見出し画像

芥川龍之介の『玄鶴山房』をどう読むか④ 「ぐるぐる芥川」

 或雪の晴れ上った午後、二十四五の女が一人、か細い男の子の手を引いたまま、引き窓越しに青空の見える堀越家の台所へ顔を出した。重吉は勿論家にいなかった。丁度ミシンをかけていたお鈴は多少予期はしていたものの、ちょっと当惑に近いものを感じた。しかし兎に角この客を迎えに長火鉢の前を立って行った。客は台所へ上った後、彼女自身の履き物や男の子の靴を揃え直した。(男の子は白いスウェエタアを着ていた。)彼女がひけ目を感じていることはこう云う所作だけにも明らかだった。が、それも無理はなかった。彼女はこの五六年以来、東京の或近在に玄鶴が公然と囲って置いた女中上りのお芳だった。

(芥川龍之介『玄鶴山房』)

 人間にはこんなこともできるのだ。

 つまり「死ぬ間際になって」、いかにも重吉目線で語りますよと見せかけたところ看護婦目線にスイッチしたかと思えば、もう看護婦はどこかへいなくなっている。

 お鈴が玄鶴の妾を迎える。

 つまりもうお鈴目線なのである。

 さすがに妾目線であれば引っかかるところ、重吉がいないのだからお鈴が迎えるしかない。

 芥川は「死ぬ間際になって」こんなことをやり始めたのかと全く驚く。何か事件が起こると、あんなことができる子じゃなかったんですけど、みたいな話が出てくることがあるが、芥川は寧ろ、あいつならやりかねないと思っていたがとうとうやったか、というタイプだ。

 そしてここにもミシンやスウェエタアという昭和の風俗が出てくる。今の子供にはスウェエタアというものもあまり着られなくなったが、昔は盛んに着られていた。とは言え『浅草公園』とこの作品にしか出てこないので、最新の風俗というわけだ。文化窯や文化村、ミシンやスウェエタアと意識して新しいさが強調されていることが分かる。

 何故そんなことをしているのか。

 それはまだ誰も解らない。

 何故なら解らないからだ。

 お鈴はお芳の顔を見た時、存外彼女が老けたことを感じた。しかもそれは顔ばかりではなかった。お芳は四五年以前には円まると肥った手をしていた。が、年は彼女の手さえ静脈の見えるほど細らせていた。それから彼女が身につけたものも、――お鈴は彼女の安ものの指環に何か世帯じみた寂しさを感じた。

(芥川龍之介『玄鶴山房』)

「行はれない? だつてあなたの話ではあなたがたもやはり我々のやうに行つてゐると思ひますがね。あなたは令息が女中に惚れたり、令嬢が運転手に惚れたりするのは何の為だと思つてゐるのです? あれは皆無意識的に悪遺伝を撲滅してゐるのですよ。第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鉄道を奪ふ為に互に殺し合ふ義勇隊ですね、――ああ云ふ義勇隊に比べれば、ずつと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思ひますがね。」

(芥川龍之介『河童』)

 このように当時は「女中」は「運転手」のように身分の低いものとして取り扱われていた。「下女」が「婢」であるのと同じ程度の意味で、運転手は車夫や駕籠かき扱いなのであろう。お鈴のお芳を見下ろす視線は厳しいようでもあるが、それは現代的感覚であろう。むしろお鈴はお芳に同情しているのだ。「寂しさ」とは「そうでなければよかったのに」という同情心の表れである。

 それにしてもまだ何ものかが判然としない堀越玄鶴は、不動産成金のわりに、妾をそんなに大事にはしていないなと想うところである。生姜さえできない土地が文化村に変わったのだから、さぞや儲けたことだろうと思うが、案外ケチなのかもしれない、そう思うところである。不動産で儲けた絵描きに囲われた女中のその子供はやはり玄鶴の子なのだろうかと考えてみる。

 まあ、そうなんだろう。

 それは殆どトランクスからはみ出した金玉のような滑稽な存在には違いない。出ばなからくじかれていて、一ドル163円をつけたところで買われたS&P500のように一ドル152円になった今、損をしているとしか言いようのないものだ。

 彼は語らないのか?

「これは兄が檀那様さまに差し上げてくれと申しましたから。」
 お芳は愈いよいよ気後れのしたように古い新聞紙の包みを一つ、茶の間へ膝を入れる前にそっと台所の隅へ出した。折から洗いものをしていたお松はせっせと手を動かしながら、水々しい銀杏返に結ったお芳を時々尻目に窺ったりしていた。が、この新聞紙の包みを見ると、更に悪意のある表情をした。それは又実際文化竈や華奢な皿小鉢と調和しない悪臭を放っているのに違いなかった。お芳はお松を見なかったものの、少くともお鈴の顔色に妙なけはいを感じたと見え、「これは、あの、大蒜でございます」と説明した。それから指を噛んでいた子供に「さあ、坊ちゃん、お時宜なさい」と声をかけた。男の子は勿論玄鶴がお芳に生ませた文太郎だった。その子供をお芳が「坊ちゃん」と呼ぶのはお鈴には如何にも気の毒だった。けれども彼女の常識はすぐにそれもこう云う女には仕かたがないことと思い返した。お鈴はさりげない顔をしたまま、茶の間の隅に坐った親子に有り合せの菓子や茶などをすすめ、玄鶴の容態を話したり、文太郎の機嫌をとったりし出した。………

(芥川龍之介『河童』)

 自分の子供を「坊ちゃん」と呼ぶのは、それが偉い人の子であるからか。

 そう思えば「清実母説」というものにももう一つこまかい応援が加わった感じがある。然し何とも細やかな人間関係が「死ぬ間際になって」現れてきたものだ。お松の悪意のある表情とは、自分は女中はしているが妾にまでは落ちていないという蔑みか。「あんな耄碌爺の子供なんか生まされて」とでも思っているのか。「よくあんな萎びたちんぽこが役に立ったものだ」と今更ながら感心しているのか。このお松の表情がお芳に見えていないところが絶妙である。いや目線は一旦お芳に転じていて、ここでお鈴は表情を見られている。

 それもそうか。堀越家に入るところからお芳目線だといかにもアクロバティックになるところ、一旦目線をお松に転じたことで、さして不自然さもなく、お芳目線に切り替わっている。説明すると目まぐるしいようで、少しのわざとらしさも感じさせない。それでいてこれまでの芥川作品には見られない、新しくも巧みな著述形式である。これは是非とも新しい呼び名をつけなくてはなるまい。……そうだな、これは「ぐるぐる芥川」こう呼ぶことにしよう。

 さて「ぐるぐる芥川」がこれからどう転じるのか。文太郎に自我の目覚めはあるのか。にんにくはどんな料理に化けるのか。それはまだ誰も知らない。

 何故ならここまでしか読んでいないからだ。暑くて読むのも大変なのだ。

[余談]

 自分はついていないなんて思えるうちが花だよ。

 本当にひどいときには何も感じない。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?