芦ノ湖や猫も杓子も時鳥 夏目漱石の俳句をどう読むか40
五反帆の真上なり初時鳥
五反帆は「ごまいぽ」と読むようだ。
いや「ごたんふ」なのか。
春風や五反帆川をさかのほる
まあ、「ごたんぽ」かなあ。
この歌は五反帆の船が進んでいく真上に時鳥が飛んでいるよ、という程度の意味なのだろうか。
ただ五反帆の船に乗り込んでいて空を見上げたら時鳥の腹が真上にあった、と読んでみるとなかなか勢いの感じられる句である。「真上なり」が効いていて、おもしろい句である。まあしかしこの句も実景ではあるまい。
裏河岸の杉の香ひや時鳥
解説に「裏河岸の貯木場風景か」とある。
子規の解釈も「生きとる木のやうだ」ということなので、やはりこの杉は材木、丸太であろうか。にしても最期の「時鳥」は無理やりではなかろうか。まあ時鳥がどこを飛ぶのも自由だが、何でも時鳥で片づけてしまうのもいかがなものであろうか。
杉の匂と時鳥は関係ないように思える。
裏河岸の杉の香ひや冷蔵庫
裏河岸の杉の香ひや洗濯機
裏河岸の杉の香ひやゆで卵
猫も聞け杓子も是へ時鳥
子規の評価「◎」。これはいけない。
爺も婆も猫も杓子もをとり哉 蕪村
月更て猫も杓子も踊かな
今の世や猫も杓子も花見笠 一茶
ちょっと子規らしくなく評価が甘くなっていないか。ただの言葉遊びである。こんなことだから漱石の俳句は我鬼先生に馬鹿にされるのである。
湖や湯元へ三里時鳥
これも時鳥でなくともよい句。
なんとなく、芦ノ湖か! と突込みたくなる。時鳥はあくまで付け足しで、なにがしかの意味が汲み取れない。外国の人はどう思うだろうか。
時鳥折しも月のあらはるゝ
それはあんたのさじ加減や、という句かと思ったら、なんで夜何ん、と思い直す。
明星のちろりに響けほととぎす 我鬼
こんな芥川の句に影響を……受けるわけはないのだが、果たして時鳥はギャーと叫んだのか、
それともケキョケキョケキョと鳴いたのか。
五月雨ぞ何処まで行ても時鳥
もうこうなると、あえて時鳥と詠んで、その無駄なしつこさを笑いに変えようとしているように思えてくる。
この句は五月雨の中をどこまで歩いて行っても時鳥がついてくるというのか、どこまで歩いて行っても時鳥がいるというのか解らない。
これはむしろ実景ではないところで、五月雨のようにいつまでもだらだらと時鳥の句が出てくるよ、という意味の句であろう。
時鳥名乗れ彼の山此峠
これは蕪村の、
名のれ名のれ雨しのはらのほととぎす
にちなんだか。
蕪村の句は野生動物に個体ごとの名称が存在するかという科学的な問いを含んでいる。人に飼われた九官鳥の「キューちゃん」が自分に対する呼びかけを聞き取り、自分のことを「キューちゃん」と認識している可能性は大いにある。しかし野生動物同士で、「オレ」「オマエ」以外の、個々の個体を認識するための呼び名が存在するとしたならば、刹那的でない属性が捉えられるか、任意の符号が割り当てられるのか……。
そういう意味では蕪村の句には深みがある。
翻って、山や峠は人の都合で命名されるものであり、意識はなかろう。名乗れるわけがない。
そして時鳥が余計である。
まあ、敢えての余計で、そこに滑稽を見るべきなのではあろうが。
仲間同士の話でみょうなものがツボにはまって笑い転げるという事がある。周囲から見ると何のことかわからない。この一連の時鳥の句に関しては漱石と子規の間で何かツボにはまるような感覚があったのであろう。句の付けあいというものがそういうものだ。ただやはりそういうものが成立するためには仲間同士の慕わしさだけではなく、関心領域の共有や、共通の体験のようなものが必要となってくるように思う。例えば私は徒歩で峠を越えたことがない。漱石は富士登山もした。
俳句には詠まれる環境というものがある。同じ日本にいながら、二月に桜が咲くような世界にいては、漱石の句を読むことはもう不可能なのかもしれない。
もう。
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