コロナ下で考えること

コロナの感染者数が東京を中心に再び(どころじゃない)増えている。最近落ち着いていただけに、また自粛が始まるのかと思うとうんざりする。行きたいところに行けない、遊べない、ストレスが溜まるのに飲みに行けない。いくら感染対策したとしてもたかが知れている。このうんざりする時期、よくSNSで見かけるのが「感染者数ではなく死亡者数と重症者数を見ましょうね、大したことないですよ」と諭すような言葉だ。正直私も状況は悪くないと思いたいし、納得してしまいたい気持ちがある。どこかで、自分が遊んでもいい理由にしたいのだと思う。でもずっと、その言葉にどこか違和感を覚えていた。どこに対してなのかが分からなかった。というか考えないようにしていた。自分が憂鬱にならないためだったのかもしれない。

違和感の正体は、死亡者重症者の人数が、コロナ状況の良し悪しと機械的に結び付けられていることについてだった。例えば「東京のコロナでの死亡者数2人、重症者数12人」と報道されたとき。いくら感染者数が増加していても「重傷者も死亡者も少ない。そんなに状況は悪くない」と思うことが当たり前になっている。科学的にも間違っていないのかもしれない。でもそこには、人の死を数字で表示し、命の重さが完全に無視されてしまうような暴力性が孕まれていないだろうか。「死」というものに対する感覚の麻痺。日本の、東京の、どこかの病院で、たしかに2人の命が失われているのに、それが社会の安心材料になっている。

でも、この違和感にも違和感を抱く。世界では今もどこかで誰かが死ぬのに、私がコロナで亡くなった人の「命の重さ」だけ重視するのもおかしい。私も、「死」や「命」に対する感覚がマヒしているのだろうなと思う。いや、麻痺なのか?麻痺じゃないかもしれない。そもそも「麻痺状態」が通常なのかもしれない。ただコロナ下で人の死に敏感になっていると考えるのが正しいのかもしれない。だとしたら、「麻痺」状態でいることと「敏感」でいること、どちらが選択されるべきなのだろう。人が常に「敏感」でいることは難しい。それでも私は、敏感で居続けたい。「麻痺」への流れに逆らうことが第一歩だろう。

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