人が履いても猿股 芥川龍之介の『猿』をどう読むか①
大正五年八月、芥川龍之介は『芋粥』を書いた。『芋粥』は翌九月に雑誌「新小説」に掲載された。同じ大正五年八月に書かれたはずの『猿』は翌月「新思潮」に掲載された。『猿』は『芋粥』ほど人気のない、芥川にしては珍しい現代小説である。
とはいえ芥川は等身大の学生を主人公にした青春小説を書く気はさらさらない。仮に谷崎潤一郎の処女作を『誕生』や『象』あるいは『刺青』あたりだと見做したとしても、そうした老獪な時代ものに谷崎文学が埋め尽くされるわけもなく、『The Affair of Tow Watches』『あくび』といった青春小説が谷崎にはある。しかしそういうものが芥川にはほぼない。
しいて言えば『手紙』や『蜃気楼』といったほぼ遺作と言っていい作品が青春小説であろうか。この若い書き手は、果敢にも自分には経験のない海軍士官候補生になりすまし、誰にも上げ足を取られないように、物語を組み立ててみようと試みる。
それは誰にも確かなことが言えない平安前期の物語を組み立てるよりも剣呑なことなのかもしれない。現に海軍士官候補生としてそういう生活の中にある人間が存在していて、何かちょっとした齟齬を見つけられてしまうかもしれない。
だからこの若い書き手は大饗のメニューを確認するような周到さで、「例の」と言われる喇叭のしきたりをどこかで耳学問したに違いない。
整列するのが上甲板であること、盗難事件の始末をつける役目が副長である事、軍艦に時計屋が銀側時計を売りに来ることなど、そうしたあることを知っているだけではこうは書けない。ここはないことにも気が回らなくてはならない。これは入港三日目の午後の話である。入港即上陸とはならない、という手順のようなものがどこかにあり、そこは明確ではないけれど、とにかく三日目なのである。
この三日目という意外な数字で、芥川は読者に圧をかける。なめて貰っちゃ困りますよと。こちとら大天才作家でございますよと。三日目と書かれているから読者は仕方なく、「へー艦内で盗難とかあると、副長が持ち物検査とかするんだ」と納得するよりない。町の時計屋が銀側の懐中時計が二個紛失というのは、何か時計屋側のへまのような気もしないでもないが、軍艦の規律としては集団生活をするために窃盗犯は見逃せないのだという理屈は理解できるように思う。互いに命を預け合うような職場なのに、泥棒がいてはたまらない。
この若い書き手はそこの理屈をくどくど並べ立てることなく、さっさとひん剥いていく。
何故これから遊びに行くのに春画持参なのか、サックは船を降りてから買うのでは間に合わないのか、そちらに気が紛れて一体どこまで裸なのかというあたりはごまかされてしまう。なにしろここは蟹工船と同じ男だけの世界である筈だ。少しでもそちら方向へ話がぶれてしまうと後が厄介なことになる。三島由紀夫ならばここで、上甲板に整列した男たちの裸体の精悍な美しさについて、何か一言でも触れずには気が済むまい。しかしこの若い書き手はそんなものには全く興味がないようにふるまう。そうでなくては佐藤春夫に猿股を貸すことはできない。
だからこの裸の男たちが猿股姿なのか褌姿なのか、若い女性読者の思い描く絵は思い思いに異なるものであろう。「私」と名乗った語り手は、「サツク」などとさらりと股間をイメージさせる言葉を提示しながら、実際にそこに陳列されている股間にはフォーカスしない。『こころ』の「私」が西洋人の猿股にフォーカスしたのとあべこべである。この若い書き手はそんなものにはあまり興味がなさそうだ。
いや、随分興味がありそうだ。ここで例の「アイスクリームは食べたか、ビールは飲んだか」式のレトリックが出てくる。
ちなみに今、機関兵のおちんちん見えちゃったよという人はどのくらいいます?
ちょっと挙手してもらっていいですか?
恥ずかしがらないで正直に。
ああ、なるほど。
じゃ、見えなかったっていう人は?
ぼかしが入った?
それ相当古いですね。今、ぼかしじゃなくて、その人の顔がくりぬかれて張り付けられるでしよう。
ここは物足らなそうな顔をしていた女性読者に対してこの若い作家が少しサービスをしているところだ。「猿股までぬいで、検べるのならどこでも検べてくれと云ふ恐しいやうな権幕です」という書き方では、
・猿股を脱いで股間を突き出していた
・あくまで権幕であり、猿股はまだ脱いでいない
二通りの解釈が可能だ。前者の場合「どこでも検べてくれと云ふ恐しいやうな権幕」なので縮こまっているわけはいかない。「どこまでも」という言葉に値する程度のけみするに値する距離がなくてはならない。あるいは「どこまでも」という言葉から機関兵を後ろ向きにしてしまった読者もいたことであろう。
ここの絵面には正解がない。
ただここで作者はこっそり引き締まった尻に食い込む褌を思い描いていた読者には打っちゃりをかましている。そして『猿』という題名の作品でいきなり猿股が出てきた。
え?、海軍では猿股禁止、……むむむ、やるなあこの若手作家。将来伸びるんじゃない、と気が付いたところで今日はここまで。
[余談]
青のり、高くなってない?
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