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信濃の国開闢の祖タケミナカタ

1.概要

 私は、20年ほど前にひょんなきっかけから、信州の上田のすべての神社を巡っていて、不思議なことに気が付きました。なぜか、この地域のほとんどの神社の御祭神が、タケミナカタをはじめ諏訪の神様か出雲の神様であることに、気が付いたのです。そして、信濃の国建国のいきさつと、日本の古代の歴史がわかってきたのです。学校で習う歴史は、多かれ少なかれ勝者が書いた歴史で、敗者の歴史については、ほとんど書かれていません。古代に出雲の国は、天照系に滅ぼされ、そこから逃れてきた人々が、信濃の国を建国しました。このことを、神社の由緒から明らかにします。信濃の国を建国した人は、タケミナカタという人で、出雲の大国主と越のヌナカワ姫の間に生まれた人です。信州では、このタケミナカタを建国の父として祭った神社が全県に多数あり、そして、各地で御柱祭を、今も行っています。本書は、皆さんに日本の古代史を、見直すきっかけになると信じます。ぜひ、多くの皆様にご笑覧いただければ嬉しいです。

2.上田市にある古い神社は大半が諏訪・出雲系であること

 信濃の国は出雲の亡命政権です。
 私は2000年ごろ、医者からメタボリックシンドロームになっているから、とにかく歩け、運動不足だと言われました。それで、上田市内の神社仏閣を訪ねながら、とにかく土日は歩くことにしました。4年くらいかかりましたが上田市内の約200ある神社仏閣を全て回りました。そこで大変興味深いことに気がつきました。上田市内の神社のご祭神の多くが諏訪の神様なのです。諏訪神社と名前が付いていなくても、祭られている神様は、みな諏訪の神様、タケミナカタ(建御名方)かその妻のヤサカトメ(八坂刀売)です。諏訪系でなくてもタケミナカタの出身の出雲のオオクニヌシ(大国主)だったりコトシロヌシ(事代主)だったりします。
 神社のご祭神を見ると、その神社の系列がわかります。それで上田市にある古い神社は大半が諏訪・出雲系なのです。家紋と同じように、神紋や寺紋がありますが、この神紋からも諏訪系や出雲系であることがわかります。上田市内の神社は、大半が諏訪系です。伊勢神社、つまり天照系のご祭神はほんの少ししかなく、それも明治維新後初めて作られた上田大宮さんのような例が典型です。ですから、上田市内は明治維新前の1800年間から2000年間は、諏訪系・出雲系が大部分であったようです。上田市常田(ときだ)にある科野(しなの)大宮は、古代信濃の国の一の宮だったようです。そのご祭神は、出雲系のオオクニヌシ(大国様、大黒様)とその長男のコトシロヌシ(えびす様)です。科野大宮のある土地は、古須羽(こすわ)といい、現在の長野県中部(中信)の諏訪地方よりも古い「すわ」でした。今から1000年くらい前までは、上田市北岸一帯は須羽(すわ)郷といわれていました。上田に最初に稲作と養蚕をもたらしたのは、出雲の亡命者の一団であったようです。その人たちが最初の「すわ」を上田の地に作りました。

3.神社の由緒

3-1.上田市の加美畑神社と生島足島神社の由緒

 上田市内神畑(かばたけ)地区に加美畑(かみはた)神社というのがありますが、その由緒によると、出雲から逃れてきたタケミナカタの一団がしばらくここに滞在して原住民に初めて稲作と養蚕を教えたとあります。ですから、それまで、狩猟採集によって生活をたてていた縄文人がはじめて稲作を行うようになりました。つまり弥生文化との遭遇をしたのです。それで、タケミナカタという神様に教えてもらったハタケという意味で、神畑(かばたけ)や加美畑(かみはた)というのでしょう。しかし、加美畑神社から3キロほど行くと、そこに生島足島(いくしまたるしま)神社がありますが、タケミナカタの一団はここの原住民の神様、つまり有力者にここを通してもらえませんでした。上田を抜けて長和町の大門峠を越えて諏訪地方に行けませんでした。そこでタケミナカタの一団は、そこの神様に毎日、お米(粥)を炊いて、こんなおいしいものがありますと、供えました。そこで約半年後やっとこの地を通してもらえたのです。ですから、今もこの生島足島神社では、お粥を炊いてご祭神に供える儀式を行っています。

3-2.諏訪大社の由緒

 タケミナカタの一行は、そこから岡谷まで行きましたが、今度は諏訪の原住民の守矢(もりや)族と戦争になりました。しかし、両者はお互いに徹底的に滅ぼすことをせず、後に、戦いをやめ共存の道を探ることとなりました。守矢氏は諏訪神社の祭主となり、諏訪大社上社の神長官を代々つとめました。現在守矢家の当主は女性で78代目です。しかし、神長官職は明治になり廃止されたうえ、祭事の詳細な秘伝は男子のみによる口伝の一子相伝でしたので、詳しい秘伝は絶えてしまったようです。しかしながら、守矢家は日本で最も古い家系の一つであることは間違いありません。また、諏訪大社の祭事に関しては、江戸後期の民俗学者菅江真澄による詳細な記録が残っています。それによると、諏訪大社上社の祭りは、極めて縄文的で、鹿の首や兎の串刺を供え物とし、冬から春になるころ、蛙が土から出てくる頃には、蛙の串刺を供える儀式があったりします。一方、諏訪大社下社の儀式は極めて弥生的で、お田植え祭りを行います。つまり、諏訪大社は大きく上社と下社の2つに分かれていますが、上社と下社は縄文文化と弥生文化の共存共栄の証なのです。

3-3.信濃の国の開闢の祖タケミナカタとその出自

 上田市舞田にある塩野入神社の鳥居横立札(文頭の写真)にも明記されているように、タケミナカタは信濃の国の開闢の祖といわれています。国という概念は、実は弥生時代から始まった概念であり、縄文時代には国というものがありません。人間は住んでいても、散居していて獲物を追って小集団で時々住居を変えるので、大規模の集団を形成しないのです。明治以前の北海道のアイヌ人や樺太のアイヌ人、ギリヤーク人の人々もそうであり、エスキモーも民族や部族はあるが国としてまとまっていたわけではありません。したがって、農業が始まって初めて国という組織が誕生するのです。ですから、信濃の国は稲作や養蚕の技術の普及とともに成立したと考えられます。それまでいた原住民の人々は、稲作や養蚕のハイテク技術には驚いたに違いありません。自分たちも、タケミナカタの勢力を殲滅してしまうより共存共栄を図った方が、得策と思ったのでしょう。農業の方が生活は安定するし、貯蔵が利くので獲物が少ない年も飢餓に耐えやすいからです。
 タケミナカタはどういう人だったのでしょう。タケミナカタのお母さんは、越(こし)の糸魚川翡翠峡のヌナカワ族の首長で、一族は翡翠の交易で潤っていました。糸魚川の翡翠は、数千年前の縄文時代から生産されており、遠く青森の縄文遺跡の三内丸山遺跡からも出土しているくらいです。タケミナカタのお母さんの名前はヌナカワヒメ(奴奈川姫)といいます。才色兼備で近隣に名が聞こえていたそうです。まるでクレオパトラみたいです。今JR糸魚川駅前に銅像が建っています。この越の地方は、このヌナカワヒメが支配する部族が勢力を張っていました。この部族は毎年船に乗り、すでに弥生文化になっていた出雲に稲が実るころ集団で略奪を働いていたらしいです。彼らは縄文時代から翡翠の交易で、日本海側に広く海上交通路を持っていたようですが、正式の交易ばかりでなく、ときにはバイキングのように略奪を働いていたようです。自分たちは農業をやっていないので、稲作を早くから始めていた出雲の秋の収穫のころには、毎年多くの船で船団を組んでやってきて、米や酒、若い女性を略奪していきました。なにしろ、米から取れる酒は越では作れないので貴重品です。
 ヤマタノオロチの伝説は、どうも毎年秋に越から集団でやってくる“バイキング”の被害の話のようです。出雲の斐伊川(ひいかわ)の川上に、おじいさんとおばあさんが住んでいて一人の娘を囲んで泣いていました。そこへ高天原を追い出されて出雲へ下りてきたスサノウ(素戔嗚)の命が、その家の様子を変に思ってそのおじいさんに尋ねました。
「何故、そんなに泣いているのか。」
「私ども夫婦には8人の娘がいましたが、毎年、越(高志)からヤマタノオロチがやってきて、娘を一人ずつ食べて行ってしまいます。この娘は最後に残った末娘です。今年の秋には、そのヤマタノオロチがまたやってきて、たった一人残ったこの末娘までも食べられてしまうのです。それを嘆いて3人で泣いているのです。」
「それならば、私がそのヤマタノオロチを退治しよう。8つの大きな樽に酒を造り8つの門にそれぞれその酒樽をおけ。オロチが酒に酔ってねている間に、そのオロチを私のツルギで退治しよう。」
このヤマタノオロチの話は、ほとんどの人が知っているでしょう。この話を注意深く見ると、まず、おじいさんおばあさんは農業をしていて米を作っているらしい。蓄えておいた大量の米をもとに、酒樽8つもの大量の酒を作れる。つまり、稲作文化圏の住人だということが分かります。もう一つ読み取れることは、スサノウは、高天原から来た異邦人ですが、切れ味のよい鉄製のツルギを持っている。つまり、鉄器を製造できる先進文化圏の人だったということです。青銅製のツルギより鉄製のツルギの方がずっと切れ味鋭く、8つの谷に満ち満ちている蛮族、この場合、越の翡翠峡のバイキングを、これで全員なで斬りにすることができます。
 ところで、出雲神話から考えると出雲は国引きによってできました。新羅からも島を引いてきました。つまり朝鮮半島からの先進技術の稲作、それから、秋の10月に皆が寄り集まって高楼を建て大祭を行うなどの宗教も、引いてきて輸入しています。出雲は10月を、神有月(かみありづき)といい、他の地方は神無月(かんなづき)というのはご存じだと思います。全国の神様(有力者)が全員、10月に出雲に集まり盛大に酒食を供して収穫や祖先を祭る大きなお祭りを行うのです。これは2000年ほど前の朝鮮半島の高句麗の「東盟」、濊(ワイ)の「舞天」(出典「三国志」)の風習そのものです。出雲の文化はツングース系の高句麗などの風習が色濃いと言えます。神有月という名前が今も残っているのがその証です。なお、東信ジャーナルの記事によれば、信濃の国の神様は10月に出雲には行かないです。それで信濃の国では、10月を出雲と同じく神有月というそうです。このことも、信濃の国は出雲の国と同じです。
 ヤマタノオロチに象徴される越の勢力を撃退したスサノウは、出雲の国の王となりました。スサノウの6代あとのオオクニヌシは出雲の勢力の拡大を図りました。出雲は宿敵である越の翡翠峡の蛮族を逆に征服するため、大船団を組んで越、現在の新潟県の出雲崎あたりに到着しました。出雲のオオクニヌシは、越の支配者のヌナカワヒメに結婚しようと言い寄りましたが、最初は断られました。しかし、最終的には結婚しタケミナカタが生まれることとなりました。つまり、越は出雲の勢力下に入ったということです。タケミナカタは父の国の出雲で育ちました。オオクニヌシは180人の子供があったとのことですが、中国地方、近畿地方、北陸地方を従える大王となり、オオクニヌシ(大国主)と呼ばれるのにふさわしい王となりました。その子供には、コマタノカミや、今はエビス様と親しまれているコトシロヌシ、その異母弟にあたるタケミナカタなどがいます。大国(たいこく)を形成するために多くの有力者の娘と政略結婚したため180人もの子供ができたのでしょう。オオクニヌシの最初の妻スセリヒメ(須勢理比売)には子供ができず、他の婦人たちには嫉妬と憎悪を募らせたらしく、その嫉妬に耐えかねたヤガミヒメ(八上比売)は産んだ男の子を木の股の間に置いて、実家に帰ってしまいました。それでその男の子はコマタノカミというのです。信州小県郡の青木村にある式内神社の子檀嶺(こまゆみね)神社の御祭神はなんとこのコマタノカミです。なぜこんな遠い信州の山村でコマタノカミを祭るのか非常に興味深いです。また、この神社の神紋は「二重亀甲に花菱」で出雲神社と全く同じです。式内神社とは今から1100年前の延喜式、つまり延喜時代の法律で選別された重要神社というもので、少なくとも1100年は経っている古い神社の証です。ということは、1100年前にすでに古い神社と認められているのですから、さらに古い太古の昔に、確かに出雲の勢力が信州に来ていたことになります。
 タケミナカタは、このような出雲の大王、オオクニヌシを父に、越(高志)のヌナカワヒメを母として生まれて出雲で育ちました。沢山の兄弟の中でも、コトシロヌシ(エビス様)とともに有能な人であったようです。

4.東アジア版の民族の大移動

4-1.出雲の国譲り 

 出雲を中心に今の中国地方、近畿地方、福井石川富山新潟地方(越前、越中、越後)を支配した大国(たいこく)にも危機が訪れました。他の巨大勢力が国を譲れと迫ってきたのです。その巨大勢力は高天原のアマテラス系です。アマテラス系の勢力は、天から今の宮崎県の高千穂の峰に降りてきたことになっていますが、もともと朝鮮半島南部から対岸の北九州あたりを支配していた倭という勢力と考えられます。ところがモンゴル高原から南下してきた勢力に圧され、中国東北部、つまり旧満州あたりの民族が、半島北部に侵入してきます。そうすると玉突きのように、倭人と呼ばれていた人々は半島南部から徐々に同じ倭人の住んでいる北九州へと逃れてきました。しかし、増えた人口を養うためにはもっと南の大分、宮崎、熊本方面や、山口から島根の辺りにも進出して行かざるを得ません。これは東アジア版の民族の大移動であったのです。モンゴル高原から西へ西へと移動した匈奴つまりフン族に始まった民族の大移動の話は有名であり、西洋の歴史に必ず登場します。しかし、東アジアの歴史にも同時期に東へ東へと移動する民族の大移動がありました。これが、朝鮮半島や日本列島の歴史にも大きな影響を及ぼしています。そのひとつが出雲の国譲りの話です。その後の神武東征もその民族の大移動の一環です。東アジアの歴史を大局的にみるとそうなるのです。
アマテラスは、出雲へ何度か使者を送って我が国に屈服して帰属するようにと勧告しました。しかし、2度送った使者が出雲に定住して帰って来ませんでした。それで3度目には、タケミカヅチ(武甕槌)などの強力メンバーを送りました。つまり強力な軍隊を送ったのでしょう。タケミカヅチはオオクニヌシに国を譲れと迫ったところ、長男に相談しないといけないからと即答を避けました。長男のコトシロヌシ(エビス様)が、海で鯛を釣っている最中の話でした。今もエビス様は釣竿を担いでいる姿で描かれるのはそのためです。コトシロヌシは、巨大勢力との戦いに勝ち目はない、仕方がないと、父オオクニヌシとともに国を譲ることにしました。ただ、大社を造り、自らの宗教は維持できるのを条件としました。ですから今も出雲大社が存在するのです。ここの宮司さんは、その時から数えて、今84代目の千家尊祐さんです。最近85代目の千家国麿さんが皇女高円宮典子様と結婚されたのは記憶に新しいです。千家(せんげ)家は日本で最も古い家系の一つです。このように父オオクニヌシと長男コトシロヌシはアマテラス勢力に国が併呑されるのを認めてしまおうとしていました。しかし、次男のタケミナカタは徹底抗戦を主張します。タケミナカタの母の国、越が出雲に併呑された苦い思い出があったのでしょう。そこで、古事記にはタケミカヅチとタケミナカタが相撲を取ってタケミカヅチが勝てば国を譲り、タケミナカタが勝てば国を譲らなくてもよいことにして、相撲を取ったとあります。しかし、実際は武力衝突、つまり戦争があったのでしょう。

4-2.タケミナカタ出雲から越へそして諏訪へ逃げる

 タケミナカタは負けて、越へ逃げました。越は母ヌナカワヒメの国です。ですから母の勢力範囲へ逃げたのです。しかし、海に近い越ではタケミカヅチ軍の追跡があり、まだ危険でした。そこで、山の中へ山の中へ逃げ諏訪まで来ました。もうここから出ないからこれ以上攻めないでくれということになり、ようやく停戦となりました。タケミナカタはここで信濃の国を建て、諏訪で落ち着きました。停戦合意ののち、越にいた母のヌナカワヒメは、糸魚川から鹿の背中に乗って、北安曇郡小谷村(おたりむら)戸土(とど)の峠を越え、今の長野市、上田市を抜け、長和町の大門峠から今の茅野市へ来ました。茅野市の御座石神社には、ヌナカワヒメが乗ってきた鹿の蹄の跡だというくぼみがついた平べったい大きな石が境内に今も大切に残されています。さらにそこからヌナカワヒメは息子のいる諏訪まで行って一緒に暮らしたといいます。

4-3.諏訪系神社の御柱祭の意味

 小谷村戸土の峠は、信州で唯一海の見える地であり、ここは7年に一度行われる諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)の一連の儀式の最初の儀式、「薙鎌神事」が行われる所です。ここ小谷村戸土は諏訪大社の神事が行われる所ですから住民も信濃の国に属していると信じていたのですが、峠から海側は、江戸時代の行政単位として越後に組み入れるべきではないか、年貢は越後の方に納めよという主張が出され、江戸時代に大きな問題となりました。通常分水嶺が国境となるのが普通ですが、分水嶺よりも海側にも、この信濃の国の諏訪大社の大事な神事「薙鎌」が行われる場所があるのです。この江戸時代の訴訟の決着は神事からすれば、この地は信濃の国ですが、分水嶺などの地形からすれば越後の国であるのは明らかです。しかしながら、どちらにすることも住民生活に問題が残るので、ここだけは国境線を定めないこととしました。この江戸時代の裁定のため、今も地図(例えば、ニューエスト20長野県都市地図、77ページ、昭文社1999)をよく見ると、ここだけ長野県と新潟県の県境が引かれていません。知らない人が多いですが、全国でここだけ県境が引かれていない土地なのです。
 出雲は国譲りをしたので、出雲の支配下にあった越も同時にアマテラス支配下になりました。そこでここはアマテラス系の勢力と信濃の国を建てたタケミナカタの勢力の結界の地であり、「薙鎌神事」は、アマテラス系勢力を薙ぎ払うという意味があったものと考えられます。タケミナカタにとっては、ここからアマテラス系の勢力が侵入し、再び亡命政府の信濃の国の存在を脅かすことは何としても避けたかったでしょう。薙鎌神事は国境防衛の意識を7年に一度思い起こし風化させないためのまつりごとなのだと考えられます。
 おまつりとは何でしょう。人々は戦争や自然の大災害も年を経るごとに記憶が風化して行き、50年も100年もすると実体験した人々もほとんど死に絶えてすっかり忘れ去られてしまいます。おまつりは1年毎、あるいは7年毎、20年毎、長いのになると60年毎に1回行ったりします。これは、人々が昔の体験や記憶を新たにする有効な手段です。例えば、島津軍は関ヶ原の戦いのとき、敵陣の真っただ中に取り残されましたが、敵陣を中央突破して薩摩まで逃げ帰りました。隊列の最後尾となった武者は、馬から飛び降り追尾してくる敵を、命を捨てて前方のものを守りました。それで1500人いた島津軍は、薩摩までたどり着いたのはたったの80人だったそうです。生き残った殿様の島津義弘は、自分を守って死んでいった武者を忘れないために、実に260年間も、毎年、追悼の祭りを行いました。とうとう260年後島津藩は徳川幕府を倒し、薩長土肥を中心とした明治政府を樹立しました。島津藩が260年間徳川への反逆精神を持ち続けられたのは、このような記憶を風化させないまつりが大きな役割を果たしているのです。
 したがって薙鎌の神事も、アマテラス系勢力に対する国境防衛の意識持続が主目的だったと思います。信濃の国はアマテラス系の国家の中に浮かぶ自治独立国家となりました。タケミナカタはその初代国家元首です。
 信濃の国では、7年に1度諏訪大社を中心に御柱(おんばしら)祭を行います。御柱祭は、諏訪大社が有名ですが諏訪地方だけではなく、木曽郡楢川村を南限に、長野県全県で行われます。ちなみになぜ楢川村(平成年間塩尻市に合併)が木曽地方の南限かというと、古代この楢川村の鳥居峠以南の木曽地方は美濃の国だったためで、信濃の国ではなかったからです。御柱祭を行う神社が、北信の大町市、飯山市、長野市、東信の上田市、佐久市、中信の諏訪市、松本市、南信の飯田市、根羽村(県最南端)など各所にあることがホームページから確認できます。これらの御柱祭は、規模の大小はありますが、諏訪大社と同じく、山で木を切り出し、里では人力で木を引き、神社の境内に、人力で柱を建てるという順で、取り行われます。豪華なところでは、これに「おねり」といって武者行列のようなものを行うところもあります。信濃の国は御柱祭を行う国といえます。
 信濃の国では「御柱」は「おんばしら」と読みますが、出雲では同じ漢字を書いて「みはしら」と読みます。出雲大社は太古の昔は、高さが32丈(96m)もあったとか、16丈(48m)もあったとか言い伝えられてきましたが、そんな古い昔に木造建築でそんな高楼を造ることができたのか疑われていました。しかし、西暦2000年に、現在の出雲大社社殿前の庭を掘ったところ、巨大な柱が出てきました。巨大な柱をさらに3本を1まとまりにしたものが、一定間隔で出てきたのです。大林組がこの遺構から計算すると高さ16丈(48m)の社殿が実際に建っていたことが分かりました。丁度その発掘の最中に、私は出張のついでに出雲大社を見学に行きました。特別展があって、巨大な柱を展示してあり、説明文に「御柱(みはしら)」と書いてありました。私は、「信州では「おんばしら」と読むのになあ。でも、出雲も信濃も巨大な柱に大きな宗教的な意味があるのだなあ。」と、その類似性に感動しました。太古の昔雲州と信州に共通して、巨木信仰があったのでしょう。
 中国の歴史書「三国志」には、古代朝鮮半島の高句麗、濊などの国では共通して10月に、国中の民衆が一同に集まっておまつりをすることが書かれています。その際、高句麗では高楼を建てたとあります。出雲とそっくりです。この高楼を建てる風習が、昔の出雲大社の日本一高い木造建築につながり、諏訪大社では何十トンもの重さの巨木を神社の境内に建てる「建て御柱」につながっているのでしょう。
 御柱の祭りは、記録によれば平安時代には既に行われていたことははっきりしていますが、それよりももっと古い時代から行われていたらしく、いつ始まったかは文献ではわからないといわれています。それは、文字もまだ伝わっていない2000年以上前の縄文時代から弥生時代に移り変わるころだったのでしょうから、文献に載っていないのは当然でしょう。タケミナカタら亡命集団は、まだ縄文時代の原住民の守矢氏の集団と融和し、最終的に諏訪に落ち着き、信濃の国を建国しました。縄文文化の守矢氏の習俗を否定せず認め、自らの弥生文化も相手に認めさせてお互いに共存共栄を図ったのでしょう。ですから、今も諏訪大社において連綿と続く上社の縄文的祭事が残り、下社の弥生的祭事と並立しているのだろうと思います。この諏訪大社と出雲大社の歴史的経験が、日本人が他宗教に寛大で、現在では神道と仏教を同時に信心する原点になっているのだと私は考えています。

4-4.上田市にある須羽の意味

 タケミナカタは、最初は現在の上田市付近に定住しようとしたのではないかと思います。なぜなら、上田旧市街地のある千曲川北岸一帯は、古代に須羽(すは)と呼ばれていたこと。また上田市真田町には表木神社と裏木神社があり、表木神社にはタケミナカタを裏木神社にはヤサカトメをまつっています。今は、裏木神社は境内の真ん中を国道144号線が通り、その道の右脇に小さな祠くらいしか残っていませんが、もう一方の国道左脇にはこの辺りだけ大木が何本もたって残っています。また、この境内の発掘調査が行われた時、弥生時代の祭事を行うときに用いる大きなかめが出土しています。これは、この神社が弥生時代に始まった証でしょう。さらに、表木神社と裏木神社のように夫婦別々に祭るのは、現在の諏訪大社の上社と下社とそっくりです。私の知る限り、他にはほとんど例を見ません。これらのことから、私は、上田市の千曲川北岸一帯は、タケミナカタの集団が最初この辺りに定住しようとした場所ではないかと考えています。したがって、この辺りが古須羽(こすは)と呼ばれた理由だと思います。新しいすわは、現在の諏訪です。
 何故、この上田の都を放棄したのかはなぞですが、私は次のように考えています。科野(しなの)大宮の石碑に、信濃の国の初代県知事(国造)であるタケイホツの命(みこと)のことが書かれています。タケイホツは神武天皇の曾孫(ひまご)にあたり、出雲のオオクニヌシの玄孫(やしゃご)にもあたります。つまり、アマテラス系と出雲系の両方の血を引き、父は熊本阿蘇の初代県知事タケイワタツの命です。このようにタケイホツは出雲系の血も引きアマテラス系の血も引き、出雲の亡命政権を懐柔して統治するには最適の人選だったのだと思います。この人のお墓は口伝によれば、上田市北小学校前にある前方後円墳、二子塚(ふたごづか)です。前方後円墳の作られた時代は弥生時代が始まった時期よりずっと後の古墳時代ですから、この間に、タケミナカタの中心勢力は、徐々に天皇の勢力に圧されて、新しい諏訪へ移らざるを得なかったのでしょう。
 タケミナカタの中心勢力は、上田(古須羽)から諏訪に移り最終的に落ち着きました。母のヌナカワヒメも越から鹿に乗ってやってきて合流しました。一族は原住民の守矢族とも共存共栄し繁栄しました。タケミナカタには13人の子供があり、その息子のオキハギの命は、佐久地方を開拓しそこに移住して定着しました。今、佐久市の新海神社はオキハギの命を佐久開拓の祖としてまつっています。新海神社はもと新開と書きニイサクと読んだらしいです。新たに開拓したという意味で、そのサクから今の佐久になったそうです。
 信濃の国は、このようにタケミナカタらが建国した出雲の亡命政権です。
正史というのは勝った者の歴史であり、出雲や信濃の歴史は、一般にはほとんど学校で習いません。出雲の国譲りの話などは、少し古事記に載ってはいますが、タケミナカタが相撲に負けて「すは」に行った話が最後に出てくるくらいで、その後どうなったかは書かれていません。負けた方の歴史はほとんど書かれないのです。しかし、古事記や日本書紀の神話はすべて嘘だといった学者がいましたが、私はそうは思いません。

5.結論

 出雲からタケミナカタが信濃に逃げてきて落ち着いたということは、これだけ多くの出雲系や諏訪系の神社が信濃の国にあるのですから、全部が嘘だと誰が言えましょう。長野市豊野には、1900年前にできたという伊豆毛(いずも)神社があり、新潟県三島郡には出雲崎という名の町と港があります。ヌナカワヒメが糸魚川から鹿に乗ってやってきた、その鹿の蹄の跡をまつった茅野市の御座所神社の存在など、全てが嘘とは考えられません。余りにも広域で壮大なスケールの嘘となり、嘘だという方が信じがたいです。私は神社を訪ね歩きながら、タケミナカタという人物と信濃の国開闢のいきさつは、実際にあったことだと確信するようになりました。私はいつかタケミナカタを主人公にした壮大な歴史小説を書こうと思います。

文頭の写真は、上田市舞田の塩野入神社の立札。タケミナカタ(諏訪大神)が信濃の国開闢の祖と明記してある。

信州上田之住人和親
2012年7月5-7日随筆
2014年10月24日加筆
2021年3月5日加筆

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