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20世紀の記録として残したいこと(第3話)父の満州での結婚生活

3-1. 郷里の同級生と結婚


 
昭和14年(満州国元号康徳6年:西暦1939年)、父は、24歳の誕生日9月14日に、牡丹江市の旧駅舎の前にあった日本式の仮設牡丹江神社で、郷里の小学校の同級生の高嶋キクと結婚式を挙げました。父の母マサが郷里から3日がかりで汽車に乗って花嫁を連れてきたそうです。翌年の昭和15年(康徳7年)7月17日長男正剛(まさたけ)が生まれました。父も長兄の竹市も男の子が生まれて大喜びました。父は当時政治理念などに感銘を受けていた政治家の中野正剛(せいごう)氏にちなんで、この名前を付けたとのことです。しかし、母は産後の肥立ちが悪くまた幼い正剛が肺炎になりかけるなどしたため、医者の勧めもあって、酷寒の満州の冬を避け、その年の11月から翌年の昭和16年(康徳8年)9月まで実家の香川県三豊郡一の谷村で長期間養病しました。母が回復して帰満した翌年の昭和17年(康徳9年)父は、牡丹江市西区新立屯街16番地1号(別表記法では西三条路16番地1号)の中国人居住地の旧市街に新居を建てて引越しました。その時長兄の経営する大東商会から独立し、中国人の張魁元さんと一緒に、砲台用の荷車を製造する三明鉄工所という会社を設立して共同経営に乗りだしました。昔流に言うと分家したことになります。自宅兼事務所には「牡丹江荷車製造組合 電話5767番」の看板を掲げ、工場は別の場所に建設しました。新規事業立ち上げのため、父は大変忙しく東奔西走して出張が多かったと言います。父がハルビンへ出張中の8月30日に事故が起きました。2歳になったばかりの長男と二人で留守を守っていた母は失神し、男の子を死産してしまいました。母も危ない所でした。いたましい出来事でした。外国で妊娠中に夫が出張でいないということくらい、言葉の不自由な妻にとって大きな不安はないものです。新しい家は中国人街にあり、周りに日本人は殆ど住んでいなかったそうです。母は寸での所で命拾いをしました。父は母を、朋友だった名漢方医の籍俊伍(チェシュンウー)太夫(=お医者さんの敬語)に見てもらい、数ヶ月して良くなりました。また父は母が良くなる迄女中さんを雇いました。翌年の昭和18年(康徳10年)9月17日には次男の義徳(よしのり)が誕生しました。父は、死んだも同然だった母が命拾いして、その上わずか一年後にまた子供が授かったので非常に喜びました。さらに二年後の昭和20年(康徳12年)3月20日には長女の治世(はるよ)が生まれました。
 

3-2. 交通事故による脳膜炎


 
長女が生まれて間もない昭和20年4月25日に、父は自動車事故にあい脳膜炎になってしまいました。父が乗った車に、憲兵隊の車が後ろから追突し、父は頭を強く打ちました。真っ青な顔をして自宅に帰った後、意識朦朧となり寝込んでしまいました。それで、憲兵隊が自宅まで謝りに来たそうです。父はそれから三日位したら、少し良く成ったので風呂に入りました。そしたら急に今度は意識不明となってしまいました。脳内出血したのだろうと思われます。太平路(牡丹江市内の大通りの名前)の光脳病院の往診を受け治療しました。母は入院を望んだのですが、死人ばかり出る病院と噂されるのを病院が嫌がり入院させてもらえなかったと言う事です。もう死ぬと思われていたに違い有りません。大変な重病でした。のちの話になりますが、父が八十を過ぎてからクモ膜下出血で2度目に倒れた時、CTスキャンを撮った医者が、3回出血した痕(あと)が父の脳にあると言いました。私の郷里に住んでいる兄は、いや2度しか倒れた覚えが無いけどなあと言っていました。医者は1回目のはかなり古い痕だと言ったそうです。恐らく、この昭和20年の事故の傷痕では無いかと思われます。この時長女を生んで直ぐの母は、赤ん坊の長女と二歳と五歳の幼児の三人の子供と、正気を失った重病の父を抱え、大変な苦労しました。さらに追討を掛ける様に5月1日長女治世が、高熱を出して死にました。満州の風土病の風疹だったようです。父の看病に明け暮れる余り、赤ん坊の世話が足りず死なせたのではないかと、母は泣いて悔やみました。一家は惨憺たる状態でした。父が重病で働けず、その上、蓄えたお金も父の高価な治療費でまたたく間に無くなっていきました。そのため、母は経済的にも大変な苦労をしました。そこで、工場の最新鋭の機械を売り、何とか踏みとどまったそうです。父はその後2ヶ月の間生死の間をさまよいましたが、母の懸命な看護のもと6月頃には命を取り留めたようです。母は、父の体力を落とさないために、髪や髭を剃らずにおいておきました。死にやまいになっているときは、病人の爪や、髪を切るとそれだけその人の体力を消耗するのだそうです。
 また、父は牡丹江省長の命により牡丹江荷車製造組合常務理事も務めていた関係で、鮮満系組合員が日系人にはなじみのない新鮮な生肉などの栄養食品を父に食べさせて早くよくなるようにと、わざわざ母に届けてくれました。このお陰で、父は回復を早めることが出来ました。母はのちのちまで、外国で本当に困っていたとき、人種に関係なく朝鮮系や満州(中国)系の人たちが日本人の母を助けてくれたことに、大変感謝していました。
 
2000年12月10-12日随筆
2001年4月18日加筆
2001年4月27-29日加筆
2001年6月14日加筆
2003年4月26-30日追記と修正
2003年6月12-13日修正
2003年8月11-16日最終修正
2022年5月27日7編へ分割編集
 

本記録に関して


本記録は、20世紀の記録として是非、残しておきたいと思い、生前の父太田安雄(通名は康雄)、香川県三豊郡山本町(現三豊市山本町)在住、から、聞き書きした記録文です。父は、大正5年(1916年)9月14日生まれで、平成15年(2003年)4月5日、87才になる年に亡くなりました。聞き書きしたのは、西暦2000年から2002年の3年間です。父が生きている間に、是非、貴重な記録として残しておきたいと思い、父やのちには親戚からも取材し本文をまとめました。非常に長くなったので、話題ごとに7編に分割掲載いたしますが、どの話題も皆さんがほとんど知らない大変興味深い話だと思いますので、ご一読頂ければ幸いです。

*なお冒頭の写真は、満州国国旗です。Wikipediaから引用させていただきました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Flag_of_Manchukuo.svg  
2018年11月12日 (月) 16:12 更新分

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