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【から傘の家とマキエマキ】

私の家は、1961年に建てられた、篠原一男という建築家の芸術作品「から傘の家」です。篠原一男はもともと数学者だそうで、「緊張」と「内向性」をテーマに、寸分の狂いも許さぬ数字を用いてうちを設計したと言います。

赤の他人の芸術作品に住む。これがなかなか大変で、ある意味、災難と言ってもいいかも知れません。
うちの場合、家族がこのデザインを望んだわけではなくて、昭和30年代という時代背景からしても、新進気鋭の建築家の威厳に従ったという感じでした。

暮らしの利便性なんか一切省いて、芸術として強烈なコンセプトを打ち出した家の造りに、無理やり自分たちの生々しい暮らしをはめ込んだわけですから、極めてアンナチュラルだったと思います。

建築の構造エネルギーがあまりに強過ぎると、そのエネルギーは、住む人に日々繰り返し刷り込まれて行くものなんじゃないかと疑わざるを得ませんでした。

一家の団らんや冗談を飛ばし合う温かさは、この家にはありません。低俗な下ネタや卑しい世間話など受けつけるはずもなく、ただただ圧倒的に厳粛で鋭い空気感があるだけです。
それが制限として、家族の心と身体に浸透して行ったような気がしていました。

企業戦士だった父は、家に居ると、から傘のロフトにこもって、誰にも知られることなく不気味でエロティックな創作を続け、母は強迫性障害を患い、掃除が止まらなくなり、この家のせいだと言って出て行き、私は性同一性障害で苦しみ、大人になると、まるで父を擁護するかのように、エロティックなマニア雑誌の挿絵を仕事にしました。

私は母を病気にして苦しめた家が、大嫌いでした。建築の世界でどんなに崇高な芸術作品と謳われようと、私にとってこの家は単なる権威であって、だからこそ権威あるものに反発することが、私の生き甲斐でした。

やがて出て行った母は亡くなり、父も亡くなり、私一人になり、その時あらためて、この大嫌いな家と自分との関係を見直すようになったんです。

約2年間、いろいろな方法で自分と向き合いました。先がまったく見えない、壊れそうな時間を過ごしながら、少しずつ自分の深い部分に触れて行きました。そして、気がついて行きました。

この家は、私を守ってくれたのだと。私がどんなに反発して、どんなに病んで悲痛な姿になろうとも、家はその象徴的な形を少しも変えずに、夏の日差しから守り、雨風を凌いでくれて、ただ黙って私を見守ってくれていたのだと。
つまり権威だの母を虐めただの、家に文句をつけていたのは、私自身だということです。

この家は、真っ向から反発する私が住んでいても、いつでもウェルカムでした。
なぜなら、から傘の家は、自分が芸術作品だということを知らないからです。
家は「緊張」も「内向性」も「権威」も知らない、大きな木のパズルなのでした。

私は一つの儀式を思いつきました。58年間、私が私に刷り込んで来た「緊張」「内向性」「権威」という呪いをぶち壊し、ゆるめること。
それには、から傘の家にはあり得ない、ネジのゆるんだ下世話で馬鹿馬鹿しい、できたらエロティックな何かが必要でした。

あっ!と閃きました。昭和B級エロをテーマに自撮りをする53歳熟女の写真家・マキエマキ。見るたびに爆笑していた彼女の作品は、まさしく、厳粛で崇高な私の家には一つもない要素でいっぱいです。
ダメ元で彼女に頼んだらどうだろう?

そう思いついた時、ちょうど六本木のギャラリーで個展を開催していた彼女に、話を持ちかけるチャンスが訪れました。
そして、幸運にもマキエマキは、快く私の願いに応えてくれたのです。

大荷物を抱えてやって来て、一人でメイクをして、脱いで着替えて、撮影の機材を組み立て、フレーミングして露出を見て、最後に場末の熟女になり切って撮影するマキエマキ。
一見スムーズに見えた撮影は、実は建築写真の要素がいっぱいで、かなり難航したそうでした。

ともあれ、ストイックな芸術作品の中に昭和B級エロの熟女。まったく不釣り合いで痛快な取り合わせが、ここに実現しました。

絵が観る人によって完成するならば、住宅は住む人によって完成します。
彼女のおピンクの魔法によって、私にとってのこの家は解体され、緊張と内向性が緩和され、初めてバランスが生まれ、完成して行ったのです。

ありがとう。マキエマキ。

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