ハワイの老ガイド、ジェー厶スとチャーリー
1、はじめに
2010年に15年振りにハワイに行きました。そこで、二人の老ガイド、ジェームスとチャーリーに出会いました。二人からとても考えさせられる話を聞いたので、是非皆さんにも紹介したいです。すこし前の話ではありますが、昨今の日本を取り巻く国際関係を考える上で参考になると思います。
2、ハワイの日系米人老ガイド、ジェームス
一人は、昭和5年(1930年)生まれの80歳で、ハワイの現役日本語ガイドで最高齢者の、ジェームス森という日系米人です。この老ガイドの話には、ハワイの王朝の歴史について色々と考えさせられました。
私はホノルル滞在中、ホノルルから北へ70kmくらい行ったところにある人気のポリネシアンカルチャーセンターというところへのバスツアーに参加しました。ホノルル市内のホテルの前で待っていると、バスが迎えに来て、中から70歳くらいに見えますがが腰もしゃきっとして、帽子に半袖・長ズボン姿のおじいさんが、降りてきて、日本語で「ツアーに参加する方は、このワッペンを胸に貼ってください。」と喋りながら、裏に接着剤のついたワッペンを私の胸に貼りつけました。私のホテルの前では、4人の日本人が乗り込み、次々、近くのホテルを巡って、全部で二十五人くらいの日本人を乗せてから、ホノルル市を抜けH1(エイチワン)という高速道路に入りました。しばらくすると、老ガイドは日本語で自己紹介をしました。
「これから約一時間半から二時間かかって、70km離れた、山の向こう側のポリネシアンカルチャーセンターまで参りますが、その間、私が周辺をガイド致します。私は、昭和5年生れの80歳で、ハワイでは現役のガイドの最高齢で、ギャラが一番高いガイドです。ですから、皆さん、寝ないで、是非私の説明を聞いてください。」
「右手に見えてきましたのは、ハワイ大学です。ここで、皆さんハワイの歴史についてお話します。ハワイは有名なカメハメハ大王が、ハワイ全土を統一し、王朝を打ち立てました。独立王国として世界に認められておりました。日本の明治時代カラカウア王のとき、王は世界中を旅し日本にも立ち寄り、その時明治天皇にハワイ王妃と天皇家との婚姻を申し込まれました。早速、御前会議が開かれ、・・・皆さん御前会議といいますのは、天皇陛下が御臨席した会議のことですよ。・・・御前会議では、大臣達が、万世一系の天皇家に外国人の血が混じっていることは良くないことだという反対が多数で、このハワイ王朝と日本の天皇家との婚姻は成りませんでした。カラカウア王は大変開明的な王様でしたが、除々にアメリカの政治顧問達に政治を牛耳られるようになり、カラカウア王の死後、妹のリリウオカラニが女王となりましたが、王宮の一室に幽閉されて、アメリカに実権を乗っ取られ、ハワイ王朝は1893年に滅亡し、ハワイはアメリカの属州となってしましました。皆さん、勝てば官軍、負ければ賦軍といいましょう。戦争には勝たなければ、国も国語もなくなってしまうのです。日本の若い皆さんも是非、覚えておいてください。」
「さて、皆さん、次にあの山の上にある大きな建物を見てください。あれは、カメハメハ大王高校といって、ハワイ人の血が入っていない人は、全く入学することができない高校です。カメハメハ大王高校はハワイ最後の女王のリリウオカラニが私財を投じ、ハワイ人の将来のため、建てた学校です。授業料もただ、全寮制で寮費も食費も一切がただです。でも、我々が入りたいと言っても、ハワイ人の血が入っていないので入れません。今も王家の膨大な財産の運用益だけで、この高校はまかなわれています。」
そこで、ジェームスに質問があった。
「あの高校ではハワイ語で授業しているのですか?」
「いいえ、今は全部が英語です。ハワイ語は第二外国語として確か教えているだけです。戦争に負ければ、百年も経つと国語さえなくなってしまうのです。」
「次に、峠にさしかかりますが、この峠に長いトンネルがあり、ここがオアフ島の南と北を分けるところです。南は晴れが多く雨が少ないのですが、北側は雨が多く、この峠の向こう側はいつも雲や霧がかかっています。この峠で、これから長いトンネルに入りますが、ハワイの神様は全部、このトンネルの中に集まっていることになっています。だから、このトンネルに入ると、息を止め、お願いを三つ言うと、三つとも神様が聞いてくれるそうです。だから、皆さん今から三つお願いを考えておいて下さい。でも、トンネルが長いから、ずっと息をこらえているということはできませんので、まずトンネルの入口で息をとめ、三つお願いを心の中で言ったら、いいですから息をしてください。死んでしまっては何にもなりません。」
トンネルを抜け、山を降りて少し大きな町を抜けると、山が海にせまり、山と海の間の狭い土地に時々小さな集落が現れては消えた。
「この辺りに最後まで残っていた伝統的なハワイ原住民の部落は全部なくなりました。これらの洋風の家屋を建てる土地や家の費用は、金利ゼロのローンで、支払期限なしという、好条件です。これは、アメリカ人のハワイ原住民への罪ほろぼしなのです。無理やりハワイ人から取り上げた土地なので、ハワイ人が近代的な家をほぼ無料で建てられるようにしたのです。この辺りに住んでいるのは、ハワイ原住民が半分、アメリカ本土から退職後、移り住んだ老人が半分です。」
「土地代はどれくらいですか。」
「この辺りの土地、ものすごく安いですよ。1エーカーつまり1200坪で百万円くらいです。だから、1200坪買って六つに分けて、五つは売って、残りの土地に自分で日曜大工で建てるんです。家を建てていたら周囲の人々が毎日手伝ってくれますから、土地も家もただみたいなものです。あそこの家もここの家も見てください。土台がないでしょう。ああいうふうに、土台がない家は自分で建てたものですよ。」
「皆様、あの島を見てください。チャイナマンズハットという名前の島です。中国人の労働者がかぶっている帽子に似ているので、そういう名前がつきましたが、それまでは無名の島でした。この辺りでしか取れないものに、黒珊瑚があります。黒珊瑚は、世界中でここでしか取れないもので、ハワイの人はこれを身につけていると、一生健康で病気をしないと言われています。私もこのように腕輪にして身につけているので、80歳のいままで健康で、今も働けています。次にトイレ休憩するところは、黒珊瑚の本物を売っているジェームスが品質を保証する店です。ホノルル市内では偽物が多いので、ここで買った方が安心です。ここは、ジェームスが保証します。皆さんの健康、夫婦円満のため、是非お買い求め下さい。」
黒珊瑚なんて初めて聞いたし、ジェームスが盛んに勧めるので、まあ、だまされたと思って、八千円くらいの安い黒珊瑚の腕輪を、ハワイの記念と妻の健康のために買うことにしました。また、私の母も父から満州で買ってもらった珍しい黒ダイヤを、時々眺めて喜んでいたことを思い出したので、私も妻の顔を思い浮かべながら黒珊瑚の腕輪を買いました。買って中をみるとちゃんと品質保証書がついていました。
ここを出て、再びバスに乗ると、もうポリネシアンカルチャーセンターに間近でした。ちょっとした公園の横を通ったとき、「ここの公園の中に、日立の宣伝で有名になった『この木なんの木』があります。」とジェームスに言われました。なるほど、よく似た木がいっぱい立っていました。
「もうすぐ、ポリネシアンカルチャーセンターです。私はここでお別れです。バスは一旦、ホノルルに戻りますが、バスは夜10時に迎えに来ますので、同じ駐車場の番号に皆様、お戻り下さい。くれぐれも駐車場の番号3番を忘れませんように。」
ということで、ジェームスと別れました。色々と興味深いハワイの歴史の話を聞かせてもらってありがたかったです。
ハワイの歴史に興味をもったので、後日ワイキキからバスに乗ってイオラニ・パレスを訪ねました。イオラニ・パレスはハワイ王朝の王宮であり、ワイキキとホノルル国際空港の中間くらいにあります。ここで玄関わきで入場券を買い、靴に布カバーをかぶせて王宮が痛まないようにして、入場の順番を待ちました。順番が来たので、日本語の音声ガイドを聞きながら、宮殿の中を見て回りました。この宮殿は、名君カラカウアが1882年(明治15年)に建てた洋式の立派な宮殿です。カラカウアは極めて開明的な王であり、ハワイを文明国にしようとしました。日本の明治維新後の文明開化と同様のことを目指していたようです。王宮の中には舞踏会を開く広い部屋もあり、また、そのころ最も文明の象徴であった電話も取り入れて、王宮に設置していました。立派な明治時代の洋風建築を思い浮かべてもらえればわかるでしょう。ここはアメリカに現存する唯一の王宮であるそうです。カラカウアが亡くなった後はその妹リリウオカラニが王位を継いでここで政務をとりました。しかし、政治顧問であったアメリカ人達が、女王をこの宮殿の一室に幽閉し、不法な手段でハワイ王朝の実権を奪って、1893年アメリカの属州としてしまいました。幽閉中に王女が作ったハワイ語の歌が、有名なアロハ・オエだといいます。この歌は実は悲しい内容の歌だったと初めて知りました。リリウオカラニ女王やハワイ王族は、武力によらず裁判所に、アメリカが不法な手段でハワイを属州にしたことを訴えましたが、取り上げてもらえませんでした。ようやく100年もたった1993年に、時の大統領ビル・クリントンがハワイの人々に対し、不法なハワイ併合について、はじめて正式に謝罪したといいます。100年もたってから謝罪してもらっても、すでに純粋なハワイ民族の人口はハワイ州の人口の3%でしかないといわれますし、ハワイ語もほとんど消えてしまいました。私は、王宮を見て回りながら、ジェームスから聞いた「戦争に負ければ、百年も経つと国語さえなくなってしまうのです。」を思い出していました。
今年2022年に、ウクライナに侵攻したロシアは占領地でロシア化を行い、アメリカがハワイでやったことをやっています。占領地の学校ではウクライナ語とウクライナの歴史教育は禁止となり、ロシア語とロシアの歴史教科書にとってかわったとのことを、ニュースで知りました。ウクライナ人は自らのアイデンティティを守るために、必死で戦っているのですね。戦争をせずに平和的な手段に訴えたハワイ民族のように国も国語もなくした同じ轍を踏まないように、私たち日本人も、よく考えないといけない時代が来ましたね。
3、ハワイの韓系米人老ガイド、チャーリー
もう一人の老ガイドはやはり80歳くらいで、パールハーバーの戦艦ミズリー号上で英語のガイドをしているチャーリー・金(キム)という韓系米人です。この老ガイドの話には、日本人として深く戦争について考えさせられました。
私は、ポリネシアンカルチャーセンターに行って次に日、ハワイで一年に一度あるかどうかの激しい雨の中、パールハーバーを意を決して訪ねました。なぜ意を決して訪ねたかというと、15年前にハワイに来たときには、パールハーバーに日本人が行くと大多数のアメリカ人から白い眼で見られるといううわさだったので、行くことに躊躇したからです。でも今回は戦後も65年もたっているし、今回行かないと、また15年後というと来られるかどうかわからないので、今回は是非パールハーバーには行ってみようと意を決して訪ねたわけです。
パールハーバーにつくと、激しい雨で、真珠湾の内海は、山から流れ込んだ泥水で茶色くにごっていました。アリゾナ・メモリアルセンターの受付で聞くと、沈んだ戦艦アリゾナには、天候が悪くて波が高く、今日はフェリーボートが出ないので見学はできない。しかし、戦艦ミズリーの見学はOKだということでした。そこで、戦艦ミズリー記念館と太平洋航空博物館の入場券を買って、連絡バスに乗りました。これらの場所には、バスに乗って、橋を渡り湾内に浮かぶフォード島に、約十分かけて行きました。バス代もこの入場料に含まれていました。バスを降りると、巨大な戦艦ミズリーの前の広場に、激しい雨がひっきりなしに降っていて、皆、ビニールの簡易雨合羽を着ているか傘をさしていて、行列を作って入場を待っていました。列があまりにも長いので、小さな子供連れの白人のお父さんに、「皆ガイドを待っているのか。」と聞かれましたが、「たぶん、そうだろう。」と私は答えました。小さな子供連れは、こんな雨の中、列を作って待つのは大変だろうと同情しました。でも、他の父親は、小さな女の子を、広場の中に飾ってある大砲の弾の横に、大砲の弾といってもロケット型で女の子の背丈よりも高い、その大砲の弾の横に立たせて記念写真を撮り、「Good job!」などと言って楽しんで待っていました。ようやく順番が来て、船橋を登ると、広い木製のデッキになっていました。そこで、20~30人ずつに分かれて一人のガイドについて回ることになりました。私は英語がわかるので、全員白人の中に日本人の私だけ一人で入りました。一緒に来ていた二人の日本人の大学院生は、英語がよくわからないので、日本語のガイドが来るのを待っていました。それで、私だけ先に、英語のガイドについて回ることにしました。
そのガイドは、東洋系で、年が75歳くらいに見えました。野球帽をかぶり、薄茶色のサングラスをかけ、青いアロハシャツに灰色のバミューダをはいて、白いスニーカーを履いていました。典型的なハワイアンスタイルでした。初め日系米人に見えたのですが、話しを聞いているうちに、年は80歳前後の韓系米人のチャーリー・キム(金)という人だとわかりました。
「この戦艦ミズリー号は、1942年に建造され、第二次世界大戦、朝鮮戦争、湾岸戦争に旗艦として参戦し1992年に退役して、1998年からここパールハーバーに記念館として係留されています。第二次世界大戦では、日本と戦いました。そのとき自殺爆撃(Suicide Bomber)、いわゆる神風攻撃にも耐え、沈みませんでした。神風特攻機がぶつかった後が、ここ右舷にあります。」
見ると、右舷がひっこんでおり、その近くのデッキには、ここは神風特攻機がクラッシュした跡だと書いてあありました。
「この神風特攻機は、爆発せずに大破して上半分だけが船上に残りました。残った上半分のその中に、日本人のパイロットがまだ生きているように見え、しばらく睨み合いが続きましたが、どうも動かないので死んでいるということになり、近づいてみると、既に死んでいました。水兵たちは、この日本人のパイロットを乱暴に扱おうとしましたが、艦長のキャラハンは、『いやいや、敵とはいえ、若い命を国のためにささげたのだ。丁重に葬ってやれ。』ということになり、丁重に水葬にしました。」
これを聞いていて、私は思わず涙がこぼれました。この日本人のパイロットの年齢はおそらく、私の死んだ父親と同じくらいの人に違いないと思うと、他人事とは思えず、思わず涙がこぼれたのでした。
「皆さん、なぜ神風というのか知っていますか。当時、日本の天皇は、生きている神(Living God 現人神(あらひとがみ))と呼ばれ、神様だったので、日本はGodの国だったのです。カミカゼのカミはGodの意味です。1945年の終戦当時は、私は朝鮮のソウルに住んでいて、ハイスクールの生徒でした。朝鮮は日本の植民地でしたので、私の本当の名前は、キム(金)でしたが、日本風にカネハラ(金原)と変えさせられていました。学校に行くと、東京にいる天皇に向かって毎朝お辞儀させられました。お辞儀と言っても、天皇へのお辞儀は特別で、90度体を折り曲げて、行う最敬礼というものでした。」これは宮城遥拝のことを言っているだと思います。
このチャーリーは当時ハイスクールに行っていたというのは、当時の日本の旧制高校なら、国民の大部分が尋常小学校しか行っていない時代、この金原少年は大秀才で当時17歳くらいだろうし、もし、旧制中学に在学していたとしても15歳くらいでしょう。それでも秀才だったのでしょう。今は英語を流暢に喋っているし。この人は年齢がもう少し上なら戦争に行っているはずですが、それよりも少しだけ年齢が下の、元日本国籍の人だとわかりました。しかし、昔、日本風の名前が嫌だったと言うのに、今なぜ、チャーリーなどというアメリカ風の名前を名乗っているのだろうと疑問に思いました。今のアメリカ風が許されて昔の日本風が許されないという矛盾した心理は何なのか。旧植民地の人の複雑な心理について考えさせられました。(注1)
「日本が1945年8月に、無条件降伏した後、ヒロヒト(昭和天皇)は、神様から人間になりました。」
と言って、チャーリーは懐から昭和天皇とマッカーサー元帥が二人で写った有名な写真を取り出して、皆に見せました。昭和天皇は背が低く、左隣に立っている長身のマッカーサー元帥と比べると、大人と子供のような感じに見えます。昭和天皇は燕尾服の正装ですが、マッカーサー元帥は、正装ではなく普通の軍服でした。これだけ見ても、日本人は、この写真が敗戦の象徴のようで胸が痛みます。
「日本は敗戦により、それから六年間占領され、GHQにより政治がコントロールされました。天皇のリムジン(公用車)は、それまで自由にどこでも行けましたが、占領下では、GHQの許可がない所へは、天皇のリムジンといえども、自由に行けなくなりました。」
とチャーリーは右手にこの写真を掲げたまま冷たく笑いました。私はこのチャーリーの冷笑がショックでした。私は心の中で、「あなたは、かりにも戦前は『天皇の赤子(せきし)』と言われた大日本帝国の国籍を持った臣民じゃなかったのか。なぜ今、アメリカにそんなに肩入れして、我国の天皇を冷笑できるのか。外国の皇帝に対して不敬ではないか。」と思いました。しかし、大勢の白人の中で、たった一人の日本人の私が反論したところで、理解されないだろうと黙っていました。正直、悔しかったです。チャーリーがアメリカの威を借りて、こんなアメリカの戦艦の上で日本の天皇や歴史を侮辱することなど、日本政府から申し入れてアメリカ政府にやめさてもらいたいと内心思ったほどです。(注2)
「さて、カミカゼの話に戻りますが、カミカゼというのは、実は十三世紀にモンゴルが日本を攻撃したときにまで歴史が遡るのです。十三世紀モンゴルは大帝国を作り、中国も朝鮮も、ベトナムもモンゴルに占領されました。モンゴルが日本を攻めたとき、二回ともカミカゼ、つまり、台風が来て、モンゴルの船は全て海に沈みました。それで、日本だけはモンゴルに占領されませんでした。このとき日本を救った台風を日本人はカミカゼと呼んだのです。モンゴルは台風のシーズンを知らなかっただけなのですが、日本は今度の戦争にもカミカゼが吹くことを願って、自殺爆撃をカミカゼと名付けたのです。」
冷笑するチャーリーを眺めながら思いました。チャーリーは詳しい自国の歴史を知らない。モンゴルの船というが、蒙古襲来のときの全ての船は、騎馬民族国家のモンゴルに造船の技術がなかったので、属国支配した高麗人(朝鮮人)や江南人(中国人)に建造させ、これらの船に乗って日本に攻めてきた。そして、兵の大半が、モンゴルに強制的に徴兵された朝鮮人や中国人であったことだ。そして指揮官は、なんとヒンドというインド人だった。このようにモンゴルに支配された民族は、他国との戦争に駆り出され大変な苦難を強いられる。だから、戦争に負けることは、負けた方の男たちは他国への戦争の捨て駒に使われてしまうのだ。したがって戦争は勝たねばならない。現在の最新の歴史研究によると、日本は全国から駆け付けた武士団の善戦によりよく戦い抜き、台風という幸運もあって二度の元寇に勝ったということがわかっている。モンゴル(元)に負けて、他国との戦争に駆り出された民族から冷笑されたくないと思ったのでした。
朝鮮人や韓国人は、日本が朝鮮半島を植民地にしたといまだに非難するが、当時の世界情勢を考えてほしい。明治時代、有名なフランス人のビゴーという人の描いた風刺画を思い出して欲しい。朝鮮という一匹の魚が日本海で泳いでいるのを、日本とロシアと中国の三人がこの魚を釣ろうと魚釣りをしている風刺画がある。朝鮮は、統一新羅から李氏朝鮮まで中華帝国歴代王朝の1000年属国となっていた。日本が日清戦争に勝ち、日清戦争後の下関条約第1条に、清国からの朝鮮独立がわざわざ明記され、朝鮮を中華帝国の1000年属国支配から解放したのは日本なのだ。当時の世界情勢は帝国主義の植民地獲得競争の時代であり、衰退著しい清国が列強から蚕食されて植民地になりかけているころ、その属国の朝鮮は列強の植民地にされるのはもはや時間の問題であった。そのため当時の日本には西洋列強の脅威が日本に及ぶ大きな懸念があった。事実、日清戦争後露独仏の三国干渉にあい、日本に割譲された遼東半島を、露独仏から清国への返還を求められ、実質的にはロシアに奪われてしまった。そして、日露開戦前の外交交渉では、ロシアはさらに朝鮮の北緯37度線以北(現在の38度線以北ではない。)の支配を、日本に要求して来た。北緯37度線以北をロシア領としそれ以南を日本領して認めるというものだった。これを日本が飲んでいれば、ハルビンから旅順までの満州地域も朝鮮半島北部もその後はロシア領になっていたことは疑いがない。こんなことになると、ゆくゆくロシアは日本の領土にも野心を持つことになるのは明白なため、日露戦争となったのだ。もし日露戦争にも日本が勝利していなかったら、朝鮮半島も満州も今もロシア領であったろう。日本はアジアを代表して西洋列強と戦ったのだ。そういう世界史的な視点が朝鮮半島の人々や中国の人々に欠けている。
チャーリーの懐にビゴーの風刺画も入れていて、当時の世界情勢を公平に説明して欲しいと思ったのでした。
我々は、カミカゼ特攻クラッシュポイントから、チャーリーに連れられて、次に艦右舷の中央デッキに移動しました。
「この場所は、1945年9月2日、日本が無条件降伏の文書に署名した場所です。この戦艦ミズリー号は、横浜沖に停泊し、この艦上で、重光外務大臣他三名の日本側代表団と、連合国十二カ国との間で、調印式が行われました。ここが第二次世界大戦が終わったところなのです。ここにあるのは、調印文書のコピーです。」
私は歴史の本でしばしば登場する、シルクハットをかぶって正装した重光外務大臣と軍服姿の梅津大将の写真を思い出しました。ここがその場所なのかと感動しました。しかし、この戦艦ミズリー号は、つい最近の湾岸戦争のときまで現役で働いていたと知って、この戦艦の長い歴史に驚きました。チャーリーは続けて説明しました。
「第二次世界大戦終結後、朝鮮戦争が1951年(昭和26年)に始まりました。私はソウルに住んでいましたが、近くの仁川港に、この戦艦ミズリー号が来てくれた(注3)おかげで、ソウルは共産軍から守られました。私がこうして生きていられるのはこのミズリー号が仁川まで来てくれたおかげなのです。」
確かに、第二次世界大戦の終結直前にソ連が参戦し、南下して来て、38度線を閉鎖し、南北の人々の移動を止めた。1945年から数年間は、開城(ケソン)市はまだ米国支配下の南朝鮮だったが、朝鮮戦争停戦の開城市はソ連に後押しされた北朝鮮領となっている。開城からソウルまではすぐ近くだし、チャーリーが危なかったというのも頷ける。仁川に米国主力艦隊が入港していなかったらソウルも北朝鮮になっていた可能性は否定できない。ソウルが主戦場になっていたら、住民の多くは生きてはいなかっただろう。
チャーリーの「アメリカの人々よ、ありがとう。」という最後の言葉に感動した数人のアメリカ人がチャーリーに、「いいガイドだった。」と握手を求めて歩み寄りました。たった一人の日本人の私は、とても複雑な思いに駆られながらチャーリーと別れました。チャーリーは日露戦争でロシアの朝鮮進出を撃退した日本にはありがとうとは言わず、朝鮮戦争でソ連(注4)を撃退したアメリカにはありがとうと言う矛盾した心理は何なのかと思いました。チャーリーの話は、東アジアの過去百年間の歴史について日本人として色々と考えさせられる強烈な印象を、私に残しました。
4.おわりに
以上、ハワイの老ガイド、ジェームスとチャーリーの話でしたが、皆さんはハワイの歴史や東アジアの歴史について、どう思われますか。
5.注釈
(注釈1)朝鮮半島における創氏改名の歴史
朝鮮半島における創氏改名は、歴史上3度ある。1度目は、新羅が唐の援軍を得て百済を滅ぼし朝鮮半島の統一を図った西暦676年以降で、統一新羅は唐の柵封下属国となり、唐から賜姓を受け唐風の名前を名乗るようになった。それまでは、ツングース系民族であったので宮昌郎や永郎、居柴夫などという複字姓の族姓であったが、そのような古来の族姓を捨て、金、李、朴のような中華風の1字姓となった。さらにモンゴル系民族の元が中国を統一した際には、高麗は元の柵封下属国となり、塔思帖木児(タスチムール)等のようなモンゴル風の複字姓に、自ら好んで創氏改名した。これが2度目である。元が滅び明になった時、李氏朝鮮ではまた明の柵封下属国となり、中華風の1字姓に戻った。しかしながら、朝鮮では姓を持たないものもおり、姓を持たない名だけのものは奴婢、つまり奴隷の身分の賤民とされ、白丁奴(ペクチョンノム)等と呼ばれて人身売買されていた。朝鮮は李氏朝鮮が滅亡するまで、インドのカースト制に匹敵する激しい階級差別社会であったのだ。それが社会の発展を妨げていた最大の原因であった。しかし、日韓併合により大日本帝国に合邦された時には、日本の戸籍法に基づいて戸籍謄本に氏名を明記することとなった。そのため姓のない奴隷の身分であった賤民も氏名が与えられた。もともと中華風の姓のある人々には、強制ではないが日本風の姓名に改名することも後に認めた。これは法律上決して強制するものではなく、かつ伝統的な宗族制度を維持できるよう本貫と姓も併記することとしていた。このような正確な戸籍作成により、初めて朝鮮半島の詳細な人口構成が分かり、近代化への道がついた。また、人身売買を伴う奴隷制度も廃止することができたといわれている。この日韓併合以降の創氏改名が、歴史上3度目となる。このように朝鮮半島では、過去1300年に渡りたびたび創氏改名を繰り返してきた。これは、黄文雄氏によれば、韓国は1000年属国であったため韓国人に1000年間にしみついた「事大主義(大に事(したが)う主義)」によるという。現在の韓国人は大国アメリカにあこがれ、アメリカの国籍を取って、アメリカ人風の名前にするのがトレンドである。これが4度目の創氏改名と言っていいかもしれない。
私は、チャーリー・キムが示した「アメリカ風の名前が許されて日本風の名前が許されないという矛盾した心理」は「事大主義」からきていることを、最近、黄文雄氏の著作を読んで初めて理解した。
(注釈2)黄文雄氏の著作「韓国は日本人が作った」
この2010年の戦艦ミズリー号上におけるチャーリー・キムの昭和天皇侮辱発言は、2年後の2012年8月14日に起こった大韓民国大統領李明博の今上陛下侮辱発言と通底するものがある。韓国人は日本の支配を受けたのを非難するなら、なぜ中国に1000年間属国支配されていたことを中国に非難しないのか。これこそ「事大主義」のご都合主義だろう。
日本人は一人ひとり、韓国や朝鮮の歴史をちゃんと勉強して、ちゃんと反論できるようにしなければならないと思う。私は、台湾出身の黄文雄氏の著作「韓国は日本人が作った」徳間書房、2012、が最も参考になった。ご一読を薦める。それによると、「韓国人や中国人の歴史認識とは、反日であり、彼らは国内で、もし反日でないと判断されれば、職を失い自己批判せよといじめられ、果ては命を失いかねない。文化大革命の折、親日とされた人々の迫害は苛烈を極め、多くの人が亡くなった。したがって、韓国人や中国人は、大統領といえども反日でないと国がまとめられない。反日が国是であり、これ以外の歴史認識を認めないのだから、歴史の日中韓の共同研究など無意味に違いない。日本は民主主義の国であり、個人がどのような歴史認識を持っていようが自由であるが、中国や韓国、北朝鮮では、国家思想として親日などもってのほかだから、全国民反日でないと許されず、自由な個人の歴史認識は許されない。したがって、中韓は自国で激烈な反日教育を行い、独善的な歴史認識を日本に押し付けてくる。日本としては傍迷惑極まりない。」以上の主張の詳細は黄文雄氏の著作を一読されたい。
(注3):マッカーサー元帥指揮による仁川上陸作戦。
(注4):朝鮮戦争にソ連は密かに参加
朝鮮戦争では、ソ連は公式には直接参戦していないことになっている。しかし、実際にはソ連の軍人が多数参戦していたのは、公然の秘密である。私の知り合いのロシア人の大学教授は、「私は北朝鮮の町で生まれました。それは父親が爆撃機のパイロットとして朝鮮戦争に参戦していたので、その北朝鮮にあった空軍基地の町で生まれたのです。」とはっきり言っていた。
*なお、冒頭の写真は、1944年竣工当時の戦艦ミズーリの全容です。
Wikipediaから引用させていただきました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%BC%E3%83%AA_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
最終更新 2022年7月24日 (日) 17:15
2011年1月3-4日随筆
2013年1月1-2日注釈加筆
2022年9月9日加筆
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