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頭巾きて蒲団に包む大蛇かな 夏目漱石の俳句をどう読むか96

蛇を斬つた岩と聞けば淵寒し

 湧が淵三好秀保大蛇を斬るところ、と添え書きがある。

 これに対して岩波の解説は「大蛇を退治したのは土地の豪族で鉄砲の名手だった三好蔵人秀勝である」としている。根拠は『愛媛県百科大辞典』だそうだ。なら新田義宗もちゃんと……。

 これ関係ないか。

温泉郡誌

 こういうことか。三好長門守秀吉長男三好蔵人之助秀勝。之助がぬけとるやん。あかんでそんなもん。直す時にはびしっと直さんと。

 三好長門守秀吉の長男蔵三郎人秀勝って書いている人もおるし、どないなってん。

 そんなもん案内の看板あるやろ。なんや看板にそう書いてあったんか。ならしゃあない。

 いや、しゃあないちゃうで。鉄砲の名手が何で斬るねんいう話や。なんで漱石はわざわざ名前を間違えて「斬つた」ことにしたんや。

 これ、おかしいやろ。

 絶対なんかあるわ。それを岩波は「退治」でごまかしとるな。それがあかんがな。

 それにしても漱石の句は歴史の虚構性を鋭く言い当て、まるで伝説に踊らされているふりを装いながら羽柴秀吉が天皇家の遠い親戚であるなどという戯言を批判しているようではあるまいか。

 と言うほどでもないか。

 と言いながら、国立国会図書館デジタルライブラリー内で「三好秀保」の文字列は漱石の句にしか見つからない。誰かと間違えた?

 となるとやはり、豊臣秀保と豊臣秀勝を意識したとしか思えない。なんだかまた歴史ミステリーな感じがしてきた。

 しかし蛇が撃たれたのであり、撃ったのが三好長門守秀吉長男三好蔵人之助秀勝であったとしてあくまで「聞けば」なので、誰か嘘を教えた人がいたわけだ。知ったかぶりの。ハートフィールドなんてアメリカ人も殆ど知らないと言ってみるような知ったかぶりが。

 まあ、

蛇を撃った岩でなくても淵寒し

 なんだろう。冬なんだから。

飯櫃を蒲団につゝむ孀哉

 さあ解らないぞ。解っている人もいなさそうだ。例の無言の鑑賞にさらされている。

 孀は女やもめのこと。つまり漱石のことではない。「飯櫃を蒲団につゝむ」の解釈が難しい。

飯櫃を金庫にしまう孀哉

 こう、人にとられないように用心しているという意味なのか。

飯櫃で蒲団を温める孀哉

 こういう意味なのか。人肌の恋しさを詠んだのか。なら裏返して漱石自身の心情だろうよ。
 しかしこれを、

飯櫃を蒲団につゝむ鰥夫哉

 と男やもめにしてしまうと少し生々し過ぎるので、孀に転じたものか。

こんにゃくを多めに煮たる鰥夫かな

 みたいになるのを避けたのか。

煨芋を頭巾に受くる和尚哉

 これは見たままの句か。焼き芋が熱いので、頭巾を広げてその中に転がしている様子。通りがかりに近所の檀家から焼き芋のおすそわけがあったというていか。

盗人の眼ばかり光る頭巾哉

辻番の捕へて見たる頭巾哉

 こうしてモチーフは和尚から頭巾に転じられて、空想的に詠まれる。道具から衣装へ、そして人物へと転じた頭巾は、再び衣装に戻る。

頭巾きてゆり落としけり竹の雪

 何のためにわざわざ竹の雪を落とさねばならないのかは解らない。

 子供?

 子供ならやるだろうか。しかし「きて」だから「して」とは違うわけだ。ここはなんだろう。解説には「頭巾きては頭巾をかむって」とある。まあ、かむる、か。

 これらの句は皆言葉遊びと想像の句であろう。ただそういうものを見てきたように詠んでいる。自分の眼で見たものしか信じられない人であれば、こんなものと思うかもしれないが、

「さあ――生きていると云っても、私が見たのでなければ、信じられません。」
「見たのでなければ?」
 老紳士は傲然とした調子で、本間さんの語ことばを繰返した。そうして徐ろにパイプの灰をはたき出した。
「そうです。見たのでなければ。」
 本間さんはまた勢いを盛返して、わざと冷かに前の疑問をつきつけた。

(芥川龍之介『西郷隆盛』)

 実際に自分の眼で見たものだけが現実とは限らない。

 辻番の捕えたのは盗人ではなく竹の雪を落としていた子供かもしれない。和尚に焼き芋を渡したのは盗人で、辻番は三好秀保なのかもしれない。何もかも不確かだ。私の今夜のおつまみだけは確かだ。それは……

[余談]

 やはりなんか歴史をいじっている感じはあるよな。真っ向から批判するんではなくて、すれすれで遊んでいる。



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