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深夜のぶどうと、母のこと

深夜にぶどうをたべていると、受験生の頃を思い出す。


あのときわたしは18歳で、学校と家を往復して、起きている時間のほとんどを勉強にあてていた。


勉強のほかは、食べることとトイレくらい。


楽しみはいつも夕食。学校帰りの父の迎えの車のなかで、10分もすれば家に着くのにわざわざ電話をかけて「今から帰るよ、今日の夜ごはんはなに?」と母に聞いていた。



そう、受験生の頃、母はまだ元気で生きていた。


よく夜食を持ってきてくれた。


夜遅くまで勉強しているとき、母がよく持ってきてくれたのがぶどう、おにぎり、にゅうめんだった。


ぶどうはわたしが果物が好きだから。おにぎりは夜食の定番、にゅうめんも私が好きだから。


考えたら、よく用意してくれたなあと思う。でも、たった一人の娘のためならわたしもやるかも、いややるだろうな。


母にとってわたしはたった一人の娘だったのだ。



その娘が、病気の自分のところには帰らず東京に就職した。


娘は人生はどこまで家族に支配されるべきか、と考えていた。


娘は新しい世界や興味深いものに夢中で、浮足立っていて地面にいる自分のそばにはいてくれなかった。


電話や連絡もなかなかよこさなかった。



18歳のあの頃、わたしはまだ実家に住んでいて、母はまだ元気で生きていて、勉強以外のことはなにひとつせずにいいようにしてくれていた。


18歳のあの頃、食卓のわたしのとなりには母がいて、父や弟より遅く帰宅するわたしのためにごはんを温め直してくれていた。


18歳のあの頃、人生でほんとうに一つのことだけに打ち込めるのは今だけかもしれないと受験勉強にのめり込んだわたしを陰で支えてくれたのは母だった。



そして東京の大学に合格して上京。そのまま、東京での就職を決めてしまった。


私は東京にくることができて、そこで大事な人たちと出会うことができて、よかったよ。


だけどごめんなさい。寂しさや心細さや怖さを知らずに寄り添わずにきてしまった。


だんだん母が母ではなくなっていくような気もして、どう接していけばいいか、私はどう母と関わっていたのかわからなくなったりしていた。


そして、今考えればただただそうしなきゃいけないという気持ちで明るく振る舞っていた。薄っぺらかったような気もするね。


いま考えても、どうすればよかったのかわからない。


遠くなっていく母にどう接すればよかったのか。


ゆっくりと着実に母の心と体を蝕んでいく病気も、それに抗うための治療を施す医療も、弱る母を前に悲しみ沈む家族の空気も嫌だった。


正解はなかった。


でも正解らしきものは、あったんじゃないかと思ってしまう。


わたしがもう少し思いやりを持って、自分のおぼつかない興味関心のことより家族のことに目を向けていれば、と考えたりする。


大事な人と、好きな人と生きていきたいなんて言いながら、わたしは逆のことをしているのかな



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