『PLAN75』を観た

※以下、ネタバレを含みます。

  最初のシーンで、ある高齢者施設の部屋から、手にべっとり血をつけた男が出て来る。この時点で、入るスクリーン間違えたかな?と本気で思った。でも、次のシーンになって、間違えていなかったことに気づく。男は手に銃を持ちながら、カセットテープに向かって自分の思想、なぜ事件を起こしたのかを喋りはじめる。

  「お金はすべて老人に使われ、その負担を押し付けられているのが自分たち若者だ。だから、沢山殺した。これが社会をよくする第一歩となればよい」

その直後、男は銃口を自らの頭に向け、自殺する。
  

このシーンを、よく知っていると思った。このような事件の背景と思想、社会の震撼のさせ方、最近あった。雨宮処凛著の『相模原殺傷事件・裁判傍聴記』の中にあった植松死刑囚の殺害手順が、自然と思い出された。津久井やまゆり園で起きたあの事件だ。植松と『PLAN75』の犯人の事件を起こした理由はほぼ同じ。あの事件と違うのは、被害者が障害者ではなく高齢者であることと、『PLAN75』の中では男の自殺後、各所の高齢者施設で同様の事件が頻発したことだ。

今の社会は、映画の中よりまだ救いようがある。こんな制度が成立するとは思えない。「もし現実世界で、75歳になったら自分の生死を決められる制度ができそうになったら…」確実に反対の声をあげる人たちの顔が次々に浮かんできた。ツイッターでよく見る言論人、よく話す友達。まだ大丈夫だな、とものすごく冷静に考えていた。でもその安心材料を探してしまうくらいには、社会はその方向に向かっているのかもしれない。自分の不幸や生きづらさを、特定の個人のせいにしたり集団のせいにしたり、自分勝手にラベリングした人たちのせいにする。でもそれは、誰しにもある感情で、もちろん私の中にもあると思う。

もう一つ印象に残るシーンがある。なぜ含まれているのか、意味を考えさせられたシーンだ。「PLAN75」を高齢者に勧める役所の職員役の青年(磯村勇斗)が、公園のベンチの手すりのデザインを大工と話し合うシーンだ。「これは寝転がるとき腰に当たって痛いから良いのでは」とか「この手すりなら頭を下に通せないから、寝転がれない、良いデザインだ」とか、そんなことを何気なく話している。「排除アートだ」とピンと来た。私の友人が排除アートに関心を持ち話してくれたことがあったので、知っていた。私もそれからやっと街中で気にするようになっただけで、それまでは考えたこともなかった。要は、ホームレスの人が物理的に寝転がれないように、ベンチに手すりや出っ張りをつける。自然と、見えない形で、「排除」するのだ。

ではなぜこのシーンが『PLAN75』に含まれていたのか。「75歳を過ぎたら、死を選ぶことができますよ。それはあなたにとっても良いことですよね」。まるで「あなた」のことを一番に考えているかのように、自然と、誰も疑いを持たない形で「あなた」を排除する。
「手すりや出っ張りをつければ、ここにホームレスは寝られない」。いつも隣にある風景に溶け込んだ排除と結びつけずにはいられなかった。
世の中に溶け込む何かが、誰かのことを生きづらくさせる社会は、映画の中でも現実世界でも、そう変わりはしない。

あと一歩思考を進めたら、もっと違う何かが見えてくるはずなのに、なぜ「○○のせいだ!あいつらを社会から排除しろ!」になるんだろう。もはやそう思いたいからそっちに自ら進んでいっているように思う。生きづらい。


※書き足し

2022年8月現在、大阪府ホームぺージには、「高齢者の不要不急の外出自粛」が要請されている。この「あなたの命を守るため」の区別が、とても怖い。区別はどこかで差別につながりはしないか。さらりと見過ごしていい取り組みではないような気がしてならない。


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