感受性の強いひとへ
わたしの心は、小さなことで動くので、傍から見たら弱そうに思うかもしれません。
すぐに感情を溢れさせて、涙をこぼすので、子どもや弱虫の代名詞でもある「泣き虫」という言葉がくっついてもいます。
感受性の豊かさは、社会での生きやすさとは別のところにあると思います。社会のなかで生きるという観点から見ると、強弱の軸では弱いと判断されるものかもしれません。
だけれど、人間という生き物としてはとてもその特長をおさえている分類になると思います。いわゆる"人間らしい"のではないか、と思うのです。
人間ほど複雑な自分の感情を自覚を持って認識し、それを表現したり伝え合おうとする生き物はほかにまだ見つけられていません。
ましてや、「なんのために生きているのか」「人生の意味とはなにか」と考え、それによって死を選ぶこともあるほどに、人間の内面は生き物として大きな位置を占めています。
そういった意味で、人間は"人間らしさ"を持っていますが、人間社会で生きることと人間らしさを発揮することはイコールではないと思います。
というのも、社会で生きること、大人になることは、自分の心をおさえたりころしたりすることと、ともすると同じ文脈になりうる場合が多くあるためです。
わたしは自分の心を大切にしていたいし、人間的なものを好み、人間として生きる意味やそのあり方を考えながら、ありのままに生きたいと願っています。
人間として生きるということは、感じることを感じて、心に思ったことを表現して、自分の内側から起こるものに動かされるままに動くということです。
わたしは社会のなかでの強弱では弱いかもしれません。でも心を殺して人から遠ざかることが強くなることなら、わたしは弱くありたい。
言ってしまえば、社会のなかでの強弱はどうでもいいのです。わたしにとって大切なものができたとき、それを守ろうとして社会のなかで強くなることも厭わないかもしれない。わたしにとっての社会のなかでの強弱は、付随した要素の一つでしかありません。
大切なのは社会のなかでの強弱ではなく、自分の心からの気持ちとしてどうやって生きていたいかなのです。
いわゆる社会的には弱くても、人間として生き生きと生きる強さを知っている、もっていると自負しています。
それは一見すると苦しんでいるように見えるかもしれない。喜びにあふれているかもしれないし、悲しみに満ちているかもしれない。でもそれらをひっくるめて心を動かし、感じて動く「人間」を全うしているのです。
感受性の豊かさこそ、わたしが誇りたい"人間らしさ"であり、"人間としての強み"なのです。
それがたとえ、社会的にも、生き物としても弱かったとしても、
心を動かし合う人間のなかで、心が動かされやすいということは強みであり、幸福なことだと、わたしは信じています。
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