引き裂かれた夫婦の絆_四題話
(はじめに)
心ならずも、どうしようもない事情で夫婦が引き裂かれてしまった後、あなたならどうされるでしょうか。ここで以降に語る4つの話から、皆さんと一緒に、夫婦の絆や人生について、考えてみたいと思います。
1. キャスト・アウェイしたノーランドとその妻
昨日NHKBSテレビでトムハンクス主演のキャスト・アウェイ(難破漂流)という映画を見ました。この映画を見て夫婦の絆についていろいろと考えさせられました。
まずこの映画は、南太平洋上の飛行機事故で遭難し、たった一人生き残り、絶海の孤島で4年間生き延びて生還したノーランドという男の話です。ノーランドは無人島の絶海の孤島に流れ着いた当初は、あまりの孤独に耐えきれず自殺しようとしました。しかし、思い直し、小さなロケットの中の妻の写真を洞窟の中に飾り、バレーボールに人の顔を描いてウィルソンと名付けて話し相手としました。そうしてだんだん気を取り直して、生活や道具に工夫するようになりました。4年後にはスケート靴の刃を利用して、木を伐採して丸太を作り、木の皮を剥いでロープを綯い、これで丸太を縛って、人一人乗れるいかだを作りました。そして、この小島に流れ着いた大型のプラスティックの板をへの字に曲げて、いかだの上に屋根のように設置して、雨をしのげて中で寝られるようにしました。風が吹いた時にはこのプラスッティクの板を立てて風を受け帆になるようにして帆走できるようにも工夫しました。また、4年間、島の季節風の向きを観測して、風向きがよくなった季節に、とうとうウィルソンと2人で、この絶海の孤島を脱出しました。なぜなら、ここにじっといても発見される可能性はほとんどなかったからです。自分から、どこか人のいるところまで帆走と手こぎで行く方が、希望を持って生きる意味があるからでした。しかし、途中嵐に遭い、帆を失い、相棒のウィルソンもノーランドが眠っている間に流されてしまいました。食料も尽き、衰弱して死にかけているとき、偶然通りがかった大型のコンテナ船に救助されました。こうしてノーランドは九死に一生を得て、故郷のアメリカの町と職場に帰りました。ノーランドはFedexというアメリカの宅急便の会社員でした。そこでFedex社は会社を挙げて、ノーランドが生還したことを祝福しました。しかし、そのパーティーにはノーランドの妻の姿はなかったのです。ここからの話は、夫婦というものの絆についてとても考えさせられました。
パーティーが終わって、ノーランドが一人で残っている時、一人の男が現れ、ノーランドに言いました。
「私は、君の妻と今結婚して新しい家庭を築いている。子供も一人いる。君の妻は、ここに来る予定だったが、とても精神的に混乱して、君と会えない状態だ。誠にすまない。」
と言って帰って行きました。
・・・・・この男も元の妻も悪いことは何もしていない。事故後生死不明の夫を3年間待っていた。しかし、ほとんど死んでいる可能性の方が大きい。いつまでもいつまでも、妻は待つべきだろうか・・・・・
妻の多くの友人達は、
「彼は死んでいる方が勝っている。あれだけ、捜索を続けても見つからなかった。若いあなたが、悲しみを抱えながら老人になってしまうまで待つべきではない。再婚して、新しい人生をやり直しなさい。」
と助言しました。そして、歯医者の男性と再婚し、一子をもうけました。
ノーランドはそのパーティーの夜眠れなくて、深夜に雨の中タクシーに乗って、元の家に行きました。外から自分が元住んでいた家を眺めました。すると玄関に電気が点いて、元の妻が出て来たのです。
「今、子供も夫も寝ている。私はどうしても眠れなくて起きていた。あなたのことを考えていたら、外で自動車の音がして、あなたが来たと思って出てきたの。」
「君は幸せにしているか。」
「ええ。」
「子供は一人か。」
「もう一人作ったらいいんじゃないか。俺だったらそうする。」
「君が幸せなら俺はいい。」
「あなたのことを今でも愛しているわ。」
「俺もだよ。」
「でも、仕方がない。俺はもう行かなくちゃ。」
「待って、ガレージに来て。」
雨の中、別棟のガレージに二人で行きました。
「これは僕らの乗っていた車だ。」
「ずっと、これ、廃車に出来なかった。あなたと私の二人の思い出が詰まっていて・・・・」
ノーランドはこの車に乗って、妻と別れました。雨の中、元の妻は濡れるのもいとわずノーランドの車が暗闇に消えていくのを見送り続けました。今も変わらぬ愛を持ち続けているノーランドとその元妻との二人の心中を思いやるとやるせない。でも、仕方ない。ノーランドは元妻の現在の幸せな生活を壊したくはなかったのです。ノーランドの潔さが、この映画の余韻として残り、見る者の心に響きました。
この話では元夫のノーランドの方が身を引きました。
2.モロタイ島残留日本兵の中村輝夫(スニヨン)さんとその妻
私は、この映画を見てもう一つの実話を思い出しました。今年は戦後69年ですが、39年前の戦後30年の昭和50年(西暦1975年)の話です。これも南洋のモロタイ島で発見された元日本兵の中村輝夫さんのことです。中村さんは台湾の出身で、アミ族でした。アミ語の名前はスニヨン(スリヨンとの表記もあります)でした。日本兵として応召し、インドネシアの孤島のモロタイ島に派遣されて、アメリカ軍と戦いました。アミ語も現地の言葉もインドネシア語系で基本語彙が似ていたので、中村さんも現地人と会話が可能で、日本軍には大変役に立つ存在だったらしいです。しかしある時斥候に出ていて自分以外は戦死し一人生き残りましたが、ジャングルの中で本隊とはぐれてしまいました。そして、戦後29年間も、38歩兵銃の手入れと毎朝の宮城遙拝を欠かさず、ジャングルの中でアメリカ軍を避けながら畑を耕して暮らしていました。そうこうしているうちに、1974年にフィリピン・ルバング島で残留日本兵の小野田寛郎さんが発見され、この小野田さんと同じように、モロタイ島にも残留日本兵がまだいるらしいと現地でうわさになりました。そこで、インドネシア軍による大捜索で中村輝夫さんはとうとう見つかり捕えられました。そして、中村さんは31年ぶりに台湾に帰りました。空港で待ち構えていた台湾のテレビ局が北京官話でいくら質問しても答えないのです。それもそのはずで、中村さんは日本語かアミ語しかわからなかったのです。だから日本語のインタビューには答えました。戦後、台湾は蒋介石の国民党の支配下になり、北京官話が国語に変わっていたのでした。中村さんの出身地の村では、村を挙げて生還の祝賀会の準備をしていました。空港からバスで村に帰る途中、バスの中で妻から、別の人と再婚しているとの告白を聞きました。中村さんは怒って、村に着く手前でバスを降り、祝賀会場には行かずに、実家のある別の村に歩いて行って引きこもってしまいました。中村さんは出征前に、入り婿として結婚し子供も一人もうけていました。夫が戦後30年も生死不明で、妻子も大変困ったに違いありません。妻の再婚は仕方がないと思われますが、しかし、中村さんには妻の再婚が大ショックだったのでした。ここで、素晴らし後日談があります。再婚相手の現在の夫は、「中村さんが帰ってきたのはうれしい。私が身を引けば中村さんは幸せになるだろう。」と言って、自ら進んで離婚に応じ身を引いたのです。そして、中村さん夫婦は元通りになりました。再婚相手の男性の潔さが光ります。中村さんは帰還してから5年後に亡くなりました。
第1話のノーランドの場合と違い、この話では再婚相手の男性の方が身を引きました。第1話と第2話を比べてみると、第1話では元夫のノーランドと妻の間には子はなく、再婚相手と妻の間に子がいます。第2話では再婚相手と妻の間には子はないようで、元夫の中村さんと妻の間に子がおられます。子供がいない方の夫が身を引くのが全体の幸福度が高いと考えられるからなのでしょう。それが、このような引き裂かれた夫婦の後始末における幸せの方程式のような気がします。では次の第3話のような元夫婦の両方がそれぞれ再婚して子供がある場合はどうしたら一番良いでしょうか。
(以上、平成26年(2014)5月17日随筆)
3. シベリア抑留夫と満州残留妻
ここでもう一つ、私の母方の叔父から聞いた話を思い出しました。1972年つまり昭和47年に、日中国交復興した後の話です。私の叔父高嶋幸雄は、戦時中中国戦線でずっと戦っていました。部下からは鬼軍曹と言われていたらしいです。私が子供の頃、この叔父さんは香川県三豊郡一の谷村の最後の村会議員をしていましたが、眼光鋭くとても怖い感じの人でした。私が大学生になった年が丁度日中国交復興の年でした。大学2,3年生の冬休みに私が帰省していた間だったと思いますが、叔父さんも50を過ぎ少し丸くなった感じになっていて、私の母、つまり幸雄叔父の姉の家を、訪ねてきました。私の父が中国語が堪能だったので通訳を頼みに来たらしかったです。帰りがけに叔父が私に話したところによると、軍隊で部下だった人が、軍曹、(階級が今となってはわからないのでここでは軍曹としておきます)、どうしたらいいでしょうと相談に来たといいます。戦後30年もたっていてもその人は元上司の叔父を信頼して相談に来たらしいです。
その人は、満州で所帯も持ち妻子がいましたが、陸軍に召集となり幸雄叔父の部隊に配属となりました。終戦後、武装解除となって捕虜となり、数年間シベリアに抑留された後、日本に帰還しました。満州は知ってのとおり、日本の敗戦後、ソ連、国民党、中国共産党の三つ巴の勢力争いの舞台となり、多くの日本人の婦女子がその大混乱に巻き込まれ、死んだり行方不明となりました。そして、日中国交回復する1972年まで27年間連絡不能で、現地に残留した日本人孤児や残留婦人の消息は、長い間不明でした。なぜなら、成人男性のほとんどは終戦直前の根こそぎ動員で兵隊に取られ、戦後はシベリアに抑留されるなどしたために、婦女子と老人だけで、決死の日本への逃避行をおこなわざるをえなかったのです。そのため家族や夫婦が引き裂かれた例は枚挙にいとまがありません。叔父に相談に来た人も、またその一人だったのです。
元の妻は、満州で残留婦人となってしまい、生きていくために仕方なく満人(=中国人)と再婚しその人との間にも子供もできました。3人の子供とともに今、国交回復し故郷の日本に、一時帰国しています。3人の子供は中国語しか話せません。一方、元夫の方は、シベリアから帰ってきて、満州の妻子のことを片時も忘れたことはないが、あの大混乱のさなか妻子は満州で死んだらしい。国交がないため生死が皆目わからない。そのため元の妻には大変悪いが、別の女の人と再婚し、今は新しい家庭を営んで子供もいる。ところが、戦後30年、死んだと思っていた妻子が満州(中国)から今一時帰国し、妻は元の夫である私に是非会いたいとそっと連絡して来ました。こういう状況で、この人は元の上司である叔父にどうしたらいいだろうかと相談に来たのでした。
「私は、元の妻には悪いが、別の女性と結婚している。待っていなかった自分が後ろめたく会わせる顔がない。また、今の妻に事情を話すと家庭の中で騒動が起こるに違いない。せっかく帰って来て私に会いたいと言っているが、会ってやるべきだろうか。それとも、お互いにそっとして今のお互いの家庭の幸せを守るべきだろうか。」
あの怖かった叔父が、とても情のある意見をその人に言ったのです。
「お互いに再婚したのは、戦争のためであり、仕方のないことだ。戦後30年経っても、お前に会いたいというのは、30年間、片時もお前のことを忘れずに想っていたのだろう。会ってやれ。会ってやるべきだ。」
その人は、幸雄叔父の意見に従って、元の妻とそっと会いました。私の父は、二人の面会の日、叔父に頼まれて、中国語しかできない3人の子供を連れて近くの観光地を見せて回ったそうです。二人はその後、日中それぞれの家庭に帰っていきました。二人にとっては大変悲しい別れですが、この再会で吹き切れてお互いが納得できたのではないかと思います。満州から一時帰国した残留婦人や残留孤児の中には、日本の親戚や肉親が現在の状況が許さず、名乗り出て来てくれない例も多数あったと聞いています。あの時若い大学生だった私は、夫婦の絆の機微について少しもわからなかったのですが、還暦をすぎた今では、叔父や父の計らいは二人のその後の人生を配慮したすばらしものだったと思えるのです。
(平成26年(2014)6月6日随筆)
4.モンテンルパで戦犯死刑判決を受けた前川治助さんとその妻と娘
この3話を書いてから1年後の今年8月の終戦記念日に前川治助さんの娘さん(76)の話が新聞に載っていて、もう一つどうしても忘れてはならない話があったのに気がつきました。皆さんは、渡辺はま子さんの歌「ああ、モンテンルパの夜は更けて」(昭和27年6月)という歌をご存知でしょうか。戦後、フィリピンのモンテンルパ刑務所に、多くの日本兵が戦犯として死刑判決などをうけて収監されていました。渡辺はま子さんは、この歌で日本世論を喚起し減刑運動を盛り上げました。また、現在私の勤務している信州大学繊維学部でも、昭和18年の卒業生で死刑判決を受けている上野正美さんの助命減刑運動を同窓会中心に昭和26年から展開しておりました。
cf. 千曲会報 第42号5頁(1951)https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/9588/1/Chikuma_kaihou042.pdf
前川治助さんも上野正美さんとともに死刑判決を受けてフィリピンのモンテンルパに収監されておりました。前川さんには妻と子供が3人いましたが、戦後戦死公報を受け取った妻は、周囲の勧めもあり再婚しました。ところがその後、前夫の前川治助さんがモンテンルパで死刑判決を受けながらも、生きていることがわかりました。今年8月の終戦記念日に新聞に載った前川治助さんの娘さん(76)の話から、お母さんは大変苦しみましたが、新しいお父さんの方が自ら身を引き、前のお父さんの前川治助さんの元へまた家族が一つになったとのことを知りました。再婚相手の男性の潔さに感動します。
この第4話では、現夫さんが身を引かれました。第2話の中村さんの場合にも、現夫さんが身を引かれました。身を引かれた現夫だって、大変な苦悩であったでしょう。でも引き裂かれた夫婦が元のさやに納まり幸せになるのを、大きな心で望んだ現夫の大きな大きな愛情を感じます。(2015年11月22日追記)
以上は4話とも、引き裂かれた夫婦の絆に関する話でしたが、皆さんが自分がこういう立場になった時にはどう考えてどう行動するでしょうか。
*なお冒頭の写真は、第1話のキャスト.アウェイの撮影に使われた、南太平洋の無人島モヌリキ島の写真です。
Wikipediaから引用させていただきました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4
最終更新 2022年5月12日 (木) 19:45
平成26年(2014)5月17日、6月6日 随筆
平成27年(2015)11月22日 追記
令和 4年(2022)9月2日 加筆
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