虹(パドック)
勝負したい馬がいるとき、すぐに購入しない
「これって、虹くらいレア?」
と、自分に問うてみるのもいいかもね。
虹ほどレアじゃないなら、大勝負しにいかない。レートおさえる。買わない。etc…
虹ほどレアなら、いっちゃおうぜってことなんだ。
そもそも、肉眼から脳に取り込まれる対象物が虹のようにレアな美しさとして「感じられるかどうか?」ってのは、その時の精神状態による。
つまり。
パドックの感受性はメンタル次第
で変化するってこと。
例えばネガティブなときってのは感受性が落ちてる。病んでる状態のピークに近いほど感情が無くなっていく。物事が楽しく感じられなかったりする。なにやってもつまらない状態。鬱病の手前までいくと、こーなる。いやもはや軽度の鬱病なのかもしれないけど。こんなときは感受性がゼロに近くなり、対象物に感動する余裕もない。というか、世界の全てがどんよりした曇り空に覆われて、感動できるようなものがあってもスルーしてしまう。ってのは俺のリアルな体験談なんだけど、つまりは、
ネガティブ感情は感受性を下げるんだ。
あるいは、ネガティヴメンタルとは違うけど、競馬で金儲けしたかったり、(全然あたってなくて)当てたい気持ちが強まっている、そんなスケベなメンタルの時ってのも存在する。これ読んでる人は圧倒的にコッチが多いだろ!(笑)。俺もそうだよ。で、こーゆーときは、心が濁ってるから感受性のセンサーも少しズレてる可能性がある。前述のように感受性ゼロではないものの、スケベフィルターを通して脳に取り込むパドックの世界観は少し濁ってる可能性がある。その濁った世界で感じ取った気になってる虹的な馬(この馬で勝負しにいくぞって馬)は、 "まやかし" かもしれない。
探さない。ただそこにあるだけ。
そもそも。
パドックで勝負できるような馬は滅多にいない。
雨上がりの虹と遭遇するくらいレアなんだ、本来は。
僕はパドックで虹にあいたい。
でも、
そもそも雨上がりの虹ってのは、探して見つけるものじゃないよね。
たまたま出てるときに、そこ居合わせて、たまたま気がつくものなんだよね。
虹ってのは探して見つかるものじゃない。
気づくものなんだよ。
なので、
パドックで勝負したくなる馬(虹的な馬)も、パドックを毎レースみては「いい馬みつけるぞーみつけるぞー」と、意図を持って探すのでなく
たまたま居合わせる感じだよね。
雨上がりで、「あ、虹が出てるじゃーん」ってなるように。
たまたまそこにあって、気がつくもの。
だから、俺が思うに、
というか、
今までの会心のパドック的中を思い返すと、虹馬と出会ったプロセスはどれも虹のそれと一緒だなって思うんです。
例えばパドックで馬を見ずにパドックの花壇の花とかハチとか見て和んでるときって、勝負馬を探してないんですよね。
花とかハチを目で追いかけて視線がウロウロとしてるプロセスの途中にたまに馬に目をやるけど勝負馬を探そうと血眼になってなくて。花をボーッとみつつ、「あぁ、馬の目ってホントまんまるでクリクリしてて可愛いなぁ」とか、一見、競馬で儲けることと何にも関係ないことをしてると、ふとした瞬間に
「あ。いた」
と、気づくんですよ。
探して見つけたってよりも、
たまたま居合わせた感じ。
探してないときに、たまたま出会うんですよ。
雨上がりの虹と一緒。
そーゆーのが、虹馬の可能性がたかい。
スケベ根性で濁ったパドック宇宙を目から取り込んでるわけじゃなくて、
花とか馬のつぶらな瞳とかピュアものと自分の心が同期してる世界観でパドック宇宙をとらえてるから、
そんときにピンと直感的に視界に飛び込んでくるような馬は、たぶん、雨上がりの虹との遭遇のそれに近いような気がするんです。
つまり、エロ動画チャンネルに虹は映り込まないってことなんだ。
コノ馬、虹かな?のアンサーとして正しい感覚(仮説)
以上をふまえて、パドックで虹的な馬をキャッチできたぞ!ってことを想像してみてください。
心がピュアになってるときは、
「これ、虹との遭遇くらいレアなやつ?」って自分に問いかけたとき、なんつーか、静かな自信が、多分ある。
でも、スケベ心になっている場合はその問いかけの返事としての心の感触は、興奮気味になっちゃってる。
それは虹を見てない。欲にくらんでる証拠。
pornhubとかxvideosさがしてて、今夜のオカズが見つかっただけにすぎない。
そもそも雨上がりの虹を見てる時に欲に眩んでる自分はいないよね。
静かに心に染み込む感触を堪能してると思うんだ。
「うわぁ、虹だぁ」って。
だから、「これ、虹?」の問いかけのアンサーとして
「静かな自信」があると、より感度の高い感受性でその馬をキャッチできた可能性は高い。
けど反対にココロの反応が興奮気味なときは勝負を見送るのもアリかもしれない。
心に静けさがあるのが、たぶん、良いんだ。
なんか、自分の本命馬1頭が思い通りの着順でゴールする未来から映像を逆再生してきて、今、そのパドックを見てるときってのは当たる未来が確信できるから冷静なんだよ。
そーゆーときだけ、レートあげる。
それ以外は買っても100円。
というか、そもそもピュアなココロになんて滅多になれないし、月に1回あるかないかってレベルのレアな心の境地だから。
僕はたいていは100円買いが多い。
レートあげても1000円とか3000円くらいまで。
10000円は瑠星に遭遇レベルの幸運の流れをキャッチしたときくらいしかいかないかもしれない(つまり年1レベル)
で、たいていはスケベ心でパドックみちゃうのが、普通だからね。
パドックはpornhubじゃないのにね。
課題だよ。スケベ卒業したい。
女の子のお尻ばっか見ちゃうの、ダメかな?(笑)
あぁ、俺は虹になりたい。(痛い)
最後に
ミスチルの桜井さんが名もなき詩で歌ってるじゃん。
「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの」って。
「愛」を「虹」にかえて読み返してみると、俺の言いたいことが、もうちょい伝わるかな?
ココぞの勝負馬って、探して見つけるんじゃなくて、
気が付けばそこにある(いる)もの
ってことを僕はこの記事を通して伝えたかっただけで。
桜井さんは、「愛は気がつけばそこにあるもの」って歌ってる。
たぶん、桜井さんの中で「恋ってのは奪うもの」ってニュアンスがあって、それとの対比として
「愛は奪うでも与えるでもなく気づけばそこにあるんだ」と歌ってるのかなぁって、あくまでKOの解釈に過ぎないんだけど。
で、愛と恋の違いって、
アナタもそう思いませんか?
まだ手に入ってない相手を自分のモノとして奪いたいってのが恋でしょ?つまりスケベ心なんだよ。そこに愛はないんだよね。自分よがりな感情なんだよ。
それは競馬で当てたいとか儲けたいってのにも、通づるよね。
恋をしない。
スケベにならない。
静かになる。
静かだから、そこにある愛に気が付けるようになる。
パドックの虹も、心が静かだから気がつける。
たぶん、これなんだよ。
恋は盲目っていうしね。
パドックに恋しちゃダメなんだよな。
虹に気がつけないよ。
当てたい儲けたい、いい馬見つけるぞって意識でパドック映像みてるとき。それは、どちらかというとパドックに恋してるってことなんだ。愛ではないんだよね。
たいていは恋しながら見ちゃうんだ。
つまり、パドックで虹なんか滅多に見れないんだ。
たまにしか会えないんだ。
月に1回あるかないかじゃない?
巡り合わせだよ。
結局、運なんだ。
だから、自分の運を客観的に観察する習慣をつけて、
天運、人運、地運、時運のピークを見極めることも必要になってくるんだ。
4つの運が高まるほど、森羅万象(虹)との一体感が高まった状態になるんだとすれば。
4つの運が大吉になったときに、パドックへの意識は「恋」から「愛」になるんじゃないかな。
パドックへのギラついた眼差しもピュアになるんじゃないかな。
つまり、天運人運地運時運が高まるほど、
そこにある虹に気がつきやすくなるのかもしれないね。
おわります。ありがとうございました。
【追伸】
過去記事の運の話し(天運人運地運時運)が腑に落ちてくると、今回の記事が、より読者さんの気づきにつながると思うのでリンク貼っておきます。
あと、上の記事をchatGPTに放り込んだら上手に要約してくれてるので下に画面のスクリーンショットを添付しておきます。
GPTによる要約&解説
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