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れいにいでい

外に出るまで。
雨が降っていることに気づいていなかった。

…なんなら。こんな時期に。
うぐいすがしっかりキレイに鳴いていて。
いやいやいや。七月半ばだぞ。
なんならそろそろ晩夏だぞ。

なんて思いながら朝のしたくをした。

昨日の帰りに降られた雨に使った折りたたみ傘が、玄関に広げたまま置いてあって。さすがに持っていくかなぁ、…歩きながらたたむかぁ。
とか考えながら折りたたみ傘を片手に玄関を開けると。わりとしっかりと。しとしとと。
雨が降っていて驚いた。

折りたたみ傘は置いて。
しっかりした大きめの傘を持って出た。


竹澤汀さんのrainy dayを聴いた


かたつむりとか。
最近見た記憶がないなぁ。と。
少し前に思っていた。

小さい頃に見ていた。
かたつむりのアニメイションのオープニングだったかエンディングだったかのうたが好きだった。
殻が家の形をしているかたつむり。
名前を思い出せないけど。…調べる気も出ない。


かたつむりってどこに居るんだろう。
…なんて。考えていたので。

ふと目の前にかたつむりがいることに気づいた時はとても嬉しくて。咄嗟にスマホをかざしたんだけど。今思えばもう少しゆっくりみたかった、な、と。も。思う。


今は朝よりもしっかりと降っていて。
靴下までぬれてしまっている。


恋ってなんだろうな。
すくいのないラブソングに。
少しだけすくわれていくような。

そんな感覚ってきっとさ。
…苦しくはあるんだろうな。とか。


とりとめもなく。
とりとめのない思考をしている。


考えるという事を少し、考えていた。

僕が僕であること。
ぜんしん、ぜんれい、…ぼくでありたい
と、願うこと。

誰がなんといおうと。
僕がブレないでイレたのは。

紛れもなく。…僕の思考の根本は。
僕の育った町の宗教にある。

この話は。たぶん。
…すると長くなりすぎるのでしないけども。

でも。やはり。根本はそこだろうな。
と。いう結論は揺るがないのだろうなと。
近頃よく想う。


信じるという事や哲学。
こころなんてものが一体なんなのか、身体の不可思議。

僕はたぶん。
この宗教の話なしには、僕自身の根本的な事や思考を語ることはできないのだと想う。


ま。めんどくさいから今は話さないけどさ。

僕の中に。
何かまよったときとか、どんな風に考えたらいいのかわからなくなったような時に。もしくはホントにただの日常に。
僕自身のこころをまげない為の思考の指針となるような概念があった。

それは宗教であったし、道徳のようでもあった。
…哲学もあった。


信じるという事は。
正しさを信じるのではない。

正しい、事、を、信じるのではない。

正しさ、なんてものは、…誰にもわかりえない。

誰がなんと言おうと。
それは誰かが勝手に信じている事にすぎない。
その人が勝手に。正しいとかなんとか。
想っている事にすぎない。

理路とか論理とか。
どんなにしっかり道筋がみえているように思えるような事であっても。…その時点で、みえているような何か以外の。何か突拍子もないような、想像もできないような、何か。……何かなんてその時点ではわからないものが、どこかに、ひそんでいる可能性を。僕は絶対に否定できない。

………いやもうなんなら。確実にひそんでいる。とさえ。言えてしまえるのかもしれない。
みえることも、知れる事も。
…きっと全ては、その一端でしかない。


それでも。わかりあえやしない。絶対を抱えたまま。
わかりえない。を。かかえたまま。

それでも。少しでも。わかろうとする事をしていきたい。

わからないんだ。絶対に。
わかった気になんて。なれやしない。

その大前提を。忘れないでいたい。


……僕にしてみれば。

こころの性別なんてモノが何か、なんて事がわからない。身体が女性である事。が、事実としてあって。そこから、こころが女であるのか男であるのか。何が基準でそんな事を自覚するのか。僕は未だに全くわからないでいる。

こんな僕なんかよりも。
きっとその自覚があるだろう人にほど、その苦しみは想像しやすいのではないのだろうかと想う。

僕にはわからない。
身体が男性であった場合の、社会的な思い込みや刷り込み、を、考えると、身体が女性であってよかったな、とは思ったりもするけども。


自分自身のこころが。
誰かや何か、社会からの影響で。
自分自身が感じる前に、感じたと勘違いする。

そんな事が。…あるのではないか。
と。思っている。

本当に?本当に僕自身が感じた事はなんなのか?
…そういう事。しっかりみていたい。


なによりも。
自分自身が感じた何か、が、誰がなんと言おうと。
本当なんだから。……。

いろんな物語があって。
…その登場人物がどんな風に感じて、どんな風に思ったかなんて解説があったとして。そんなものは。その物語での話でしかないし。どんな状況であれば、こんな感情になる、なんて、絶対的なこころの反応なんて、ない、んだ。
それに。そこに表れてくるコトバや何かは、結局、その、一端、にしかなりえない。

なによりも。大事なのは。
僕が大事にしたいと願っているのは。

そのこころの本当。

そのこころが本当に幸福である事。

だれがなんと言おうと。
自分自身が感じる事を否定する事はできない。

その上で。どうしたいか。
どんな風に感じてしまう事が、嫌だとか。
…考える、という事はできる。

感じる。と。考える。は。
しっかり別の事で。

そして。どちらも大事な事。
相互に影響し合っている。

だけど。人が幸福になるには。

こころが先にある。
感じる何かを蔑ろにしていくら考えても。
そのこころの幸福はどこにあるだろう。


そのこころはわかりえない。
それでも感じた事が事実であるのなら。

誰かが感じている何かを。
否定する事の、いかにむごたらしい事なのかと。

考える事はできるだろう。


本当に誰かを苦しめたいと想っているのか?
憎しみあいたいとでも願っているのか??

誰かや何かを否定して。
自分自身が否定されることをおそれてはいない。
とでも言うのか???
…誰かを否定すれは自分が正しいになれるとでも?


そのこころが望むモノ。
素直に誰もがみつめることができたらなぁ。

なんて。想ってみたりするけども。


社会ってそんなカンタンではないのかなぁ。

………。


とりとめもなく。
とりとめのない思考を。