書と文と絵と不感症
注意、性的な話ではありません。
昨日の夕方ふと書道家の個展をやっているのが目に入り、書を見てきた。
書道家の女性がこぢんまりやっている個展。そこにはわたしひとりとその女性だけ。声をかけられ、話をした。
「書道の魅力はなんですか」とたずねると、「自分を表現できることよ」という答えが返ってきた。表現…最近のわたしの悩みはそれだ。その言葉が出てきたのを聞いてどきどきした。
文章や絵画といっしょですね、と言うと、まあ!そうね!と驚いたような嬉しそうな様子だった。
そのひとは白髪の髪を前髪までまとめてきゅっと一つに結んで、柔軟で自分自身の感覚を信じていてやわらかい強さを持つような女性だった。
文章にすると文章のもつイメージにとらわれてしまうけど、いまのわたしにはその人の印象をそうとしか表現できない。
そのひとは、まず自分の中にこういうものを書きたいというイメージがあってそれを書くのだ、と言った。
「自分の中でえがいているものを、自分の手で表現できないということはないですか?」きいてみた。
「それはわたしはあまりないわ。もしそうなのであれば、あなた経験不足よ。いろんなことを感じなさい。感じていればかけるようになるわ。感じないとかけないの。」
わたしはそこで新たに気付いた。自分はどちらかと言えば感受性豊かなほうだと思っていた。よく何かに感じ入ったり涙を流したりしているし、日常のささやかなことに目を向けて生きているつもりだった。
だけど、わたしって実は感じてないのかも。感じることができてないのかも。
正確にいえば、自分が感じたことを無視しているかもしれない。いろんなことを感じてるけど、感じてると時間があまりにも早く過ぎ去っていく。ひとつひとつを感じてるのは心がしんどい。
だから感じるものが多過ぎるなかで違和感があっても無視して行動する。そういうところがあるんじゃないか。
そういう違和感を表現したらいいのかもしれない。
「たくさん書きなさい。自分の中の世界だけで考えていてもだめ。どんどん出してひとさまに見られてなんぼ。なんのために書くって、ひとに感じてもらうためなのよ。」
そのひとはそんなふうに話してくれた。わたしもそうだなあと思いながら、涙が出てきた。
わたしの目が潤んで涙が溢れてもそのひとは驚いたり慌てたりすることなく伝えようとしてくれて、さいごにぽんぽんとわたしの身体に語りかけながら優しい顔で「がんばりな」と言ってくれた。
たまたま見かけて入った書道の個展。そこにいたのは15分くらい。でもいい出会いをもらえた。
「練習というのはしない。つねに感じたことを書いてるわ。練習はしないけど、まいにち書かないと鈍っちゃうのよ」
「上手とか下手とかではないの。そのとき感じたことが字に表れるの。それはそのときしか書けないもの」
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