今日の哲学

今日は現代へ
俺は騙されないために哲学を学んだ。もちろんリスクはある。というかそれまでの痛みがそうさせたわけで俺自体がただ単に個人の平和を望んだだけの話だ。
若者に対するアイデンティティの充足とか単純な生き残りの啓蒙はすでにあるが、それだけじゃ敏感な人は生きずらいだろうと思う。20代その生きずらさがずっと続いた。もう生まれて来なきゃ良かったと思った。
内面的苦痛から発生する外部没入ばっかりになれば心休まる暇もない。

でも人間は考え方を変えることができる。
深刻な病気と向き合う人たちは希望の手がかりが見つからずただ依存するだけの人生になるだろう。村上龍氏はこう啓蒙しているが当たっている。
それは俺が思うには肉体に負荷をかけ続ける人生であり、本来あるべき人間の姿ではない。

そこで哲学、肉体は疲弊すると神経症の中に逃避する。神経症自体と戯れるのがマゾヒズムであり。人によっては一生入院とか入退院を繰り返すという非人間的な姿というか退廃である。
人によっては寿命でもないのに死ぬ。

医療機関はあくまで死を回避する手段にすぎないのである。
当たり前だけどいつの時代もできる限り自分の身は自分で守らなければいけない。

哲学的認知療法を続ければ、ソフトも持てるし神経症ではなく肉体反応と付き合うという生き方ができる。
それでこそ生き残ることができるのではないだろうか?
限界状況は実際あり。それでも肉体は常に生きろと悲鳴を上げているのである。俺はたまに身体のどこかが痛む。でもそれが人間だ。

だからやはり大人しく日常を大切にするという暮らしも必要なわけだ。

そこから肉体に負荷がかからない範囲で個人の希望(内面的苦痛からの外部没入ではない)を行使してもいいのではないのだろうかと思う。それでも上手くいかないのであればそれも人生である。

美味しい物とか一流の音楽とか言ってもそういう風に自分の生活を大切にしながらではないと幸せに感じないと思う。
それと他者へ何かしら働きかけをしなければ希望など皆無だ。と思っている。自己表現とかっていうのはあくまでセラピー的なもので実際には問題もあるのだ。ヤスパース精神病理学と言っても単純に自分と他者を区切った上で他者と交わるというだけでベースに過ぎないのである。他に医師も知っているフロイトとかアドラーとかいった精神病理学だけでは病気は良くならないというわけである。それらは仮説だからね。手ごたえとして確かなものではない。

しかし一度直感で勘ぐってから確信持てるまでって時間かかるね・・・

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