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さぬき昔話5:名医の藤田はん

はじめに

 この昔話は、50年程前まで、讃岐の観音寺市豊田地区におられた名医の藤田はん(藤田さん)のことです。

敬語アクセントで発音する藤田はん

尊敬する名医のふじたはんの発音は、この地方の独特の敬語アクセントで、高低低でないといけないです。ふじたを、低低低で発音するのは、友人や後輩の場合であり、お医者さんのふじた先生には、高低低と発音するのだと、私が子供のころに父や母から教えられました。友達のふじた(低低低)とお医者さんのふじた(高低低)はんは、このようにアクセントを変えて発音し、尊敬の念を表すのです。ネットで調べてもこのような、アクセントによる敬語表現がこの日本にあることが書かれているのを見たことがありません。極めて珍しい例ではないかと思います。ただ、昔の三豊郡時代の山本町史にはこの発音による敬語表現のことがちゃんと書かれていたのを、私ははっきり覚えています。

名医の藤田はんによる脚気の診断

ふじたはんは明治27,8年頃のお生まれと推定されました。私が、昭和46年に藤田はんにかかった時、年は75歳くらいに見えました。私は、当時19歳で岡山市で浪人中で、とても不便な下宿に住んでいました。午後7時を過ぎると全く食事をするところがなくなり、よく食べはぐれて食事がうまくいきませんでした。秋口から微熱が続き、秋が深まった頃になると朝起きると体の下の方に冷たい血がたまっているような気がします。岡山の済生会病院に行きましたが、血糖値が高いとかいわれただけで何が悪いのかわからりませんでした。ろくに食べてないのに血糖値が高いのもおかしいので、ひょっとして姉と同じ白血病になって若くして死ぬのではないかと心配しましたが、白血病でもありませんでした。何かわからないのですが確かにすこぶる体調が悪いので、一時郷里の讃岐に帰って病院に改めて行くことにしました。父母に勧められた藤田はんに行くと、

「誰と来とるな?(誰と来ていますか?)」

といわれ、付き添いの兄を、藤田はんは呼びました。いよいよだめかと私も思いました。

「どうも脚気の疑いがある。しかし、微熱が続いているので結核の可能性もあるので、私の息子が観音寺の市街地で医院を開いているから、そこでレントゲンを撮ってきてつか。(撮って来て下さい。)」

とのことでした。レントゲンの結果を藤田はんに持って行くと、

「結核ではない。お前は脚気になっている。今の若い医者は診断できないが、これは脚気の症状だ。脚気はおそろしいんだ。心臓に来ると心臓脚気(脚気衝心)と言って死ぬことがある。お前は毎日何を食べているのだ。」

と私に聞きました。そして、藤田先生の特効薬といって、チーズを示されました。それから、脚気の特効薬として、戦前から手放せない海藻から作った薬を暫く打って直そうということになりました。それで1ヶ月程通ってだいぶ体が回復しました。藤田はんの診断に今も感謝しています。

 私はどうも脚気になりやすい体質らしく、その症状がでてくると自分でももうわかるので、必ずビタミン剤を服用して直しています。50年もなりますが、藤田はんの診断には本当に今も感謝しています。

藤田はんは九大出でチッソの病院の医師だった

 1ヶ月も藤田はんに通っていましたので、藤田はんから色々と面白い話を聞きました。藤田はんは、讃岐から旧制の九州帝国大学の医学部に進学しました。その当時、九大に行くのに、鉄道の予讃線はまだ多度津までしか来ていなかったので、ここ豊田村から人力車で多度津まで行き、そこから汽車に乗ったといいます。多度津—観音寺間に鉄道が通ったのは、大正2年(1913年)12月20日だそうですから、藤田はんは、明治の末頃に九州帝国大学の医学部に進学したようです。九大を出たあとは、熊本の水俣にあるチッソの病院に勤めていたそうです。戦後になって、讃岐の豊田村に戻って来られて、こちらで開業医となりました。昭和46年当時、チッソは、戦後の高度成長期に、水俣病で大変な公害を起こして有名でした。ああ、あのチッソの病院にいた先生なのかと思いました。

歌論を読む藤田はん 

 藤田はんは小さな医院でしたので、先生と奥さんと2人でこじんまりやっていました。奥さんが看護婦の資格を持っていて、受付や検査をこなしておられました。藤田はんが、「ウー、測ってつか。(ウロビリノーゲンを測って下さい。)」と奥さんに指示しているのを覚えています。内科と小児科の先生でした。患者のいないときには、歌論を読んでおられるようでした。机の上に歌論の本が読みかけで載っていました。高貴な感じのする先生でした。今、生きておられたら、130歳近いご年齢になっていることでしょう。忘れられない先生です。

最後に

 上は全く個人的なお話のようですが、今も隠れ脚気の患者がたくさんいるのではないかという教訓話だと思っていただければ、幸いです。なぜなら、今は、血糖値が高いと糖尿病と診断が大勢を占めるようですが、きっとその中に私のように脚気の患者さんも多いんじゃないかと、私はひそかに思っているからです。第14代将軍徳川家茂は、第2次長州征伐に出陣し、途中の大阪城まで来た時に脚気がひどくなり、体中がむくんで21歳の若さで亡くなりました。死因は、暗殺ではなく脚気衝心だったようです。その当時に、藤田はんの特効薬の注射か、ビタミン剤があれば、死ななくて済んだのにと残念に思うのです。

 

*なお、冒頭の図は、ビタミンB1の分子構造です。

平成28年(2016年)11月22日随筆
令和4年(2022年)4月16日加筆

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