信州上田市内にある超有名人の墨跡
(はじめに)
私は日頃の運動不足を解消するため、土日暇があれば散歩することにしています。しかし、ただ歩くだけだと続かないので、神社仏閣を訪ねてその縁起や由来を読むことを楽しみとしています。そうしていると自然に古い石碑に目が行くようになりました。今では、石碑があれば神社仏閣に限らず碑文を読むことが楽しみとなりました。以下は、今までに私が見つけた上田市内にある超有名人の直筆の筆跡が刻まれた石碑のリストです。その石碑の場所とその人物の簡単な紹介をします。
1. 彰仁親王
(石碑の場所)市内常田科野大宮の碑の篆額
(人物)彰仁親王は皇族の小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)のことである。弘化3年(1846年)1月16日生れ、明治36年(1903年)2月18日没。安政5年(1858年)京都仁和寺の僧籍に入られたが、慶応3年(1867年)22歳の時勅命により還俗し、慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いに、征東大将軍として出陣。朝廷はこの軍に対し錦の御旗を授与して、彰仁親王とともに戦場に向かわせた。これにより、薩長軍は官軍となり幕府軍は賊軍となった。この時の品川弥二郎作詞・大村益次郎作曲の軍歌、「宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのは、何じゃいな。 トコトンヤレトンヤレナ。あれは朝敵、征伐せよとの、錦の御旗じゃ、知らないか。トコトンヤレトンヤレナ。」のトンヤレ節に出てくる宮さんこそ、この人のことである。因に、東京上野公園内の上野動物園前に、この宮さんの銅像がある。勿論お馬に乗ったお姿である。従って、この科野大宮の碑の篆額は、当時極めて有名で高貴なこの宮様に揮毫してもらったもの。尚、この宮様は、鳥羽伏見の戦いの後、明治元年には、会津征討越後口総督となり、越後の長岡藩を、次に奥州の会津藩など諸藩を平定して凱旋。
東京から長岡へ出陣の途中明治元年年9月27日上田市内岩下地区にある伊波保神社近くの尾崎惣作邸で小休された。このことを示す石碑が、この宅地跡に建てられている。この碑では、仁和寺宮嘉彰親王となっているが、これは改名前のお名前で、後の小松宮彰仁親王であり、同一人物である。戊辰戦争の時官軍が上田を通った証拠が、この岩下の石碑。また、彰仁親王はトルコ共和国を訪れた最初の皇族でもある。この返礼のために日本に派遣されたトルコの軍艦「エルトゥールル号」が、東京からの帰途和歌山沖で嵐のため遭難した。その遭難者を和歌山の住民が献身的に救助した。最近、日本トルコ両国合作の映画「海難1890」に描かれて話題となった。
2. 佐久間象山
(人物)松代藩出身の幕末の思想家・科学者・教育者。県歌信濃ノ国にも歌われているので信州人には説明を要しないほどの天才的偉人。下記の毘沙門堂で活文禅師から漢学、中国語、一絃琴などを学んだ。
(石碑の場所1)上田市常田毘沙門堂の龍洞鳳山禅師碑文の篆額
(石碑の場所2)上田市五加八幡社境内 五反幟の字を石碑にしたもの
(石碑の場所3)隣町東御市 力士雷電為右衛門の碑 文並びに書が全て象山のもの。雷電は生涯勝率が9割7分と歴史上最強の力士なので、雷電の碑は賭け事のお守りになると信じて削り取っていく人が多数いた。それで、ぼこぼこになり碑文(上部写真手前の碑)もほとんど見えなくなってしまった。そのため明治中期に、雷電の未亡人と勝海舟らが尽力して新しい碑が旧碑横に再建された。
3. 東郷平八郎 元帥
(石碑の場所)上田市上田城公園内市民プール入口前の「贈従五位赤松小三郎君之碑」の題字
(神社額の場所)上田市紺屋町八幡社本殿内の額の金文字の題字「八幡宮 海軍大将 東郷平八郎」
(人物)日露戦争日本海海戦で大勝利した将軍。国民的英雄。「天気晴朗ナレド波高シ」の打電文はあまりにも有名。東郷は京都で赤松に英国式兵法を学んだ。その時東郷は薩摩藩士で赤松は上田藩士であった。また、上田市内信濃国分寺では縁日に、今も東郷元帥直筆の幟が立てられる。市内大屋神社では、明治39年東郷、上村、伊藤の三将軍が千曲川に一つの小舟に一緒に乗って遊んだ、その小舟が、本殿北側の壁に飾ってある。依田川下流の東郷橋は、この時の来遊にちなんで名付けられた。週刊上田を発行している東郷堂も東郷元帥にちなんだものだという。
4. 乃木希典 大将
(人物)日露戦争旅順攻略二百三高地の死闘を指揮した陸軍大将。二百三高地では極めて多くの戦死者を出しながらも遂に勝利した。国民的英雄。当時日本髪に二百三高地というのが流行った。この旅順の戦いの模様は「旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の所はいずこ 水師営」と当時の尋常小学校の唱歌にも歌われた。明治天皇崩御の際、日本古来の武士の伝統を守って乃木夫妻は殉死した。
この乃木さんの墨跡の石碑は上田市内に非常にたくさんあります。私が歩いて見つけたものを下に記しますが、おそらく市内にもっとあるものと思われます。
(石碑の場所1)上田城公園内 招魂社拝殿に向かって左側の巨大な石碑 署名が源希典となっているが乃木希典のこと。碑文は長文であり、上小地区から日露戦争に三千百余人出兵し、戦死した方が二百三十余人であったことなどが書かれている。
(石碑の場所2)信濃国分寺本殿左脇奥「日露戦役紀念碑 希典書」の石碑
(石碑の場所3)白山比咩 (しらやまひめ)神社(山口区)「日露戦役紀念碑 希典書」
(石碑の場所4)玄蕃山公園内(神科区)「忠魂碑 希典書」
(石碑の場所5)山家神社内(上田市真田町長)「忠魂碑 希典書」
(石碑の場所6)石久摩神社内(市内上田原川辺小学校横) 「日露戦役 忠魂碑 希典書」
(石碑の場所7)西光寺境内(市内富士山区)「忠魂碑 希典書」
戦後GHQの命によりこの碑文はコンクリートで塗り固められた。占領期が終わり独立後コンクリートをはがして元通りにしたとの説明書きがこの碑の脇にある。
(石碑の場所8)市内浦野地区軍人墓地(浦里小前)「日露戦役従軍記念碑 希典書」
因に、この碑だけ「記念」という字が使われており、不思議。乃木さんの書は全国至る所で、「紀念」という字だけが使われている。上にも述べたように、戦後GHQにより乃木さんの石碑は廃棄させられたところが多数あったそうなので、これは独立後再建したときに、誰かが誤字だと思って訂正したのかもしれない。
(石碑の場所9)市内秋和八幡大蔵京古墳頂上「日露戦役紀念碑 希典書」
この碑は巨大なコンクリート製の砲弾型(ロケット型)で、その表面に上の碑文が乃木さんの直筆で書かれている。この形にはびっくり。一見の価値あり。
その他に、以下の場所にも乃木希典大将直筆の石碑がある。
上田市丸子町塩川小横神社内碑
上田市丸子町公園内
上田市丸子町長津瀬神社内
上田市丸子町飯沼神社内
上田市真田町傍陽実相院境内
隣村小県郡青木村竜仙寺近く
隣町東御市東部町祢津健事神社内
5. 勝海舟
(石碑の場所1)市内五加八幡社西参道脇の大型の石灯籠の題字「修善生洪福」
(石碑の場所2)市内下組前畑室賀弥三郎氏宅(ムロガ機械設計)西門入口の「筆塚」の題字
(人物)幕末の幕臣。勝海舟と西郷隆盛との会談により江戸無血開城が達成された。幕臣にありながら海舟の開明的な思想があったからこそ、日本が大規模内戦にならずまた西洋列強の植民地にもならず、明治維新が成功したと言える。近代日本の英雄的政治家。海舟は佐久間象山に学び、海舟の妹は象山に嫁いだ。海舟の「氷川清談」は、維新前後の生々しい状況や幕末の英傑の人物像をべらんめい調で伝えていて、有名である。
6. 榎本武揚
(石碑の場所)市内中之条上田しいのみ園へのバス停脇「力士年寄上田嶋長太郎碑」の題字
(人物)幕臣の武士で、海軍学を学ぶためオランダに幕府派遣留学した。武揚は、語学の天才で5カ国語が堪能であった。オランダでは海軍学のほか化学と国際法も学んだ。丁髷に袴姿の武揚を珍しがって、武揚が歩いているとよく大勢のオランダ人が後からついてきた。武揚は渡蘭中、セントヘレナ島を訪れ英雄ナポレオンの墓を見て感涙に打ち震えた。ナポレオンはこれより40年ほど前の1821年に流刑地のセントヘレナ島で亡くなっている。幕末の武士はナポレオンに憧れている人が多かった。武揚は帰国後幕府海軍の総指揮となったが、新政府に最期まで降伏せず艦隊を率いて北海道に行き蝦夷共和国を建国して抵抗した。しかし遂に多勢の新政府軍に破れて降伏した。これをもって、慶応4年(明治元年)から明治2年にわたった戊辰戦争は、終わった。武揚は官軍に捕えられ、新政府の首都の東京に送られた。裁き待つ牢獄にいたとき、その牢獄に同じ幕府派遣留学生だった幕臣がとらわれているのを知り、武揚とその幕臣とは、離れた独房間でオランダ語で会話したという。武揚の多大な才能を惜しんだ新政府は処刑せず罪を許し、新政府に迎えて要職につけた。また、武揚は後に東京農業大学の初代学長や日本化学会の初代会長ともなった。東京農大は、禄のなくなった旧幕臣の子弟が維新後困窮しているのを見て、その子弟を開拓農業で救おうと武揚が設立した、旧武士のための大学である。
7. 渋沢栄一
令和3年(2021年)度のNHK大河ドラマの主人公として取り上げられています。その渋沢栄一直筆の石碑は、上田市内の次のところにあります。
(石碑の場所1)上田市丸子町丸子公園内 柳澤夢一翁筆塚
(石碑の場所2)上田市国分 信濃国分寺石垣石柱(墨跡ではないが寄付標)
(人物)渋沢は、天保11年(1840)藍生産と養蚕を主とする豪農の家に生まれたが、商才にも優れ文武にも通じていた。江戸に出て勉学に励んでいたころ尊王攘夷派となり、京都に移って攘夷を行おうとしたほどであったが、丁度その時、京都は七卿落ちの政変後で勤王派が凋落し、志士活動ができなかった。そんな時、知り合い平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に召し抱えられ、農民の身分から武士の身分になった。慶喜が将軍になったため、渋沢はさらに幕臣となった。幕府がパリ万博に出品することになり、渋沢はパリに派遣され、欧米の近代資本主義を目の当たりにし、以後、渋沢の商才が発揮されることとなった。パリ滞在中に幕府が倒れ、帰国してからは静岡で蟄居していた徳川慶喜のもとに、臣下として帰った。大勢の幕臣も、維新後路頭に迷い慶喜を頼って静岡に集まって来ていた。渋沢は、その商才と欧州で会得した知識を駆使して商法会所という組織を作って、これら大勢の幕臣を、経済的に救った。この商法会所は、多くの人々から小資金を集めて大金をなし、その大金を使って、物品を仕入れ販売を行って、個人ではなしえない、大きな商売を行って莫大な利益を上げた。資本主義による金融や会社経営を行ったのである。旧幕臣が、明治2年という極めて早い時期に、資本主義経済を取り入れていたことに驚く。渋沢だったからできたのだろう。その後、渋沢は、日本中に500を超える会社を設立して、日本の近代化に大いに貢献した。そのため、渋沢栄一は「日本近代化の父」と呼ばれている。昭和6年(1931年)に数え年92歳で永眠した。現在低迷する日本は、バブル崩壊後、失われた20年とか30年とか言われて久しい。今こそ、いでよ、第2の渋沢栄一と思う。
その他にも次のような有名人の墨跡が上田市内にあります。すべての写真と説明を挙げきれないので、ここでは有名人のお名前だけを列挙致します。
伊藤祐亨 *冒頭の写真は日清戦争のときの連合艦隊長官伊藤祐亨元帥海軍大将の筆による「鎮国道場」の額。信濃国分寺拝殿に掲示。
山県有朋
寺内正毅
大山巌
福島安正
後藤象二郎
金玉均
辻新次
島崎藤村
近衛文麿
2004年7月17-20日随筆
2004年9月9-13日加筆修正
2005年8月15日加筆修正
2006年4月27日加筆修正
2016年2月21日加筆
2021年10月1日加筆
信州上田之住人和親
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