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上田市付近の木曽義仲の遺跡

はじめに

2004年から健康のため散歩を始めました。ただ散歩だけでは続かないので、信州上田市内の神社仏閣を全て訪ねて回わることにしました。その中で、上田市内には木曽義仲に関する遺跡が沢山あることに気がつきました。
そのため、あわせて「平家物語」を全巻読んだところ、木曽義仲は丸子町の依田城に約二年いて東信の兵馬を集め、ここから京に攻め上ったことを初めて知りました。木曽からではなく東信(東信濃地区)から、源平の合戦が始まったのです。
今まで私が訪ねた上田市付近の木曽義仲の遺跡を以下に紹介します。多くは上田市民にもほとんど知られていません。
これらは、合併後の新上田市の新しい観光資源になるものと思います。

1.  木曽義仲の守護神:参上神社上田市諏訪形

参上神社は荒神宮とも呼ばれます。この参上神社由来はつぎのとおりです。

木曽義仲はここで戦勝祈願をし、今井蔵人豊成に永代奉仕するように命じました。
宮司さんは今も今井氏です。木曽義仲の命令を841年間守り通しています!ギネスブックものだと思います。源(木曽)義仲は、二才のとき京で悪源太義平の殺害を免れ、ひそかに斉藤別当実盛によって木曽の中原兼遠の元に預けられ、兼遠によって養育されました。樋口治郎兼光、今井四郎兼平、巴の三人は全員中原兼遠の子で、木曽義仲の乳兄弟です。樋口治郎兼光、今井四郎兼平は義仲軍の四天王のうちの二人であり、巴は、義仲の恋人の一人で、一人当千の女武将として有名です。今井四郎兼平は、粟津の戦で壮絶な最期を遂げ「平家物語」で著名です。この参上神社の由緒に出てくる今井蔵人豊成は、その今井四郎兼平の子のようです。

(詳細は次のnote記事に記載しましたので、そちらをご参照ください。)
https://note.com/ko52517/n/nc8515bafd24d

以下は、長野県民にも、いや上田市民にさえ、よく知られておりませんので、写真を用いて、皆様を、以下の遺跡群へとご案内いたします。

2.  鎌倉道を塩田平から砂原峠へ

写真ー1 上田市丸子町砂原峠付近に建つ「木曽義仲挙兵の地」の看板1

写真ー2 上田市丸子町砂原峠付近に建つ「木曽義仲挙兵の地」の看板2

上田市の砂原峠付近の旧丸子町(現上田市丸子町)依田地区は、義仲挙兵の地の看板に下方に案内図があり、それによるとこの地区には義仲の遺跡がいっぱいあります。

写真ー3 信州上田市丸子町依田地区にある「木曽義仲関連史跡案内図」

2-1. 義仲が東信で2年間根拠地とした依田城

写真―4 宗龍寺の案内版

依田城址の入り口は宗龍寺の案内板が目印です。
ここから100m位登ると登山道入り口の木柱があります。しかしながら、3月初めはまだ雪があって登れませんでした。

写真ー5 依田城址登山道入口と書かれた木柱

雪のなくなった4月初めに再度訪れました。

30分ほど山道を登ると山中にまた標識がありました。

写真ー6 依田城址登山口と書かれた標柱

しかしこの標識のみで、右に行くのか左に行くのかここからの道がよくわかりませんでした。ここに詳しい案内地図がほしいものです。山中一人で危険なので、残念ながらここで断念しました。

写真―7 依田城址のある山頂を遠望

山を下りて麓から山頂を見ました。あの山頂が依田城址らしいです。誰か詳しい人を連れて再訪を期しました。

宗龍寺から義仲館跡に向かいました。御岳神社の一の鳥居が目印です。

写真―8 木曽義仲館跡に行く目印、御岳神社の一の鳥居

写真ー9 300メートルくらい登ると右手にある義仲館跡の看板

写真―10 この看板に、平家物語に出てくる場所との記述があり。しかし、地元の人にもほとんど知られていない。

写真―11 義仲館跡からの抜群の眺望。東信地区の主要交通を全て一望できる、軍事上重要な位置に建っていたことがわかります。

義仲館跡からさらに300m位登ると御岳神社二の鳥居がります。この御岳神社から道を戻って下ります。そして、次に、岩谷堂に向かいます。

2-2. 岩谷堂

写真―12 岩谷堂へ行くには、岩谷堂観音宝蔵寺の看板が目印です。

写真ー13 義仲が馬で登ったという急な石段を登ります。

写真ー14 この石段途中に、義仲がお手植えしたという桜の大木「義仲桜」があります。

写真ー15 樹齢800年の義仲桜。義仲お手植え。桜の品種は、江戸彼岸桜。

写真―16 石段を登りきると、崖に岩谷堂観音があります。この観音堂前の案内板に、義仲が先勝祈願のため、ここに参詣したと書かれています。

2-3.巴御前お歯黒の池

写真ー17 巴御前のお歯黒の池―1

写真ー18 巴御前のお歯黒の池―2

つぎに、「巴御前お歯黒の池」に向かいます。岩谷堂から約300m松本側にある白髭神社が目印です。この神社の裏手の押出地区にあるこの小さな池が、「巴御前お歯黒の池」です。巴御前は、今流にいうと義仲の恋人です。

3.  依田地区・砂原峠から塩田平・別所温泉へ

図―19 旧丸子町依田地区から砂原峠を越えて、上田市塩田地区へ到る道は、「塩田の鎌倉道」と呼ばれます。


別所温泉・大湯(葵の湯)

写真ー20 上田市別所温泉地区にある大湯(別名葵の湯)

写真ー21 上田市別所温泉地区にある大湯(別名葵の湯)前にある石碑

義仲のもう一人の恋人葵と、義仲は、この砂原峠を越えた別所温泉地区にある「大湯」という温泉に入りに来ていました。吉川英治の小説「新平家物語」に、その大湯に入りに来た場面が、大湯の前にある石碑に引用されて刻まれています。

4.  上田市上田(山口地区)の白山ひめ神社も木曽義仲ゆかりの地

白山ひめ神社

写真―22 上田市山口地区にある白山ひめ神社入口

写真ー23 ここの案内板に、治承四年(1180)二月三日源義仲が、ここで戦勝祈願したとあります。

5.  東部町白鳥神社・海野氏の氏神、海野一族の海野行親は義仲軍に参加

写真ー24 上田市のすぐ東隣にある旧東部町(現東御市東部町)の海野宿入口にある、白鳥神社。海野氏の氏神様。

写真―25 境内の案内板に、この神社前が義仲軍の「白鳥河原の勢揃い」が行われた場所であること、また、平家物語で大変有名な義仲の祐筆大夫坊覚明も海野氏の出身であることが書かれています。

写真ー26 この白鳥神社横の千曲川の河原は、白鳥河原と言います。治承五年(1181)この白鳥河原に義仲軍三千騎が勢揃いし、ここから源平の合戦が始まりました。

6.  横田河原の戦の地

写真―27 長野市横田地区が、平家物語に出てくる「横田河原の戦」の地です。義仲軍はわずか三千騎で四万騎の城四郎長茂の平家軍を、横田河原の戦で打ち破りました。

7. 上田市手塚地区

(この項の詳細な説明と写真は、次のnote記事に既に記載しましたので、そちらをご参照ください。)
https://note.com/ko52517/n/nc8515bafd24d

なので以下は写真なしの概要のみを述べます。

7-1. 手塚大城

現倉沢正二郎氏宅地のことを通称てづかおおしろといいます。ここは手塚太郎金刺光盛の館跡です。このお屋敷の北西の隅に、唐糸観音堂があります。

7-2.唐糸観音堂

手塚太郎金刺光盛の娘「唐糸」とその娘「万寿姫」がここにまつられています。唐糸は頼朝暗殺を計りましたが、事前に発覚して石牢に入れられました。その娘の万寿姫がその唐糸を救い出し、二人無事鎌倉から手塚に帰ってきました。
 唐糸と万寿姫の物語は「唐糸草子」で中世より全国的に知られています。戦前は尋常小学校の教科書にも載っていました。

7-3. 手塚太郎五輪塔

つぎに、倉沢宅を出て「手塚太郎五輪塔」を目指しました。道を北へ200mくらいの所に堰口(せんげぐち)地区の生活改善センターがあります。ここが目印です。その道の斜め向かい側に樋口氏宅があります。

その樋口氏宅のお庭に「手塚太郎五輪塔」があります。

手塚太郎金刺光盛は義仲の重臣で、ここ上田市手塚の出身です。

この五輪塔の横に祠と女性の坐像があります。この女性像は、唐糸と推定されます。

8. 巴・山吹の五輪塔

写真―28 上田市富士山・町屋地区の「巴・山吹の五輪塔」がある墓地の遠景。

写真―29 上田市富士山・町屋地区の墓地の中にある「巴・山吹の五輪塔」

上田市富士山・町屋地区には「巴・山吹の五輪塔」があります。この地区の墓地の中、峯村家のお墓の横に「巴・山吹五輪塔」があります。でも案内板など全くないなく、見つけるのに大変苦労します。しかしながら、旧富士山村の村史の中に写真と説明が載っており、これを見て、私は見つけ出しました。

巴と山吹は、ともに義仲の恋人で、ともに一人当千の女武将として有名です。義仲には、恋人が、巴、葵、山吹など、何人もいたのですね。

旧富士山村の村史によれば、この「巴・山吹の五輪塔」は、近江の粟津で義仲が義経軍に討たれた後、この地に逃れて名を隠して住んだ義仲の家来が、これを建てたと言われています。しかしながら、その3代目に子がなくその家は断絶して今はないとのことです。

義仲は、一時日本の三分の一を支配し、京の平家を都落ちさせたつわものでした。しかし、同じ源氏の頼朝・義経に滅ぼされてしまい、わずか10日余りの間だけ征夷大将軍でした。頼朝は、義仲の勢力の中心地であった東信地方が反乱しないように、鎌倉幕府を開いたら、この上田市塩田地区に腹心の地頭を全国で最初に置きました。この地方の強力な武士団と軍馬を押さえるのが目的でした。後の塩田北条も、この地が反乱しないための布陣でした。そこで、義仲の家来たちはみな名を変えたり、別の場所に逃れて隠れ住みました。これを「義仲軍の落人」といいます。その後塩田平は、かえって鎌倉との結びつきが長く続いたため、「信州の鎌倉」と呼ばれるようになりました。

9. 丸子町依田地区の正海清水(湧き水)

写真―30 上田市丸子町依田地区の正海清水(湧き水)-1

写真―31 上田市丸子町依田地区の正海清水(湧き水)-2

この辺りは義仲の長男、清水冠者義高の屋敷があったところです。清らかな湧水が出ているところで、しばらく前まではこの清水を付近の集落の水道の水源地として使っていました。この湧水は、昔から正海清水と呼ばれていました。それで、義高の清水冠者という号の元になりました。

義仲の長男清水冠者義高は、頼朝の娘の大姫6才の許婚(いいなづけ)ということで、頼朝のもとに送られ、頼朝の屋敷に住んでいました。しかしこれは、頼朝の策略で、義仲が反抗しないようにするための実質的な人質でした。義高は、父の義仲が粟津で戦死した後、頼朝から殺害命令が出されて、命が危なくなりました。そこで、頼朝の娘で許婚の大姫が、義高を女装させてひそかに屋敷から逃がしました。しかし、現在の埼玉県の入間で、追手に追いつかれ、殺害されてしまいた。わずか12才でした。

大姫は、許婚の義高が父頼朝に殺害されたことを知り、その後、重い欝状態になり19才で失意のうちに亡くなったといいます。義高・大姫の悲恋物語は、今も多くの人の涙を誘います。頼朝は、自分の娘の幸せをどう考えていたのかと思ってしまいます。冷酷無情とはこのことでしょう。

10. 上田市八木沢・八木沢天満宮

写真―32 上田市八木沢・八木沢天満宮。ここに義仲の死後550年のゆかりの石碑がある。鳥居裏左手。

ここ八木沢天満宮の鳥居裏左手に、義仲の死後550年のゆかりの石碑があります。

写真―33 義仲550回忌碑、中央に「朝日将軍義仲公大居士」文字が刻まれた供養塔

写真―34 この説明文に、享保17年(1732)八木沢村の治郎左衛門がこれを建立したとあります。

この石碑には、「施主二十代孫手塚氏治郎左衛門」と刻まれており、治郎左衛門は手塚太郎光盛の子孫の一人のようです。しかし、それまで小松氏を名乗っていたといいます。これは「義仲戦死後、手塚地区の手塚氏は、頼朝からの義仲軍落人狩りの危険を避けるため、どこかに逃げ今は手塚姓の家は手塚地区に一軒もない。」という、手塚在住の郷土史家曲尾勝さんの言が思い出されて興味深いです。手塚一族のうち、今の茨城県に逃げ出した子孫に、手塚治虫さんがいます。また手塚一族のうち、治郎左衛門の祖先は、ここ八木沢村(現上田市八木沢地区)に逃げてきたことがわかります。さらに、手塚一族のうち、小牧山(現上田市須川地区)の山中の須川湖周辺(現上田市須川地区)にも逃げてきて現在もお住まいになっている子孫もおられます。このように手塚氏一族は、手塚地区から逃げ出し散り散りになって行ったことがわかります。

頼朝は冷酷な男で、義高・大姫の悲恋物語以外にも、例えば「子敦盛」という草紙本によれば、密告を奨励して平家の子孫などは赤子といえども、全国からすべて見つけ出して殺害したといいます。現代風に言うと、義仲軍の落人や平家の落人たちは、「ジェノサイド(民族絶滅大量殺戮)」にあっていたことになります。平家の落人は、全国各地に逃げ、遠くは九州屋久島よりもまだ先の吐噶喇(トカラ)列島にまで逃げて行ったことがわかっています。従って、義仲の落人である治郎左衛門の祖先は、550年もの間、手塚氏の子孫と名乗れない時代が続いたのでしょう。江戸時代になってやっと公表できたものと思われます。治郎左衛門はよくぞ生き残っていたものだと思います。したがって、550年後ようやく世間に、自分は手塚太郎の子孫だと公表できたことを示すこの石碑は、歴史的にも大変貴重なものだと思われます。

おわりに提言

このようにたくさんある木曽義仲の遺跡群を上田市の新観光資源として整備してほしいです。
•木曽義仲の極めて貴重な遺跡が沢山あるにもかかわらず、ほとんど上田市民にも知られていないものが多いです。
•案内板などが無く、極めて見つけにくいところが非常に多いです。
•上田市の新しい観光ルートとして整備すれば、新たに多くの集客が見込めると思います。
•また、観光資源として保護しないと、貴重な遺跡が煙滅してしまうことも危惧されます。早急に、対策を取って欲しいです。


*冒頭の写真は、信州上田市丸子町依田にある木曽義仲館跡地に掲示されている看板です。(教育委員会設置)

信州上田之住人和親
2005年4月24日 随筆
2021年7月 2日 加筆

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