フィクションの可能性 芥川龍之介の『影』をどう読むか⑤
昨日はタイプライタアに対する解釈を示し、「白いスバルフォレスターの男」のような怨念がおんねんということを書いた。そもそも『影』が書かれた時点では和文タイプライタアというものは発明されており、ほとんどの読者が和文タイプライターを知っていたはずなのに、英文タイプライタアで日本語が打たれていることはおかしいという問題はこれまで地球上で誰一人問題にすらせず、議論されても来なかったように思う。
近代文学2.0の必要性はここにある。
そして昨日は久々に漱石の『こころ』論をアップデートした。『こころ』は失敗作だと決めつける前にまだまだやるべきことはたくさんあるということだ。同じことは芥川の『奇怪な再会』にも『蜘蛛の糸』にも言える。ここには何のトリックもない。ただ丁寧に読む。それだけで答えに近づくことができる。あるいは近代文学2.0をやっていればお金は自然に入ってくる。皆さんにお金がないのは、近代文学2.0をやらないからだ。
さて芥川は陳彩にどう始末をつけるだろうか、と昨日書いた。
やっぱり陳彩は背が高いのではなく横に大きいのか。
リアリズム小説では提示しえない或哲学的な問題をここで芥川は持ち出している。永井均の比類なき〈私〉も平野啓一郎の「分人」も言葉遊びに過ぎず、人は場合によっては生きたままの生まれ変わりのような別人格としての自分と対峙することがあり得るのではないか、とほんのり幽かに『影』は問うている。この問題は幻覚としてのドッペルゲンガーとして実際に後の芥川龍之介に突き付けられる生々しい呪いのようなものでさえあるけれど、ここではたまたま書かれた小説の設定に留まる。
しかし素朴な記憶の問題として、遠い過去の自分は明らかに別人格である。一連なりの記憶などありえないからだ。人は睡眠によって記憶を整理する。厳密に言えば人格は日々刻々と変化している。誰もが保育園児の素直さを保てない。ただそれが何故なのかは解らないが、どうもこの世の中の仕組みとしては過去の自分と現在の自分とが同時存在することができにくいようになっているように思われる。それが本当に不可能なことなのかどうかは私にはわからない。この問題に関してどういうわけか晩年の夏目漱石はできると考えていた節があり、『明暗』においては、こう書いている。
いかにも軽く引き受けている。まるで知り合いに生きたままの生まれ変わりが何人かいるような口ぶりだ。ここは数々の『明暗』論で完全に無視されているところだ。
この「生きたままの生まれ変わり」というアイデアは則天去私では説明できない。乱暴な冗談のようでありながら、二人の小林が登場し、そして小林が関と堀の病名を知っているらしいことからここに生きたままの生まれ変わりがあるのではないかと私は考えている。
無論漱石にどのような根拠があって「生きたままの生まれ変わり」という概念を持ち出してきたのか、正確なところは解らない。ただ多重宇宙が絶対に交わらないという保証もないのだとしたら、「誰だって違った人間になれっこない」とも言い切れないだろう。あるいは現代では多重人格というものが比較的安易に認められている。その一つの人格がもしも誰かと共有されてしまったらどうなるのだろうか。テセウスの船、クローン、考えれば考えるほど分からなくなる。
それでもここでは芥川は何か根拠があって陳彩を分裂させたわけではなく、あくまでフィクションの可能性として「もしもこうなったらどうなる」と書いているだけなのだと浅く考えてみようか。寝室で妻に何かをした自分と対峙する。「誰だ、お前は?」と自分に向って云うことは簡単だ。鏡を見ればいい。そこには恐ろしく吝嗇な何か醜いものが映っていることだろう。しかし鏡がないとしたら?
この「見ると」の目線は壁際に立った陳彩のものでもなく、床に跪いた陳彩のものでもない。二人の陳彩を眺められるところにいる誰かの目線だ。目を細く書かれることの多い支那人の眼を敢えて大きく見開かせ、カメラはそこをアップにして、やがてアングルを下げて唇を捉えた。と思えばスイッチしてもう一人の陳彩が床に跪くのを捉える。そして最後に引きの画で部屋全体をアングルに収め二人の陳彩を一つの画に収めるのだ。
つまりこれは……。
何だ一種の夢落ちかと思った人、あなたは全然分かっていない。ここで「私」は陳とも今西とも名乗っていないのだ。ただ房子の眼を思い出させる女と一緒に活動写真を見ていた私は先ほどの「見ると」と同じ視点を持っていて、陳の物語には参与していないのだ。ただ陳が鍵穴から室内を覗くために床に這うことを笑い、英文タイプライターをカタカタやると日本語が打ち出されるシーンではにやにやしたただの観客に過ぎない。彼は陳が麦藁帽子以外に何を身に着けていたのかを知っていた筈だ。しかし陳の世界には参与できない観客に過ぎない。
そして彼の隣にいた女はその時は彼が見ていたものとは別の活動写真を見ていたらしい。ただ「その写真なら、私も見た事があるわ。」と訳の分からないことを云う。まるで深田恭子の半ケツなら見たことがあると言わんばかりだ。
なぜこの女が既に『影』という活動写真を既に観ていて今は見なかったのか、何故「私」はプログラムにない『影』という活動写真を観てしまったのか、この問題が「単なる夢」では片付かないように芥川は「その写真なら、私も見た事があるわ。」と女に言わせている。つまり断固として夢落ちのようなものであることを拒んでいるのだ。
陳彩が二つに分裂する謎も解かれない。今西がどこまで捏造をしたのかもわからない。それは低い鍵穴や謎の和文タイプライタアのように読者に投げ与えられたままだ。しかしそんなことはどうでもいいんだよな、皆さんにとって文学は「ふーん」するものなのだから。
そして私は作中最初に現れる「影」の文字が、
こうして「あらわれる」という意味で使われていることに気が付く。そして寝室の明るい電燈の光の中で掻き消されることのないもう一人の陳がけして本物の陳の影などではないことにも気が付く。暗がりでは見えないけれども、もう一人の陳は確かにいたのだ。そもそも陳彩の彩とは彩のことでそれは光の中にあるものだ。影の中には彩はない。
あるいは今西のような男は実際にどこにでも存在するだろう。私も今西には会ったことがあり、ひどい目にあわされた。次に今西が現れるのは君の町かもしれない。
[附記]
よくよく考えるとこれは浮気を疑っても碌なことにはならないという言い訳、自己弁護にも見えなくもない。よくできた言い訳である。
それから今更だけど、今西がコンサイという中国人である可能性は……。
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