に紀州說にて大老就職後も將軍の意を承けて力を盡し、既に先例に據りて朝廷の內慮も伺濟となりて、今は念明日公發とまで捗取りしものをいかで越、前守の言に靡きて今更初念を翻して一橋說に同意する事やあるべき。斯る事は今日殆ど喋々辯ずるの要なし若し子爵にして當時眞に斯家康と直弼
る事を傳聞したりとせば、是れ實に傳聞の實歴といふものミ信を措くに足らざるの一的證なり加之子爵は之れを傳聞の談として語らずして、直に之れを事實として語れり。されど子爵は固より此の事件に直接傳聞の實歷をすら有する人に非ず然らば何に據りて語りしや。若し文書に據れりとせば其の所栽の事實の眞僞を辨別せずして徒に謬妄の文書を信じたるなり。然らざれは子爵終に自己の想像に由りて當時對話の狀を作爲せしには非ざる平、吾等頗る疑なき能はず。何となれば子爵の言へる如きは吾等未だ何人よりも聞かず、又未だ何の書にも見ざればなり。是に至りては實歴談も遂に一の小說たるのみ。事實を主とすべき歷史の本領を脫せる實歷談は取るに足ざるなり。斯くの如くは畢竟文書の缺を補ふに非ずして文書を擾亂するものなり。掃部頭と一橋慶喜との對話に就きても亦然り。子爵は直接關係のある人に非ず、傳聞にても轉々相傳はりて風說に聞きしに過ぎざるべし而も宛ながら實境を經見したるが如く語る頗る我が意を加へて作爲したる跡あり。事實に於ても大に誤れり。例へば慶喜の大老に對而を求めしは前日の事なる實歷談を、子爵は即日對面したりと語れり、假條約調印の件に就きて大老「私も同樣に印を押しました」と答へしといへと、假條約には大老は勿論老中も印を押さず。井上岩瀨の兩人花押を署したるなり大老いかで斯る言葉のあるべき。又大老「間部下總守を上京致させます」と言ひしとあれと、間部は是の日老中に任ぜられたるにて、其の上京の事は未だ確定したるに非ざれば大老固よりさる事いふべき筈なし。盖し此の慶喜と掃部頭との對話の一條は子爵全く昨夢紀事に揭げたる一橋の近臣平岡圓四郞の談話に基づきしか。然らざれば內藤恥叟翁の編せし安政紀事に載せたる平岡圓四郞筆記(昨夢紀事にあると同意同文にて唯字句に些の相違あるのみ)に基きしは更に掩ふべからず。彼此一讀して兩者の類似忽ち瞭然たるを識るべし。さては子爵は當時實歷ありしに非ずして近年彼の書に據りて識りたる所をばおのが實歷談I.として流れさなりはつ平岡圓四郎は書が主人を西城に支進らせんをの如く奔走周旋を盡して-事既にならざるに决せしかば憤歎殆ど血を嘔く計に惱亂せし」(昨夢紀事)と現在を見たる中根雪江の言ひける程の男なれば、彼れが一偏熱情に出でたる言に偏頗矯飾の太甚しきは之れを讀みじ、家康と直弼
者の識れる所なり。一々之れを辯ぜんは煩しければ玆には省きつ。子爵は何の辨別も無く其の言ふ所をば凡て事實と信じたるなり.加之間部上京抔の事は圓四郞の言にすら之れ無きを、子爵は何を以て斯る無實の事を語れるにや。三、其の他事實を誤れる者猶甚だ多かり。傳聞の誤乎。虛說を信ぜる乎"記臆の混亂錯誤乎。二三例を擧げん。梅田源次郞を酒井若狭守家臣といへど、源次郞は身修まらで小濱藩より暇を取らせられ、京に出でと浪人たりしなり。家定將軍の薨去は安政五年七月なるを六月と言り。水戶に下りし勅諚をば、其儘將軍家の方へ差出した」と云へど、始めより之れを小石川の邸に納めて幕府に差出したること無し。隨て「水戸の景山公の奥樣が御心配で其勅說は水戶公の方へ又取返して有志の方ヘ御渡しになつた」などゝいふ事夢にも無し。越前公は押掛けて登城し其時將軍公に御目に掛らうと言つて出た」と言へと押懸登城の節將軍に見えんと言ひしは尾張中納言なりけり越前にあら實歷談じ「齊彬公も一橋公を立つるは宜からうと云ふ御趣意で、天子には其邊の建言を致されてござります」と言へど、其の頃は未だ諸大名直接に天子に建言すべくもあらず。安政五年正月六口齊彬より近衛三條の兩家に內書を贈りて、一橋を養君と爲すべき內勅を下さん周旋を求めたり。之れを天子に建言とはいへるにや。吉田寅次郞が間部下總を途中で刺すなど〓云ふ事で、吉田とは私も西〓も出會名育由を發表さはれでも注を處が分らなからた而部も衆狀なく致した」といへど、間部の上京は安政五年九月にして、其の時吉田は長州に在り。長州に居ながら中仙道を登れる旅客を刺さんとは亦怪談なるかな。吉田が實際間部を刺さん念を起せしは十一月の初めで、其の六日彼の「家大人玉叔父家大兄」に上る訣別書を作りしなり。其の頃子爵は既に下りて鹿兒島に在り。後にて吉田の刺客一件を傳聞せしやは知らざれと子爵が猶西郷等と共に京に在りし間には、吉田にさる企なきは勿論、子爵も斯る事を聞きし理なし。それを京にて聞きしやうにいふ。無善の太甚しきなり、「吉田を尋ねた」と家康直刺)
は何時何處の事にや。猶々いふべききふし多かれど、以上の論證に依りて畧子爵の實歷談の價値も知れたりと覺ゆれば是れにて已みなん。嗟乎實歷談を語らん人、心せよかし、實歷談を聞かん人、心せよかし。近き頃一友人の來りて世に維新の僞實歷談あるを識らずやと吾れに〓げしありけり。(六五二)實歷附〓雜纂第一期(明治二十一年より同二十五年に至38其一東京專門學校學生の時代活潑(明治二十三年二月二十一日)何をか活潑と謂ふ。銳敏なる運動の現象是れなり。或は一の運動より他の運動に移る間の快迅なるに存するあり。或は同一の運動を續くる間の快迅なるに存するあり。故に或は遲きより速きに轉ずる間に起るあり。或は速きより遅きに轉ずる間に起るあり或は其速きを續くる間に起るあり或は遲きと遲きとの間に起るあり。啻に然る而己ならず、靜止より靜止に移る間にも起るあり。斯の如くして或は高きより卑きに下り、或は重きより輕きに移り、或は小より大に移り、或は閑より忙に移り、或は穩かなるより暴きに移り、或は浮て沈み、沈みて又浮き、或は進みて退き、退きて又進む、凡て是等變轉の間の現象苟も銳敏なるものあらば、是れ即ち活潑なり。而して一旦其敏捷なる運動を始めて、後尙其現象を績くれば、其間常に活潑存す、之を要するに活潑は〓ね速きに伴ひ、輕きに伴ひ、銳きに伴ひ、忙きに伴ふ。而して之れ唯有形の運動に存するのみならずして、又無形の運動にも存す。才の利大なるを知らば、才の害亦大なるを知らざるべからず。惡の大小は才の高下に從ふ。活潑も亦然り善く之を用ゐれば、進步を驅るの快鞭となり、沈睡を醒すの良劑となり、多々益々之を用ゐるに從ひて其利益ミ大なるべし。吾れ固より人事悉く活潑に由りて成る附錄(七五二)
と言はず。されど活潑も亦人生成業の運動に於て一の最大要素を爲すは疑ふべからず。若し夫れ誤りて之を用ゐん乎、輕躁となり、放逸となり、巧言令色となり、憤怨暴橫となる。夫の古來滔天の惡逆を企てゝ遂に其身を殺すに至りし者を見るに、往〓活潑の妄用に起れるあり。失れ活潑は心にも存し躰にも存す。然れども心の活潑を起さずして躰の活潑を起すを得ず。口目の活潑も、手足の活潑も、皆之八心の活潑が是等の機關を透して現れ出でたるのみ。心は本にして躰は末なり。彼の樊噲の胸中凛々たる義勇の活火燃えて、鴻門の會に頭髪上り指し目毗盡く裂く。ガンベツタの胸中滔々たる愛國の熱血沸きて、悲憤の雄辯口を〓り出づ。ナポレオンの胸には戰略舞ひ、石川五右衞門の腹には盜畧踊るc以て一は奪國に汲々たり、一は奪物に汲々たり。老爺疎懶の壯夫を警めて曰く、汝須らく活潑なるべしと。主人遲動の奴僕を叱して曰く、汝須らく活潑なるべしと。友人其同朋の倦惰を諫めて曰く、君須らく活潑なるべしと。是實に吾人が數々聞く所なり。然れとも是れ實に無理なる注文なり心機活潑ならざるものを責めて、手足2の活潑を求むるは、猶豚に鞭ちて千里を望むが如し。故に躰の活潑は心の活潑より來る。されど心の活潑は必らずしも躰の活潑を起さず。試みに夫の大文學者を見よ。夜更け人定まるの時に當り、一室に兀坐し、九に凭りて沈思默考するや、其想像の及ぶ所、天地を極め古今に亘り、魂飛び魄往く所廣大深遠。而して會と興情勃然として起り來るや、忽ちにして鬼神を現し、忽ちにして妖魔を〓き、忽ちにして極善、忽にして極惡、忽ちにして愛樂、忽ちにして怨怒、忽ちにして絕壑、忽ちにして深附錄〓忽ちにして虎嘯雷吼、忽ちにして花蝶優笑、凡そ自然界も人造界も、皆之を胸中方寸の間に縱橫自在に運轉し、或は無より有を現し、或は死を將て活と爲し、或は無形を變じて有形と爲し、或は無聲を轉じて有聲と爲し、或は美なき中に美を出し、或は愛なき中に愛を出し造化の凾微を聞きて秘密を顯はす。嗟乎、是時に當り彼れが心の活動果して如何ぞや何物の活潑か能く之に及ばん。されど是時彼れが體は目閉ぢ口を閉ぢ、僅かに動けるは呼吸の山入あるのみ。自ら我手足あるを忘れ、自ら我體あるを忘れ、宛然唯兀たる一種の不動王。而して其絶大なる感念が一たび現れて絕著傑作となるや、天下百代の讀者をして恍惚自失感嘆する所を知らざらしめ、而して其魔力的活潑が彼不動王の胸中に起りて、以て彼をして其百代の實を生むに至らしめたるに想ひ及せば、實に手足の活潑も其價を失ふを覺えしむ抑深江は聲なく淺水は喧しじ斯の如くして人〓ね以爲らく、深沈の士は活潑ならずと。然り一見應さに此の如く見ゆべし。されど是れ淺見たるを免れず。見ずや彼の大海の艨艟を遙かに之を望めば、徐々として進み、遲々として道ふ。然れども近づきて之を見れば、宛然たる一大海城、儼然として奔波を踏み怒〓を蹴り、猛然として直前急進すっ何物の活潑か之に如かん。深沈の士實に斯くの如し。彼れ或は木强漢なること有らん。從て或は手足の運動輕妙を缺くことあらん。されと彼の胸には慥かに磐石横りて活火其上に燃ゆ。縱し常に燃えざるも、物に觸れ事に感せば忽ち炎々として燃ゆべき導火を藏む。而して其燃ゆるや彼の木葉の如く忽ち燃えて忽ち消ゆるにあらずして、實に金鐵の燃ゆるなり。故に其實に手足の活潑も其價を失ふを覺えし附錄(九五二)
熱は能く岩石を鑠かし、其光は能く隱微を照す。若し夫れ斯る凛々たる活力なくして唯深沈なるものは、異に遲鈍の深沈なり。斯る痴漢固より齒牙に懸るに足らず。彼は實に輕躁たることすらも能はざるものなればなり機の來去は其間髪を容れず。勢の消長は其跡極めて隠微なり。深沈の士唯能く之を知る。而して斯る疾來疾去の機を知り、密消密長の勢を察するは、豈活潑ならずして之を能ぐすべけんや。速に動くものは速かに眼を動かさずは之を視る能はず。密に藏るゝものは深く眼を注かずは之を視る能はず。されと又輕しく眼を動せば遂に其形影を失ふ。夫れ已に機の來るを知り、勢の成るを知る。是に於てか電光の如く、疾風の如く、雷鳴の如く、奔流の如く、决然として奮前勇進、之に乘じ之を制し、或は正或は奇、或は虛或は實神出鬼沒の技を以て進退勝敗の運を决するは、是れ亦剛毅果斷の士之を能くす。然れとも剛毅果斷も活潑の伴ふにあらざれば其用を爲さず。否寧ろ活潑に非ざれば剛毅果斷たる能はず。眼を轉じて、夫の輕敏の才子を見るに、彼れ實に活潑なり。口能く走り目能く轉じ、手能く動き足能く運ぶ。其心の活潑固より知るべしされど此徒一たび事變に逢はん乎、其平素の活潑は忽ち變じて機時の狼狽と爲り、錯亂と爲り、心氣先づ死して手足復た爲ず所を知らず。遂に一土偶と化丁す。若し遲鈍の深沈と伍を爲すを得ば幸なり。子は妓樓に幇間といふものあるを聞く。されど予は幇間は必らずしも妓樓に限らずと思ふ予は慥に世に社交的幇間と名づくべき賤夫あり、政交的幇間と名づくべき卑漢ありと信ず。此徒又頗る活潑にして、能く蹈諛の辯巧〓の行を以て人の意を迎へ、以て己れの利階錄を貪る。而して胸中一片の節操なく定見なし。特に政交的幇間の如きは、政機の運轉を妨げて反て之を助くる爲ねし、毒を一國に流して尙功名を貪らんとす。其害の及ぶ所虎狼も啻ならざるものあり。嗚呼、斯る活潑をば何といふべきぞ。活潑に階級ありとせば、是れ實に最も卑むべき下等の活潑なり。されば何をか高尙の活潑といふ。良心の命ずる所に從ひ、曲利の存する所を避け、以て其活潑を决す。是を之れ高尙の活潑といふ。苟も此範圍を脫せざる限りは、其有形なると無形なるとに拘はらず、活潑は美德を進むるの大助となり、正利の無盡藏となる。抑も斯の如くして活潑を用ゐざるものは、是れ實に人間の進步を自棄するの暴者なり賊徒なり。其生涯は只表愚の墳墓に向ひて進まん耳。是故に善を爲すに活潑ならざれば遂に君子の域に達する能はず。過を改むるに活潑ならざれば遂に小人の域を脫する能はず。古人曰く君子は義に喩り小人は利に喩ると予も亦曰はんとす、君子は義に活潑にして小人。は利に活潑なりと。良友慕ひ來るものは、友情を盡すに活潑なるものなり。身を水火の危に投じて人の急を救ふものは、義に勇むに活潑なるものなり德を進むるに活潑なるものは、人之を尊重し、信を持するに活潑なるものは、人之を敬愛す。若し如何なる雄辯家と雖も、其一言一句具誠の胸より出でたるにあらずは其舌の活激は、會〓己を害し人を害し兼て世を害するに足るのみ。又如何なる剛勇者と雖も、其一擧一動苟も義俠の肝勝より出でたるにあらずは、其氣力の活潑は、害悪の種となるのみ。多智者も然り。達文者も然り。凡そ一藝一技に活潑なるもの皆然り。一事一行を企てゝ活潑たらんと欲するものも亦皆然り附錄(一六二)
世に競爭の熱度增すに從ひて活潑の必要亦愈增す。活劇の社會、生存競爭の世、汲々として勝利を求むるに活潑ならざれば、遂に人後に瞠若たらん。ざれど徒らに其活潑を重んじ、遂に正路を離れて橫徑に入り、正道を去て邪道に入る如きは、寧ろ活潑なくして失敗に安んずるに如かず人の財を盗みて萬金の富を作るも何の益か之れあらん。人を苦めて我快を取るも何の樂か之れあらん。嗚呼、活犬は死獅に勝る。眠れる巨人は働ける侏儒に如かず。活潑豈重んずべきにあらずや。されど龜の兎に勝つことあり。言はざるは言ふに勝ることあり。活潑豈輕しく用ゐる可けんや。人は實に有形に、も無形にも衣を着るなり。有形の衣は以て裸躰を覆ひ、無形の衣は以て裸心を覆ふ。之を覆ふが故に一方に於て能く裸躰の醜を隱すと同時に、又一方に於て裸躰の美をも合せ隱すなり。裸心亦之と同じ。若し夫れ此衣を脫ぎて有の儘に出でん乎、美醜一時に露れ出でゝ、其真相復た隠れ無し。夫れ斯の如く彼我共に無形の衣を脱して裸心を暴露し、以て裸心裸心と相接觸して能く和合離るべからざるの域に達せば、是に於てか知己の交成る。試みに有形の衣を見よ。小兒の時には飾多しと雖ども、大人に至るに隨ひて飾は漸く减じ去る。されと無形の衣は全く之と相反す。小兒の時には無彩鮮明、夜た一點の之を飾る無く、潔麗梅花の如く、玲瓏玉の如し。畢竟無垢の裸心の外部直に其衣を爲せるのみ。衣既に裸心の一部たり、故に彼は寧ろ裸心の儘に出FA錄知「](明治二十三年四月)人誰か裸躰を以て人の前に出でんや。之と同じく又〓ね裸心を以て人の前に出でず。故にるなり。彼は未だ衣を着るを知らずと言ふも可なり。故に彼れの醜は直ちに醜と露はれ、彼の美は直に美と露れ、其醜美皆自然に山づ。されど大人に至りては重着の衣、矯飾邪飾して塗抹の跡千熊萬狀、容易に其裸心を暴露せず。故に外衣の美は必らずしも裏心の美に一致せず。裏心の醜巧みに外衣を以て隱す。夫れ斯る衣を着て世に出で人に交る、而して其對者は亦均しく斯る衣を着て之に接す。嗚呼、此間に成れる交際唯夫れ衣の擦合のみ。矯飾は矯飾と相接し、邪飾は邪飾と相接し、心には非として口には是とし、心には笑ひて口には譽め、腹劍は口密を以て隱し、妬心は笑渦を以て包む。而して人皆恬として之を愧ぢざるのみならず反て其服美の言行を喜ぶ。若し偶〓摩合ひし外衣を脫ぎ來れば、交際益〓親密に進むべきに、却て相彈却して疎遠となる。天下薄情の友義滔々昔是れなり。抑も又人は其爲す所の異るに從ひて必らず異なる友を有す故に人若し五種の能あらば必らす五種の友あり。十種の能あらば必らず十種の友あり。されば左に文友と手を引きて右に政友と腕を交ふるあり。外には職友と和接して内には學友と相接するわり日には詩友を招きて夜には酒友を呼ぶあり。朝には数友と共にして夕には棋友と共にするあり。然れとも是れ皆其爲す所好む所を均うせるが故に唯共に爲し共に好めるのみ。故に人若し一朝貧苦の窮境に陷らば、先きの富友は再び其傍に往かず。人若し學業を卒へて千里の外に行かは、先きの學友は彼れに一信を送るの愛を盡さず。己れ先づ壯健の身と成らば、忽ち同病相憐みし心を忘れ、己れ利を得れば、先きに利を共にせんと誓ひし者を忘る。盖し一技一能は人身の附纒物たり。此附經物を同じくせるより友となるものは、唯其物のみに於て姑附錄(三六二)
らく友たるなり。其物去れば其友義も亦共に去る。一時の逢遇を均うせるより友と爲るものは、猶旅中の路伴の如し。各行くべき所に行かば、遂に別れて識外の人となる。知己の交は豈斯るものならんや。ら盖し始めは或は其業を同じくせるより膝を接するもあらん或は其地位を均うせるより肩を並ぶるものあらん。而して互に衣を被りて相交るならん。されど漸く其交接の日を重ぬるに至らば、時に外衣を透して裡心の眞相を現し來り、遂に彼我の意氣相投じて相互の信心共に生じ來らん乎、乃ち互に全然外衣を脫去して明かに裡心を現し、秘密の鍵を開きて本然の醜美を明す。斯に至らば我は我たらず、彼は彼たらず、我の彼に向ひて言ふ所は、猶我自らに向ひて言ふと同じく、彼れの我に向ひて言ふ所も、亦猶彼自らに向ひて言ふと同じ。我秘密を漏すも、敢て秘密を漏すに非ずして、唯一箇の秘密の囊を二人の共有と爲しこのみ、秘密の領分は依然として變ぜざるなり。彼れの我れに秘密を明すも亦然り。彼我を愚と爲すも我敢て怒らず。我彼を譽むるも彼敢て傲らず。縱ひ彼は我に不義を爲すも、尙我は彼が外に向ひて義を爲さん事を欲し、我若し彼を舍てゝ他に厚うすることあるも、彼は敢て我を怨みず。盖し是時彼は我の客たるにあらずして、畢竟彼も我と共に主人たるなり。即ち二人相合して一人の主人となりて他に厚うするなbc故に彼は敢て我の待遇に不滿を抱かざるなり。思ふに此深厚の友城に至らは、彼等は己に職友として交るに非ず、位友として交るに非ず、技能の友として交るに非ず、遊樂の友として交るに非ず。勿論斯る關繫なきには非ず。されど之れ末なり。彼等は實に人間として交るなり。故に職業の異同等彼に於て何か有らん。境遇の異動彼等に於て何かあらん。(四六二)附錄偶〓互に反對攻擊の地位に立つも、彼等に於て何かあらん。雲天千里の遠きを隔つも、彼等の心機は日に相通ずるなり幾年の久しき相逢はざるも、彼等の交情は毫も冷えざるなり故に縱ひ彼等は相離れて孤寂人到らざるの地に在るも、人間の行旅に於て毫も寂莫を感ぜざるなり。如何に離間の甘言入り來るも、其親和の力を別つ能はず。陥利の諧言入り來るも、其互信の力を緩むる能はず。貫育の力も此無形の鎖を斷つ能はず。龍泉太阿も此無形の綱を斬る能はず。彼等は遂に一塊となりて墓所に向ふなり。是を以て之を觀れば知己は偏立するものに非ずして双立すべきものなり。若し我れは裡心を露はして行くも、彼は尙外衣を經ひて之に應ぜん乎、是れ假面眞面と相接するなり、豈同氣相引くこと有らんや、豈同情相感ずること有らんや。而して縱ひ偶ミ兩々裡心相接するに至るも、偏僻頑陋の心は其間を隔離して反撥破裂せしむ。盖し斯くの如きものは始めよりして到底知己のの境域に達する能はざるんし6鳴呼、知己何ぞ其れ求め難きや。千里の馬は伯樂と逢ひ難し。宜なる哉古來知己得難きの嘆多きや。余甞て謂へらく、知己を得んと欲せは、我先づ我知己たれと。盖し知己は大に我れに逆ふものに非ざれは、大に我に順ふものなり。而して其順逆は一に誠愛の赤心より出づるものなり。故に我能く己れを知らざれば、彼かぜ耳の忠言も我は之を甘受する能はざらん。却て詔言耳を喜ばしめ、飾行心を樂ましめん。斯の如き間豈知己の交成らんや。餡言飾行は知己の交間に容れられず。嗚呼、卒然道路に相逢ひて放言高論以て一時の快を取り、僅に面識の交成りて已に一見舊の如しと爲し、以て揚言して曰く、附錄(五六二)
(六好知己を得たりと。小善は大譽し、大道は看過し、而前に畏れて背後に笑ひ、汲々として一言一行も逆はざらんとし、一擧、動動喜買はんとす。斯の如き友を得て喜て曰く、我良知己を得たりと。相接すること兩三回、未。だ互に心識の境界に到らざるに、早く既に彼が後來屬望の一言を聞きて曰く、彼は實に吾が畢世の知己なりと、嗚呼、知己其れ果して斯くの如きものなる乎。若し果して斯の如きものなりとせば、演說會の聽衆も知己ならん、討論會の味方も知己ならん、語依家も知己ならん、僞善者も知己ならん、皷舞の策言も知己の言ならん、御世辭も知己の言ならん。斯の如くならば知己は天下に充滿せん。古人何を苦みて知己難得の嘆を發せしぞ。此頃成ずる所あり一言以て辯す。故〓(明治二十三年夏)其土に生れて其土に老ゆるもの今の世に尠し、多く去て客子となる。是に於て乎彼等皆各〓故〓を有す。故〓を有する人の最も多く鍾るは、東京に如くはなし。此地實に異〓の客の逆旅たり。故に或は故山を東に思ふものあらん、或は故苑を西に念ふものあらん、或は南を望みて〓信を待つものあらん、或は北を望みて〓友を招くものあらん。懷〓の視線常に四方に向ひて發することならん。此滔々たる客子、果して何種の人に多き平。吾れ先づ指を學生に屈す。試みに一步門外に出づれば、陸續たる行人の間に、絕えず學生の眼に觸るゝを見る。彼等〓ね皆地方より來れるものなり。單身笈を負ひて〓關を山で、來りて此處に身を學海の風濤に投ず。面友は〓(明治二十三年夏)附錄限りなく得らるべしといへとも、心友の極めて得難きは都會の交際の常なり。是に於て彼等豈學閑に際して思を故郷に走せざるを得んや農夫一歲の勞は之を秋に收む。是に於てか冬藏の樂期來る。學生一歲の勞は之を首夏に收も。是に於てか暑中休暇の快期來る。是實に學生が舊學年の苦を慰むるの時なり。而して又更に新學年に上るの勇氣を養ふべきの時なbc然らば此過渡の幸期、如何して之を越ゆべき乎。嗚呼夫の學閑に故〓を懷ひし情を舒ぶるは、豈洵に是時に非ずや。是時に常り、故〓は我の歸るを待てり。故〓は必らずしも錦を著て歸るものゝみを歡迎するにあらず。今日未だ錦を着ずといへとも、他日錦を着ん望ある者をも喜びて迎ふるなり。而しで又其天眞の景と多愛の人とを以て、我を慰め我を勵ますなり。學生たるもの是時を除きては、復た歸〓の好機あらざるべし。而して歸〓を除きて、復た是時を過すの良案あらざるべし。宜なる哉、今の學生社會に、此休時を以て故〓に歸るもの多きや。然れども彼等故〓に歸りて何事を爲すや。吾固より能く之を知らず。顕ふに彼等は故郷の安樂國たり、休養所たるを知らん。然れども彼等は徒らに茅屋に退居せんが爲めには歸らざるべし。又徒らに北窓の眠を貪らんが爲には歸らざるべし。然らば彼等果して此樂地に如何なる消夏を爲す平。漠然として歸り漠然として又去る、斯の如くは豈歸〓の甲斐あらんや。啻に然るのみならず、若し夫れ都人多飾の風を誇りて、其純然素朴の美風を嗤ひ、愛を受けては之を煩とし、義を盡されては之を愚とし、質を化して文にせんとし、實を化して華にせんとし、恰も都風移植の使者たるが如きの業を爲さん乎、是れ實に彼等が故〓の賊な附付錄(七六二)
顧ふに今の學生斯る歸〓を爲すもの多きりに非ざる乎。具に故〓を愛するものは、决して斯る歸〓を爲さゝるなり。何をか眞の故〓を愛すと謂ふ。曰く、故〓が己れを愛する儘に愛せらるゝ、これを之れ眞に故〓を愛すと謂ふなり。父母兄弟我を愛し、親近知友我を愛す。其愛たるや毫も飾りなく、又毫も妬みなし。皆其衷情より溢れ出でたるものなり。夫れ斯る温篤なる愛を供せらる、何ぞ喜びて之を受けざるを得んや。我喜びて之を受くれば、彼れ亦喜びて之を給す。滿腔の愛之を供し盡すにあらざれば安んぜざるなり。而して尙我の滿足を買ふ能はざるを恐る。嗚呼斯る愛裏に身を措く、何の樂しきか焉れに如かん、何の喜か焉れに如かん。抑學生の身にして、斯る眞實なる愛を、此紛然雜然たる客地に受くるを得べき乎。されば偶〓故〓に歸るもの、何ぞ安じて此愛に薰せられざる。斯愛に畫せらるゝは、斯愛を遂げしむる所以なり。其愛を遂げしむるは、其質實の美風を長ぜしむる所以なり。然らば其愛に任せて愛せらるゝものは、即ち眞に其故卿を愛するものと謂ふべきなり。其愛せらるゝは、啻に故〓に利あるのみならず、我にも亦大利あり。蓋し魔遇は人を造る。田舍は田舍人を作り、都は都人を造る。如何に都風の人を腐らすを惡みて之を退けんと欲するも、身己に都にあらば、焉んぞ知らず識らずの間に、多少其都風に浸染せられざるを得んや。而して多少都風を携へて故〓に歸り、歸りて身を彼の深愛塲裡に投じて、其淳朴なる薰化を受くれば、乃ち初め機へ歸れる都風8日の移ると共に之を脫却して、漸く田舍の氣風に染まん。是故に都下の學生にして、都風に薰染せられたるものけ、一歲に一たび歸〓を企つれば、(八六二)附錄乃ち其質朴なる感化を受けて、以て彼の優柔巧獪の風を治するの大助とならん。若し又能く都風に犯されざる者にして歸〓せば、乃ち益々其精神を鞏固ならしめん。且又故〓は、啻に人界質實の氣風を以て歸郷者を化するのみならず、又天然の景致を以て之を化す。夫れ學生は其精神高尙ならざるべからず。其志氣壯大ならざるべからず其特操强健ならざるべからず。然れども之をして然らしむる所以のものは、能く之を東京に求むるを得べき乎。盖し東京は天下の大成者の淵藪なり。夫の所謂精神高尙たり、志氣壯大たり、意氣强健たりし結果として、今日天下に大業を成し大名を成したるもの、此地に集れり是故に一たび是等の人に接すれば、則ち高尙壯大强健の感化を受くるを得べきなり。然れとも此は人爲の感化なり。更に天然の感化を受くべきものある乎。東京には高尙なる景なく、壯大なる觀なく、又强健なる風なLo眼中に入り來るもの、皆小刀細工のみ、皆俗觀のみ。隅田も俗川たるに過ぎず。品川灣も俗海たるに過ぎず。名勝といふも、偶々以て心を腐らすに足るの地のみ。是故に苟も天然の感化を受けんと欲せば、之を東京に求むる能はざるなり。是に於て乎、歸〓の要生ず。古人曰ずや、山水の人を化するもの、豈正人賢士に異ならんやと。天然の感化力の大なること亦以て知るべきなり夫れ故〓其地を異にするに隨ひて、其天然の勝も亦之を異にすといへども、山川湖海の勝、綠野森林の景、何をか之を有するの地なからん。假ひ之を有せざるも近く之に接するを得ん。决して東京の如く天然の〓勝に綠遠く不自山なることあらざるべし。是故に一たび歸〓して其景勝に接し、或は日夕之を眺め、或は時として之れに遊べば、其精神をして高尙ならしめ、其志附錄(九六二)
氣をして壯大ならしめ、·其意操をして强健ならしむること、决して彼の天下の名士に接して其蕭陶を受くるの効に讓らざるべきなり。况んや其山水も林野も、皆嘗て我れが遊び我れが愛せしものなるをド。〓に歸り一見忽ち舊知の感起り、之を見ること恰も〓友に接するが如し。而して夫の山水も林野も、皆其高尙なる姿、壯大なる容、强健なる貌を放ちて我れに見ゆ。而して言はずして我を化し、動かずして我を〓へんと欲するが如し。之を思へば其自然に我を愛すること、豈親近知友が我を愛するの深きに讓らんやじ嗚呼自然の〓友我を愛す、我好て之に愛せらる、豈亦快ならずや盖し之に愛せらるゝは、則ち我精神を高尙にし、我志氣を壯大にし、我特操を强健にする所以なり抑も是れ亦具に故〓を愛する所以の一と謂ふべし、若し夫れ斯る山水林野も之を眼眸に止めず、徒に雲畑過眼視し去りて、有れとも無きが如其髙尙、壯大、强健なる態度を取りて己れの精神を涵養するを力めず、身酒々落々たる故〓に在るも、俗臭紛々たる都下に在ると異ならず、徒らに卑俗を趁ひて浮華を街ふが如きことあらん乎、歸〓の功夫れ焉くにか在るc眞に故〓を愛するものは决して斯る歸〓を爲さゞるなり。嗟乎、都下に住する學生の多數は、一たび其故〓に歸れば、彼の人爲の眞愛と、天造の眞愛とを兼受することを得べし。之を小にしては以て舊學年の苦を慰して更に新學年に上るの勇を養ふべく、之を大にしては以て將來大成の氣力を養ふを得べし。靑年學生安んぞ故〓に歸らざる、安んぞ故〓に歸らざる時は夏炎心を蒸すの候なり。地は人炎心を腐らすの都なり。斯る時に斯る地に在ること、彼の腦髓をして常に滿々たらしめ、酒々たらしF付錄むべき靑年學生に取りては、吾れ其極めて不可なるを感ず。若し夫れ去て其故〓に歸れば、暑は相同じといへども、地は豁かに、氣〓く、涼味を帶ぶる風は毫も汚氣なく、人穏かにして世靜なり。都に在ると其差如何ぞや。靑年學生須らく故〓に消夏すべし。然れども徒らに故〓の地を蹈まんが爲めに歸る勿れ。又徒らに故〓の飯を食はんが爲めに歸る勿れ。歸らば宜しく故〓特有の利を收む人し6故〓に懷かれよ。故〓に抱かれよ。此處には人爲の眞愛天造の眞愛散布せり。必ずや故〓を嚇す勿れ。故〓を振はす勿れ。而して其優美なる高雅なる感化を受け、再び京に上るの日、其淳風を携へ來りて之を都に播き、以て都風をして田舎風に靡かしめば、是豈靑年學生歸〓者の一大快事ならずや、一大美事ならずや。演說を以て言文中和の一手段とすべし(演說草稿明治廿三四年の頃)近比言文一致の聲低くなりたるが如し。是れ遂に其目的を達する能はざるが故なる乎、將た進歩間の一頓挫なる乎。兎に角時に山りて其聲に高低大小あるも、實際言文一致に趨くの傾向あるは、今日復た疑ふべからざる事なり元來言文一致は言文不一致の反動たり。均しく同一の思想を顯すに、言を以てすると、文を以てするとに依りて、大に其形を異にす。故に言語を以て其儘文章と爲すべからず、文章を以て其儘言語と爲すべからず。彼を此に變じ、此を彼に變ぜんには、常に之を各特種の形に變改して、一種翻譯の勞を執らざるべからず。其不便不利不都合極めて大なり。附錄(一七二)
啻に然るのみならず、我國の如き古來久しく言文の相別れたる所に於ては、從來の聞慣れに由り、又作り慣れに由り、言語には言語特種の妙味を存し、文章には又文章特種の妙味を有したり。然るに言文不一致の際には、勢ひ言語を文章に變じて、言語特有の妙味を失はざるを得す。又文章を言語に變じて、文章特有の妙味を失はざるを得ず。言語不一致の損亦尠少ならず。是れ漢學盛に行はれて、漢文躰の文章大に行はれし時代の有樣なり。是に於て平言文一致の聲起れるなり。然ちば其懸離れたる言文を取來りて其一致を圖らんには、如何すべき乎。假りに言文を兩極端に安けば、果して何れの點に於て之を一致せしむべき乎。言語は舊地位に置きて、而して文章を引寄せ來りて之に合併せしむべき乎0或は之に反して文章を舊地位に止めて、而して言語を引寄せ來りて之に合併せしむべき乎。抑も兩極端より引寄せ來りて之を中央點に相合せしむべき乎。今の世に所謂言文一致は何れに在る乎。讀賣記者甞て言へりと覺ゆ、言文一致は言文の折合なりと。予も實に此意を賛す。是れ即ち予が所謂兩極端より引寄せ來りて之を中央點に相合せしむるの意と同一なり、苟も斯くせん乎、言語は言語の特趣を取來り、文章は文章の特趣を取來り、之を調和し、之を料理して、以て兩つながらの長所を合併せる言文一致を作るを得べきなり。故に予は言文一致といはんより寧ろ言文中和といはんと欲す。是故に言語を變じて文章に一致せしむるは、固より實際に行はるべき事にあらずといへと8も、是極めて不可なりと斷言せざるを得ず。又文章を以て言語に一致せしむるは、即ち世の言文一致主唱者が取りし方針の如くなりしといへとも、是れ亦不可なりと斷言せざるを得附錄ず。是を以て予は言文各其長所を採り、而して一方の短を補ふに他方の長を以てし、以て兩種の長所を合して言文中和を圖るを主唱するものなり。夫れ已に斯る言文中和の方針を取るとせは、談話を爲す時、文章を作る時、常に其意を以てすべきは勿論なり。然れども演說も亦最良手段の一なりと信ず。抑言語を以て思想を表すには、大凡二種の別あり。一は他と相對し兩々互に發言して、以て其間に己れの思想を表はすものにして、談話議論等之に屬す。他の一は主として己れ發言して己れの思想を顯はし、他をして之を聞かしむるものにして、演說講義落語等之に屬十。されば演說も言語を以て思想を表はす方法の一種にして、即ち公衆の前に出でゝ、己れの意見を開陳し、以て公衆に訴ふる所以の辨舌たり。之を通常の談話落語等に比すれば幾分か高尙なる性質を具へ、而も其秩序の整齊せる者たり。今試みに談話と文章とを兩端に置きて之を比較せん乎。同一の思想を表する、一は難に之をいひ、一は易に之をいふ。是れ其の差の存する所なりといへとも、抑亦一は其秩序の整齊せると、一は其不整勝ちなるとも亦其相違の存する點たり。是を以て之を觀れば彼の演說は、言語を以て思想を顯すの點に於ては談話に類し、其秩序の談話よりも整齊せる點に於ては文章に類す。乃ち之を談話と文章の中間に位せりと謂ふべく、又兩端より寄り來りて相落合ふに最も便利なる點と謂ふべきなり。故に彼の言語の不整齊なるを改めて之を文章の如く整齊なる言表はし方に進め、又文章の六ケしき言ひ方を變じて言語の如く易く言ひ表はすには、則ち彼の兩極の中心點なる演說に於て之を中和し之を調理すること、予が欲而も其秩序の整附錄(三七二
する言文中和を實行するに於て最良方便なりと信ず熟ら今の世の中を見るに、已に文章の上にては言文中和の狀を呈せるものあるを見る然れとも言語の上にては、言文中和の狀未だ文章の如きに至らず。故に言語の上にて此言文中和を行はんには、先づ演說を以て之を爲すを良しと考ふ。嗚呼言文中和は至難の大業なり。固より一朝一夕の能く行ひ得べき所にあらず。其絕對的に中和するが如きは、是れ望むべからざる事なり。然れども子は言文中和の洵に大利あるを信するが故に、予は深く言文中和を希望するものなり。而して今の世言文中和の傾向あるを見て、深く之を喜ぶと同時に、世の識者は益此傾向に鞭たれんことを切望す。而じて世の演說に從事するもの、又吾人の如き將來演說に緣あるものは、之を以て言文中和を實行するの一方便とし、言語の上にて言文中和を實行するの一手段とせんことを望む。斯くいひながら予が演說の拙く、言文中和の實を行ふ能はざるは深く愧づる所なり。(四七二)附同〓の恩人某氏に呈する書(明治二十四年三月十二日)謹て閣下に白す。昔者新井白石の大志を抱きて、身尙一价の窮措大たりしに當りてや、河村瑞軒其材を奇とし、所藏の書を假して彼が〓學の資に供し、以て彼が冲天の翼を張らんとせし力に大助を與へたり。是れ傳へて以て美譚と爲す所なり。生が不肖固より白石壯歲の材に及ぶ能はざるべしと雖も、閣下〓に某先生は、實に生が河村瑞軒たり。其材白石に及ばずして、而も白石と均しく瑞軒の恩に逢ふ。生が多幸果して如何ぞや。今日の世白錄石の世と相異なる天壤の差も啻ならず。而して生が未來に於て爲さんと欲する所、固より白石が爲しゝ所と同一ならざるべしといへとも、彼が壯歲雄大の志に至りては、生も亦敢て必ずしも彼に一步を讓らずと信ず。唯夫れ彼は既に其志を成せり。而して生は未だ之を成さず。彼は既に瑞軒の變識をして誤らざらしめたり。而して生は未だ生が瑞軒をして、生が成功の祝聲を發せしめず。生と彼とは、唯此點に於て異なるのみ。嗚呼、其志を成すと否とは、一に生が將來の如何に繫れり。生が恩人をして、成功の祝聲を發せしむるは、又一に生が將來の如何に繫れり。生豈悠々漫然として徒過すべけんや。况や生が衷心は、實に他日能く大成して以て、其天下國家を益するの點に於ては、彼の白石をも凌駕せんと欲するに於てをや。又况や生が瑞軒をして、其鑒識の低かりしを悔いしめんと欲するに於でをや。深夜儿に凭りて之を想ひ回らす毎に、躍如として將來大望の志胸中に舞ふ。更に翻りて我國政界の口に非なるを思ひ、陰險巧詐の邪雲世を掩ふを思ふに到りては、益〓生が正義愛國の念を皷舞して、憤慨の熱情勃々として禁ずる能はず。躍然として進み出で、滿腔の熱血を注ぎて、國家正義の爲に力を盡さん乎。未だし、未だし。時未だ生が頭に到らず。養ふ所未だ足らず。學ぶ所亦未だ足らず。大なる希望は大なる準備を要ず。今に於て大なる潜勢力を貯ふるに非ずは、他日大なる現勢力を發揮する能はず。念ひ此に至りて又沈然書を讀み、文を作る。生や斯くの如きもの數々なり。抑生が自ら負ふ所斯くの如し。而して加ふるに閣下及某先生を始め、幾多の恩人朋友の囑望を以てし、又〓里なる老母の孤懷、常に領を延べて一日一年の如く、生が成効の日を竢附.錄(五七二)
つの切なるを以てす。生如何に勉めざらんと欲するも豈得べけんや。而して今日生が當さに勉むべき所は、唯深く養ひ厚く蓄へて、胸中の包藏を豐富にし、以て他日天下の經綸を〓策するの基礎を作るにあるのみ。是故に生は今日實に生が爲すべき本分を盡すに汲々として、常に日も是れ足らざるを恨めり。若し夫れ學ぶ所の道を誤り、養ふ所の方を違へん乎、番に生が素望を達する能はざるのみならず、幾多の愛深き囑望者をして、失望の嘆聲を發せしむるに至らん。是に於て乎生の罪夫れ果して如何ぞや。啻に白石の笑を買ふのみならず、瑞軒も亦閣下等の不明を笑はん。一合書生學ぶ所以の道、豈大に思ひ、大に謹まずして可ならんや。是に於て生は今日實に修學の方法に於て一大改革を行ふべき運動を試みざるべからざるの機に際會せり。生が一身に取りては事極めて重大なり。其行止に由りて生が涵養の効果に大なる影響を與ふ。故に豫め閣下及び某先生〓に阿兄の賛諾を經ざるべからず。一大改革何事ぞや。曰く、今に及びて東京專門學校を去り、潜かに退て獨學自養せんと欲すること是なり。事固より深き仔細あり。生大に述べざるべからず。抑飜て思へば、閣下〓に某先生の高助を得て今日〓究せる英語政治科に入りしは、實に昨年九月に在りき。然るに爾來未だ半年餘を經しに過ぎざるに、心を變じて學校を退かんとす。閣下之を見て輕躁と答められん。忍耐乏しと責められん。而して閣下の怒に觸れんことは、生が尙に深く恐懼する所なり。されと關下暫く忍びて生が言はんと欲する所を聞け。生豈淺思速慮にして之を謂はんや。又豈〓妄りに無謀の失擧を爲さんや。竊に苦考すること月餘、深く利害得失を量り、屢次深夜枕附錄に就きて沈思を運らし、遂に今日の如き不完全なる私立學校に在るよりも、寧ろ獨自潜養の〓學大利あるを悟り、爰に叫びて之を閣下に訴へんと欲するに至りしなり。今具さに其事由利害及び運動の情况を陳し、以て閣下の高裁を仰ぐの資に供せんとす。仰ぎ願くは、閣下忍びて一讀の榮を賜ひ、以て生が微夏の在る所を察し、閣下の寛大を以て生が欲する所を成さしめんことを。學校の內狀外局より遙に之を望めば、盛大なるが如く、完全なるが如しといへとも、更に內部に入りて之を視れば、今日私立學校の不完全なるは、到底大に驥足を伸ばさんと欲する士の〓究所に適せざるなり。勿論生は普通學科を〓授す。る私立學校を、必しも不完全なりとは言はず。又彼邦語を以て老練の師が法律等を講授する私立學校を、必しも不完全なりとは謂はず。されど生等が今日〓究せるが如き洋語の專門科に至りては、都下幾多の私立學校中錚々の聞ある我東京專門學校に於てすら、實に不完全極れり。就中最も不完全なる點は〓師なり。凡そ〓師たるものは、第一に學術經驗兼備せるを要し、第二には熱心懇篤なるを要す。然るに生が今日修むる英語政治科には、斯る良〓師は殆とこれなし。幼稚の〓師に非れば、冷淡なる〓師なり故に種々の大家の說を參酌じ、之を縱橫自在に實地に應用し、以て生等が如き專門學を〓究する生徒に滿足を與ふる〓授は、·到底彼等に望むべからざるなり彼等に博涉の說を聽かんと欲するは、猶ほ田舎の井蛙漢に歐米の實狀を聞かんと叩くが如く、又猶ほ疲駿に千里を責むるが如し。二次に聊か生等が課業の方法に就て述べざるべ例へば政治學にはブルンチユリーのからず。附錄(七七二)
國家論を用ゐるが如く、經濟學にはホーセツトの經濟學を用ゐるが如く、皆其學科に應じて一定の〓科書あり。〓師は其受持の書に就き、豫め適度の紙數を限りて、生等をして前習詰記せしむ翌日に至りて生等〓塲に出れば、〓師は其前習諳記せし所の事實を擧て之を生等に問ひ、生等は乃ち其問に答ふ。斯くの如くして漸次步を進めて、遂に其書を〓究し了るに至る。是故に生等が〓塲は、彼小學の生徒が、一字一句一事一物皆〓師より〓へ込まるゝが如きこと無く、必竟〓師と書中の事實を問答するに止まるのみ。問ふ所も皆書中の事、答ふる所も亦皆書中の事。而して其事皆已に前日家に在りて〓究し、以て我腦中の有と爲せる所のものなり。故に生等が〓塲に出づるは、唯生等が書中の事を能く記臆するや否やの檢査を受けんが爲に過ぎず。小學の兒童に取りては此事可なり。然れとも生等今日豈斯る兒戯の檢査を受くるを要せんや。夏候民間に於て、男女相集りて盆踊りを爲す是時一段の高臺に在りて、其無踊の調節を取るもの、之を音頭取といふ。生等の〓師亦斯くの如し。彼等は唯〓塲に於て生等が問答の調子を取るの外、殆ど何事をも爲さず、言はず。小學の見童に取りては此音頭取も必要なり。されと生等今日豈復た斯るものを要せんや。否却て之れあるが爲に、大に進まんと欲するの力を拘束せられ、大に飛ばんと欲するの翼を制縛せらる。音頭取の下には、自由の踊を爲す能はざるなり。又課業時間の制甚だ不規則にして、午前に一時間あると思へば、午後に又一時間あり。其間數時間の長きを隔つ。學校に止まりて其間を待たん乎、喧しき學校の中、到底沈着なる勉强を爲す能はず。されば午前に一たび歸りて、午後に復往かん乎、徃復の爲に多數の時附錄間を要して、勉强の時間大に减ず。且つ今日の私立學校は、入學生濫許の弊甚し入學志願者來れば、殆と其學力の如何を顧みず、唯儀式的試驗を加へて、直に其入校を許すなり而して私立學校中最も高價なる授業料を要する我校に於てすら、其弊頗る甚Lo是を以て縱ひ同一の級中に在りといへと3,生徒の學力大に懸隔し、玉石を一塲の中に混じて、彼幼稚なる冷淡なる音頭取的〓師の下に置く。是に於て乎珠玉的生徒は、傍よりは同列の瓦礫的生徒に礎げられ、上よりは音頭取的〓師に制せられ、顯然隱然其進步を害せらるゝこと决して少からず。〓塲の制度は猶軍隊組織の如し。我獨り先づ進む能はず。進退常に衆と共にせざるべからず。故に苟も大に才力をのべんと欲するもの、其中を脫せずして、焉んぞ一騎勇進の力を奮ふを得ん生が地位心情生が始めて早稻田の學校に入りしは、今を去ること恰も三年前、明治二十一年三月の事なりき。爾來英語普通科を學び、遂に昨年七月を以て之を卒業し、尋て闇下等の高助を得て、今の英語政治科に入れり。故に曩に入校以來二年半の間學びし所は即ち今日學べる專門科の豫備たるものなり。此間幸に生が英學の進步は、敢て常人に後れず。入校以來四たびの試驗、一たびは數十人中次席に下りしといへども、三たびは毎に首席を占め、いつも優等の列に加はり、學校より賞賜せられし四部の書籍は、即ち生が刻苦〓學の紀念として、シ,書匣中に橫はれるなり。是れ固より瑣々たる事のみ。生敢て誇るが爲に之を言ふに非す。唯生が學校に於て果して如何なる地位を占め來りしや、生が英學力の進歩は如何なりしやの一例證として之を述べ、以て閣下の適當なる附錄(九七二)
判斷を仰がんが爲めのみ。抑斯る地位を以て、斯る學力を以て、生は又今の英語政治家に入りしなり。故に生が今日亦級中の珠玉たるや、或は瓦礫たるや、他の良生徒の進歩を妨ぐる身たるか、將た他の惡生徒の爲に進歩を妨げらるゝ身たるかは、閣下希くは之を判せよ。生が家早稻田を去ること殆と一里。之が爲に行くにも殆と一時間を費し、還るにも亦殆と一時間を費す。斯くの如く徃復に貴重の光陰二時間を費し、而して學校に於て爲し來る所果して何事ぞや。唯記臆吟味の爲に音頭取的〓師の前に屈する而已。是故に今日〓塲に出席する一週間の時間中十數時間と、之に費す往復の時間十餘時間とは、殆と之を空費徒消といふも可なる姿なり。愚も亦甚しからずや。茫然無意にして學ぶものは、能く此愚を忍ばNoされど一たび眼を開きて之を見れば、實に何の爲に學校に在るやを怪まざるを得す。』賴山陽曰く、我を才子といふものは、我を知らざるものなり、我を能く刻苦するものなりといふものは、能く我を知るものなりと。生も亦常に以爲らく、我は到底才子たる能はざるものなり、徒らに才を賴みて事を成さんと欲せば、會々以て失敗を速くに足るのみ、故に我事を成すは、唯夫れ刻苦に在るのみと此一念常に深く生が心胸に感銘す。而して其刻苦は、平生循々として力學し、着々として步を進むるに在りと確信するを以て、生は或時は遊惰に過し、或時は過激に勉强するが如き.不規則なる勉强は、斷じて之ヤ爲さず。故に濫りに遊ばず、妄りに勉めず。唯平直なる勉强線を引きて一年一日の如く進み來り、以て力學の効果を積み累ねんと欲するなり。過去に爲し來りし所斯くの如し。將來に爲し進まんと欲する所も亦斯くの如し。而して試附錄みに過去數月間の勉强時間を撿せんが爲に、生が日記を取出して之を見るに、生が限定の勉强時間即ち一日入時間の勉强を爲し得たるの日は、學校に出でたる日に非ずして、却て自家に潜みて獨修せし日に在るを知りたり。而して偶々學校に徃きたる日にも、能く八時間の勉强を爲し得たる日無きにあらずといへども.此出校の時間は、既に前に述べしが如く殆と空過の時間なるが故に、勉强の効果の上より見るも、自家潜學の日に其利大なるを知る。况や更に其出校の時間を移して獨學の爲に費さば、時間の利用大に宜しきを得て、實力の進歩も亦大に其速力を增すに於てをや〓°斯くいふも、生固より敢て妄りに獨學を主張せず。小學の兒童に獨學せよといふは、猶巢裡母翼の下に接める弱翼の雛をして、空中を飛翔せしめんと求むるが如くなるは、生能く之を知る。然れとも既に獨飛の翼を生ぜし以上は、敢て之を制縛せず、其意の欲する所に從ひて自由に翔けらしむるの可なるは、亦生の深く信ずる所なり。是故に生も未だ獨學を爲すに足るの力を有せざる間は、决して之を欲せずと雖も、生や已に三年の英學を修め來りて、今や胸中に把持せる學力は、將來獨學を爲すに於て敢て不足を〓げざるべしと確信す。而して一步學びて一步の力を增し、步の力を增しては又一步深く學び入り、斯くして着々步を進めて學べば、獨修何の難きかこれあらん。否な斯る〓學に非ざれば、到底實力の養成は難きなり。凡そ世の諸生を見るに、自進的學生と他制的學生との二種あるを知る。彼靑年學生が、勃然たる意氣を携へて〓關を辭し、都門に來りて學業に就くや、始め雄壯の志氣未だ消磨せざるに當りては、敢て〓師の勸奬を借らず、同列の刺激を要せずして、自ら進みて日夕砲附錄(一八二)
々として、身を〓學の中に投ずるもの蓋尠からず。是時彼等は實に自進的學生たるなり。然れとも漸く都下に在るの日重り、浮摩の都風に感染して、甞て地方に在りし日の豪放なる氣象を失ふに及びては、彼等は已に自進的學生の資格を失ひ、課業を見ること恰も義務の如く、他に制せられて僅に身を學問に寄する而已。是れ即ち他制的學生なり。而して更に他制的學生の境を落ちて、怠惰放蕩に日を送り、以て學生の本分を忘るゝが如きものは、固より齒牙に掛るに足らざるなり。而して他制的學生は、此無氣無心の學生に比すれば、尙稍可なりといへとも、眞に能く月桂冠を戴きて學生の生涯を出づるものは、終始一日の如く彼自進的學生たるの資格を持せるものに非ざれば能はざるなり。而して苟も學校〓師の下を去り、自家に潜みて獨學せんと欲する者は、又自進的勉强心に富める學生に非ざれば能はざるなり。而して又大膽にも不完全なる學校の職絆を脫して、獨學の利なるを悟りて、之を行はんと欲するが如きは、彼他制的學生が如きものゝ思ひ到り思ひ决する能はざる所なり。閣下希くは生が心情を察せよ。獨學の論决閣下幸に上來陳疏の覽讀を賜はりしならば、既に〓師の不完全なるを知り賜ひしならん。既に〓塲制度の不完全なるを知り賜ひしならん又旣に課業時間の不規則なるより、時間の利用に大なる不利益あるを知り賜ひしならん〓又既に同級生徒の學力不平等なるより、上位者の不利鮮少ならざることをも知り賜ひしならん。而して又生が地位心情も、能く闇下の丁達を得しならん。是に於て閣下の胸中早く既に今日の學校は到底生が験足を伸すに足らざることを斷定せられしならん。而して生が斷然學校を去て獨學を行ふの利大なるを附錄悟られしならん。生は實に閣下が斯くの如く悟了し來られんことを裏心熱望して已まざるなり。曰く、學校に繫がれて修學せば、失敗の忠少し、獨學は成功危しと。是れ獨學攻擊の第一聲なり。生固より其言の理なきに非ざるを知る。世間數多の學生は、〓ね生が所謂他制的學生たり。此輩一日學校の手綱切るれば、忽ち學生の本道を外れて、放逸の境に走り出でNo駁者の言此徒に適す。然れども均しく此言を以て自進的學生を責めんとするは、駿と驚と同一祝するの言なり。生や敢て自ら駿なりと言はず。されど尋常碌々の驚たりとは自ら思はず。而るに徒らに彼の駕と伍して其業を共にするは、却て生が健歩力を制抑せらるゝを覺ゆ。獨步却て進行速し。獨學攻擊の第二聲は、虛名崇拜より來る。夫れ東京專門學校得業生と言はゝ、名は則美なり名を好まば、此一片の木葉的卒業證書を取來るも可ならん。然れども之を以て生を責むるは、生を知らざるものなり。而して全く一方には我校の不完全なるを知らざると、他方には生が未來の運動領地の何たるやを知らざるとに由りて、斯る卒業證書を拜むの言あるのみ。抑學校の不完全なるは既に前に縷陳せしを以て、再び爰に之を言はずといへども、生が未來の運動塲とは如何なる地ぞや。是れ巳に去夏閣下の高聽に達したりき。夫れ苟も筆を執りて天下の文壇に立ち、堂々天下の經綸を論じ、遂には自ら進み出でゝ、平生の懷抱を實地に試み、以て一國の大政を料理せんと欲するものは、果して胸中深遠なる實力なく唯空名を賴み、虛聲を張り、僥倖の運命至るを待て之を能くし得べき耶。世固より名のみを以て能く名を成し得べきの地なきにあらず。されと生が未來の出頭地は、附錄(三八二)
くしては名を成す能はざるの社會なり。空洞の胸廓焉んぞ敏活なる筆腕を奮ふを得んや。焉んぞ卓然たる經綸を〓策するを得んや。是故に今日生が當さに力むべきの準備は、唯夫れ實力を養ふに在るのみ。豈復他あらんや。徒らに空名の僥倖に賴りて大成せんと欲するが如きは、實に愚の極なり。故に苟も實力を養ふに不利なりと見ば、何ぞ戀々として東京專門學校の寄生蟲たるを要せんや。苟も實力を養ふに利なりと見ば、何ぞ獨學を行ふに躊躇するを要せんや。須らく决然利の多きに就くべきなり。而して獨學の利の多きは、生已に之を述べたり。抑生が所謂實力の準備とは、啻に書を讀みて深く智識を貯ふるをのみいふに非ず。又啻に文を作りて自在に思想を顯すに熟達するをいふのみに非ず。兼て天下の大勢の赴く所を察し、政機變轉の狀を見、社會人心の傾向を見るの活眼を養成するに在り。而して書を讀むの力は、已に之を得たり。文を作るの技は、固より自修すべきの業たり。而して世を見るの活眼は、學校の〓塲に由でたりとて之を養ふ能はず。是に至りて殆と復學校に出づるの要なし。否、學校に在りては、却て獨自潜養の力を逞しくする能はず。閣下試に思へ、今日政界に立ち、文筆を以て新聞の業を取るものを。夫の島田三郞氏の如き、田口卵吉氏の如き、德富猪一郞氏の如き、犬養毅氏の如き、尾崎行雄氏の如き、其他幾多の政治家操觚者は、〓ね皆獨學の苦を積みて、其身を立てたるに非ざるはなし。加之古今東西の歷史を繙きて之を見るに、能く獨學の功を疊ねて、遂に學者となり大家と仰がるゝに至りしもの决して尠からず。學者己に然り况や唯實劇塲に出でゝ、實地に舞はんと欲する實力を養はんとするものに於てをや。(四八二)附錄抑彼等は皆實に獨學を以て其身を立てたり、故に獨學可なりと速斷して、以て妄りに其顰に傚はんと欲するが如き事は、生敢て之を爲さず。己れの力が能く獨學に堪ふるや否やを計らずして、直に之を行はんと欲するは、恰も泅水の術を知らずして深淵に入るが如し。是れ實に危道ならずや。是を以て生が今日獨學を唱ふるは、已に其期熟せりと信ずるが故なり旦つ夫れ醫學の如き、工學の如き、其他諸種の技藝に係る學校の如きは、固より獨學し難き所これありといへども、生が〓究せる政治學の如きは、讀書解味の力を有せば、獨學決して難からざるなり。唯夫れ獨學に要するは、書物を求むるの力と、讀むべき書物の方針を示し、兼て其疑義を質すの求に應ずる二三の助力者を得るにあり。而して前の事は、開下及び某先生の高助を蒙るを得は、敢て難きことに非ず。而して後の事は、愈之を行ふに及ばゝ、生が爲に斯る厚意を與へらるゝの名士敢て少からず。既に生が愈之を行はし、生が爲に力を盡さんことを諾せし名士あり。嗚呼、獨學は學校〓師の下に在るよりも其心勞大なるは明なり。これをしも忍て之を行はんと欲するは何が故ぞや。嗚呼、生は今迄學校に在りて、常に順境に居れり、勝利の地に立てり。而して幾多の學友は、常に生に向ひて愛敬を表せり此幸福なる行懸りあるにも拘らず、决然袂を拂ひて之を去らんと欲するものは何が故ぞや。嗚呼、生が知人は、生が東京專門學校を退くといは、、必ず大に喫驚せん。而して生が四面は、一時楚歌の聲を以て滿たされん。されどこれをしも忍て獨學を行はんと欲するものは何が故ぞや。生敢て妄りに不利の擧と企てず。今日の如き我校に滿足して、尙今より將來二年有餘の星霜を費さ附錄(五八二)
ば、生は必竟學校の爲に高價なる授業料を拂ひて自らは實力養成に大なる不利を取れる無神經漢のみ。閣下乞ふ生が獨學を欲する徵衷を察せよ。學校の改良及び獨學の賛成以上述べし所は、實に生が獨懷に於て思慮を運らし來りし所なり。されと生や今尙乳臭の少年なり。經驗乏しく思慮周到ならず。故に生が此考を以て、生が平生信ずる所の二三の名士に圖らんと欲し、先づ之を我師坪內雄藏先生に問ふに决せり。蓋し先生は、實に懇篤切實にして、生等が常に慈父と仰ぐ所の人なり故に斯人に圖らば、生が爲に適切なる助言を與へられんことを信ぜしなり。元來生は先生と私交無し。故に先づ生が知友にして、交を先生と結べるものを介して、先生の意見を問ひたり。先生大に生が爲に、又學校の爲に之を憂ひ、自ら生に面して、生の意見を聞かんことを求められたり。是に於て本月人日夜、生は其友人と共に先生を訪ひ、上來陳述の大要を述べて以て先生の意見を問-1ar先生白く、子が詳密なる考慮は、能く之を了せり、獨學固より美事なり、されと唯其人如何に由て决すべきのみ、而して昨夜子が友人の言に由りて、子の人と爲りを察し、今又子の言に由りて之を考ふるに、子の獨學は可なりと信ず、故に予は敢て之を賛せん、されど子が如き有望の書生が學校を去るは、實に學校の爲に大に惜む所なり、而して子が去らんとするは、主として學校の不完全なるに起因するを以て見るに、若し今の儘にして學校を改良することなくは、今後必ず子が跡を繼ぎて退校するもの陸續起らん、斯くの如きに至らば、學校の不利極めて大なり、豈坐視傍觀するに忍びんや、故に予は子が學校を去るを惜むが爲めと、學校の不利を救はんが附錄爲めとに山りて、一事の子に望むあり、即ち此際子は英語政治科の改良案を幹事に提出すること是なり、然らば予は幹事と議し、飽迄力を盡して改良を圖らん、而して其改良の結果が能く子の意に充たば、子夫れ學校に止まれ、然らざれば宜しく决然去るべし、予彼敢て子を止めざるべし、而して獨學の爲には子子が爲に力を添へんと生其言に感じて曰く、生固より妄りに學校を退くを欲するものにあらず、昨年九月英語政治科に入りしは、實に三年の學科を修了して、之を卒業せんと决したるが故なり、今日退校の企を起すが如きは、當時毫も夢想し能はざりし所なり、故に生と雖も若し學校にして大に改良せられ、以て完全の域に進まば、敢て好で退校するものにあらず、されと今日の如き學校の情態にては殆と利益なしと斷定せしを以て、遂に退きて獨學せんと决したるなり、然るに今幸に先生の言あり、生深く其切實なるに服す、生や我校に在ること已に三年、故に我校を愛するの念決して少からず、縱ひ今回愈之を去るに决するも、生は毫も我校を敵として去るを欲せず、故に此際高諭の如く、改良案を提出して、生が微力を致すは、實に生が爲め、學校の爲め、〓に同級の學友の爲め、當さに盡すべき義務なりと信ず、而して生が去就は、其改良の結果に由りて决せん、先生將來生が爲に力を假せと是に於て生は一篇の改良案を作り、十日の夜風雨を冐し、隅田川の邊りなる田原幹事の家を訪ひ、生が意見を開陳して改良案を呈出せり幹事も大に生が去るを惜み、又學校の爲に大に憂へ、力を奮て改良を講ずべきを以て、及ぶべくは學校に止まらんことを勸められた而して生は素と幹事と私交あるを以て、互に胸襟を開き、生が提出の改良案に由りて、附錄(七八二)
共に改良の方法を論究したり。故に今や幹事は正に改良實行に着手せるなるべし。其生が呈出せし改良案は、載せて別紙に在り。越えて十一日の朝、島田三郞君を訪ひ、詳細に事由を述べて、獨學の可否を圖りしに、君も亦自ら獨學せし事を擧げて、生が獨學に賛成を表せられたり。而して君も東京專門學校の評議員なるを以て、其學校の不完全なるを忠へ、君よりも學校に注意を加ふべしと約せられたり。而して生は學校の改良意の如くならずして、愈獨學の運びに至らば、生が爲に助力を與へられんことを求めて還りたり。夫れ生が今日迄に運び來りし所凡そ斯くの如Lo故に幾日の後には、當さに學校より生が要求に對して改良實行の决答あるべきなり。而して其决答の日は、即ち生が斷然去就を决すべきの秋なり。若し其决答にして能く生が意に充たん乎、生は乃ち喜びて止まりて卒業の期に到らん。されど其决答にして生に滿足を與ふる能はざらん乎、是時は生が當に意を决して去るべきの時なり。而して生は如何に去て獨學を爲さんと欲するも、若し開下等の賛諾を經ずは、到底之を行ふ能はざるなり。之を行ふ能はざれば、生は尙不完全不利益なる學校に首を屈して止まらざるべからざる平。生が痛恨何ぞ之に加へん。嗚呼、生が是時の去就は、一に閣下等の諾否如何に在り。關下乞ふ之を思へ、生が要求の改良の行はれざるに、尙開下等の高助を仰いて學校に止まるは、實に生の大なる不利益なることを。生の不利益は即ち保護の恩人の不利益なり。抑是時决然去て獨學を爲すは、豈生が實力養成に於て、實果多き道に非ずや。而して獨學は已に坪内島田の雨氏之を贅せり。敢て不肖生が一人の獨斷にあらす。嗟呼、閣下が生に與へらるゝ高助は、生が東京專門學校に在るが(八八二) F付錄故なる平。將た生が修學の道は如何に變ずるも、到底生をして大成せしめんとの厚意なる平。若し果して前の如くなりせば、到底獨學は閣下の許さゞる所ならん。又若し果して後の如くならば、學校を去て獨學するも、尙閣下は高助を賜はるならん。閣下眞に生を愛せは、希くは生が爲さんと欲する所を爲さしめよ。今や生が一身を以て、生が爲め、學校の爲め、併せて同級の學友の爲めに、我校の改良を圖り、事成らば止まり、成らざれば去て獨學を爲さんと欲するの衷情は、啻に生が一身の爲めのみならず、又竊かに閣下等の囑望を空くせざらんことを欲したるに出でたるなり閣下希くは生が微裏を察し、愈獨學の運びに至るも、豫定三年間の助力を與へられんこと、生が泣血個願する所なり。阿兄には既に之を議りて幸に賛諾を得たり。而して閣下の寛仁なる、又幸に之が許容を賜はらば、更に閣下より生が爲に某先生の賛容を得られんこと、生が又閣下に伏願する所なり。嗟、今日閣下に向ひて斯る事を訴ふるに至るは、實に萬己むを得ざるものあればなり。閣下乞ふ之を諒察せよ。頓首再拜。英語政治科改良悃願第〓師の撰擇是れ實に生が第一個望する所なり。而して其望む所の〓師は、第一學術經驗兼備せるを要し、第二熱心懇篤なるを要す。今日生等が一年級に於ては、右の二要件兼備の〓師は殆とこれ無し。第一を缺かざれは、第二を缺き、第二を缺かざれば、第を缺く。二年級三年級に於て如何なる〓師の出づるやは、生能く之を知らずといへとも、苟も彼二要件を具へざるものは、斷然之を黜けて、生が熱望するが如き良〓師に代へられ附錄(九八二)
んことを望む。是れ唯生が未來(學校に止るとして)の利益を欲するが爲めのみに非ざるなり。第二課業法の改正記臆檢査的課業〓に書上講義を廢して、批評的課業法に改めんことを望む。顧ふに種々の大家の說を參考し、兼て實際に徵證し、以て說の是非當否を判論するは、吾が第一に於て要求せる二要件を具備せる〓師に非ざれば到底之を能くすべからず。故にこの第二の願は、第一の願充つれば自ら到ると信ず。第三課業時間の整理午前若くは午後に於て、連續の時間に課業を置き、併せて成るべく日課の時數を同一にせられんことを望む。第四〓科書の整頓規則書面に公載せる書籍は、必ず生徒借用の求に應ずるを得るの備あらんことを望too而して又新良適當なる〓科書を擇むに於て、常に汲々として注意せられ、實行せられんことを望む。第五英文學の特設終始三年間、特設科として、一二の英文學書の科を設けられんことを望む。附早稻田漫詠(明前二十三年十二月一日)東京專門學校早稻田野や學びの林茂りあひてつどへる鳥の日々に數そふ寄宿舍とはヾやな學びのやとに雪螢あつむる窓はありやなしやと校前月夜逍遙文にあく心なぐさに立出でゝ錄必ず生徒借用田の面の月を見るぞたのしき校庭紅葉故〓ににしきをつけてかへらずは庭の紅葉やかひなしと見ん杜落葉吹風の音にはげしく聞ゆなり杜の木の葉やちり盡すらん明治二十三年歲暮千代までも我國たみのわすられぬ今年も暮となりにけるかな明治二十四年元旦われが我を治むるたみとなりてより迎へ初たる年のうれしさ靑年學生なあなどりそ今は若樹の松なれど末は御國の柱たる身を勉强うるはしき玉と心を〓かずはいかで光を世にはなためや怠惰牛をおふ賤にもいかではぢざらんふみをも讀まで怠れる身は附基〓基〓東京に在りて獨學せし時代太湖之波(明治二十四年夏)是時を如何せん夏期休暇六十日、是れ正に一歲の六分の一に當る。此の長き安息日は、實に書生に取りて最惠の賜物なり寢て暮すべき耶。浮れて暮すべき耶。苦みて暮すべき耶。夫れ是時を如何せん。金錢の經濟を知らば、亦時間の經濟を知るべLo一文の無用に費すべからざるを悟らば、錄(一九二)
一寸の光陰の徒過すべからざるを悟るべし。六十日一歲の六分の一豈輕んずべけんや。且つ夫れ休暇は决して逸惰の意に非ざるなり眞の休暇は眞の勤勞者の頭に落つ。若し逸惰者にして休暇あらんには、其休暇は亦逸惰の時たり。彼の勤勉なる農夫は、冬藏終りて休農の間、早く己に春耕の備を爲すに非ずやつ遠征の道、路に港に泊せば、其の機關を繕ひ石炭を積む。若し六十日能く利用せん乎、拓心の材料は覆載の間に散布せり、取りて以て我が物と爲す、亦自由なり。而して他日世路の難險を破るの勇氣を涵養するを得ん。天下を料理するの志氣を皷舞するを得ん。人遊べりとて我も遊び、人眠れりとて我も眠るは、遠大なる前途を控えたる壯者の爲すべき所に非ざるなり蚊を殺し武を殺すも、誰か之を怪まんや。されど余は世に光陰を殺して尙ほ恬として悟らざるもの多きに驚かざるを得ず。而して其の光陰を殺すものは、先づ已に其心を殺せるものなり。活氣滿ちて後光陰の活用得て爲すべし夫の死者の周圍には時死して來るに非ずやされど精神の自殺者にも均しく時死して來る。時を活さんと欲せば、先づ我れを活かせ若し休暇前の我と、休暇後の我と、毫も異なる所無ければ、其の六十日間は果して何事を爲して送りしぞ。我生命に六十日を加へたるは確かにこれ有り。されど其の心に何物か加へたるぞ。是れ封袋にのみ重きを加へて、正味には一文の重きを加へざるなり。莢のみ老いて豆は毫も熱せず。是れ果して喜ぶべき耶。されば此休暇の間、東京に止りて下宿屋の樓上に潜居するも可なり。故郷に歸るも可なり。未だ蹈まざる地方に行くも可なり。颯然たる涼風の下、時に北窓の眠を買ふも可なり。遊(二九二附錄ぶも可なり。窮するも可なり。書を讀むも可なり。讀まざるも可なり。要は唯空々漠々、無意無爲に此長き休暇を懶殺惰殺せざるに在るのみ。金、幽軒植竹只十箇、春風愼勿長見孫、穿我階前綠苔破、斯る窮屈なる黑子の庭園を喜ぶものを憐む時自ら一懷馳せ及ぶは、則ち彼〓州、彼〓里、彼〓家。去年夏歸省し、九月新秋再び上京せんとするや、一日母は元氣能く余に語りて曰く、今年の別期日に近づけども、來年の歸期も亦日に近づくに非ずや、之を念へば復た以て惜別の情を慰するに足る、行けよ、勉めよ、自愛せよ而して來年夏期亦必ず歸り來れと。嗚呼、柔和なる老母の唇より勇ましくも此克己の言、皷舞の辭出づ。余豈爲すべき所を爲して後、歸らざるを得んや。爾來獨居の老母は、余に贈れる愛情淋淘たる書中、數々余が今年の歸省を待つの意を繰返したり。而して數步の庭園に、手づから美はしき草花を植ゑ、肥えたる蔬菜を作り、余が眼を娛ませ、余が舌を喜ばせんと、已に春暖附余は故〓に歸る琶琵湖の湛ふる所、是れ吾〓州たり。金龜城の聳ゆる所、是れ吾郷里たり。門外此城の山綠を望む所、枕頭此湖の濤聲を聞く所、是れ吾〓家たり。吾母は此の〓家に住み、吾叔舅の一族は此〓家の隣に住み、吾親族故舊は此〓里此〓州に散じて住む。嗚呼是れ余に取りては最も般販なる安樂土なり。前後より急車に追ひ拂はれて路傍に避くれば、人と相擊つの煩はしきに逢へる時、街頭糞車の臭更に甚しきを感ずる時、人籟嗷々讀書沈思の妨を爲すを惡む時、都は人之を造り、田舍天は之を造るを思ふ時、城中十土如寸錄(三九二)
和煦の日より、其用意至れり。余豈歸らざるを得んや。余固より故〓の慕はしきを知る、故奮の懐かしきを知る。されど故〓は是れ人世の小學讀本なり。已に進みて大學を修むる者にして、隻かに翻りて此の學界第一步の書を度々温習するも、其の興味は盖し甚だ乏しからん。年々故〓に歸る、吾れ稍之に似たるものあるを信ず。若し夫れ更に進みて、未だ到らざるの境を蹈み、以て眼を開き心を養はゞ、其の壯快如何ぞや。嗚呼、吾〓里に余が無二の老思人住まずは、余は强て年々歸〓せんとは思はじ。如何せん此渝ふべからざる恩人の引力は、其の優なるや春花の如く、其の强きや鋼鐵の如し。余豈引かれざるを得んや。故に余は喜て其引力に任せて其側に到るを樂む。されと余は徒らに慈母の膝下に乳兒の愛を求め、小人の媚を呈其用意至れり。余豈歸らざるせんが爲めに歸るを好まず。又徒らに呼べども歸らざる父の墓前に淚を溢さんが爲めに歸るを好まず。是れ啻に余のみならず、彼の幽明の界に別れて住める一對の大恩人も、共に之を好む所にあらじ。余が夫の光陰を殺すの徒に伍するは、其意に非ざればなり。此の六十日歸〓の日を利用して、進步の材料を得るは余が資なり。歸途歸途に就くや、一小冊子を懷にして滊車に入る題して「ねむけの伽」といふ。一の發句集なり。余は今之を以て車中の伽と爲さんとするなり。固より眼界狹き風流閑人、或は愚朴なる田家の子弟が、休農の暇に詠ぜし所なるを以て、敢て驚嘆の名句無しと雖も、彼の車中の俗客-籠中の愚禽-が無味無韵の囀語を聞くに比すれば、其の快味は同日の論に非ず。(四九二)附錄「人見えで一里の島や雉子の聲」。此句最も妙なり。時に七月初句、諸生の東京を去りて地方に行くもの、漸く多し。一人の書生余が傍に來る。始めて東海道を過ぐるものゝ如く、車の進むに從ひ、境の異なるに從ひて、屢々余を顧みて問ふ。山來れば山を問ひ、海來れば海を問ひ、河來れば河を問ひ、湖來れば湖を問ふ。余偶〓問ひて曰く、君能く山水の風景を好むやと。曰く、之を好むこと頗る切なりと。余乃ち試みに謂ひて曰く、彼箱根の山中、水聲は瀧々、車響は轟々、俗界の聲、仙界の聲と相混じ、水流鐵路相交叉して峡間を縫ひ、隧道又隧道、明暗の境交く相到るの處も亦是れ奇なり。富岳天に聳え、三保松原碧海に出で、山海相依りて爲せる駿州の景も亦可なり。遠州濱名の湖山相映するの景も亦可なり。然れとも彼稻田漫々、村落散在し、樹竹橋勃の間に幾多茅屋隱見するの光景は、是れ眞に吾人が眼を注ぐべき所に非ずや。滊車の雷號に驚きて腰を伸し、宛も案山子の如く靑田の而に立ち、呆然として之を一大怪物視し、以て瞬間に其の影を沒する此の運送機を仰ぐ農夫の光景、是れ亦具に吾人が心を用ゐるべき所に非ずやと。對話の靑年之を聞きて、唯鈍く頷ける而已。東海道鐵路の過ぐる所、〓ね三百年の昔、三河武士が無雙の雄武を顯はしゝ舞臺に非ざるはなし。出發の地已に彼等が最後の凱旋塲にして、明治の天地に遺せし偉大の紀功碑たり。而して滊車勿々經來るの國々、〓ね彼等が奮戰の足跡これ有らざるは無し。而して彼等が故國を過ぎ、進みて濃州に入れば、實に彼等が畢生の决戰塲たる關ク原を過ぎ、其の最純の代表者たる井伊直政等が陣營の古跡を越えて行く。字を識るの旅客、誰か昔日を回顧し附錄(五九二)
て彼等が當年の威風を想はざらんや。今や一日百里を運ぶの新東海道は作られて、函嶺を踰ゆるに一日を費しゝ舊東海道は、行客寥々、用乏しき長物と爲りぬ。並木の松は尙依然として翠色を呈すれども、是れ却て昔日未開の狀を表せる遺物たり。されど是れ實に彼三河武士が東西轉戰の用に供せし唯一の道路たりしに非ずや。而して彼等は此道を以て當時の軍旅に適せずとは言はざりしに非ずや今や時勢一變、舊東海道は廢れて新東海道起る。敵國來襲の急起らば、新東海道果して能く今日の軍旅を動かすに適する乎。果して能く昔年三河武士が舊東海道と利用せしが如くなるを得べき乎。嗟乎、是れ果して誰に問はん乎。汽車に問へとも、汽車は唯森々と吼ゆるのみ。興津の海岸に來りて海に問へとも、海は唯波唇を動して風魚の警を爲せるが如きのみ。奮東海道に問へば、荒頽の姿を向けて冷笑せるのみ。嗚呼更に三河武士を墓中に起して問はん平。されと彼れ若し新東海道は我が關する所に非ずと言はヾ、夫れ遂に如何せん。夜光の間、微かに伊吹山の雲天に聳ゆるを見る。是れ我旅の喜望峯なり。滊笛一聲大洞山崖に響き、内湖の水面を打つ。是れ樂土に入るの門鈴なり。遂に佐和山麓を掠めて、金龜城下に入る。待兼ねし母、逢はんと急ぎし余、今相逢ふ、其の欣喜言ふべからず。時の湖產鯆魚膳に供へらる。舊知の香味舌頭に觸れて、早く己に唇を太湖に浸すの思あり。母の側に侍して枕に就けば、磯打浪の聲來りて耳を叩く無垢の舊友先づ來りて、我歸郷を訪ふが如きを喜ぶ。彥根好似勾呉山水國、山成保障水成圍、蟠聯遠勢控三越、浩蕩餘波及五畿、邑有善歌知政績、附錄野無惡草見風威、舊封二百年屏翰、虎豹依然護九聞。是れ梁川星巖が天保の初年、松原村なる湖上の寓居に在りし日、彥根を詠ぜし詩なり。されど此彥根は今日何處にか在る。山は依然として堡障を爲せり。水は依然として圍を成せり然れども虎豹は復た依然として九聞を護らず。二百年の屏輪亦已に廢封となる。星巖をして之を見せしめば、夫れ將た何をか言ふべきぞ。されと去るべきは去れ、變ずべきは變ぜよ、吾れ亦何をか痛まん。唯夫れ今日邑に善歌ありて、政績の知るべきありや否や。野に惡草無くして威風の見るべきありや否や。是れ余が知る所に非ず。金龜城は依然として古翠の丘上に立てども、今は唯裸の城として立てる而已。郭樓を築きし石壁は、今は唯空しき臺礎と爲れり昔は燦爛たる武裝の鐵騎の影を映ぜし城濠も、今は變じて草蕪亂生の沼澤と爲るに非ざれば、漁夫魚の少きを謐く漁塲と爲れり。武士の邸宅多く廢れて、桑國となり、宅前の道には草茂りて、僅に一條の細徑を存せるあり。嗚呼封建廢れて漸く二十餘年、當時育ちし人士の心中、今尙封建の餘臭紛々たるものありと雖も、有形の遺物は早く已に壞敗の姿と化しぬ。されど去るべきは去れ、變すべきは變ぜよ、吾れ亦た何をか痛まん。破壞の神過ぎし跡には、又新設の神追ひ來らん。唯夫れ此遺物荒屬の儘にして存せる間は、民力の尙ほ盛ならざる兆には非ざる耶。聞く、嘗て新に郡長と爲り、東京より此の地に來りしものあり、一たび日新の都地を去り、忽ち足を舊態多く存して新象尙盛ならざる一舊城市に容る、彼の眼に觸るゝ者、悉く古びて見えん、汚れて見えん而して快く見えざらん、彼れ乃ち町民に諭し、表障子は一切反古の紙を以て張ることを止めしめたりと鳴附錄(七九二)
呼輪奥たる銀坐街に眼を奪はれて、鮫河橋賤民の巢窟を知らざる者は、遂に純良の撫民官たる能はず。然れども兄虛飾を好めば、弟も亦之に傚ふ。されば我〓里を化粧せんと力めし一役人出で來りしは、果して何の果ぞや。抑日暮れて怪物來る。起きよ我〓の人士よ。攪眠の具は爾が眼前に立てり。唯之を思へ金龜城。「同じ日を今は覆うて納凉哉」。然れども尙ほ是れ彼の雄壯なる三河武士の遺物に非ずや。爾が祖先の紀念碑は、寺院の片隅に在る古墳墓よりも、是の彥根山頭に聳ゆる金龜城に非ずや。赤鬼の威名は獨り史上の賛語のみに非ずして、斯の天主閣上に其の餘烈を印せり。日夕之を仰ぐ時、一念偶〓爾が祖先の事に及ばゝ、實に斯城は爾をして大に志氣を激發せしむるの誘引と爲らん。若し試に爾が祖先を墓中より起して今日を見せしめば、金龜城のre荒頽を嘆ずるよりも、寧ろ子孫の意氣の萎靡を嘆ずることは無き乎。甞て幕末の一人傑井伊直弼を賛せし言を聞く曰く、君の爲めに艱難を恐れず、惡名を恐れず、、死を恐れず、斷じて信ずる所を行ふ、三河武士の純なる者なりと又聞く、昔者直政戰鬪に臨めば、毎に挺身軍前に逆み出でゝ、士卒を勵まして曰く、「我に後るこ者は男子に附金龜城金龜城毀たれんとして僅に殘りぬ。而して昔は其の城主すちも襲封の際唯一世に一たび上りし天主樓も、今は公園となりて遊覽の徒唯湖山〓明の景を賞するの具と爲しぬ。无根水君故諸者此パガのしな会社 附て米原より舟を浮といふ无根水は其反し名也べて彥根に歸りし際、其儼然たる城樓に旭光の輝くを見て詠じて曰く、「朝日子の匂ひて登る彥根山動かぬ世々の「光とぞ見る」と。嗚呼其傲氣今何くにか在る。余詠歎一句あり、錄一は將となりて軍戰の先頭に立あらず」と。ち、一は相となりて政戰の先頭に立てり。其の勝勇は是れ均しく一なり。赤鬼の剛勇直弼既に之を政界に經驗す。聞く者誰か限りなく志氣を皷舞せられざらんや。一碧萬頃の湖水中央に鏡面を開き、縱橫屏峙の翠巒之を繞る。八百八水は湖山を繋ぐの連帶となり、村落、市街、田圃、林樹は湖山の間に夾まる繡帛たり。我江州の大觀唯是れの40眺臨の位地を異にするに隨ひて、風光の優劣ありと雖も、畢竟唯此大觀中の小變化のみ。苟も能く湖光山色の景を併せ領するを得は、〓ぬ眼界潤大、胸襟をして恢弘せしむるに足るもの有り。而して湖東に在りてに、金龜城頭の觀望最も佳なり。一望快活、目を極めて凡て翠色なり。乃ち句あり、「湖山の靑きをつなぐ靑田かな」。夕陽西山に沒して、樹上の群蟬其の聲を收む。午熱已に去りて晩涼將に至らんとす。是時彥根山上快濶の勝景を見る。縱ひ風なきも、已に壯快なり。况んや颯然たる〓風凉味滿ちて來るをや。午中腦漿の炎蒸全く冷却して、胸懷瀟酒、雲收りて天新なるが如し。巳にして天上に在るの弦月は、皎々たる光を生じ、涼風の動かせる樹影は、地上に參差し、湖山の景滿然として月光の中に在り。而して四顧寂寥、唯草際の蛩聲喞々たると、時々林間の梟聲聞え來るあるのみ。鳴呼、天を仰げば、蒼穹唯月と星とあるのみ。地に俯せば、唯湖山あるのみ。而して身邊には高樹立ち、閑蟲叫び、幽島鳴く。是れ身已に天界に在るなり。唯眼前の金龜城、是れ人間の物のみ。石に踞して俯仰回顧せば、萬斛の感起り來る。嗚呼、是時詩人夫れ何をか思ふや、英雄夫れ何をか思ふや、愚人夫れ何をか思ふや、錢奴夫れ何をか思ふや、君子夫れ何をか思ふや、義士夫F付錄(九九二).
れ何をか思ふや。而して余が身は空々漠々、故に余が思ふ所も亦空々漠々。日本橋上に立ちて沈思すべき乎。芳原樓上絃歌全涌の間に於て默考するを得べき平。盖し急走の車上は、閑步道遙の好く沈思に適せるに如かざるに非ずや。頭上方丈の天井を戴きて熟慮するは、廣大無邊の蒼穹を仰ぎて熟慮するに如かざるに非ずや。靈淑の境は靈淑の氣を起し、雄大の勝は雄大の念を起す。一たび沈思の〓生じ、進みて佳境に入れば、身の何の境に在るかを忘る。逍遙すれども足の動くを知らず。振搖すれども手の動くを知らず。眼中又天なく、地なく、月なく、樹なLo島鳴けども聞えす。虫叫べども聞えず。己れ實に己れを忘る。然れとも天高く、地廣く月光り、樹茂り、鳥鳴き、虫啼きて、以て其の境を靈淑雄大にせざれば心眞に此奧境に入る能はざるなり。而して其心神の活動は、大にしては六合に彌り、小にしては繊沙に達し、萬年の昔に遡り、萬年の後に至り、拔山の英雄蓋世の智者を方寸の間に弄す。龍潭寺郊外人家を去ること數町、龍潭寺あり。山に依り內湖に臨む。沈々たる翠色四面を圍み、蕭々たる〓風松杉に鳴る。无根水君甞て其の境內の池を詠じて曰く、「世間の澄むと濁るの跡もなく此池水のいさぎよき哉」と。幽寂の境以て知るべきなり。嗚呼、晩年唯心を歌詠に寄せて、復た餘念無かりし余が父の墳墓は、實に此閑邃なる勝區の中に在り碑面に刻せる父の名は依然たりと雖とも、其の凹字を塗りたる墨は、既に消えて跡なし。古びたる碑礎の石間に繞へる草苔小樹は、青々として茂り、甞て碑半に及ばざりし矮松も、今は已に碑頭の上に秀づ。母の酒掃に勉め給ふが爲めに、墳墓荒廢の嘆無しと雖も、五年·(〇〇三)附錄前の新墓、今や巳に古墓の觀あり。誰か云ふ、去るものは日に疎しと。古色年に增し來るの哀れを見れば、其の墓中の大恩人を思ふの情益深きを覺ゆ。碑陰富士の詠を刻して曰く、「百傅ふ八百のから國いづこにも並ぶ山なき山は富士の根」と。埋骨塲頭の遺響偉大なり。然れども幾たびか反讀して、自ら凄焼。佐和山佐和山は彥根近〓に秀づる山なり。山巓に上れば江州の大半眼眸の裡に在り。一州を雄視するの〓を養ふに足る。三成斯形勝を占めて、嶺上五層の天主樓を築く。其崇高思ふべきなり。然れとも彼れ群雄統率の材德無く、遂に身亡びて此城も亦灰燼と消えぬ。而して當時關ク原大勝の餘勢に乘じ、來りて之を陷れし井伊直政は、遂に止りて此地に據り、後遂に城を彥根山に築きて、井伊氏世々重要の雄侯たり夫れ彼を倒して己れ之に代る。一興一亡は盖し世の常數なり。然れとも三成も一可憐兒なり。身亡びて姦雄と呼ばれ、城滅びて其の古跡を吊するもの無し。慘憺たる腥風は、樹枯れ鳥哭するの古城山頭を吹きて、其の對峙の彥根山には、巍然として白壁空に聳ゆるの城樓立つ。又直政直孝を祀れる神社は、儼然として昔時赤鬼の威を表して、其の山腹の下に建てられたりと雖も、彼は二百年後漸く敵の子孫の香華院主の手に依りて、樹棘芒々たる山腹に一碑石を建てられたり。題して石田群盤碑といふ。已に碑といふ、吊魂の意無くは非ず。然れども其の碑陰には、殘酷なる懲惡の文を刻せられたり。嗚呼、三成の敗、固より彼れ自ら招く所、余敢て斯の敗將を辯護せんと欲するものに非す。又直政の勝、固より其の仕ふる所に忠せんが爲めにせしを知る然れども勝者に與みするの餘り、徒らに其の敗者を貶するは、已に其の中正を失するを附錄(一〇三)
知る。顧ふに戰國擾亂の世、群雄割據して相爭ふや、未だ容易く其の是非曲直を判する能はざるものあり。况んや常に勝者を正とし敗者を邪とする史弊を存する國に於てをや。公平の識者宜しく講ずべき所なり。嗚呼、今や鐵道開けて、佐和山麓滊車の響類りなり。過客須く彥根城を望むと同時に、斯山を一願すべきなり。琵琶湖曉起して湖涯に出づ、一望頓に唾氣を忘る。其の景の〓爽なる、實に一夜の間に前日の炎氣を掃ひて、湖面一新したる乎と疑ふ。而して其の凉氣の快なる、實に湖面に朝露下れるかと疑ふ。〓麗の濱沙亦冷かにして、覺えず展を脫せしむ。乃ち裾を寒げて水に入り、水を掬して面を洗ふ。快言ふべからず。玉盆金盥も、この琵琶湖を盟とするの快には及ばす。獲る所二三寸の小魚埠頭に立ちて鉤を垂る。に過ぎずと雖も、玲職の水中、無數の鱗拜に鉤を投ずれば、〓ね一投一獲、一二時間にして數十魚を獲。無盡藏の魚池、愉快亦盡くる無し。魚小なりと雖も、京來遊樂の假漁夫には、夫の漁業者が尺鯉を獲たるの快よりも尙快なり。太公望渭濱に釣して野心物々たり。而して彼れ實に魚を釣らずして文王を釣りたり然れども余が釣は一野心無し。又來りて余が釣端に釣られん人も無し。唯若し野心ありとせば、二三寸の小魚一頭も多く獲んと欲するのみ。明美無塵の太湖眼前に在り。釣倦みし頃、湖北を出でし漁船埠頭に着す。橋上に人群を生ずれば、魚群は橋下に散じて水底に沈む。少頃にして滊船又烟を吐きて湖南に向ひて發す。平碧の湖面、已に白帆の悠々として點在せるありっ宛然たる一幅の〓圖、今又更に一新景を加ふ。目送矚望の間、忽ち附錄水に聲あり。顧れば數童橋上より水に飛び入りて游泳す。浴罷みて湖濱に涼を取る。天晴れて月明かなり風吹きて波打てり。月は織工となり、風は梭となりて、こゝに瀝耀たる錦波を織り山だせり。而して其錦波破れ來りて砂濱を擊てば、珠跳玉〓、月に映じて瞬間の白銀花を呈す。而して其激聲は、其の美妙の姿態に似ずして、擊々として無調の皷音を爲せるも、岸邊の草間に鳴ける小虫は、嚠亮秀韻の美音を發して、巧みに之に合奏す。嗚呼、造化の人に與ふる何ぞ厚きや。古人歌うて曰く、天河只在南樓上、不借人間一滴凉と。今や余には豈當に天河の遙に流るゝあるのみならんや、造化巧妙の配合に成れる美觀美音は、集りて余が眼前耳朶に惡れり。人爲の美復何ぞ之に如かんや。嗚呼、又更に何をか望まん。嗚呼、又更に何をか望まん。沙上に坐して之を見之を聽けは、遂に夜の更くるを知らす。我囊(抜萃) (明治二十四年十月より同年十二月に至る)○明治二十四年十月十六日、黃石翁茂石器なり校訂者云岡木に伴ひ、豫て逢はんと渴望せし勝伯を訪ふ。一老客己に到りて坐に在り。後亦客追々來りて、遂に一坐は六人を以て成れり。余を除くの外五人は、皆白髪の老人なりき。而して此等の老人皆塵世外の閑人らしく見えたり。されば是日は勝伯も、天下を睥睨するの一豪傑たる勝伯に非ずして、彼老客達と共に一閑人の勝伯たりき。されは一坐の談話も凡て俗談閑話にして、獨り此曲者の主人の唇頭には、俗話の間にも、折々奇言振ひ出で〓、自ら大人の風見えたり。而して余は一後進靑年として、話は老人達に讓り、終始聞手となりて沈默を守りたりき。暫くして老伯余を一瞥、今附錄(三〇三)
日の話は御身達には而白からじと言はれたり余も固より是日は唯一見を濟せ、他日復行きて話を聞かん覺悟なりしを以て、遂に余は他日の再助を約し、伯の再來せよとの言を受取りて立去りたり。談話は大〓無心者、厄介者が夥しく來るをうるさしといふに在りたり。斯る話の間に、近日コレラにて死せしといぶ人の事言ひ出たる序に、主人、「予は寧ろ虎列拉にて死せば良からん、うるさき厄介もなくなれば」と言へり。又主人が助を受くるものゝ話に、「彼等は予を家來の如く思へり、金無くなれば、彼等は勝へ取りに行けといふ」と戯れたり。又老客達に茶器を示せし序に、「予も一層茶人とならん歟、このやうに書生、犬の糞、種々のものが來る、商賣をする積りにてはあらざりし」と笑ひ語る。○大坂なる某に書を寄せて其中に曰く、朱熹嘗て吟じて曰く、昨夜江邊春水生、艤艟巨艦一毛輕、向來枉費推移力、此口中流自在行と。人生萬事只此一秘訣を了せば、何事の難きかこれ有らん。此秘訣何ぞや。只勢を見て機に乘ずるのみ。商界政界戰界凡て勝敗の决する所、唯此一秘訣にあるのみ。活眼靈眼常に之を見るべきなり。余は意苦地なき彥根人士を思ふ毎に、實に切齒に堪へざるものあり。彼等は今日、三百年前天下に雄武を轟かしたる三河武士の子孫たる事を忘れ居れり。赤鬼の子孫は端なく無骨の御姫樣と化せり。二十年前長州征伐の不首尾をも已に忘れ去れり。而してオメ〓〓と長州人士に頭を屈するもの多Lo人間意地を失へば、最早活躰に非ず。尊兄果して如何か之を思ふ。○靑山延光著六雄八將論を讀む。織田右府を論する一篇、是れ壓卷の傑作たり。彼が列國附錄對峙の間に介立して、能く彼を見、己を見、以て巧に對外の策を行ひ、能く人を用ゐて敵の衝に當らしむるの經略、一篇の間に躍然として現はれ、英雄の心事穿ち得て奇なり。延光も亦一男子の眼を有せるものなり。○信長が甲斐の弱敵勝賴を滅すべくして之を滅さず、生かして以て獨立の地位を保たしむるものは、是れ之を我防國の屏障とし、以て其背後の强敵謙信を制せんとするの術。是れ知らざるべからざる所なり。今日之を醫ふれは信長に於ける甲斐は、恰も我日本に於る朝鮮なり朝鮮豈獨立せしめざるべけんや。○某氏に贈る書狀中靑年〓育に關して曰く、夫に就て衆て私の心底に有し居候望一ツ有之候。私望を達し、他日相當之地位に上り候上は、邸內に書生部屋を作り、好望の靑年を集め、私公界に從事いたし候暇に之を引立て、元氣を鼓舞し、精神を振作し、天下の爲に死を恐れざる剛勇の文明男子を作り度事に御座候。學藝は今日公私の學校に托し候ても宜敷候へ共、精神の〓育に至りては、到底今日の俗物〓師に委ね候事は出來不申候云々。○某先生へ手紙を送る中に言へる事あり、追々獨學之佳境に進み、我ながら日々に胸中之包藏を增し、隨て眼識の漸次に高く進み來るを覺え、いと愉快に勇み立ち〓學いたし居、若し此分にして進むを得ば、今日の智識賣買學校に在學せるよりも、幾分か多く恩人の恩愛に報ゆるを得べしと喜居候に付、此意御酌量御介助之程奉悃願候。○夜、門前の緣日に於て菊一株を買來る。儿邊〓逸の氣生ず。一枝に左の句を垂る。梅でも牡丹でもなし菊の花○嬰兒より一躍して大人とは成るべからず。姫小松一夜に天を衝くの番松と爲るべから附錄(五〇三)
ず。人事亦然り。英國今日の憲法は、千年の成長なり。我國民皇室を奉ずるの忠神は、二千五百年の養成なり。今日徒らに我國の幼稚を說き、貧弱を說き、以て忽ちにして大文明國、大富强國と爲らん事を望むものは、却て大事遠謀を語るに足らざるなり。弊を打つは良し、弊の一朝に改まらん事を思ふは愚なり。○某先生へ手紙を送り、中に六雄八將論を評して、後に左の如く言へり今日字內は一種の封建國なり。列國相對峙して下らざるの狀は、恰も我國元龜天正の交、群雄割據の狀に背たるものなり。されば此時代の歴史を〓究せば、隨分今日妙に應用すべき政畧軍畧あらん。小子今泰西の學、泰西の大人物を知るに忙く候に付、異日には是非之を〓究し見度存居候。○假議事堂落成に付、是日より三日間議員の紹介あるものは參觀を許すとなり。依て余も亦井伊伯の紹介を得て、往て之を見たり。老幼男女恰も無見料の博覽會を見るが如くに集まれり。而して人皆玉座の美と、迂餘曲折恰も八幡の藪くいりの如きに驚けるのみ。されど俗物此感をなす、固より深く各むるに足らず。只余は異實に望む、此政治舞臺が、未來永久に、腐敗陰謀醜惡の汚府とならずして、具に正義誠愛公平自由の〓泉とならんとを。然れとも國會は生れて間なし。將來之を育成し、善導し、薰化せざるべからず。固より一大骨折なり。今の政治家たるもの、徒らに速に其功を成さん事に汲々として、其將來發育の如何を忘るゝが如きは、眞に時勢を知らず、時務を知らざるものなり。而して社會も亦其速功を希望するは大に誤れり○衆議院に傍聽す。品川彌次郞氏の演說は、小學の生徒が試驗に於て〓師の面前に讀書するが如し。彼が削直見るに由なし。渡邊國武附錄氏に至りては、機を見る〓にして、其答辯簡且勁、眞に鷲聲一鳴。民黨肅然、隊伍已に整へるが如し。沈默の度大に增せり梅の園に梅を見ざるを。冬は尙其氷を造れども、春は已に其氷の傍に其芽を萠さんとす。黃草は地に亂れて、其下に含める嫩芽に追はれんとし、寒木は梢に葉なきも、柳眼爲めに開かんとす。寒き風は行人の片類を打てとも、又暖き太陽は他の片類を温む。告天子は未だ雲に囀らざれども、已に畦間に冲天の英氣を養へり。冬春交代の光景誠に野に滿てり。然れども是れ豈野のみならんや。甞て赤松子に從ひて遊びし人は、人.も亦四時代謝の序を違ふべからざるを知れり都を出で〓田舍に入るは、宛ながら天に近づくの思あり。人類は天籟と代り、小刀細工は造化の大工と代る。虛飾は剝がれ、僞善は捨らる。質素なる家は巨木茂竹に纏はれて立てりされば隔壁の隣無しと雖も、而も隣情には隔壁無し。人は其身に經へる朴衣を欺かず。其附一日の獨遊(明治二十五年の物)「つく〓〓と獨むかへて照月の光も增る心地こそすれ」。明月獨り天に在り、我亦獨り之と對坐して沈視す、光氣の氷輪より滴り來りて我心に映ずるもの、豈深からざるを得んや。吾れ一日單身節を曳きて、都門二里の外に此歌主を防ふ。獨遊を擇ぶは、亦歌の意と同じ。』時は方に梅花の佳候なり。都入の遊隊は三々五々、足皆梅に向ひて馳す。梅は天女の呼息凝りて其玉姿を爲せるが如く、高士の氷魂化して其高容を現はせるが如し。吾れ深く之を愛す。而も尙之を舍てく彼れに赴く、豈故無しとせんや。知らずや無梅の林に梅有り、滿錄(七〇三)
生業は實に彼等の心をして、土の如く、樹の如く、菜の花の如くならしむ。陽に面して門に席を舗き、一老媼坐して破れたる襯衣を繕へり。一小孫傍に在りて木屑と木片とを弄せり。一群の鷄は又其の傍なる籬の下に餌を喙めり數人の小女は背に小兒を負ひて謠へり。父は麥畑に出でゝ哇を打てり。二人の見之に從へり。大なるは鍬を持てり。小なるは小紙鳶を弄びて自山に之を飛ばせり、而して父の友は其肥えたる麥を賞して行けり。斯る間に村家林野を過ぎぬ。吾が最後に到るべきの地は、又村家を離れたる野外の一杏林なり。其中には唯一寺と一庵と多くの墳墓あるのゐ。寺には數人の僧住めり庵には又一人の老僧住めり。而して墳墓には、昔し義の爲めに死し、又死せんことを恐れざりし人士多く橫はれり。巨松喬杉は之を圍み、之を覆ひ、〓寂の境をして益々〓寂ならしむ。耳に應ずるものは、唯風の梢を鳴すと、時々小禽の枝間に鳴くあるのみ。此處は異に塵外中の塵外、脫俗中の脫俗なり。吾が訪ふべき彼の歌主は誰ぞ。彼は甞て法華經中の〓甘露法雨滅除煩惱焔」の語を取りて自ら澍露軒と號せり。然れども彼は決して附に非す。甞て詠じて曰く、「大御世を安かれとのみ常に我祈る心は神ぞ知るらん」と。彼は洵に此大覺悟を有せり。其心の人に識らるゝと識られざるとは、毫も彼れの關する所に非ず。而して彼は實に此大覺悟を以て、其確信する所を决行せんとしたり。嗚呼是れ何人ぞや。然れども實は彼は既に地下に入れり。此幽靜の境に來りて祖先の墳墓の傍に永眠せり。彼は生前最も解き難き亂麻の世に立てり最も附付錄囂々たる世の術に當れり。而して遂に最も慘憺に世を去りたり。彼は元來最も靜かなる境を好めり。而も最も騒がしき世に立てり。されど終りには又此最も靜かなる境に來りて安眠しぬ。然れども彼の紀念碑は此狹き林中にあらずして、當に天下の書中に築かるべきなり。天下の心有る心の中に建てらるべきなり。而して今や彼は其墓塲の古ぶるに逆ひて、益新に其眞和を知られんとす。彼は自信して動かず、果斷して迷はず、己れを捨てゝ義の爲めにし、命を天に献じて世と戰ひたり。其不拔なるは根を千仭の地下に据ゑたる巨巖の如く、其高潔なるは、天上に聳ゆる雪嶺の如く、一たび動けば彼の不拔なる力を以て動き、断ぜば、夫の高潔の氣に訴へて断ず。若し夫れ彼に過ちあらば、其過は自信の硬きより出でたるなり、果斷の大なるより出でたるなり、命を拾てゝ義の爲めにしたるに出でたるなり。决して躊躇、優柔、私意の過に非ず。されと非常の世は非常の人物を要す。彼の世は實に彼の如き人物を要したり。故に彼は始めより自ら我肉を殺して世に出でたり。彼の眼には彼の肉無きなり、骨無きなり彼れは無體を以て世に出でたり。而して裸心を以て戰ひたり。故に彼を殺しゝものは、唯彼が既に自ら殺しゝ死肉を切りしのみ。死肉を切らるゝ彼れに於て何か有らん。而して彼の裸心は依然裸心として存せり。嗟呼彼は長へに天に活けり。彼れ已に義の爲めに死す。豈亦彼の爲めに義に死する者無かるべけんや。而して實に此人ありき。唯此人は心に於て殉死して、體に於て殉死せざりき。此人を誰とかする。彼の林中の一庵に棲める老僧是なり。老僧は燒葉山房主人といふ。句あり、「燒く丈は風の持來る優柔、私意彼の世附錄(九〇三)
落葉かな」と此意に取れるなり。彼は非常に主の死を悼めり。主家の受けし後難を〓せり。而して一たびは命を捨てゝ之を救はんとせしも、遂に爲す能はざりき。而して主を思ふの念は益々禁ぜざりき。されど又一方に彼は擾亂の世を厭へり。生者相殺すを厭へり。是に於て决然妻子を擲ちて僧と爲れ60而して此林中に來りて主の守墓者と爲れ00爾來其墓門に主の茶室を建てられて、彼は之に住めり。今年齡七十。敝衣を纏ひて竹箒を取り、林間墳墓を酒掃して餘念無く、して好んて老衲箒を取るの圖を〓きて人に室には紙册狼藉終年帶を入れざるが如し。而も我而與ふ。主甞て自ら達磨の圖を〓き、其上に一首の歌を書して曰く、「すみにごる跡こそ見えね谷河の其水上にわけ上りては」と。彼は之を其住め(〇一三)る主の遺室に揭げ、暇には其前に修禪す。其生を安じ、死を安じ、主の傍に安じ、世を離れて安じ、泰然超然、一點の苦惱無きの狀を見ば、誰か又超脫の念を起さゞらんや。眞に封建時代の奇遺產にして、又〓虛の法身なり嗟呼人若し夫の潤露軒を知らんと欲せば、之を三十三年前開國の史に問へ。而して其墓を吊せんと欲せば、之を荏原郡世田谷村の一杏林に訪へ。焼葉山房主人は喜て之を迎へん。附錄第二期基歸〓して專ら病を養ひ(同二十八年に至る)、明治二十五年よりし時代養病餘言(拔萃)〔明治二十五年秋)○病中仙たれと余に勸むるものあり。仙とは何ぞや。人爲界を混脫して、自然界に逍遙するの意乎。果して然らば俗界にありては、遂に仙者たる能はじ。仙境に入りては、遂に俗物たる能はじ。されど世は仙景俗風の經緯によりて織出されたり。人の住む所、俗觀無きは無く、山川草木華禽風月のある所、仙觀あらざるは無し。而して人の仙景俗風に接するや、俗人は仙景も猶俗觀するあり、仙者は俗風も猶仙觀するあり。眼識如何に在る耳。或時は俗人と爲りて俗觀し、或時は仙者と爲りて仙觀し、自然の賜物、人爲の光景、兩ながら之を領得して以て悠〓自適、靜かに生を養嗚呼亦妙ならずや。余の取らんと欲する所此處に在り。全然仙たるは遂に余の爲す能はざる所。○主客の心得-來るものは拒まず、還るものは留めず。長坐は客の勝手たるべし。但夜は十時を以て去るを良しとす。一、主人の氣儘を谷むべからず。客の窮屈にするは客自らの損たるべし。一、坐するに上下なく、語るに尊卑なし。一、客は自ら得意の談を爲すべし。主人は喜て聞手と爲らん。政談は見合すべし。其他の談話は自由な附其他の談話は自由な一、山行、水遊、賞花、愛禽、兒童、君子、風流なる詩歌、上品なる滑替等の談は尤も妙なり。右の心得を犯すものは、自ら己を〓訴して、自判自割たるべし。○始めて相逢ふ、時に年共に二十八。而して助ふものは、天下に定まれる家なき寄食の窮士なり。訪はるゝものは、雄藩の公子にして、僅に一小屋に屈居せるの窮士なり。而して一は賴て以て己が材力を展ばすに足るべき人を求め、一は又賴て以て我力と爲すべき人無き賞花、愛禽、兒童、君子、上品なる滑替等の談は尤も自ら己を〓訴して、錄- (一一三)
を病めり。而して又二人共に其好む所を等うし、相逢うて語らんと欲し聞かんと欲する所を等うす。此同年、同窮、同望、同好の鐵索は、忽ち此初會合の主客を繋ぎて、復た離れ難き忘れ難き交義を結ばしめしこと問はずして知るべきなり。而して他日一は一躍して大藩の主となり、再躍して天下實權の把握者となり、一は其股肱となりて天下に威を奮ふの身とならんとは、當時焉んぞ彼等が夢視する所ならんや。然れども天下の第士は豈終生窮士にして巳むを欲せんや。彼等は皆時を俟てるの潜士なり。伸びんと欲するの届者なり。されば夫の意氣相投ぜし主客は、當時他日彼等が頭上に落ち來るべき運命を豫知せざりしと雖も、又焉ぞ時來らば張翼を共にせんと欲する默契暗約ありしを知らんや。而して此默契暗約は、果して他日實となれり。是れ實に井4伊直弼と長野義言校町者云義言は主膳の實名なりとが埋木舍に於て天保十三年始めて會合せし時の事也。○井伊直弼を吊するものは、又長野義言を吊して可なり。彼は直卿の臣下たると同時に、又其〓授者たり。彼は直弼の使役者たると同時に、又其黑幕たり。彼は直弼の手足たると同時に、又其腹心たり。若し審かに直彌が腦髓の要素を驗せば、義言が注造せしもの决して尠からざるべし。されば直弼の得たりし報酬の幾分は、彼が招きし所なるを認めざるべからず。故に彼は固より直弼の過の幾分を負擔するを辭すべからずと雖も、又正當に其功勳の分配をも受けざるべからず。 * * 吊長野あらし吹高嶺にたてる松が根を君にあらずはいかでさゝへんそのもとに動かぬ岩の立添へはまして柳に風折はなし附錄天寧寺に詣でゝ主膳を吊す萩の花今も昔にかはらぬをめでにし君の面影と見ん懷長野吹おろす嵐にたちし谷の松世にも知られぬうきをへにけり月あらば玉の光を添へぬらん開にきえにし秋の夜の露打出でゝ見れば近江の海と空あはせ鏡にうつる我かな近江の海よもの山邊はもみづれど水のみどりはかはらざりけり附紅乘春は花夏は靑葉の梢經てけふ紅葉する山櫻哉まだ靑し靑しとばかり思ひしにけふの梢はにしきなりけりみどり葉もいかでむなしくちりぬべきけふのもみぢに心見せける月にてり霜にそみにしもみぢ葉はちりても赤き色を殘せる隣邸の荒跡に偶ミ轡虫來て鳴く轡虫知らずに來たか厩跡月明かに湖廣し〓冷言ふべからず時に一俗流來りて卑汚の言甚し述懷物思ふ秋の哀れをよそにして我は野山に遊暮さん錄湖上感近江の海打眺むれば沖遠く山邊行くかと見ゆる舟哉近江の海武藏の野邊ともろともに月は山より山に入りけり、(三一三)
絹を着た人が汚しぬ湖の月(四一三)り吾業始まらん。男兒の業は悠遠なり。爾の幽靈若し知るあらば、吾將來を見よ。爾一の好知己を得たるを喜ぶものあらん。菅公歿日前一日湖州生戲筆城濠の蓮開きて君子の〓相掬すべし蓮斯くの如し而して三州武士の遺族は遂に泥中に沈淪せる乎これのみが城の飾か濠の蓮附回春帖自序(ににゝに勸スナ)明治二十九年特病を故山に歸養して去年二月に至る。天寒く雪地に滿ちて、野外に行樂の望なし。徒らに戶內に爐を擁して、病雄猶脾肉の嘆あり。思案は乃ち此帖を作るに落ちぬ。盖し是れ亦自ら投ぜし一個の獅子毬たり。帖は國民新聞の挿〓を撰拔して成る。新聞紙を與へしは三浦金湖なり。帖に名づけしは藤田排雲なり。當時予が切りに新聞紙を截り、截りたる〓片を把弄し、糊を用ゐ刷毛を手にし、紙片狼藉の5間に身を埋むるや、人あり來り見て以て見戯下駄でふむ溜り水にも今日の月自慰無聊(明治二十六年二月二十四日)來れ三十六峰外史よ、吾れ爾に語らん。吾能く爾を知れり。爾は果して能く吾を知れり耶、否耶。今や吾は爾と同病の中となれり。憾むらくは爾今の世に生れて、同病相憐むの眞情を致す能はざるを。但爾は血を咯て死し、吾は血を咯て死せず。爾は血を吐て爾の業終り、吾は血を咯て是よ錄も亦太甚しと爲したりき。而して帖成て後、一見先づ激嘆の聲を發せしものは、亦此冷笑者なりき光陰は急過す。人は多く之を懶過す。新聞紙は日々に新事件を報ず。多くの讀者は之を輕々看過す。此〓も亦甞て心無き讀者の半日の記臆にも留まらざりしものなり。遺ちたる玉を拾ひて此帖を綴る。看者冷觀せは、先きの冷笑者は飜りて爾を冷笑せん。五彩絢爛を以て美と思へるものは、此〓を見るべからず。金裝玉飾を以て美と思へるものは、此〓を見るべからず。金錢の價を以て〓を論ずるものは、此帖を見るべからず。天地の美藏めて此裡に在り。人間の美收めて此中に在り。(參照)回春帖序湖州動勉愼密、余則懶惰粗放、性情不同而尙友善、一別五年、余在清國、偶來書云、頃罹肺患、幸未爲篤、及今加〓或得無虞、余一讀不免好傷心、乃答之云、須廢讀書事心保養、休學三年何妨之有、後越阿歲、還居郷土、見殷然、頗造豫想、骨太肉肥、氣壯神健、適異昔年、有優無劣、湖州曰、自一略血之後凡二十又二月、醫治奏效、刻已告愈、其間行樂山狩湖釣、攝生之法備靡不至、余聞而喜甚、以爲懶惰之利粗放之德有〓子我、宜矣其致有今日也、自是兩々溫交倍舊、風展月夕來往談論、一日架上見有橫陳襤帖、取而看之、係拇截自新聞紙面、以作成之者、本非費工夫半年以上則不可及、而着想之奇、配置之妙、眞乎可歡、粲然可見、潮州語曰、病中無聊戯爲之耳、余歎久之曰、危哉妄爲、雖言戲乎多勞心神、於病豈無害、不幸誤入鬼籍、則俾友人爲不起之原必在於此、而抱持落淚者其在子此帖乎、湖州辯曰、吾之所思大不相同、且蒐且樂、以爲慰藉、以爲保養、况今轉屬已爲福、晴勿復答既往、〓帖却是可爲乾坤回春之紀念也耳、余笑而不復爭、蓋知湖州雖則勤勉以自招病、然愼〓以自救之、價而有餘也、而至余則未有懶惰自破、粗放白補之聡、於是乎不得不姑爲退讓也、是爲序、明治廿七年四月初三排雲散人書於彦根舊業容膝之處附錄(五一三)一別及今
其二彥根に在りて修史の補助を爲し〓時代已之記(拔萃) (明治二十六年七月よリ同年九月に至る○某氏に書を送る。歸〓の感を記して曰く、七年前東京に行きしより以來、僕は數〓故〓に歸りたりき。されど今度は何となく我故〓に歸るの思ひせざりき琵琶湖はこゝに在り。金龜城はこゝに在り。小學の友達はこゝに在り。叔男もこゝに在り叔姑もこゝに在り。數多の從兄弟もこゝに在り。然れども尙我故〓に歸るの思ひせざりき。何となく物足らぬ〓に入るの思ありき。嗚呼、君其れ知らずや。我最愛の人今は此地に亡し。嗚呼、父母無き故〓は已に半ばは異〓也。○東海道旅中の威。嶄然として富岳に立てる夏雲を見て山に立つ山に立ちけり雲の峰關ケ原の懷古雷で小言はやんでしまひけり〇二週間の上京、余に與へし所决して尠からず自ら顧れば、歸〓後の我は、確に出〓前の我と異なる所あるを覺ゆ。多くの友人と會して、彼我の長短を知るの機會を得たりき。學識は彼等之を長ぜしならん。然れとも意氣と眼識とに至りては、我れ必ずしも彼等に譲らず。某は言へり、君は餘りに用意に過ぐと。又某は言へり、君は實際に過ぐと。然り是れ余が長所に伴ふ短所なり。二氏の評言沒すべからず。然れども人の評言は、偶〓我が評言なり。二氏の評言を見て、亦二氏の人品の一端を窺ふべし。○旅行は惰性の垢を洗ひ去りて、心の〓泉をして混々たらしむ。附付錄○人は自ら誇る所(Pride)を有す。自ら誇る所は、其長所なり。人は弱點に生きずして、其長所に於て生を繋ぐなり。故に能く其長所を知るものは、眞に彼の知己なり。知己は彼に生命を與ふるものなり。然れども亦人は獨り長所に於て生けるのみに非ずして、其弱〓を滅せんとするに於て生けるなり。故に此弱點を正すの知己は、亦我に生命を與ふるものなり。○昨日夜に入りて測邊に遊ぶ。水は廣し。天は更に廣し。廣き天には無數の星斗碁布せり。月無き暗夜は、此無數の星斗に由りて、微なる光を有せり。されば十里の外なる湖西の連山も、暗淡の間に見認られぬ。沖行く帆舟も見認られぬ。此處彼處に見ゆる漁火は、月夜よりも明かに見えぬ。風は遙かに比良の峰を掠めて、斜に天外より水面を打ちて來れり。座界の響は、磯打つ濤聲によりて打消されぬ。埠頭に立てるものは、唯我れ獨り耳。狹き家を去りて豁然たる天地に出で、塵界を出でゝ自然の境に來り、人籟を避けて耳を天籟に洗ふ。而して凉氣は颯然として來りて、頓に日中の苦熱を忘る。神氣陶然として天國に入る。須臾にして身の何の境に在るを忘れて、無心にして只獨り立つ。偶々來れる跫音は、余をして再び有感覺に還らしめぬ。見れば處女の一隊なり。彼等の一人は忽ち叫べり、「死なんと欲せばこゝにて死すべし」と、底知れぬ深き水を見し時に。嗚呼、夜は暗し、天は渺々たり、水は幽々たり、風は波を起せり、波は高き聲を立てたり、而して脚下には底知れぬ深き水あり。嗚呼、此夜は如何に心弱き女性の心を雖ちし附無心錄(七一三)
ぞや。我には天國に入りし夜なるものを。○小事積て大事と爲る。小成功積て大成功と爲る。小快樂積て大快樂と爲る。小幸福積て大幸福となる。無數の小事を積重ぬる忍耐なきものは、遂に大事を遂ぐる能はず。大成功を爲さんと欲するものは、小成功を積重ねざるべからず。人生須らく大成すべし。されど大成は小成の集合躰なり。小成に安ずる、必すしも不可ならず。唯夫れ多くの小成を積まざるを不可と爲すのみ。小成.小成、又小成。今日小成、明日小成、明後日小成。小成、小成、遂に大成を爲す。今日は今日の小成功に安じ、明日は明日の小成功に安じ、明後日は明後日の小成功に安ず。小成功重りて大成功を爲し、小成功の安心以て大成功の安心を買ふ。小成に安ずるを知らざるものは、苦痛を脫する能はざるもの也。心の貧しきものは幸なり。爾其れ小成に安ぜよ。然らば爾は幸なる夜の眠を結ばん。然れども爾决して小成に止まる勿れ。止まらば爾は既に死せしなり。○江州の人は琵琶湖を見ず。○自重より出でたる恭謙に非ざれば、眞の恭謙に非ず。○人心を見るものは、其瓦礫を見ずして、珠玉を見よ。人若し心に一點の玉を藏せば、累々たる瓦礫も、尙其餘光を受けて鍍光を放つんもん○偉人は能く最も大なるものを見、又能く最も小なるものを見る。能く最も遠きものを見、又能く最も近きものを見る。其見る所の大小、遠近の距離益々大なるもの程、偉人の益々偉なるものなり。○李涉曰く、水似晴天天似水、兩重星點碧瑠(八-三)止まら附錄苦痛を脫す兩重星點碧瑠璃と。是れ宛然營湖〓夜天地靜なるときの景予も亦甞て湖上の感詠數首あり。中に曰ふ、近江の海くもゐの空とうつりあふあはせ鏡のうるはしきかな○父母の墓に詣づ予は甞て明治二十六年に於て、獨立の生を立つる决心なりき。母の在しことき、常に此獨立の期を以で告げ、此期を以て子も亦共に奉養せんことを約したりき。母は之を以て常に明治二十六年、明治二十六年と呼びて、只管予が獨立の期を待ち給ひき實に母は唯此一つの望を繋ぎて、老いたる生を繋ぎ給ひしなり。古人何ぞ不祥の言を爲すぞ、樹靜ならんと欲すれども風止まずと。母は終に其時を待ち給はざりき。奉義の望み空に歸して、千古の遺恨此上無し。今や予は自ら期せし如く、母に約せし如く、獨立自活の身となりぬ。母を思ふ毎に、天を仰いで鳴咽するのみ。然れども母の靈若し知るあらば、予は决して母を欺かざりしを知り給はん。〇人は時として暗中の大决心を爲さゞるべからず。而して後其决心に應じて活路を推開せざるべからず。○决心は寛容を生ず。○早雲飛火長空を燎く。屋宇熱堝に變じて、腦漿沸くが如し。是時忽焉凉風颯然として襲ひ來り、衣襟夾然として神氣透徹水の如し。先きに解し難きの書、忽ち釋然として氷解す。嗚呼、何物の快樂か之に及ばん。○最も無慈悲なる社會は、過を改むるものを寛容せざる社會なり。○同情の極、無言の境に至りて、始めて知己の交成る。○田舍は偉人を生まずして、偉人の卵を生む。母を思ふ毎に、天を予は决して附鏡始めて知己(九一三)
○天は毫も飾らずして、能く飾る。○我國には人の爲に家を造らずして、家の爲に人を造るの弊あり。獨立の人よりも、獨立の家をば多く讀す。○女の性は梅雨の如し。男の性は夕立の如し。女の毒は蛇の蛙を呑むが如し。男の毒は狼の人を嚙むが如し。○牽牛花毎朝開くもの一二。嬌娟ならざる花にして始て夏日の蒸想を醫すべし。造化も夏には多く〓淡なる花を造る。○病氣は大なる艱難の經驗なり。○病人に尤も多く同情を表するものは、病人なり。病院は病人の倶樂部なり。○午時睡後東坡の句を讀む。黒雲翻墨未遮山、白雨跳珠亂入船、卷地風來忽吹散、望湖樓下水如天。天地の活動何ぞ雄絕なる。何ぞ激甚なる。何ぞ快大なる。造化の大活劇眼前に在り一讀眠忽ちに散じ、暑さ忽ちに散じて、神魂天地に磅礴す。人世を思うて偉人を望む。○昨夜湖邊に遊ぶ。同行の小女に一句を促されて、月風水すゞみ道具のそろひけり○秘密は必ずしも腐敗を造らず。然れども腐敗は必ず秘密より來る。○吾人世に處す、須らく現在に滿足して、未來永久に不滿足たるべし。現在に滿足して以て安心を得べし。未來に不滿足にして以て進步を得べし。安心ありて以て怡々乎たるを得しもう進步ありて凛々乎たるべし。○智者は自ら經驗せずして經驗し。愚者は經驗して經驗せず。○今夜の我は、昨夜の我よりも進みたる我となりて眠りに入れ。明朝の我は、今朝の我よりも進みたる我となりて起きよ。暑さ忽ちに散じて、神魂天地(C二三)附病人錄愚者は經卷地風○竹生島に遊ぶ。促すものは遠く歸りし某氏なり。應ずるもの三人。予も亦其一人なり。行きしは避暑の爲に非ず、行樂の爲に非ず、交情の爲めなり。坐して同一の景を見て語らんよりも、動きて以て萬景送迎の間に語るは、其快情隻かに勝れり。朝に家を出でゝ、夕に家に還る。陸は滊車を以てし、湖上は滊船を以てす。驕陽の威も湖上には和かなり。水既に熱を和ぐ。開豁の景既に熱の威を殺ぐ。微かなる風亦熱を消す。漁船の進行亦風に逆ひて風を强くす。鏡面を圍みて、四方に靑山連り立つ。靑山の峯頭更に義然として白雲峰峙つ。蒼々たる穹條垂れて此雲峯と接す。宛然是れ自然の材石を以て造られたる一大宮殿なり。然り今や吾等は蒸氣の魔力に助られて、此廣大なる靑疊の上を走りつゝあるなり。而して殿中の尤も〓開靈淑なる一小宮室に達せんとせるなり。巖と樹とを以て造られたるこの一小宮室は、是れ眞に玻璃盤上の一靑螺たり。』辨財天を以て此島に重きを置くは、抑も何等の俗物ぞ。此島の此島たる所以は、幽寂と、〓雅と、開豁と、秀明とに在り。尤も近く天然に接するを得るにあり。人は謂ふ、日本は秀絕の山水世界に冠たりと。琵琶湖上の竹生島は、太平洋上の日本なり。○日本人は、西洋人よりも、多く變化の間に美を認めて、一致の裡に美を認めざりしには非ざる平。○消夏の良法は、心をして暑を感ずるの暇無からしむるに在り。即ち孜々汲々業を勉むるに在り。然らざれば寧ろ正裝外に出でゝ人を訪ふに在り。惰は暑を增す。○日本人は動く人なり。變じ易き人なり。决して永く一處に停る能はざる人なり。故に能附錄
く之を利導せば能能進步するの人と爲るべし然れども之に反して又退步し易き人となることを忘るべからず。○安息の日を勞苦の日に於て求めよ。○感激は如何にして來る耶。特更に感激せんと勉めたりとて、感激は來らざるなり。知らず識らず感激す。是れ感激の感激たる所以なり如何にして知らず識らず感激するの玄境に達するを得る乎。固より一朝にして達し得べきに非ず。恒久素養して、而も素義の境を解脫せざるべからず。素養夫れ如何にして爲すべきか唯夫れ眞一と爲らん耳。彼れ具一の秘性よりして語る我に於て眞一無くは、焉んぞ其眞一を悟るを得ん。感激は至難事あり○是日余が二十八回の誕生日なり。成敗、安危、禍福、功過の縱橫せる過去を回想して、百感胸中に淘涌す過去を思へば、現在を思ひ、現在を思へば、將來を思ふ。我に過去あり。我に現在あり。我に將來あり。我夫れ此三世を如何にせん平。汝光陰よ、汝が徐かに急ぐが如く、現在の我をして、過去の我よりも一步進ましめよ。將來の我をして、現在の我よりも一步進ましめよ。進み道みて、我達すべき處に達せしめよ。○决心成りて玆に新生涯始まり、新進步始まり、新活路始まる。最も能く决心するものは、最も能く事を成すものなり。最も早く决心する能はざるものは、最も憂の多きものなり。○是夜天晴れて月明かなり。乃ち彥根山に上る東都の友人を思ひて、きかまほし月よ語れよあづまぢの友はいましも何をなしけん靜に石に踞して月と相對す。唯我れ月を見るのみならず、月も亦確に明光烟々たる眼を以て我を見るなり。我れ月を見、月我を見る。(二二三)附錄現在を思へば、雨々相見て神氣相通ず。彼は我たり我は彼たり。月は我たり我は月たり。月の美は我の美なり。我が眞は月の眞なり。月の光は我の光なり。我の靈は月の靈なり。嗚呼、是時我は眞に天の我となれり忽然二三の斷雲天空にさまよふを見て、照月の空にも雲はたえねども我心には座だにもなし然れとも顧みて我平生を思ふ。我は果して常に斯くの如くなりし乎。我は果して恒久不變に、始終に、美と眞と光と靈とに由りて滿たされし乎。嗚呼、嗚呼之を思へば我は悚然として膚粟を生ず。爾我心の美よ、爾は我心の醜を滅盡せざるべからず。爾我心の眞よ、爾は我心の僞を食盡せざるべからず。斯の如くして我をして常に常に月の如くならしめざるべからず。我は益〓磨せざるべからず。我は彼明月の如遂に圓滿とならざるべからず。○人は常に何物をか求む。求むる所無くしては、一日も存すべからず。人々往々云ふ、我は遂に世に求め無しと。彼は果して然る乎彼は全然世に求め無き乎。否々、决して然らず决して然る能はず厭世の裡に何物か求めつゝあり。妄想の裡に何物か求めつゝあり。暗中に何物か求めつゝあり彼は最後には死を求むるなり。人は適當に求めざるべからず。○人は己を知らざるべからず。されど己の外に眼の及ばざるものは、與に己を知る能はず。○友に飢えたるものは、食に飢えたるものよりも可憐なり。○我はこゝに立つ。我は先づ此處とは何れなるやを知らざるべからず。我は如何にしてこゝに立つやを知らざるべからず。我は何故に附之を思へば我は悚然として膚粟錄(三二三
此處に立つやを知らざるべからず。○犬は細を以て制すべし。馬は轡を以て制すんし6人は須らく自由を以て制すべし。〇今の靑年、書を相手にして人を相手にするの道を學ばず。學校に勝ちて社會に敗るゝもの多き所以なり○油断は大敵なり。されど人は時々油斷の時無かるべからず。油斷の時は、敵を忘れたる時なり競爭を忘れたる時なり。生死を忘れたる時なり。休息の時なり。閑日月の時なり。無意識の時なり羽化登仙の時なり。油断其物は人に取りて害あるものに非ず。人は唯油斷すべき時を誤るが故に、油斷往々大敵となる耳。油斷は必要なり英雄閑日月あり。彼は眞に油斷すべき時を知れり○眼前の急務を努めよ。今日斯くせよ。明日斯くせよ。いつの日か遠大の目的も眼前に來らん。○何の業か趣味無からんや。苦勞を感せざるは、其業にはまり込まざる所以なり。樂に趣味あるが如く苦にも亦趣味あり○小人閑居して不善を爲す。然らば大人は關居して不善を爲さざる乎。然り勿論爲さざるベし。されと亦大人は决して開居せず。よし彼は形躰的に開居するあるも、精神的には决して閑居せざるなり既に閉居せず、彼れ固より不善を爲すの暇あらざるなり。故に我は不善を爲さざるものを大人といはんよりも、寧ろ閑居せざるものを大人と爲さん。されば夫の小人も、眞に閑居せずは小人に非ず。少くとも彼が閑居せずして正業に服せる間は、優に大人だるべし。神聖なる職業は、小人をして大人たらしむ。附錄子に主膳を語りて曰く、彼の着衣は白襟黑羽二重、劍カクバミの紋付たる縮緬羽織にして絹袴、蠟色の大小刀を腰にして、紀州長野主馬政用路と記せる兩掛を持たす、宛然是れ一個の公卿の扮裝なり。丈高くナデ肩にして肉瘠せ、凡そ三尺八寸位の衣を着るべしと思はる。顏長くして色白く、隆準廣額、下類殺げ眼大にして皆上り、眼底自ら威嚴あり眉太くして眼と能く相稱ふ。濃髪太く結びて高く頭天に在り。顏貌寧ろ婦人の如く、毫も武人の相無し。態度温雅、擧動沈着、言緩にして小、自ら一種の訛音を帶ぶ。循々として能く談じ、又能く笑ふ。〓ふるに懇切、詠歌極めて早し。○彼れ嘗て感する所あり、稻荷の社に參籠して、斷食三十餘日に至る。肉衰ヘ氣餒え、殆と死の遠からざるを覺ゆ。一朝頓に其謬妄を悟りて、直に停むと。彼の執着力に富める亦囊總統隨感錄(拔萃)(明治廿六七年の頃)○靑木千枝翁校訂者云翁は彥根の歌人にし今は故人なり長野主膳の歌を評して曰く、彼の歌は寧ろ巧致に過ぎて間々解し難きものあり、彼蓋し最も新古今集を好む、新古今集は最も巧致なる歌集なりと、予は思ふ、長野の歌頗る格調を貴ぶの跡あり。着想は寧ろ平凡なり。彼が船中の百首詠、校訂原より彦根まで里許の船中にて者云船中の百首詠とは安政元年今日の祝ひの心を百首つか五月十五日直弼歸城の日米應じたるもの也ふまつれとの命に速は速なりと雖も、畢竟御茶漬たるに過ぎず。巧役は无根水君隻かに勝れり奇想天外より來るが如きは、决して長野に望むべきに非ず。彼は情の歌人に非ずして、寧ろ智の歌人なり。天才の歌人に非ずして、鍛鍊の歌人なり。○長野主膳志賀谷校町者云志賀谷村は近江國阪田郡にありに在りて、時々彥根に來り、上田文脩の家に投ず。石原純章翁醫通宵しに云籍順位人々の ににててを翁附付錄(五二三)
以て知るべし。○長野の妻瀧辭世の歌あり、まよひこし浮世の暗をはなれてぞこゝろの月の光みがゝん彼れ人生を以て浮世と爲し、浮世を閣と爲す。未だ人世の全躰を解せずと雖も、而も死して靈光界に入ると爲す。悠々死に就く亦安心ありと謂ふべし。主膳其墓碑に記して曰く、初代長野義言妻と。彼れ初代といふものは、即ち幾代の子孫を豫期せるなり。而して彼は遂に初代が即ち終代となりて果つべき運命を有するを知らざりき。彼れ絕命の辭に曰く、飛鳥川昨日の淵はけふの瀨とかはるならひを我身にぞ見る時勢反動の激流の犠牲として、斬頭臺に上る遺恨の心衷以て觀るべし妻の所謂浮世の闇をば夫は正さに經驗したり。○昨年主膳の追悼會彥根樂々園に開かる。三十年前彼れの極刑を主張せしもの亦來り會す。人生の變亦奇なりと謂ふべし。予乃ち主膳の歌に摸して彼を吊す。飛鳥川淵瀨のかはる習ひをば今日又君の身にぞ見るなる○長野は謀臣にして忠臣に非す。情を以て君に仕ふる者に非ずして、智を以て仕ふるものなり彼れの歌が情の歌に非ざるが如く、彼は决して情の人に非ず。彼は膽畧よりも寧ろ才略の人なり。其大膽なるが如きは、畢竟才略の他に勝れる結果の斯く見ゆるのみ。彼は武人の剛膀を有せず。唯彼れの智見は、能く機微の間を洞察して、巧に危險の裡を切廻り、通り拔くるなり故に彼に若し許すべき勇氣あらば、是れ智勇にして决して膽勇に非ず。○彼は頗る臨機應變黨なり彼れ偶々德川に特別なる關繫を有する井伊氏に仕へて勤王佐幕を撰决すべき位地に立てり。故に彼は熱附錄三心なる佐幕家と爲れり。されど若し彼にして仕ふる所を異にせば、亦熱心なる勤王黨となりしやも測られず。元來彼は歌人なり。皇國學を學べり。本居派の人なり。學問の系統よりすれば、正に勤王說の左祖者たか。攘夷黨の味方たり。彼れの性行は、江戶の人に非ずして、京都の人なり。唯夫れ彼は歌人たるには餘りに世話好きなり。學者たるには餘りに橫着なり。彼れの長所は、書に對するに非ずして、人に對するに在り。彼は正道を蹈まずして往々奇道を涉るを好む彼は眼前に來る所の者を捕べて、直ちに自家の利刄を以て之を解かんと欲す。之を解かんと欲するの急なるが故に其捕ふる所の何物たるを撰ぶに暇あらず。自家の學ぶ所の主義に反し、自家の性行に反する所に向ひて、尙其利刄を試む。幸に彼れの刄は銳利なり、盤根錯節も尙能く斷つべし。彼は獨り味方を利用するのみに非ずして、敵をも利用せんとせり。若し彼れに政治家たる資格の許すべきあらば、即ち彼れが現在眼前の紛糾を解きて、釋々たるの力量是れなり○天下の大勢を達觀するの眼識、大勢に應じて百年の經綸を立つるの智慮、經綸の大策を實行するの雄腕、天下の信托を博して責任を重ずる德量、是れ正さに政治家の最大要格なり之を總て具備するものは、具の大政治家たり。其一を有するもの、亦一政治家たるを妨げず。○書を讀て、心〓忽然として古人に觸れ、靜夜月を仰ぎて、感慨涌然として古人に及ぶ。同情の念沸々として起る。是時彼を觀察し、彼を沈思す、大抵誤らざるを得。○其目的にして大道を離れず、其主義にして正理を脫せざれば、如何なる目的も、如何なる主義も可なり。而して此目的と此主義との附錄(七二三)
爲に、一身を投じて苦心經營、以て我光陰を空うせざれば、則ち以て我一生を全うしたりと謂ふべし。其業の成敗は、必ずしも問はず。其手段の過失は、恕すべし。○政治家の任は、當代に仕事するに在り。故に先づ當代の急務を取りて、之を施設するを要す。而して其施設の影響間〓百年の後に及ぶものあるが故に、政治家は、百年の後を慮るの智見を要す。然れども時には眼前の急、百年の後を慮るの餘地を許さゝるものあり。政治家が勝敗を一戰に睹するの機實に是時に在り。○武士道の精神は義に在り。義の中に於て最も重きを恩義とす。恩義中最も重きを君恩と爲す。故に武士道は忠義の爲に凡ての物を擲つ。百九十四頁第九行以下數行を參照すべし校訂者云第百七十八頁第十行以下數行及第○今の者切りに責任を喋々す多く言ふものは甚だ行ひ難きを反證す。昔の武士决して實任の義を解せず。而も死を以て責任を負へり。躰面を知るものは、責任を知るものなり。耻を知るものは、責任を知るものなり。然諾を重ずるものは、責任を重ずるものなり。○大菅中英が富岳の詠、夙に人口に膾炙す。曰く、心あての雲間はなほもふもとにて思はぬ空に晴るゝふじの根村田泰足又同じ詠あり、鳴神も雲も麓をめぐりつゝ曇る日しらぬ山はふじの根无根水君亦詠あり、薄くこくもみづる山に立越えて雲井に高き雪のふじの根三首昔富岳の高きを詠ぜんとせる者、而して无根水君の詠最も秀絕、雄絕、明絕なり。○昨夜五更起きて庭前に出で、天上の月を仰ぎ見る。忽ち「敏鎌に似たる月凄し」の一句を得附錄て、左の歌を作る。方に〓韓の風雲急なる時。』と敏鎌に似たる月すごし。一點かなたに破軍星。猛雨を含む黑雲は、今しも裂けん計なり。舌の尖より毒氣吹き、手に狼藉の劍を拔く。天下の大道何物ぞ。文明進步何事ぞ。登る朝日を打掩ひ、闇に働く聞の業。附林動かず、鳥なかず。山の燒猶くらし。徐かに急ぐ一隊は、破魔の軍に急ぐなり。あはれ犠牲の朝鮮よ。肉をひき裂き、骨を割り、食盡さんと進み來る、惡魔の前に尙眠る。 * ○日本は支那と共存して、永久東洋に幸福を共受するを得べき國なる乎。其然ると然らざるとによりて吾人の對〓策决す。○若し然りとせば、日本は〓と手を携へて、歐洲西來の權力を拒がざるべからず。然らず忍び難きを忍び來て、今は忍ばん綱ぞ絕ゆ。十年磨きし一劍は、長蛇に加へん寸斷刑。錄(九二三)何するものぞ敵の支那。夜叉の姿を現はして、
とせば、〓を滅しても、日本の存在と進步とを圖らざるべからず。○されど尙吾人の先づ决すべき問題あり。支那は進步すべき國なりや否や。少くとも歐洲の侵漸力に對して、智力上、財力上之に拮抗するを得る迄に進步するを得べき國なる乎○若し少しも他の誘掖を待たずして、自動的に進歩し得べき國なりとせば、日本は共に手を携へて相盟ふべしされど到底自ら進步せざる國とせば、而して日本の存在上妨害ありとせば、日本は之を滅さヾるべからず。よし日本は滅ぼさゞるも歐洲の强國は蠶食し始むべLo○余は思ふ、今の儘にしては到底進步の望無しと一國としては〓土過大なり。人口過多なり。斯る國は如何なる銳利の機關を以てするも、到底運轉すべからずよし運轉し得べしとするも、他の進步に伴ふことは固より難日本の存在と進步と支那の山て以て强しとする所は、Lo唯其〓大なるのみ。支那は决して堅く且つ重き實質を有せる鐵塊に非ずして、唯一の大なる土塊のみ。土塊も大なれば、爲に動かし難し。○されど土塊の大は、他より大痛擊なき間に於て保ち得る耳。一たび大打撃を受くれば、忽ち土崩す。土塊は固より土崩の性を含む。○他より運らし難きは、自らも動き難き所以。進歩は運動を意味す。支那の靜止的惰力は、既に幾千年來の遺傳なり。中華の自尊心は、進步停止を表示す○故に日本の對清策は、唯政權上に於て支那を殺すに在る耳。而して更に日本に利益なる政權を立つるに在る耳。○されど對〓策は對歐策を含む。歐洲を見ずしては、支那を制する能はず。○日本は歐洲列國權力の競爭に向ひて、最後の判决者の位地に立たざるべからず。日本は附錄歐洲を見ず日本が與へし最終の宣〓に對しては、歐洲の列國をして飽迄服從せしめざるべからず。而して日本は彼等の競爭を終結せしめて、普く平和の幸福を享けしむべし。○日本は背後なる米國-平和の天使國たる米國と共力して、此大貴務を負ふべし。而して其競爭最後の界線は、支那海岸を限りとすべし决して一步だも支那海以東に轉ぜしむべからず。○彼等が最後の競爭の餌として支那を投ぜよ。而して平衡に之を分割せしめよ。日本は其配劑者たらざるべからず。○併し日本も固より其一部を取るべし。日本に最も近き上海より進みて最要部を取るべし○英國は香港より進ましめよ。佛國は安南より取らしめよ。魯國は滿洲より取らしめよ。朝鮮は固より我國のもの。○支那到底進步せずは、之を進步すべき國に改造せざるべからず。支那人種改造は、文明上最も必要なり吾人は其手段として政權を握有せざるべからす。附 * ○友人某に言ふ。今度君の結婚沙汰、僕何とか言はん。無論コレモンセンスより言へば、御めでたしと言ふより外無し。併し僕の一種排凡俗主義は、今直ちに大兄に向て御祝儀を呈する能はざるを如何せん。僕をして事の决せざる前に聞かしめば、僕亦聊か言ふべき所あり。老母、親戚、友人の勸誘に從ひての結婚、多くの俗人は斯る口實に山りて結婚す。結婚とは斯る口實を要する業なる乎。他動的結婚、自信に出でざる結婚、情實的結婚、眼前都合好し的結婚、併し過去は僕彼た言はざるべし。君も錄(一三三)
亦斯る結婚を爲さゝるべし。唯君にいつ迄も永く心に記し、心に活かし置かんことを望む一事あり結婚は幸福の天使なると同時に、墮落の大誘惑を有す結婚は安慰を持來たすと共に、往々進步を沮斷す。結婚は家內に戀々たらしめて、天下の事を忘れしむ。結婚は現在に滿足して、理想を卑からしむ。結婚は一身の運動を重からしめて、保守的停步的人物を造る大兄將來の猛省を望むもの如此。餘り多くは言はざるべし眼前失敗の摸範を無數に見る、而して己れも知りつゝ結婚す、而して均しく失敗の苦痛に陷る、人間の弱點斯くの如き乎。僕は大兄の確志と力量とが、决して斯る馬鹿〓〓しき經驗に陷らざらんことを悃希する耳。僕が大兄に向て芽出度御結婚との御祝ひを呈するは、三年の後平、五年の後平、十年の後乎、僕は唯其日を竢つのみ。大兄よ乞ふ許せ、僕が大兄の吉事とする所に向て、敢て不祥の言を放つを。唯僕は大兄の雅量に訴へて、僕の心腹を布くの外は復た他念なし。僕は大兄との友義に於て、徒らに御めでたしの一言を放ちて、無頓着に過ぐる能はざるなり。(二三三)墮落の大附往々進步を天下の事を○友人某に言ふ。僕蹶起政界に立つべしとの御勸〓、誠に難有奉存候。僕决して思はざるに非ず。今日の時勢豈悠々として田舍に潜むに忍びんや。僕の胸中大波瀾を湛ふ。而も尙忍びて動かざるものは故あり。試みに君之を聽け。僕は理想としては既に世に立つの計策を確持錄餘り多くはせり。而れども未だ實際の準備は整ひ居らず。今方に準備中なり。而して此凖備中忽然今回の大事件起る。戰爭前の日本と、戰爭後の日本とは、日本自身に於ても、又世界に立つの日本に於ても、已に同一の程度に居るものに非ず。今度の大事件は、僕等に將來尤も考量を要すべき數多の大問題を與へたり。僕沈思默考、聊か得る所あり。亦以て起つべきに足るものあるを覺ゆ。且つ將來日本之舞臺に立たんとするものは、今回の如き日本將來の國運に大關係を有すべき大事件には、直接になりとも間接になりとも、之に與りて一臂の分け前を取り置かば、個人の勢力に於て頗る大なる强みを有す。僕嘗てエマルソンの英國人を論ずるを讀みて大に感あり。惟へらく、英國人はアイランダーにしてウオルダーなり、其世界に雄飛する是れのみ、日本人の抱持すべき覺悟亦斯くの如き耳と。日本人をして何事もウオルダーたらしめんとは、實に以來僕の焦慮する所。學者も、實業家も、政治家も、文學家も、宗〓家も、皆此覺悟を以て立たしめんと欲す。「世界の日本」といふ旌旗は、實に僕等が天下に鼓吹せんが爲に、樹てんと欲する所なり。而して今回の大事は、益其激切なるを感ぜしむ。之を思うて中夜会を蹶て起たんとするもの數々なり。而も僕は尙之を忍ぶものは、實に今の著述の爲め也。僕は井伊家に對し、中村叔舅に對し、衷心を以て之を引受けたり。僕も初念自ら此業を成功する迄は决して動かずと誓ひたり。而るに今一朝時勤の變に逢ひて、我事を爲さんが爲に、前約を破りて其責を果さヾるが如きは、僕實に義の爲に之を能くせず。男子の一諾山よりも重し僕は現在責任の業を果しヽ後に非ずは、新たに我事を創する能はず。且つ今の業は僕の爲めに尠からざる素養力を與ふ。僕は之を附錄(三三三)
僕のリアル、ヂードと信ず。故に僕は心竊かに期せり、僕は力の及ばん限り今の著述を急ぎて成功し、而る後世に起つべしと。僕の覺悟斯くの如し。若し之が爲に不幸將來世に立つの好機を失するあるも、僕復た何ぞ怨みん。僕が義を重ずる一片の心は、亦以て安ずるに足る唯乗ずべき時勢前に來りて、直に起つ能はず、眞に我微力を〓づ。今君の勸告に山り、玆に我肺腑を開きて、更に君の警告を待つ。請ふ亦聊か僕が苦衷を諒せよ。丸木橋わたるになれし柚人のこゝろはいつも圓くあるかな墓前に母を思ひて感慨つきず忽焉として一首となる親思ふこゝろは親のなきあとにいとヾまさるぞいとゞくやしき附高祖母の君の五十年忌に當り感あり橘の庭に榮えし松が枝に添ひにし藤の花ぞゆかしき見ぬ人のありし昔を尋得てかほるこゝろの色ぞことなる飛鳥川ふち瀨は世々にかはれども流るこ水はいまもつきせじ有感皆人は月を曇ると思へども雲の上にはかゝやきにけり夕立は比良の高根にはげしくて伊吹の裾に凉風ぞ來る北峰雪尙頂にあり霞之をこめて光景一變す感あり常に見る遠山色はきえうせてかすみの空に雪のかゝれる空ふいてまつや雷風夕立亡母の靈に〓ぐる辭(11/2014年)去る者は日に疎しとは誰が言ひたりけん。子の胸に刻みつけたる親を思ふ眞情は、光陰の白刄も久しきを經て削り去る能はず。其在しゝ日の遠ざかり行くに從ひて、其の在しゝ日のいよゝ還らぬことを恨むの念は、亦次第に深くぞ成行くなる。其古び行く墓塲に年々に厚さを增し行く苔は、さながら我れが墓主を思ふ心を現せるに似たりけり。されと斯く母君を念ふにつけて我身を願みれは、唯悔しき事のみぞ多かる。曾て不孝の心は露無かりしも、みまかり給ひし後となりては、其在しゝ世に仕へ奉りし誠心の足らざりしをば、甲斐なくも恨むのみ也。君が行かまほしく思ひ給ひし處へ何とて連れ彥根侯の邸跡を逍遙し鶯の聲を聞きて訪ふ人は何思ふとも鶯は今も昔をかたりぬるかなうれしともうしとも人はきかばきけ鳴鶯はかはらざりけり附月夜彥岳に上る田蛙の聲空間を滿すが如し一句あり山も皆聲の中なり鳴蛙忽ち樂々亭中絃聲起る句あり三線の歌にはをしき蛙哉錄(五三三)暑さに堪へず
參らざりし乎。君が欲しくと望み給ひし物をは何とて進めまゐらせざりし乎。いかで兎もし角もして其御心を慰め奉らざりし乎。今此く失せ行き給はんには、如何にもして滿足し給はん術もありしにと、せん術なき後に至りて悔ゆる心の如何に果敢なさよ。我身ながらに我心の淺ましきを責むれば、胸は引裂く計りに堪へ難し。我身學業を畢へて世に立ちなば、亦聊か君に報い奉らんとは兼ての望なりき。君亦只管に之を樂みて待ち給ひしに、未だ我事成らざるに先だちて、君は逝きましゝこそ千秋の遺憾なれ。今若し在さんには、縱ひ金衣玉食の奉仕は及ばねど、聊か我志の程をも遂げて、君が喜びの樣をも邦すべかりしならん。嗟乎、樹靜ならんと欲すれば風止まず、島飛ばんと欲すれば日は已に暮る。昔孝子の嘆は我れにもありけり。想ひ回せば三年前、いとも長閑き小春日に、我は一葉の小舟を漕ぎて君を載せ、內湖に浮びて龍潭寺なる父君の墓に詣でぬ。是れ實に君が父君の墓に詣で給ひし最後にして、數十日の後には、君は父君と共に地下に屍を並べて此墓主と爲り給へり是時我はいとも雅品ある小松を引き來りて益栽と爲しゝが、君も亦痛く之を愛で給ひぬ。みまかり給ひし後、斯る君が紀念の伴へる小松は、常に我心に懸りて、今も尙此假居の家の庭に存し、今日しも雪の間に美しく常磐の色を放ちけり。又其翌る春御墓を築かんとて詣でたりし折柄。活ける紀念にせんとて、手づから植ゑし小松は、能くも生立ちて、今は其高さ墓碣の半にも達せんとせり。斯る例を想ひ起せば感慨極まり無し。道行く附錄時も七十許と覺しき腰を屈める老人を見れは、斯る人さへ生きけるに、何とて君は早くも逝き給ひしぞ、君が愛用し給ひし時計は、今も我傍に宛ながら生けるが如く自ら動きて時を〓ぐるに、何とて君は時計の如く今も生き給はぬやと、斯る歎きは常に我心に往來せさはさりながら骨は朽つとも靈は朽ちじ。北比一片の煙と消え去るとは、誰が言ひし味氣なき言葉ぞ。君が活ける姿は、確かに我がふ心の裡に残りけり。我等に〓へ傳(給ひし人生不朽の道は、我等が心と手とを通じて今に世に活動せり。我等の活けるは猶ほ君のけるがごとし。今日ははや三年の忌日。玆に親しき人々をして、聊か慰靈の祭を行ふ。唯尙くは、慕の心を裂け給へ。第三期(明治二十八年より同三十三年に至る)其一東京に在りて雜誌記者たりし時代『精神』社說(拔萃)明治二十八年二月五日精神第五十號) )より同年五月一日第五十八號に至る○政府の襟度外に日〓の國交破裂して、內に國論統一す是時に當り吾儕亦敢て政府の鼎の輕重を問ふを好まず唯獨り其度量に至りては聊か之を疑ふ戰の未だ起らざるや、與論は切りに征〓を叫.人わ、政府は遂に征〓に决せり、勇武なる軍隊は征〓に趨れり、勝利は戰ふ毎に來れり、國民は歡舞せり、而して軍隊を讃美せり、政府に滿足を表せり、議會は一億五千萬の軍費を决せり、上下相和して征〓の一擧に協力す、附錄(七三三)
〇〇〇〇べきの點に於て無事を望むは、議院必ずしも首相に讓らず今日いづくにか地租輕減を唱ふるの愚者ある。又いづくにか地價修正を說くの痴人ある。事の擧否を撰むの判断は、議院優に之を有す。軍國の際なるを理由として口を至急ならざるに藉り、以て直接軍國に利害を及ぼさゝる問題をも悉く擧げて高閣に束ねんと欲す、吾儕與みする與はず2 @忙日却て爲す所多く閑日却て擧ぐる所少し是れ豈獨り個人の事のみならんや國家の事C C亦然り。外に雄偉の事を起して天下の雄心方cさに高躍す是時最も多能の時なり多力の時なり外忙の間に悠々として內政を整國運を進めて餘地の得々たるを示して精力の豐裕なるを顯はす大國を以て任ずるものは當さに然らざるべからず而も尙抑( 2 ?て之を閑殺せんとす。時務を識れる俊傑の業に非ず國論は能く統一せり。大事新たに起りて前の大事は第二の大事となる外事重くして內爭を許さず。高潔殉公の與論は、沈默の美徳を守りて、漫りに政府非難の聲を擧げす責任の議に於て信せざりし政府に信任を假し、對外の硬策に於て甘んぜざりし政府に亦甘容を與へたり征〓の一擧は內に爭ひし政敵の共同事業たり。既に軍國の最大事に於て一致す、是れ正さに9〓乘すべきの時なり。從來政界の爭議を落若し호て、國民多年の願望に副ふは、宜しく寛弘順良6なる政府の勉むべき所なり而も第八議會開けてより政府の爲す所果して如何。伊藤伯衆議院に演說して曰く軍國大事の今日、政府は力めて經濟〓びに其他の法案にして、至急を要せざるは、他日に讓らんと欲すと0無事を希ふの眞相は歷然たり。無事なる附錄〓家は尙夫れ之れを認せざる乎。何ぞ夫れ政3 @·府の民論に反對するの頑なるや狼として人民を待つ、故に人民は巨口を開きて噛まんとす。敵として天下の筆視に對す、故に操觚者に危激の言を絕たず。要なき制度を設けて自家の利便を計る、故に人民亦過大の利己を謀る。されと吾儕は復た過去を追はず今や大局已に變じて、人心一致の期に際し有爲の時に當りて、調和の好機來れり。是時にして政府大に胸襟を披きて、興望を容れずは、夫れ亦何れの時を待たん。而るに尙舊見を固持して確執を事とす、嘆ずべきなり今日は方さに是れ過渡の時代なり。戰爭後の日本は復た戰爭前の日本に非ず。將來の日本は、新たなる偉大の希望を以て、新たなる天地に立ち、世界付的經營を運らして帝國の光威を耀かし、以て宇內の瞻望を繫がざるべからず今に於て過去の紛議を一掃し、積年の然れとも議會は閑殺を諾せず多年政府と相容れざる多くの問題を揭げて議塲に上ぼせり保安條例の廢止案出で、新聞條例の改正案出で、特別市制の廢止案出づ。其他吾儕一々之を數へず而して政府は從前の態度を維持して頑として反對す。第四議會の初め、伊藤伯の過失傷を車に受けて、身を大儀に養ふや、留守內閣と議會との衝突は殆と絕頂に達して、復た調和の餘地なきに至れり是に於て大磯より還れる滑脫婉曲の政治家は、巧みに局面一變の緩和劑cを投じて一時の彌縫を了せり。顯ふに其局面一變は、自然平、將た人爲乎、吾儕今取て之を追究するの暇無し。唯吾儕は當時表面に局面一變現れたるを見しのみ。而して今や吾儕は眼前には之れよりも更に正大なる公明@ .a.なる而して自然なる局而一變の象あるを見〓3◎〓ce 5認む識らず局面一變の妙用を解せる政治何ぞ夫れ政附錄(九三三)
惡感を一洗し以て將來に向つて直進邁往の豫備を整ふるは、是れ眞に經世憂國家の務なり漫りに現在の無事を希ひて、他日に紛爭の種を譲り將來進步の妨礙を貽さんとす政府は果して責を道るべき乎第八議會開けて將さに半ばに垂んとす。政府已に狭見を以て臨む。狹見の者何ぞ狹見を改むるを得ん。而も尙吾儕の之を言ふものは、洵に將來の憂念切なるものあればなり。○月色皎々たり盜あり、虛に乘じて隣家に忍び入る。時に月色皎々として晝の如し。一兒を門に止めて行人を監せしむ。須臾にしで出でゝ問ひて曰く、或は人の見る無きやと兒應へて曰く無し、無し唯見よ、獨り彼の天上の月之を見ると天眞爛熳の語は端なく小さき唇頭を掠めてo〓り出でぬ。何ぞ夫れ優絕なるや何ぞ夫れ〓絕なるや。盜父は聞きて忽ち感動せり。れたる良心は涌然として出で來れり肅然として容を正せり而して見に謝して頓に其非行を悛めぬe〓●の吾儕竊かに思ふ天下此見の戒むる所と爲る8つ豈獨り盜又に限らんやと天下に一種の政治家あり、巧みに世を渡るを〓以て、能事畢れりと爲す。主義は政治家の花勞にして、〓節は其光彩なり花は勞無くして花たる能はず。主義無き政治家は、政治家に非ずして、唯公界の浮浪なり花光彩を失ひて美無し、政治家〓節を失ひて徳空し而も主義を破りて榮えあり〓節を汚して譽友は之を庇ひ敵は之を寛假す攻むれば我れも亦攻めらるゝものあればなり。滔々相率ゐて以て天下に濁流を撒く主義は利害の爲めに動かされ、公理は私情の附錄。爭ひて之を捕へんとして右し左し相排し相撃つ一圈は見るまに橫斷せられ縦断せら鳥は既に去りて在らず、獨り排擠の餘熱は殘りて去らず政黨は决して斯る可憐なる團躰に非ざるべし政黨は堂々たる政治家集り、堂々たる旅、幟を飜へして、天下に高呼せるに非ずや多數害と感ず其中或る者は公情より眞に害と感ずされと多くは私情より害と感ず而して賢き者は之に附すべき理由を案出し、愚かなる多數は、謹みて其〓を奉ず、斯くして决せし所は、黨識として天下に公行す。黨議は黨員に遵守の義務を殿命す、黨員の多數、偶々不便と感ず、自由の意見を東縛せらるゝが故に非ずして、利害と私情とに齟齬する者あればなり。多數の壓力は黨議を動かす。黨員益多くして、利害の衝突益多く、公事益繁くして、私情の纏綿益甚だし。黨議益定め爲めに曲げらる。朝たにば主義を異にしたるが爲めに、〓黨も尙仇讎の如く相對し、タベには共同の利害を生じたるが爲めに、仇敵も猶兄弟のごとし。多年の持論を含つること敵履の如く、變說を斷みざること破德の如し。雀は終年軒端に其友を更へず、燕は今年亦去年の古巢に依る、野徑の細流は舊に依りて滾々たり、天空の峯嶺は常に擧容を改めず、人生何ぞ獨り變ずるの甚しき抑も變ずべくし@て變ずる乎變ずべからずして變ずる乎昨日は晴れたり故に室内の掃除を行んと言ふ今日は雨ふる故に室内の播除を延期せんとす晴雨の變は毫も室內掃除の業に關ぜず、而かも雨を以て掃除延期の辭柄と爲す利害に由り、行掛に由り、情實に由り雷同に由り、混然として相集り、雜然として群がる。忽ち一群の金翅島來りて其頭上を過ぐ附錄(一四三)
難くして、政黨の實益減ず。空殻を擁して猶ほ肉ありと爲す、天下の耳目を如何せん。政黨にして斯くの如くは、吾儕は恐る、識者は遂に政黨を以て無用の長物と爲さんことを。政權の問題には相合し、利益の問題には相離黃金問題の前には、法律問題に於て被りし假面を脫して、同志相開ぐ利己の眞相歷然として掩ふべからず而して揚々として曰我れ天下の爲めにすと。天下豈悉く愚ならんや世に大富豪あり時々大金を散じて天下の珍を買ふ賣る者各自の珍什を携へて需に應ず意見を賣り獨立を賣り、缺席を賣り、起立を賣る。買ふ者以て大に利す。識らず、賣る者の利益果して如何。籠絡は美事なるや否や、吾儕之れを知らず。されど籠絡せらるゝは、頗る醜事なるを知る。小兒にして大人に籠絡せちれ、愚物にして才人に籠絡せらる。是れ必ずしも各めず。政治家は堂々たる男子なり、人民具膽の表に立てる名士なり、天下に最も面目の大なる士なり、而も斯人にして一碌々の輩に籠絡せらる、醜も最も醜たり鴻鵠にして燕雀に弄せらる天下は何ぞ夫れ之を笑はざるや噫笑はざるは故あり世は暗中に之を語る。世に籠絡の種多し。或ものは花を以て籠絡せられ、或ものは時計を以て籠絡せられ或ものは洋行を以て籠絡せられ、或ものは官位を以て籠絡せらる。而して銅臭を以て籠絡せるゝもの最も多し黄金輝く所凡眼眩す。人は曰ふ烟眼も亦往々眩すと黃金正しく懷に入る、故に貴し。曲りて入らば馬勃よりも賤し。而も滔々たる拜金の世、入るの如何を問はずして、唯有つの如何を羨む。名正ければ實は問ふ所に非ず、表面掩ひ盡すを得ば裏面の私は敢て〓みず、文明社會を造ら(二四三)附錄んとして外飾社會を造る、是れ誰れの責ぞ。』人は某士を評して曰ふ、彼は君子なり、故に政治家たる能はずと夫れ君子遂に政治家たる能はざる乎抑も政界君子を容るゝの量無きに非ざる乎。〓節潔行の士、濁流に混ず、濁流の士以て油と爲す。鹽は腐敗を止め、酒は腐敗を起す、而も群蠅は爭ひて酒に赴く。鹽に親まざるは鹽の罪乎、將た親まざる者の罪乎。君子を容れざる政界は、月無き暗夜なり嗚呼天下を正すの身を以て、己を正さず、世を導くの身を以て、世に疑はれ自由を與ふるの身を以て己れ自由の意志を賣り、人生を明かにすべき身を以て、己れ暗きに入り"高く俗流に立つべき身を以て下りて俗流と爲る。斯くの如くして能く職分を果すを得ば盜人も天下に良民たらん抑も亦斯くの如くして、自ら以て職分を果せりと爲すの心は何〓3の心ぞや雨が朝に向はん明鏡は、獨り容貌を照すのみに非ず。已に身を公界に捧げて政治家と爲る、我は我物に非ずして、天下の共有物なり。我れを私するは、天下を盗むなり。一言一行は、宜しく天下の公道に問ひ至正至大の良心に訴へて、以て决すべし。謂ふ勿れ、道理は我れ已に熱知すと又謂ふ勿れ實際は必すしも道期に合はずと天下を破るものは知て破るものなり我が用に充てんが爲めに我家に馬を畜ふ而て馬は放縱橫行却て我家を荒らす。馬の自ら謹まざるは固より馬の罪なり而れとも轡を加へざるは我れの罪なり社會は惰るべからず何ぞ起ちて亂者を督せざる。筆を擱きて、窓を開けば、月皎々孤燈の下として天上に在り世のうさに一方ならずうかれ行こゝろさだめよ秋の夜の月西行と感を同うするもの果して幾人かある。附錄(三四三)
0懷に入る、縱し彼は好んで入らざるも、我は已に之を入れたり、義は正さに俠行を要す。されど朝鮮の擔保は、實に至難事なり、彼れに眞正なる獨立の精神を與へんとするは、猶ほ放欲の蕩見に禁酒を迫るがごとし。1彼れが眠を醒すは五更過ぎて眠に就きし放惰の晏이眠者を起さんとするが如し彼れを文明に導。C.跛者を誘ふの業たり彼れに改革を行ふは濁流を澄ますの業たり而も日本は、此難きを負はざる可からず内治の擔保と共に亦外交の擔保を要す朝鮮の外交問題は、即ち我日本の外交問題なり人は朝鮮を以て東洋の「バルカン」半島と爲す。吾儕異論無し。されと其自立の力、自衛の力は、西洋の「バルカン」半島と、果して孰れゞが多きや是れ言はずして可なり日本は難き「バルカン半島を負へり中原の鹿誰が手にも落さしむるべからず野心の○朝鮮の改革嘗て大蛇巨口を開きて、之を呑まんとするも、恬然として顧みず、是れ尙ほ可なり、內には多年の疱疾蟠りて、自ら斃るゝの期旦夕に迫るも、亦之を療するを力めず、療するを知らず、自活の計、自衞の法、自動の道、殆と之れを知らず、吾儕朝鮮に向ひて、哀憐の情禁ずる能はず。朝鮮人は、果して國民たるべき資格ありや否Cや朝鮮國は、果して獨立の國家として、永右發達すべき資格ありや否や斯る疑問は、切りに吾儕に迫りて明かなる答辯を促せり。されと吾儕今日に於て斯る最後の疑義に答ふるを好ます。識者は見あらん、計あらん。兎に角日本は已に朝鮮の獨立を擔保せり。日本は獨り利益の問題として、朝鮮を見るべからず。當さに是れ情義の問題たるべし。窮島附錄獵者を獵るは。.日本の任なり。朝鮮が日本に與ふる勞苦は吾儕が子孫の時代までも、之を甞むるの覺悟を要す焦眉の急務百年の大計、いつの世、いづれの國に處するも、決して兩つながら之れを忘るべからず。朝鮮に於て最も然り今や朝鮮は維新の時代なり。されと彼は甞て日本が爲せし如く、自ら維新を行ふ能はず日本は我經驗と智識とを以て、彼れに改革を授けざるべからず。全國民の力を以て、征〓の軍を擧げたる如く、亦全國民の力を以て◎@朝鮮に維新を與へざるべからず此大覺悟あ◎以て朝鮮の事行ふべし。决して人の使臣、一人の才子、一二の大臣、二三の銀行e家に委すべからず何を以て改革すべき中央政府の改革、地方行政の改革、月閥の廢止賄略の廢止、聚歛繁円文の廢止、法律、裁判、警察、軍制の設、皆是れ極めて必要なり。鐵道、電信郵便道路築港海運、貨幣、是等の新設、若くは改良、亦大に必要なり國家の文明的施設、物質的文明の移植が、朝鮮の改革に於て焦眉の急務たるは、3吾儕固より之れを思ふ。眠る者に對する第一手段は、先づ之を醒すに在り、自ら起きざる者は他より起さゞるべからず。砲聲は激烈なる攪眠劑なり。而れとも怯心の者には、喪心せしむ乃ち鐵道を以て醒し、電信を以て醒し、郵便0を以て醒し、凡ての平和的刺衝劑を以て醒し、公平なる裁判を以て醒ル嚴明なる警察を以c cて醒し、規律を以て醒し平等を以て醒す是れ朝鮮を起す適當の警策たりCOまれと心より起きさるものは縱ひ一たび〓眼を開くも、亦眠に入る若し徒らに物質的6文明を與ふるを努めて、精神的文明を傳ふるを怠らば、恐くは盜に利器を假すの弊あらん。郵便道路若くは改良、附錄(五四三)
〓◎法律の强制を以て、外より之れを懲すもs內に自ら警心生せずは、惰力は容易に改まらず』十九世紀文明の化導を受けたる日本は、先づ物質的に開國して、後ち精神的に開國はり質的移植は易くして精神的移植は難し。宇內の時勢、已に物質的。移し易きも亦物質的。斯る事情の下に、斯る順序を以て、日本が開國したは、吾儕敢て疑はず。されど斯る順序の開國が、日本文明の進步に於て、瑕瑾無かりしや否やは、吾儕疑無き能はず事實は往々兩界文明の不平均を示して、吾儕の眼前を過ぐ事他岐に涉るを以て玆に言はず。世の識者、日本が開國したると同一の順序を以て朝鮮を開國せんとす鐵道走り郵便馳せ電信飛ぶ盛は則ち盛なり。唯外觀備はりて、內心は依然たり野婦粉餅を施して美容を裝ふの類に陷らんことを恐る吾儕は嘗て蠶々として、日本の文明を以て、裝飾的文明と非難せるの時代を記臆せり。崛强なる躰〓を有し、銳利なる連發銃を有し、新式の巨〓を有し、堅固なる砲臺を有し、而して戰ふ毎に收る。機械備りて、氣力伴はず。支那の軍斯くの如し。朝鮮の改革、决して斯くの如くなるべからず。◎@朝鮮が物質的文明の恩澤に浴するの日は常◎さに精神的文明を注ぐの日たらざる可らず而して日本的精神を注ぐは最も急也日本が朝鮮に成さんと欲する大業は結局朝鮮同化の業なり同化せんとするものは、先づ同感を起さしむべし朝鮮の改革を妨ぐる@ものは彼れが支那崇拜の心なり此の心を翻へして日本に傾けざれば、日本の業成らず日本は嘗て西洋より鐵道を〓へられ、電信を〓へられ軍艦を〓へられ、兵式を〓へられたり。されど之れが爲めに、吾儕は一國を捧附錄〓◎D愛家何ぞ夫れ起たざる。百年の百計、目下よ6 @◎6り始めざるべからず獨り物質的政治家に委〓する時は、亦百年の悔あらん〇一掬の涙勸降書を一見して曰く、我れ唯一死わる耳と吾儕は丁汝昌が此言を聞きて、肅然として古英傑の遺風を想起しぬ。死は武人を飾るの花なり。死を語るは武人の美を示すなり。然れとも丁汝昌が死の一言は美を示すが爲めに非す彼れが當時の地位は彼をして眞面目に心の底より9大决心の上より、之れを語らしめぬ一言萬鈞の重あり既にして傳へて曰く彼は斃れて後ち已まんと欲せしも多くの生靈を救はんが爲めに敢て降を乞へりと吾儕は之を聞きて、彼れが衷心眞に利己を忘れて撰む所を失はざりげて、其恩に報いんとは思はず。英國より海軍を〓へられたりとて、時來らば、其〓へられたる軍艦を以て、英國と堂々海上に相見ゆるを辭せず。獨逸より陸軍を〓へられたりとて、亦必要迫らば、之れと戰ふを避けず。一例斯くの如し。唯物質的日本を植ふて、朝鮮を同化せんとするは、亦難し。精神的日本を植うるは、朝鮮を結ぶの最大强綱なり。されと是れ實に我全國民の負ふべき業なり我言語を移し我氣風を移し、我道義を移し我好尙を移し我信仰を移し、我歴史に於ける同感を移す是れ豈獨り政府にのみ委ぬべけんや。政治家の業は、政治家を促して之を决行せしめよ國民の業は、國民自ら手を下すべ我劍を以て行ふ東洋の救世軍は、已に上りてa支那に在り精神的改革の救世軍は應さに期鮮に向ひて發せざるべからず愛國者、博附錄(七四三)
しを歎じぬ。忽ち飛報來る、彼は遂に自殺せりと。吾儕容易く之れを信ぜざりき、東洋の一偉丈夫の生きんことを欲し、吾日本の義俠なる優遇を與へんが爲めに、彼れの生きんことを欲するの念甚だ切なればなり。〓されと公報は遂に其眞なるを〓げぬ。◎〓嘆美と◎悼惜とは交々臻りて、暗涙に咽ぶもの之れをI久うす。降は、東洋の武道に於て、最も耻とする所。丁汝昌は、盖し之れを知れり。之れを知る者にして、降を撰む。縱ひ力盡き勢窮するの後といへとも、其難きは、死守を决するの難きよりも難し。而も彼は味方の生命を救はんが爲めに、忍びて難きを取る。吾儕は遙かに彼れが當時の心事を察して感慨禁ずる能はず。彼れが降は、彼れが死守よりも、彼れに一段の光を增しね。死を以て、責任の最後を盡す、古の武勇なる潔士は亦此道を取る。罪を謝するも死を以てし、辱を雪ぐも死を以てし、義を遂ぐるも死を以てす。今は職責あるもの、唯職を退くを以て、責任を盡したりと爲す。丁汝昌は眞に武潔の士なり。死を以て責任を果せり彼れ既に一死を以て國に捧ぐ、降ると降らざるとは彼れの死に於て、何の關する所かこれあらん自殺は彼れが光明高潔なる心事を照して餘りあり5〓勝ちて終りを全うするは、固より美なりされと敗れて終りを全うする程美なるは無し嗚呼彼れは戰に敗るゝも人生の大道に於て勝つ彼れの屍は朽つるも、彼れの靈は朽ちず北洋艦隊は滅ぶるも彼れが英魂は渺々たる渤海の碧波と共に、長へに滅びず一點の靈光は燦然として暗黑なる支那より山でゝ正さに世界に輝けり(八四三)附錄他年日〓戰爭の史を編み、東洋進歩の史を編むものあらば、彼れが降伏と自殺とは、必ず適當なる聲價を得て、紙上に大なる異彩を放たん。吾儕は、其史家の夙に吾國に出でんことを望む要扼を堅守して持計を爲し、機變を待ち、兼ねて我艦隊運動の牽制を爲す、彼れが位地よりすれば、斯る軍略の必要ありしや知るべか〓らず敵意あるもの、多く眞意を解する能はず然れとも彼れが降伏と自殺とは由來公明廉潔なる我國人をして、頓に敵意を一掃せしめたり追讃の辭、追悼の詞は彼れが屍の上に雨れり而して吾儕を海上に代表せる吾艦隊は亦非難なき義舉を以て、彼れを待てり。〓味方を譽むるの美は、敵を譽むるの美に如かず公論は棺を葢ひて定まる。3天言はず、?人をして言はしむ今や丁汝昌を讃する天の公聲は世界に先だちて敵國なる我日本より起れり吾儕衷心洵に欣喜に堪ヘナ。〓丁汝昌の一死け、泰山よりも支那を高からしされと我日本が彼れを讃美するの精神は亦天上に晴れたる富岳の心なり。吾儕は下付* * 數年前、定遠鎭遠等數隻の艨艟を率ゐ、來りて日本の眼前に示威運動を爲すや當時丁汝昌は日本より一種の驚異と畏憚とを博して去れり。我海軍海洋島に勝ち、我陸軍旅順に勝つに當りて、彼れ深く威海衛灣內に入り、堅く門を鎖して復た出です。我國人罵りて曰く、彼れ何爲れぞ出でゝ快戰せざる、彼れも亦怯なる哉と吾儕當時窃かに以爲らく、怯懦の一言是れ果して明かに彼れが心事を說明して遺憾無きや否やと錄(九四三)は
6 6世界が公平に之れを識認せんことを望みて止まず當て上杉謙信は、3武田信玄の死を聽きて眞に知己を喪ひたるが如く働けり。熊谷直實は、平敦盛の爲めに身を墨染の衣に包みぬ斯〓る愛情虐麗なる歴史の下に山でたる國民は、亦恒に至愛至潔ならざるべからず○日本の吹聽西洋は世界の都會なり。日本は世界の田舍なbo今や忠摯勇悍なる田舎武士は、突然世界の舞臺に現はれ、其技倆と力量とを示して、世界の都人士が眼を眩せしめめ。西洋は日本を誤解せり。我文明を以て唯摸擬的文明と爲す。日本は固より西洋を摸擬せり。されど摸擬せんが爲めに、摸擬したるに非ず、之れを利用せんが爲めに摸擬せしなり。西人之れを知らず。世界は西人政扈の世界なり。日本を誤解せる人類橫行の世界なり。されと誤解の報いはc彼等今正さに之れを受く。日本の勝利を見て、愕然たり呆然たり。一種の精神的恐慌を起して自ら不明を現はせり日本は誤解せられたるが爲めに名くの不利を蒙りきされと之れが爲めに、今回の戰爭c ccに於て、一層彼等をして驚愕の度を增さしめたるは、聊か快心すべきなり。戰は世界に於ける日本の位置を進めて、零位より、一曜して百千位の高きに上ぼしぬ。東洋の强國、世界の一大新勢力、西洋の油斷すべからざる大敵、斯る畏驚の辭は、荐りに西より飛來る。世に立ちて事を成さんと欲する者は、先づ我れを吹〓せざる可からず。武力的文明は、正さに日本を世界に吹聽したり。支那に放ちし我砲丸は、日本より鎖したる世界の門戸を開附錄けり。世界が日本に耳を傾くるの時は正さに至れり平和的文明吹聽の時は來れり。字內の大戰塲に立つ、固より武裝して臨むべしされと一國の品位を髙くして、坐ろに世界をして其德を慕はしめ、其識見を仰がしむるは、亦大に其國光を放つに於て必要なり。』學問を以て吹聽し文學を以て吹〓し、發明を以て吹聽し凡ての精神的產物を以て吹聽す是れ一國の品位を高むるに於て最も高尙有力なる手段なり大風を捲き起して天下を吹く、人皆悚然として恐る。太陽の温光を以て四海を照す、人皆之れを仰ぐ。戰は大風の如し。精神的產物は太陽の温光の如し吾儕は其領地に曾て太陽の沒せしことなき英國を思ふよりもニウトンステヴユンソンを出しゝ英國を念ふ每に其國光の特に四海に洽きを感ずヒスマークcモルトクを造りし獨逸を想ふよりも、カントキヨーテを生みし獨逸を思ふ毎に其國の條違博大靈淑純美なる氣韻を感ずエマルソンありて米國の靈氣〓しダンテありて以太利の史上光る今や日本も亦斯る偉人を出して、世界に斯る感激を與へざるべからず。何人か夫れ其任を負ふべき〇〇〇征清の戰は武人をして血沸かしめ政治家をしで肉曜らしむ愛國の熱衷奮ひ遠大の雄志動き豪氣物々として宇內を呑み、切りに未來の大策を按じて、四海に雄飛せんとす是時に當り、獨り學者、文學者、詩人、發明家たる者唯冷々然として社會の外に立ち、白眼以て此雄飛の好機を見る無き乎。誰が夫社中夜衾を〓て起つの〓ある人ぞ。自ら城郭を設けて高く標置し俗界を輕蔑して遠く世と相隔たり絕えて世變を制して人心を皷舞し以て一代の元氣を作興するの雄附錄(一五三)
。舉無し。高く樹つもの斯くの如し。卑き者は、唯日夕營々として、文を賣り、智を賣り勞を賣り俗流に混じて俗流の役と爲る。今や彼等眞に愛國家の熱血を有すべき時に逢-り各其道を以て日本を吹聽し、以て精神的文明の光を輝かさゝるべかしず。吾儕未だ其大任を負はんとするの人を聞かざるは千載の遺憾たり。山は靑く、水は〓く天然の美四圍に滿つ天然の美化して人爲の美と爲る人は己に自然に美術的國民たり何ぞ夫れ美文的國民た@るを得ざらんや天資聰敏慧明學を好み理を喜ぶこと豈西人の下に在らんや學理的惱髓を有して尙新たなる大學理を立つ能はすと言ふも吾儕之れを信ぜず。〓造化の秘藏は無限なり。西人之れを開かんとして我れより一步先きにあり我が進步は、己に之れを凌駕すべき地位に立てり。日本を3〓吹聽するは世界を照す所以なり。我が精神ご@的文明の任に當るの士、其責極めて大なり。○伊藤伯◎哈夜江邊春水生、朦麺巨艦一毛輕、向來抂費推移力此日中流自在行。斯る順流に乗じて天下の樞機を把り、空前の大葉を行ふ衝に當る任重くして勞は少く、譽は大なり甞て反對の逆焔消し難く乃ち切りに憲法擁護を口にせる手より、半歲の間に再度の解散を行〇〇ひ以て僅かに時艱を處せんとしぬ斯る當時を顧れば、伯が今昔の感果して如何今や李鴻章又媾和使として、來らんとすと言ふ傳ふる所信ならば、東洋好對の兩雄、支那の平和的政治家と、日本の平和的政治家と、相會見するの日、夫れ遠からざらん。今に於て吾儕が此文を草するもの、豈徒爾ならんや。』明治の昭代、幸運の人多し。指を屈して數ふ附錄れは、拇指は伊藤伯なり昔者、明治元年、外國公使始めて京師に入り、始めて我天皇陛下に參內謁見の禮を執るや、木戶準一郞氏の推薦に由りて、是時通譯の任に擧げられしは、實に昔の伊藤俊介君なり昨日の窮措大俄かに變じて今日は衣冠儼然たる一朝臣と爲り、紫宸殿上玉座に親近し翻譯したる勅語は其唇頭より直ちに公使の頭上に下りぬ。吾儕當年の事を思ひて將來無限なる幸運の神は已に此の生仕進の始に於て、俊介君の身に宿りしを覺ゆ。爾來二十八年、伯は時に誤りて幸運より離れんとするも、幸運は伯を離るゝを許さず退くには幸運に送られて退き、進むには幸運に迎へられて進む伯幸運を造るに非ずして幸運伯を造るが如し君寵、宸翰、宮内大臣、總理大臣、內務卿、全權大臣、樞密院議長、貴族院議長、黑幕憲法伯、人爵、財產、動章、家扶、本宅、別莊馬車、洋犬、護衛巡査、幕僚、顧問、詩人の詔諛、藩閥の囑望、天下の具瞻。榮耀の數は、吾儕が計算に上ぼす能はず。明治廟堂の俊傑、失敗少からず。伯も亦必ずしも失敗無きに非ず。されと社會は能く其失敗を健忘す而して何人をか最も能く忘れられたりと爲す伯也。思ふに是れ伯が失敗の小なるに由る乎將た大功の人には小過を許すに由る乎抑も失敗を掩ふに巧みなるに由る乎。吾儕は今こゝに伊藤伯と大隈伯との識見伎倆を比ぶるを爲さず。人は長所と短所との縫合物なり。長短相伴ひて離れず兩伯固より各長短あらん唯天下の人望に至りては、數の上に於て後者决して前者に及ばす何が故に然る乎吾儕之れを識らず喬木風雨多柳枝能く國に靡く附錄(三五三)總理大臣、內務卿、貴族院議長、黑幕
天下往々伯の成功の異大なるを怪む成功の秘訣は、伯自ら之れを識らん。されと評する者は言ふ、伯は逃ぐるに巧みなりと吾儕亦賛して以て半面の眞理ありと爲す而して更に半面を加へん。曰く、伯は亦出づるに巧みなりと。賣るに巧みなる者は、買ふに巧みなりヒ近くは松方內閣、選擧干涉の攻擊に堪へずして瓦解するや、容易く出でゝ之れを繼ぐもの無し。群議紛々、天下は叫んで曰く、藩閥の終を全くするは唯伯のみと。味方も望み、敵〓も望む。伯出でざれば、夫れ天下を如何せん万目伯の一身に萃る。乃ち悠々双手を振りて出づ。天下は謳歌す。窮すれば變ず、變ずれば通ず。第四議會局面一變の伎倆は、變通の才あるに非ざれば能はず第五議會を解散し、解散したるが爲めに召集したる第六議會を更に解散す。解散の連發、正さに伯が地位の窮せるを示す。若し改選の議會にして、又元の如く反對黨の多數を占むるあらば、伯は其反磁猛擊に對して、果して能く變通の伎倆を奮ふの餘地ある乎。征〓の軍起りて天下颯然として順風吹き、政府0を衝きし手は、一變して政府を撫づるに至る斯る日に當りても、改選の結果は、事實に於て政府黨の不利を表はしたりき。況や此事變の起らざる日に於てをや。伯は實に危くも千仭の絕壁に立てり陣の猛風吹來らば伯は唯壑底の人のみ何の幸運ぞ逆風未だ吹かずして忽ち隣國に意外の風雲起り、延きて日〓の大事と爲り、擧國皆内を忘れて外に向ひ逆風は制せずして自ら收まり千仭絕壁の前忽ち坦々たる大道開けて危惧の人今は順風に送られて行く斯くて振古の鴻業に當り絕大の榮譽を荷ふ。伯の幸運是に至りて極まれりと謂ふべし吾儕豈徒らに辯を好みて伯の幸運を說かん附錄や。大なる幸運の人は、大なる責あるを思へばなり戰爭の初め伯は果して自動的に之れを決せし乎。受動的に決せし乎。吾儕今敢て伯が當時の心事を揣摩せず。されど伯が平和的政治家たるは、天下皆之れを識る。伯か文明時代に偉功あるも、亦眞に玆に在り。若し伯が心裡より平和的分子を去らば、猶ほ軍人の腦中より尙武の精神を除きたるがごとし。是に於て吾儕媾和使來るの聲を聞かば、未だ曾て一種の天魔使來りて、平和的政治家が過去の幸運を奪去らんとする乎を感ぜずは非ず而して今來らんとするは員に李鴻章ならずや京童は言ふ、伊藤伯は日本の李鴻章にして李鴻章は支那の伊藤伯なりと吾儕は容易に判斷せず唯伯が最も戒心すべき時到れるを思ふのみ。大なる責あるを思へ吾儕伯と李鴻章とを合せ考ふる毎に、連想は直ちに天津條約に及ぶ。曰く、兩國兵を朝鮮に置かず、兩國知照せずして兵を朝鮮に入れMずと兩國の平和的政治家、玆に約を定めて平和に衝突の局を結ぶ是れ互讓乎孰れが多く退讓乎。孰れが優勢乎無言の事實は伯@が外交の伎倆を語れり阿部伊勢守は幕末平和の政治家なり外より迫られては次第に退く浦賀は元と外交の禁地。而も米船漂民を送り來れば、一時の權道を名として之れを受く。和蘭は通商ありて通信無し。而も開國の忠告書を受くれば、復た一時祖法を破りて之に答信す。而して英佛交々琉球に迫り來るに及びては、其處置を松平齊彬に一任し、以て暗に日本の一部に開國を默認するの意を示しぬ。若し平和の方面より見れば一步は一步開國に近づき行けるなりされと對外强硬より見れば、一步は一步附錄(五五三)
〓が眼前に示せり伯の賢明なる、吾儕萬誤り無きを信ず唯李鴻章はデツトリングに非〓ず張蔭桓に非ず吾儕伯が伎倆を李鴻章に相對するの日に見んと欲す願くは一代の幸@運をして、雲烟に歸せしむる勿れ。○外債論征〓の軍其步武を進むるに從ひて、軍費益嵩む。爲めに曩きには一億五千萬圓の軍費を决し、今又一億圓の軍費を决す。戰爭は經濟上敢て嫌惡すべきに非らず。,其結果却て廣大なる市塲を開きて、商工業の隆盛を來せしもの、其例乏からず。唯開戰の間、一時之か爲めに國家の血液たる流通資本を吸集し、消糜し、滅却するの弊は免るべからず。戰爭久しきに亘らは、商工業をして、爲めに不測の危厄に罹らしむること稀れなりとせず。其禍害の慘なる、兵燹の災よりも甚し。。退讓に進み行けるなり。吾儕今伊勢守を以て敢て伯に擬せず。時勢異なり事態異なり。人も亦異なる所あらん。唯吾儕はこゝに伊勢守が平和の政治家たるを感じたるのみ天下に騎虎の勢といふことあり一たび事を〓始むれば、終りに達する迄は止まるを許さず昔より英雄此勢に驅られて或は非常の大功を樹て或は憐むべき末路に陷る。其妙用は小◎膽の人をして大膽の人たらしめ優柔の人をして果斷の人たらしめ、躊躇の人をして雄躍の人たらしむ天下に利あらん騎虎の勢は吾儕常に之れ有らんことを欲す今や甞て朝鮮の事よりして天津に會せし兩雄亦同一の事端を以て日本に相會見せんとす。歷史は繰返す、奇遇といふべし絕大なる終局の任懸りて伯が肩上に在り。天下の興論は、明に其公望を揭げて已に伯(六五三)附錄事玆に至れば、外連戰連捷の功を收むと雖も、內疲弊自ら斃れん。夫れ如何にして、是等の慘禍を避け、以て商工業をして衰微の患なからしむべきや。外債募集の必要是に於て起る。』外債募集。一部の人士は、既に此名を聞きて嫌惡恐怖す。是れ猶阿片の害毒を恐れて、疾病の治すべきを知らざるの徒のみ。外債以て大に利用して經濟界の攪亂を鎭靜し、國の財政を整理すべきの良藥たるを知らざるの徒のみ。』戰爭の經濟に及ぼす影響、初めは小にして緩なり、久しきに及びて、次第に大となり、益々激となる。潺々たる細流は、雙手を以て之を防ぐべしと雖も、洪水の氾濫は、岩石の堤防も尙防ぎ難し。戰爭の影響小にして緩なるの間に早く之が處置を施さば、以て危難を救ふに足る。若し之を怠るあらば、一國を擧げて滔々たる慘禍の渦中に投入するに至らん。』戰端開け干戈相交るや、軍資は變じて彈丸硝藥となり、軍艦武器となり、食種戎衣となる。0此軍資何れより出づる乎一國資本中·如何なる部分より吸集すべき乎第は疑もなく放下を求むる遊金なり。次は事業擴張に要する資本なり而して最後には現に生產業に使用12せる資本をば、强迫的に吸收す斯の如く資◎本の吸集に三段あり其經濟上に及ぼす影響亦等しからず放下を求むる遊金は、戰爭無くは素と生產的資本と爲るべし。されど之れを以て軍資に充つれば、其の生產的資本は一轉して不生產的資本と爲る。故に其投資の轉動は、未來の經濟上には不利なる影響を及ぼす。然れども素と現在經濟界に關係なきの資金なるが故に、此種資本の吸收せらるゝ間は、經濟界は些少の影響を蒙むるとなく、又輕微の動搖だも感ずる〓となし。然りと雖も進て事業擴張に要する資本を吸收附錄(七五三)
するに至らば、此に初めて經濟界の變動を起し企業進歩の停止となり、事業の收縮となり、光景轉た凄然たるものあり。更らに進みて現在使用の資本を吸收するに至りては國の產業は忽ち衰退に陷り、國資消盡し、國力疲弊し、干戈戰みて平和に復すと雖も其慘害は復せず、戰後の富强は徒望に屬し、勝利は殆と徒勞に屬す。故に戰時局に財政の任に當るものは、可成一國の事業をして衰退せしめざるのみならず、亦事業の發達進歩を阻礎せざるを勉めざるべからず。然らずは恰も股を割きて飢を凌がんとするの類に陷らん。飢を醫するも身は遂に斃る。我國現時の狀態は果して如何。八千萬圓の公債は、二回に募集せられて、共に好結果を得たり。二月迄の拂込額は、三千萬圓に登り、三月以後六月に至りて、尙五千萬圓の拂込を終へざるべからず。我國經濟界に取りては、亦巨額ならずとせず。斯る巨額の金は、抑も我國資本の如何なる部分より吸收せられたるや第一遊金は勿論、第二種の資本も亦既に吸收せり彼の戰爭前に在りて盛んに物興せる若くは擴張の計〓ありたる鐵道及紡績等の事業は、殆と全く其進歩を停止し、其計〓を他日に延引せるに非ずや是れ其歴然たる實證なり人或は曰く、我經濟界の金融甚だ切迫せず又擾亂の兆を見ずと知らずや其金融の逼〇〇〇迫甚しからざるは、商工業の停止收縮より來れる現象なるを。若しそれ經濟界の凶慌を惹起し、金融必迫となるの暁は、是れ一國の資本吸收し盡きて、國力疲弊の極に達せるのときなり金融の必迫を感ぜざるを以て經濟界の影響なしと云ふは、畢竟火に觸れざれば熱を感ぜずといふの類のみ。常識あるもの誰れか其愚を憐まざらんや。附錄或は曰く、軍事費にして外出せざる以上は、一國の資本は甲より乙に移るに過ぎずして、依然損益する所なく、一國の產業亦影響を蒙るの理なきに非らずやと。是れ經濟の何物たるを知らざる論なり。一國の資本は、其平時と戰時とを問はず、常に轉々流通して止ます。されど其資本家の手に在りて生產的に使用せらるゝと、軍事費として不生產的に使用せらるゝとは、其結果霄壞の差あり。一は生產的に使用して一國の隆盛を來し、他は不生產的に消費して一國の衰微を招くの因となる而して論者之を混同して同一となす。之れ衣服の美に眩惑して、婦人の醜美を判するを得ざるの徒のみ。吾儕は現時我國力を以て既に盡きたりと云はず又現在募集せる公債より以上の負擔に堪へずとも云はず若し國家の財力を賭して國債を募らんとせば、固より幾千萬の巨額猶容易に募集し得べしされと之が爲めに經濟界を攪亂し商工業の衰微を招くが如きは、豈○に經世家の爲すべきとならんや。巨額の內國債は、一國の經濟界を攪亂し、一國の疲弊を招き、危難に投入するものなりとせば、之を救濟するの道は、外債募集を措きて他に良法無し。外資の輸入は、涸渇せる一國の財源を裕かにし、缺乏せる流通資本を充たし、澁滯せる事業をして活潑ならしめ、衰替せる工業をして復興せしむ。是れ歐洲各國が利用して、以て其國勢をして頓に挫折せざらしめたる所以のものなり。然りと雖も世上尙ほ狹隘固陋なる一種の愛國論者尠しとせず。彼等は外債を惡むと蛇蝎の如く、外資輸入を恐るゝ〓と猛虎の如く、外債募集を以て亡國の兆とし、外資輸入を以て國威の毀損と爲す其衷情は憐むべしと雄も其冥藤は誨へざるべからず。附錄(九五三)
曰く、外債の募集は干渉の端を開き、外人をして不覊獨立の財政權に容喙せしむ、埃及は外債の爲めに、其豐饒なる國土を擧げて、英佛の餌食たらしめたりと。言何ぞ自ら見るの低きや。今や日本は卓落欝物、世界に雄飛するの新興國となり、世界の畏憚して敢て近づかざる支那老帝國に對しては、之を破る〓と枯木を挫くよりも易く、宇內の萬民をして其英風を欽慕せしむ。之れを以て懶惰放逸國民的統一なき埃及人と同一の地位に立たしむるが如きは、自ら識らざるも亦甚しといふべし。』又曰ふ、今や王師の向ふ所戰へば捷ち、攻むれば取り、草の風に伏すが如く、威武十八省を壓して四百餘州を震駭せり、是世界に對して、我武を揚ぐると共に、又我國力の富裕にして廣大なるを知らしむべき時なり、故に飽く迄內國債を募るべし、徒らに一時の苦痛に堪へずして、外債に倚るが如きあらは、軍事上に收めたる帝國の光輝を、經濟上に於て失ふなり、是國家の恥辱なり、國威の毀損なりと 〇、論者は、一を知りて、未だ二を知らず●國債は大に國家の信用如何に關す信用なきの國家は、如何に煩悶するも如何に苦計をR施すも决して滿足なる公債を募集し得ず故に外債募集の結果の良否は以て一國の信用をトするの風雨針なりと謂ふべし然らば進みて世界の市塲に我帝國の信用を問ふも亦快ならずや先きに我れに十倍の人口を有し三十倍の土地を有し、世界の寳庫を以て目せられたる〓國は僅かに三百萬磅の外債すら滿足なる結果を得ず之に反して若し我國にして巨億の外債を募り得るあらは帝國の國威は、經濟上にも支那を壓して數百倍の光輝を增すべし歐米の資本家は、已に翹首して帝國の公債募集に應せんとせり好機は利用すべき也。附錄ず戰局收まるの日第二維新に入るの日吾儕は其劈頭の第一事として夫れ何事をか望むべき願うて此に至れば、吾儕第一維新の當年に遡りて、彼の五條の誓文を想起せざる能はず吾儕今先づこゝに之れを揭げて、萬人の腦底より舊き記臆を起さんとす。一廣く會議を起し、萬機公論に决す可し。一上下心を一にして、盛んに經綸を行ふ可し一官武一途、庶民に至るまで、各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんとを要す。一舊來の陋習を破り、天地の公道に基く可Lo一智識を世界に求め、大に皇基を振起す可○第二維新の第一事幕府討滅は第一維新の大動機なり征〓の役は第二維新の大動機なり今や吾儕は過去の深養と將來の鴻望とを抱きて、第一維新よりも更に宏大雄偉なる新時代に入らんとす世は方さに新たなる用意に忙しからんとす創業の際は人心勃與して元氣大に振ふ氣呵成の勢は多事紛々の間にも、猶ほ能く着々として多事を成す爲す所簡提明决、肺腑を穿ちて要訣に入る矯飾無く遲疑無くして直ちに事の擧がるを期す。第二維新の日亦當さに斯くの如くなるべし戰局は早晩收まるべし。吾儕は幾多の光榮を荷ひて、其局を結ばざるべからず。戰後の日本は、復た東洋の日本に非ずして、正さに世界の日本たるべし。四千萬の同胞は、皆世界大の志を齎らして、此新時代に入らざる可ら附錄天地の公道に基く可大に皇基を振起す可(一六三)唯僅かに五條、百〇九字の誓文のみ。
。れ實に第一維新首途の大宣言書簡明直截、多言せずして意深遠興國鴻圖の生氣躍如として活動す當時の理想こゝに在り實行亦こゝに在り。聖主親ら臨みて億兆の前に、之れを醤ひ給ふ國の大方向こゝに公表し、天下翕然として之れを仰ぎ人心皆赴く所を知る有司承けて之れを行ひ、人民奉じて之れを努む以來三十年、大政の由て基く所を追雖せば最後は唯この五條の誓文に藏まる。今日の日本は畢竟此誓文を擴げて實行したるの結果のみ我國民君を仰ぐこと神の如し。何事も一たび聖詔と爲りて出づれば、國民は實に一個の神文の如く之れを仰ぐ嘗て誓文一たび出でゝ深く人心に感刻せば、幾多の星霜は復た其紀念を磨する能はず。政治家、操觚者、論壇の上、演壇の上、公議を主張する時、進歩を企圖する時、政府を警戒する時、憲法を論ずる時、責任內閣を說く時、或は實行の例證として之れを擧げ、或は理想の標準として之れを揭ぐ其感化力の廣大なる、其天下奉承の意の深剴なる、亦以て識るべし。吾儕之れを想ふ毎に、未た曾て肅然として聖徳の鴻大なるを感激せずはあらず然れとも第一維新の業は、素と主として内を整ふるに在り當時天下の情勢固より然らざるを得ず封建を破り、武斷を破り、政權の私有を破り、少數の擅制を破り、割據を破り、分離を破り、不平等を破り、舊弊頑陋を破る。而して皇威を揚げ、公議を起し、統一を圖り進步を促し、日新の文明を求む國を開くも土着的開國なり。外に求むるも、内を整へんが爲めなり。吾儕五條の誓文を拜誦して、明かに此意を悟る內を整ふるの急は、未た大に外に伸ぶる附錄の暇あらず第二維新は然らず。大に雄圖を〓して、外に伸びんとす。天は內を整ふるが爲めに、吾邦に三十年間の歲月を與へぬ。此間上は聖明の威德に由り、下は忠實勤懲なる國民の勵精に由り、既に誓文に示し給へる多くの事効を遂げたり。所謂長足の進步の一語は、最も簡明に之れを現はす幕府僅に倒れて皇室の鼎未だ重からず是際皇基の振起は洵に必要なり。されと今や皇室の威殿は赫々として四海に輝き皇化亦茅屋の民に及びて光被せざる所無し國民忠君の念は溢れて天地に磅礴し恭敬仰慕の眞情萬國其比を見ず皇基は已に泰然として不抜なり巍然として天に高きこと亦富岳も及ぶ所に非ず。第二維新の日は更に大に皇猷を恢弘し國民は赤心之れを奉戴し、以て世界に倫無き帝威を輝かして、字內を被覆するの大に雄圖を途に上らざるべからず外に對ふの日は、內必ず人心の一致を要す。幕末外艱に至りて、國論は忽ち開鎖の兩極に分かる。勤王佐幕の二主義亦之れと結ぶ。兩者相疾視すといへとも、而も人心一致を望むの念は敢て異ならず。唯開國論者は開國に一致せしめんと欲し、鎖國論者は鎖國に一致せしめんと欲す幕末十數年間天下の紛援激昂極刑暗殺、叛亂戰鬪、劍光閃々炮聲轟々飛肉流血あらゆる慘狀社會に現出せしは竟畢是れ人心一致の終極に達せんとして、其の道中に起りし悲慘劇に外ならずO.斯かる人心一致の困難なる境を經て漸く一致したるもの即ち是れ第一の維新王政復古なり吾儕誓文を讀て人心一致を繫がんとする意の殆と全條を通じて隱顯せるを見る亦以て當時人心一致の難かりしを知るべく又附錄(三六三)
0其急なりしを知るべし。今や征〓の軍起りて、國論は立ちどころに統一丁·五人心一致の難易、第一維新の當時と其差書壤も啻ならず。嘗て官民の軋轢殆と脊盲に入れるの觀ありしもの、一朝對〓の大事に雲の如く散じ、舊怨を忘れ、爭念を去り、全國肺腑を傾けて一致し、9 3國民の凝集力方さに絕頂に達す征〓の役起りてより、天下誇るべき美事數ふるに暇無し。されと此人心一致の大現象は眞に其美中の美なり國民斯る凝力ありて始めて一國の大進步期すべく大富强期すべく國威國權の皇張期すべく、世界雄飛の鴻圖期すべし第一の維新は、內を整へんが爲めに、最も人心一致を要したり。第二の維新は、大に伸びんが爲めに、最も人心の一致を要す。吾儕は戰後永く此人心一致を維持し、區々たる內爭を絕ちて、一意外張の征途に向はざるべから(四六三)ず。政權の分配未だ普からずと難も、憲法は已に行はれて國會は開け、誓文に所謂萬機公論に決するの道こゝに擧がり、鎖國武弊の陋習は已に大に破りて、今は三十年前の日本と眞に別天地たり。世界の智識は已に大に求めて、學術の進歩復た深く泰西に恐るゝを要せず。吾儕素とより既に之れを求め盡したりと言はず今後猶ほ多くの求むべき者を有すされと第二の維新は獨り之れを求むるのみならず、更に我より進みて世界に與ふるの時代たらざるべからず我國民は、是れより方さに世界を〓ふるの任に當るの大抱負を要す夫れ斯くの如く我國は既に誓文の多くを卒へたり。誓文の意趣固より遠大雄邁、吾儕今日猶ほ之れを行ひて盡きざるものあるを覺ゆされと我國民的生活は今や將さに一大新紀元に入らんとす。第二維新の理想は、第一維新附錄。印C度の熱天に行く者、サイベリヤの寒地に行く者、支那に行く者朝鮮に行く者、凡て外に出づる者悉く之れを感銘し苟も日本人の足跡到る所は亦必ず聖言感銘の心到り內に在る者は茅屋の民も之れを記し小學の兒童も之を誦し無窮の子孫亦之れを紹ぎ以て宇內に於ける最大なる目的を達するの途に進まざるべからずピートル大帝の〓は、今猶ほ魯國民の心に活く我國民の忠實豈に之れに劣らんや。吾儕當局者の責任最も大なるを思ふ○京都博覽會四月將さに來らんとして、京都は、博覽會と奠都祭とを以て、四方よりの來觀の足跡を集めんとす去年征〓の役未だ起らざるに當りて、維 比平和的施設が今日戰爭の半ばに開かるべしと思はんやのの理想とは大に異なるべし實行も亦大に異なるべし世界の舞臺に立つべき新國民は擧げて皆我日本を世界の泰斗と爲すの覺悟を有し全力を盡して一意に此覺悟を遂ぐるの努力を要す第二維新に入るの日は宜しく四千萬の同胞をして悉く此覺悟を有せしめざる〓からす吾儕是に於て第一維新が彼五條の誓文を以て開かれたるの英舉を仰望して亦實に第二の維新が同一の盛事を以て開かれんことを希ふの衷念甚だ切なり若し夫れ大詔下りて、世界經營の國是一たび煥發せば天下は靡然として之れに服し、一 四心を一にして其大方針に向ひ眷々服膺して其効の擧がらざらんごとを恐るゝこと猶ほ第一維新の誓文に於けるかごとけん而して國民は擧げて之れを肺肝に感刻し南洋に遠征を試むる者、西洋に雄圖を企つる者、附錄(五六三)
戰爭起りて、天下の視聽は悉く之れに集注し、戰報に非ざれば、人之れを讀まず。戰話に非ざれば、人之れを聞かず。世は殆ど博覽會を忘れたるが如く、奠都祭を忘れたるが如し。太陽一たび出でゝ殘月光を失ふの觀あり。是に於て論者往々博覽會延期を說くものあるに至る。吾儕亦餘りに世の戰爭に熱中するを見て中心聊か博覽會を憂ふる所ありき。されと大國の民は、一事に魂を奪はれて萬事を忘るゝが如き躁急の人に非ず非常の事を行ふと共に悠々として常事を行ふ花に醉ひて實を忘るゝは、斷じて其爲さゞる所なり吾儕乃ち以爲らく我國外に戰爭を起して同時に內には博覽會を開く爭戰固より大に我國民の力量を示すされと此戰爭の間に開ける博覽會こそ却て大に我國民が大國民の力量を存せるや否やを試驗するの好機なれと我國博覽會を開くもの既に三回。一回は一回より出品多く、効績著しく、進步の象は駁々として現はる。第四博覽會は、勢ひ更に一步を進めざる可からずされと若し不幸にして一點進步の徴を現さずば、是れ寧ろ我國民が戰爭の爲めに恒產を廢したるの兆なり恒產を廢したるは、恒心を失ひたるなり恒心を失ふ者は、復た共に非常の大事を語る可らず。2.第四博覽會は、我國民が非常の際に於ける恒心の試金石也戰爭は武力の火なり。之れが燃料を供給するものは、即ち一國の產業力なり之れありて以て將略施すべく、砲丸放つべく、突貫行ふん、軍艦戰ふべし。一國若し實業を忘れて戰爭に狂するあらば、是れ烈火の上に燒死を忘れて躍れるなり。夫れ一國產業力の成果の粹を萃めて一塲の中に列ねたる者、之れを博@ @覽會と爲す。第四博覽會は、戰爭の傍らに我附錄國民が實業熱心の度を計るの驗温器なり。我國民は、果して博覽會に於ける大國民の資格の試驗に於て勝を取るべや否や。吾儕未然の今日に於て輕々しく判斷せず。然れども一片の好報は已に吾儕の耳に到りて、衷心誠に雀躍に堪ふる能はざる者あらしむ。曰く出品の勢ひ甚だ熾ん當局者之れを制するに苦むものありと曰く人心勃興、平時の博覽會よりも更に盛况の望ありと曰く、外人の至る者非常に多きの兆見ゆと吾儕之れを確かに信すべき邊より聞く吾儕が先きの憂は杞憂と爲れり國民斯くの如くして始めて恒心談ずべく豊富なる能力談すべく非常の大事談すべく大國の民たる談ずべし英國大陸の爭戰に參してマンチエスターの工塲機關轉ぐること平生の如し世以て美談と爲す之れを戰爭の傍ら盛んに博覽會を開くに比して、未だ深く誇るに足らず鳴呼外に武力的文明の進步を示して內に平和的文明の進歩を示す內外相應じて我國民の大を識らしむ壯快焉れより大なるは莫レ世人は决して戰爭の爲めに博覽會を輕視すべからず戰爭に投ずる熱心の注目は、亦必ず博覽會に投ぜざるべからず。吾儕は幾たびか繰返す、戰爭後の日本は、世界の日本なりと苟も世界に入りて世界の命令權を握らんとするものは、凡て世界を〓とするの覺悟を要す。强大となるものは、其强大を維持せざるべからず。維持の次には進步を要するを忘るべからず抱負大なるものは負荷も亦大なり其負荷の地盤は、是れ眞に實業の力なりC〓國富みて兵强し偉大なる建築牛固として動かざる地盤の上に非ざれば能はず世界に雄腕を奮ふの第一手段は實業の發達に在り。附錄(七六三)
斯る時期に際して恰も實業奬勵の博覽會開かる幸運乘ずべし好機利用すべし天下の人は就て以て智見を開き工風を磨き0以て將さに來らんとするの新時代に於て大Cに富國の任に當るの素義を爲すべき也○國民の堅忍〓〓ン英人を評して曰く彼等甞て@〓一種の猛犬を蓄へり一たび物に噛み付かば、首を斬らるゝに至りても之れを放さず主人の性眞に此蓄大に似たりと言簡なりといども英人が堅忍不抜、斃れて後ち已むの資性を描きて餘りあり世界に於て我意の强きもの誰れか英人に及ばん彼は不遜を以て世に憚らざるのみならず寧ろ之れを以て一種の特色と爲す彼は决して他の意を迎へて事を處せず己れ言はんと欲する所は、人の感を害するも敢て言ひ己れ爲さんと欲する所は人の妨敢て爲す己れは毫も曲げずして世をして己れに曲げしめんとし己れ他に同化せずして他をして己れに同化せしむたび捕へんと欲せは遂に捕ふる迄其目的を廢せず其手段を停めずいつ迄經るも如何なる障礙來るも必ず獲物を我手に收めざれば止まず而して一旦我手に入るれは復た飽迄離さず其强情執拗なる、實に酒々輕快の人をして一念忽ち頭痛岑々たらしむ吾儕は甞て其一小典型として公使パークスの剛愎を甞めぬ吾儕今爰に斯る言を爲す者は、决して英人が其强情の爲めに、世界に惡感情を與へたる所爲を非難せんが爲めに非ず。吾儕の與意は彼等が此特質中より世界的事業の成功の秘訣を發見して我國人と共に聊か〓究せんと欲するに在る耳(八六三)附錄我意の强きは即ち自信の强きなり强情執即ち堅忍不拔の精神なり智に於て足らざる所あるも若くは德に於て缺くる所あるも尙ほ此堅忍不拔の精神あるもの、遂に何事をか成功せん吾儕必ずしも英國を以て、大人君子の風ある國と思はず又必ずしも敏慧巧智の國と思はず其徳量に於ては遙かに米國に譲り聴慧に於ては遠く佛國に譲るを見認利益の念盛んにして競爭の意强く人を心服せしめて取るよりも寧ろ抵抗を以て壓して取る取るに急なる心は與ふるに客にして容易に他に假さず而して沈重寡默、感じて敏ならず注意周く到らざるが如く一見唯木强漢のみ〓而も其不撓不屈の精神に至りては、世界復た2彼れに及ぶ者無し。歐洲の僻個海上眇たる3.一靑螺の島國にして、世界に絕類の偉業を樹2てしもの、豈亦偶然ならんや己れに勝る幾百倍の領地を有し、幾百倍の人口を支配し、世界到る所に人民を送り、軍艦を送り、商船を送り、商品を送り、國威を送り、國權を送り、又到る所より利益を吸收し、事業を吸收し、服從を吸收し、畏敬を吸收し、宇內に橫行して行く所に威を張る。彼れが果して將來永く斯る絕大なる勢力を維持するや否やは吾儕今之れを識らず。されど彼れは確かに過去に於て斯る勢力を世界に樹て、現在に於て亦斯る勢力を維持せり其大を致しゝものは實に彼れが强者を恐れず大〓に縮まず、大膽に抵抗し、競爭し進撃し反撥し、執着し、耐久し、遂に壓服し、遂に勝ちしなり。彼れは敢て大人の量を以て世界を包容したるに非ずして勇士の資格を以て世界の競爭に打勝ちたるなり彼れの成功は實に抵抗力と粘着力との合產物也。』世界の地圖は、實に其多くの陸地を此砂たる附錄
〇一靑螺の島國と同色に染めて其堅忍不拔の精0252酬印度加奈多資料香港新〇嘉坡、喜望峯、世界に散點せる數多の領地は、眞に猛犬的氣質の紀念碑なり吾儕豈天下の事業が、此一精神に由りて全く成るべしと言はんや。されと大志一たび起りて實行に着かば、堅忍不拔の精神は實に成功3 eの主力たり日本が英國たる能はざるは、猶ほ英國が日本たる能はざるが如し。吾儕何ぞ日本人に對して、悉く英國人と同一性の人たれと勸めんや。唯英國が世界に大事業を遂げたる精神に至りては、吾儕亦之を取るに遲疑すべからず。今や日本は世界の舞臺に入るの首途に立ちぬ。世界に入るは、國家的生存競爭の劇塲に入るなり。此間に卓然たる一大帝國を樹つるのO漿は、即ち競爭に勝つの葉なり。勝つは即ち取るの業なり。◎◎3所有は一大勢力なり。尤も多く有つものは尤も强し。智に富むものは智の競爭に勝ち、富にむものは富の競爭に勝つ。日本の將來は唯大に有つ所を增加せんとするに在り即ち日本は大に世界より取らざるべからず國權に於ても國光に於ても國利に於ても國常に大に取らざるべからず土に於ても、人の成功は明かに其取るの道を示しぬ。抵抗力と粘着力とは亦實に日本が世界の競爭に打勝つの秘訣たらざるべからず。已に一たび希望を定めば、之れを貫かざれば已ます。十年一劍を磨し、膽を嘗めて薪に臥す。排擊すべきは排〓し、戰ふべきは〓ふ。十年貫く能はざれば、二十年を以て貫き、二十年能はざれば五十年、百年以て貫く。東洋の英3國を以て任ずるものは亦當さに夫の猛犬的氣質を備へざるべからず5己れを損して弱きに與ふる義俠の精神は、我附錄5我6日本必ずしも英國に讓らず然れとも剛强なる抗抵力に至りては吾儕將來に於て尙ほ大に養ふを要す國一致の凝集力は、我日本2亦央して英國に劣らずされと耐久なる粘着力に至りては、亦大に養ふ所なかるべからず俠氣潔癖は必ずしも成功の道に非す况や短氣をや、况や輕浮をや吾儕世の識者と共に固より我國の大國たらんことを欲すされと同時に强國たらんことを欲す寛大正義の徳量と共に遠大精通の識◎量と共に又大に剛大堅忍の膽量を有せん〓とを欲す强國とは獨り武力の强きを謂ふに@ @非ず。外交に於ても、經濟事業に於ても、凡@〓3〓〓@て〓の平和的事業に於ても猛堅果敢の氣力を以◎て行ふを謂ふなり◎大人の德は、爭はずして敵を服し、味方を服1するに足るされど戰塲に立ちて敵を倒して1 2勝を制するは、勇士の力に在り世界は戰塲(p)なり新たに勃興せんとする日本は數多の2 () 40敵を有す日本は勇士の資格を以て立たざる@ベからす。○和局乎變局乎喝子馬關に和約成る取る所は圖に澎湖島盛京省の一丁償金に二億兩其他法權商權等の利若干國民は之れに滿足するや否や。彼等は之れを以て當初の目的を達せりと爲す乎。平和克復の詔勅出でゝ、和約聖旨に協ふの意を言明せらる。日本は然り支那は如何。彼れが批華交換未了の今日に於て、吾儕妄りに和約の條件に就きて可否を言はず。否な言ふ能はず。唯夫れ國民は初に於て何と言ひしぞ。軍隊は何と言ひしぞ。天下硬議の徒は何と言ひしそ。北京に旭旗を樹てよとは、彼等が萬日一齊に附錄(一七三)
絕叫せし所なり。北京に城下の盟を爲せよとは、彼等が亦口を極めて主張せし所なり。張蔭桓の來るや、彼等は平和の時機未だ至らざるを叫べり。李鴻章來れる時も、亦均しく非媾和を叫びたり。〓國は精神に於て未だ决して懲りずと唱へたり。曰く臺灣を取れ。曰く盛京省全部を取れ。日く償金十億、又五億。二億の聲は未だ曾て聽かざりき而も今は北京に進まざるは勿論山海關すら破らずして和約成りぬ北京に城下の盟は夢と爲りて日本の馬關に盟を爲しぬ。平和の時機未だ至らずと唱ふる言下に平和の約成りぬ國民以て如何と爲す軍隊以て如何と爲す。顧ふに彼等は已に安心せる乎。和約成りて何身ぎ白ぞ天下に硬議の聲無きや。葢し始めの硬議は僞なりし乎。將た一朝意見の豹變乎。或は默して時局を視る乎。抑も一種の束縛は言ふべき自由を假さざる乎。吾儕豈徒らに辯を好みて今日斯る言を爲さん5やつ唯真に國民が内に願みて初心を點複せん1◎6〓s 3〓933ことを望まんが爲めに言ふのみゴ今の和約に魂を奪はれて、當初の雄心を忘るゝが如きあらば、悔は必ず五年の後、十年の後、二十年の後に來らん。其時は今より幾層倍の苦痛を以て、北京に旭旗を樹てざるべからざるを覺悟せんことを要す。吾儕固より硬議を主張する者。和約の成るとい成らざるとに山りて豈濫りに主張を變ぜんや但人事意の如くならざるもの十に八九。嗚乎征〓の結局も亦此類乎唯吾儕が初心の理想は、之れを飽迄保たんのみ * * 三週間の批準期限、餘す所唯一週間のみ。而し主て〓國未だ批凖せず。彼れ今日の窮境に立つ、(二七三)附錄恐くは復た批準を惜まざるべし。されど國際の例を蔑して和約を覆すは、山來信なき北京朝廷の恬として憚らざる所。彼が多年の外交破約史は、實に其的證たり。伊型事件に於ける&〓露國の轍は、我邦决して之を踏むべからずコ固より李鴻章の北京朝廷に於ける勢力は、决して崇厚の比に非ず。日〓事件に於て北京朝延が戰敗の苦痛を感ぜるの度は、必ずしも伊犁事件の比にあらず。されど北京朝廷が外交の信義に重きを置かざるは、今昔依然たりC守舊黨の滿てる北京朝廷今日豈一人の伊型事件に於ける張之洞其人なしとせんや。@ @ C @ @C〓國が外交侮弄の批準交換を終らざる間は幕は閉ぢたりといふべからず况や梟雄李鴻章が外交的術數の猾智は、崇厚の比に非ざるものあるをや。舩は其本躰を捕ふる迄、決して獵銃を擲つべからず。 * 〓國已に斯くの如し。加ふるに歐洲の妖雲我れに向ひて電馳するあり。飛報は傳へて曰く、「東洋の利益を保護せんが爲めに、獨佛露の同盟成れりと吾儕固より容易に之れを信せず。讎如何に東洋に於て利害を同くしたりとて、念膏盲に入れる佛國が、獨乙と手を携ふるに)さんと其發識者至らんとは夢思すべからずは無論露國ならん。露國中心となりて左に佛國と手を携右に獨國と手を携ふるの奇臨象必すしも之れ無しと断言すべからず機應變的外交政略は、常理を以て推すべからず。兎に角尤も怪むべきは露國の動靜なり。』已に露國の干涉を論じた吾儕は前號に於てり。以來切りに怪報來りて吾儕の耳朶に入る。皆吾儕が論旨を確むるの資料たらざるは無し。吾儕一々之れを記するを得ずといへども、a心讀者は須らく言外に事實を了して、已に妖雲〓迫れるを覺悟すべし附錄(三七三) * *
彼。れ果して愈武を以て我れと爭はんとするO乎彼れが二十艘の東洋艦隊、固より我に於て恐るゝ所に非らず幾千の陸兵亦何かあらん我れは决して彼れが武に懼れず况や言上の干渉をや。況や虛喝をや我國民は决して今日に於て早く馬關の和約に安心して、滿足の光榮手中に在りと思ふべからず。天下の變は測り難し。危機一髪、何の變起るも識るべからず。征〓の局、九仭の功正さに成りて、餘す所唯一簣の際に在り。而して事破れ易きは、實に此一簣の際に在り。〓國に勝ちて他國の干渉に敗るゝが如きは、國斃れても爲す能はず國民凡て戰を覺悟せよ獨り〓國のみならず、露國と戰ふを覺悟せよ。而して畫餅に屬するも悔ゆるに及ばず。○自由乎腰制乎(日七三)上は下を壓せず、下は上に曲從せず。下言はんと欲する所を言ひて、上も亦其見る所に由りて行ふ。斯くの如くして期せずして相一致し、各々自由の意を抂げずして相投合す。是れを之れ眞の人心一致といふ若し夫れ朝は欲する所を行ひて野は思ふ所を擴ぶる能はず自由の口を塞ぎて異論を押硬議を抑へ警醒の言を抑きことを言はしめずして而して人心一致を得たりとせん乎是れ人心一、致を衒ふなり。是れ僞一致也是れ尤も不健全なる一致なり。朝は或は滿足せん。野の欝々たる不滿を如何せん下大に言はんと欲するものあり、上は豫め言ふ勿れと命ず。背きて言へば忽ち嚴罰降る。是に於て下は間を恐れて、忍びて遂に言はず。讓言跡を絕ちて、人眞意を吐かず。甞て尤も硬議を主張せしもの、今は軟々として惰論紙上附錄に滿つ。而も上は以て其意を得たりと爲す。』斯くの如く下は曲從した已む無く侃議を外に〓s洩さず。上は乃ち之れを利とし、益々無言の業を課して際限無し下言はんと欲する所の區域益縮少して、言論の自由愈狭し。天下野に在りて言論の任に在るもの、其憂國の眞情豈敢て在朝實行の任に在るものに讓らんや。而も其口を箝して、愛國の情に滿足を與へす。是れ果して治世の道を得たりと爲すべき乎。下に警醒の言無き世は上放慢の世なり、專縱の世なり。上に在りて警醒の言を聽くの耳なきものは、專制を行はんとするものなり然れども亦上をして益下の言を塞がしむるは誰れの罪ぞ。塞がるゝが故に塞ぐもの生ず塞ぐもの固より無道なり。ざれど恬として塞がるゝに任すもの亦其責を這れず。昔は切りに言論の自由を唱ふ。今は自ら不自山に届從す。時勢の然らしむる所といへども、今後益不自由の來るあらば、是れ不自由に屈從したるの報復なり。5 S人は最も自由を好む政治家尤も然り。56夫の專制を主張するの政治家は、即ち無限に治者の自由を取らんとせるものなり。專制政治は獨り治者の自由政躰なり立憲政治は、此治者の自由を制限す狐は其穴を忘るゝ能はず。人は其故〓を慕ふ◎甞て專制自由の夢未だ醒めずして我儘の快味尙忘るゝ能はざるものは縱ひ立憲政治に入るも機會の乘すべきあらば又其專制の昔に復せんとす立憲の名を被りて專制の實を行ふが如きは、寧ろ始めより專制に如かず古來多く言路を塞ぎて國を亂せしものあり。亂階は壅塞の間より來る。嗚呼明治時代は照代なり。斯る不祥の事實あるべき理は無しされと若し之れ有らば決附錄간(五七三)
して等閑に付すべ今後來るべきは自からず山乎壓制乎。·天下は油斷ならじ○天下多事眼を閉ぢて日本の將來を望めば、眼底に活現天するは、多事なる日本なり。多事の天下必ずしも紛々たらず。庖丁の良あらば、之れを解きて釋々として餘裕あり。昔し德川家康の將さに膜せんとするや、將軍秀忠を枕邊に招きて問ひて曰く、我れ死せば爾天下は如何ならんと思ふやと秀忠答へて曰く、天下は將さに大に亂れんとすと家康乃ち頷中安心を表して逝くC〇夫れ秀忠にして斯覺悟あり、以て家康が撥亂C反正の後を承けて、天下統一の創業を修整するを得しなり我日本は今日實に秀忠の覺悟を要す征〓の偉業は、撥亂反正の業なり。(六七三)果は、國權國利の增進と爲り、版圖の擴張と爲らんとす。日本は復た五幾八道の日本に非ずして、臺灣、澎湖島、及び滿州の一部を取るとせば、九州に二倍半、北海道よりも尙大なる領土を加へて、甞て二萬五千方里の日本は、廣がりて三萬餘方里の日本と爲るべし。吾儕が同胞は復た四千萬に非ずして、風俗を異にし、習慣を異にし、言語を異にし、感情を異にし、智識を異にする數百萬の人民は將さに吾儕が新同胞たらんとす。吾儕は北にアイヌを同胞とせるが如く南に臺灣の熟蕃を同胞とし西に豚尾と賤めたる辯髪の蒼生を同胞にせざるべからず日本は内に於て當さに新統一の業を創すべきなり。是れ實に戰爭よりも容易ならざる業なり。從來官民の爭點と爲りし多くの未了の問題も、今は時勢の一變と共に、自ら消滅に歸すべ第きもの尠からざるべしといへとも、尙其成功眼底に活現天附錄撥亂反正の業なり。戰捷の結を將來に期せんと欲するの問題亦豊尠しとせ人ton加ふるに無數なる新經營の同題群り起らん。是吾儕の列記を待たずして明かなり。』目的に於て合するも、手段に於て離る。新領地を統一し、新同胞を日本化するに於て、誰か異論あらん。唯如何にして之れを行はんとするやに至りて、意見相分る。甲は彼れを緩とし、乙は此れを急とし、彼れの先きにせんとする所、我れは後にせんとす。實施の順序、方針の硬軟、一定し難くして相爭はヾ、亦夫れ元の紛々擾々乎。二億兩の償金、如何に之れを用ゐんとする乎。或ものは軍資金に貯へんと言ひ、或ものは軍備擴張に用ゐんと言ひ、或ものは新領地の經營に用ゐんと言ひ、或ものは〓育費に用ゐんと言ふ。限りある財を以て、限りなき意見の出途に充てんとす。爭端今より想ひ見るべし。』是れ固より唯內政多事なる一端を擧げしのみ。更に外に至りては、又益多事なるを見る。』日本が戰勝の光榮には、一方に賞讃伴ひ、畏敬伴ひ、恐怖伴ひ、更に利己的友情伴ふと同時に、一方には復讎伴ひ、憎怨伴ひ、嫉妬件ひ、競爭伴ひ、又戰爭伴ふを忘るべからず。』〓國媾和の條件に於て、陽には懲悔を表したるが如し。其心術に於ても亦確かに懲悔せるや。吾儕固より之れを信ぜず彼れも亦豈無心の動物ならんや何ぞ他日の復興を待ちて再び氏抵抗を試むるの底意なしとせんや五年の後。乎十年後平廿年7)後乎@滿洲の●半島を◎我@れに領取せんとせしは偶以へたり朝て露國◎のカルー◎涎◎に非なる失望を與鮮に我權一人ふんげ又彼れの喜ばざる所也◎◎日本が版圖の擴張は露國と到底衝突を免れす。而して其衝突は殆と目下に在らんとす若し目下にあらずは、他日必ず之れあり。馬關の和約にして愈成らば、日本が支那に得附錄(七七三)
る所の實業上の利益は、亦西洋各國も共に其惠與に均需して、支那は恰も世界の一大公開@市塲と爲らん。是に於て己に支那の利益を釀斷せんと努める英國は益來るべく、又近來東洋に新商利を博せんと企てる獨國も愈來るべく、米國も來るべく、佛國も來るべく、而して日本も亦大に行くべし。相會して競爭す。勁敵前に在らば、戰ひて勝つより外無レ。日本が此大市塲に勝利を博するの業は、即ち主として英國の競爭に勝つの業なり若し日本にして此競爭に勝つ能はずは、是れ寧ろ日本は國家永久の實力上に於て、今回戰爭の實功を空うしたるものと謂ふべし。經濟の敗北は、戰爭の勝利を空にす。且つ經濟の勝利は、多くは忍耐恒久の勝利なり。戰爭の勝利は、一氣阿成の勝利なり。難きは後者に非ずして、前者に在り。口本は、此難きに於て、英國を壓倒せざるべからず。日本が戰勝の効果は、利益の進取に於て、遂に英國と衝突を免れブ。而して利益の衝突は、往々政治上の衡突と化す。况や日本の雄圖は、將來國權の上に於ても、英國と相容れざるものあるをや。是れ亦日本が將來外國の勢力と相撞着せんとする二三の例のみ。日本は决して他に賴みて外交の地位を保つべからず。世界を引受くるの覺悟は最も必要なり。而して更に海外に振張すべき事業に至りては、眞に渺々として際限なし。西洋諸國が東洋艦隊を設くる如く、日本が堂々たる西洋艦隊を作りて、歐米の諸港に國威を輝すの日は遠きに在らざるべし。旭旗を樹てたる商船は、世界至る所の海上に橫行し、海上の敵を壓して我れに利を占め、勇敢機敏なる我商人は、海を踰えて更に陸上に登り、大に世界貿易の市塲に利を占むべし。殖民の業、探險の業、海獵の業、奬勵すべきもの、保護すべきもの附錄豈夫れ悉く數ふるに暇あらんや。嗚呼戰爭中に無事なりし日本は戰後に於て大に多事ならんとす明日の多事已に眼前に見ゆ明年多事後年多事五年の後益多事十年の後愈益多事。政府は如何に處せんとする乎戰爭の原動は國民に在り政府は戰功を塑斷して戰後興國の大業を國民と共にせざらんとする乎多事なる天下は、多くの人物を要す。今や民間牌肉の嘆あるもの豈尠からんや。野に入材を遺すは、興國の日の大缺點なり。〓3〓◎多事なる天下をして紛々たらしむるも釋々9 w p退のと◎た◎◎@らiむるも一に政府の所爲に在り。天下5 6共にする能はずは、寧ろ元勳は功成りて勇す。人はみ〓〓◎6 6 5吾儕剖目して、一李鴻章の一小創に大國の襟6, p @の5度を示したる當局者が戰後に於て國民に對@して如何なる襟度を示すやを見んと欲す對壁偶語(精明對壁偶語(精明十九號論說親所校八年七月一日第何の天候ぞ天を仰ぎて叫ぶ者あり。傍らに在りて其言を開く曰く、風吹くべくして吹かず。波起つべくして起たず。樹は默して其枝を鳴らさず。梢上の鳥亦四顧して、聲を呑みて飛ばず。魚は波に躍らんと欲して、身を水底に沈む。而して天上の雲は低く垂れて、地熱の發散を壓し、一種の毒霧は下りて、滿野の靑草を麻醉の裡に投ぜんとす。靑草は乃ち其瘴煙を掃はんと欲すれは、密雲は益下りて之れを鎖す。』滿眸の光景生氣なく、活動なく、愁ふるが如く、恨むが如く、默して訴ふるが如く、何事か戒心せるが如く、見渡す限り沈樹蕭殺、蒸濕慘悴の氣を以て充つ。覽る者をして恰も英雄敗軍の古戰塲を吊ふの想あらしむ而して唯特り綿蠻たる黃鳥は、雲上に聳ゆる附錄(九七三)
嶺頭に其妖音を弄して得々たり。而して之れに反して雄獅は潤底に其巨聲を潜む嗚〓〓'呼是れ何の象ぞ〓唯今日を見る者は、以て無事の日と爲せとも、明日を識るの明ある者は、以て變兆と爲す。然らば明日の變は如何。雲より來らん乎。地熱より來らん乎。雲は聖雨を下さん乎。雷電を起さん乎將た地熱は地震に化せん平。遂に迸發して雲を劈かん乎。抑も雲聞き地熱散じて、一碧〓明の天を視るべき乎盖し風の吹かざるは、大氣の罪に非ず、遮る者あれば也波の起らざるは水の罪に非ず、妨ぐる者あれば也。遮る者は何物ぞ。妨ぐる者は何物ぞ。樹の默するは、之れを識れば也。鳥の飛〃ばざるは、之れを戒むれば也。魚の躍らざるは、時を待たんとすれば也。特り彼の嶺頭に囀づれる一黃鳥は、果して何者ぞ。其宛轉として巧舌曲を弄するの壓は、優人繊女をして恍惚として耳を傾けしむと雖も、其繊弱なる刻翼の力は、往々軟風にすら抵抗する能はず只幸ひに嶺頭の勝を占めて高く仰がるゝの位地に在るが故に敢て翩々として嬌態を天庭に舞はし、揚々として妖曲を吟じ、以て怯心を掩ひて威風を裝へり而して測度に黙せる雄獅は見て其虛榮を嗤ふ。彼れは最も風雨を厭ひて和平を好む其尤き得意なるは春日遲々たるの日に在り。彼れの氣は弱々、勝は小なりと雖も、其智は亦能く好む所に奔りて脈ふ所を避くるを識る夫の雷を恐るゝ繊女は、往々已に朝たに於て岑々たる頭痛を起して、夕べの迅雷を豫知す。彼れも亦之れ有り。されば一たび風雨捲來りて天地を械かさんと3するあるや、是時彼れの巧計は、只一の逃計あるのみ彼は時としては幽谷に下りて、暗き林中に難(〇八三)附錄暗き林中に難〇を避く。さしと亦數々住馴れし嶺頭巨松の欝光蒼中に隱れて恬安を貪る。蓋し巨松は千古の靈樹なり高く雲天に蟠屈して疾風猛雨も其一枝を犯す能はず彼れは之れを以て尤も安全なる避難所と爲す此に逃込めば追ふ者も遂に竿を擲つ。但潤底には時々靈松の爲めに之れを嘆ずるの聲聞ゆ甞て一羽の鴉あり。遠きより啞々として啼きて來る。其狀一見窮せるが如く、憐を乞ふが如し。されと彼れは甚だ老猾なり。其黑き毛羽の內には、亦黑き心を包む外貌愚なるが如しと雖も、而も其他を愚にするの智は、遠く黃鳥の及ぶ所に非す其遙かに來るや、豈無謀にして來らんや。〇〇〇〇〇〇〇〇は、黄島をして心動き魂飛ばしむ。黃鳥は弄音一曲、之れを貪り取らんと欲す。老猾の鴉は、乃ち吝む所なくして香餌を遺し、復た理々の聲裡冷嘲のを帶びて去る。鴉素と强慾の性、豈故なくして多くを與へんや。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇は、彼方の天外より、斜めに翔け下りて、近く黃鳥を脅かさんとせり而も黃鳥は之れを識らざる乎。〇〇〇〇得意を極むるや。○は空を蹴て來れり聲を合せて高く一鳴すれ黃鳥は已に戰々たり附は鳴すれ空を蹴て來れり聲を合せて黃鳥は已に戰々たり〓○○〓〓○〇、○而して黃鳥は復巨松の蔭に潜みて、暫く巧囀の聲を聞かず得意乎失意乎案ずる所夫れ如何。昔者唐の詩人吟じて曰く、獨隣幽草潤邊生上有黃鸝深處鳴、春潮帶雨晩來急、野渡無人舟自橫。嗚呼隣むきは幽草乎。將た黃鸝乎潮勢○錄一八三)きは幽草乎。將た黃鸝乎潮勢
動きて岸頭に勇める舟子の胸躍る而して舟◎は亦空しく彼方に漂ひて良舟子を待つ嗟@平潮よ益々急なれかし舟は近づき來ら3ん舟子は躍りて乘らん。雨よ益强く降れ〓5幽草は忽ちに蘇生せん。而して黃鼬は幽谷に〓隠れ去れ第二懷古波荒き磯邊に出でゝは、人高く語り、暮烟暗き幽林を過ぎては、行客相顧みて戒む。驕陽金を燦すの日には、人市に集らずして、欝懷を風〓き綠陰に拂ふ。昔者道路に目を以て語りし日あり指を以て相傳へし日あり說きて不可なれば、顧みて他を言ひ、時非なれば、笑ひて過去を語る。過去は〓訓の錦囊なり。手を入れて發中を探れば、古人が磨きし遺玉は手に應じて至る。遺玉は今も燦然として輝き、臺然として聲あり古人は吾等に先だちて千万系の道を経驗し、以て吾等をして復た經驗せずして、悪3、べき道と悪るべからざる道とを識らしむ。道は多岐なり。中に一直の大道存す。數多の英傑は、既に之れを過ぎて後人の爲めに、標石を其入るべき道門に樹てゝ去れり。之れを顧みざる者は、迷うて岐路に入る。還らん平0日は既に暮れたり。行かん乎。曉天亦遠(二八三)附憶ふ、昔者僧西行は、東國に遊び、鎌倉に過りて源賴朝と相語る。去て家を出づるの時、破衣弊機の僧は、手に一個の銀猫を握れり。門を出でゝ、手裏の暖未だ手裏の物に及ばざるに、此奇珍は、既に早く門外に遊べる童子の手に移れり。何ぞ夫れ之れを閣て之れを擲つ@ 3.の輕易なるや斯くの如くは寧ろ始めより之〓れを取らざるを可とせずや否、否る我れは誤れり。西行は俗人に非す。無欲は此人の哲學なり。凡眼を以て見ればこ錄そ、銀猫も亦天下の奇珍なれ。「もろともに我をもくしてちりぬ花、うき世をいとふ心ある身ぞ」。斯る世拾人の眼より銀猫を見る、固よ事り唯一個の空のみ。空を得て空を擲つ、得るも得るに非ず。擲つも擲つに非ず。銀猫既に空。得要も亦空。西行に於て何かあらん。鎌倉の一小戯は、實に是れ西行の西行たる所以なり〓然れとも西行逝きて後僞西行多く山づ煩@惱の俗人、○0○○○○g G〓〓〓0 @〓○○〇O○○西行の興は、嘆するや報するや又顧ふ、昔し武田信玄は忠臣の〓に由り、壯歲放逸の夢漸く醒めて、歲方さに二十二。精を國政に勵まして未だ日あらざるに、村上義〓等が信州の聯合軍は、旌旗堂々として境上を壓して攻め來たる。乃ち甲州天才の驍將は、一撃の下に之れを破り、是れより連年相爭ひ勝は常に甲州の勇に歸し、遂に河中島四郡の地は、連捷の結果として信玄の掌中に入る敗れたる義〓等は、奔りて越後に赴き、上杉謙信に縋りて助を求む窮鳥を懷に入れ乃ち彼等が爲めに取られたる地たる謙信はを復するを諾し、賀越の響を討じて幟を京畿中原の地に樹つるの素志を中止し、c全力を注ぎて信玄に當り、以て甲州が物興を制壓せん附直ちに武を以て謙信は言語を以てせずして、干涉せり。乃ち甲信の問題は、一轉して甲越の問題と爲る。甲州の敵は、復た義〓等が那者に非ずして、越後の驚悍なる勁敵と爲る信玄は如何せしぞ。越後の勇軍來りて陣を河中島に張り、堂々として彼方に銳を示せば、甲州の勇軍亦水を夾みて北方に陣して屹然たり。信玄は越後の武威的干涉の爲めに恐れず謙信の使は、信玄の陣に來れり。曰く、君何錄(三八三)曰く、君何
。°力土敗れて乃ち多年苦戰の地を一脚に附して恬然たり。何ぞ夫れ戰局に執拗剛情にして、和局に淡泊冷潔なるや怪む勿れ。信玄の心術は明かなり。〓信玄始めc 9に曰く我れにして死せずば、謙信は决して志を成す能はずと、果して然り。甲州の鐵騎馬を川中島に立つれば、越後の願勇も、十二年の星霜を費して猶且つ其寸土を復する能はず。流石の勁敵も、戰を以て之れを復するのp難きを知る。乃ち信玄が武將の面目は立ち◎て甲州の威名は毫も贖れず是に至りて互に任意を以て和を媾するも信玄に於て何かあらん角岡は畢竟是一種の戯のみ。戯を以て事を决す。敗れて地を失ふも耻とするに足らず。勝ちて地を有つも敢て譽とするに足らず信玄◎の信玄たる所以は、和局に於て讓與の寛洪なるに非ずして十二年間不撓不屈を以て一步が故に妄りに信州の地を略せる、宜しく速かに其地を還すべし、若し返すを欲せずは吾れと戰へと。挑戰の言は、信玄をして雄快なる答を與へしめて曰く、義〓等を助くるの義は感すべし、されど信玄焉に在り、若し我が領取の地を復せんと欲せば、宜しく戰を以てすべしと。斷乎たる决答は、直ちに戰端を開く。是より河中島に於ける兩雄が多年龍驤虎鬪の活劇は、眞に史上千古の偉觀と爲る。相爭ふ十二年、時運は兩雄を促して、和を議せしむ。决を力士の角〓に取りて、上杉の力★士勝つ。信玄乃ち河中島の地を舍て、謙信之れを取り、義〓等に還し與へて、こゝに甲越爭閲の局を結ぶ。嗟乎、信玄は何人ぞ。始め戰を以て川中島の地を取り尋て謙信之れを復せんと欲せば亦戰を以て之れを力拒す而して後和を媾ずるに及びては、運命を瑣々たる一角戯に賭し、(四八三)附錄◎嗟乎、信玄は!其威武と面目ももた〓〓〓●讓夏剛心に在り於のびのにらざるの取りたる地を還せしも、9に◎は確に勝てりとてカ讀史偶感(精神第五十一號)○信長打擊に急ぎ、秀吉統一に急ぐ。失敗は共に急ぐに在り。獨り家康は勢〓し機到るを待つ。彼れが全功を收めしは、全く急かずして能く待ちしに在り。我史上家康の忍耐あるもの殆んど之れ無し。尊氏も尙及はず。○水戶の佩弦齋史眼あり。好みて英雄を論ず。織田信長論傑出の作なり。藤田東湖亦以て一大雄篇と爲す。其人を用ゐるを論ぜる一節に曰く、右府之善用人、則天下後世之所知、有ニ不待論者、而其所爲實有不易測者、方此之時、海內群雄、唯北條勇而寡謀、天下之猛將足以辨之、故造瀧川、景勝雄有謀、而年猶少、天下之老將、足ニ以辨之、故遺柴田佐々、至於毛利氏、則其國大而有」人、今欲取之、用勇將耶、吉川在焉、用智將耶、附信玄地下の感果して如何古英雄を想ひて感慨切りに至る。瞑目靜想の四、忽焉として信玄は、其不動佛に似たるの偉貌を以て、我が前に立つ。試みに其思ふ所〓を叩けば、我が爲めに具さに弱肉强食の世界に處するの秘術を述ぶ想ひは轉じて西行に到れば、又〓瘤飄逸の行脚僧、莞蘭として我が前に現はる。其言はんと欲する所を問へば、3世に○れられざる者は速かに○を讓りて去きの理を說く傍の童子余に迫りて之を聞◎るかんと促せとも默活は漏らし難し錄(五八三)
小早川在焉、是智勇皆不足用、唯器度恢廓之一羽柴、足以以其吭而奪其氣、故命之羽柴、而兩川果知其不可當、此其審彼我之勢者、可謂明矣、說き得て痛快と謂ふべし。今の世界は一種の封建制度なり。列國相對峙すること、猶ほ昔し群雄割據して相下らざるがことし。吾は髣髴として今日の世界に於て、元龜天正の日本が、大規模に演せられつゝあるを覺ゆ。經世の士亦信長の眼孔無かるべからず。○人物の快大なるは秀吉に如かず。鋭利なるは信長に如かず。周密なるは家康に如かず。○信長弑せられし時、家康は近く畿内に在り。秀吉は遠く中國に毛利氏と戰ふ。而も家康は勿々避けて己れの國に還り、秀吉をして信長の地位に立たしむ。家康の家康たる所以此に在り。○秀吉賞を厚くして、群雄の心服尙薄く、康吝〓にして、將士爲めに生を忘る。一は利己心に訴へて用ゐ、一は義勇心に訴へて用ゐる○關ケ原の戰終りて、井伊直政、本多忠勝、榊原康政の三將大津の旅舘に相會す。時は是れ康政の忠諫に山り、家康父子の不和正さに解けたる際なり。三將胸襟を開きて相語り、談偶功勳の事に及ぶ。直政曰く、吾等が關ケ原の軍功何かあらん、康政忠諫の功最も大なりと。忠勝聞きて曰く、然り、而れども吾れ疑なき能はず、康政家康に直味するの勇を以て、何ぞ本多佐州に聞きで山道の軍後れを取りしやと。康政聞きて笑ひて止む。三將は三河武士の最も高粹なる代表者なり。吾れ數々此代表者を一塲の間に見るされど大津一席の閑話會最も與味あるを覺ゆ。直政胸中明豁、一點の誘心無し。己れが赫々た附錄る軍功を含て、康政が隠れたる言上の大功を見認む。忠勝眞〓、些の矯飾を存せず。直ちに思ふ所を摘べて隔心なし。康政雅懷、人の官ふ所に任せて、敢て己れが功過を辨せず。三將の人物以て想見すべし。然たり、汲々然たり。巖を動かさんとして巖は容易に動かず。岸上慷慨の士は、見て以てff怯懦と爲し、躍りて舟に迫る。棹を奪はんとし、棹を與へざらんとして、相搏ち相戰ふ。血.は流れて水を染め巖を染む。天には黒雲墨を飜へし、地には怒風地を義きて荒む。戰慄の光景四もに滿つ。而して是時已に一點の旭光は、天の彼方に在り。奔流は又大紛爭を載せて、いつの間にか下流に下す。嶮惡の峡間忽〓ち開けて、豁然たる一大新天地と爲る。雲は散じ、風は收まり、天日輝く。新たなる舟子は、舊き舟子に代りて棹を操り、舟は駿々として進み行く。先きの惰流は巉岩に激せられて、今は快流滾々として駛す。我國史を繙きて人生活動の流を追ふもの、此境間に來りて、眞に千古の偉象を見る今や斯偉象を去ること三十年獨り紙上の墨痕に遺蕭馥郁たるのみならず尙活ける幾多附近衞老公第六十二號に至る精神第五十二號より)第y燭熳たる花は、春を代表し兀々たる雲峯は夏を代表す魚は以て水を說明すべく鳥は以て大空を說明すべし傳記は歴史を映寫す個人は時代の縮寫器なり我維新革命の歷史は、紛々たり、慘憺たり、而して凛乎たり、赫々たり。德川太平の惰流は、二百餘年悠々として來れり忽ち一大巉巖の崛起せるに逢ひて激溫と爲る。舟子は愕第六十二號に至る精神第五十二號より)錄此
の個人は其風釆を以て、其性行を以て其談話を以て其白髪を以で、其一世の苦辛を洋cべたる容貌を以で吾人に當年を說明せり近衛老公は其最も高貴なる代表者なり天は吾人が爲めに此活ける尊き紀念を遺せり八十八歲の高齢と嬰鑠たる健躰とは此歷史の儘象と無限の苦辛とを載せたる靈臺を包み天幸と共に人生の多福は其囊を傾けて夙に功成り身退きし高翁の上に注げり第二公は文化五年戊辰七月十四日を以て、京師陽明殿に生る是れ光格天皇の世、家齊將軍の時なり勤王の論既に慷慨なる志士の胸間にc動き、竹內式部公卿を皷吹し、高山彥九郞又來りて遊說す外船邊海に出沒して、幕府國防の策に憂慮し、志士邊備の計を論じて、敵愾の意氣已に攘夷の萠芽を發せり公、名は忠熙。是れ九歳のとき宸翰に山りて賜ふ所なり。父は基前。文政三年、にして早く薨ず。官、左大臣に止まる。母は徳川氏、尾張大納言宗睦の女、靜子といふ1遠祖は基實、世に六條攝政と稱す。二條天皇の世、平治の亂に源義朝藤原信賴敗れて、獨り平〓盛尤も得意の時、方さに關白たり。以來七百年、九條、一條、二條、鷹司の四家と共に攝家の首班を占め攝政開白に陞るの特權を0握り、世々輔弼の重位に立ちて政柄を把る。家齊將軍の治世五十年の久しきに亘り、軍職に在りて位人臣を極め、徳川氏の隆運方さに絕頂に達せり大樹蘭然として枝葉は依然蒼色を變せずといへとも、根幹は既に蠶蝕入る。唯上下治平の外觀に忸れ、惰眠を貪りて太平を調歌す。平安城裏亦平安、春風常に和煦6たり公は此間に生長し、九歲にして加冠し、昇殿を聽され、從五位上に叙し、右近衛權少將に任ぜ(八八三)附錄らる。官位の叙任之れを始として累りに陸進し、文政七年、十七歳にして、已に正二位內大臣たり。太政大臣に昇る中間唯左右大臣の二階を餘すのみ。十年の後又從一位に加階せらる。弘化四年、正さに四十歲、進みて右大臣と爲る是時既に光格仁孝の兩帝を經て孝明天皇の世たり。此間公一たび家慶將軍宣下の勅使として關東に下る。是れ天保八年の事陽春三月花方さに盛なるの頃大鹽平八郞が大阪の變報に驚けるの人は、秋月天に澄めるの時を以て富岳を仰ぎ函嶺を越え、江戶に入りて、江戶城の宏壯なるを見、幕府の盛大なるを見、將軍を見天保の改革者水野忠邦を見、遂に使命を果して還る第三黑影近海に出沒して、邊事次第に多端。獨り幕府の憂慮たるのみならず、初廷も亦之を憂ふ。既に弘化三年に於で、所謂「神州之瑕瑾無之樣」との勅諭は幕府に下りぬ。一葉落ちて秋風冷かなり0.差内を見て外を見ず幕府を見て日本を見ず日本を見て字內を見ず。多年鎖國の報いは口本全國固より之れを蒙るされど最も先きに最も多く幕府其報を受けぬ。有司因循にして集斷無し。荏苒の間、早くも嘉永六年は來り、米使ベルリは來る。艘〓四艦勢威堂々として浦賀を壓し、江戶灣に進入して、我國人の膽を奪へり。有司の驚愕、幕府の動搖、江戶の騷擾、志士の扼腕、天下は紛々として亂を思ふ。來りし米艦は、唯一篇の國書を呈し、來春の再來を約し、悠々去りて復た雲煙の間に入る。』幕府は自ら断せずして諸侯に諮ひ朝廷に奏す。是れ幕府は容喙の桃を上下に分ちて己れ獨り責に任ぜざるべからざるの位置に陷附志士錄
◎h〇たるなり◎◎◎さ●外交の問題に於て最後の許否を與ふるは正〓に朝廷の既得權と爲れり政權は事實に於て江戶より京都へ移動し始めぬ王政復古の天は白み初めぬ。米艦再び來りて、幕府は遂に和親の約を結ぶ。魯英蘭の三國亦和約成る。幕府之を朝廷に奏す。朝廷命あり魯西亞、英吉利、亞米利加國への條約寫入叡覽候處、段々之御處置振殊の外叡感被爲在、被遊御安心千萬御苦勞之御儀と被思召、御年寄衆にも不一通御心勞、其外掛りの面々にも骨折之儀と御察被思召候旨、關白殿被達候段、傳奏衆被申聞候趣、所司代より申越候事◎是れ片の叡國狀なり信任狀なり。朝廷と〓幕府とは是時未だ表面平離無し。,されと安政二年に至り、太政官符を以て幕府(〇九三)に下れる梵鐘鐵砲の勅論は〓忽然として天下に降來れり是れ德川幕府ありてより以來未だ曾て有らざるの事當時幕府を思ふの識S者は一片の令、世變の容易ならざるに驚き3て膽を冷しぬ。@朝廷は正さに天下を以て朝延の舞臺とし始めたり幕府假條約を締結せんとして使を京師に遣し、奏して開國の要を說く。されど勅允は容易に下らず。是に於て時の把權者堀田正睦は、自ら足を擧げて京師に使す。是れ安政五年の春なり。是時朝廷は復た甞て敵感ありし朝廷に非ずペルリの來るや、水戶齊昭は起ちて幕議に參せり而して持論遂に有司の議と合はず。退きて後、一篇の上奏は奉りて天關に達せり。開國の要を知りて、而も幕政に飽かざりし島津齊彬の建白も、亦敵覽に上れり幕府外人と親むに從ひて、尊攘の志士は益幕府と遠かれ附錄朝廷とり。慷慨の熱は益加れり。江戶に縮む所は、京師に紳びんとす。志士切りに公卿の間に出入して、所謂大義名分を說く。公卿に說くは朝廷に說くなり梁川星巖、賴三樹八郞梅田源次郞、池內大學は居然として尊壤黨の四天王たり。星巌心を慰するの閑屋は、尊攘黨の倶樂部とカ吟變ぜり水戶の士來り、薩の士來り、長の士來る皇統連綿萬々春、普天率土淨無塵、若聞ニ津港容妖鰐、不免同爲左袵人是れ星巖が口號一首の詩、尊攘黨の意氣を代表して餘りあり彼等は幕府と方向を異にす。而して彼等直ちに幕府を動かす能はず。是に於て公卿を動かし、朝廷を動かし、而して幕府を動かさんとす。下より動かす能はざるを以て、上より動かさんとす外交の問題は、將軍繼嗣の問題と結びて慕府を苦しめぬ家定子無し將軍に立つの日已に繼嗣の論天下に動く昔しは家光將軍四十に垂んとして未だ子あらず而も天下一人として德川氏の鼎の輕重を問ふもの無し今は家定將軍子無きも齡は僅かに三十を蹄えたるのみ而して天下紛々として嗣子を擬す徳川の威力も衰へぬ曰く紀伊、曰く一橋。前者は幼なれども、系統近しといひ、後者は血緣疎しといへども、長にして賢なりと曰ふ。加ふるに水戶齊昭の子を以てす。人望は天下に隆々たり。尊攘の徒は立てゝ以て自說を行ふの便を得んと欲し、開國の有司亦推して以て國論を和せんと欲す。」繼嗣の運動は、尊攘の運動と合して、京都に入る。越前春岳は、爲めに藩の奇才橋本左內を送る。同志の士と共に周旋す。京師は方さに幕府反抗の府と爲れり。平安城附若聞ニ錄(一九三)
は尊攘黨の本城なり。幕府に對する異論は已に切りに朝廷に入れり。近衛老公是時已に左大臣に進みて、關白候補の位置に立てり。公の家、七百年の久しき朝廷と休戚を共にし、治亂を共にし、禍福を共にして、未だ曾て一日も相離れず。而して更に太古に遡れば、其始め實に天兒屋根命に出づ皇統と公が家系とは、數千年來相並び相接して連綿たり而して地は神州てふ恩起最も盛なる京師なり時勢は既に幕府に逆ひて王室の式微を憤れり勤王の主義は攘夷の精神と相結べり其家憂◎系其地位其2時勢は公をして皇室をしめ外夷の來るを憂へしめぬ位爵は廟堂に高しe重望は天下より歸せり鷹司父子及び三條實萬の諸氏と共に、尊攘黨の推戴する所と爲る幕黨は關白九條尙忠之れが首たり。幕府朝廷に事を爲す、專ら關白の緣に由る。兩黨屹として相對峙するの勢あり文政天保の交太平を樂みて詠似を花月に造りし近衛老公も、今は天下の風雲に際して心事轉勿忙たり出でゝは廟廊の上既に多事。退きては志士切りにを叩く天下の怒潮は公を捲きて到れり而して上は聖主の倚信最も厚く下は同志の囑望最も深し滿腔の誠衷王事を思ひて餘念なし廟堂の上、公卿を集めて荐りに會議あり。多くの公卿は意見書を上れり。公も亦建言あり。從關東言上候亞國一條に付、愚意可言上旨被仰下、c恐懼不少候。是迄於關東再三之應接有之、無據此期に至り候事、實以無是非次第にも候歟。且今度開港商舘等申立の條々、人心不居合趣に而及言上候事不容易儀實に天下之重事に候得者、兎角の所存難申上候得共、申立之通和親通商候共、此末如何(二九三)兩黨屹と附.錄成。故障出來候も難計、且夷情等も難相辨候得は2,何分諸大名之面々人心不居合候而は、。皇國大事之上之大事に而、叙慮不安大樹公心配不少候歟。何分諸國共、眞實之意旨一致之儀肝要と存候。右等之處深勘考候而、三家以下諸國之大小名存意篤と被及尋問候以上處置有之候樣可被仰下哉と存候事。憂ふる所は、主として「人心の居合」に在り。當時宮延の諸葛孔明と稱せられたる三條實萬Cの如きも、亦重きを人心の一致に置けり人心の居合、是れ朝廷も言ひ、公卿も言ひ、幕府も言ひ、諸侯も言ひ、志士も言ふ。凡ての人之れを言ひて、而も當時に在りては、最も至難の事なり。開國、鎖國、勤王、佐幕、〓議、橫議、理義、情義、目的、手段、縱橫に交錯せるの世、一致の望は夢のみ。幕末十數年の天地は、唯人心の一致を爲さんとて揉合ひたり。而も朝廷は幕府に問ふに、人心の居合如何を以てす。堀田は應へて曰く幕府は斷じて之胃險的答を保す、敢て開國の勅允を請ふど〇〇疏は上りぬ朝議將さに全權を擧げて幕府に委任せんとして、文案成る。堀田の勝利は一步の裡に在り。忽ち異論は來れり。尊攘黨中山忠能等同志八十八人、俄かに參朝して、幕府委任を撤せんと切請す熱心の運動は功を奏せり勝利は幕c府の手より翻へれり廷議茲に一變し、堀田は只一の勅書を得て、空しく東歸せり。勅意に曰く、永世〓慮を安んぜよ。國躰に拘らず後患無き方略を定めよ。防禦の處置を聞かん。衆議を言上せよ。神慮を伺はん。外は益迫りて、內は異議益入る。幕府は益危殆の地位に陷る。突然井伊直弼出でゝ、局面亦大に變す。是れ安政五年四月なり附錄(三九三)局面亦大に變す。是れ
第四外交に於ては開國を取り、繼嗣に於ては紀伊を取る。是れ家定將軍の意にして、直弼の持論も亦斯くの如し。直弼乃ち內外情勢の急を見、断然異論を排して之を決行す咄嗟の間に假條約を訂結し畢り繼嗣の議を定む而して繼嗣は勅允を經、開國は勅允を經ず、事後に之を奏す志士は繼嗣の問題を以て尙未决の問題と爲して之を覆さんとす勅允無くして開國するは、當時の事態に於て名順ならず道正しからず開國の難きは、開國其事を斷ずるの難きよりも開國に伴ふ上下の異論を處するの難きに在り。幕府益難局に立つ而談の詰問、連署の攻難、推參登城、違勅の聲、怯懦の聲、一橋の聲、群議紛々として幕府に集る。老中の交迭、有司の罷免、尾水越の處罰、天下は恟々たり。恟々の間、將軍薨じ勅命飛來る。曰く三家或は大老來れと大老が開國の斷行は、朝廷の既得權を犯せり。廟議は沸然として起れり。尊攘の志士は、之を聞きて憤扼の血を躍らせり。幕府反對の氣燄は愈腦れり。遂に現はれて、右大臣鷹司輔無が關白尙忠の辭職勸告と爲り、尋て彼の名高き八月八日の勅諚と爲る。勅諚は、一は幕府に下り、一は水戶家に下る。前者は公然所司代の手に渡され、後者は裏面より秘密に下りて、水戶の藩士鵜飼等の手に落つ。其意に曰く、幕政報虛に副はず、宜しく更に群議を盡して、內外の治を正すべしと。近衛老公等、爲めに廟堂の上、秘密の間に、最も力を盡す。水戶家に下るは、水戶家に責を分つなり。幕府を以て、全く賴むべしと爲さいるか故なり。朝延は既に重大の既得權を占めたるが上に尙幕權を割きて一藩主に分たんとす。朝廷も附錄○亦着々幕制を破りて朝權を進む。而も大老が權を握れる幕府は、幕權振張の策を取れり衝突の禍機は眼前に在り。八月八日の勅諚下りて後、公は密かに薩の藩老鎌田出雲を招きて王事を談じ、更に密書を與へて朝延警衞の事を囑せり。而して一首の歌を與へて曰く、日本のこのくにぶりのかしこさもやまと言葉のうへにみえつゝ公が家、島津氏と最も舊く最も親し。家定將軍の夫人天璋院は、實に島津齊彬より轉じて公が養女と爲し、以て江戶に嫁せしめしなり。』齊彬は當時諸侯の俊傑。識高く氣大。夙に開國の要を識る。水戶齊昭と深く結託し、海防總裁の任に推さんとす。將軍の繼嗣亦一橋擁立を賛し、頗る盡す所あり。天璋院を將軍の許に送りしは、一種の政婚なり。公齊彬と交善し。鎌田に王事を囑するの日は、齊彬既に逝きて亡し。尋て久光と交り亦親し。當時公が時務を談ぜし往復の書、今尙多く島津家に存し、公の苦心歷々として見ゆるといふ開國の勅許を得んが爲めに、老中間部詮勝は將さに上京せんとせり。京師の熱は益勝れり。先きに鷹司輔〓より辭職の勸告を受けたる關白尙忠は、再び二條齊敬より嚴しく辭職を迫られたり。尙忠は遂に辭表を呈せり。是に於て公は內覽を命ぜらる內覽は已に半は關白たり。尙忠の去るは幕府と朝廷との絕緣なり。C公の進むは、尊攘黨の大勝なり。勝算は已に殆んと尊攘黨の掌裡に在り間部詮勝は京に入れり。所司代酒井忠義は、先だちて已に京に在り。幕府消長の危機、方さに一髪の間に迫る。頽波は復た尋常の手段を以て廻すべきに非す。幕府は乃ち斷じて鎭壓政略を取り、反對の根底を覆へさんとして、志士附錄(五九三)
の捕縛を始めぬ。京師の天地は爲めに暗たたり。朝廷は震動せり。縉紳は惶愕せり。捕はるゝ者數十人、公の老女村岡も亦其中に在り。』僧月照は、公の平生最も親近する所。是時亦嫌疑の中に在り。來りて窃か、に公の邸に匿る。村岡感懃之れを庇す。月照逃るべからざるを思ひ、寧ろ縛に就きて心事を明さんと欲す。公深く之を諭し、西〓吉之助に囑して、難を避けしむ。西〓一諾山より重し。夜に乘じ月照を公の邸に迎ふ。是より崎、〓艱難、遂に薩州に落ちのびぬ曇りなきこゝろの月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる名高き詠を遺して、〓淨なる一生は月夜の入水を以て終りぬ。處士の捕縛、公卿の幕化。猛意なる幕府の運動は、遂に反對の氣焔を殺ぐに至る。先きに辭職を迫りし二條齊敬は、今は意を變じて關白尙忠に留職を勸め來り、皇上亦宸輸を以て諭し、尙忠遂に復た起ちて、近衛老公は內覽を辭せり公の內覽たる、僅かに其間一ケ月半のみ。千仭の功將さに一簣に成らんとするの急機に際し苦心焦慮尤も力むといへとも、遂に幕黨の爲めに制せらる尊攘黨は頓挫せり皇上は已に暮黨の擁する所となれり。間部は乃ち參內して、開國の事狀を奏せり。公武の間は疎通し來れり。聖意は和らぎ來れり。遂に是歲の終を以て、攘夷猶豫の勅書下りぬ。』越えて安政六年正月、公は鷹司父子及三條の三氏と共に、自ら責を引きて辭官落飾を乞ふ。廷議許さず聖上寛典を望む左府は坊中より萬事忠勤况や朕か加冠とおgして、且筆道の師範旁其勞多端、舊勳を思ひて公が爲めに、救護せんとするの敵慮想ふべし(六九三)附錄然れども幕府の切願は遂に朝裁を得、四月に至りて辭官落飾を許されぬ。當時幕府が公の罪案とせる所に曰く、っ外夷御處置之儀、藤州御續柄も有之、歌道○御門人抔、水府之家來相伴ひ窺に罷出、天下之人心居合方に事寄せ、關東之御處置如何之旨品々入說いたし、右は何れも不容易次第に候得ば、急度御〓示御取合被成間敷處內願之趣御思案被成置旨御答被成候儀は、公武御合躰之御趣旨に相戾り、乍暫內覽御委任、三公方御先立之處、其詮も無之、躰御處置之儀に付而は、始終三條內大臣殿と、御因〓水府家來之事共相聞、右家之御因〓之儀は、鷹司殿家來小林民部、近衛殿老女村岡儀も申立罷在候間、御引合御賢處可有御座事。幕府が公を退けんとする、公然の理由は唯斯の如し。退きて後、公は別莊に入り、翠山と四月に號して一室に籠居し、政海奔濤の間に立し勢威の身も、今は強髮世外の身と爲り、閑散の間に生を送りて欝を諷詠に漏せり。是春一首の歌あり匂ふとも咲くともしらで糸櫻0くるしき春をすごす年かな當時の胸中以て想ふべし。公が老女村岡も、是時多くの京囚と共に檻送せられて、身は已に江戶に在り。村岡堅節俠氣、丈夫の風あり。主家に仕へて忠實を盡し、公最も之を愛用す。夙に王事を憂ふるの念深く、志士の公に依らんとするものは、村岡中間に立ちて能く周旋す。罪を獲るもの亦實にこゝに在り。其前途に死生の境を控えて東に下るや、悠々たる一片の心は、現はれて途上一首の歌となりぬ。◎5日々にかはる旅路にかはらぬは人の心のまことなりけり附錄(七九三)
自信の深き以て見るべし。公も亦其京を去るの後、之を懷ふの情禁ずる能はず乃ち詠じて曰くすさましく荒るゝあづまの空さしてゆくさきいかにならんとすらん一すぢの道のまことをしるべにてあづまの山もやすくこゆらん〓一たびは老女が前途を思ひて憂心沈々たり、已にして又翻然として其正義の行なるを思ひて憂を消す公が心事〓くが如し。慘然たる安政の大獄は起れり。切腹、獄門、斬罪、死罪、遠島、追放、隱居愼、永整居、差控免職、奪祿あらゆる峻刑は行はれたり。志士殺されて志を繼く者續々たり怨望は復酬を生む幕府滅亡の期は、爲めに一段を早めぬ村岡は押込の刑を受く。後ち京師に歸り、嵯蛾の直指庵に棲遲し、吟詠自ら娛む、明治六年八十八の壽を以て逝く。其京師に歸るの途上詠あり。五十三の海山關の旅路より白洲の上の心やすさよ丈夫亦及はずと謂ふべし。第五公幽閉の裡に在ること方さに三年、萬延を經て文久二年三月に至る。人心の怒漲は、已に言論の境を踰え、筆硯の境を踰えて、白刄の光社會の上に閃く。天下の形勢は、一變生じて一轉し、一衝突生じて一進せり。されど公か幽閉の續ける間は、尙ほ幕府が强硬政略の續ける間なり。一時の勝は、直弼が幕權振張の策に歸せり。地底には群議黨々として絕えざる間に、天上には兎も角も公武の合躰成りぬ朝廷の上には、殆と幕黨の公卿を以て天子を固めり雄才應變に富める岩倉具視も、亦此中に在り。』幕府の勝は、又去年水戶に下りし勅書を返還附錄せしむる勅書を獲たり。水藩の士斷乎として返勅を肯んぜす。幕水の間往復推議の半ばに、既に脫藩の暴士は、櫻田門外に暗罪の劍を大老の身に刺しぬ雪は白くして、血は赤し幕府の天は暗瀦として雲急なり。城濠の鴨鷹鳴て悲し上巳の變を去る殆と半歲、徳川齊昭は、又中秋觀月の夜を以て暴かに幽界に入りぬ萬延の年、春は開國佐幕の鉅雄を喪ひ秋は勤王攘夷の和首を喪ふ。唯兩雄は逝けとも、天下の混亂は逝かず直弼の政策は、老中安藤信睦受けて之れを嗣ぐ。信睦は亦宰輔の器なり。把權の間、幕府の權威尙凛乎として動かざるものあり。〇〇政治的公武合躰を鞏固にせんが爲め人情的公武合躰を結び、將軍の夫人として皇妹和宮の降嫁を請はんとするは、直弼の遺策なり。遺策は相續者の手に由りて成功せり。文久元年の冬、公武合躰の結繩は、江戶城に行はれめ。而も非難の聲は、朝廷より之れを强奪したりと爲す。尊攘の頭領徒らに氣を以て天下を吹く。血氣〓の徒吹かれて忽ち暴客と爲る。幕府外交の和親に進むと同一の距離を以て、彼等は幕府と離る。幕府と離るゝは、外人と離るゝを意味す。彼等一たび憤慨の氣を櫻田の雪に漏らせり。既に一たび、二たび三たび何かあらん。是に於て暗夜亂入の白刄は、品川東禪寺に英人の旅館を脅かせり。外人を所らんとして、守衛の同胞と相〓る。而して三たびにして、坂下の變と爲る。安藤信陸傷を蒙りて僅かに免る安藤退きて後幕府復た濟時の相無し。幕府が强硬政策の幕〓鐘は、肅條として坂下の一擊に鳴れり佐幕@の雄輔相繼で擊たれて、將軍の孤影自ら寂然たり唇缺けて齒寒し。附錄(九九三)
100〓カは轉倒し來れり下壓の力去りて上壓の力彈撥す潜伏の地熱は空を衝きて迸田せり反動の大波は、天を捲きて起れり朝廷の上幕府の上、諸藩の間、志士の間、筆端舌端、腰間、街頭、至る所に奔溢の象滿國躰は本なり國躰定まらば、開鎖何かあらん國体の基は、天下一致公武合躰に在り幕府は宜しく深く天朝を崇奉すべし。G速に開國の大規模を立つべし。國是の旨勅說を以て、天下に達せらるべしと言頗る壯快なり。永井亦京師に行きて朝廷に說く。曰くa偏に皇國の御爲と思召され京都胴東共是迄は御疑滯凡て御氷解遊され改て急速◎◎9〓航海御開き御武威海外に振ひ征夷之御〓職相立候樣にと嚴勅關東へ被仰出候はい關東に於て決て御猶豫は有之間敷、即時台命を下され、御奉行之御手段可有之候時け、0 @國是遠略天朝に出で、幕府奉て之を行ひ君臣の位次正しく、忽ち海內一和可仕候。世に高き說は、世に容れられず。世に先んずるの說は、世に滿足を與へず。彼れの言は、小膽の人、暗識の人、疾情の人に說くべからず。彼は空しく恨を呑みて、恩賜の死を以て附反動の波は、又近衛老公を幽屏の中より救ひて、同禍の人と共に、再び天下に出でしめぬ。文久二年三月の天下は、復た安政六年四月の天下に非ず。三年の星霜は、憂愁の人をして數々意外の事變に驚かしめぬ。再び起つの日世運は亦江戶の傾倒を語りて、京師に勝を運ぶの暗意を示しぬ。第六雄邁卓落なる永井雅樂は、其主松平大膳大夫を動かして、去年關東に京師に、大に開國の運動を試みめ。大膳大夫幕府に陳べて曰く、開鎖は末なり、錄開鎖は末なり、終りぬ。彼れ逝きて長藩尊攘の說激なり。島津久光齊彬の遺志を紹ぎて、薩南の嵎に據る。亦時事に感じて起つ。今玆文久二年三月、名を參觀に托し、數百の健兒を率ゐて海路京師に到る。發するに先だち藩臣を遣して、近4衛老公と具さに事を議さしむ。公武の合躰@◎? H @ 4〓@皇威の振興、幕政の改革、是れ久光が此行の目的なり當時諸國の浪士東より西より京坂に集り、京師は方さに彼等が運動の中こと爲れりオ正義は下りて野心と爲り野心は下りて強落と爲る志土は下りて壯士と變じ、暴士と變ず空論は暴論と變じ、慷慨は亂行と變ず彼等は頗る味方の累と爲れり。平野二郞の激徒途に久光を要して、事を幕府に擧げんとす。久光之れを制して京に入る。京に入りて先づ公に見え、曲さに所見を陳して時務の策を畫す。事叡聞に達して叡感下り、叡感と共に關下鎭撫の內勅下る。乃ち一塲の慘劇は伏見に起りて彼の名高き寺田屋騒動と爲る同藩相戮して骨肉相刺す浪士鎮制の勅諭已に暮府を經ずして、直に外〓〓藩に下る朝廷の眼中復た所司代無し。吹來し薩南の疾風は、倏忽の間に朝廷を捲き、銳威東に馳せて幕府に當る勅使大原重德の東下風雲の裡より現はれ出でぬ2 )久光も亦共に赴きて、江戶に周旋の命を受く。勅諭は幕府に下りて、命ずる所の策三あり。其一曰、欲令大樹率大小名一上洛、議内治國家攘夷戎、上慰祖先之震怒、下從ニ義心之歸嚮、啓万民化育之基、比天下於泰山之安·其二曰、依豊太間之故典、使沿海之大藩五國和五大老、爲咨决國政、防〓禦夷或之處置、則環海之武備堅固確然、必有〓攘夷戎之功附錄(一C四)
其三曰、令一一刑刑部卿援大樹、越前前中將任大老職、輔佐幕府內外之政、當不受左袵之辱。攘夷の聲氣紙上に躍る。久光は夙に能く攘夷の成らざるを識る。而も其勢力にじて攘夷の朝意を轉ずる能はざる乎且つ夫れ當時既に多くの志士は、攘夷の名を以て政變を起すの手段に用ゐぬ。甞て德川家康は五大老より進みて豐臣の天下を取れり今は又家康が幕府の末路に五大老を置きて、天トの政權を大諸侯に分たんとす。第二の家康たらんとする者果して誰そ。』幕府は三策の中一を撰びて行ふべきの義務を命ぜられめ。幕府容易に决せす。勅使荐りに督促せる間に、京師には、六月廿三日を以て、九條尙忠遂に關白を免され、近衛老公部に由りて起ちて之れに代る。內覽氏長者と爲り、牛車隨身兵仗を賜ふ。人臣最上の榮譽は、其身邊を纏ひて輝けり。嘗て一たび關白に上らんとして、事破れしより方さに四年。歲月は天下の形勢を轉じて今は反動の波關白の地に達し、公の進退は明か@〓@に世變の姿を映ぜり尙忠去りて幕勢朝廷を去る。幕府は遂に勅旨を奉じ、一橋慶喜を將軍の後見職と爲し、松平春嶽を政事總裁職と爲す久しく二人を推して、幕權を握らしめんと欲せし天下の有志は、今や其目的を達せり幕府は彼等の味方の幕府と爲れりc c c二人は嘗て天下の志士が幕府に對せる攻擊同盟の牛耳たりき今や將軍の後見、政事總裁cの榮譽は其報酬として二人の頭上に冠せら°れぬ二人は天下の重望を角ひて起てり極めて不人望なりし幕閣の後を製げり重望と( cc好機とは二人に幸ひせり二人は天下に滿足を與ふべきの責を有せり。(二〇四)附錄幕府は自ら之れを任じたるに非ず陽〓さ府●勅●れと〓◎幕〓は◎命の來迫に由り、陰は外藩の主動に由るが官吏任免の獨立權は正さに傷けり將軍の主權は炭々乎たりC (@◎幕府の威重を持するは能く外藩を制するに在り今や外藩より制せらる。而して其制せ@られたるに由りて起ちし人、藩權を握る幕府の運命亦知るべし雄風は既に江戶城を捲きて、一たび自ら收むるの時來れり。久光乃ち勅使と共に西歸の程に上る。生麥の變途に起る。隼人の意氣豪なり。「腰間秋水鐵可行人觸斬人、馬觸斬馬外人觸れて、劍光忽ち頭上に飛ぶ洋夷の血cは、健兒の寳刀を染めて、秋水腥し幕府を苦むる外交の難題は、公武合躰の主唱者の魔下より起りめ幕府は益多事を加へらる久光の京に歸るや、公は直ちに之れを延見し、江戶の情狀を聞き、之れを朝廷に奏し、久光公は更に手書をは參內恩賜の特遇を蒙りぬ。與へて、久光に時務の策を諮ひ、以て敕聞にc達せり。錦は久光を纏ひて、途に魔城に入り〓〓ぬそも英雄胸中の秘密は果して如何激徒の橫行と共に、攘夷の激論益京師に高し。久光京を去りて未だ幾くならず、三條實美、姉小路公知は、長土の兵士に擁せられ、第二の勅使として關東に下り、促すに攘夷の一决を以てす。且つ曰く實以宸襟をも不被安候間、C諸藩より身材强c幹忠勇氣節の徒を令撰擧時勢に隨ひ舊典を御斟酌に相成親兵と被遊度思召候€c 3と朝廷今は自ら武裝せんとす朝廷自ら武裝〓@Cするの日は、將軍無きの日なり幕府は之れを否めり。慶喜春嶽の慕府は、切りに內政の改革を行へり橫井小楠の經綸は、着々として實行せら附錄(三〇四)
れぬ。冗官を廢し、禮法を簡にし、服制を改め諸侯參觀の期を緩くし、妻子國に就くを許す。大厦將さに倒れんとして、小繕功なし。英傑の策い空しく去りて跡無し。〓3〓6 @〓2慶喜春岳の幕府は又幕權を以て、甞て敵視せし佐幕黨に報い始めぬ報は尤も重く其魁者に來りぬ。殺されし時將軍の優命切りに至りし井伊直弼は、今は大罪ありと追咎せられと、其遺領は十萬石の削减を命ぜられぬ。安藤も削られ、間部も削られ、久世も削らる。村替、蟄居、退隱、罷免、奪祿、押込、差扣。上大老より下與力に至りて、同時に罪を受くるもの殆と三十人。京師には、九條關白、已に退きて落飾を命ぜられ、久我內大臣、岩倉、千種、富小路の三朝臣等は、蟄居落飾を命ぜられ、中山、正親町三條の二卿は指扣を命ぜらる。戊午以來幕府の爲めにせしが故なり。(四〇四)同時に暴橫なる浪徒は、天誅を名として自由の刑戮を敵黨に加ふ戊午の際幕府の爲めCに時の國事に盡せし小更は、殆と彼等の兇刄O.に罹れり。京師の大道は、暗殺の巷と爲れり曉に睡眼を摩して戶を開きし繊女は街頭の梟首に小さき膽を冷して內に呌び入る。安政の大獄は、幕府と浪士とに由りて文久二年に再び繰返されぬ。先きには血を刑塲に流せしも、今は大道に虐殺の斷頭臺を築く刑を以て刑に報い血を以て血を洗ふ而も6天下は之れを快と爲す。幕府を代表せる所司代の威力京師に振ひて、〇江戶城は安しされと今や暴論暴行の京師は已に所司代の力に除れり制する能はざれば幕威地を掃ひて墜つ乃ち新たに京都守護職を置く武名天下に輝ける會津の武士は、其任を受け、松平容保は、祖先の餘光と大藩の威名とを荷ひて、闕下に巨鎭の陣を張る。會附錄〓をして最も能く勘王の實を擧げしめんと欲するなり。公は固より外事の憂念深しされと亦熱心なる攘夷論者に非ず島津齊彬が開國の聲は1夙に公が耳に響けり攘夷の成らざるを識るは猶ほ久光の之れを識れるがごとし今や朝廷は殆と過激黨の占領と爲らんとす。公之を見て大に憂へ、聖上も亦頗る之れを憂-50乃ち公は竊かに聖意を受け、遙かに書を中川宮も亦薩州に送りて久光の上京を促し、之れを起さんとせりされど久光は藩事を以て直ちに起たず。廟堂に振へる攘夷の熱焰は新たに現はれてC是れ攘夷の方略を議する國事掛の職と爲る一種の樞密院なり三日毎に一たび小御所に會議を開き、廣く諸臣の献言を受け、重大の二十餘人議事は天子自ら臨みて之れを聞く。の公卿之れに任ず。公も亦其中に在り。津京師に入りて、將來衝突の禍機亦入る當時天下の急流は、已に尊攘黨を割きて二派に斷ちぬ一は温和黨、一は過激黨彼は薩州之れを代表し、此は長土之れを代表す前者は先づ公武の合躰を鞏固にして後外交の計を圖らんと欲し、後者は直往突進朝廷に迫り幕府を脅して、一擧に攘夷を斷行せしめんと欲す公卿の間亦二派に別る公は、當時親王の英器中川宮と共に薩に與みし、C三條實美の一派は長土に與みす兩黨何れか朝廷を擁するもの即ち天下を制Cすべし幕府の力は既に殆と朝廷を制するC能はす世變の樞權を握る能はす。唯朝廷をC )〓〓C C c制したる黨派より制せらるゝあるのみ。激流の世には、敵黨多く勢を占む。朝廷の上、攘夷の猛焔炎々たり。6公は忠誠なる勤王家たると同時に、又眞實な◎る公武合躰論者なり。一言以て掩へば、幕府附錄(五〇四)
文久二年はこゝに終る。三年に入りて、天下も亦益紛紜の境に入る。去年既に勅命は將軍の上洛を促せり◎9今玆將軍一たび足を擧げて、江戶城の鼎は浮〓く德川の重力は諷々として輕し幕府は9朝5廷籠裡の物と爲る6◎す◎將軍發するに先だちて慶喜上り、春岳上る◎3關東の鳥は、京師の黐に纒はりて、進退益窮す(六〇四)なり。實着の議は、過激の耳に入らず建設の論は破壞の胸に應へず薩南の强投、亦雲天千里を隔てゝ遙かなり。而も皇上の倚信特に厚く、廟議は激論勢を占むるも、公に於ける聖寵は曾て渝らず。去年十一月、公は一たび病に依りて辭職を乞へども、優渥なる勅諭は之れを許さず。依多病、公事毎々不參、稱懈怠之恐、被辭3申旨、意慇懃雌難被獸止、去夏以來世上不穩之形勢、◎9 j) 3專盡丹誠忠勤、委任之器被安宸襟、今於退職者、實被失股肱况自◎6 p 6〓在坊輔佐、親情異他、歎惜之敵念不少、猶療養、爲國家、可有在職、被仰下候事。寵任の宸慮、以て見るべしされど公は猶ほ切りに請ひて止まず。遂に今玆文久三年正月廿三日を以て關白辭任の請を允さる。在職僅かに七ケ月のみ。但內覽は故の如く、國事掛も亦舊に依る。鷹司輔照襲て附第七公の關白に在る時方さに安政大獄の反動絕頂に達せる際に屬す欝勃たる地熱は昇騰して九重の雲は攘夷の雨氣蒸々たり、危激の論小御所に響きて憤慨の聲禁苑に高し公此間に在りて、深く其粗暴大事を破らんことを患ふC廷議をして平穩なる軌道を踏ましめんと力を盡せども、時は不可なり、勢は非錄關白たり。c慶喜春岳京師に入りて、攘夷の氣桶に愕然た70倆を作りし果報は、作りし者に來る無責任の議論を唱へし報いは、責任の位地に立ちて最も冷酷に來る頭に初延を冠むれる攘夷の激黨は、今や脚下に責任者を押へて、其實行を責む虎子成長して、虎穴に入來りし虎父に嚙付く過激黨は、事實に於て行ふべからざるを行へと責む温和黨は、行ふべきより行はんと說〇く驕陽近づき難くして、暖日親み易し慶喜春岳は、勢ひ自然に温和黨に結ぶ。二人の窮せる位地は唯此黨に由りて一條の活路を開くの餘地あるのみ數年前强硬なる幕府は九條尙忠等に山りて幕命を朝廷に繋ぎぬ今〓や二人は甞て非難せし先人の轍を踏まんとす。二人は切りに中川宮に行き、鷹司關白に行き、又數々公の許に來る。而して時危うして强援を念ふ。依賴の眼は已に遠く九州の南陲に馳せて、公武合躰論の巨雄に及ぶ。慶喜の手より上京を促がすの書は、內勅の意を以て久光の許に達せり。煩悶の間、俄かに勅使來りて廢喜の旅舘に臨む去年一たび攘夷督促の勅使として關東に來りし三條實美は、今又其主使たり。列坐の同使二十人、威儀儼然として、意氣幕人を呑む曰く攘夷の遷延叡意に違ふ宜しく速かに其期限を定むべしと昔し推參登城の紀念ある人は、今は一種の推參勅使に逢ひて、手詰の談判を受けぬ慶喜等退きて議す。議論紛々容易に決せず。强ひて决して答疏を呈す。大樹上洛之上滯在日數十日之御定に相成候間二月廿一日出帆より、海上往返風波之障無之候得は、四月中旬之内攘夷期限に附錄(七〇四)
◎相成申候尤歸着の日より廿日御猶豫被下度儀は先般申上置候儀に付、右之日積に相成候事行ふからざるを責め、責められて、知りつ10行ふべからざるを定む一種の戯劇は莊嚴なる儀式を以て演ぜらる。天下苦しき事人を欺きて己れを欺くの地位に陷るより甚しきは無し嘗て堀田正睦は朝廷より人心の折合如何を問はれて、幕府は斷じて之れを保すと答へ攘夷の期限を定むるもの、亦同一心事を繰返す-苦しき者演劇すると同時に怒る者も亦演劇浪士が魯す憤は活ける人を殺すを以て足慨志一躍五百年の昔に飛びてれりとせず(足利尊氏に及び等持院の罪無き木像は其首を刎ねられて三條に曝さる行ふ者はc之れを以て幕府に對する諷刺的膺懲の義擧とc爲す唯木は斫るも苦痛を感せず。而して断(八〇四)る者は獄に下りて死に就く曰く、「鼎鑊如·○。飴豈敢辭、狂夫心事鬼神知」と亦以て憐しし三月四日、將軍京に入りて二條城に入る。二〓百年來上洛の廢典こゝに擧がる。但德川初代〓は任意の上洛今は命令の上洛。名は擧かれとも實は降る。將軍來りて、攘夷の勢焔益〓る。好機失ふ可からず、勢ひ以て乘すべし。激黨の運動は、遂に現はれて加茂の行幸と爲る。天子自ら攘夷の祈願として金闕を出で、將軍諸侯駕に扈して詣る。攘夷の大旆は、方さに九重の奥よ◎り動き始めわ。幕府に對せる一種の示威運動〓@は、將軍の面前に演ぜらる。島津久光亦是際を以て京に入る。而も天下は、去年雄風東西を席卷せし時の天下に非す。激黨は天子を擁して、着實なる公武合躰の議論は、後之朝廷の耳に徹せず。久光、公に見え、附錄中川宮に見え、慶喜等と會して数時の策を講ずるも、策朝廷に入りて、復た廟議を翻へすの活路を有せず。群勝紛々、因循と爲し、迂愚と爲し、甚しきは姦賊と爲す。世は方さに久光に逆へり時勢の先鋒は已に久光等いを措きて、常步の速力外に奔進せり久光終に爲す無きを見て勿急歸國の途に上る京に駐まる僅かに三日激流の天下一年を經ざる間に斯くの如し久光已に然り。將軍の地位亦以て想ふべし。既に滯京十日の期限を過ぎて、切りに東歸を乞へとも、勅諭は容易に許さず。京師の虜は〓@ @6回〓逃げんとするも、縛れる繩は堅く結び!解けず最も謹直なる春岳は、最も痛く反噬の壓力をC感じぬ。遂に常徑を外づれて、責任の苦痛を免れんと企てぬ。名譽を賭にし、地位を賭にし、許を竣たずして京師を奔り出で、倉皇歸りて故山に避難す。罪を以て總裁職を免ぜられ、謹愼を命ぜらる。公も亦是際內覽を辭せんとすれども、聖論下りて之れを許さず。再び乞ふに及びて、三月二十五日、終に許さる。巳に關白を去り、內覽を去れとも、公が憂世の念は、一日も渝らず。唯天下今は温和黨の力を施すべき餘地無Lo激徒益勢を得て、第二の攘夷的行幸は、男山に向ひぬ。天子八幡の祠前に於て攘夷の節刀を將軍に授けんとすれば將軍は病を以て二條城に籠もる代りて慶喜を召して授けんとすれば慶喜亦病起れりと稱して俄かに祠を去る勢窮して眞相現はる事焦眉に迫りて假面を脫す。曩きに成らざる攘夷を保せし僞裝は全く剝げ去る幕府憤慨の猛焔は、激黨の胸を焦して、怒髪天を衝く。天子親征の論盛なり附錄(九0四)
四月中旬、攘夷の期限既に去りて、將軍猶ほ京に押へらる。押へられて攘夷の督促は愈急に來る。乃ち更に五月十日を以て期と定む。八幡祠前の苦痛未だ懲る能はず一期又一期、c姑息に延ばして姑息の災は重なる慶喜僅かには、準備口實を以て、勿々京師を逃げ去久光去り春岳去り、慶喜去りて將軍獨り悄平たり幕府は已に內に於て斯る苦責に罹る。同時に英國は外より生麥事件を以て嚴しく迫る。京師には將軍攘夷に苦められ、江戶には幕閣英國の嚴談に苦しむ。數隻の英艦橫濱に戰威を示して决答を促す。幕議の遷延と反比例を以て、外迫は急來す。五月に入りて破裂の危機方さに焦眉に迫る。英夷一條追々及切迫侯に付而は、模樣に寄今晩にも兵端を開候儀も可有之候間、銘々覺悟可有之候一片の慕合下りて、百萬の都下忽ち鼎沸感亂の巷と爲る。恟々の間、慶喜歸り來りて議こゝに决し、四十萬弗の償金を與へて僅かに事局を結びぬ。翌日は即ち五月十日、正さに攘夷の日限たり。幕府は送巡辯器せる間に、早くも西馬關の海峽に於て、攘夷先登の砲丸は、長州の軍より米國船の上に飛びぬ。長州是れより多事。外船通れば必ず擊つ。遂には誤りて薩船を擊つ。而して攘夷先登の叡感は、長門宰相の頭上に下りぬ。されど攘夷の聖旨を齋らして東に下りし慶喜は、唯其聖旨を齎らし歸りしのみ。固より行ふべくもあらず。責を引くの極は唯辭職と爲るc )此度攘夷之聖諭を奉じ東歸仕候は、全く勝G 3算有之譯に而は無御坐候綸言如汗募意C8 nも亦不可背。故に關東有志と討死可仕心底附錄に御坐候處、閣老〓大小之有司、同志仕候者一人も無之、臣之胸中耐心を包藏仕候由橫議を生じ、衆心不服に而嫌疑に相泥み、勅旨貫徹仕候事中々以不相成候。苦心想ふべし唯京師に在りては京師に壓せられ江戶に歸りては江戶を制する能はず名は後見にして實は將軍の慶喜已に斯くの如而して事躰益困難となるに及びて春岳は既に逃げ今又慶喜逃げ山さんとす人CCC毅然として難局の術に當る者無し。末路の衰C狀觀るべし獨り京師に殘されし將軍も、漸く六月に至りて東歸々許され、大坂に出でゝ海路より逃ぐるが如く江戶に歸りぬ。激黨の勢益張る。暴客街上に橫行して、殺人の業は彼等が尤も壯快とする所たり。有爲の公卿姉小路公知先きに殺され、開國の先識佐久間象山後ちに殺さる。脅迫の匿名書門前に貼せられ、天誅の豫告書街頭に現はる。幕府に與みせば一切期〓と爲し、攘夷を口にせざれば忽ち之れを斬る。加茂の行幸未だ慷たらず。男山の行幸亦未だ慊たらず。遂に進みて大和行幸と爲る。攘夷の祈願として、神武帝の山陵春日の神社を拜しこゝに親征の軍議を定めんとす。行幸の令八月十四日を以て出づ。車駕一たび大和に動きて激黨之れを擁し攘夷親征の議は博して討幕親征たらんとす不穩の禍機般々たり危機方さに一髪の間に迫る中川宮遽かに起ちて矯刺の企を發き近衛老公等力を盡して叡意を飜へし廷議頓に變じて大和幸行は延引と爲り、三條實美等は黜けられて長蓄は入京を禁ぜらる〓忽の間に復局而一變して、激黨は頓挫し、温和黨復〇〇〇た出でゝ朝命を握る。天下の變眞に意慮の外に出づ。附錄(一一四)
第八安政より文久三年に至りて、京師の政界は、四たび其局面を變ぜり安政五年の春、尊攘黨は、幕使堀田を倒して朝權を握る。其秋井伊直弼之れを覆へし、幕黨朝命を制す。文久二年の秋、尊攘黨復起ちて幕黨を一掃す。激黨即ち是れなり。而して四たびは即ち文久三年八月の政變なり。自然〓の數は當時政治家をして、既に事實に於て、一種政黨內閣の交迭を行はしめぬ大和行幸は、實に兩黨消長の動機と爲れり。激黨の堤も端なく矯刺の穴より壞れ始めぬ朝廷を震はし、天下を動かし、尤も幕府を苦しめし激黨の威勢も、一敗空しく地に墜ちて、今は朝延も全く公武合躰論者の朝廷となる一夏に於て激黨の苦責に逃げて京師を去りし慶喜、春岳、〓に將軍、何ぞ秋に於て斯る政變起0 6 G〓るべしと想はんや。先きには刺棘の京師も、今は糖蜜の京師と爲る。大和行幸の令出でゝより僅かに四日、已に八月十八日には延引の令出づ。名は延引にして、實は廢止なり@ @ 1夷狄御親征之義、未其機會に無之〓慮に候◎處矯宸衷御沙汰之趣施行に相成候段全@◎く思召に不被爲在尤於攘夷は敵慮少も不〃被爲替侯得共、行幸は暫御延引被仰出候事。叡旨を曲げて〓旨と爲して天下に公布す彼れ激黨朝廷を期岡すと幕府を責めながら、己れ自ら亦朝廷を欺〓す。結果は敵旨の取消と爲りて、汗の如き綸言をして汗の如くならざらしめぬ。尋て一片の朝令は更に給旨の具僞を正しぬ。天下の變亦想ふべし6是迄は彼是眞僞不分明の儀も有之候へとも去る十八日以後申出候儀は。眞實の報慮に候間、此邊諸藩一同心得違無之樣之事京師の政界は、附錄延引の令出つるの前夜、勅命を奉ぜし松平容保は、俄カに兵を九門に出して宮闕を堅めぬ久しく失意を以て京師に陣せし吾妻の武士も今は禁門の衛士と爲りて、會津得意の時代は方さに來りぬ藤藩も亦勅に由りて闕を守り、在京の諸藩亦兵を出して守護す。街頭往來の兵士は、一種の殺氣を帶びて脚自ら急なり。事變の象は都人を危惧せしむ。而して警衛を罷められ、入京を禁ぜられたる長藩人は、皆憤慨の淚を拭ひて快々として西に去れり。到けられたる三條實美等の七卿は、亦恨を呑みて不平の旅路に就き、遠く長州に落ちのびっ其の黨窟に勅勘の身を寄せぬ。かくと見るわれをとがむる秋の月心は君になほつかへける是れ實美が播州の月清き浦邊の詠亦以て其胸中を見るべし。京師には斯る政變起りて、大和行幸は止みたるも、大和には之れを識らずして、一部の激徒は早くも菊花の旗を翻へし、以て大和行幸の掃道を爲さんとす落魄の公卿中山忠光、推されて將と爲り、藤本鐵石等樞機を握りて、自ら天忠黨と號す。浮浪の群集忽ち破られて、一生懐〓の淚は、空しく野邊草上の露と化レalo朝廷に於ける温和黨の勝利は、更に天下より强大なる味方を集むるの必要を生じぬ。乃ち島津久光上京の招命は、最も早く近衛老公の手より薩州に達せり。久光命に應じて直ちに起ち、十月の始め已に身は京師の街頭に立て60是れ方さに平野二郞の徒が、京師の政變に激して、遠く生野の銀山に叛旗を擧げて、京師の姦を除かんとせし際なり。無謀の擧は天忠黨の轍を踏みて終りぬ。久光來りて、尋て越前春岳も來り、伊達宗城も來り、士佐容堂も來る。同時に關東より一附錄(三一四)大和行幸は止みた
橋慶喜も來り、將軍も亦將さに勅を奉じて來らんとす。京師は方さに公武合躰論者の舞臺と爲る而して曩きに大和行幸矯勅の事に坐して參朝を停められたる關白鷹司輔〓は、今や其職を罷められて、二條齊敬其後を襲ぐ。齊敬も温和黨なり。昔し藤原基經始めて關白に補せられしより、是に至りて殆と一千年齊敬は實に最後の關白たり。京師の局面、斯くの如く一變せしも、獨り依然として變ぜざるは、甞て幕府に下りし鎖港攘夷の勅命なり勅命を奉ぜし幕府は、已む無く外國公使に對して先づ鎖港の談判を開きしも、公使は固より應ずるの色だに無し。されとこの外に對して無益の鎖港談判も、幕府が朝廷に對せる上には全く無益とならずして幕府は之れが爲めに兎に角攘夷猶豫の勅命を買ひぬ此度於關東、鎖港及談判候旨、言上有之候E間攘夷之儀、總而幕府之指揮を得、輕擧暴發之輩無之樣、諸藩家來末々迄可被示聞事。右之通、從御所被仰出候間、諸藩末々迄、御主意の趣厚く相心得候樣、嚴重可被中付候。攘夷處分權の如きは素とより幕府が創立以來の既得權たりしなり而も今は朝廷より之れを與へらる政權の轉移亦以て見るべし。』當時鎖港と攘夷とは、意味正さに異なれり。鎖港は、我國土の上より、悉く外人を追はんとするを意味し、攘夷は、我沿海より、悉く外船を拂はんことを意味す。外難禁絕の意は、均しく一なれども、一は平和の談判を以てし、一は過激の手段を以てす。昨は過激の朝廷、今は平和の味方なり是に於て幕府は、上朝廷に對しては、無線なる攘夷の督促を免かれ〓下列藩に對しては攘夷の許否權を握る。而も尙ほ鎖港の問題は附錄朝廷に對する責任として、幕府の肩上に懸れ50幕府は幾たびか外國公使と商議するも、彼等は冷然たり、頑然たり。世界の大勢に促されて、一たび開きし國門は、固より一國の私故を以て、之を鎖すべきの理も無く、力も無し。而も尙ほ幕府は池田筑後守等を歐米に遣はして、鎻港の談判を爲さしめぬ。使節一たび歐洲の天地に入りて、忽ち百聞も如かざる一見の〓に化せられ、西洋文明の通衢に、東洋鎖國の陋を說くべからず。僅かに巴黎の都にのみ足跡を留めて、勿々歸國の途に就き、先きには鎖國談判の全權大臣として我國を出でし使節も、今は却て熱心なる開國勸誘の使者として幕府に還りぬ。江戶の牙城を燒失して上洛の期延びし將軍は、遂に元治元年正月十五日を以て、京師に入りぬ。去年將軍上洛の京師は、怒風地を捲幕府の肩上に懸れきて荒みしも、今年の京師は、和風颯然として吹けり。例として皇族攝家の外賜はらざる板與は、特例の敬旨を以て將軍に賜はれり。將軍は之れに乘りて參內新年を賀せり。尋て右大臣に任ぜられ、又從一位に叙せらる。而して更に優渥なる度輸下る。中に曰ふ、去春上洛の廢典を再興せし事尤嘉賞すべし豈料らんや藤原實美等鄙野匹夫の暴說を信用し、宇內の形勢を察せず國家の危殆を思はず朕が命を矯て輕卒に攘夷のe令を布告し、妄に討幕の師を興さんとし6.長門宰相の暴臣の如き、其主を愚弄し、故@なきに夷船を砲擊し、幕使を暗殺し、私に4 2實美を本國に誘致し、如此狂暴の輩、必罰せずはある可らず然りと雖も是朕が不德の致す處にして、實に悔慙に堪(す去年長門宰相に下りし換夷先登の叡感果して今年の京師は、和風颯然とし附錄
眞乎、僞乎。空高く雲暗くして、天機漏れ難Lo但今は叡旨一變せり又曰く、勉て太平因循の雜費を减省し、力を同し心を專らにし、征討の備を精銳にし、武臣の職掌を盡し、永く家名を辱むる事勿れ。嗚@呼汝將軍及各國の大小名、皆朕か赤子也。〓E今の天下の事、朕と共に一新にせん事を欲す民財を耗す事無く、姑息の奢を爲す事無く、腐懲の備を嚴にし、祖先の家業を盡廿〇天子自ら咎を引き、自ら改新して和衷の意を示し、以て天下と事を共にせんと欲す。但天下の大勢は未だ容易に最後の一新に達するを許さゝる也。宸翰を受けし將軍は、亦謹嚴なる奉勅の答疏を捧げて、こゝに公武和衷の形式は表せられ朝廷幕府の間、復た一條の溝路無く、加ふる天機漏れ難に有力の諸侯其間に立ちて公武合體の連鎖と爲り中央の政界、今は攘夷の暴論なく討幕の聲無く幕府萬歲の外觀は京師に洽し。』時しも花の三月、禁中に舞樂の催ありて將軍を饗せらる多くの公家武家も亦陪覽に連る扇弱翻たる姿洋々たる響は禁延に太平の春c〇。色を呈して天下多事の日を忘れしめぬ將〇軍の首尾は愈好し。尋て朝廷より政務委任政令一途の勅諭幕府に下る。幕府之儀、內は皇國を治安せしめ、外は夷狄を征伏可致職掌候之處、泰平打續、上下遊惰に流れ、外夷驕暴、萬民不安、終に今日之形勢とも相成候故、癸丑年以來、深被惱叡慮、是迄種々被仰出候儀も有之候處、此度大樹上洛、列藩より國是之建議も有之つ候間、別段之聖慮を以、先達〓幕府に一切御委任被遊候事故、以來政令一途に出、人(六一四)附錄。つC心疑惑を不生候樣、被遊度思召候、就而は別紙之通相心得、急度職掌相立候樣可致候事〓但國家之大政大議は、可遂奏聞候事是に於て多年暗澹たりし朝幕の間の關係も判然として明かと爲り朝廷は內外大政の奏聞を得て朝裁を與ふるの主權を握り、幕府は實行の責任を負ひて細務は專決の權を有す尋て幕府が朝廷尊奉の意を以て定めし十八ヶ條の制度の中にも曰く國務是迄之通、總而御委任之事。尤國家之大事件者、伺敵意取計之事大政の裁可權は、已に朝廷に屬す國務は總て委任と稱すといとも、幕府は遂に昔し全權の幕府に還る能はざりしなり昔し嘉永安政の際には朝廷は唯外交の處分9喙を容れしのみなりき今は既に赫々としで◎に內外の大政に主權を握りぬ。王政復古の實は、必ずしも明治維新の日を待たざる也。』天下の形勢は方さに定まる。京師復た患ふべきもの無し。將軍は乃ち一橋慶喜松平容保等を殘して、五月江戶に歸る之れに先だちて既に久光も去り、春岳も去り、伊達も去りぬ。@是れより亦長州處分の事漸く急を告げて、幕e府衰亡の一大禍機は、已に地底に萠えぬ第九京都に於て、衝突の禍機は、久しく會津と長州との疾視の裡に合みぬ。會津は幕黨の代表〓者なり。長州は非幕黨の精髓なり八月の政〓19〓◎3 2變は、詮すれば兩藩軋轢の結果に外ならず會津は順境に出でゝ、長州は逆境に陷りぬ。」敗れたる長州は、朝廷に、幕府に、使を遣し、書を呈し、切りに辯疏し、哀訴して、其枉屈を伸べんとすれども、京師の耳は、深く長州の聲に鎖せり遂に藩老福原某は、藩主の命を奉じて、歎訴附錄歎訴
を名とし、兵を率ゐて、京師に上り來れり。血氣憤慨の徒、亦多く藩を脫して踵ぎ至る。尋て又藩老國司某益田某等は、脫徒の鎭撫使として追ひ來る而して其秘國中には藩主の黑印を捺せろ堂々たる軍令狀を納めぬ怪しき鎭撫使は、直ちに脫徒の指揮者と化せり朝命は穏かに蹄藩を諭せとも、彼等容易に聽かず。乃ち征討の命下れば、彼等却て早く禁闕に迫り來る。諸藩守護の兵、討ちて之れを破る。會津薩摩の兵尤も力む。吉田松蔭に少年第一流と推されし久阪義介、空しく壯歲の人生を兵火の裡に沒し去る。是れ即ち元治元年七月十九日の變也。變終りて、已に薩州の同情は長州に向ひ將5來共に手を携ふるの念は、早く隼人の意中に起りぬ尋て長州追討の朝旨出で、諸藩出兵の幕令も亦出づ。尾張慶勝總督と爲りて、將軍も亦將さに進發せんとす。此間英佛米蘭の軍艦、舳艦相街みて馬關に到り、以て先年砲擊の仇を長州に報ゆ。內外多事なる長州は、三日の戰鬪の後、遂に所謂夷狄に和を乞ひて、僅かに外患を收めぬ而して內は亦朝廷幕府に對して、切りに十九日の亂を謝す。長州に同情厚き西郷吉之介が平和談判の議は、總督の下、大坂に開ける征長軍議の席に於て用ゐらる。彼れ乃ち自ら使して長州に說き、長州亦平和に命を奉じて、事立どろに决し、天下の大事、僅かに一价の使、舌端の間、に易々として局を結びぬ而も仇敵に多くの苦痛を與へずして餘りに平易に了せし處分は幕黨が長き怨を晴らすに足らず慶喜も不滿なり。會津も不滿なり多くの幕吏も不滿なり乃ち僅かに事局收まるの口己に長州再征の聲は、幕黨の間に涌附錄きぬ。而して天下は方さに長州處分を以て、既决の問題と爲せるも、幕府には尙未决の問題と爲し、使を遣はして毛利大膳父子を召す。而して其事未だ决せざるに、已に征伐の令を發し、慶應元年五月を以て、將軍進發して京坂に來30毛利大膳父子、不容易企有之趣に相聞、更5に悔悟之躰無之。是れ實に征伐の理由なり。何ぞ夫れ空漠なるや天下を服するに足らざる知るべきのみ。』此間幕府は亦一の外難を加ふ。兵庫開港豫約の期限將さに至らんとして、外船は近く攝海に來り、約を促すこと頗る急なり。窮せる將軍は遂に斷乎として將軍辭職の表を上つる而して添ふるに公然開國勅裁の奏文を以てす榮譽ある大職を犠牲にせるの引決は、遂に多年紛擾多くの悲劇を演ぜし問題を解きて、こゝに條約の勅允は下りぬ。而も尙兵庫の開港は允されず辭職を聽かれざりし將軍は、依然大坂に在りて征長の事務を督す。幕府は遂に最後の裁許を長州に與へて服罪を命ず。彌恭順謹愼罷在候趣に付、於大膳父子朝敵の罪名は相除候。乍去畢竟不明統御之道を失ひ、家來の者共犯朝敵之罪候段、其科不輕雖然祖先以來の忠勤を思、格別寛大の〓主意を以高之內十萬石取上、大膳は蟄居、長門は永蟄居、家督之儀は可然者相撰可中付左衛門介、越後、信濃家名の儀はゅ永世可爲斷絕候奉命の期限過ぐるも、長州答へ無し。乃ち幕府は、慶應二年六月五日を期して、進擊を命ず而も無名の師を起すの譏は、已に天下に囂々たり。忠鰊の書は、切りに幕府に到而も附更錄(九一四)
して天下に兵を徵すれば、藤藩先づ出兵を拒みて、諸藩依違す幕令行はれずして幕威も幕信も地に墜つ而して長州は一藩决死の覺悟を定めて、軍氣凛々たり此頃大樹公進發の由、然る上は只管遂謝罪、聞屆有之候上は大幸の至に候得共、萬一承引無之節は、不得止事一戰可相成候得共、飽迄謝罪を乞、自然聞入無之時は、無據右の覺悟候間、抛身命可盡忠節、偏に賴入候。尤我等にの忠節而已にあらず、祖先えの忠節に候間、吳々も賴候事。元就が子孫の意氣、亦以て見るべし。而して接戰の結果は、憐むべし、唯多く幕軍の敗北あるのみ鴻鴈は小鷹に打たれて、益々幕威の失墜を重ねぬ。今や幕府は尤も苦痛の位地に陷る。敗れて局を收むれば、幕府は終に立たず。されど亦勝つべき望は、殆と無し。苦心慘憺の間、將軍俄然薨す。幸か不幸か。將軍の薨去は、幕府に征長中止の口實を與へぬ。嗣將軍慶喜は、勅諭を奉じて、休兵を令す。長州亦僅かに命に從ふ。將軍薨じて、五ケ月ならず、天皇亦崩す。今上天皇、慶應三年正月を以て、踐祚し玉ふ。將軍代り、天子代りて、天下の局面亦大に變ず尤も難かりし兵庫の開港も、容易に許さる形勢の變見るべし而して天下の志士は、幕府の復た爲す無きを見て、已に囑望の綱を斷ちぬ。薩長の二藩は討幕の密勅を握れり之れに先らて土佐容堂は、大政返上の議を將軍に勸む慶喜之れを用ゐて、遂に政權奉還と爲る是に於て長州舊に復して、入京を許され、三條等亦官爵を復せられ、終に一片の令を以て、堂々たる幕府を廢し、千年來の攝關を廢し、維新の政令出でゝ、王政復古の名實全く擧が附錄る○而して餘焰は爆發して、伏見の戰と爲り、征東軍と爲り、會津の戰となり、箱舘の戰と爲り、事全く收まりて明治の昭代となりぬ嘉永癸丑より、此に至りて十六年維新の天地は偉大なる活劇より來る。日本歷史の精華眞に此間に在り佛國の革命史を讀みて其英雄時代なるを感ずる者は亦確かに此間の日本歷史を讀て、英雄時代なるを感ぜん@近衛老公は四十六歳より六十一歲の間を以@て痛快なる此間の歷史を經過せり公は之Wれを傍觀者として經過したるに非ずして社◎會最高の位地に立てる一個の活動者として、其手は確かに此歷史の一部を染めぬ。余は公の當事を思ひ、位地を思ひ、苦心を思ひ來れば、物々として當時の事態を想出するを禁ずる能はず。故に余は公の傳の下に、此間の時局を寫して、公の見し時代、公の働きし時代、公の心に最も銘刻せる時代を現はしぬ。』是れより後、余は更に公が公私の事蹟を述べて、公が位地人物を描かん。第十勤王家必ずしも攘夷家たらず。佐幕家必ずしも開國家たらず。然れとも常時大局の上より〓觀せば、勤王は攘夷と結び、佐幕は開國と結ぶ世界の大勢より視ば開國は順運にして、攘夷は逆運なり而して此世界の大勢に促されたる一國の時運より視れば勤王は順運にして、佐幕は逆運なり要するに勤王と開國とは自ら成功すべき命を有して、佐幕と攘夷とは、失敗すべき數を有せりされば勤王攘夷と、佐幕開國と、兩黨相分れて爭ふや、畢竟彼等は各片手には順運を握りて、片手には逆運を握り、最後の運命に於て、到底調和し難き二個の主義をば、一身に提げ附錄(一二四)
。へらる此間凡そ國事に勞せしもの、或は勤王の爲めに命を擲つあり、或は開國の爲めに身を獻ぜるあり。其與みする所は異なりと雖も、共に維新の大國是に盡瘁せし所以に至りては、二者の勞亦漫りに輕重すべからず。而して攘夷の如きも、當時開國の成業の上には、實に太甚しき妨礙を與へて、外交の艱難國權を毀損せし者尠からずといへども、亦翻て內動王の成功の上より見れば、此守舊の頑說が勤王と相結びて、切りに幕府に抵抗し、到底成し難き鎖國の實行を嚴責して之れを窮地に陷れ、以て幕府滅亡の機運を制せし力は決して少小ならず攘夷は幕府を轉覆するの一大槓杆たりし也。之れ無くは何ぞ爾かく速かに勤王の成功を視るを得んや。佐幕も亦同一の論法を以て觀るを得べし。之れが爲めに勤王の成功は、幾多の制壓を受して、互に相制せんともがきし也。勿論時勢の景情に驅られて、兩黨の擧措、間々疑似に涉るものありしかど、尙大躰の旗色は、斯る成敗の數を異にせる二個の色素より成れり。是故に衝突の境過ぎて、一致の時代到れば、順存逆亡の法則は違はず。勤王は成りて、攘夷は敗れ、佐幕は亡びて、開國は存し、兩黨共に全き勝者たる能はざると同時に亦全き敗者たらず&多年淘汰を經たる時勢は、兩〓より各一個の順運の主義を採來りて此二大〓〓主義を以て、こゝに新時代の國步を開けり。』即ち維新の革命は、勤王と開國との抱合作用なり。幕末十數年間に於ける雄壯激痛の活劇は、此抱合を遂げんとして起れる沸騰の現象なり。抱合成りて、明治の新天地現はる。是に於て昨は異黨に由りて互に排翠の種と爲りし彼の二大主義も、今は同一の口より並び唱F付錄と雖も、其責任の位置に立てる當路者は、能く開國の衝に當りて、外交の難局を處理し、以て維新鴻圖の前提を爲せり顧ふに維新の革命は、畢竟我擧國の其同事業なり豈二三の强藩五六の人傑の專功ならんや虛心に考ふれば革命の犠牲となりし#幕府すらも、實に革命を行ふ一要素たりしなbc己れと兩立せざる開國を爲して、己れはg滅び、而して其滅びし一大因となりし開國は、〓n 6遺りて和續者の大國是と爲る。されば維新の業成りて、佐幕と攘夷とは全く敗れたるも、其餘影は勤王と開國との錦滿史に添ひて離れず。人生不朽の進歩史は、復た其一時の夢たらざりしを證せり唯攘夷は滅びたるも、成功したる勤王と結びたるか故に、特に之れを庇し、開國は成りたるも敗れたる佐幕と結びたるが故に其功を歿するが如きは史家の取らざる所なり近衞老公が此際の立脚は如何。盖し公は穩和なる勤王家にして、亦熱心なる攘夷家に非す。想ふに過激の二字は、品雅謹肅修禮を尙ぶ上流社會の貴人の尤も取らざる所なり。上廟廊に起てる時より、内筆を執りて歌箋に臨める〓際に至る迄、公が一擧一動は、皆穩和の精神を以て一貫せり。其人己に溫厚の貴人、故に政治上に於けるの位地も、常に穩和に與みす。夫の安政戊午の獄に罪を受けしが如きも、公を推戴れ决して公が過激なるに非ずして、せし志士が過激なるに由りて、其禍に坐せしなり。當時勤王を唱ふる者に二派あり。一は全く幕府を倒して、勤王の實を擧げんとし、一は幕府をして勤王の臣禮を爲さしめんとす。即ち彼れは過激なる革命說にして、此れは穩和なる改革論。彼れは幕府討滅說にして、此れは公武合躰論なり。公の取る所は、正さに此後附錄(三二四)
者に在り。故に余は公を以て穩和なる勤王家と爲す。されと公が朝延を思ふの誠衷は、真に其至性に出づ。當時絹紳中過激の勤王論に與みせし者少からず。公は穩和の勤王家たりと雖も、其忠君の念に於ては、决して此輩に讓らす。余此ごろ公が自詠の歌草を讀みて、亦其諷詠の中にも、公が君を思ふ至情の溢れたる者多きを見る。其「人」を詠ぜる中に左の一首あり君を思ふこゝろはひとつ人といへばたかきいやしきへだてあれとも是れ公が一種の簡單なる人生觀なり而して其人生觀に於て特に「君を思ふ心」に感懷動きて之れを以て人間通有の性情を爲すもの亦以て公か至誠の裏情の存する所を識るに足るべし。唯公は寧ろ保守の傾きあるも、决して破壞を好まず。心には勤王の念源つるも、手段は穩(四二四)和を取る。故に公が意は從來の舊躰を保持して朝廷幕府を兩立せしめ而して只時勢に應じて朝幕の關係に穩當なる更革を加以て幕府をして厚く朝延崇奉の意を致さしめんとするに在り3幕府を倒すが如きは、公の耳には、啻に幕府◎自身の不幸たるのみならず、亦實に勤王の義をも妨ぐる者と響けり公は朝廷を思ふが故に、亦幕府をも思へり。故に公は文久慶應年間の公武合躰時代に於て、厚く幕府に同情ありしのみならず、安政年間幕府の外交迫來に苦める時に於ても、尙ほ「大樹心配不少」の好意は、公が外交の建言書に出づ。蓋し公の公武合躰の精神は、幕末十數年間曾て渝らず。安政戊午に幕腱を受けし際も、中川宮等と共に過激なる倉黨攘をば朝廷の上より一掃せし文久三年の際も、又慶應の末年既附錄に薩長が討幕の密勅を握れる際も、公が朝幕調和の意見は、殆と異動無かりし也。●されば縱ひ動王論といへとも、苟も其行爲過激に涉るものは公の眼には、寧ろ朝廷の累を爲すものと映ぜり即ち文久三年八月の政變は、公に在りては實にこの累を除きて、朝廷擁護の任を盡し〓也。公は又甞て過激なる攘夷家に推戴せられたり然れども公の意は必ずしも然らず。固より公を以て開國家と爲す能はざるも、亦决して無謀なる接夷家に非す。顧ふに公も當時多くの京紳の如く、外交の局而よりも、寧ろ國內の治平に重きを置けるが如し、若し全國の人心能く開國に一致して、外も亦確かに國忠無きの保證あらば、恐くは公も亦敢て開國に反對せざるの一人たるべし。是れ既に安政年間の事。況や文久慶應の後に於てをや。公が外交思想も次第に進步して、縱ひ口には公然開國を唱へずとするも、心には陰に開國を了せしは亦想ふべし。されば當切りに幕府に向ひ時過激黨が朝延を擁して、て攘夷の决行を普責せし際の如き、公は深く幕府の困難なる位地に同情を表して、無謀なる激徒が却て時局を誤まらんことを憂慮した附之れを要するに勤王は公が第一の主眼にして朝廷の安全は公が最後の希望なり而して公武合躰は之れが最要手段たり國開鎖の問題は寧ろ第二に置きしが如し公は固より變を好む人に非ざるも亦决して時勢に逆ふの人に非ず。人心の居合を得ば鎖國の日本が開國の日本と變するも頑然たる異論を容るゝの人に非ず公が家、島津氏と尤も親近なり。公の夫人、及び公の男忠房公の夫人、共に島津氏に山づ。薩藩の士近衛家を崇敬するの厚き、錄(五二四)
に次ぎて主家に對すると同じき誠意を致せりといふ。公も亦當時京師怒濤の政界に立ちて王事に勞せし際、其賴む所の强援は、實に島津氏に在り。而して島津氏が亦大に朝廷の倚信を受けしは、洵に公の力多きに居る。先きに述べしが如く、·維新の革命は、固より我全國の共同事業たりしとはいへとも、更に各個の動力に就きて觀を下せば、其間主從の異あるを拒むべからず。而して中に就きて、一藩の勢力を以て主動者の位置に立ちし者を求むれば、薩長先づ屈指せらるゝの權を有す。而して其薩州が又深く皇上の倚信を得て、朝延の上に大なる勢力を占め、依て以て亦大に天下に權勢を奮ひし者は、公が斡旋の勞大に與かる。當時諸候中尤も朝廷の倚重を受けしは、恐くは島津氏に如くもの無けん。左の御詠は、安政二年三月、島津氏に賜はりし所にして、公は之れに一輸の書を添へて贈(六二四)る。亦以て皇寵の厚きを識るべし。詠寄國祝和歌武士もこゝろあはして秋つ洲の國はうこかすもとにおさめ舞齊興朝臣齊彬朝臣が國政にあつき心ざしを敵感淺からずつね〓〓仰とともありしにこたび武士も心あはしての御製を御懷紙に宸筆染られて傳へよとあつき仰ありしをかしこみて武士の心も君がめぐみもてけにいやましに國やおさめ舞とつたなき筆言葉も後のしるしにもならむとかき添て傳へ侍るもの也安政二とせの春右大臣忠照さつま宰相との中將との公が家又奧州津輕氏と宗支の關繫あり。明治附錄明治戊辰の際、伏見に敗れし慶喜江戶に奔りて、征討の錦旗東に向ふや、奧羽の諸藩向背に或ひて、勤王佐幕の論爭淘々たり。津輕藩亦紛々として方向決せず。公遙かに其狀を聽き、乃ち在京の藩臣を召して、具さに順逆の理を說き、速かに藩に歸りて、公の意を通ぜんことを命じ、附するに一書を以てす。書達して藩主意を决し、擧藩亦其意を奉じて、藩論直ちに勤王に决す。其一書に曰く追々奧羽連合の上、官軍ヘ抗候旨、仙臺始六藩、近日當表屋敷被召上候事、實に驚愕の至に候。於其藩は、决て方向を失ひ候儀は有之間敷、併平馬より承り、大國に被壓候に付ては、何分酷々數事も難相成旨、事1實等委細申出候へ共萬一腰味の御處置有之朝敵の名を一度被得候ては實に取て還らぬ御國辱に有之候間、同敷兵火を受候共、名正しく候へば、後日於朝廷も御看護も有之候事勿論にて、所詮御防禦難相成期に至り候はゝ〓身上京可然。誠に仙臺と云、御藩迄萬一之儀候ては、於當家何と可申哉、悲歎の至に不堪候。此邊篤と御察被下、斷然去就御定可然存候。右之趣を體し、朝廷向被計置候。何分本家の浮沈にも拘候事故、其邊吳々も御察有之樣、自然御家來の內に8,心得違いたし候者有之候ては、不容易一大事に候間、嚴重に御家來へ示し有之候樣致度、甚亂書ながら、此書狀御家來へ御見せに相成、篤と御示し有之樣、偏に祈存候。吳々も取て還らぬ一大事に候間、心得違無之樣、御家來一同ヘ御示、嚴重に有之樣祈存候。仍乍亂書中入度如此候也。六月十九日房忠照附錄忠(七二四)弘前少將殿是時奧羽に於て、率先勤王に與みせし者は、
秋田津輕の二藩たり。而して津輕の勤王は、實に公の論戒に由る。亦以て公が勤王に力めし一端を窺ふべし。-第十一公は軀幹瑰大、骨太く肉肥え、甞て身の重さ二十四五貫に及ぶ而して此豐肉の中には、亦豐心を包む公が心に一點の圭角無きは、猶公が滿身肥えて骨立たざるごとし。温乎たる性情は、自ら和眼豐類の間に現れて、擧止典雅、貴紳の風釆は、優に此巨人の壯軀に具はる。而して温容以て人に接し、寛懷以て其言ふ所を聽く凡そ倨傲自ら持するは貴族の通癖、而も公は毫も此風を帶びす。甞て坐を接せし者、皆以て謙虛の君子と爲す。顧ふに文化天保の太平時代に生長して、已に四十の歲を經、一生の半ばを閑適悠々の間に過ぐせし貴紳が、俄かに革命時代に於て風雲(八二四)を叱咤するの相器たらんことは固より難き所.而も唯公が己れを虛うして人言を容るゝ〇を吝まざる雅量は、亦能く當時上に立ちて志士を服するに足りぬ且つ夫れ公は三條實美が長州落去の如き奇矯の行なく、又岩倉具視が昨は佐幕、今は勤王、時勢の變に應じて世に處せしが如き奇才なしといへとも、其忠怒質直、常徑を守りて敢て奇を街はず自己の位地に安じて恬炎世を貪るの野心なきは、亦公の特處也。若し公が嘗て薩摩の一投機僧普門の爲めに勤王の詭術に罹りし事蹟をして、眞ならしむる8.是れ偶以て其過を見て其人の純直なるを職るに足る。今の樞密顧問高崎男爵は、素と藤藩の士。當て公の邸に出入して、尤も其親近を受く。男爵歌を善くすれとも、公の前に出でゝは、常に知らざる爲ねす。文久三年、加茂の社に攘附錄夷祈願の行幸ありし後、切りに公に歌を問はれて、乃ち始めて加茂行幸感〓の一首を述べぬ。春霞たな引かくせ大空にたかく見ゆべき心ならねば男爵余に告げて曰く、是れ眞に公が即時の偶詠而も得易からざる絕品と謂ふべし、而して此歌想は倒り公が酔後の一小戯〓に對す生世に處するる心のみならず亦實に公がの心なり一時の偶詠公が自ら己れの心根〓を寫せる眞像と謂ふべしと余竊かに以て肺〓腑に入るの言と爲す。後明治の〓世と爲りて、公が憂世の心も一轉して風韻の境に向ひ、身を閑地に置きて、復た專ら諷詠を樂むに及びては、公も今は親しく來りて、薩摩育ちの歌人を師として歌を學び、花晨月夕、數々其廬を訪ひて、雅交に門地の畛域を設けず。其胸襟亦酒脫なりと謂ふべし公は固より火の如き熱情を缺くも亦清淡水の如き心あり氣岸人を凌ぐの剛快なきも胸中洒然として、點の矜心無し。濁なきみづほの國にかへるべき影こそうかべかもの川波乃ち公聞きて激賞已まず男爵〓を乞へば、嘆じて曰く、武士の絕吟.豈能く我等涅齒者の及ぶ所ならんやと公は少時より一生の藻心を詠歌に凝めて、已に當時京紳の間に師範の榮譽を以て仰がれた5。而も斯人にして唯眇たる田舍武士の一詠に感じて、自ら「涅齒者の歌は見るに足らず」と爲す亦以て其坦心雅懷を識るべ又一日、公は醉餘に戯れて富士山の〓を作る。淡墨一揮意を加へずして、自然に倒扇の形を成す男爵之れを受けて歸り後再び之れを携へ出でゝ公の欵を望む公は乃ち其〓を引きて一首の歌を書して曰く附錄(九二四)
〓虛は貴人をして一層其貴を增さしむ公は固執の意地なきも亦事物に凝滯せず變を好まざれども强て變に逆はず世を貪らざると同時に、世を怨まず寧ろ世變と共に相化して其世を樂む。公は厭世家に非ずして、樂天家なり。其樂天家なるは、特り天保時代、太平に驕れる得意の武士の傍に、一般の公卿が失意の生活を送れる日に於て、然るのみならず。又攝關の家格は廢せられて、門流の尊榮昔時の如くならず、六十年馴れ來りし世態は、一朝變じて、明治の世となりし日に於ても、然るのみならず幕末の革命時代、天下浪風奔激の際、其身の險渦の裡に捲かんし日に於ても、亦敢て樂天家たるを失はざりし也余は公の歌集を讀みて、實に樂天の喜想に富めるを見る。特に安政の天下紛々の際、其〓婢村岡が關東の刑鍋行を懷ふ二首の歌を見(〇三四)て、て、尤も其然るを識る。すさましく荒るゝあづまの空さしてゆくさきいかにならんとすらん是れ確かに憂愁の調而も直ちに一すぢの道のまことをしるべにてあづまの山もやすくこゆらんの詠を以て、樂天に歸着す。亦以て公が信ずCGる所、安ずる所の一端を見るべし公が安政戊午の禍は、井伊直弼が幕權を握れる時に在り。直弼素より公に私怨無し。只時の政畧上、京師を制するに於て、巳むを得ざりしを信ぜしが爲めのみ。公も亦過激の人に非ず。妄りに幕府に反對するの人に非ざるも、唯過激なる尊攘黨に擁戴せられたるが爲めに、時の政權に制せられて、黨禍を負ひたるのみ當時若し公と直刺とをして、一日膝を交へて相語らしめば、相互の意衷は相通じて誤解も忽ちに融解し、乃ち公も濫りに無謀な附錄る過激黨の言を聽かざるべく直弼も亦妄りに公を敵黨制壓の羅中に入るゝに至らざりしならん。而も當時は東西相分れて、心事相通ぜす。互に政敵の位置に立ちて、一は禍を加へし人と爲り、一は禍を受けし人と爲る。而して心事相通せざる間に、直弼は亦早く危禍を受けて去り去りて而して後公の禍も亦去る爾來世換り歲移りて一時黨爭の偏感も次第に人間天眞の同情に還り、公が好情も今は直弼に向ひて、明治二十五年其第三十三回の忌辰には自ら一首の歌を寄せて、昔年の政敵が地下の幽魂を吊へり。寄柳懷舊吹風になびく柳の糸見てもくりかへしつゝしのぶ春かな思ふに此一事も亦以て公が人と爲りを窺ふに足らん。維新前京師の浪士橫行して慘劇の巷と爲るや、時に津輕藩は宗支の關係を以て、來りて公の邸を守れり。津輕の友人某、余が爲めに當時の狀を記して曰く、是時藩士等晝夜の別なく邸内に在りて、警備に怠り無かりしが或る夜痛く更け渡りし頃、公親ら邸內を廻らせ給ひ宿衛の兵士を勞ひて一々慰問の言葉をかけられ或は人每に其名を問はせて永く之れを記臆に存して忘れじとぞの給ひき又公務の餘暇には、折々兵士等を御前に召し、親しく種々の御物語をなさせ或は御筆を染め給ひし短冊に種々の品を添へて、之れを賜はりしなと、高爵顯位の御身をも忘れて、深く兵士等を愛撫し玉ふ事、封建時代門地を尊ぶ時節には、いとありがたき事になん。故公に是時兵土等は、其恩顧の厚きに感じ、の爲めには、一身を以て錄刄の奇雨となす附錄(一三四)
も惜まず思ひしとぞ。當時宿衛を勤めし遺老は、今も猶公の昔を語りて、眼に淚を浮3ぶる者あり公の平生以て見るべし。公の一生樂む所は、歌に在り。素より其歌境は、主として花鳥風月の域を出でずと雖も公が優美なる思藻は、こゝに現る。公の歌は、情味濃かにして餘韻盡きざるの想あるよりも〓麗素淡、巧を加へざる所に妙趣存す。余が見し所の詠草は、僅かに公が十餘年來の近作數冊に止まれとも、其歌集を通じて自ら優暢開雅なる貴人の品調を帶び三十一字の小品も、亦公が胸襟の如く洒然として〓影掬すべきものあるを覺ゆ。今左に二三首を揭げん。(二三四)春夢曉をおぼえぬ春の眠にはをしまぬ夢も長くみる哉夏河夏の日に思ひ出ても凉しきは〓瀧川のながれなりけり野郭公さやかなるいな野の月にをちかへり鳴や有馬の山時鳥遠村柳山里の夕けの後も猶見えてなびく煙や柳なるらん柳上鶯來つゝ鳴羽色はわかで靑柳のいとに聲ある春の鶯田家柳衣ほす竿にもかけて結ぶらん賤が門田の靑柳の糸附錄春曙橫雲のわかるゝ峰の曙に棚引殘るはる霞かな夜時雨村時雨ふる音聞てねし夜半の枕の夢は紅葉なりけり盡力有之度と、蔭ながら仰望仕候處、終に此回の御沙汰を見るに及び、誠に珍重至極に奉存候。元來勅任參事官と申すもの、、眞に政府に必要ありや否や。若しも多くの新聞記者共に氣受の宜しからざる伊藤內閣にて、斯る新官を設けたらんには、人の爲めに官を設くるなどの惡口も嗷々たるべく候へとも、流石に彼等を味方に取れる松限內閣とて、非難の聲も餘り聞え不中、且つは己が政府の御味方に忠功ある民間の英材をば取入れんには、斯る新規の納め處も時宜の必策に可有之、民間の俊士もいつ迄も政界の御客樣にては面白くも可無之、旁にて此めで度高等官の新設と相成候儀と奉存候。熱ら相考候へば、十年來永り居候御高說にも、日〓戰爭以來は一廉の御變調相生じ候哉にも相考候へと、純粹に年來の御持論を解せば、縱し一人の大隈伯あるも、今比閥老內閣の下に御出仕は可無之樣にも被相考附其二其二東京又は鎌倉に在りて專ら修史に從事せし時代友人某氏に與ふる書(人間胎明治三十一年)三十日先日は錦を衣ての御歸朝、今日は要路の御登任、重々めで度、早速邦趨御歡も可中上候處、兎角御陳濶に打過、御海容可被下候。過般御歸着後御接近の友人より承れば、官邊に意なしと御物語の趣に候へとも、迂生は竊かに御如才なき足下、心に期して他を言ふの秘術には非ずやと疑ひ居、新聞紙の遠吠も、與論の喚起などには、隨分効能も可有之候へども、最早時節到來之足下に取りては、永く野に在るは不得策なるべく、此際實地に乘出して御錄(三三四)
候へと、時勢變遷の世に處して、戀識の足下斯る融通の利かぬ儀は無之筈にて、全く憂國の一念より御出身の御能と、深く國の爲敬喜仕候。扨斯く御就官相成候に付ては、御胸中万斛の御神算可有之、頑愚の迂生輩抔敢て彼此中すべき儀には素より無之候へども、已に内閣の諸老も足下等を容れ、足下等も畢竟味方の多衆を代表して朝に立たれ候身柄に候へば、諸老も足下等の言には特に耳を傾け可申候。所詮將來に於て現內閣を活かすも殺すも、治むるも亂すも、其の根源は必ず勅任參事官と申す而々の內より出で可中乎と愚察仕候抑現内閣も、前年松方內閣が撰擧干渉の後を受けて起りし伊藤内閣と均しく始の程は世間より頗る望を囑せしも、其實は萬事捗〓敷運ばず、今は頗る政務澁滯の觀有之、世の論者も彼此申す樣相見え中候。さりながら此は强ちに政府の罪のみには無之、過分の望を繋ぎしものゝ愚にも有之候と存候。野に在りて軍備縮少をほのめかし〓松方も、朝に立ちては意の如くならず。一筋繩にては行かぬ外交をば、早稻田の邸に對外硬など吹立てし大隈も、今は全く硬のみとも見えず。是等の諸老さへ無責任の位地に在りては勝手の書生論を吐けと、さて愈く重き廟堂を引受くるの塲合となりては、やがて情實の溝漬となりて、謝安山を出で〓後の嘆あるは、古今の政治家殆と同一徹と申すべし。併し此の邊が先づ政治家の本色にも可有之候へば、今更各むべき儀に無之候へとも、思へば隨分淺ましきものと存候。姑く三十年前に遡りて、明治政府の開基を吟味せば、畢竟漠然たる一片の國家思想と、幾百年來身にしみたる地方根性の雜色より成り來りて、表面は大に天下一新の觀あるも、裏面は中々理屈通りに行かず。偶舊情實を拂へ(四三四)附錄ば新情實已に生じ、今日閣老內閣の情弊も洵に因緣淺からずと存候。古來政治家の果斷抔申候も、情實を絕ちて道理を决行せし意なるべけれど、其果斷には隨分怪しきもの有之、表面は英斷の如く見ゆるも、內實は種々の外迫に制せられて、餘儀なき振舞に出でしもの多く、詮すれば情實を絕ちしにあらで、帝實に屈服するの極遁路の際の一躍に外ならず。後世淺薄の史家等此一躍の外形のみを見て、果斷英斷なとの妙文字を擬し候もの甚からず。寧ろ古人の中には强て情實を絕たんとはせで、却て情實を利用して成功せしものも相見え申候6されば今日の政府にても情弊一沈など、口に言ふべくして實際には容易の事に可無之、彼の行政整理と市す官邊の掃除詮議、毎度唱へられて每度見事に行はれざるも敢て怪しむに足らず。非常の大事にても起らば、其時こそ人心の變動に乘じて舊態一掃の大帶を奮ふの塲合なるべけれど、さる機會も無きに特更に銳意英斷を主とせば、自然平地に風波を起して、感情の動物間に不平の術突生ず人(、水野越前の細工も、道理は尤もなれども情理に通せず、機を察するの明なし世間足下等の御出仕を見て、快刀亂麻を斷つの擧あるべし、行政整理よく若手せらるべし抔申、待受候有樣に候へとも、斯る厄介問題に深入りするは智計に非ずと相考候。足下の達腕必ず綽々として情實利用の餘地可有之と奉遠察候。さりながら目下政府にては、重大の國事內外にさし追り候樣に相見え、外交上にても布哇問題の如き、、縱し米國が合併したりとて、我邦にけ敢て大なる利害も可無之、深く憂ふるに足り申間敷候へ共、近日露國の形勢は容易ならざるが如く、實際は如何程まで切迫いたし居候哉迂生等が敢て識る所に無之、又我が外務の考は何れの邊に有之候哉、門外漢の凡附付錄
慮には今日輕々しく動くべき時に無之、暫く衝突の時期相延ばし候方目下の得策乎と存候へとも、何れも早晩破裂は免るべからざるべく、寸時油断のならぬ時節に候へと、何分國內安穩にて、意外の大提を占めし日〓戰後浮氣の夢は醒めず、勿論いざといはヾ我國人の特性とて、一生懸命と相成、今日政府にて迷惑いたし居候歳計不足の千萬二千萬位の金は何の苦もなく出で、增稅問題の如きも立ちところに决し可申、一時の軍費亦敢て憂ふるに足り中間敷候へども、現時の處兎角太平樂にて、迚も物前には一般警戒の念も生じ不中、尤も中樞に立つものさへ心懸堅固に候はゞ、興衆の意向は時に臨みて何れにも仕向けられ可申候へども、何分我邦沿岸一步を離るれば、朝鮮の事さへ餘所事の樣に思ひ候國民に有之候へば、能々外交局面の油断なり難きを言ひ含め、深く現政府を信じて、一國の休戚を擧げて之に托するの感念を生ぜしむる樣御仕向の儀尤も肝要と存候。現政府にも近比隨分不人氣の問題多き樣相見え、臺灣の不首尾、營業稅法の苦情は申すに及ばず、現政府の命とも謂ふ可き金貨問題も、銀貨の暴落より反對の聲燄顏る增し來り候が如く、陸軍擴張には異論の聲も少々相聞え、金の問題には此後尙々故障も起り候勢相見え、今日政府の人望昨年より稍落ちたるが如き觀ある折抦、右の如き民心を繋ぐに困難なる種々の間題を控え居候事に有之候へば、當路者の頭痛も輕からざるべく、此上與望を收攪するには、外交を以てするを上策と迂察仕候。否上策のみならず、尤も時に取りて緊急と存候。扨右等大事の時機に就ても、何より政府の鞏固永續こそ尤も望ましけれ。いつの時代の政府にても、外部よりの攻擊のみにては容易に倒れず。やがて內に應ずるものありて、終に附錄瓦解に及び候次第、歷々史上に徵證有之、彼の海舟翁の如きも、畢竟慕府滅亡の內應者とも可申、時運到來の節は斯る人を出だすも敢て怪しむに足り不申候へとも、何分內部堅固之一致無之候ては大事は成り難く、今日閣員の間柄實際如何の摸樣に候哉迂生輩の知る所に無之候へとも、明治政府の通有性として、入込みたる悶情も尠からざるべく、始め內閣を結びし關情、やがて亦之れを解く手となるは、每に見聞せし所に有之候へば、此の間に處して閣員の連鎖となりて、致を圖るは、誠に今回御新任の足下等の御負擔と存奉候。今日の時勢最早一步も跡へは引くべからず。政府も乘懸けじ舟、今更逆櫓を操つるべからす。金貨本位も軍備擴張も、其他一切着手の問題も、多少の異論に頓者なく、着々實行して他日の成功を期し、內を整へて徐に外變を待ち、以て今日の難局首尾よく御切開きの程奉悃祈候。其れに就ても中々半年一年の短日にては事成らず。現內閣の命運をして長からしむる事尤も必要と存候。昨年政府成立の頃には、太く短くなどこの世論も聞え候へとも、斯る若氣の未熟論、決して大人の取るべき所に無之、潔癖の短氣病大事の前の禁物と奉存候。古人に高蹈勇退の說あれと取るに足らず。表面を觀すれば功成り名遂げて自ら退きしが如く見ゆれど、其實はおのが權勢既に七ツ時下りとなり、最早自ら退かざれば他より退けらるゝ程に至りて、しぶ〓〓退引せしものをは、漢學者流おのが文癖に任せて、高蹈勇退など美名を與へしもの尠からず。功名利欲の動物、隱居心は實際容易に山づべきにあらず。今の時勢後れの間老達も、無ければとて敢て日本に事缺かざるべけれと、世間の容るゝ間は、身の續く限り日本を引受けて忠誠に働くが宜しく、現今大切の時節、飽迄其位地を固守FE錄(七三四)
して權勢を維持し、三年五年かぢり付きても、大に責任を盡されんこと希望の至に奉存候。』先づは御歡旁近日の愚懷御一粲に供し候。御叱〓を賜はらば幸甚不過之候。目下迂生鎌倉に遊び居、碌々送光何の詮もなく慚愧の至に御座候。何れ不日逗子の御別莊にて拜風に接し度と存居候。くべき所に有之、眞に明治第二の維新と可申と存候就ては必ず其初政に於て世の耳目を驚かすべき程の御妙策可有之、全國刮目する所と存候。小子輩の如き傍觀者にて淺識の身、彼此論する事には無之候へども、亦つら/考候へば、三十年前維新の當時に於て第一の新政は彼の五ヶ條の誓文に可有之、一國開明の方向茲に决して朝野共に其廣大なる盛旨を深く肝銘し、爾來永く國家進路の指鍼と相成中候。さりながら三十年後の今日は時勢も大に進みて時宜に適せざる所も有之、今に復殆と之を口にする者無之姿と和成候。仍ては今度第二の維新とも中すべき非常の內閣の初政に於て、一の大部を煥發して以て將來永久の大國是を明示し、更に世界に立てる國民として其向ふべき所を識らしめ度ものと奉存候。或は三十年前の昔と三十年後の今日とは時勢も大に變じて、政黨內閣に○○○附同〓の先輩某氏に呈する書(明治三十二年七月一日)識啓、昨日は愈顯職に御登任、大慶不過之候。維新以來政權の分配に貧乏神なりし彦根も、今度は先生の御蔭にて大に〓里の名譽と相成雀曜の至に奉存候。實に今回の政變は、日本の史上に特筆大書すべき一大現象に有之、固より平和の變遷に付、戰爭を以て政權を授受したるが如き悲壯の大觀は無之候へとも、百年の後世より見れば、史家の襟を正して筆を着錄不都合なりとの議論も可有之候へとも、是れは理屈拘泥論にして取るに足らず。日本の如き忠君の念に富める國民に對しては、綸言ほと利目の强きものは無之候。先年出でし〓育の勅語の如き、〇〇〇〇〇00〇〇〇〇、國人は之を恰も神文の如く難有奉戴いたし居候。露國ピートルの大言の如き、幾百年後も露人心肝に銘しで一意其遂行を圖り居候。日本も今日の如き小國にては到底永久の獨立安心し難く、容易ならざる世界の大勢國の間に樹ちて遠大の征圖を運らさんには、民に一大覺悟を極めさせ置候事何より急務と相考申候。此一大覺悟を極めさせ候には大詔に如くもの無之候。以來政府は先々政黨の消長に由りて其方針時々變ずべく候へば、其變動の上に立ち永久一定の大方針を明示したるもの有之度事に存候。目下天下刮目の時に當りて第一の活政は不過之と愚察仕候。傍観樓上の迂策御一笑の外可無之候へども、亦献芹之微衷に御座候。御顯達の御歡旁御示〓奉仰候0敬具。人の一生德川家康朝始三十一年の〓七十三頁第二行以下數行參照大久保餘所五郎附人の一生は重荷を負て遠き遺を行くがごとし急ぐべからず不自由を常ど思へば不足なし人の一生は戰塲に出で〓大敵と聞ふがごとし人の一生は大望を負うて戰場に立つに外ならず後るべからず油斷を常に減むれば不覺なし常に油斷せざれば不覺な心に望失なはヾ得意なりし時を思ひ出すべし剛殺は立身成業の基錄心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし堪忍は無事長久の基(八三四)
怒は敵と思へ勝つ事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身に至る己れを責て人をせむ人間一人にして斯かる命數を重ねしむべし。んこと生理學者許すや否や。○家康の腹黒き程は、など白石の眼に見えずやあるべき。さりながら其の身は之れを明らさまに言ひ難き位地に在り藩翰譜を書ける時の意中察すべし。○德川初世の人物と末路の人物とを較ぶれば、後者の痛く神經質と爲れるを覺ゆ。太平は人を神經質にすと言ふも過言ならざるべし。今日の人は亦德川末路の人よりも更に神經質なり。孫の時代には如何になるべきや。○三年逢はずして、偶逢へば、以前に變りて、頗る神經質となれる靑年ありけり。間へば文學好に爲れりといふ。○大食家あり。常にピツトルを所持す。この男腦病をも持ちけり。○物事に締なき人あり。碁を打つに、終局前に於て多く敗る。卑屈は敵と思へ負くる事に安んじで勝つ事を知らざれば損其身に至る己れを信じて人に施せ成すは成さゞるより勝れり附付及ばざるは過ぎたるより勝れり鎌倉漫筆(明治三十二年の頃)○若し徂徠にして白石の如く史を究めたらんには、其の史眼は必ず白石の上に出づべし。「南留別志」を一讀して識るべし。○武内宿禰の齡三百歲とは數代同名の事なりと徂徠いふ。活眼と稱すべし。先年田口鼎軒氏史海の第一卷に此の長壽の翁が事を論じながら、三百歲の疑問を解せざりしと覺ゆ。惜錄この終局前C烟草を禁ぜんとして禁ずる能はざりし男あbcされど此の男妻を離緣せり。○懷に百圓の金を置きながら、零落せる舊友より五拾錢の無心を受けて、今持合せなしと斷りし紳商ありけり。舊友去りし後、其の百圓を高利貸の資本に貸したり。○歸り來たりし夫の顏色を見て、當日の碁の勝敗を知る妻女ありけり。○我が國の史傳に筆を染めんもの、文字の許さん限り、又今の人に通ぜん限りは、成るべく其の當代に言ひ慣らはしゝ言葉をもて記すiLb時代人物の精神さへ明らかに見えんには、文字はいかやうにても可なりと言ふは、心懸淺き者の言ふなりけり。然れども亦昔を今に引較べて說くべき塲合あり。さるは宜しく現代に行はるゝ言葉を用ゐて書くべし。は古今の差別觀の爲に必要にして、一は古今の平等觀の爲に必要あり。○德川時代公私の文躰に、通俗の言葉を用ゐて難澁なる漢語を用ゐざりしはいとめでたlo年貢、知行、沙汰、支配などいへるを、租稅、田祿、命令、管轄と漢譯せんには、詞硬くして石を嚙むの想あり。又家老、目付.足輕などわきて興ある言葉なるを、大夫、監察、卒なと硬譯せんには、興全く醒めぬべし。』○安政の大獄とは、當時漢學者どもの呼び做しゝ言葉なり。幕府の沙汰には、飯泉喜内初筆一件とはいひぬるなり。大獄の稱も妙ならず、飯泉喜內云々も煩しげなり。我れ日頃似合はしき言葉もがなと思ひ運らしつる折し、も、時の老中松平和泉守より井伊掃部頭に贈ss円,りし密書中に、大公事の言あるを發見し、是れ大に妙なりとして、乃ち安政の大公事とは稱ふることに定めき。○掃部頭うたれしとき、大久保市藏薩摩にて手を拍ツて喜びたり。大久保紀尾井坂にて擊附當日の碁の錄(一四四)
たれしとき、長州の輩亦手を拍ッて喜びたりとなん。因果の理あるにや。大久保の壓制は實際掃部頭より太甚しと云ふものあり。○世評に善くいはるる人も、實際はそれ程の大人物に非らず。惡くいはる〓人も、亦それ程の惡人にあらず。古今皆然り。個人の貫目を量らんには、世評の封袋を除くことを忘るべからず。○亂世は人の尤も心の儘ならぬ世なり。善きも惡きも存外の事ぞ多かる。さては亂世の人に天運を信ずる者多し。○亂世の書風は質朴雄健自然の風あり。泰平の世の書風は何となくこせつきて筆力暢びず飾細工を爲せるの跡あり。之れを譬へば、彼れは山野に生立ちし番松の如く、此れは作れる庭松の如し。元祿時代には書風に猶亂世の餘風を留めしかと、是れより世の降るに從ひて、愈太平細工の書風と爲れり。德川の末路に及びては復やゝ武朴の風に歸りぬれど、三百年前の書程には簡質ならず。時勢の變亦書風に據りて窺ふべし。流芳遺墨を覽て其の一端を識らん。○我等家庭の物語に、親より祖父が事はをり〓〓聞かせらるれど、曾祖父が昔の話は殆と聞かず。孫を見る人は世に多かめれど、曾孫を見る老人は甚だ稀なり。長者三代といふ諺、げに人生の昔を忘じ行く真情を道破せるな50さては書きて傳へんものは永く世に存すれど、口にて傳ふる所は大凡三代に止まると思ふべし。口碑といふものに信じ難きふし多きは此の理にても識られたり。○昔は手習を第一の〓育として、幼少より寺小屋に通はせ、字躰は實用を旨として專ら草書を習はせたりしかば、世に一人前の男となりてだに、楷書の文字を讀み得ぬ輩多かりけ80今も余が用ゐる寫字生に、天保生まれの附錄老人ありて、この男むかし藩の書役といふを承り、草書には達者なれど、之を楷書にかき更めんことは能くせず。又楷書にて讀み兼ぬるを、草書に更めて示せば、容易く讀むなり當世の〓育を受けたる者には、草書の讀み書きを能くせぬ徒多し。〓育の變遷亦看るべし○楷書の多く行はるゝに至りしは、漢學の影響淺からざるべし。昔は多少漢學を修めしものにあらでは、四角なる字を踏み得ず。是等の族藩中にて樹書讀みとは名指されたるな60○歷史は繰返すといふ。事實を繰返すにあらで、事理を繰返すなり。現象を繰返すにあらで、現象の精神を繰返すなり○單に過去の事のみを知らんとて歴史をあさるは、心足らぬ漿也。歷史には結果の既に判然せる將來をば多く含めり。こゝに眼を着けんこそめでたけれ。將來を知らんに口過去を知れといふ言葉味ふべし。○話落を氣取る人あり。此の人碁を打つに、五六目おかせる弱手にさへ、負けんとすれば、きたなき手を出だして、負けまじと焦立つなり○切に少年に向ひて、豪膽を說く〓師あり。と酒間くつろぎけるとき、我れは夜犬に逢ふほど恐ろしきものは無しと白狀せりき。○衣服に金を費すは、追剝に出逢ふが如しと常に言ふ男あり。されど是の男粗服をこのまyo○禪道を修して悟道したりと自ら許せる靑年ありけり。地震に驚きて蒼くなりたるも可笑Lo○愚人を相手にして得々然たること能はざる政治家は、興論政治の世に政治家たる資格な附錄(三四四)
きものと識るべし。○國家より政黨、政黨より己れ、漫ましき世かな。○白藏主の姿を〓きて、世の人はなべてよそほふ綾錦ぬぎて驚く皮の毛衣と戯れし人ありければ、我れもついでに、年を經てくろき腹もつ白狐赤きこゝろを千々にそめつゝと書きて笑ひめ。むかし司馬江漢は、世の中狐狸の輪奈かけて、智慧の餌にて人を釣るなりとは嘲りたりけり。餌には盃、小判、玉章をするとかや。玉章は女の事なりとぞ。今も政治界に此の沙汰多かり。○江漢夙に蘭學を修め窮理を好みし男にて、わが日本にて始めて地轉の說を開くとは、自ら許せる所なりけり。今の世に洋〓の始祖と(四四四)て珍重すれども、手峻天理を曉明すと雖も、世俗之を知らず。〓は幼稚の時より好むと雖も、前に善〓あり、これに及ばずと言ひ、又われ久しく東都に居るに、諸侯貴客〓を好む者多し、天を聞く者更になし。と喞ちぬるを看れば、江漢の自ら本領とせし所は、〓にあらで、窮理にありしを察すべし。我が思ふやうには後の世に傳はらぬものな60○此の男窮理を好むといひながら、狐の人にBEL寓くといふことを實と思へるは可笑し。又鬼神とは水火の二氣を云ふ。天の火氣地に徹し、地の水氣と相混同して升降す。是を鬼神とは云ふなりと說けりきさては鬼神とは水蒸氣の事なる平。怪しき說なりけり。漫ましき世附錄○慶應三年幕府にて兵庫大阪を開くに要する金九十萬兩に窮しけるを、勘定奉行小栗豐後守大阪の町人共に組合を起させ、百萬雨の金札を發行せさせて、右の臨時の用途を支へんと計りしが、この時左の如き言あり、且比年御用途多にて、莫大の御物入有之、三都商人共、並寺社等へ上納金も被仰付候次第故、申上候も恐入候得共、御府庫御充實に無之段は、上下粗察知候事故、迚も公儀の楮幣は信用不致、遂に人心に關し、物價に響き可申候間、此度は御勘忍被爲在、一先楮幣の利權を町人共へ御任せ有之候方御捷徑と奉存候。公儀の信用町人に及はず。幕府の事こゝに至りて復言ふに忍びず。其の滅亡の眞相を論ずるもの、こゝに着眼せざれば、喋々千萬言を費すも、何の妙かこれあらん。さはれ小栗の苦心は眞に察するに餘りあり。○老人の多く集まりて、昔を語るなりといふ會ありけり。或る月次の會にあやしの男を連れて來し者あり。むかし京都の雲上高き邊より下し賜はりし御物なりとて、盃、烟管、其の他舊き書付類など、誠しやかに取り出でゝ見せつゝ誇りかに身の經歷を喃々す。あやしの事共多かめり。聞けばこの男むかし力士を稼ぎしにて、一丁字だも識らぬ文盲なりといふ。取卷ける人々感心顏せるもあり、いぶかしげに見ゆるもあり。是の時當世の文壇に大家とたゝへられける老文學者あり。彼の男の言ふ所悉く實にもと信ぜるには非ざれど、眞面目にさまの問を起して聽きたりしも可笑し。今少し見識だにあらば、問ふにも及ぶまじものをと、我れは竊に壁と獨語せりき。fhて憶ひ起す事あり。近頃廢刋と爲りし名高き某文學雜誌、兩三年前この大家に史傳の寄書を求めしに、定めの原稿料を拂へば需に應ず附錄(五四四)
べしと現金に言ふ。を拂びて獲し所は、むかし元龜天正の頃信州さらばとて廉からぬ報酬の或る城に籠りし己が祖先の舊事談にて、平々凡々讀むに堪へず。當人の緣者の外には、恐らくは斯かる文を讀まんもの之れ無かるべしと、雜誌の主筆笑ひて語りつ。さては一度は紙上に載せたれど、んあやしの大家なりけり續稿は謝絕しけるとな○近頃維新の遺老の實歷談、さながら骨董品の如く世に珍重せらる。有益のふしも多かれと、事後の思考もて往事を潤色し、知らぬ事せるを幸に、をも知り顏に話し、か田に水を引き、己れ獨り手柄ありげに吹聽する共に事に與りし者の今は死都合あしきは省きて、我者尠からず。xさる怪しの實歷談といふを集めて、維新の史料として、者あり。危いかな。後の人心して見よ。後世に傳へんとする○徳川の初め、元和假武の後、世は次第に太(六四四)平の境に入り、陣に出でし勇士さへ今は年老いつ。戰爭は昔の夢と爲りて、若年の輩大坂Kaは唯これ等の翁より昔物語に軍の狀を6聽きて、唯珍しげに想ふ世態とは成り行きたり。さては是の頃子孫に傳へんとて、遺老が身に歷し舊事談をものすること行はれしかば、今話.も世に某の覺書、家記、合戰記など取り〓〓の名をつけて、誰の聞書、あるは夜話、雜覺東なき筆もて綴りし武家の隨筆めきたる記錄多く殘れり。後世漢學者其が文飾して作りし史傳の書に較ぷれば、筆は拙きながらも、はた眞相を得たるもの多かりけり。ら素より精しく穿鑿してものせるに非ざれ自ら簡古の風を存して、却て趣味あり。さりなが事實は、信じ難き所も少なしとせず。同じ時、同書と乙の書との記する所に相違のふしあるがし處に、同じ人の振舞ひし事實にして、甲の如き例は毎々の事え。新井白石も之れが爲に附錄物斷に困じたる程は、藩翰譜にほの見えたり。實歷談を殘さん人、深く心すべきなり。○石田治部少輔〓ヶ原に敗北して惡物と爲れり其の加藤等と中惡しかりしことも、非分を全く石田に負はせたり。濡衣なきや否や。徳川魚負の書のみ世には榮えたり○家康會津の征伐に、上方を立出でゝ關東に下れば、石田は是れ天の與ふる所なりとは喜びたり。程なく石田が旗あげゝるよし、下野小山なる家康の本陣に聞えしかば、井伊兵部は亦是れ天の與ふる所なりとは勇みたり。天は人の勝手にて如何やうにも見ゆる者なりいと可笑し。其の頃戰陣に於て武夫の槍を合すとき、双方共に八幡大菩薩と聲かけて突合ひたりといふ。首の取合より神護の取合こそ可笑しかりけれ。うき世の實相この邊にあるべし。○江戶に淫靡の風長ぜしは、浄瑠璃、三味線、歌舞伎なと、みだりがはしき遊藝をば、京大坂の方より輸入せしよりなり。之れが爲に江戶の士氣を腐らし〓こといかばかりにや測り難し。德川を減ぼしゝもの、尊王攘夷の力のみなりと思ふは、皮想の見なり。○賴山陽を歴史家と念ふは非なり。日本政記の論文にも、取るに足らざる淺薄の見多し。事實の撰擇に眼の無きこと驚くべし。○水野の天保の改革と、松平春嶽が橫井小楠に〓へちれし文久の改革ほど、德川時代に効のなかりし改革はあらざるべし。○家康の朝廷に對する精神は、敬して違ざくるに在りしなり。信長秀吉等は皆朝廷を擔ぎて事を圖りしかど、家康にはさる事なし。關ケ原大坂の軍にも、朝旨を受けて、王師皇軍などいふ躰を裝はず。武家と武家との戰と做して、朝延の力を假らず。是れ實に家康の深慮の存する所なり。徳川の末世に及びて、附錄(七四四)
王を唱へし徒は、朝廷尊崇をもて東照宮の遺christiache意なるが如く說きて、幕府を責めしかど、實を知らぬ者の迂說なりけり。朝廷に權力を持たせて、將軍政治の行はるゝと思ふは笑ふべLo流石に新井白石は此の間の消息を解せし〓が如し。家康また至て公卿風を嫌ひし男なりけり。○大日本史の主旨は勤王に在りといふ。水戶黃門この書を思ひ立ちしは、伯夷傳を讀みて感ずる所ありてなりといふ。周の武王は時の强者なり。伯夷は時の强者を制し、名分を正さんとして用ゐられざりし男なり。黃門何とてさる支那の一不平黨に同感して、勤王の精神を現せる國史を編まんとはしけるぞ。幕府は時の强者なり。之れを制して名分を正さんとしけるにや。されど德川は正に其の宗家な90宗家の不利をも顧みざりしにや。黃門は世に賢明の人なりと噴々す。さる人にして、いかで朝廷重くなれば德川輕くなるの理見えずやあるべき。是に於て黄門の眞意は甚だ疑ふべし。不平黨に同意せし胸中、穿鑿を要する所なり時の將軍綱吉と黃門の不快なりしは、亦世に傳ふる所なり。得意なりしならんには、大日本史を編みしや否や、我れ識らず。ミ五七七美はしき表口上より、裏の邊見まほしくこそ。○水戶は勤王の獵犬と爲りて、維新の獲物は薩長の縣の餌食と爲れり。可憐にこそ。○水戶は朝廷を情夫に持ちて幕府を滅ぼしたりと氷川の老人いひしとぞ。水戶の京師へ姦通はさる事なるべし。されど此の老人もむかし西〓を情夫に持ちて江戶城を引渡したりといふ者あらは如何に。○早稻田の老傑さる頃隅田川の邊に開きし或る大會にて、暗に薩長を指して、むかし幕府の老中若年寄の後を嗣ぎし二勢力なりと唱へしといふ。一理ある言なりけり。併し己れも(八四四)附錄甞て其の仲間なりしものを。○人物を知らんには、其の人の金のつかひやうと、妻に對する振舞との二つこそ尤も見まほしけれ若し世に細君の自ら筆を染めて、細かに良人が日常の振舞を書き取れる日記と、金銀出納帳とだにあらば、之れに優る傳記の材料はなかるべし。○人と論ぜんに、多言する勿れ。他に言はせて、靜に聽きて、やがて其の弱點を捕へて、鸚鵡返しに一矢を放ちて引陣たるべし。是れ多く口を勞せずして他を届するの簡便法なに爲れと言ふには非らず。但し人事なべて多少投機の性質を帶ぶるものと念ふべし○始めて人を訪へば、知らぬ顏して室内の模樣を見屆け置くべし。爾後訪ふ每に亦其の室內の變化に注目せよ。やがて主人の口には掩ひける性癖のをかしきふしを看出すべし。○智慧できて、氣性の强くなりし者あり、〓くなりし者あり。○熱心と冷心と兩端を備へんこそ望ましけれ。熱心にて事を敗るあり冷心にて功を收むるあり。○この世にて尤も我が儘ならぬ者は何なりと問ふ人ありしに、政治家なるべしと答へぬ。不自由を常と思はゞ不足なしと、むかし老政治家いひけり。今の政治家失敗して退くもの十に八九へ。○大勢の向ふ所妄に人力をもて抗すべから、ずさりながら之れに抗する者いつの世にもP付〓○我れ酒を飮まざれど、人に酒を呑ませて語るは面白し。○人三十にして老人にも少年にも交はるを得べし。○成るべく勞力を節約して、成るべく多く成功するの工風を運らすべし。さりとて相塲師人に酒を呑ませて語錄(九四四)成るべく多く成さりとて相塲師
有るなり。さる者猶權力を把れる間は、大勢いまだ熱せざるなり。彼等は大勢に抗して逝風を吹かせ猛雨を降らせども、其の實大勢をして强固に成熟せしむべき時間と苦鍊とを與ふるなり。大勢熟する頃に至れば、彼等は亦さながら熟柿の如く、今は樹に宿まる力さへ失せて、自然に我が重みを以て脆く墜つるなり時勢を識らずとて漫に彼等を罵る勿れ。彼等は大勢の陽氣を熾ならせんとて、嚴冬霜雪の用を爲すなり○ペルリの來りしとき、阿部伊勢守が筆頭なる老中の御用部屋は、只管穩便の手段を坂りて、つとめて事無からんやうに扱ひしを、必ず事起るべしと騷ぎける人も多かり。今にも戰爭といさみける松平越前守、異人上陸して水を汲みても手指しはよろしからざる旨、日子台慮と承りて、ran德川の御運盡と切齒痛慣す。駒込の隱居は巧にこのはやり雄をあしらひて、遲早はとも格も一事起候は無疑被存候。玉藥と粮米は何分今の中御手當かよろしく、米には不限、麥科にても豆にてもよろしく、今に高直に相成候得者、御買入も御損と存低0今の中可然事に候。-何程甲胄玉藥劔鎗有之候而も、空腹に相成候ては用はなし兼候事に候。とぞそゝのかしける。されど三年立ちても、五年立ちても兵は起らず。駒込の隱居は終に軍を見ずして世を去り、徳川の運も尙十五年盡きず。江戶灣には一度も外國と炮火を交へずして幕府の世を畢りぬ一事起るは疑なしと、水隱光見の明を以て自ら許しゝ程は、今より想像して眼前に看るが如くなれど、事實は反對の方向に進みて、此の豫言者の味方と爲らず。政論家の推測の多く外るゝは、昔も今もかはらぬ狀なりけり。さはあれ其の先見に感服したるは、ひとり越前のみにあらで附錄他にも多くありぬべし。高直の米を買入れて損したる人は無かりしにや。○ペルリの渡來は我が國に重大なる響影を與へたり。さりながら詮する所その來りし使節はペルリにても誰にても我が國の響影に大差なく、其の來りし國は亞墨利加にても英吉利にても、亦わが國の影響に大差なし。唯その來りし船の蒸滊兵船四艘といふ事實こそ眞に我が國の人心を刺激したる第一の要件なりけめ。是れ史家のよろしく留意すべき所なりけり○若し其の來りし船にして櫓楫を賴める木船の在來わが國の沿海に浮べるが如きものならんには、よし千石船と凌がん巨舶たりとも、我が邦人いかで當時のごとく驚惶する事のあるべきよし又蒸滊兵船にしても僅に一艘ばかり來たらんには、如何に心甘き伊勢守とても斯く平穏〓〓とのみは扱はざりしなるべしC.之れに反してベルリの豫期せしが如く、果して四艘の上に更に數艘の多きを加へたらんには、我が國人の魂を奪ふこといかばかりぞや。恐らくは、ペルリ明年返答の猶豫を與へずして、即時にその要求を貫徹せしなるべし。船質と船數との影響至大なるを看るべし。附彥根詠草(別)二二八八年の交暫く歸郷の際有感(明治二十八年の暮)春をまつ谷間の松に吹おろすみねのあらしのいとヾ寒けき錄新年(明治二十九年)比良伊吹ゆきは朝日に匂ひつゝ近江の海に年は來にけり寄山祝(同年) (一五四)
高砂のモリソン山に不二の根の低くなりしぞめでたかりけるいや高く不二に立越すモリソンにまたもたちこす山ほしきかな明治二十九年元旦佐和山神社梅の下にて去年のけふ手折りし梅を訪ひ來ればまだつぼみさへ綻びもせず明治二十九年一月二十四日雪中中村翁を訪ひける途中櫻田、のむかし忍びて行袖にけふしも雪のちりかゝりけり三月一日述懷(明治二十九年)紅のちしほにそめる白雪は君がこゝろのすがたなりけり同日天寧寺なる直弼君の墓に詣でしに松の木末に烏鳴たづね來る人のあとさへなかりけり木末の鳥の聲のさびしき附鎌倉詠草(明治三十二年四月以後)今年四月鎌倉に來りてのち折にふれて口すさみける歌二つ三つ草も木も萠ゆる野山に杖曳きて松原越しに海を見るかな見渡せば相模の海に波立たで大島山に煙たつなり錄小夜更けて磯打浪の音聞けば外山の松の聲もするなり來れば去りされば又來る浦波をながめながらに君をしぞ思ふ(贈勿限子)蟲の鳴草葉の露の玉にさへ神のひかりは見えぬるものを(同)茅蝴の聲を聞くだに思ふなり今しも君は何してんやと(同)乳もとむ兒の泣聲に夢さめて一夜を千々に思ひあかしつ兒をもちしのちはなでしこ女郞花見るこゝちさへかはりぬるかな塚になく蟲の音いとヾあはれなり昔の人の夢をおもへば海舟翁逝きけるとき詠める今はまた何をながめん老松の打寄する波に絕間はなかりけり出潮ひきしほ潮はかはれど遠山に入りし夕日のかげのこす高峯の松にかゝる三ケ月附波〓き浦邊にすめる我が身にも忘れがたきは都なりけり(贈勿限子)拂ふかと思へば又もつもり來て心の塵はつくる間もなし(同)海山も松吹風〓何かせん我友ばかりたのしきはなし語るべき友なき里の松風はせんかたなげの友にぞありける立ちながらしばし語ると思ふまに雲かくれぬる秋の不二の嶺錄
かれてさびしきむさしのゝ原勝と小栗とは、常に意見合はで中あしかりしとなん。勝は西郷に似たる所あ5.小栗は大久保に肖たる所あり。若し小栗に命を延べて、明治の日本に方を盡させたらんには、其の功を樹てんこと勝の上にやあらん。又近詠二つ三つ眠る見の顏をつく〓〓ながむれば月見るよりもこゝろすむなり江にのぞむ松のかげより白鷺のたつやと見れば舟のすぎゆくいつ見てもかはらぬ富士のすがたよりつねなくかはる雲の妙なる朝な夕な浦べにいでゝ見ながらも(四五四)あかぬは波のすがたなりけり附錄附此書印刷成れるを見て編纂者の一人あらはれぬ玉の光のをしまれてかゝるかたみもうらめしき故同他の一人亡き人に見せたや今日の魂祭錄家康と直弼大尾
有所權作著明治卅四年十一月二十日印刷同二二二一八六一七三一三九一〇四八一八〇六一六〇五五五四五二五一五〇三九三〇三三11小傳七頁号)圈此歷內一一三三八一行正三一二九三三三五九1五-.二一三一四一五に發行年十一月廿八日發行なる巳待已身に鬼は此者駁唯出房食池勸此赤かかね侯儀之〓强敵にリととて誤誤者茶車なり己侍巳嚴身と鬼武者誰女房かね倉地勢無亦正とて候之儀强敵の横なり印刷所發行所印刷者發行者著作者四五二四五一三八四三七七三二四三〇〇二九三二六六二五五二三〇頁東京市京橋區西紺屋町廿六七番地東京市日本橋區通四丁目⻆東京市京橋區西紺屋町廿六七番地東京市日本橋區通四丁目五番地靑和大久保余所五郞會社株式春秀田木(電話新橋十八番)陽電話本局五拾壹番英む舍堂弘免家康と直弼實價金壹圓廿錢上上一三下一二上二下二上四上一八上一六行五一響影婚同苦勞盆天は道で措誤三影響購.問煎勞苦に趣味は天過にて惜正
「新小說」は小說と主とした學、藝術、社會に關する饒味有益の記事に富む日本第一の大雜誌なり。◎本誌に執筆せらるゝ諸大家には紅葉、露伴、柳浪、眉山、天外、鏡花、風葉、曙山、春葉、秋濤、鶴伴宙外その他十餘名あり。小說欄には每號に領效篇の作を新舊脂大家に起草を乞ひて之れを揭ぐ。雜錄欄背には高尙鈎主の文と平易饒味の記事とを併載して上下一般の歓迎にかざるべし時、文欄(るへしは宙外氏が公平穩健の筆を以て廢横に現時の文界を評論して餘さゞ文苑欄載して光彩陸離には諸名流の新体詩、美文等を採謀し、傍ら寄書の俊秀なる物を併海外文壇{は欧米各國に於ける文界の越勢、思潮の張落、文士の動悸、著書の組介を爲すべし譚叢欄」は社令各方面に涉りて一代の名家と稱せらるゝ人々の話說を筆記し一て風丰意氣共に躍々、又此の以外の珍談奇聞をも揭ぐ諸國噺一は全國の名所、舊跡、傳說、口碑俗謠、但歌、名人の逸話等か募諸國土産集して揭載するもの藝苑欄には演劇、相撲、落語、講談、淨瑠璃その他百般の雙道に關する多一趣味の記事を收む流行欄一衣服、挿滿を以て記事の足らざるを補ふ風俗、裝飾品その他社會百般の流行を精細に報道し、巧妙の社會欄には社會各方面の說利周到なる觀察記にして、の足らざるを和ふ。傳神の被〓を以て文社會に關する饒味有益發兌元露伴、鶴伴柳浪、眉山、宙外その他十外宙藤後任主 編 編每月四道橋本日京東(番一十五局本話電)角日丁春陽堂回壹日發行實價間金貳拾錢·六冊前金一圓十錢〓二冊前金二圓十錢外に郵稅一册金二十錢

006372-000-7 93-34家康と直弼大久保湖州/著M3 4 ACK-00 59

 で、どうしたらええねん。

 

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