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20世紀の記録として残したいこと(第6話)釜山港から日本統治下最後の興安丸に乗って引き揚げた家族

6-1.  日本統治下最後の関釜連絡船「興安丸」


 
 釜山の駅に着いたところ、駅には日本軍の憲兵がいて、連絡船の出港のドラが鳴っているのに、入れてくれないと言います。父は、「私は病み上がりで幼い子供2人を連れてどうにもならないんだ。」と言いました(注1)。そしたら、駅員が、走ればまだ間に合うかもしれないから急ぎなさいと入れてくれました。ドラが鳴り連絡船のデッキが今まさに上がろうとしているところで、かろうじて父母と2人の兄は間に合いました。この船は興安丸と言い、日本の施政権下で出航した最後の連絡船です。この船に乗った本当に最後の最後の乗客が私の両親達一家4人でした。このあとの連絡船ではアメリカ軍に所持品を全部没収され大変惨めな状況だったと言われています。  
 戦後20〜30年したときにNHKの教育テレビでこの最後の興安丸のことが特集されていたのを父母と一緒に見た記憶があります。叔父高嶋利雄が朝鮮総督府の高官だったことで情報がいち早く得られたと父母はのちにいつまでも感謝していました。興安丸は7100トンもある大きな連絡船でしたが、引き揚げ者で超満員だったとのことです。身動きもできないくらいだったので、最後に乗った入り口付近のデッキから動けず、そのまま家族で一緒にデッキの上で寝ました。当時関釜連絡船の所要時間は約7時間でしたが、下関港は機雷が撒かれていて危険なため、隣の小さな山口県仙崎港の沖合に停泊しました。小さい港なので大きな興安丸は入れず、沖から艀(はしけ)で少しずつ上陸したそうです。入り口でいたので真っ先に艀に乗せてもらい一番に内地に上陸したそうです。ここ仙崎に着いたのは9月1日でした。ここでも引き揚げ者の支援の炊き出しがあり、おにぎりをもらって子供たちに食べさせたりして一息つきました。
 

6-2. 広島の惨状に絶句と涙


 
 仙崎からまた汽車に乗りました。広島まで着いた時、駅から見える広島の惨状に父母は目を覆いました。原子爆弾が落とされて1ヶ月近くも経っているのに、いまだにコンクリートのがれきの間から煙が上がっていたそうです。そして、まるでマッチ箱をひっくり返したように完全に町が破壊され尽くしているのです。広島駅と書かれた看板が、まるで空き缶を焼いたあと印刷の字が白っぽくなって残る、あの通りになっていたそうです。そして、この時父母は「日本は負けたのだ。」と否応なく思い知らされ、涙があふれたそうです。なお、のちの話になりますが、戦後すぐの昭和22年8月に生まれた次女の睦子は、14歳の時白血病で死にました。父母がこの時原爆直後の広島を通ったからではないかと、叔母や私はいまだに思っています。広島の「原爆の子の像」のモデルになった「サダコ」と同じように、姉も十三歳になって初めて白血病を発病し死にました。父母の悲しみは大変なものでした。
 

6-3. 姉さん、足がありますか?


 
 郷里香川県の予讃線の本山駅には、9月3日の朝まだ暗い3時か4時頃に着いたそうです。まず本山駅から父の実家の一の谷村吉岡(現在の観音寺市吉岡町)に親子4人で行き、その足で母は、やもたてもたまらず一人1キロほどはなれた古川(現在の観音寺市古川町)の母の実家に、まだ暗いうちに歩いて訪ねて行きました。郷里の母の両親や兄弟は、満州はソ連の参戦で大変なことになっている、ましてや重病の夫と幼い2人の子供を連れさぞ苦労しているだろうと毎日心配し、おそらく皆満州でもう死んでいるのではないだろうかと諦めてかけていました。
 朝早くカタカタと下駄の音がして、当時18歳になる母の妹は誰かが家に来た様に思い玄関の戸を開けて見ました。満州に居るはずの姉が1人で薄暗い夜明けの中に立っていました。ぼろぼろの服装にはなっているが、確かに見覚えのあるモス地にゆりの花柄の単衣を着て立っていました。姉さんの幽霊が戸口に立っていると思ってびっくりして、なかなか声が出ませんでした。やっと「姉さん・・・、足あるんえ(足がありますか)?」と聞きました。幽霊ではなく正真正銘本人が、長い逃避行の末実家に帰ってきたのでした。母には妹のこの一言が60年近く経った今も耳に残っており忘れられないと言っています。そして妹は母(私から見て祖母)を呼びました。
 毎日心配していた祖母(当時52)は母(当時29)と抱き合って泣きました。母は、着の身着のままでやっとの思いで帰って来たと涙ながらに話しました。祖母は「よう無事に帰って来た。皆無事が何より。」と泣きながら応えたそうです。
父母は、一の谷村の引き揚げ者第一号でした。
 

6-4. 小さな布の靴


 
 このとき、私の両親はともに29歳、長兄正剛は5歳、次兄義徳(よしのり)は2歳になる直前でした。長兄はよく覚えていて、母と満州の家はこうだったとか話しているのを聞いたことがあります。しかし、次兄は幼すぎて何も覚えていません。でも、この逃避行の時履いていた、小さな小さな布の靴を、記念に壁にぶら下げて家に飾っています。この靴は母の手作りのものです。
 本当によく一家4人生きて帰れたと思います。父の語学力と中国人との厚い信頼関係、それと読書家の母の的確な状況判断や、母の叔父高嶋利雄の情報のおかげでしょう。このように、生きて帰っていなかったら、私も昭和27年に生まれていなかったはずです。
 

おわりに


 
以上は私の家族の歴史という誠に個人的なものですが、20世紀の日本の歴史そのものでもあるような気がします。日本の施政権が次々と失われていくその地域からかろうじて1日や2日前という直前に脱出しながら何とか生きて、日本に引き揚げて来られた家族の歴史です。国家そのものや領土、植民地が無くなっていくときにどういうことが起こるのか、現在の日本のように平和太平な時に、警鐘として、どうしても書き残しておきたかったのです。
 
 
 *なお、参考文献等は第7話にまとめて示しました。
*また、冒頭の写真は、日本の施政権下で釜山から仙崎港まで運行された、最後の関釜連絡船の興安丸の写真です。Wikipediaから引用させていただきました。    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%89%E4%B8%B8
 最終更新 2021年11月7日 (日) 12:37 更新分
 この日本統治下最終便の関釜連絡船は、次の便からは、アメリカ軍の監視下に行われた引き揚げ船となりました。


2000年12月10-12日随筆
2001年4月18日加筆
2001年4月27-29日加筆
2001年6月14日加筆
2003年4月26-30日追記と修正
2003年6月12-13日修正
2003年8月11-16日最終修正
2022年5月27日7編へ分割編集
 

本記録に関して


本記録は、20世紀の記録として是非、残しておきたいと思い、生前の父太田安雄(通名は康雄)、香川県三豊郡山本町(現三豊市山本町)在住、から、聞き書きした記録文です。父は、大正5年(1916年)9月14日生まれで、平成15年(2003年)4月5日、87才になる年に亡くなりました。聞き書きしたのは、西暦2000年から2002年の3年間です。父が生きている間に、是非、貴重な記録として残しておきたいと思い、父やのちには親戚からも取材し本文をまとめました。非常に長くなったので、話題ごとに7編に分割掲載いたしますが、どの話題も皆さんがほとんど知らない大変興味深い話だと思いますので、ご一読頂ければ幸いです。

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