ナラティブ

「ナラティブ」というタームがこの10年ほど、結構世間に知られるようになった。

元々は構造主義文芸批評で持ち出された概念だが、いつの間にか人文社会諸学問で横断的に使われるようになった。

個人的には、社会学を学んでいた2000年前後に、社会構成主義という分野で目にしたのが初めてだった。

ナラティブはストーリーとは違う。ストーリーには終点があるが、ナラティブには始点も終点もない。

ストーリーは誰が見ても同じ、客観的な物だが、ナラティブは主観的な物で物語る主体がある。

ナラティブという概念の有用性は、エンパワメントにあると思う。

エンパワメントとは「個人や集団が本来持っている潜在能力を引き出し、湧き出させること」、「権限委譲」や「能力開花」とも訳される。

ストーリーではなぜエンパワメント(潜在能力の発揮)がされないか、といえば、それは他人が考え出した話だからだ。

それは自分用にテーラーメイドされていない。

歴史(ヒストリー)がまさにそれで、我々は国の歴史だの町の歴史だの、務める会社の歴史だのを与えられ、同一化を望まれる。

それはHis Story=Historyなわけで、My Storyではない。My Storyがナラティブであり、また私は移り変わる存在だから、私について語る物語もいつも上書き、変化していく。

ナラティブは、その人のアイデンティティの在処を表す物でもある。ナラティブは事実に基づくことをベースとするが、その取捨選択は自由であり、時に勘違いや架空のことも交じってくる。

歴史とナラティブの対比を指摘したが、実は歴史もまたナラティブである。歴史がナラティブであることとは、それが「我々」のナラティブ、アイデンティティである、ということだ。

アメリカの建国神話はかつてホワイト・アングロサクソン・プロテスタント的な進歩主義だったが、ネイティブ・アメリカンの異議申し立てにより、そのナラティブは多元主義化した。

日本の建国神話も我々日本人のナラティブだが、それは歴史的に実証された事実ではなく神話的な要素が大きい。

だが、それも我々日本人を確かにエンパワメントするものであり、ナラティブの機能をしっかり担っている。

神話は事実に拘束されないという点で、ナラティブと一層相性がいい。

とはいえ、近代以降そういったものは公に語られることはなく、事実の編集によるナラティブでないと、エンパワメントとしては発揮されにくい。エピステーメー(時代精神)による枠組みがある。

科学的な観点での歴史の読み返しによるエンパワメントという点では、マルクス主義におけるイデオロギー論が参考になる。

これは、それまでの歴史を貴族やブルジョワジー(資本家)に都合の良い歴史と捉え、プロレタリアート(無産者)から見た歴史の読み直しだった。

これが今流行らないのは、金持ちの歴史か、貧乏人の歴史かの2者択一を迫るからだ。

いずれにせよ、それは他人の物語のお仕着せで、どうも「私」のストーリーとしてはしっくりこない。どこか都合よく動員されている感じがある。

ナラティブの根本的な書き換えは、宗教的な回心体験で顕著だ。

何かの宗教に帰依すると、その宗教の殉教者や被迫害者が、あたかも自分のことのように思われてくる。

信仰告白をしたことで自分が被る困難は、全て彼らに連なるものとして受容される。

それまでは全く無関係だと思っていた事柄が、まるでパズルのピースを集めたように一つの図に見えてくる。

カトリックの遠藤周作が小西行長といった戦国時代のキリシタン武将の生き様を取り上げるように、それまで見過ごしていた事柄に重要な意味を見出し始める。

さらに一歩踏み込んで、自らその痕跡を探し出すこともある。

また自分が彼らに連なることで、逆に自分に連なってくる人たちへの想像も生まれてくる。

移民の権利擁護に尽くした人、野球やサッカーの発展に尽くした人、障害者の地位向上に尽くした人。女性の権利向上に尽くした人、環境問題の解決に尽くした人。そういう人たちのナラティブもある。


ハーバーマスは「生活世界の植民地化」と表現したが、他人のストーリーを生きていると、主体的に生きることはできない。

能力を開花させて主体的に生きるには、対峙する世界に向けて自分の歴史(ナラティブ)を作り上げていく必要がある。

精神医学の臨床でナラティブセラピーという手法があるのは、こういった理論枠組みがあるからだ。


ところでオーストラリアは、イギリス中心的な歴史観で見ると流刑囚の国だ。

しかし、国として精神的に自立するには、そういった見方(His Story)を捨てて、Our Own Storyとして語り直すことが必要だった。

義賊ネッド・ケリーの話を取り上げて映画化するのは、反権威主義的なナラティブこそが精神的な自立とエンパワメントに繋がったからだった。

人は誰しも過去を自分に都合よく描く。一方で、自分が変わると、都合よく取り上げる過去も変わる。

そういった自分に都合のよい物語同士がぶつかり、揉み合いを続ける中で、妥当な歴史が結果的に生じてくるのではないか。

どこかの誰かが強要した歴史に囚われる必要はない。

ある種自己中心的な歴史観、そういったものを各々が持って、自由に能力を発揮して生きることの方が大切だ。

また歴史自体、実はそうやって紡がれてきたのではないかとも思うのだ。

であれば、それを言語化し意識化し方法論化することで、自己不信に陥っている人たちに伝えていくことの意義もあるのだろう。

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