冠無量
「あいつは天才だ」
「あんな逸材はなかなかいない」
「これからはあいつがこの世界を引っ張っていくんだろうな」
「なかなか結果に結びつかないな」
「力はあるはずなんだが…」
「実は大したことないんじゃない?」
「期待するだけ無駄だったな」
「注目する価値もない」
「もう勝てねえだろうな」
「あいつは、もう終わったんだ」
また、この夢だ。実体のない弾丸が無数に降り注ぐ悪夢。何度浴びせられても、これだけは決して慣れない。もう何も残っていないことを、無慈悲に突き付けられているような気がするからだ。自信も矜持も栄光も、全てこの手から零れ落ちていった。どうすれば避けられた。何がいけなかった。自分に足りないものは何だ。毎晩そんなことを考えては、床に転がったボールを眺め続ける日々が続く。
かつては「天才」とまで称えられたが、今や見る影もないと自分でも思う。ライバル達が第一線で活躍するのを何度うらめしく思ったか。気がつけば、言葉を交わすことも少なくなっていた。
「おーい、風呂空いたぞー」
「……今行く」
下の階からの呼びかけが、思考の渦から意識を引き戻す。正直、あまり長い時間一緒にいたくはない相手だ。家族は皆、俺を名選手にすべく幼い頃から手を尽くしてくれている。だからこそ、その期待が重い。もう伸びしろのない自分にこれ以上力を注ぐ必要など、どこにもないのだから。ダイニングの続く廊下をゆっくりと歩きながら、悔恨と諦念を少しでも洗い流そうと浴室へ向かった。
「おはよう」
「おう」
他愛ない挨拶を交わしながら教室に入る。さすがに六月後半ともなれば、朝から熱気が肌に張り付いてくる。まだ九時も回っていないというのに汗が止まらない。去年からクーラーが設置されたのは不幸中の幸いか。鞄の中身を机に突っ込んでいると、隣にいる友人がテンションの低い声で呟いた。
「暑っちいな、しかし」
「こんなんで体育やんのも勘弁だな」
この気温に辟易しているのは皆同じのようだ。それもその筈、グラウンドにいれば痛みすら感じるほどの日差しが襲い掛かってくるのである。日焼け止めも気休め程度の効果しかなく、これでは気が参るのも当然である。
「運動部はきつそうだな、一日中日差しの下でさ」
軽音楽部のクラスメートがスマホを弄りながら会話に加わる。分かってくれるか、と言いかけたが自分の現状を鑑みると言葉が引っ込んだ。意欲を失い惰性で部活に行っている今の自分に、苦労や疲れを口にする資格などない。気持ちが顔に出ないように、適当に濁して話題を変える。
「あー……まあな。それより、さっきから熱心に何見てんだ?」
「出馬表だよ。安田記念の」
「競馬か。まさか買うのか?」
「んなわけ。未成年だぞ」
あまりよく知らないが、最近は競馬のゲームが流行っているらしい。それで競馬自体にもブームが訪れていると、クラスの誰かが言っていた気がする。こちらが反応するよりも早く、友人が話を掘り下げていく。
「記念っていうくらいだし、安田さんの祝いで走んの?」
「お祝いかどうかは知らんけど、安田さんって人がこのレースの創設に携わってるのはガチらしい。興味あるなら見る?」
案外安直に名前を決めているのだなと思いつつ、クラスメートのスマホを覗く。そこにはカタカナがずらりと並んでおり、かろうじて馬の名前であることは推察できた。カテドラルやらシュネルマイスターやら、何語かも分からないが強そうな名前が多い。そんな中で、一頭の馬に目が留まった。
「ダノンキングリー…分かりやすく強そうだな。王様か」
「強かったぞ、昔は」
昔は、という一言にやや含みを感じる。なんとなく聞くのが躊躇われたが、友人が更に質問を重ねる。
「今はスランプなのか」
「全然調子上がんなくてなあ。デビューしてすぐの頃は、世代を担う逸材とか言われてたらしいんだけど……前のレースなんて最下位だったし、名前負けしてる感はある」
「確かに、人気も低いな」
「まあ来ても五着とかだろ。勝てっこないわ」
そう言い切って他の馬の話題に移る二人。期待され、失望され、注目すらされない……勝負の世界ではよくあることだが、どうもダノンキングリーのことが頭から離れなかった。
結局家に帰っても、ダノンキングリーのことが気になり続けていた。試しに名前を検索してみると、彼のこれまでの戦歴や安田記念に関する情報が画面いっぱいに表示された。聞いた通り、前に走ったであろうレースは十三着と大敗している。その前のレースも七着で、大舞台で勝てない日々が続いているのは本当だった。
「ボロボロじゃん……」
思わず感想が声に出る。かつての輝きが失われていることは素人目にも明らかであった。あの後クラスメートから教わったが、今回の安田記念はメンバーのレベルがとても高いという。中でもグランアレグリアという馬は別格で、「一二〇〇~一六〇〇メートルならマジで無敵」「並みいる強豪を倒してきた」とか言っていた。
それを示すように、同距離での彼女の戦績は十三戦九勝と凄まじい勝率を誇っている。安田記念は一六〇〇メートルのレースなので、グランアレグリアの牙城が崩されることはありえないと言っていいだろう。他の人気馬もGIレースの勝利経験がある馬ばかりで、ダノンキングリーの勝率はどこまでも低いように思えた。
「無理だろ、どうせ……」
誰に言い聞かせるわけでもなく吐き捨てて、ふとカレンダーを見やる。決戦は次の日曜日だという。まあ、どうしようもなく暇なら中継を見てみるか。スマホを枕元において、そのまま眠りについた。
あれから数日が過ぎ、気がつけば日曜日。午前を無為に過ごし、昼食を済ませてもまだ活力が湧いてこない。漫然と眺めるテレビにはこれといって見どころの無いバラエティ番組が流れている。かつては休みも返上してサッカーボールを蹴り続けていたというのに、今ではただ時間を浪費する始末だ。こうしている間にもあいつらはどんどん上のステージへ行くんだろうな――そんなことを考えていた矢先、テレビの画面に広大な緑と馬の群れが映された。
暫し戸惑ったが、壁のカレンダーを見て状況を理解した。そうか。もうすぐ始まるのか。安田記念が。少しだけ意識的にテレビを見つめる。
画面には出走馬の名が人気順に並んでいた。やはり一番人気はグランアレグリアで、そのオッズは一・五倍。圧倒的である。二番人気にはインディチャンプ、三番人気にはサリオスとGI馬たちが続き、ダノンキングリーは大きく離されて八番人気であった。オッズも四七・六倍と低く、彼への期待の薄さが窺える。むしろ前走で最下位になったにも拘わらず最低人気でないのが驚きであった。
出馬表が画面から消え、予想家や芸能人が本命の馬を発表するコーナーに移った。やはり皆グランアレグリアの圧勝を信じているようだ。細かい話は分からないが、少なくともテレビから聞こえてくる会話にダノンキングリーの名前はない。彼はもう、誰からも期待されていないのだろうか。納得と諦念が同時に訪れる中で、熱きマイル戦が幕を開けた。
レースの始まりを告げるファンファーレが終わり、ゲートが開いた。全頭が勢いよくスタートを決める中、一番人気のグランアレグリアはやや出足がつかず後方に位置取った。その少し前にはダノンキングリーがいるが、こちらも全体でいうとやや後方のポジション。絶対王者と目される馬と同じくらいの位置取りにいてはどうしようもないのではないか。競馬に関しては全く何も分からないが、そんな予測を立てずにはいられなかった。
こちらの心配とは裏腹に、十四頭は縦長の隊列を成して真夏の東京競馬場を颯爽と進む。淀みなく進む彼らの姿は、さながら栄光へひた走る騎馬隊のようにも見える。
一六〇〇メートルという距離は長いようで短い。前の方の馬は早くも最後の直線に差し掛かった。縦長に並んでいた群れはややまばらになって横に広がり、ゴールへと駆け上がっていく。
ダノンキングリーは依然として後方、馬群の外側にいた。彼が身に着けている十一番のゼッケンが揺れている。騎手も勝負所だと理解しているようで、鞭を打って追い抜きにかかった。手応えは悪くはなさそうだが、前にはたくさんのライバルがいる。強豪たちを躱せるか。少しばかり身を乗り出して、勝負の推移を見守る。
ダノンキングリーが通る外側とは裏腹に、内側は混戦そのものであった。同じタイミングで加速した十三番、先頭で逃げ粘る九番、好位から抜け出した八番などが競り合っている。そして――
『グランアレグリア、間隙を縫って上がってきた!』
最後方から馬群を割いて、絶対王者も差を詰めてきた。この規格外の末脚。グランアレグリアが女王たる所以である。やはり彼女の独壇場か。遅れて動いた主役に湧くスタンド。
その一方で、テレビの前の自分は不安でいっぱいだった。圧倒的な強者に対する畏怖と、望みが潰える恐怖。やはり栄冠には届かないのか……。だとしても、ここまでよくやったじゃないか。もう十分だろう? 後ろ向きな感情を抑えようと浮かび上がるありきたりな言い訳が、頭の中を満たす。だが、液晶に映る十一番の黒鹿毛は一歩も譲る様子を見せない。それを見て、ようやく気付いた。
いや、違う。本当は、ずっと信じたかったのだ。諦めず食らいつくことの素晴らしさを。いつか必ず報われるという希望を。信じさえすれば、道はそこにあるということを。王の名を冠するあの馬は、未だ勝つことを諦めていない。それどころか、執念すらも感じた。「挑戦」というものが如何に尊いか、俺の走りで証明してやる。そんな気迫すら纏って。そんな姿を見て、気づけば声すら出ていた。
「行け……行けっ! 勝てっ!」
前で競り合うライバル達をまとめて交わす絶対王者。しかし無冠の王もまた、その勢いを留めることはない。僅かに前を行くダノンキングリー、猛追するグランアレグリア。ゴール直前の二頭の攻防は、寸分の差もないほどの接戦を織り成す。両者が完全に並んだように見えた決着の瞬間。その結末は――
『ようやく手にした王冠! その名に恥じない一等賞! ダノンキングリーだ!』
戴冠式を彩るは、割れんばかりの大喝采。府中を包む灼熱をかき分けて、名に相応しい玉座へと辿り着いた。
コートの真ん中からロングシュートが放たれる。一切のブレもなく低空を飛ぶボールは師走の空気を切り裂いて、キーパーが反応するよりも早くゴールネットを揺らした。
「久しぶりにあんな球見たよ、やっぱすげえよお前」
「『終わった』なんて抜かしてたやつに見せてやりてえな、これ」
「褒めすぎだ。まだまだだよ」
練習試合の映像を観ながら、我が家のようにチームメイトが寛いでいる。そんなに広くない俺の部屋が溜り場にされているのは正直息苦しいが、まあ楽しいからいいとしよう。自分の映像を見て振り返りをするのも、一体いつぶりだろうか。やはり客観的な視点から自分のプレイングを見ると、まだまだ改善点が多い。あの頃の力を取り戻すにはまだ時間がかかりそうだ。炭酸水を飲みながら映像を隅から隅まで観察していると、不意に質問が飛んできた。
「それにしても、よくモチベ取り戻せたよな。何があったんだ?」
こう聞かれるのも無理はない。絶不調の末に燃え尽き、浮いた顔一つ見せなくなっていたのに、かつてのように笑顔で積極的に部活に参加しているのだから。部員は勿論、顧問やマネージャーからも驚かれたのを覚えている。あの名勝負を伝えたいところだが、それを自分の話と絡めて話すのは気が引ける。何度目かも分からないが、再びはぐらかして答えた。
「まあ、勇気づけられることがあったのさ」
今はただ、前を向き続けたい。あの偉大な王のように。
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