見出し画像

うつかりしたことは云へない 牧野信一の『爪』をどう読むか⑤

 とにかくとても疲れた。すべてが無駄なことのようにも思えてくる。

「まあ何とでも思ふがいゝさ。僕は何も他人に話してゐるのではない。まして道ちやんなど其処に居ようが居まいが、何も道ちやんに同情を求めやうとか心配させてやらうとかなどといふ馬鹿/\しい考へではないのだから……そんな事は云ふのも面倒だ。――若しならなかつたら幸ひだが……どうも俺は……あゝ頭が痛い――」
「そんなに痛むの? ……困つたわね。」道子が当惑の色を現した。彼は何年振りに、道子が他人の為に困惑の情を示したか、殆どそれは彼の記憶になかつた。
 彼は、わけもなく非常に嬉しくなつた。千載の恨みを晴したやうな気がした。然し彼はこの時次に言ふべき言葉を見出すことが出来なくなつた。勿論狂人になるなどゝいふ馬鹿/\しい考へは持たうとしても持てなかつたし、その儘にして置けば当然再び道子のために折角の勝利を目茶/\にされてしまはなければならないのだ――彼は膝に眼を伏せて、何と云つたらよいものかと考へ込んだ。道子は不安気に黙つてゐるけれど、好機逸すべからずの時であるけれど――どうしても言葉が見出せぬ。うつかりしたことは云へないと大事をとればとる程言葉が出ない、――彼は手持ぶさたをまぎらさうとして鏡台の引出を開けると鋏が手に触れたので、それを出した。何気なく爪をパチ/\と切つた。爪が火鉢の中へ飛んでジリ/\燃えた。
「あら! 兄さん! ……爪を燃すと狂ひになつてよ。」道子は慌てゝ――顔色が変つた――彼の手をおさへた。彼女の手先はブル/\と震へてゐた。

(牧野信一『爪』)

 寝ていて転んだものなしとはいう。この理屈はよくわかる。爪を燃すと狂ひになつてよ、とは聞いたこともないし、因果関係がわからない。

 しかし問題は矢張りあなた自身にないだろうか?

 彼の利き手はどちらで、切られられている爪は、手の爪、それとも足の爪、はたまた鷹の爪?

 それに男の部屋に鏡台?


 今日は何月何日?


奇術秘法

 読んでいるそばから今読んでいることが抜けていく、ざるで水をすくうような読みからは何も生まれないとさっき言ったばかりじゃないか。

 言ってない?

 言ったような気がしたんだがなあ。

「ハヽヽヽ。」と彼は笑つた。
「戯談じやないことよ。」
「迷信だよ。」
「だつていけないわ。」道子は飽くまでも真面目だつた。
「昔の人はね、そんなことをよくいふけれど、それには多少理由があるんだよ。今に化学をやると解るが爪の中には酸素の一種で笑気と称する原素が含まれてゐるんだ。それが発散すると、丁度クシヤミ薬のやうに、人にくすぐるやうな感覚を与えるのさ。それから出たのさ。然し笑気といつたつてほんとに人を笑はせる程多量に含まれてゐるわけじやないのさ。分析の結果さういふものがあるといふだけのことさ。」彼は説明しながら尚も爪を火にくべてゐた。
「しまつたことを説明しちやつた。」と彼は気が付いた。折角道子の感情が高潮に達した処を――残念なことをしてしまつた、と彼は思つた。
「さう、やつぱり昔の人の云ふ事には何かしら原因があるものね。」案の条道子は平然としてしまつた。と同時にやつとのことで彼が欺いてゐた事すら凡て棄てゝしまつたやうに道子はいつもの通りになつてしまつた。
「しまつた/\/\。」彼は何辺も/\心の中で繰り返した。然しもうおつつかない。彼は此上もなく残念だつた。指が無意識に動いて爪を切つてゐた。爪は幾つとなく火に燃えた。……道子は笑ひながら見てゐる。

(牧野信一『爪』)

 爪はケラチン。

 笑気は一酸化二窒素。

 たいていの人の指は十本。

 利き手の指の爪は鋏では切りにくい。

 この鋏は和ばさみだろう。

 クシャミ薬というのは聞かないが、当時は盛んにクシャミを引き起こす毒ガスの研究がされていた。

毒瓦斯 赤野六郎 講述京都府立医科大学衛生学教室 1941年

 牧野はそのことを言っているのであろうか。

 それにしても「道子は笑ひながら見てゐる」という気持ち悪さ。それはまるで新着記事に一つだけスキをつけていく馬鹿のような気持ち悪さだ。

 とりあえず「彼」の話は出鱈目として、妹はまだ「化学」もやらないのに、化粧はしていることになる。

 この二人は一体幾つと幾つなのだ?

 それはまだ誰にも解らない。何故ならまだここまでしか読んでいないからだ。


 ならさっさと続きを読めばいいだけのことじゃないか。

 それもそうだ。

 中板橋のおでん屋はこんぶが35円だ。

 これは安いと言えば安いが、わざわざこんぶは食べないしな。

 一番大きな親指の爪を三日月の様に切つて、徐ろに彼はそれをつまんで火の中に落した。ジリジリツと音を立てゝ燃えていつた。ほんのわずかな煙りがフツと昇つた。
 ――もうどんな仰山な真似をしたところで徒らに道子の冷笑を買ふばかりだ、と思ふと今更彼は悲しさが込み上げて来た。さう思ひながらも彼は爪をとつてゐた。道子は無論平気で菓子を食つてゐる

(牧野信一『爪』)

 君は三島由紀夫か。「最中と菓子パン」か。

 菓子ってなんだ?

 そりゃ菓子にもいろいろあることは知っている。

 それはシュウクリイムとは別の菓子なのか?

 道子は風呂上りにどれだけ食うつもりなのだ。爪の焼けるにおいをかぎながら。

 太るぞ。

 もう太ってゐるのか?


 のばさうと思つてゐた小指の爪も、知らぬ間に彼は切つてゐた。軽い自暴自棄が彼の胸に拡がつて来た。これでもう全部切つてしまつたのだ。――爪は又かすかな煙りをたてた。――再び得られぬこの瞬間! なるやうになれ、と彼はこゝぞと思つてニヤニヤツと凄い笑を洩して、道子に見せた。芝居にならぬことを内々切望しながら。
「チエツ、何さ!」道子は快活な嘲笑を彼の真向から浴びせて大きな声で笑つた。芝居になつてしまつた、然も喜劇になつてしまつた、と彼は思ひながら両脇に酷い冷汗を覚えた。で彼は今迄の仰山な真似を取消すべく、
「何でもないのさ。」と道子に合せて快活に笑つた。

 その夜彼は寝ながら呟いた。
俺は道子の奴に惚れてるんだ。」

(牧野信一『爪』)

 完全に負けた。落ちは道子の狂気ではなかった。やはりおかしいのは「彼」の方だった。しかも最後は妹に惚れるというタブーに走っている。そうなると小指の爪を伸ばそうと思っていたことや、道子に何を見せたのかということはどうでもよくなる。

 いや見せたのは、爪であろう。つまり、「彼」はアントニオ猪木のように指を伸ばした両手の甲を道子に向けたのだ。「彼」の呟きはまた耳ざとい道子にはっきりと聞き取られてしまったかもしれない。それは「彼」にとって完全なる敗北を意味する。いやむしろ「彼」は妹のあざけるような冷笑を求めるマゾヒストなのではないか。

 忘れてはならないのは爪はやがて伸びてくるということだ。再び得られぬこの瞬間は二週間もたてばまたやってくるのかもしれない。その時まだ道子が「彼」を「兄さん」だと認識していればの話である。

 再び得られぬこの瞬間と書いた牧野は、これが「彼」と道子の間で屡々繰り返されてきた遊びであると知っていたのかもしれない。しかしこのことはまだ誰も知らない。何故ならまだ記事を公開していないからだ。

[余談]

彼は何年振りに、道子が他人の為に困惑の情を示したか、殆どそれは彼の記憶になかつた。

(牧野信一『爪』)

 他人?

 身内じゃないの?

 牧野信一の作品は読む側の立ち位置と言うか距離感、そういうものがとりづらい感じがする。

 それからまず何もつけずに召し上がってくださいってあるじゃない。あれ、絶対ソース付けた方がおいしいよ、と通りすがりの人に言われると、何と答えていいのか困る。たまにTVKでビルボードトップ40なんか観ると誰一人知らなくてギリ、テイラー・スィフトなんかが出てきてほっとするよね、と答えればいいのだろうけど。

 そんな感じで。

 エスケープキー長押しでいいんだよ、と上から目線で言うわけにもいかないし、テレビショッピングのタレントのように大げさに持ち上げるわけにもいかない。

 レモンを絞っても美味しいですよ、とか、雨の日に助かりますねと言う感じもしない。朝日奈央の無駄に透けている衣装のようにとりとめもない。フンクイのようなものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?