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20世紀の記録として残したいこと(第4話)ソ連満州に侵入、父母2人の幼子を連れ命からがら大逃避行

(はじめに)


 
2022年の今、ウクライナにロシアが不法侵攻し、多くのウクライナの人々が戦火を逃れるため、命からがら外国へ脱出しています。私は、このニュースを聞くたびに、77年前満州国牡丹江市から、今のウクライナの人々と同じように、大逃避行して日本に引き揚げてきた父母や兄2人が思い出され、涙が出ます。以下のお話は、20世紀の歴史的記録として、皆様に、ご披露いたします。現代史を考えるうえでご参考にしていただければ幸いです。
 

4-1. 8月9日ソ連が満州に侵入


 
 父がようやく治りかけた頃、いよいよ戦況は悪化し、現地の日本人の男性は一斉に召集されました。戦後「根こそぎ招集」と名付けられたものです。父のところにも、召集に来ましたが、脳膜炎を患っているのと髪と髭がぼうぼうで、母がこの通りで使いものにならない状態ですと説明すると、そりゃしょうがないと、召集に来た人も引き上げていきました。それで召集されずにすみました。
 ところが、2・3日すると、ソ連(現ロシア)が、日ソ不可侵条約という国際条約を不法に破って8月9日に参戦し3)、満州、樺太、千島列島の3方面から、進攻してきました。その夜から、満州では、ソ満国境付近から開拓団の日本人が大挙して逃げてきて、牡丹江市の我が家の前を歩いています。母の記憶によると、それでも牡丹江市では8月9日10日の二日間は何もなく穏やかだったそうです。11日の午前10時頃から、日本の飛行機とは明らかに違うキーンという金属音のするソ連の飛行機が上空を飛ぶようになりましたが、空爆はなくソ連の飛行機もいつの間やらいなくなりました。しかし、12日午前10時頃になると、牡丹江市内にもソ連軍の空爆が始まったとのことです。最初に駅前通りの太平路にあった百貨店に大きな爆弾が落とされました。この百貨店は旧市街の中国人街にありました。どういうわけか、ソ連の爆撃機は、日本人街の新市街には落とさず、中国人街の旧市街に最初の爆弾を落としました。大型の1トン爆弾だったようで、この旧市街にあった自宅はその百貨店から1kmも離れているのに、自宅が半分動くような大きな衝撃がありました。大層頑丈だった煉瓦の二重の壁が大きくひび割れてしました。
 いよいよ大変な事態になったので、すぐ父は牡丹江駅まで情勢を見に行きました。一時間半位して自宅に帰って来た時には、父は散髪もしていて髪も髭も奇麗になっていました。さらに中国人の友人から情報も聞いて帰って来ました。ソ連が参戦したと聞くと、秋田県からの開拓団の村長は、すぐ密かに中国人に捕らえられ殺されてしまったそうです。当時、ソ満国境付近は国策として対ソ防衛のため、中国人を強制退去させたあとへ、日本人の開拓団が入っているので開拓団自体が恨まれており、日本人の村長はいちはやく標的にされたようです。村民は村長はどこに行ったのだろうと真実を知らなかったようですが、父は中国人の友人からこの情報を聞きました。このような容易ならざる事態に、父母はわが家を捨て二人の子供を連れて日本に帰ることに決心しました。
 しかし、牡丹江市当局からは、民間人は山の方面へ逃げろと指示が有ったそうです。なかにし礼さんの小説「赤い月」[2]には、そういう回覧板が廻っていたとの事です。日本人がほとんど住んでいない旧市街に父母達は住んでいたので回覧板は実際には見ていないが、そういう風評を聞いていました。そこで多くの民間人は山に逃げようとしていました。父はその人達と行動を共にしようと言いましたが、母は、山に逃げればよけいに帰れなくなる、駅に行って鉄道で朝鮮まで逃げようと、父を説得しました。4)母の叔父は当時、京城(ソウル)で朝鮮食糧営団の高官をしており、とにかくそこまで逃げれば何とかなると思ったのです。また母は読書家だったので、戦争になると鉄道等の交通機関が真っ先に外国に乗っ取られることや、戦争の後は伝染病が蔓延することなどを、本で知っていたそうです。それで鉄道が自国のものの間に逃げなければ大変なことになると考えたといいます。そこで、急いで、夜寒に備えシューバ(オーバー)を夫婦の分と長男の分の3枚と少々の衣類を詰めた柳行李を1つだけ、持って家を出ました。父は病み上がりでふらふらしており駅まで柳行李1つ持って行くのが精一杯だったのです。しかし、駅の中は軍関係の家族で一杯で混雑が甚だしく柳行李などの大きな荷物などは持ち込むことは不可能でした。そこで父は駅頭にその柳行李を中味ごと捨てざるをえませんでした。駅の中に入ると、列車には軍関係の家族のみしか乗せないと言われました。しかし、民間人にだって非常事態なので、とにかく京城まで逃げねばと無理やり父母達は列車に乗込みました。
 母によると、牡丹江駅に着いたのは昼頃と思うのですが、気が動転していてお昼ご飯を食べたかどうかさえ覚えていないということです。また列車に乗ったのは確かにお昼頃だったのですがなかなか出発せず、ようやく出発したのは午後4時過ぎの夕方(讃岐方言で:こばんげ)だったそうです。その時父母が乗ったのは客車でした。列車はソ満国境付近の奥地からの軍人の妻や負傷者でいっぱいでした。大勢の子供もいて、ハルビン(哈爾濱)に着いた時、母の座席の下からもその子供達がぞろぞろ出てきてびっくりしたそうです。因に、本当に奇遇なのですが、この列車は袴田佑子さんの小説「ひまわりの歌」[3]の家族が乗った列車と状況が酷似しており、全く同じ列車に父母達も乗ったものと思われます。
 

4-2. 列車による大逃避行開始


 
 このように親子四人、着の身着のままで牡丹江からハルビン(哈爾濱)まで汽車で南下しました。ハルビンには8月13日の午前11時頃着きました。駅近くでお昼ご飯を食べている時、ある人が隣の人に「今、牡丹江は空襲で火の海になっているそうですよ。」と話しかけました。話しかけられた人が、「ああ、その牡丹江からの人達がここに居りますよ。」と父母達を指さしました。よくぞ父母達は8月12日に牡丹江の家を捨ててでも出たものです。さもないと皆死んでいただろうと思います。父母が出発した翌日の8月13日における牡丹江駅周辺の大空襲の様子は「燃ゆる満州」[4]に詳しく、駅の中に幾つも首や手のない死体が転がっていたそうです。
 昼食をとった後、父にはハルビンはもと住んでいた所なので、駅前にある長兄太田竹市の友人の家を思い出して訪ねて、子供たちの衣類などを頂きました。満州の夜は8月とはいえ大変冷えるので、着の身着のままだとすごせないからです。ハルビン駅に戻り、さらに新京(現長春)まで客車に乗って南下しました。この客車も袴田佑子さんの小説「ひまわりの歌」[3]の家族と全く同じ客車と思われます。
 

4-3. 新京駅で馬糞の無蓋貨車に乗る


 
 新京(現長春)には8月14日に着いたそうです。新京駅に着くと乗客はいったん駅の外へ出されていまいました。そして、多くの民間人を軍が駅構内にはいれないように銃を構えています。戦後明らかになることですが、関東軍(日本軍)は、民間人を置き去りにして先に逃げたのです。そのため民間人は20万人もの難民となり広大な満州の土地で右往左往してしまい、悲惨な目にあったのです。南下しているものがあれば、北上してくるものもあるという大混乱になってしまいました。父には、新京ももと住んでいた所ですので、いわば地元で、駅の構造をよく知っていました。こんなところで、汽車に乗せてもらえなければ、大変なことになる。親子四人で便所に行くふりをして、大きく迂回して北から駅構内に入り、汽車に乗ろうとしました。止まっている汽車には、軍人や憲兵の妻子がいっぱい乗っていました。そしたら、私たちを乗せないと言うのです。憲兵の妻は大変威張っていました。父は、「同じ日本人じゃないか。私は病み上がりで幼い子供2人を連れてどうにもならないんだ。」と言いました。それで、渋々乗せてもらいましたが、空いているところは、馬糞が落ちているところでした。この汽車は無蓋貨車で客車ではありません。この無蓋貨車は前線に軍馬を送った後、帰りに軍人や憲兵の妻子を積んで、民間人より先に逃げているのです。軍は民間人より身内の軍関係者優先だったのでしょう。親子四人馬糞のついたわらのところに座りました。何が幸いするかわかりません、これが後に子供二人の命を救うのです。8月とはいえ、満州は夜大変冷え込みます。無蓋貨車の上に雨が降り、吹きさらしのため寒さで小さな子供が肺炎になって死んだりしました。ところが、馬糞とわらが雨水を吸って発酵し、ほんわかとした暖かさを子供達に与えました。一昼夜の間、満州の大地を無蓋貨車は走ります。その間、時々ソ連軍の飛行機の来襲があり臨時停車したりしました。5歳の長男正剛(まさたけ)は、僕が大きくなったらソ連をやっつけてやると悔し泣きしたそうです。また、トンネルに入ると、汽車の煤煙が子供達をおそいます。父や母は子供の顔をまたの間に挟んで子供達をかばったそうです。おしっこは、貨車の塀につかまってしました。父達を乗せないと威張り散らしていた憲兵の妻も、とうとう、みんなの手を借りて塀につかまり用を足しました。父も母も、人間最後は人の手を借りなければいけないことがある。あまり偉そうにするなと、これを教訓として私達子供に言っていました。ある駅を通過中に、日本人の奥さんが子供をおぶってのんびりとあやしています。それを見て、母は、「あなた大変なことになっているのよ、早く逃げないと!」と列車から叫びましたが、その人には何も聞こえなかったらしく遠くに過ぎ去ってしまいました。
 

4-4. 安東駅ホームで敗戦の報に接す


 
この無蓋貨車が満鮮国境の町安東(現丹東)に着いたのは8月15日午後2時位でした。そこで、天皇陛下の「終戦の詔勅」の玉音放送があったことを初めて知りました。駅のホームで誰彼なく知らない人と抱き合って皆泣きました。玉音放送は正午にあったのでその直後に安東に着いたのです。安東駅では、軍が手配してくれた4斗樽に何個もの炊き立てのご飯を、軍人の手から皆に配ってくれました。皆ハンカチや手拭いに入れてもらって食べました。しかし、1歳10ヶ月の次男義徳だけは、避難中に母乳が出なくなっていたので、非常に困ったそうです。この8月15日以降の次の列車では安東まで到着できず、奉天(現瀋陽)止まりとなりそこで一年悲惨な難民生活をした人の手記[5]がインターネットで見つかります。8月15日に敗戦になると満州では直ちに列車が日本側の思うようには動かなくなったようです。父母はよくぞ8月15日に安東まで来ていたものだと思います。一日でもいや一本の列車にでも乗り遅れていたら、病み上がりの父と幼児二人連れの母では、悲惨な難民生活は耐えられず、おそらく一家は全滅して満州の土になっていたことでしょう。
 

4-5. 安東市での不思議な出来事


 
 炊き出しをもらった後、ここの日本旅館に泊まりました。この日本旅館は、この列車が着く前から引き揚げ者支援のために用意されたものだったのだそうです。この安東の日本旅館には二日しかいなかったのに、なんと、中国人は太田の家族が安東まで逃げてきていたのを知っていたらしく、ここに牡丹江市の共同経営者の張魁元さんからの葉書が届きました。どういう情報網なのでしょうか。父は今も不思議に思っています。葉書には、「太田さんは中国人を大勢助けてくれ、本当によくしてくれた。ソ連が来ても共産軍や国民軍が来ても、絶対に家族とともに安全を保障するから、帰って来い。一緒に会社をやろう。」と書いてくれていました。しかし、父は子供達の将来が心配で、やはり日本に帰ることにしました。母も父からこの魁元さんの葉書を見せてもらったのを覚えていますが、あの大混乱のときにどうやって葉書が届いたのか今だに信じられないくらいだと言っています。
 

4-6. あと二日したら八路軍(共産軍)が来る


 
 父は毎日安東の駅に出かけて、中国人の駅員に話しかけて、情報を聞きました。そしたら8月17日朝に、その中国人の駅員は父の中国語を疑わず「たいじん(大人=だんな)、あと2日したらここに山東から八路軍が来る。」と教えてくれました。2日後の8月19日に中国共産党の八路軍が来てしまえば、安東の施政権は日本から完全に、中国に渡ってしまいます。その駅員は、今日朝鮮の京城(けいじょう:ソウル)まで向かう汽車が出るからそれに乗れと、教えてくれました。おそらくこれが安東から京城に行ける20世紀最後の列車だったと思われます。そこで、再び家族とともに列車に乗り京城に向かいました。今から考えると、この駅員が諜報機関員で鉄道電話か何かで張魁元さんに知らせてくれたのではないか5)。さもないと、あの大混乱の時に2日くらいで牡丹江市から安東市まで葉書が届くはずがないと、父は言っています。その駅員には太田康雄(タイテン カンシュン)と名乗ったとのことで、もし、この駅員が諜報機関員だったとすると、不思議なのは、父が中国人にとって不都合な日本人なら、こんな親切はしなかったろうということです。むしろ殺されていたのではないでしょうか。父がいかに中国人から信頼されていたかがわかります。父は、中国人は仁義に厚い民族だ。おれの考え方は今も中国式だ。中国人や満州がたまらなく好きだ。死んだら、法名(戒名)を是非「康徳院満州居士」としてくれと言っています。康徳は満州国の元号です。
 
*1.なお冒頭の写真は、満州国国旗です。Wikipediaから引用させていただきました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Flag_of_Manchukuo.svg  
2018年11月12日 (月) 16:12 更新分
 
 
*2.参考文献等は第7話にまとめて示しました。
 
2000年12月10-12日随筆
2001年4月18日加筆
2001年4月27-29日加筆
2001年6月14日加筆
2003年4月26-30日追記と修正
2003年6月12-13日修正
2003年8月11-16日最終修正
2022年5月27日7編へ分割編集
 
本記録に関して

本記録は、20世紀の記録として是非、残しておきたいと思い、生前の父太田安雄(通名は康雄)、香川県三豊郡山本町(現三豊市山本町)在住、から、聞き書きした記録文です。父は、大正5年(1916年)9月14日生まれで、平成15年(2003年)4月5日、87才になる年に亡くなりました。聞き書きしたのは、西暦2000年から2002年の3年間です。父が生きている間に、是非、貴重な記録として残しておきたいと思い、父やのちには親戚からも取材し本文をまとめました。非常に長くなったので、話題ごとに7編に分割掲載いたしますが、どの話題も皆さんがほとんど知らない大変興味深い話だと思いますので、ご一読頂ければ幸いです。

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