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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する186 夏目漱石『明暗』をどう読むか35 清子はただの「元カノ」ではない

 昨日はお秀の大演説が単なる兄妹喧嘩ではないという話を書いた。実際漱石はやはり偶然とか因果ということを考えながら書いている。

意外以上の意外に帰着した

 単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後でも、それが偶然の廻り合せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果を迹付けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負て立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚しい点は容易に見出されなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 お延には「それが偶然の廻り合せのように解釈されるだけであった」のだが、指輪のことを念頭に置けば、必然的なことでもあり、小林に引き留められてなんだかんだあってのことまで含めて考えると、偶然なのか必然なのかよく分からない出来事なのだ。

 漱石は冒頭からずっとこのことを問い続けている。偶然か必然か。あるいはそれは物事の見え方なのか、世界の成り立ちの本質なのか。

 いや、これは買い被りとか冗談ではなく、どうも漱石は真面目にそんなことを考えていたようなのだ。そして漱石は因果律というのはものの見え方だと一応は考える。

    〇物、我(dual)
通俗  〇時間、空間、数
    〇因果律


    〇物我(oneness)━succession of consciousness
真実  〇Life

断片四十二

 このアイデアは『文芸の哲学的基礎』にまで敷衍する。『明暗』においてなお、津田は通俗の世界に留まっているのだが、特筆すべきは矢張り通俗とは言いながら、主格がカメラを連れて浮遊することで、津田だけの世界ではないもの、お延だけの世界ではないもの、堀の世界でもあり秀子の世界でもある独特の空間が描かれるという細工だ。
 そして百十章で秀子を病院の玄関まで見追った都合上、百十一章の冒頭のこの場面でカメラは又お延の方についてきてしまっている。なかなか忙しいことだ。

叔父の議論好きなところ

「彼奴は理窟屋だよ。つまりああ捏ね返さなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
 津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。

(夏目漱石『明暗』)

 お延は驚いているが津田由雄は落ち着いている。つまり「どうしてって、藤井の叔父の傍にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」というとおり、藤井家というものがそういう場であることを知っていたからであろう。

 ここで藤井という男がいったい何者であるのかが気になるところ。漱石がそう仕向けているところ。

 これまで私は藤井は社会主義者ではないかと疑ってきた。津田由雄が読んでいる独逸語の経済書が『資本論』ではないかと疑ってきた。お延は秀子を基督教徒ではないかと疑う。津田由雄はそれを完全には否定しないで、藤井の影響で理屈屋になったと言っている。では自分自身はどうなのかと気になるところだ。

 これまで津田由雄はさして議論好きというところを見せていない。津田はカウンタータイプで、皮肉な突込み屋だ。自分からぐいぐいくる小林やお延とは違って、相手に何か云わせて齟齬を正す戦法だ。これを単に会話のスタイルの問題と考えればそれまでだが、このスタイルが社会に向かえば社会主義者になるのではなかろうか。その点お秀の大演説も「嫁を可愛がるのもほどほどにして家族の親切に感謝しなさい」と、その中身は保守的な旧弊なものだった。だから藤井との議論の練習が出来たのであって、思想信条においても津田由雄と藤井は近く、お秀とのような議論にはならなかったのではなかろうか。


朧気に薄墨で描かれた相手

「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気に薄墨で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾が、ああまで際どくならずにすんだなら、お延は行きがかり上じょう、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探らなければならない順序だったのである。

(夏目漱石『明暗』)

 百十二章でもまだ、カメラはお延に寄り添っている。津田はもう目覚めているのに、なかなか主人公に戻ることはできない。

 ここで「朧気に薄墨で描かれた相手」とは二章で「あの女」と呼ばれ、百三十七章で「清子」と呼ばれる津田由雄の元カノであることは再読者には明らかなのだが、お延はこの時点でその事実を知らない。

 しかし改めてそう確認してみると、小林の「よく気をつけて他に笑われないようにしないといけませんよ」という忠告にしても、秀子の「嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」という指摘にしても、ただ単に「元カノがいた」という過去の事実を指摘しているだけのことではないことに思い当たる。

 小林は「笑われないようにしないと」と未来に向けての提言となっており、それが防止できるものの如くに語っている。お延は「していながら、まだほかにも」と現に関係が継続中であるという前提で語っている。

 百三十七章で吉川夫人が「あなたはその後清子さんにお会いになって」と質問して、津田が「いいえ」と答えたのが本当だったとして、少なくとも小林から見れば、津田と清子の交際にはまだ復活の可能性が十二分にあり、秀子から見れば津田と清子の交際が完全に終わったとは思えないというわけである。二人の見解は必ずしも一致したものではない。しかし津田の心の中を覗けば津田が清子に未練たらたらなのは明らかであり、小林の言うことも秀子の言うことも決して見当違いの邪推とは思えない。

 つまり津田にとって清子は「元カノ」以上の存在であり、その思いが親しい友人や妹からは透けて見えるような何か具体的なものがあったということになろう。あるいは単なる「元カノ」ではない証拠がどこかにあるのだ。

 その証拠そのものはまだ具体的には現れない。しかしそもそも「元カノ」が自分と別れた理由を知るために温泉宿に追いかけて行くこと自体が真面ではない。津田には清子を反逆者呼ばわりすることのできるほどのしこりがあるのだ。それが津田の独りよがりではない可能性もなくはない。小林とお秀は何かを知っていて、まだ口に出さない。


[余談]

なし。


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