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ぽこピーに通底するキャラクター変化によるギャップ萌えについての一考察ーガチ恋ぽんぽこの人格の変遷からー

はじめに


???「あーうーひひーん、みんな元気ち・て・たー?💗💕💥」


 この記事は、ikura18氏主催の企画、「ぽこピー(pokopea)🍃🥜 Advent Calendar 2021」の12月10分の記事である。詳しくは、下記の記事を参照されたい。

 冒頭のなぞの挨拶は、ぽこピーバースの一キャラクター、ガチ恋ぽんぽこのYoutubeでの動画挨拶である。
 このキャラクターは、ぽこピーバースのキャラクターの中でも人気が高い。独特なワードセンスや勢いのあるノリだけではなく、甲賀流忍者ぽんぽことガチ恋ぽんぽこの別人設定や、人類ガチ恋計画とも呼ばれる甲賀流忍者ぽんぽこによる怪しげな計画など、様々な要素が重なりあって彼女の面白さを構築している。
 特に人格の設定については興味深く、ある日、里の民のTwitter界隈でも #ガチ考察班 というタグがつくられ、彼女の人格に関する様々な考察が寄せられることとなった。筆者もこれに乗じ、リストもつくった。

 このハッシュタグでは、かなり創造的にガチ恋ぽんぽこを解釈し、エンターテインメントの一環として考察を行ってきた。しかし、今回はすこし異なった見方でガチ恋ぽんぽこを捉えようと思う。
 それは、ぽこピーを象徴するキャラクターとしてである。筆者は、ガチ恋ぽんぽこを、ぽこピーの魅力を生み出す構造を最もよく表すキャラクターだと捉えた。ガチ恋ぽんぽこを考えることで、ぽこピー全体の魅力について考えることができると思う。
 今回は、筆者がハッシュタグでガチ恋ぽんぽこの人格の問題について考えてきたことを活かし、なかでも彼女の人格の変遷をもとに考えたい。また、彼女の人格の変遷を眺めたときに、笑いの構造に着目することで、より明瞭な理解を得ることができることが分かった。
 したがって、本稿では次のようなことを述べたいと思う。すなわち、ガチ恋ぽんぽこがどのように誕生し、今の人格になったのか。そして、彼女はどのようなキャラクター構造を持っているのかを、主に彼女が持つ笑いの構造の観点から明らかにすることで、ぽこピーに通底するVtuberとしての彼ら独特の魅力についての「考察」を行う。

ガチ恋ぽんぽこの誕生

 ガチ恋ぽんぽこは、Youtubeチャンネル「ぽんぽこちゃんねる」(当時「甲賀流忍者!ぽんぽこ」)における2018年8月30日の生配信、「NEW PONPOKO 発表会!!!#ぽんぽこ生放送」にて初公開されたキャラクターである。

 誕生の理由は、自分の可愛くなさに気づいてしまったからだ。エゴサ等で「口が無理」、「鼻が無理」、「顔が無理」等の書き込みを発見し、さらに樋口楓とのコラボで彼女と並び、自身と外見を比べてしまったことで、自分の可愛くなさを自覚してしまった。
 そこで、ドクター・豆ことピーナッツくんに整形手術をしてもらうことによってより可愛い姿に変身し、ガチ恋ぽんぽこのモデルを得た。
 整形直後に「ぽんぽこ、顔も変わったけど、中身も変わっちゃったー。」(6分45秒頃~)という発言が見られ、ここで、「モデル(見た目)が変わればキャラクター(中身)も変わる」という考えに基づいて、萌えキャラクターとしての方向性を確立させる。この考えは、本稿を貫く考えとなる。

初期ガチ恋ぽんぽこ

 初期のガチ恋ぽんぽこは、通常のぽんぽこ主体のキャラクターである。
 生放送や動画における基本的な笑いの構造は、ガチ恋ぽんぽこの姿で可愛いキャラクターを演じ、生放送や動画の終盤において通常のぽんぽこのモデルに戻り、可愛くない正体を現すことで、「可愛い人が実は可愛くなかった」という落差を生む、というものである。

 例えば、ガチ恋ぽんぽこの人気生放送企画、「POKO's BAR」ではそれが顕著にみられ、ガールズバーのガールとして働くガチ恋ぽんぽこが、生放送終盤に閉店後の楽屋で化粧を落とし、通常のぽんぽこに戻ってピーナッツくんに悪態をつくことで、笑いを誘っている。これが初期ガチ恋ぽんぽこの笑いのテンプレートになっていることは、ピーナッツくんの「なんだお前は」というツッコミや、「正体現したね」、「誰?」、「もどして」等のコメントが、同じような構造をもった動画や生放送でも同様にみられることからも確認できる。


 この頃のガチ恋ぽんぽこは、現在のような彼女独特な言葉使いや勢いにではなく、「狸に化かされた」という終盤の種明かしにこそ、笑いの起点がある。そこでのガチ恋ぽんぽこというキャラクターは、あくまでも「ぽんぽこが演技をしている」という意識のもとに成立しているのであって、例えガチ恋ぽんぽこのモードであっても、そこには通常のぽんぽこが内在しているという感覚を強く与える。初期のガチ恋ぽんぽこは、ぽんぽこ主体のキャラクターなのである。

 この笑いの構造は、初登場の生放送から、ガチ恋ぽんぽこの3Dモデル公開生放送である「今夜、君も、ガチ恋」(2019年7月18日ライブ配信)まで継続して使用されることになる。

(余談ではあるが、この笑いの構造は「刀ピークリスマス」のCパートにもみられる。ガチ恋ぽんぽこ→甲賀流忍者ぽんぽこという落差が、ここではピーナッツくん→兄ぽこという落差になっている。ガチ恋ぽんぽこでは可愛いキャラクターから可愛くないキャラクターに変化することでがっかり感が生まれ、それが笑いに繋がっているが、刀ピークリスマスでは、気持ち悪いキャラクターからイケボキャラクターに変化することで、それまではあり得ないギャグであった二人の関係が、現実味を帯びて生々しいものとなっている。)

萌え声Vtuber期のガチ恋ぽんぽこ

 化け狸の正体が明かされることによる初期の笑いの構造が明確に変化するようになるのは、初のガチ恋ぽんぽこの激辛動画である、「【萌え声MAXEND】激辛春雨ENDで汚い声を出したら即終了」(2019年7月20日公開)からである。

 この動画の企画は、ガチ恋ぽんぽこが激辛の食べ物を食べ、それに耐えてガチ恋ぽんぽこのキャラクターを維持することができるのか、というものである。

 そこでは、初期の笑いの構造とは異なるものが見られる。この笑い構造のなかでは、「ガチ恋ぽんぽこである」ということが規範としてあり、それを破ってしまうことで、笑いを生じさせている。
 笑い構造のテンプレートである「笑ってはいけない」を想像してもらえると分かりやすいだろうか。この笑いの中には、「笑ってはいけない」という緊張を持った規範があり、それが耐えられないこと、その規範を破ってしまうことに笑いの起点がある。(緊張の緩和)そしてそれは、その規範を破った状態も「笑っている」状態であるがために、さらに笑いを増進する効果をもたらしているのであろう。

 萌え声Vtuberの企画の中でも、「ガチ恋ぽんぽこであらねばならない」という規範を作りながら、それが即座に破れてしまうという緊張の緩和に笑いの起点があるのである。そしてその笑いは、「(汚い声が)出るわけないのにー♡」という前振りや、通常のぽんぽこが出てしまった際のBGM「明日への想いをピアノに込めて」によってより強調されている。

 ここで面白いのは、初期のガチ恋ぽんぽこと同じように、ガチ恋ぽんぽこが通常のぽんぽこに戻ることで笑いを生んでいるという状況は同じだが、萌え声Vtuberの企画の中では、ガチ恋ぽんぽこと通常のぽんぽこがまったく別のキャラクターとして明確な変化を見せるのではなく、ガチ恋ぽんぽこで”ありながら”、通常のぽんぽこに戻ってしまっているということである。つまり、ガチ恋ぽんぽこであり続けなければならないのにそれが変化して"しまっている"という否定的な文脈の中で通常のぽんぽこへの変化を見せているのである。それを示すように、この動画では、初期に見られたような、モデルを変えた通常のぽんぽこによる正体明かしは存在しない。終始ガチ恋ぽんぽこのモデルによって動画は進められているのである。

 このことから、ガチ恋ぽんぽこは、通常のぽんぽこ主体のキャラクターから、ガチ恋ぽんぽこ主体のキャラクターになったと言えないだろうか。今まではガチ恋ぽんぽこは「ぽんぽこが化けた姿」として捉えられていたが、この企画での通常のぽんぽこを感じさせる言動は、あくまでもガチ恋ぽんぽこであって、通常のぽんぽこではないのである。
 そしてさらに言えば、ガチ恋ぽんぽこがキャラクターの主体性を確立させたことが、結果的に、ガチ恋ぽんぽこの独特の世界観を持つ魅力的なキャラクター性を強調させたとも捉えられるだろう。

(それまでのガチ恋ぽんぽこは、萌えキャラというふわっとしたイメージの中に成立するキャラクターであり、今のような彼女独特のいわゆるガチ恋ワードと呼ばれるような語彙はあまり見られない。また、長尺の生放送においては、ガチ恋ぽんぽこでありながら、通常のぽんぽことほとんど変わらない発話の方法になっている。以下の生放送が分かりやすいだろう。)

人格分離期のガチ恋ぽんぽこ

 ガチ恋ぽんぽこのキャラクター設定に大きな変化が生じるのは、2020年のぽんぽこ2周年記念生放送「【2周年記念生放送】ぽんぽこ202歳になりました!!!#ぽんぽこ生誕祭2020」(2020年2月2日放送)からである。

 この放送では、終盤の企画において、ガチ恋ぽんぽこが事前に「トリセツ」を弾き語りした動画を流している。その企画内容を説明する際、ぽんぽこは「(ガチ恋ぽんぽこは)ほんとは生放送で弾き語りをしたかったそうなんですけど、……(略)」(57:03~)、「ガチ恋ぽんぽこがちゃんね。何やら……、西野カナちゃんがすきらしくて……(略)」(57:11~)など、自分がやったことではなく、ガチ恋ぽんぽこから他人として聞いた体で話している。さらに、ガチ恋ぽんぽこが弾き語りする様子を見ながら、「くそ恥ずかしいな、えぐいわ。ちょっと」と羞恥心を感じながら、「でもガチ恋ぽんぽこなんでね。」とガチ恋ぽんぽこを他者として見ることで合理化を図っている。(59:15~)
 このことから、ガチ恋ぽんぽこが甲賀流忍者ぽんぽこから分離したきっかけは、ぽんぽこが、”甲賀流忍者ぽんぽことして”、自身の別のキャラクターであるガチ恋ぽんぽこを認知したからであると分かる。さらに、ガチ恋ぽんぽこの萌えキャラクターとしての言動を客観視することで、それを自分自身であると認識することが耐えられなくなり、余計にガチ恋ぽんぽこを自身とは分離したキャラクターとして把握するようになるのである。

 この放送を出発点として、甲賀流忍者ぽんぽこがガチ恋ぽんぽこを別人として見ていることが伺える発言が徐々に増えていく。そして、笑いの起点も、甲賀流忍者ぽんぽことガチ恋ぽんぽこは別人であるという「設定」の提示に重点が置かれるようになった。
 この時期の笑いの構造は、甲賀流忍者ぽんぽことして活動する際に、積極的にガチ恋ぽんぽこを別人であるとみる態度を取ることで、「本来は同じ中の人が演じている」という事実からズレた認識を見せる、というものになっている。この構造は、萌え声Vtuber期における笑いの構造と並行して取り入れられながら、段々とガチ恋ぽんぽこの方でも、甲賀流忍者ぽんぽこを他人としてみる見方を見せるようになる。

 この人格の分離は、萌え声Vtuber期において主体性を確立しつつあったガチ恋ぽんぽこのキャラクターとしての独立性をさらに推し進め、ガチ恋ぽんぽこの独特な言葉遣いや勢いはどんどん極端なものになっていく。そしてさらには、2020年10月に開催された「TOKYO IDOL FESTIVAL」のオンライン版である「バーチャルTIF」にガチ恋ぽんぽことして参加するまでに至った。

脳内侵略期のガチ恋ぽんぽこ

 人格分裂期において別人だとされたガチ恋ぽんぽこと甲賀流忍者ぽんぽこは、今度はそのキャラクターが脳内で混ざり合うことによって、さらに笑いの構造が複雑化していく。その傾向が初めて見られるのは、動画「【生活記憶力】いつも見かけてるアレって描ける?」(2020年11月18日公開)である。

 この動画はぽこピーが新衣装にモデルチェンジしてから約10日後に投稿されたものである。動画内1分7秒からの会話において、「言っとくけど、僕絵も上手いからね。」と牽制するピーナッツに対して「なんだよ。うるさい。」と新衣装によって新しく表現できるようになった困り顔をしながら、可愛こぶった態度を見せる。そしてその次には「この顔に逃げたらガチ恋ぽんぽこ来ちゃうから。」と続く。
 この動画の発言から、甲賀流忍者ぽんぽことして活動しているときに、不可抗力的にガチ恋ぽんぽこが“でてきてしまう”現象が起き始めているのがわかる。

 さらに、2020年11月24日公開の動画、「萌え声VTuberが「世界一甘い」と「世界一酸っぱい」を同時に食べたらどうなるの?」において、「自我が保ててたから(ピーナッツの声が)聞こえた」(02:22~)と言っている。この発言は、自我を保てなくなれば、甲賀流忍者ぽんぽこの人格が出てきてしまうということを示唆している。

 そして決定的なのは、2019年から行われるようになった年末に一年を振り返る「ぽこピー批評」の2020年版、「【2020】年刊ぽこピー批評〜凄まじい1年を振り返る〜」(2020年12月30日放送)におけるガチ恋ぽんぽこのNGシーンである。

 このNGシーン(2:12:53~)では、ガチ恋ぽんぽこの言動をピーナッツくんが「何が面白いんだ」と一蹴した際、限界に達したのか「面白いなんて思ってないよ!面白いなんて思ってねえんだよおおお!!!」と叫ぶ。そして、「あれ、今誰が喋ってんだ今」というピーナッツくんの質問に、「甲賀流忍者さん戻ってきちゃった。」と答える。
 このシーンは完全にガチ恋ぽんぽこと甲賀流忍者ぽんぽこの人格の境界が曖昧になっており、これを契機にしながら、境界が曖昧になる場面が増えていく。

 これらの別人格が脳内を侵略してしまうという現象は、あまりに異様な設定であり、そのこと自体が恐怖とともに笑いを作り出している。
 この笑いの構造を詳しくみると、かなり入れ子状になっていることがわかる。本来は一人の人間であるはずのガチ恋ぽんぽこと甲賀流忍者ぽんぽこが別のキャラクターとしてみなされながら、それを前提とした上で、また一人の人間の中で融合している様は、人格分離期の笑いの構造を引き継いだ状態で、さらにそことのズレを提示している。つまり、人格分離にあった「本来は同じ中の人が演じている」ことのズレとして提示された、「ガチ恋ぽんぽこと甲賀流忍者ぽんぽこは別人である」ということに対するさらなるズレが、ここでは提示されているのである。
 この二重のズレは、複雑性を醸しながら、人格分離期よりもより大きな笑いを誘発することに成功している。

ガチ恋ぽんぽこの今

 2020年12月時点でのガチ恋ぽんぽこは、これまでの笑いの構造を引き継ぎながら、ガチ恋ぽんぽこと甲賀流忍者ぽんぽことの脳内侵略を頻繁には起こさずに、それぞれが独立した主体を持つ安定期に入ろうとしている。
 その代わりに、ガチ恋ぽんぽこの人格の独立性は、確固たるものとなっている。その証拠に、ガチ恋ぽんぽこ独特の語彙であるガチ恋ワードは前よりも一層強烈さを放つ。視聴者の側もガチ恋ぽんぽこを甲賀流忍者ぽんぽことは別のキャラクターとして理解していて、そのこともまた、可笑しさを助長している。
 これからのガチ恋ぽんぽこはどこに向かっていくのか、私には想像もつかない領域に彼女は足を踏み入れている。 

ガチ恋ぽんぽことはどういうキャラクターなのか 

 さて、ここまでガチ恋ぽんぽこの誕生をはじめとして、彼女のキャラクターが持つ笑いの構造に着目しながら、その人格の軌跡を辿ってきた。初期の正体明かしによる笑いから、現在のガチ恋ぽんぽこまで、様々に笑いの構造を変化させながら今の姿になったことが理解できたと思う。ここからは、ガチ恋ぽんぽこが全体としてはどのようなキャラクターであるのかということを考える。

 結論を先に述べると、彼女の笑いの構造は全て、キャラクター変化やキャラクターの行き来によってもたらされている。そしてそれは、「演者は一人」という前提によって成立する笑いである。
 初期の正体明かしであれ、萌え声Vtuberのキャラクター維持であれ、別人設定であれ、人格の脳内侵略であれ、いずれの笑いにも、キャラクターを演ずる中の人はあくまでも同一人物であるという前提がある。だから、キャラクターを行き来したときに、「演者は一人なのに人格が複数ある」という矛盾が生じ、それが変なこと、すなわち面白おかしいこと(=笑い)だと受け止められる。

 ここで、「演者は一人」であるというこの笑いの前提が、笑いとはまた別の重大な意味を持っている。
 現在、ガチ恋ぽんぽこと甲賀流忍者ぽんぽこは別人であるとされているが、彼女らは、どうあがいても一人の人間なのである。我々は、その全く相反するキャラクターを透かしながら、ぽんぽこの「中の人」という一人の人間を見ているのだ。この時にどういうことが起こるであろうか。
 まず、矛盾したキャラクターに戸惑うだろう。一人の人間の持つまったく別の面を見たとき、我々はどちらの面を信じてよいのか分からなくなってしまう。実際、ガチ恋ぽんぽこ公開時には否定的な意見もあったし、多くの人はガチ恋ぽんぽこを見慣れるまでに時間がかかっただろう。
 しかし、初期の時点から現在まで、ずっと一貫して「演者は一人」ということを前提とした笑いを取ってきた。そうなると、我々は彼女と甲賀流忍者ぽんぽこを同じ人間だと認識することを余儀なくされる。どちらかの面が真実なのではなく、どちらの面も真実だ。そういう風に、何とか理解をしなくてはならなくなる。
 そういう理解を得たときに、矛盾したキャラクターを超えて、その人に対するより高次な、より深い人間理解に達するのではないだろうか。それは、その人を自分なりに解釈し、その姿を肯定することでもある。そして、その人をより好きになることでもある。
 まとめると、ガチ恋ぽんぽこと甲賀流忍者ぽんぽこのキャラクターの行き来によって矛盾した側面を我々に見せながら、それらが本来は一人であるという意識を持たされるために、我々は、どうしてもその矛盾したキャラクターをどうにか統合して理解せざるを得ない。この時に、演者である「ぽんぽこの中の人」への多面的・立体的な人間理解が進む。その理解は、彼女への人間としての好意的な感情を生じさせる、ということである。

 私は、これを「ギャップ萌え」として捉えたいと思う。
 一般に言われるギャップ萌えはゲインロス効果ともいい、人への印象がマイナスからプラス、またはプラスからマイナスに変化した際に、一貫してプラスだったとき、またはマイナスだったときよりも過剰に評価してしまう心理状態を指す。本稿では、この定義を超えて、「人の矛盾するキャラクターを見たとき、それを一人のものとして統合し、その人への深い理解を得た際に、好意的な感情が生じる状態」として考える。すなわち、プラスからマイナスに変化するロス効果ではマイナスの心理になるが、ここではそうではなく、プラスからマイナスの変化においても、好意的な感情を生み出すと考える。

 この「ギャップ萌え」があるからこそ、ガチ恋ぽんぽこは、そしてぽんぽこの「中の人」は、多くの人に愛されるキャラクターになっているのである。

ぽこピーの多面性とギャップ萌え

 前項を読んで、突飛な話だと思われただろうが、ガチ恋ぽんぽこの持つキャラクター変化による笑いの構造とそれが生み出す「ギャップ萌え」は、そっくりそのままぽこピー全体のキャラクター構造にも当てはめることができる。
 例えば、ホラー動画におけるピーナッツと兄ぽこの関係性は、短い時間の中で二人のキャラクターを行き来するという点で、かなりガチ恋ぽんぽこに近い要素を持っている。ほかにも、ONP総選挙でとくによく見られる、演者者兄ぽこが彼自身が創ったキャラクターの声を忘れたり、キャラクターの声を混同したりする場面もこれと同じ構造がある。

(1:00:00~のレオタード豚の例が分かりやすい。)

 もっと広く「演者に対してキャラクターが複数いる」ことに着目すれば、キャラクター変化の瞬間を見ることはできないが、超獣テラ・メガやいきあたりばたりこといった派生キャラクター、ぽんぽこの中の人が実は本田翼なのではないかといったギャグにもこういった構造を見出すことができる。
 さらに言えば、同じキャラクターであっても、モデルの違いによってキャラクターとしての言動や声には微妙な違いがある。着ぐるDや狸バージョンのぽんぽこ、そして新たに追加されたパペットは、通常の3Dモデルのぽこピーとは、少しづつ異なったキャラクターを見せる。例えば、狸モードのぽんぽこはいつもより粗暴な態度であるし、ゆるDのぽこピーは、それぞれの語を引き延ばしたような独特の発声になっており、ゆるキャラとしての優しさやゆるさが感じられる。(もちろん着ぐるみの中に入っているので声を張り上げないといけいないというのもあるが。)パペットの状態では、少し演技がかった感があり、まさしく教育番組にふさわしいようなキャラクターを見せる。
(これらのことは、すでに述べたガチ恋ぽんぽこ誕生の生放送での発言、「ぽんぽこねー、顔も変わったけど、中身も変わっちゃったー。」を想起させ、いかにモデルの力がキャラクターを規定するかという面白い問題を提起している。)

 これらすべては、やはりガチ恋ぽんぽこと同じく、「演者は一人」という前提によって成り立つ「ギャップ萌え」を生じさせる。 
 ぽこピーは他のVtuberの比ではないほど様々なモデルやキャラクターがぽこピーバースに存在しているが、そのモデルやキャラクターの数だけ、「ぽこピー」の多面性が生まれている。そうして、多面性が増えれば増えるだけ、「中の人」に対する側面が増え、我々は彼らに対するより多面的・立体的な人間理解を得ることができる。それはそのまま、彼らの魅力の増加を意味している。
 そう思うと、パペットという新たな位相をぽこピーバースに生み出すことが、どれだけ重大な意味を持っていたか分かる。そして、パペット公開生放送における公開までのあの30分間、何度も何度もモデルを変化させながらそれぞれのキャラクターの魅力を表現しようとした二人の姿は、この一大イベントを象徴するのに最も相応しい内容だったとも考えることができる。

多様性と多面性ーバーチャル空間を考える

 ここではぽこピーから一旦離れ、先ほどからキーとなっている多面性について、改めて考えてみたい。

 近年、多様性の尊重として社会の中に見える様々な人間の個性を認め合い、大切にしようという考えが盛んに叫ばれている。しかし、この段階の多様性の尊重で認められる個性は、「社会の中の多様性」という見方をしているがために、個人に代表されるある一つのもととして語られることが多い。特に創作物においては、黒人である、アジア人である、障害を持っている、セクシャルマイノリティである。そういった多様性の尊重に代表されるようなキャラクターの一側面だけを切り取って個人を見ることがあるのではないか。(レッテル貼りや偏見)そうでなくても、この現代においては、「あなたは誰であるか。」という問いに対して、各々なりの答えを用意しなくてはならない。しかし、人間というのは、「あなたは誰であるか」という問いに「私は○○である。」という単文の答えを用意できるほど単純ではない。「私は〇〇であり、××でもある。ときには△△になることもある。」という風にもっと多面性を持つものであって、その〇〇と××が全く相容れない要素になることすらあるのである。そういった事実があるのに、ある一面的な個性を見つけさせようとするのは、かなり苦しいことである。
 つまり、社会的多様性の中では「個人の中の多様性」、多面性を考慮していない。個性はある一面的な一貫性を持つべきだというような規範すら感じられる。これが現代の多様性の尊重の一つの限界であって、これからは多面性の尊重にまで踏み込まなければならないのではないか。

 さて、この多面性の軽視、つまり人格の一面化は、バーチャル空間の問題として考えることもできる。
 思えば、バーチャル空間において我々は、自分自身の一側面を取り出して、それぞれに異なった名前とアイコン(見た目)を与え、それぞれのキャラクターの行動規範に沿うように人格を演じている。オタ活をするときにはこのアカウントで、仕事をするときにはこのアカウントで、悪口をいうときにはこのアカウントで……。そういう風にそれぞれにアカウントという名の人格を形成し、一つのキャラクターを演じているのではないだろうか。
 ネット上での批判の中には、過去の投稿を掘り返して、「あのときと言っていることが違う。ダブルスタンダードだ。」というものが多々見受けられる。それは一側面からすれば、正しいものではあるし、政治の場面では特に一貫性が求められる場合もある。しかし、人間それ自体を考えるならば、あの時はこう言ったけど今はこう思っているとか、こう考えるけどそれとはまったく反対のことも考えるとか、そういう一見矛盾したものが成立するものであって、それこそが人間としての不思議な魅力に繋がっていくのである。それは、「ギャップ萌え」に他ならない。
 このようなことが起こるのは、やはりアカウントを一つの矛盾しないキャラクターだと捉えているからである。一つのアカウントの発言は一つのページにまとめられ、それがその人の全てであるかのように語られる。そうして、そのキャラクターは一貫性を持つべきであるという規範ができ、上のような批判が起こるのである。このことは、バーチャル空間独特の問題だ。
 要するに、バーチャル空間の特異性が、人格の一面化の一端を担っていると考えられるのではないかということである。

Vtuberの可能性

 そしてさらに話を大きいものにするならば、以上のようなことは、「ぽんぽこ24」の有識者会議で度々取り上げられる「Vtuberに何ができるか」という問いに対する私なりの答えでもある。
 先述した通り、このネット空間においては、それぞれが各々の都合の良い一側面を取り出して、それに人格を与えてキャラクター(アカウント)を創造することができる。そしてそこでは、自分のまた別の側面(あるいは自分にない側面かもしれない)を取り出しながら、別個のキャラクターを新たに作ることもできる。そのようなバーチャル空間をそのままキャラクター産業化したものがVtuberなのである。
 そこでは、先ほど見たような多面性の軽視がやはり起こりうるのだろうか。実は、そうではない。
 多くのバーチャル空間では、アカウントの境界は強く線引きされている。匿名性が高いがために、いとも簡単に別人を名乗ることができる。例えばTwitterで別のアカウントを所有している人がいる場合、それを特定することは困難であろう。
 しかし、Vtuberが持つ匿名性は「中の人」の現実の見た目だけであって、声や言動をもってその個人を特定することができる。中の人や中の人の前世の特定は比較的容易に行われるのはこのことの証左でもあろう。つまり、Vtuberのバーチャル空間でのアカウントの境界は元々曖昧なのである。
 このことから言えるのは、Vtuberは、このバーチャル空間で起こる多面性の軽視を打ち砕くことのできる存在なのではないかということである。そしてそれを体現しているのがぽこピーなのだ。
 彼らは、バーチャル空間の長所である「アカウントを簡単に創造することができる」ことを生かして様々なキャラクターを生み出して、それらのすべてを自らが演じている。それらを同じ一人の人間であると我々が理解できるのは、Vtuberのアカウントの境界が曖昧だからである。
 そして、そのそれぞれ異なったキャラクターを通して我々が得ているのは、ぽこピーの「中の人」に対する多面的・立体的人間理解に他ならない。この時代に足りない個人に対する人間愛を、この時代にしかできない方法で、彼らは獲得しているのだ。
 以上のように考えれば、Vtuber有識者会議にて「Vtuberに何ができるのか」と真剣に悩む兄ぽこは、私からすれば既にその課題を達成しているのであって、むしろぽこピーは、Vtuberの特異性を最も活かした活動者であるとすら言える。

(同じようなキャラクター産業の形式に声優があるが、これが似たような構造を持ちえないのは、そこで演じるキャラクターはあくまでも別の作者の物語世界の中のキャラクターであって、声優自身の人格をいれることができないということが関係してくるだろう。Vtuberのキャラクターは結局は中の人の生活や経験に基づくものであって、それは別のキャラクターに変化したときであっても継続される。そこにVtuberの特異性がある。ただし、アドリブや演技の仕方に個性が出てくることは多々見受けられ、それが声優の人間としての魅力を推し進め、声優の芸能人化が進んだのだとも言えるかもしれない。)

おわりに

 ガチ恋さんの笑いの構造を起点にしながら、最終的には「Vtuberに何ができるのか」という問いまで話を広げるという、かなり分かりにくい記事になってしまったと思う。こうではないか、ここは違うのではないか、あるいはここが分からなかった等々何でもよいのでコメントや反応を頂けると嬉しい。
 またTwitterでは、#ガチ考察班のタグでガチ恋ぽんぽこについてどんなことでも語ることができるので、是非使用していただければと思う。(このタグを創ったのは私ではなく別の里の民なのだが、この場を借りて、このタグを創ってくれたことに感謝の意を示す。)
 そして最後に、企画をしてくださったikura18氏、ガチ恋ぽんぽこに関する資料の提供をしてくださった方々にお礼申し上げたい。特に資料の提供に協力して頂いた皆様がいなければ、この記事を完成することはできなかったであろう。そして何よりも、この記事を最後まで読んで下さった読者諸君には、厚く御礼申し上げる。この記事が少なからず諸君のぽこピーに関する見方を多様にし、より豊かな推し活に寄与するならば、それが本望である。

※明日12月11日のAdvent Calendar担当は、そらべん大先生(@soraben06)による ぽこピーイラストです!!!クリスマスに因んだ絵を描くそうで、とっても楽しみですね!(そらべん先生の絵大好きなので、ここで大好きって言っときます。大好き!!!!!!!!!!!!!!!!!

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