今日の哲学

今日は嘆き
一部の精神科医以外は病気というものを甘く見ている。特に若い人は犠牲者だ。手が震えたりする状態、パニックの状態、その他身体症状の状態で無茶をしたりすれば確実に犯罪や破滅と隣合わせになる。そこには哲学のテリトリーがあるがあるということを誰も知らせない。ドストエフスキー的な他者との関係性、愛の問題どうこうは医師の指示を受け入れて、苦しみを乗り切った後素直に自分の傲慢や自信過剰の過ちを認めて、こんな恐ろしい病が起きないようにと涙を流しせばいい。そうときに音楽とか詩とかが役に立つ。自分ではあんまりやらない方がいいかもしれない。
そこから過去の過ちは取り返しがつかない、今の苦しみは自分一人では解決できない限界状況である。そこから自分のテリトリーを出て現実の人間に対する自己開示・交わりを通じて、今の希望を発見しなければならない。
精神症状が落ち着くまでは死に対する恐怖心や、自分が疲れているという意識を絶対になくてはならないのだ。じゃないと性などの根本的欲望と社会性とのバランスが取れなくなってそれはそれは恐ろしいことになる。俺はそれで1年間引きこもった。
今はサディズムを手に入れたからなんとかなっているけど、
そこに至るまで、つまりリアルに生き延びようとすればマゾヒズム(苦痛と戯れる)の根には破綻が生じる。これは間違いない。根本的な感情が吐き出されるのだ。頑張れじゃなくて単純に生きていて欲しいと伝えるのが有効だ。だから現代で価値がある芸術媒体は村上龍を代表する進歩的アナーキズム、ブルジョアジー文学だという確信がある。時代を記録したものでなければ文化的価値はないということを俺は30までわからなかった。吉行準之助とか読む分には最高だけど、単なる文芸作品だから現実味は皆無だ。
情報がせき止められるというのは本当に恐ろしいことだ。

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