今日の哲学

今日の哲学
共同体に親和性がないことが犯罪やカルト宗教に繋がる

社会性の中で甘えることが許されていないこと国ではリラックスということを考えると閉ざされた関係性での甘えしかない。自己評価が低いとリラックスできないというのは事実だが、自己評価には哲学的な要素もあるけど、実際は経験的な自信とか個人としての外部(他者)からの評価が必要なのである。当たり前だけど世間に自己評価を求めたところで、評価するのは個人である。俺は病気をしてから閉ざされた関係性の中での甘えというのに着目したが、それでもパニック障害やバロック陶酔などの自殺を連想させるものから逃れることはできなかった。閉ざされた関係性での甘えが親和力に繋がるということが共同体では認識されていない。俺は甘えにこだわる。共同体は反精神医学的だ。精神病院でもだ。今でもたまに外発性の不安に苦しむときがある。その反精神医学的な医療関係者と関わっているとこっちが反社会的になってしまって抜け出すのが大変だった。ホントは反社会的になっても個人としての外部(他者)と交わればそれから抜け出すことができる。彼らは患者のことなど全く考えていないのである。俺生活しやすくなったとか救われた感あるって言ったらキレられたもある。

西洋精神医学(いつも書いている悪意とか絶望とか)の対処は適格なところがあるが日本の精神医療では認識として足りていない。他者との関係性に関してはカウンセラーがわかっていたので同意して助かった。自分で読んでも症状があるときは向き合えないからかえって混乱するだけだ。悪意はあれば外に悪意を向ける。絶望していれば絶望してますと医師に言うとか、何かでそれを表現するしかない。
酒と性と自己憎悪と痛い音楽みたいな構図は日本の中で永久に続くだろう。ルックスが良い人が闇を持っているっていう太宰修みたいなので定番である。左翼にかぶれるのも同じくだ。日本人自体が未だに狂気的な田舎芝居が好きなのである。村上龍の初期の作品とかもう馬鹿馬鹿しくて読めない。
俺が快楽に溺れるのが嫌だっていうのもあるが…

カルト宗教と同じでその先にあるのは退廃と罪責である。

精神疾患の場合いくら辛いからといってずっとそれをやっているわけにはいかない。それは過程であって本当の人生ではないのだから。

建設的な人はそういうのがアイデンティティとなることを嘆いているのだ。ホントは自己憎悪なんて言ってもただ単に自己愛性人格障害と戯れているだけで、なんらかの形でそれから自由にならなければ意味がない。単純にマゾヒズム(苦痛と戯れる)という病気を抜け出せば関係性と情報伝達しか希望はないということがはっきりとわかる。

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