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バーチャル世界の内部性-「ONAKA no NAKA」が提示したもの

本稿の目的

 先日、2022年2月20日、動画配信サイトYouTubeにて、ピーナッツくんのライブがYouTubeチャンネル「MOMENT TOKYO」で放送された。タイトルは、「ONAKA no NAKA」である。現在は高画質版のアーカイブが再アップロードされており、誰でも観ることができるようになっている。

 ピーナッツくんはこのライブの中で、様々な手法を用いて我々参加者を彼のおなかのなかへと誘い込んでいる。そしてそれはまた、彼のバーチャルな存在としての性質から来ているものであり、メタバースとも呼ばれ昨今注目を集めているこのバーチャル世界での表現の在り方を提示したものとも言える。
 本稿では、ピーナッツくんがこのライブにおいて提示した「ONAKA no NAKA」をバーチャル世界における「内部性」として捉え、ライブに起こった様々な要素を順に見ていくことで、それを詳らかにしていきたいと思う。

心音ー「おなかのなかへようこそ」

 このライブは、ピーナッツくんの心臓の音から始まる。正確には、ライブの開演前の待機画面において、終始この音が流されていたといったほうがよい。再アップロードされたアーカイブにおいてはカットされているのが残念ではあるが、そのが鼓動が「ONAKA no NAKA」を象徴するための確かな効果を持っている限り、この演出もライブの全体に内包される彼の表現の一部として見るべきだろう。
 一定のリズムで拍動するこの音は、ピーナッツくんの体内から聞こえてくる彼の心音であることを直感させるとともに、ライブへの昂りと緊張感もたらす。ここで重要なのは、このライブのティザー映像¹⁾やライブ冒頭において「ようこそ、ぼくのおなかのなかへ」と明言されている通り、今回視聴者に求められているのは、彼のおなかを外側からのぞき込むことではない、ということである。むしろ、彼のおなかのなかへ入り込み、その内側から彼と接触することが要求されているのである。
 この心音は、「ONAKA no NAKA」に対する我々の向き合い方を決定付けている。この心音を聞くことで、我々視聴者は自身がピーナッツくんの体内に入ったことをその身をもって体感し、その後の表現を、彼の体内に入ったまま受け取ることになるからである。その意味で、この鼓動は我々が彼のおなかのなかに入るための誘いの音であったといえる。実際この後の論証でも分かる通り、我々が彼のおなかのなかに居ることこそが、このライブで語られる表現の核をなしているのである。

2ndライブとしての幕開け

 ライブが開演すると、「ようこそ、ぼくのおなかのなかへ。」と先述したように我々を出迎える。そして我々の高まる期待に答えてか、早速1曲目「Expecto patronum!」でライブのスタートを切る。この曲を聴くと、2ndアルバム「TELE俱楽部」を記念して開催された彼の1stライブ、「NUTS TO YOU!」を思い出す。
 この曲は、1stライブにおいては、アンコール曲としてライブの幕を閉じる役目を負った。その曲が今回また冒頭で用いられることは、このライブが「NUTS TO YOU!」からバトンを受け継いだ2ndライブとしての位置づけにあることの証拠である。そして、このライブステージが紛れもなく彼の表現のためだけのものであることの宣言である。

「NUTS TO YOU!」から「ONAKA no NAKA」へ

ピーナッツくん1st LIVE"NUTS TO YOU!"²⁾
ピーナッツくん × Moment Tokyo XR LIVE ”ONAKA no NAKA”³⁾


なぜ「刀ピークリスマスのテーマソング2021」か

 続く2曲目は、「刀ピークリスマスのテーマソング2021」である。刀ピーのコンテンツとしての力は大きく、「とある方に向けたメッセージです。」と言ったその相手が剣持刀也であることが分かるや否や、コメント欄にも沸き立つ声が流れた。この曲は、2018年から始まった刀ピークリスマスで毎年発表される、ピーナッツくんから剣持刀也への募る想いを狂気的に表現したテーマソングのシリーズ最新版である。2021年12月26日曜日に公開されてからものの2週間で100万再生を突破し、2022年2月24日時点では300万再生に上っていることからも分かる通り、曲としての完成度は非常に高い。

 しかしながらこの曲は、あくまで刀ピーというお笑いを成り立たせるためだけに消費されるべきものである。曲の内容は、剣持刀也への自身の一方的な恋心を、ベッドの残り香を吸う行為や、剣持刀也と関係のあるVtuberへの嫉妬を通し、「気持ち悪さ」として滑稽に見せるものであり、音楽表現としての至高さはない。また、題名もその年の年数に変えるだけと機械的に付けられており、ストリーミングサービスでの配信はされておらず、ディスコグラフィにも含まれない。さらに、これまでの彼のライブにおいても刀ピーの曲が歌われることはなかった⁴⁾。つまり、このライブが彼のミュージシャンとしての側面をのみ表現するものだとするならば、違和感のある選曲なのである。
 では、何故この曲が選ばれたのか。それは、その後の小休止におけるピーナッツくんの発言、「僕といえば、なんか色んなものを食べたり、あとは歌ったり、なんか色んなことしてるんですけど、……(後略)」からも明らかである。つまり、「ONAKA no NAKA」とは、これまでのピーナッツくんの全てを総合するための装置として扱われているのである。様々に活動の範囲を広げ、多才さを発揮する彼の雑食性を象徴するものとして、それらが行き着き、消化されて最終的にピーナッツくんの栄養となるという意味での「体内」のイメージが使われているということだ。そして、このライブを通して実際に彼の様々な側面を表現することで、彼の多才さは現実のものとなる。「刀ピークリスマスのテーマソング2021」はそれを実現するためのピースの一つなのである。
 このことを考えれば、その他の曲についても、なぜそれが選ばれたのかを知ることができる。ミュージシャンとしてのピーナッツくんを表す1stアルバムと2ndアルバムから選ばれた曲、アニメーターとしてのピーナッツくんを表すデニムくんの「Kick!Punch!Block!」やチャンチョの「幽体離脱」、そしてVtuberとしてのピーナッツくんを表す「Super Chat」と、あらゆるピーナッツくんの側面を網羅するかのような選曲になっているのである。
 このような一見カオスとも言えるピーナッツくんの多面性を、「ONAKA no NAKA」というコンセプトで貫くことによって、巧みにまとめ上げることに成功していると言える。

ピーナッツ星の仲間たちの身体

 その後、もちひよことの教師と生徒の鮮烈な関係が歌われた「School Boy」、そして彼の代表曲「グミ超うめぇ」の披露が終わると、嬉しいことに、ピーナッツ星からも彼の友人が遊びに来てくれたようである。デニムくんの「Kick!Punch!Block!」、そしてチャンチョの「幽体離脱」、「Tamiflu」である。
 奇妙であるのは、今まで自覚的にキャラクターのモデルを使い分けていた彼らが、このライブにおいては「ピーナッツくんの身体を乗っ取る」という形をとり、一貫してピーナッツくんのモデルでパフォーマンスをしている点である。これまでの活動はもちろんであるが、ライブでもモデルの使い分けが行われてきた。「NUTS TO YOU!」においてピーナッツくんが舞台からはけてチャンチョが登場し、ぽんぽこと一緒に「幽体離脱」を歌ったのは記憶に新しい。では、何故このような登場のさせ方をする必要があったのだろうか。
 それは、デニムくんとチャンチョとピーナッツくんは同じ中の人が演じる、分離することのできないキャラクターであるというメタ的な視点を浮かび上がらせるためである。先述した通り、この空間はピーナッツくんのあらゆる側面を総合するための装置であり、その側面の中には、デニムくんやチャンチョといったピーナッツくんと生みの親を共にするキャラクターも含まれている。あくまでこの空間は、いわば中の人とも近似する概念的人格としてのピーナッツくんのお腹の中なのであり、そこであえてモデルを演じ分けることは、デニムくんやチャンチョとピーナッツくんとを区別された他人として隔ててしまうことになる。ピーナッツくんの「ONAKA no NAKA」であるステージに立つピーナッツくんの、さらに「ONAKA no NAKA」で彼らのキャラクターが混ざり合うという二重の内部性をもって、デニムくんやチャンチョとピーナッツくんの精神的な繋がりが顕在化するのである。

他者との関係で見えてくるピーナッツくんの姿

 ピーナッツ星からの参加者だけでなく、同じVTuberとして活躍するおめがシスターズ、名取さなの3人も、ピーナッツくんのお腹の中へ迷い込んできた。3人は、カプセルを介して登場した。名取さなはカプセルの中でピーナッツくんとコミュニケーションを取り「ペパーミントラブ」を披露したが、おめがシスターズは画面上に浮かぶだけでパフォーマンスをすることはなかった。恐らくおめがリオがコロナに罹患していなければ、おめがシスターズの2人もこのステージでパフォーマンスを行っていたのだろう。残念ではあるが、彼女らが元気に回復することを願いたい。
 ここでもまた、カプセルという視覚的な演出を伴って、「ONAKA no NAKA」の総合としての機能が果たされている。カプセルの中に入ったおめがシスターズと名取さなは、ピーナッツくんの体内へと消化され、彼の一部になっていく。それは、彼女らとの関係性の中で浮き彫りになるピーナッツくんの姿も、彼を表す一側面であることの表明であろう。

「ONAKA no NAKA」に取り込まれる視聴者

 名取さなとの素晴らしい共演が終わると、ステージを取り囲むフレームの間にコメント欄が出現する。これは、今思えばその後の演出のための前準備であったのだろう。コメント欄を含めたライブステージについて紹介した後、「というわけで、残り3曲です。皆さん最後まで盛り上がれますか。」と、このライブに残された時間がわずかであることを告げ、ラストパフォーマンスに入った。
 「Drippin' Life」と「ピーナッツくんのおまじない」という彼の傑作が立て続けに披露された後、コラボグッズの販売が発表され、ピーナッツくん自身もロングTシャツを着用した。グッズの販売に喜んでいると、急にピーナッツくんの身体がねじれてしまう。何かあったのだろうか、「しばらくお待ちください」と表示された画面へと映り変わる。しばらくして元のライブステージに画面が切り替わると、「事故!事故!」と言うピーナッツくんによってそれがシステムトラブルであったことが明らかになる。そして、そのトラブルを「なんせ、バーチャルYouTuberなんでね。」と上手く回収させ、Vtuberとしての彼の一面を表面化させた。そして、パフォーマンスを再開し、「ラストー!みんなー!盛りあがる準備は出来てますかー!」という叫びとともに、激しい低音が彼の体内に鳴り響く。ラストを飾るのは、「Super Chat」である。そのあまりにも自然な流れには、事故と称された一連の動作が全て企図されたものだったのではないかと思わず疑念を覚えてしまうほどであった。
 演奏が始まると同時に、フレームに再びコメント欄が現れる。まるでスーパーチャットを送るのを誘っているかのようである。その流れに乗って、熱狂した視聴者達の膨大な数のスーパーチャットが溢れ始める。この苛烈に極まった空間の中で、スーパーチャットというお金を介した視聴者との冷めた関係の上に生きるVTuberのあり方を痛烈に批判する「Super Chat」を歌いながら、自身もスーパーチャットを受け取り、「スーパーチャットありがとうございます。本当にありがとうございます。」と言うピーナッツくんの姿は滑稽にも映る。ここでは、我々視聴者のスーパーチャットを送るという行為が契機となり、ピーナッツくん自身が「super chat」における批判の対象へと変貌する。VtuberがVtuberを批判するという自己矛盾の孕んだこの曲の真髄は、この仕掛けによって自己批判の構造を形作ることで、さらに究極化されている。
 つまり、我々視聴者が、ピーナッツくんを構成する要素の一部になっているのである。殊に、コメント欄をステージを取り囲むフレーム内の5つの面に並列させ、スーパーチャットの表示を下から上にステージを照らすライトとして利用し、視覚的にも視聴者をピーナッツくんの中に取り込んだ演出には感嘆せざるを得ない。ここにおいて、視聴者は真にピーナッツくんの「ONAKA no NAKA」へと溶け込んでいく。
 ここで、もう一度ライブ全体を振り返ってみよう。拍動とともに彼の体内に入った我々は、彼の内部性への考えを提示するいくつかの要素を見せられた。それは、このライブステージの空間が、ピーナッツくんの精神を総合するための象徴としての内部空間であるということである。そしてその総合される範囲は、ピーナッツくん自体から、ピーナッツくんでありながらピーナッツくんではない存在、そして同じVtuberとしての他者へと徐々に拡大し、遂には我々視聴者もが彼の体内に取り込まれようとしていることが、コメント欄の出現とともに明らかになる。そうして実際、我々自身が「Super Chat」の構造を構成する要素となることで、彼の体内へと吸収されていくのである。その意味で、この「ONAKA no NAKA」で目指されたものは、ピーナッツくんと視聴者の内部空間における精神的な融合であったと結論することができる。

バーチャル世界の内部性としての「ONAKA no NAKA」

 さて、ここまでは「ONAKA no NAKA」で起こったいくつかの事件を手がかりに、ピーナッツくんがいかにして彼の「ONAKA no NAKA」を表現しようとしたのかをみてきた。それでは、その「ONAKA no NAKA」とは何だったのか。もう既にほとんど言及したが、以下に3つの視点を提示し、再度整理したい。そして、彼の提示した「ONAKA no NAKA」を「内部性」としてバーチャル世界全体に敷衍し、それこそが、メタバースにおけるメディアアートの表現を考える上で欠かせない要素であることを示したい。
(1)内部空間
 このライブで表現されていたように、「ONAKA no NAKA」は、ライブステージ全体の空間、ステージを囲うようにしてつくられた空間、そしてピーナッツくん自体のモデルの中身という風に、一定の空間を持つ。そして、これらの空間はピーナッツくんの多面的なキャラクターやこれまでの彼の活動を総合する装置として機能していた。ここから考えるに、バーチャル世界の内部性を以下に定義付けることができる。すなわち、バーチャル世界における内部性とは、モデルという名の表面的な囲いによって区別される個々のアカウントの内部空間であり、その中身である個々のアカウントに含まれる精神全てである。
 ここであえてバーチャル世界での精神のあり方について取り上げる必要があるのは、空間の内部と外部の境目を規定するためのガワ(=モデルの表面)は、その内部を固定的に保つための強固さを持たないからである。
(2)空間を規定するガワの希薄さ
 バーチャル世界のアカウントに与えられる、我々を識別するための表面としてのモデルは、バーチャル世界に参入する際につくられるものである。そのため、現実世界とは異なって、意図的な選択が可能であり、また容易に後から変更することも出来る。したがって、アカウントの精神とその表面とは、一対一で結びつく強固な関係性を持たない。現実世界において我々は、今を生きるこの身体から精神を切り離すことが出来ないが、バーチャル世界においてはそれを脱ぎ捨てたり、あるいは別の身体に乗り換えたりするといったことが可能である。つまり、バーチャル世界の身体は、我々の意識をひとつの空間に閉じ込めておくことが出来ない。このガワの希薄性に基づいて、以下のようなバーチャル世界における内部空間の性質が導き出せる。
(3)内部性の持つ性質
①一面性
 現実の世界では、どんなに多様な側面-時にはそれらが矛盾することさえある-を持っていたとしても、それらは同一の身体という箱に閉じ込められてしまう。例えば、家族と一緒にいるときの私も、仕事をしているときの私も、あるいは犯罪を犯したときの私も、同じ身体の中に存在することを根拠に同一の人物であることが特定される。しかしながらバーチャルな空間の中では、自由にアカウントを創造することができるために、自身の精神を分割し、複数の身体にそれぞれを与えることすら可能である。実際我々は、目的に応じて自身の都合の良い側面を取り出し、仕事用、趣味用、学校用などとアカウントを使い分けている。ピーナッツくんの活動においても、アニメーション世界の2Dモデル、Vtuberとしての3Dモデル、ミュージシャンとしての人造人間のジンゾウによる新たなモデルなど、活動によってモデルの使い分けが行われる。またそれだけでなく、デニムくんやチャンチョなど、全く別の人格として生きることもできる。
 今回のライブで行われたのは、このように一面的に分割された精神の再構築である。ピーナッツくんのそれぞれの精神は、身体を使い分けることによって独自に発展していくことができていたが、同時にそれは、それぞれが様々なピーナッツくんとして、ひとつのピーナッツくんからは拡散してしまうということでもある。このライブでは、「ONAKA no NAKA」という擬似空間の中で、一面的な内部空間がひとつの内部空間へと総合され、独立させた精神が再び一つに甦っている。これによって、それぞれの精神の固有性を推し進めながら、それらが生み出す不調和を克服し、完全なひとつの精神へと整合されている。このことはまた、以下の記事において指摘した「多面的・立体的な人間理解」のために必要な「統合」の過程と一致する。

②匿名性
 先に指摘した通り、バーチャル世界の身体は固定的なアイデンティティを持たない。その身体を変更したり、創造したり、消去したりすることが簡単にできるからである。容易に見た目を変化させることができる以上、何かをもってそれが特定の誰かであることを判別するのは難しい。そのため、現実世界のように、行為の責任の所在を1人の人間に帰させることができない。バーチャル世界において途端に悪意や憎悪が露見することになるのがこの匿名性によるものであることは、周知のとおりである。しかし、悪いことばかりでは無い。我々は存在を固定する身体の希薄さは、コミュニケーションを真に自由なものにすることができる。それは、「誰であるか」という現実世界に存在する権威や階級といった価値構造が、ここでは機能しないからである。ピーナッツくんのおなかのなかに視覚化されたコメント欄の中で、我々視聴者は、集団の中の一部で誰かも分からない存在になることで、始めて表面的な規約に縛られず、自由な対話を行うことが可能になるのである。
③流動性
 このバーチャル世界を生きる精神は非常に自由であって、その精神の住所を身体という箱に固定させないがために、内部を規定するガワを飛び越えてコミュニケーションを行うことすら可能である。普段我々がいかに深度のあるコミュニケーションを行おうとも、我々を区別する身体を超えた交流は成し得ない。せいぜい、その身体同士を接触させ、互いの意識を確かめ合うことが限度である。しかしこの世界においては、もはや我々の間を隔てる壁としての身体は機能しない。故に、我々はピーナッツくんの一部として彼を構成することができ、あるいはまた、ピーナッツくんが我々の一部になることもできる。「Super Chat」で実演された精神の融合は、そのことを象徴である。
 例えば、ひとつの身体に複数のキャラクターを同居することを考えてみよう。それは、今回のピーナッツくんのように現実でも同一の人物が、別々のキャラクターをひとつのモデルの中に存在させるということではなく、現実でも区別される人物が、ひとつのモデルを生きるということである。そこでは、それぞれのキャラクターがまったく別々に、自由に行動することはない。ひとつの身体に含まれることによって行動目的を共有し、互いが深く関係し合いながら、1つの人格を形成していく。それは、バーチャルな世界のみが可能にする新しいコミュニケーションの形である。
 実際、我々は「Super Chat」のなかでピーナッツくんのためにスーパーチャットを送るという役割を演じることで、ただの傍観者から、ピーナッツくんと関係された視聴者の1人へと変容している。それは、このライブにだけ見られるものではなく、「すくすく!ピーナッツくん」や「JK枠」で未就学児やJKとしての役割を演じる我々の行動にも、同じことを求めることができる。

 つまりこのライブでピーナッツくんは、「ONAKA no NAKA」を、彼を構成する要素を再構築するための舞台として見立て、このバーチャル空間の匿名性がもたらす自由なコミュニケーションの場を利用し、スーパーチャットを送るというピーナッツくんの一部となるための役割を視聴者に与えることで、ピーナッツくんと視聴者の精神の深い融合を果たしたと考えることが出来る。そして、それは何よりもバーチャル世界に特有なガワの希薄さに起因する内部性によるものであり、メタバースで行われるアートの純粋な表現を追求したものである。

バーチャルリアリティのリアリティを求めて

 ピーナッツくんは、これまでもバーチャル世界におけるリアリティをテーマに表現活動を行ってきた。
 1stアルバムである「False Memory Syndrome」では、自己の存在を非現実的なものとして否定的に捉えた。そのアルバムタイトルからも伺える通り、ピーナッツくんを構成する世界は全て、「False Memory」=間違った記憶なのである。特に、「Drippin’ Life」のMVのおける終盤のピーナッツくんが目を覚ます演出は、それまでのことが夢であった(=現実ではなかった)ことを示唆することで、それまで高らかに歌い上げた富と名声に対する痛烈なアイロニーを呈している。

 また、この曲がアルバムのラストに位置づけられることによって、「Drippin' Life」のみならず、アルバムを通して語られてきたピーナッツくんやピーナッツ星の仲間たちもまた、現実には存在しないものとして扱われてしまう。それは、彼らがアニメーションを中心としたバーチャルの世界につくられた存在であるという意味においてであろう。このアルバムで提示されたのは、バーチャルリアリティの虚無性であり、さらに言えば、その虚無に抗おうとする決意表明である。
 2ndアルバム「TELE倶楽部」では、扱われるテーマが、ピーナッツくんと様々な人とのバーチャル空間を介した関係性へと発展している。もちひよこを始めとしたバーチャル世界で活躍する人とのコラボレーションを、電話による遠隔でのコミュニケーションになぞらえ、ピーナッツくんと彼らの間にある絶妙な距離感を表現した。それはまた、現実世界において活躍するラッパーであるMarukidoをコラボレーションの対象に含ませることで、バーチャル世界だけに留まらず、現実へ広がる関係性の幅をもたらしている。このことは、多様な他者との対話がバーチャル世界の高いアクセシビリティによってもたらされることを前提にしている点で、ピーナッツくんが自身のバーチャルとしての存在を肯定的に捉え始める兆しとしてみてよい。
 しかしながら、「Unreal Life」では、無限に広がり繰り返される自己の存在を主題にし、再びバーチャルリアリティの虚無性が確認されている。この曲の中には、無限・増殖・反復といったものを想起させる要素がふんだんに詰まっている。それは、バーチャル世界の膨大な情報の波を遊泳する彼の生き方そのものである。「崩れ落ちるビル」から「復活する僕は不死の鳥」は、現実の人間のように唯一的で固定的な実存性を持たず、視聴者の再生ボタンを押すという行為によってしか保つことのできないバーチャルな存在としての脆弱さを指しているのだろう。そのバーチャルな存在であるが故の虚無性は、「まだ夢の話だけど」と1stアルバムとの連関が暗示されることによって、より強固ものとなっている。

 そして、今回のライブである。このライブでは、これまで語られてきたバーチャルな存在の虚無性から脱却し、むしろバーチャルな世界に、現実では成し得ることのできない真のリアリティが見出されている。「Super Chat」において達成された我々とピーナッツくんの融合は、この遠く離れた仮想空間に存在する不安定な精神があってこそのものである。精神を規定するための身体も希薄で、それが現実であるかどうかも分からないこのバーチャル世界だからこそ、表面に囚われない精神のみでの対話が、逆説的に可能になっている。これこそが、バーチャルリアリティのリアリティである。
このライブは、バーチャルな存在であるピーナッツくんが、バーチャルな存在のまま彼の実在を証明する試みであったといってよい。自己の存在のUnrealさに悩み、それでも表現者として抗い続けてきた彼にとって、大きな転機である。

終わりに

 このライブは、無料で享受してよいものとは到底思えないほどの完成度であった。それはひとえに、ピーナッツくんの表現にかける熱い思いと、音楽的な実力があってのものだろう。そして、彼のその表現を高度な技術力によって実現可能にしてくれたMOMENT TOKYOには、深く感謝の念を述べたい。また、いつも通りマスタリングで音楽面を支えてくれた玉田デニーロ氏、そして共演者である名取さな氏にも、賞賛と敬意の気持ちを示す。本当に、素晴らしいパフォーマンスであった。
 最後に、ただいまMOMENT TOKYOのオンラインストアでは、ピーナッツくんのライブTシャツとコラボステッカーが販売されている。注文の受付は2月28日までだ。このライブを観て彼のパフォーマンスに心を震わせた諸君は、今後の活動の支援のためにも購入を検討してはどうか。

脚注
※本文は主に再アップロード版のアーカイブ動画(MOMENT TOKYO「ピーナッツくん × Moment Tokyo XR LIVE『 #ONAKAnoNAKA 』」、YOUTUBE(https://youtu.be/am9_BDCyjLU))に基づく。
ヘッダー画像:MOMENT TOKYO「ONAKA no NAKA」(一部)
1:オシャレになりたい!ピーナッツくん!「バーチャルライブ「ONAKAnoNAKA」を開催するナッツ!」、YOUTUBE
2:オシャレになりたい!ピーナッツくん🥜、Twitter、2021年5月30日(https://twitter.com/osyarenuts/status/1398965709372149766?s=20&t=WFqdVvt7hNrBVhm4n62THA)より画像引用
3:MOMENT TOKYO、Twitter、2022年2月22日(https://twitter.com/MomentTokyo/status/1496092534371917825?t=dzN5Iir7S-SA9vL6GAp64A&s=19)より画像引用
4:ぽんぽこ・ピーナッツくん非公式wiki「各種イベントへの出演」(https://seesaawiki.jp/pokopeawiki/d/%b3%c6%bc%ef%a5%a4%a5%d9%a5%f3%a5%c8%a4%d8%a4%ce%bd%d0%b1%e9)、2022年2月24日最終閲覧

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