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信州上田の三吉米熊としだれ桑の謎

(はじめに)

信州上田市には、他の地域ではほとんど見たことのない「しだれ桑」という観賞用植物が、市内の4か所に並木として、植えられています。約40年前の1982年に信州大学繊維学部に助手として赴任した私は、上田キャンパスのことは全く不案内で何も知りませんでした。そこで、定年間際の老教授がキャンパス内を私を連れて、親切にも建物や植物について説明してくれました。このキャンパス内には、私は他では全く見たことがない、枝が上から下に垂れ下がった桑の木が、観賞用に2ヶ所並木として一杯植わっていました。そこで、この老教授は「この植物は、昔、フランスに留学した人が、持って帰って来て植えたものです。」と説明してくれました。ところがその時、持って帰ってきた人の名前については聞きそびれてしまっていました。その後、老教授も退官され、10年ほどして、ようやくそのことを疑問に思った私は、「誰がフランスから持って帰ってきたのか」いろんな教員に聞いてみたのですが、誰も知りませんでした。長い間考えてきましたが、どうやらその人は、幕末の志士で坂本龍馬の親友だった三吉慎蔵の子で、明治にフランスのリヨンに留学して養蚕学を学んで帰ってきた三吉米熊ではないかと結論するに至りました。今回は、この信州上田の「しだれ桑」の歴史解明のお話です。

1. 上田東高校と三吉米熊

上田東高校は、実は信州大学繊維学部よりも創立が20年ほど古く、明治25年にできました。ここが蚕糸教育のための幼年学校で、初代校長先生は、フランスのリヨンで蚕糸学を修めてきた三吉米熊という人です。この人のお父さんは「槍の慎蔵」といって幕末活躍した人で、長州(現在の山口県)下関出身で、坂本龍馬の親友だった人です。龍馬が、自分が暗殺されそうな事を悟り、自分が死んだら、妻のお龍(りょう)を頼むと手紙で頼んだ相手です。上田にはこの慎蔵の曾孫(ひまご)の三吉治敬さんが今も在住しており、お家に龍馬の手紙が多数残っているそうです。この慎蔵の息子が米熊で、上田東高校の前身の小県蚕業学校の初代校長です。また、この米熊は、信州大学繊維学部の前身の上田蚕糸専門学校を作った立役者でもあります。中心的設立メンバーだったのです。米熊は上田蚕糸専門学校が設立された当初は、上田蚕糸専門学校の教授もしばらく兼任していたようです。昭和2年に亡くなりました。蚕都上田の恩人で、いまも上田城址公園内で銅像によってその功績が顕彰されています。その銅像は、上田城の二の丸橋から真っ直ぐ正面を入ったところに建っています。この銅像の前の銘板には、信州松本藩出身で明治の初代文部次官辻新次の書で、功績の説明文があり、裏面の壁には上田蚕糸専門学校の初代校長の針塚長太郎先生の書の銘文もあります。針塚先生は、上田蚕糸専門学校が明治43年に開校され翌明治44年4月から入学生を受け入れ以来、24年間校長を務めた信州大学繊維学部の学祖です。したがって、蚕都上田は、三吉米熊と針塚長太郎の2人の偉大な蚕業教育者によって支えられたといえます。彼らが設立した学校が、幼年部としての小県郡蚕業学校で現在の上田東高校と、高等部としての上田蚕糸専門学校で現在の信州大学繊維学部です。したがって、上田東高校と信州大学繊維学部はもともと兄弟の学校でした。それで今も隣同士であるのです。
上田東高校正門に向かって左に建っている「校基百年」の石碑があります。この碑文は海部俊樹元首相の書です。この石碑の裏面には、校歌が刻印されていて、これは土井晩翠が作詞したものです。
上田東高校から信州大学繊維学部まで来ると、繊維教育実験実習棟わきに一列に並んで「しだれ桑」が植えられているが見えます。私が約40年前に繊維学部へ赴任した時に聞いた「しだれ桑」の歴史は次の通りです。当時は古き良き風習が残っていて、新任の若い先生は古参の先生に連れられて、全学科の先生方のところを回り、紹介され挨拶をして回ったものでした。私は、すぐ上の上司の先生に連れられて回りました。そのため、キャンパス内では教官はお互い全員顔を知っていたものでした。挨拶回りはしたのですが、学内の建物や植物の歴史については全く知りませんでした。しばらくしたころ、定年直前の老教授から、声をかけられ、キャンパス内を知らないのなら私が案内してあげようと昼休みに親切に連れて歩いて説明してくれました。その時の一つとして、「しだれ桑」はこの大学の前身の上田蚕糸専門学校が設立されたころ、フランスのリヨンに留学した人が、観賞用にフランスから持って帰った大変珍しい植物だとの説明を受けました。上田では「しだれ桑」は方々で見るので珍しくはないのですが、他では全く私は見かけたことはありません。平成20(2008)年5月、三吉米熊の出身地山口県(長州)の下関市とここ長野県上田市が姉妹都市になったとき、これを記念して母袋(もたい)上田市長が「しだれ桑」の苗木を下関に持って行って植樹しました。それくらい珍しい上田を代表する植物なのです。私はこの「しだれ桑」を持って帰ったフランス帰りの人は、誰だったのかといつも考えていたのですが、誰に聞いても誰も知らないとのことでした。その人のことよりも、まず「しだれ桑」のことさえ、ほとんどの人が知りませんでした。
私は「しだれ桑」を留学先のフランスリヨン市から持ち帰ったのは三吉米熊その人ではないかと、以下に述べる、長年の市内観察と考察から結論しています。

2.上田市内にある「しだれ桑」の並木4ヶ所から考察

上田市街地の地図。地図内に赤線で囲ったところに、しだれ桑の並木が見える。場所1:上田東高校本館南側、場所2:信州大学繊維学部キャンパス内、場所3:笠原工業上田の道沿い、場所4:上田城跡公園三吉米熊銅像に至る小径沿い

(2-1)上田東高校の本館の南側のしだれ桑並木

上の上田市街地の地図をご覧ください。この地図の南東の隅辺りをご覧ください。ここに1と書いた場所、すなわち、上田東高校の校内、赤で囲ったところに、「しだれ桑」の並木があります。上田東高校の本館の南側に平行して一直線に、きわめて古い「しだれ桑」の並木があります。しだれ桑の木は、とても成長が遅く、直径20センチくらいになるのに、およそ100年はかかるようです。したがって、上田東高校の「しだれ桑」の太い古木は、100年以上は経っていると推定されます。上田東高校は、明治25年(1892年)に小県蚕業学校として設立されました。初代校長は三吉米熊です。

(2-2)信州大学繊維学部キャンパス内のしだれ桑並木

上の地図をもう一度ご覧ください。上田東高校のすぐ南に、2と書いた場所に、すなわち、信州大学繊維学部があります。ここにも、キャンパス内で赤で囲ったところに、「しだれ桑」の並木があります。信州大学繊維学部の前身の「上田蚕糸専門学校」は、明治43年(1910年)に旧制帝国単科大学として創立されました。この設立準備委員会のメンバーとして三吉米熊が入っていました。設立後は、ここの教授も兼任していたようです。

(2-3)笠原工業上田工場のしだれ桑並木

写真:笠原工業上田の繭蔵としだれ桑の並木。冬なのでしだれ桑には葉っぱはない。

上の地図の中でちょうど真ん中下に、3と書いたところにも、しだれ桑の並木が街路樹として植えられています。この横の会社は笠原工業という会社です。笠原工業は、明治11年、岡谷市にて製糸業を開始し、明治33年には、常田館製糸場として上田市にて工場を創業しました。ここは、その上田工場です。現在は発泡スチロールなどの製造販売をしていますが、昔は製糸業を営んでおり、工場内には昔は繭蔵として使っていた建物や、製糸の展示館があり、現在の上皇上皇后陛下が、退位する直前に、ここを見学に来られました。上皇后陛下に養蚕をご指導された方が、この会社におられるとのことでした。

(2-4)上田城跡公園三吉米熊銅像に至る小径のしだれ桑並木


上の地図をもう一度ご覧ください。この地図の北西の隅のあたり、4と赤字で書いた辺りに上田城跡公園があります。この上田城跡公園を二の丸橋から入ってすぐに、小路があり、この小路の周りに、「しだれ桑」の並木があります。この小路をずっと進むと、その突き当りに三吉米熊の銅像があります。この銅像は、1916年(大正5年)に小県蚕業学校校庭に建立されましたが、最終的には1933年(昭和8年)上田城跡公園に移転されています。また、この小路を入ってすぐ左手、しだれ桑並木の中の1本のしだれ桑に、白い説明版がぶら下がっています。それによると、昭和8年だったかに、小県蚕業学校にあったしだれ桑を移植して、このしだれ桑の並木を作ったとの経緯が書かれています。つまり銅像移転と同時に、三吉米熊ゆかりの小県蚕業学校のしだれ桑を移植したのでしょう。

(おわりに)

以上の4ヶ所のしだれ桑並木は、全て養蚕業と密接に関係し、そのうち3ヶ所が、蚕都上田の恩人である三吉米熊抜きには考えらない場所にあります。そして、三吉米熊は、明治22年(1889年)から明治24年(1891年)まで、フランス・イタリアに留学し、特にリヨンで養蚕学を修めています。したがって、信州大学繊維学部など上田市内にあるしだれ桑は、三吉米熊がフランスのリヨンから持ち帰ったものであると、私はかなりの確信をもって、結論しています。
しかしながら、成書の記録を見たことがありません。どなたか「しだれ桑」と三吉米熊の関係が書かれた成書の存在を知っている人はいませんか。

*冒頭の写真は、上田城跡公園内の三吉米熊の銅像

信州上田之住人和親
2009年10月9日随筆
2011年8月16日加筆
2013年1月1日修正
2021年10月15日加筆修正

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