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芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか④ もう少しチャッチャと読もう 

また先に書いちゃって

 それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子の間には、まるで二羽の蒼鷹が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙もない睨み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類が、大御嫌いでございましたから、大殿様の御所業に向っても、楯を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言鋭い御批判を御漏しになるばかりでございます。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 いやいや。また先に書いちゃって。「大殿様の御隠れになる時まで」「睨み合いがずっと続いて居りました」ということは大殿様と若殿様の間では表面上はいさかいが起きなかったということになる。これはこの時点で話の展開が決まっていなければ物語に制約を加えることになり、あまりよろしくないことだ。

 作家には三島由紀夫のように最後の一行まで決めてから書くタイプと村上春樹さんのように適当に書いていくタイプがある、とよく言われるが、三島由紀夫の『金閣寺』などは最後犯人を殺す予定だったものを生かしてしまった。芥川は『邪宗門』においてはさも先々まで決めて書いているようなそぶりを見せるが、おそらくそんなこともなかろう。

 何故なら『邪宗門』は未完に終わっているからだ。これは先々のことがまだ決まっていないのにあれこれ制約をつけすぎた結果なのではなかろうか。


金色夜叉 続編 尾崎紅葉 著春陽堂 1903年

 何でも好きに書けと言われるよりお題があったり、制約があったりする方が短いものなら書きやすいということがあるかもしれない。しかし芥川は『邪宗門』で長いものを書こうとしながら、何故か敢て制約を増やし続けている。

 それは若殿様の性格に関しても言えることだ。万事控えめな若殿様の性格では、自分から攻めて行くことが出来なくなる。相手から攻めて来られないと事件が起きない。そうなると相手が攻めて來る明確な動機が必要になる。原則他人は他人のことなどどうでもいいので、消極的な人間には事件が起こりにくい。

なるほど口は悪いな

 いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私に御向いになりまして、「鬼神が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑しそうに仰有いましたが、その後また、東三条の河原院で、夜な夜な現れる融の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有ったのを覚えて居ります。

(芥川龍之介『邪宗門』)

※「話のあとを打たせる」→「話のあどを打たせる」? 「うっせいわ」のAdoはここから。

あど [1] 【迎合】 (1)(普通「アド」と書く)狂言で,主役(シテ)に対する相手役。複数の場合は,主(オモ)アド・次(ジ)アド,あるいは一のアド・二のアドと呼ぶ。 →仕手(シテ) (2)相手の話に調子を合わせて受け答えすること。あいづち。[日葡]

大辞林

おも·あどといふ名稱は、後世は狂言方にのみ用ひられ、シテ·ワキの意に用ひられてゐるが、かやうな名目は平安時代からの用語であり(あど打つといふ詞は大鏡に見える)、平安時代は猿樂上の用語であつたものと考へられる。


能楽源流考 能勢朝次 著岩波書店 1938年

 なるほど口は悪いな。これが災いを導くという筋書きか。「づれ」とは、

づれ【連れ】
〔接尾〕
(体言に付く)
①同伴の意を表す。「三人―」「親子―」
②卑しめる意を表す。…のようにつまらないもの。…風情のもの。狂言、靱猿「猿引―に御用は御座るまいが」。「足軽―」

広辞苑

 つまらないものの意味なので、普通父上にはつかない。「父上づれ」と言えば「父上如き」に近いニュアンスなので、親子とは言え、昔の日本ではちょっとあり得ないくらいの言いまわしだ。

 それにしても軽々しく「百鬼夜行」だの「融の左大臣の亡霊」だのを持ち出すことによって芥川は自分を追い込みすぎてはいないだろうか。お化けは一匹で沢山だ。やみくろとリトルピープルと騎士団長が一度に出てきたらやかましい。さらにどんどんお化けが出て來るとインフレーションを起こしてしまう。

 また結果として大殿様をお化けの上位に据えてしまっているので、後が続かない感じがしてしまう。こういう言い方もどうかと思うが読んでいる方が窮屈になる。

性格が歪んでいないか

 それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛しなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反って手を合せて、権者のような大殿様の御牛にかけられた冥加のほどを、難有がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司を轢き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺じゃ。轍の下に往生を遂げたら、聖衆の来迎を受けたにも増して、難有く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居るようでございます。この後とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦までも伝える事でございましょう。」と、素知らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我を御折りになったと見えて、苦い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 若殿様は単に口が悪いだけではなく、性格がかなりねじ曲がっていないだろうか。これは単に大殿様が中御門の少納言を殺害したという疑惑を持っているから、というところには納められない感じがする。

もう御代替り?

 こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃の匂いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替りがしたと云う気が、――それも御屋形の中ばかりでなく、一天下にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌しい気が致したのでございます。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 第四章でもう代替わりをしてしまう。つまり大殿様は中御門の少納言殺害事件の真相を明らかにすることもなく、また中御門の少納言家に代々継がれる大食調入食調の譜を手に入れたいきさつも明らかにならないまま、言葉少なに退場してしまったことになる。

 まさに中御門の少納言の死は「が、それは先ず、よろしいと致しましても」と軽んじられ、大殿様は疑惑だけを残したまま脇役として退いていくことになる。

 いや、「だけ」ではない。

 もしも御門の少納言の一件がなければ、若殿様は「父上づれ」とは言わなかっただろうし、二人の関係もこじれず、また「なぜ車の輪にかけて、あの下司を轢き殺さぬ」と言うほど性格も歪みはしなかったのではなかろうか。堀川の大殿様は多くを語らぬうちに退場したが、後に怪物を一人残してきたのだ。

 しかしその怪物が何をするのか、まだ誰も知らない。それは私がまだ第五章を読んでいないからだ。

[余談]

 うーん。少し調べてみたけれど「あと」と「あど」の件、やはりおかしい。こんなところを芥川が勘違いする筈はないのだ。なんなら谷崎潤一郎
が注意しないものか。『邪宗門』の原稿は今、誰が持っているのだろうか。確認して直しが出来ないものだろうか。

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